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作品名:鬼客の禍 作者:ツジセイゴウ

最終回   後篇
それから3日間は何事もなく過ぎた。もう落ち着きを取り戻してあきらめたのだろうと思い始めた矢先、ことはそう単純ではなかった。3日目の午後2時過ぎ、店頭が一番混雑する時間帯を狙って男は来店した。番号札を引いて大人しくソファに座って待ってはいたが、しきりと貧乏ゆすりをしながら、じっと私の方を観察するように見ていた。
私は、怖くなって課長に例の男がロビーにいると報告した。課長は、柱の陰からチラッと男の様子を確認すると、私に奥に下がるよう命じた。
「番号札25番でお待ちのお客様。」
男の順番が回ってきて、課長が応対に出た。しかし、番号札25番の男はついに窓口に現れることはなかった。いつの間にか、ロビーにもあの男の姿はなかった。
「まったく気味の悪い野郎だな。俺が窓口に出た途端にいなくなった。」
「ス、スミマセン。私のせいでこんなことに。」
「いや、君が気にすることではない。損が出たら文句を言ってくる、よくある話だ。ただ、本部に報告しておく必要があるから、もう少し詳しく成約した時の様子を聞かせてくれないかな。」
金融商品取引法の規定により、投資信託などのリスク商品を販売する場合は、商品の内容やリスクについて顧客に十分説明する義務が課されている。あの男が言っていたように、「十分」というのは厳密には顧客がリスクの内容について理解するまでという意味であるが、現実にはどういうリスクがあるか完全に理解して購入する顧客はほとんどいない。
仕方なく、銀行は「商品内容につき説明を受け理解しました」という欄に確認印を押してもらうことで説明義務は果たしたとするのである。しかしながら、ハンコなどというものは形式的にいくらでも押せるものであり、実際に大きな損失が出ると、「聞いていない」と白を切る顧客が大勢いる。あの男もそうした中の一人だったのであろうか。
こういう場合、実際に顧客との間でどういうやり取りがなされたのかを本部のコンプライアンス(法令遵守)担当部に報告し、その後の対応方針を協議することになる。課長が「本部に報告して」と言ったのはそういう意味である。
「はい、初めてお買いになられた際には、投資経験もあまりないようでしたので、エースはリスクが高いからと再三止めるようご忠告も差し上げましたが、どうしてもというお客様のご要望で成約に至りました。ただ、2度目、3度目の買い増しの際は、既にお持ちのファンドでもありましたし、細かい説明は省略して淡々と手続きは終わったと思います。」
「フーム、そういうことなら最初の対応はまず問題なさそうだな。問題は、追加購入の際の対応だ。一つのファンドに集中投資しているのに十分な説明もせず受付をしてしまった。この辺りがグレーだな。」
課長は腕組みをしたまま、何度も私の報告書に目を通していた。
「課長、どうなるんでしょうか。コンプラ違反ってことになるんじゃ。」
「いや、その心配はまずないだろう。リスクに関する説明はきちんとなされているし、客の方だって値下がりの可能性があることくらい分かっていたはずだ。」
課長は自信たっぷりにそう言ってくれた。私は、少しばかり胸のつかえがとれたような気がした。しかし、そんな私の気持ちを打ち砕いたのは、課長の最後のせりふだった。
「うーん、ただ今度のは、簡単には済まないかもしれないぞ。」
「そ、それって、どういう意味でしょうか。」
「俺の直感ってやつかな。損害賠償だの損失補てんだのっていう法的な問題になる可能性はほとんどないだろう。でも。気になるのはやつの目だ。」
「目? ですか。」
「ああ、あの目は普通の目ではなかった。典型的なクレーマーの目をしていた。いるんだよ、世の中には。人が困るのを見て快感を覚える、そういう輩が。俺も、お客様相談室の同期から聞いたことがある。ほんの些細なことで、1日に何十回と電話をかけてきたり、頭取を出せとか、金融庁に言いつけるとか脅してみたり。まさにやりたい放題だそうだ。」
私は、とても嫌な気分になった。もしこの男がその偏執的クレーマーだったとしたら…。
「とにかく、長引くかもしれないな。今度の一件は。」

私は、不安な日々を過ごしていた。午後2時を過ぎると、いつもロビーの方が気になった。また、あの男が来ているのではないか、ソファの陰からこちらの様子をのぞき見しているのではないか、そんな不安に駆られながら、3時にシャッターが下りるとホッと胸を撫で下ろしていた。
そんな日々が1週間ほど続いた。ひょっとして男はもうあきらめたのではないか、いくらクレームを付けてみても勝ち目がないと知って去って行ったのではないか、やっと微かな安堵のともし火が輝き始めたと思った時、次の事件が起きた。
いつものように、夕方パソコンのメールを見ていた時のことである。ふと見慣れないメールが届いていることに気が付いた。送られて来るメールは大抵はきちんと名前が書いてあったが、そのメールだけはローマ字と数字交じりの生のアドレスがそのまま表示されていた。『RE:無題』というのも気になった。
そのメールを開いた瞬間、私の目は凍りついていった。
『河原さん、お久しぶりです。店に行ってもなかなか会わせてもらえないので、メールをしてみました。私が被った損失のこと、もちろんお忘れではないですよね。私は、別に損失を補てんしてくれと言うつもりはありません。私も、バカじゃないですから、そんなことをしたらこっちも後ろに手が回ることぐらい知っています。今は、自己責任の時代ですから。
でも、あなたが私にあの商品を、しかもこんな大量に奨めなかったら、これだけの大損はしなかった。あるいは、もっと早くに値下がりしていることを知らせてくれていれば、損失をもっと少なくすることができたかもしれない。銀行は、いえ、河原さんはその辺りのことについて道義的責任をお感じにはなりませんか。もし、あなたに一抹の謝罪の気持ちがあるなら、どうかこのメールにお返事をください。それだけです。それだけで十分です。ではお待ちしています。』
やはり去っていなかった。男は、遠回しに、柔らかく、真綿で首を絞めるように迫って来た。
でも、一体あの男はどこで私のメールアドレスを知ったのか。私は、初めてあの男と会話を交わした時からの経緯を辿ってみた。
そうかあの時か。普通預金の口座開設の時、男が免許証を持っていないと言ったので、後日ということで名刺を渡したのだった。あの名刺には、電話番号の他にもメールアドレスも入っている。
でも、あの時はそんな意識は微塵も持っていなかった。投資相談窓口の行員がお客様に名刺を渡す。別に変ったことでもない、ごく当たり前の動作である。しかし、今となってはその当たり前のことがアダとなって、自身の身に降りかかってきた。
メールの口調は柔らかであるが、押さえどころはしっかりと押さえられている。あからさまに損失補てんを要求すれば罪になることも知っている。素人ではない。素人ではないがゆえに、余計にネトッとした気持ち悪さを感じた。
「フーム。やはり終わっていなかったか。」
課長はメールを見ながら、大きな嘆息を漏らした。
「どうしましょう、課長。私が一筆書いて収まるなら、お手紙を書いても…」
「いや、それはダメだ。銀行の内規でそういう手紙を書くことは禁じられている。投資はあくまで自己責任だから、言われのない理由で謝罪の手紙を出すなど、それこそ相手の思うつぼだ。そのメールを僕のパソコンに転送してくれ。お客様相談室に注意情報として流しておくから。」
結局、男からのメールは無視するということになった。
しかし、ことはそれで収まらなかった。2日後、また新たなメールが来た。
『どうして私のメールを無視されるんですか。あなたには人の心というものがないんですか。私は、特に難しいことをお願いしているつもりはありません。一言、謝罪の言葉が欲しいと言っているだけです。それすら受け入れてもらえないんですか。』
私は、余程返信メールを出そうかとも思った。この人は、本当は性根の優しい人で、素直に謝罪すればそれで引き下がるのでは、そんな気がしたからである。でも、課長の許可は下りなかった。
「いやダメだ。とにかく記録に残るようなものは絶対止めた方がいい。この手の輩らは何を書いても、その言葉の端々を捉えて上げ足を取るように、さらに言い掛かりをエスカレートさせてくる。とにかく辛抱強く耐えるしかない。」
しかし、その日もメールは来た。その明くる日も、そしてメールの来る間隔は次第に短くなり、日に何度も来るようになった。私はもう頭がおかしくなりそうになった。パソコンを開くのが怖い、パソコン恐怖症になりそうだった。課長の勧めもあり、男のアドレスに対して迷惑メール設定もしてみた。しかし、男は巧妙にアドレスを変えてはメールを送り続けてきた。受信フォルダには男のメールが何十通と並ぶ日もあった。
私が、初めて『ストーカー』という言葉を思い浮かべた瞬間であった。男の行動はもはや尋常なものではなかった。メールの内容は毎回同じようなもので、特に損害賠償や訴訟沙汰を要求するものはなく、私に対する繰り言のような言葉が並んでいた。「簡単には済まないかもしれない」、あのときそうつぶやいた課長の言葉が繰り返し頭の中をグルグルと回った。
もう自身のメールアドレスを変更しようかとも思ったが、このアドレスは他のお客様にも案内している銀行の正規のアドレス、簡単には変更することもできない。
そんな日々が10日ほど続いたある日、課長から声がかかった。
「そろそろ警察に相談するか。」
「け、警察ですか。」
「ああ、本部からも、あまりひどいようなら警察に相談しろとの指示があった。迷惑行為あるいは営業妨害ということで訴え出れば、メールを送る行為を停止させることも出来るそうだ。明日、もう一度本部と相談して、最終的な対方針を決める。」
私は、ようやく光明が見えたような気がした。出口が見えない長いトンネルの中を何日も何日も歩き続けて、もう心身ともに疲れ果てていた。警察に相談すれば、あの男に対して警告が出され、さすがに男もあきらめるだろう。これでメールは来なくなる。しかし…。
不思議なことに、まるでこちらの動きを読み取っていたかのように、その日の午後男からのメールはプツリと途絶えた。それまではもう1時間おきぐらいに送られていたメールがウソのように消えたのである。私は、まだ半信半疑のまま、夕方改めてメールの受信フォルダを開いて見たが、男からのメールは一通も着信していなかった。
「そうか。よかった。さすがのあいつももう諦めたのかもしれない。いくら揺さぶりをかけても何も出て来ない。河原君、どうやら君の粘り勝ちのようだな。」
課長は上機嫌で私の報告を聞いていた。
「ただ、念のためもう2〜3日は様子を見よう。」
結局、警察への届け出は見合わせることになり、その日はそれで終了した。
その次の日も、そしてその次もメールは来なかった。よかった。男は完全にあきらめたに違いない。課長の言うように、どこを何回叩こうとも男にとって得になるようなものは何も出て来ない。今頃はもう諦めて、誰か他の相手でも見つけたに違いない。その人には気の毒だが、私はようやくこの男の関心の対象から外れたのだ。すべてはこれでよかったんだ。

それから1週間ほどは何事もなく過ぎた。
そして、年の瀬も押し迫った12月の某日。ボーナスシーズンということもあり銀行の投資相談窓口は多忙な日々を送っていた。
「お先に失礼します。」
午後8時過ぎ、残業を終えた私は通用口を後にした。師走の日暮れは早い。もうあたりはすっかり真っ暗になり、ネオンと車のヘッドライトの光だけがやたらに目についた。駅までは歩いても5分足らず、私は足早に歩道を歩いた。
その時、ふと誰かに見られているような視線を感じた。別に確信があったわけではない。実際、周囲はまだまだ多くの人通りがあり、誰がどっちを向いているなんて言えるはずもない。でも、確かにいつもとは違う何かを感じ、思わず足を速めた。
夜9時過ぎ、駅を出た私は自宅に向かって歩き始めた。駅近くはまだコンビニも開いており、いくらか人通りもあったが、いつもの角を曲がり裏通りに入った途端、周辺は暗くなり人影もなくなった。私は、コートの襟を立てながら自宅に向かった。
その時、後ろから足音が近づいてくるのに気付いた。特に気にしなければどうということのない話なのだが、先程のことが急に頭の中に浮かび、なぜかその音がとても気になり始めた。私が足を速めると、その足音も速くなる。しかも足音は次第にそして着実に大きくなってくるような気がした。
私は、大慌てで次の角を曲がると、少し駆け足気味に歩き始めた。ここからならもう自宅まであと2分ほどである。でも、後ろの足音はさらに大きくなった。もう気休めの理由づけは思い当たらない。間違いなくつけられている。私は、無我夢中で駆け出すと大慌てでマンションのエントランスに駆け込んだ。
早く、早く部屋のかぎを開けなければ。私は、鍵を取り出すと鍵穴に鍵を差し込もうとした。いつもならわずか2〜3秒で済むことが、ガタガタと手が震えてなかなか鍵が入らない。私は左手で右手の手頸を抑えるとやっとのことで鍵を差し込んだ。ガチャリとドアが開き、私は大急ぎで玄関に入ると、バタンとドアを閉め、しっかりとドアチェーンを下ろした。
私の心臓は早鐘のように脈打ち、額に冷や汗が吹き出した。その時、表の通りをコツコツコツという靴の音が静かに通り過ぎて行った。ヘナヘナへナ、私はその場にへたり込んでしまった。やはりただの思い過ごしであったのか。
しかし、次の瞬間、私の頭の中にある恐ろしい考えが閃き、アドレナリンの洪水が私の脳味噌の中をザーっと流れて行った。私は、ガバッと立ち上がると、一歩また一歩と寝室のドアに向かって歩みを進めた。私のマンションは1LDKで、玄関ドアを開けた所がキッチン・リビングと一続きになっていた。寝室は、リビングの右隣である。
万が一にも、誰かが先にこの部屋に忍び込み隠れていたとしたら…。この部屋は外と隔絶された密室どころか、たちまち野獣のいる檻へと入れ替わる。いつか、どこかで起きたストーカー殺人と同じである。
私は、キッチンに置いてあった果物ナイフを手に取ると、再び歩みを進めた。口に中の唾液が次第に涸上がってゆく。私は、ゆっくりとドアノブに手をかけると、二度三度深呼吸をしてガバリとドアを開き、目にもとまらぬ速さで電灯のスイッチをオンにした。
いつもと変わらぬ寝室の風景が眼前に広がった。窓際のベッド、横壁のクローゼット、そしてカ―テンの外のべランダが見えた。無論、誰もいようはずがない。それでもなお不安をぬぐいきれない私は、窓のカギを確認し、クローゼットの中も、トイレの扉も、浴室の扉も、すべて開けて回った。どうかしている。今日の私はどうかしている。
私は、憔悴しきった身体をソファの上に投げ出した。どうしてこんなことに。夢と希望をもって始めた新しい仕事で、なぜこのような理不尽な目に遭わなくてはならないのか。こんな思いをしているのは、私だけであろうか。
ソファの上で悶々としている間に、時計の針は10時を回ろうかとしていた。ようやく気を取り直して、テレビのリモコンスイッチを押そうとしたその瞬間、私は跳びあがらんばかりに驚いた。その音は、リビングの片隅から鳴り響いてきた。こんな時間に誰? 友達だったら、間違いなく携帯にかかってくる、あるいはほとんどがEメールである。部屋にある固定電話の呼び鈴が鳴ることなど滅多になかった。
私は出るべきか放っておくべきか逡巡した。もう10回は鳴ったであろうか。私が恐る恐る受話器に手を伸ばしかけた時、電話の音はプツリと切れた。私は、また鳴るかもしれないと思い、じっと電話を見つめていたが、結局その夜電話が鳴ることは2度とはなかった。
考え過ぎである。いくらあの男でも、いくら名刺を渡した相手でも、自宅の住所や電話番号まで知るはずもない。やっぱりどうかしている、今日の私は何かがおかしかった。それだけだ。私は自らを諭すように一人でうなずいてみた。しかし…。

翌日も遅くなった。夜9時を回ろうかという頃にようやく自宅に着いた。私は、いつもと同じように帰宅すると一番にお湯を沸かした。電気ポットのお湯が沸き、湯気が上がり始めたころ、その音を打ち消すかのように電話の呼び鈴が鳴った。まるで、私が帰宅するのをどこかで見張っていたかのようにタイミングを合わせた呼び出し音であった。
昨日とは違い、今日の私は、何とはなしに受話器を上げてしまった。
「もしもし」
私は、電話に出る時には絶対こちらから名乗りを上げなかった。もし間違い電話であったり、あるいはイタズラ電話であったりすると、名乗ることで自分の名前が相手に知れてしまうことになるからである。深夜に若い女性が電話に出る、それだけで一人暮らしの女性だということがバレてしまう。用心するに越したことはない。
「河原さんのお宅ですね。」
電話の相手は確かにそう言った。少なくとも、相手の主はこの電話番号が「河原真澄」のものであることを知っている。私は、無用心にもつい「ハイ」と答えてしまった。しかし、次の瞬間、その男の口から出てきた言葉を聞いて、私の心臓は一気に凍りついてしまった。
「お久しぶりですね。松山です。」
ま、松山? ひょっとしてあの松山裕樹。私の頭の中をあの悪夢の名前がよぎった。私の頭の中が混乱して整理がつきかねている間にも、電話の相手は勝手に前に進んでゆく。
「いくらメールを出してもお返事がないもので、夜遅くに失礼かとは思ったんですが、ご自宅の方にお電話してみました。」
男は、物静かに、別に声を荒げることもなく、そっと私の耳元で囁いた。でも、緊張のため受話器を持つ私の手はプルプルと震えていた。この男は、なぜ自分の自宅の電話番号を知っているのか。もちろん名刺には一切プライベートに関わる個人の情報は記載されていない。でも、この男は、知っていた。狼狽したまま黙っている私に対して、男はさらにたたみかけてきた。
「なぜメールにお返事がないんですか。もう何回も繰り返し送っているはずですよ。まさかご覧になっていないということはないですよね。」
私は、この時ほど電話が怖い道具だと思ったことはなかった。Eメールなら一方的に送られて来るだけなので、無視することもできれば、返事をするにしても考えるだけの時間的余裕がある。しかし、電話は即答しなければならない。言葉を探す余裕も、考えるひまもない。そして、答えを間違うととんでもないことになる場合もある。
「こ、困ります。こんな時間に、しかも自宅に…」
私は、電話の内容には答えず、電話をかけてきたこと自体を詰問した。しかし、私の声は、憤怒と恐怖のために震えていた。結果論から言うと、これがいけなかった。電話の相手は、私の声のトーンから私の心理状態を読み取っていた。
「ですから、いきなり電話というのも失礼かと思い、何度もメールを差し上げたじゃないですか。でも一向にお返事が来ない。その方が余程失礼じゃないですか。私は別に迷惑メールを送っているつもりはありません。ただ、私が被った損失について、一言お詫びの言葉が頂きたかった。それだけです。あなたに損害を補てんしろなんて言っていません。」
相手は落ち着き払って、悠然と話を続ける。電話は絶対に架ける方が有利、受ける方が不利である。相手は話す内容も、そしてある程度の想定問答も準備した上で架けてきている。それに対し、こちらは丸っきり無防備である。
私は、課長の判断を恨んでいた。あの時、一言謝罪のメールを送っておけばよかった。そうすれば、男も納得して引き下がったかもしれない。それを渋ったために、男は自宅にまで電話をかけてきた。
私は、その時、ハッと気が付いた。この男はなぜ自分の自宅の電話番号を知っているのか。電話番号を知っているということは、当然自宅の住所も…。私は、背筋が凍りつく思いで玄関のドアチェーンを確認した。鍵は回り、チェーンはしっかりと下っていた。
それにしても不思議である。名刺には一切個人に関する情報は記載されていない。銀行の人事部も外部の人間に行員のプライバシーに関する情報を漏らしたりは絶対にしない。男は、一体どうやって私の自宅の電話番号を入手したのか。私は、ようやく反撃の端緒を掴んだ。
「失礼ですが、あなた、どうやって私の自宅の電話番号を…。ことによっては警察に連絡…」
しかし、私の言葉はそこで遮られた。男は、まるで想定問答を用意していたかのように、嘲笑交じりの声で回答した。
「おや、ご存じないんですか。個人情報なんて今どきネットで簡単に手に入りますよ。『さわやか銀行』の『河原真澄』さんと入れて検索すれば…。何でしたら他も教えてあげましょうか。ご出身は山梨の甲府、平成21年に西都大学商学部を卒業、大学在学中は陸上部で活躍され…」
私は、全身から血の気が引いてゆくのを感じた。この男は一体どこまで私のことを知っているのか。私は別にフェイスブックをやっているわけでもないし、自身の個人情報は誰にも漏らした覚えはない。でも、この男は知っていた。私は、その先を聞くこともなく、ガチャリと受話器を置いた。
しかし、程なく電話の呼び鈴が鳴った。私は、両手で耳を覆った。しかし、呼び鈴はしつこくいつまでも鳴り続けた。
「や、やめてーー」
私は、ブチッと電話線を大元から引っこ抜いた。一瞬にして、リビングは静寂に包まれた。そこにはソファの上に泣き崩れた自身の姿があった。

翌日。
「そう、やっぱり、架かってきたのね。」
山口主任は深刻な面持ちでゆっくりとうなずいた。私は、昨日のことを課長ではなく、まず山口主任に相談した。課長はあまり当てにはできない。メールに返事をするな、本部に報告する…、課長の頭の中には銀行のことしかなかった。
いくら本部に報告しても何の解決にもならない。実際、この件についても、本部からは『銀行に一切の非はない、相手から脅しの電話やメールが来ても毅然とした態度ではね返すように』との指示が来ていた。
私は、いまようやく山口主任が私の研修担当になった時に最初につぶやいた言葉の意味を理解した。『お客様にはくれぐれも気を付けて』というのはこういうことだったんだ。
世の中には、人の理解の範囲を超えたいろいろな人がいる。それは、銀行が定める行内規則やマニュアルでは対処できないほど、複雑で、陰湿で、狡猾なものであった。恐らく、山口主任はそのことを身を持って経験したことがあるのだろう。だからあのような言葉が口をついて出たのかもしれない。
「困ったわね。この手のお客様、というよりもうこれはストーカーね、こういう輩は対応を間違えると大変なことになる。」
主任は大きな嘆息を漏らした。私は、思い切って尋ねてみた。
「山口主任、主任もひょっとして…」
「そうね。私の時と似てるわね。そう、そっくりだわ。」
主任は、思い出したくないかのように一瞬逡巡した様子をして見せたが、重い口を開いた。
「もう5年くらいになるかしら。お客様から今日振込が入るから、入ったらすぐ別の銀行の口座に振込んでくれとの依頼があって。でも、なかなかその振込が来なくて、締め時間ギリギリになってしまった。焦っていた私は先にこちらからの振込を実行してしまったの。銀行員としては失格だわよね。」
主任は、そこで一息置いて、脇を向いて苦笑した。
「結局、入るはずの振込は来なくて、お客様の口座は残高不足に。今から思えば、バカな話よね。でも、当時まだ新米だった私は、とにかく目の前にある仕事を片付けなきゃとばかり考えていた。」
「それで、どうなったんですか、その話は。」
「結局、お客の所へは課長と営業課の人が謝りに行って、一旦は収まったんだけど。しばらくして、どうしても腹の虫が収まらないから、事務ミスをした私に直接謝罪させろって、言い掛かりをつけてきたの。無論、課長は断ったらしいんだけど。だって上司である自分が代わりに謝罪して、お客も一旦は納得されたのだから、普通ならそれで終わりでしょう。でも、このお客は違ってた。その後、何度も店に押しかけてきては私を出せと大声で騒いだり、夜仕事が終わった後に通用口のところで待ち伏せされたり、散々な目に遭わされたわ。」
似ている、私のケースにそっくりである。この世にはいるのである、こういう輩が。こういう偏執的な客は、事務ミスだの損失だのということは実はどうでもいいのである。銀行の若くてカワイイ女子行員が、目に涙を浮かべて、震えながら、怯えながら、自分の目の前で頭を下げる、それが見たくてしようがないのである。まさにストーカーそのものである。
「で、それで、最後はどうなったんですか、そのお客。」
私は、もう好奇心の塊となって、山口主任の方へ身を乗り出していた。
「とにかくしつこかったわ。1ヶ月以上は続いたかしら。課長にも相談したんだけど、当時はまだストーカー規制法なんて法律もなかったし、どうしようもないって。でも、結論から言えば、運がよかったのかもしれない。そのお客、それから間もなく交通事故に遭って…。」
「し、死んだんですか。」
山口主任は黙ってコクリとうなずいた。自業自得である。そんな輩のことだから、どうせ他の銀行やいろんな所でも難癖をつけ回っては相手を困らせていたに違いない。死んでくれて助かった人は大勢いるかもしれない。
山口主任のそんな話にじっと聞き入っていた私は、ふとこの話を自身のことに重ね合わせてみた。もし、あの松山という男が、この客と同じ人格の持ち主だったら。付きまとい行為はまだまだ続くことになる。そして、運よく交通事故が起きてくれなかったら…。

その日の業後。
「ウーム、弱ったな。ここまでしつこい奴だとはな。」
課長は困ったという表情をして見せた。
山口主任が気を利かして課長に事態を報告してくれたのである。私は、正直ほっとした。自分がきちんとお客様をフォローしていなかったことが原因でお客様を怒らせてしまい、そして最後は課長にまで迷惑をかけてしまった。新入行員の私の口からはとても言い出せたものではない。
でも、事態はすでに猶予ならざる状況になりつつあった。銀行の電話ならともかく、個人の自宅の電話まで調べ上げてしつこく電話をかけて来たのである。これは明らかに越えてはならない一線を越えていた。
結局、本部にも相談して、一応警察に届け出ることになった。私は、課長とともに警察の生活安全課に出向き、事態を相談した。投資の損失を巡るトラブルに始まり、何十回に及ぶ迷惑メールや自宅への電話に至るまでの経緯を詳細に説明した。応対に出た担当官は一応熱心に話を聞いてはくれたが、最終的な答えは冷たいものであった。
「そうですね。これだけではストーカー規制法による警告は難しいでしょう。まず、ストーカー規制法で定めている『つきまとい行為』というのは、恋愛感情あるいはそれに類する好意の感情が満たされないことによる怨恨があることが基本となっています。この事案のように、仕事上のトラブルはそもそも規制の対象になっていません。もちろん、この男が一方的にあなたに好意を抱いていて、それが理由でこうした嫌がらせ行為をしているのなら話は別ですが。
でも、お話を聞いた限りでは、単に取引で損害を被ったことに対する謝罪を求めているだけですし、
その程度もまだ日常生活に支障をきたすようなレベルでもない。また、明白に金銭の要求をしたり、脅迫めいた言動をしているわけでもないので、恐喝で立件するということも難しいでしょう。」
私はガッカリした。と言うか、最初から警察にはあまり期待もしていなかった。この程度の問題なら、銀行さんの方で解決してくださいよ、という素振りが見えた。結局、事情聴取は30分程度で終了し、形式的な調書に署名させられて、その日の話は終了した。
警察は気楽なものである。何か法に触れるような具体的な行為がなければ動こうともしない。こっちは夜も眠れないほどの不安を強いられているのに、である。
男はとても狡猾であった。絶対に法に触れることのないように、遠回しに、そして穏やかにじわじわと接近してくる。単なる破廉恥な愚人ではない、高い知性が感じられた。優位と劣位、有利と不利、そして支配と被支配。逃げることもできない、助けを呼ぶこともできない、私は自由の身のままで、この男に支配される隷従者となったのである。
私は、仕方なく自宅の電話を解約することにした。最近はほとんど携帯しか使っていなかったので、別に固定電話がなくても不便ではない。いや、それどころか今時自宅に電話回線を引いている方がおかしいのかもしれない。とりあえず、これであの陰湿な男からの電話はもう架かってこない。そう考えると少し気分が落ち着いた。
ただ、あの男は、一体私のことをどこまで調べ上げているのか。この前の調子からすれば、電話を解約したぐらいで終わらないかもしれない。山口主任の時のように交通事故でも起きてくれなければ…。結局、私の心は晴れないまま悶々とした日々が続いた。

それから一週間ほどが経ったある日のこと、その不安が的中するかのように、次の事件は起きた。そのモノは郵便受けの中から出てきた。いつものように、帰宅した際に郵便受けを開けると、中から何枚かのチラシや郵便物がガサッと出てきた。
その中の1通、白い封筒にワープロで住所と名前が印字されている。裏を返してみたが差出人の名前も何もなかった。何とはなしに開封して、中の便せんを見た私の心臓は瞬時に凍りついた。
『河原真澄様へ 前略 ご自宅のお電話を切られたようですので手紙を書いてみました。その後、例の件はどうなったでしょうか。謝罪する気持になっていただけましたでしょうか。
私は、何も銀行員としての謝罪を要求しているわけではありません。多分、銀行のことですから、そんなことはいくら要求しても回答はしないでしょう。そんなことより、私はあなた個人の人間性を問うているのです。あなたに、もしまだ一人の人間としての感情が残っていらっしゃるのなら、どうか私に謝罪してください。
私は、あなたが謝罪されたことで別に損害賠償を請求しようなんて思ってもいません。ただ、謝罪の言葉が聞きたい。それだけです。私は無理なお願いをしているのでしょうか。あなたの誠意あるお返事を期待しています。草々 松山裕樹』
やはりまだ終わっていなかった。電話を解約したことで、しばらくは音信が途絶えたが、それは所詮一時の安らぎの猶予期間でしかなかった。男は、私の知らないところで着々と次の矢を用意していたのである。
手紙の文章の語り口は極めて穏やかである。別に脅し文句が入っているわけでもない。でも、文章が穏やかであればある程、かえって捉えどころのない不気味さと陰湿さを感じた。まだ、怒りを爆発させてくれた方が、相手の考えていることがはっきりと理解できる。でも、この文章には、そのような形跡はまったくなかった。
そして、私の恐怖は、封筒の宛名を見返した時にさらに倍加することになる。封筒の表には切手も消印もなかった。ということは…。
考えられることと言えば、男が自らこのマンションまで来てこの封筒を投函していったということである。私は、思わず、ベランダの窓のカーテンを閉め、玄関のドアチェーンを再確認した。
これからどうなるんだろう。私が謝罪しさえすれば、それでことは収まるんだろうか。でも、相手はどんな人物かハッキリとしない。銀行の窓口で何度か応対はしているが、それは儀礼的な投資相談だけ。私は別に心理学者でもないし、この男の本性や性格までは見抜けない。仮に謝罪したとしても、増長してさらにエスカレートしてくるかもしれない。そんなことをつらつらと考えているうちに、夜が白み始めた。

翌日、私は銀行を休んだ。昨夜はほとんど一睡もできなかったことに加え、スーツに着替えようとしただけで動悸に襲われた。極度の神経疲労と睡眠不足でフラフラであった。これでは出社しても、到底窓口に出られたものではない。わずか3カ月ほど前、望外の異動で意気軒昂として投資相談課に移ったのも束の間、あの男のせいで私の精神はボロボロにされつつあった。
しかし、今にして思えば、この時無理やりにでも出社していればよかったのかもしれない。自宅に残ったため、私の運命はさらに深い谷底へと転がり落ちてゆくことになる。
私は、頭から布団を被ったままベッドの上で震えていた。特に寒いわけでもない、熱があるわけでもない。でも背中から後頭部にかけて不快な緊張感で覆われていた。
そして、その日の昼少し前、静かだった部屋の中に恐怖の呼び鈴が鳴り響いた。私は、ギョッとして頭を上げた。もしや、あの男が…。私は、大慌てで玄関ドアのロックとドアチェーンを確認した。どちらも昨晩のまま、しっかりと鍵は掛かっていた。
出るべきか出ざるべきか、判断がつきかねている間にも再度呼び鈴がなった。私は、震える手でインターフォンのボタンを押した。
「河原さん、宅配便です。」
若い男性の声がした。ヘナヘナへナ、緊張の糸がプツリと切れて私はその場にへたり込んでしまった。
「ス、スミマセン。た、体調がよくなくて。宅配ボックスに入れて頂けますか。」
「ボックスですね。承知しました。では、確かに。」
そう言い残すと、インターフォンは切れた。私は、そのまましばらく床にへたり込んだままボーっとしていた。その後、呼び鈴は2度とは鳴らなかった。やはりただの思い過ごし、間違いなく宅配便だったのであろう。
私は、ゆっくりと起き上がると、お湯を沸かし始めた。そう言えば、朝から何も口にしていなかった。食欲もない。でも、せめてコーヒーだけでも。
私は、風邪を引いて寝込んでいた時のことを思い出していた。熱にうなされて悪い夢を見て、汗に濡れたパジャマを着替えて、ふらつく頭でお湯を沸かし…。この時ほど一人暮らしが辛いと思ったことはなかった。誰も助けてくれる人もいない、誰に相談することもできない。私は放心状態のまま、お湯が沸くのを待っていた。

その時、再び呼び鈴が鳴った。何? また宅配。一瞬エッと思ったが、先程のこともある。私は、今度は何の躊躇もなくすぐにボタンを押した。しかし、インターフォンからは思わぬ返事が返ってきた。
「河原さん、ご注文のピザのお届けです。」
ピザ? ピザなんか頼んだかな。私はまた頭の中が混乱した。昨夜からの錯乱のせいで、夢見半分で注文をしてしまったのか。私は、改めてじっくりと午前中の出来事を振り返った。やはり覚えがない。そうこうしているうちにまた呼び鈴が鳴った。
「ス、スミマセンが、間違いじゃありませんか。私、ピザなんか注文してませんけど。」
「エッ。」
一瞬とまどったような声が聞こえた。
「こちら、メゾン・エンジェル205号室でお間違いありませんよね。」
確かに、この部屋である。
「それと、お電話番号は、6522の…」
確かに、電話番号も合っている。でも、注文はしていない、何かが変だ。ま、まさか…。
私が、頭の中の混乱を整理できないでいる間にも、その答えは遠方から近づいてきた。その音は次第に大きく、大きくなり、やがてマンションの前でピタリと止まった。ドヤドヤと人の足音がインターフォン越しに聞こえたかと思うと、私は程なくその答えを知ることとなった。

しばらくして、空の救急車は、サイレンの音を鳴らすこともなく静かに去って行った。多勢のヤジ馬に囲まれて、私だけが、ただ一人、化粧もせず、髪を振り乱したまま、マンションのエントランスに震えながら佇んでいた。衆目の面前で、セリフを忘れた役者が一人、舞台の上で泣いている。用もないのに救急車を呼んだおバカな一人暮らしの女性。その女はどんな顔をした人間なのか。人々は興味と畏怖の念に満ちた視線を私に投げかけていた。
それから1時間後、私は駆け付けた警察官の事情聴取を受けていた。救急車まで来たのである。これはもうタダのイタズラでは済まされない。
「では、その松山という男が、嫌がらせでやった可能性があるということですね。」
私は、黙ってコクリと頷いた。警察官は、私の説明を逐一メモを取りながら確認していた。私にもまだ確証はなかった。でも、他人から恨まれるとしたら、アレぐらいしか思い浮かばない。
あの男の行動はすでに常軌を逸していた。何通もの嫌がらせメールから始まり、自宅に押し掛けて手紙まで投函した。一体何が目的で…。いや目的なんかあろうはずがない。あいつは、ただ私が苦しむのを見て楽しみたいだけなのだ。猫がネズミをいたぶるように、あいつは私をもてあそんでいる。

当然のことながら、その翌日も銀行を休んだ。課長にも事情を話したが、当分出て来なくていいと言われた。もちろん私の身体を気遣ってのこともあろうが、あの男の嫌がらせが銀行にも及ぶことを懸念しての対応であったのであろう。課長は所詮課長、銀行の管理職である。一女子行員のせいで、銀行の支店に救急車が突然来たりしたら、それこそ一大事である。
私は、自宅にいることで、さらなる嫌がらせがあるのではないかと恐れた。カーテンを閉め、テレビも切り、電気も消して、じっとソファにうずくまって時間が過ぎるのを待った。その間も、私の気持ちは休まることもなく、身体は小刻みに震えていた。
その日の午後、警察から連絡があった。ついにあの男が捕まったか。私は心が躍った。しかし、そんな私の期待は簡単に裏切られた。
「あの松山という男の住所に間違いはないですよね。」
どうやら、警察は捜査のためあの男の自宅まで行ったようである。
「え、ええ。免許証で本人確認もしました。そ、それに郵便物もちゃんと届いています。」
「確かに男の自宅には『松山』という表札が上がってるんですが、どうも住んでる気配がないんですよね。郵便とかチラシの類が一杯たまってましてね。」
男があの住所に住んでいない? 一体どういうことなのか。
「いわゆる住所不定っていうやつですよ。住民登録のしてある住所に住んでいない。まあ、何かそこに住むのに都合の悪いことでもあるか、あるいは他にもっと居心地がいい場所があるか。いずれにしてもこういう輩はロクでもない奴ですよ。多かれ少なかれ何かよからぬことを企んでいる。」
確かに、あの男は変わっていた。初めて銀行の投資相談窓口で会った時から、普通とは違う何かを感じた。
でも、通帳には間違いなく3千万円が入っていた。金銭的に困っているという風でもなかった。それとも、あの3千万円は何か不正な手段により得たものなのであろうか。でも、そうだとしたらそんな金で投資信託なんか買うというのもおかしな話である。私は、頭の中がますます混乱してきた。
「で、今後のことですがね。我々も引続き捜査はしてみますが、居場所が特定できないのですぐにでも逮捕というわけにもゆきません。まあ、これまでの経緯からするとあなたに物理的な危害を加えるつもりはなさそうなんですが、念のためしばらくは身辺に注意してください。それと、もし接触があった場合は、すぐにご連絡ください。」
私の落胆は大きかった。もうこれまでのことだけでも耐え難いほどに疲弊しきっている。これからさらに幾日、こんな生活が続くのであろう。そして、次はどんな目に遭わされるのか。本当に危険はないのか。それすら予見できない状況で、どうやって日常生活を送れというのか。
私の心は、警察からの連絡で余計に困惑の度を深めた。まさか、身辺警護を付けてくれと言えるような状況でもない。私は、ただ一言、力なく「ハイ」と答えて電話を切った。

その翌日も私は自宅に引きこもったままでいた。外に出るのが怖い。あの男が警察に逮捕され、そして留置所に隔離されたということがハッキリしない限り、この部屋から出られそうにもなかった。
でも、そんな生活がいつまでも続くはずもない。その日の夕刻、ついに冷蔵庫の中は完全に空っぽになってしまった。3日間も買い物に出られないなんていうことは想定していなかったため、自宅にはそう多くの食料品を買い溜めしてはいなかったのである。
仕方なく、私は意を決して、外出することに決めた。駅前のコンビニまでは歩いても5分足らず。これくらいなら、まさかあの男に遭遇することもあるまい。私は、足早に通りを過ぎて行った。
買い物はできる限り手短かに済ませた。長く引きこもれるように、大量のカップめんやジュースの類を買い込んだ。そして、外に出るころには、初冬の短い日はもう暮れ始め、肌寒い風がビルの間を吹き抜けてきた。
私は、コートの襟を立てながら小走りに家路を急いだ。その時である。ふとこの前と同じような妙な感覚に襲われた。駅からずっと後を付けてくる人影が気になった。私が信号を渡ると、その人影も少し遅れて信号を渡った。私が、足を速めるとその人影の歩みも速くなった。
これは気のせいだ。このところの神経過敏で、ありもしないことをそれと思ってしまう。この前と同じだ。別に付けられているわけではない。
そう自分に言い聞かせたものの、コツコツという靴音は次第に大きくなってゆく気がした。私は、もう気も狂わんばかりに駆け出した。知らない人が見ると、あの人はどうしてあんなに息を切らせて走っているのかと思われたかもしれない。
そして、私は、とうとう路地から出て来た通りすがりの男の人に声をかけてしまった。誰でもよかった。とにかく誰かと一緒にいれば襲われる心配はない。私は必死だった。
「ス、スミマセン。助けてください。変な人につけられて…。」
暗がりのせいで、帽子を目深に被ったその人の顔はよく見えなかった。でも、突然声を掛けられて、明らかに驚いたようであった。面倒なことには巻き込まれたくないというような素振りで、周囲をきょろきょろと観察していたその人は、ゆっくりと帽子を取った。
「河原真澄さん…、ですよね。お久しぶりです。」
その声を聞いて、私は一瞬にして気を失ってしまった。
次に気が付いた時、私は病院のベッドの上にいた。左腕には点滴の管がつながれ、頭がボンヤリする。傍らでは、看護師であろうか、白衣を着けた女の人が忙しく立ち働いていた。私は、神経を集中して頭の先から足の先まで観察した。まだ生きている。特に痛みもない。一体何があったのか。
後で聞いた話だが、私はコンビニから帰る途中の路上で突然倒れ、救急車で病院に運ばれたらしい。交通事故でもない、病気でもない。検査の結果、どこにも異常はなく、医師の診断では、パニック障害のような症状が起きたのではないかとのことであった。
でも、私はハッキリと見た。『松山裕樹』の姿を。あの男は、確かに私の顔を見てニヤリと笑った。

あれから2カ月が経過した。その後、松山裕樹からの接触もなくなり、私は静かな日々を過ごしていた。警察からの連絡もなく、あの男が今どこで何をしているのかも知らない。また、あの男のせいで私と同じような体験をした人が他にいるのかどうかも分からない。
でも私の心の傷は決して癒えることはなかった。いつ果てるかも分からない自分との戦い。私は、銀行を退職し、実家の自室で静かにこのお話を書き上げた。
(了)


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