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作品名:仏教と物理学の奇妙な関係 作者:ツジセイゴウ

第10回   なぜ無用の殺生をしてはいけないのか
仏教では無用の殺生を禁じている。お寺の宿坊に泊まると必ず精進料理が出てくる。でも、なぜ無用の殺生をしてはいけないのか納得のゆく説明を受けた人はいるだろうか。命は一つしかなくかけがえのないものだから、これは答えになっているようでなっていない。人を殺せば刑法により殺人罪に問われる、犬猫でも理由もなく殺せば動物愛護法に引っかかる。でも、これは人間が定めた法律によるもので、法律がなければ殺してもいいのかという話になってしまう。実際、蚊やハエなどの害虫は誰に断ることもなく駆除している。一寸の虫にも五分の魂と言うように、仏教ではこうした殺生も禁じている。それにはもっと深い理由があるはずである。
物理学には「エントロピー」という概念がある。エントロピーとは、一般的には無秩序あるいは乱雑さと訳され、この宇宙は何もせず放っておくとエントロピーがどんどん増大して最後はバラバラになってしまうと言われている。
例えば、あなたが自分の部屋を片付けることなく1ヵ月も放っておくと、部屋の中は言いようもなく散らかった状態になるであろう。これをエントロピーが増大するという。エントロピーが増大するのを止めるためには、あなたが額に汗して片付ける必要がある。つまり部屋の秩序を保つためには、外からエネルギーを加え続けなくてはならない。
生きた人間、いや人間だけでなく、あらゆる生き物は動物も植物もすべて、生きている限り外部からエネルギーを取り入れ生体を維持しようとする。生体に組み込まれた水素原子や炭素原子はバラバラになることなく秩序を保ったまま存在し続ける。一方、死体は外部からエネルギーを取り入れることもなく徐々に腐敗し、体を構成している原子はバラバラになってゆく。つまり死者はエントロピーを増大させるのである。
誤解がないように付言しておくと、生命体がエントロピーの増大を防ぐために存在しているとしても、それは正確にはエントロピーの増大を「遅らせる」ということで、宇宙全体のエントロピーの増大は不可逆的に進むので、それを食い止めるすべはないとされている。ただし、多宇宙論が正しくて、もし今我々の住む宇宙が「開いた系」であり、隣の宇宙からエネルギーを引っ張ってくることができるとしたら、答えは違ってくる可能性がある。
では、なぜ仏教ではエントロピーが増大することを嫌うのか。これは最終結論に通じる重要な部分でもあるのだが、仏教あるいは物理学は、「物質(あるいはそれを構成する原子や素粒子)」が輪廻転生することが煩悩に通じると言っているのであって、「人間」だけが輪廻転生するとは言ってはいないという点である。仏教の前では、人間も犬畜生もあるいは路傍の石ころもすべてが平等であり、原子がバラバラで存在する限り、輪廻の輪にとらわれる。しかし、生命が存在すれば、その中にある原子は高分子化合物の一部として組み込まれ安定的に存在しうる。つまり輪廻の輪の苦しみを免れるのである。殺生をすることは、この安定した機械を壊すことになるため、仏教ではそれを禁じているのである。
ここで我々は大きな矛盾があることに気付かされる。仏教では、肉体を捨てて「無」になれば、すべての煩悩は消え去ると教えている。では、肉体を捨てさせる殺生は正しい行い、あるいは殺人は人間を煩悩から救うための手助けということにならないか。実際、仏教には即身仏(念仏を唱えながらミイラになる行)とか補陀落(木製の船に乗って大海に流す行)といった自殺を推奨するかのような荒行もある。一体、何が真相なのか。
誤解がないように繰り返せば、仏教が物理学だとした場合、仏教が救済しなければならないのは「人間」ではなく、犬畜生や虫けら、草木や石ころに至るまであらゆる「物質(原子あるいは素粒子)」でなくてはならない。人間だけが救われるというのは人間の勝手解釈である。恐ろしい結論であるが、仏教にとって救済すべきは人の命ではなく万物の輪廻転生なのである。
(この点については、改めてどういうことか最終話で整理します)
では、ライオンはどうか。草食動物を殺して食べてしまうではないか。人間もイネを刈り取って食べてしまうではないか。これらはエントロピーを増大させる行為にならないか。正確にはそうはならない。なぜなら食された肉や米は、ライオンや人間の体を維持するために利用されており、全体としてエントロピーは増大していないからである。生命が生きてゆくために食物連鎖に基づき行う殺生は有用なため問題とはならない。だからお寺の宿坊の食事も厳密には精進料理である必要はない。ただ、出された物を残す等、食べ物を粗末にすることは許されない。自身が必要とする以上の食べ物を用意したり、あるいは残飯を捨てたりすることは、トータルとしてのエントロピーを増大させることになるからである。


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