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作品名:仏教と物理学の奇妙な関係 作者:ツジセイゴウ

第9回   仏教は力学か
物理学は別名「力学」とも言われる。量子力学、熱力学など、力を扱う学問であることを表す言い方の方が一般的である。現代素粒子物理学ではこの世界はすべて4つの力、すなわち強い力、弱い力、電磁気力、重力で記述できるとされており、さらに一歩進めてこれら4つの力は根源的には同一のものであり、一本の単純な数式あるいは理論で記述できるはずだとされている。
「強い力」とは陽子・中性子の中だけで働く力で、クオークを結び付ける力である。もしこの力がなければ原子はバラバラになり壊れてしまう。「弱い力」とは粒子の崩壊の際に働く力で、もしこの力がなければ粒子は他の種類に変わることができないため、やはり宇宙は物質のない世界になってしまう。「電磁気力」はもっともなじみの深い力で、我々がこの世界で日常生活を送るうえで様々な形で利用している力である。「重力」は質量のある物質の周囲に働く力で、一番身近なものでは地球の引力がある。
物理学では、力はそれぞれにそれを伝える粒子があり(例えば電磁気力なら光子)、それをやり取りすることで力が伝わるとされている。
一方、仏教でも「力」という言葉がよく出てくる。本願力、観音力、金剛力等、「力」のつく言葉が多い。そして、これらの力はそれぞれを伝える役目を果たす仏があり、阿弥陀仏、観音、金剛力士等、力と対をなしている。
我々の日常生活に最もなじみの深いのが観音力で、観音経の中では繰り返し「念彼観音力」という言葉が出てくる。これは「彼の観音様のお力を念じれば…」という意味で、この世の様々な困苦や難儀に直面した時に観音力を念じれば、観音様が現れて問題を解決してくださるというように使う。壮大なるこじつけをご容赦いただき、「観音力=電磁気力」と定義すると理解しやすいかもしれない。例えば、真っ暗闇で明かりが欲しいと思った時、「念彼観音力」と念じながら電灯のスイッチを入れると、電磁気力が働き電気がつくという具合である。
最近、文明の利器のほとんどは素人でも簡単に使うことができるようになっているため、電灯をつけたり自動車に乗ったりする際に、いちいち物理学や力学を考える人はいないと思うが、初めて電灯や自動車を発明した人は、当然電磁気力やさまざまな物理法則を勘案しながら開発したはずである。ただ、電灯や自動車も使い方を誤ると、感電したり事故に遭ったりするので、最低でも電磁気力の性質を理解しておく必要はあるだろう。
金剛力は文字通り強い力で、普段は我々にはなじみのない力であるが、仏を守るために金剛力士が扱う力とされている。素粒子がバラバラにならないようつなぎとめている物理学上「強い力」だと考えるとわかりやすい。
本願力は、仏の頂点におられる阿弥陀仏が扱う力で、別名「他力」とも言われ一切の衆生を救う力とされている。本願とは、仏陀や菩薩が修行中に立てた衆生救済の誓願とされており、特に浄土宗においては、第18願(念仏往生の願)を重視し、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できるとされている。ただし、念仏を唱える際は、心底から阿弥陀仏を信仰し尊敬する心がないと、願はかなえられないとされている。「他力本願」とは、一般的には他人の力ばかり当てにして自分で努力しようとしないことと解されているが、その本当の意味は、信仰心もないのにやたらと「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀様の力を借りようとすることである。
この浄土宗の考え方は素粒子物理学の「大統一理論」に通ずるところがある。つまり前述した4つの力は根源的には同一のもので、一つのシンプルな数式あるいは理論で記述できるのではないかとされている点である。この一つの式さえ理解できれば、この宇宙で起きるすべての事象(事物と現象)が説明できるという。今、あまたの物理学者がこの数式を求めて研究を続けているが、第5話で述べた「超ひも理論」がその最有力候補とされる。
超ひも理論は、万物(素粒子)はすべて1本のひもでできており、そのひもの振動のパターンでいろいろな素粒子が生まれるという。少々例えが悪い点はご容赦いただき、あなたが今縄跳びをしているところを想像しよう。この縄を1秒間に何億回とも言える猛スピードで回せば、縄は見えなくなりいろいろな形に見えるはずである。球形、ラグビーボール形、波形、あるいは縄の片方だけをもって回すと薄い円盤型にもなりうる。この縄の動きを記述できる数式が判明すれば、すべてが説明できるとするのが超ひも理論なのである。
このように見てくると、仏教は宗教ではなく「力学」なのではないかと思えてくる。他の宗教でこれだけ「力」について説くものはない。そして、何よりも重要なのは、これらの力はすべて「他力」つまりあらかじめ決められた物理法則に従って与えられるものであり、一個人がどうこうできるものではないということである。もちろん、我々は機械を使うことによって電磁気力を電力や動力などいろいろなものに変えることはできる。でも、これはあくまで「加工」であり、力の本質、つまり光子をやり取りして力を伝えるという物理法則を変えることはできない。
仏教は、この宇宙で起きるすべての事象は「縁起(物理法則)」によって決まるもので、一個人の力でどうこうできるものではない、よって物事の本質を見極め、一切をありのまま受け入れるしかないと説く。そのために必要なものが、「智慧」だとされている。


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