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作品名:鬼客の禍 作者:ツジセイゴウ

第1回   前篇
私はいま精神科に通院している。病気のせいで仕事も辞めた。まだ一人で外に出ることもできない。このまま一生、この家のこの部屋の中で過ごすのであろうか。理不尽だ。すべてを失った。やり直しも効かない。
でも、私はこの悪夢のような思い出を語り継いでゆかねばならない。これから私と同じような目に遭うかもしれない人々のために。

思い返せば1年前、まだ残暑が続いていたある朝にその時は訪れた。
「河原君、ちょっと支店長室まで」
朝一番、課長から声がかかった。私は、一瞬「来た」と思った。一担当者が支店長室に呼び出されるなどというのは、人事異動の話くらいしかないからである。さわやか銀行に入行してもうすぐ1年半、早ければそろそろかなという気もしていた。
銀行にもいろいろな仕事がある。窓口でお客様の入出金手続きをしたり、振込や振替の事務、現金を数える仕事もある。ただ、そんな仕事は日常の単純作業であり、今ではほとんどパートさんが処理をしている。大学で「銀行論」をかじってきた私にとって、投資相談窓口でお客様の投資相談を受けるのは、入行時の希望でもあり夢でもあった。
課長が軽く支店長室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という支店長の声がした。新入行員が支店長と直に話をするなどということは滅多にない。私は、少し緊張した。そんな、私の緊張を和らげるかのように、支店長は笑顔で私たちを迎え入れた。
「やあ、河原君、おめでとう。」
開口一番、支店長の口から賛辞の言葉が出た。
「この前のロープレ大会(窓口応対の競技会)、君が最優秀賞に選ばれたと人事から連絡があったよ。いやー、私も鼻が高いよ。何しろ全国から選りすぐりの担当者が集まるあの大会で、最優秀賞に選ばれたんだからな。それも入行1年半の若手行員が、だよ。君の店ではどんな新人教育をしているのかって、こっちが聞かれちゃってね。」
支店長はことの他うれしそうであった。支店長の評価には、営業成績はもちろんのことながら、その他にも人材育成や事務成績など多くの支店運営項目も加味される。自店の行員がロープレ大会で最優秀賞を受賞したとなると、支店長の人材育成ポイントは大いに評価が上がることになる。
「あ、ありがとうございます。」
私は、一礼しながら、思わず「やったー」と心の中で叫んでいた。
「それでだ。ここからが本題なんだが、君、来月から投資相談課に移ってくれないか。」
ついにその時が来た。私は、夢見心地で発令を聞いていた。
「本来なら新入行員の研修期間は3年というところだが、人事からも催促があってね。君のような優秀な行員は早く窓口に出して稼がせろっていうことだ。」
支店長はにやりと笑った。
私がこれまでやってきた事務研修はいわば後方事務、パートさんでも十分できる仕事である。それに対し投資相談課の仕事は、いわばプロの仕事。投資信託や生命保険などの投資商品の販売には資格も必要な上に、毎朝、日経新聞に目を通し、その日の投資情報を集めて、お客様にプレゼンする資料も作成しなければならない。
いわば、世間でいうカッコいい仕事、あるいは翔んでる女性の仕事である。実際、先輩たちは黒のスーツに身を包み、静かなBGMの流れるブースに座って富裕層の客たちを相手にしていた。雑踏と喧騒が渦巻く業務課とは完全に一線を画した世界であった。
「まあ、業務課長には痛いだろうが、支店のことを考えると仕方がない。いいね。」
課長は、半ばあきらめ顔でペコペコと頭を動かしていた。
しかし、この華やかな人事異動が、後々の悲劇を引き起こすことになろうとは、その時の私はまだ夢にも思っていなかった。

10月1日、私は先輩方に習って黒のスーツで出勤した。このスーツに袖を通すのは就活の時以来である。業務課にいた間は、普通の女子行員と同じ制服、いわばお仕着せを身に着けていた。私は、少しばかりの優越感をもっていつもの通用口を通った。
着任初日は、すぐには窓口に座らせてもらえなかった。投資相談課の業務について課長から一通りの説明があった後、担当のトレーナーが選ばれた。投資相談の仕事はとても難しく、すぐに窓口に出ても使い物にはならない。しばらくは、トレーナーの先輩に付いて勉強することになった。
トレーナーは投資相談7年目の大ベテラン山口主任である。長身の彼女はスーツ姿もよく似合う。聡明な感じを与える目鼻立ちは、一見してキャリア系の人とわかる風だった。
しかし、そんな憧れの彼女の口から意外な言葉を耳にしたのはその翌日のことだった。社員食堂でいっしょに昼食を取った後の昼休み。
「河原さん、河原さんはどうしてまた投資相談課を希望したの。業務課の方が仕事も楽なのに。」
山口主任は別に意地悪で尋ねたようには見えなかった。そうつぶやいた時、まるで自戒するかのように、大きくため息を漏らしたからである。
でも、いきなり「どうして」と尋ねられて、何と答えてよいのやら私も答えに窮した。四大卒で、しかも大学では投資銀行論を専攻していた。一生、業務課で伝票の山に埋もれて過ごせるはずもない。あんな仕事はパートのおばさんがやるもの。私は、山口主任のようにもっとピカピカしたカッコいい仕事がしたかった。それだけのことである。でも、今の主任の言葉には、どうもそうした私の期待とは異なる重苦しい響きがあった。
投資相談ともなると、業務課と違って当然ノルマもある。今は女子行員だからといって甘やかされる時代ではない。主任もきっと重いノルマを課せられて疲れているのかもしれない。でも、今の主任の嘆息にはもっと違う意味があるような気がした。主任はバリバリのキャリアウーマン、営業成績もいつもトップクラスで、何回か表彰されているのを見たこともある。
そんな、主任がため息を漏らしたのである。私は、深い闇に包まれた、言い知れぬ重い何かを感じた。答えに詰まって黙っている私を見て、主任の口から声が出た。
「まあ、いいわ。河原さんも、そのうち分かるから。とにかくお客様にはくれぐれも気をつけてね。そう、お客様には…。」
私は。当惑した。お客様に気をつけろとは一体どういうことなのか。銀行にとってお客様は最も大切な存在、それに気をつけろとはどういうことなのか。主任がその答えを発する前にも、私たちの昼休みは終わってしまった。

一週間が経ち、私は初めて山口主任のお客様相談に同席することが許された。お客様の同意を得た上で、私は主任の斜め後ろから相談の様子を見学させてもらうことになった。いわゆるOJTというやつである。
投資相談窓口は支店の一番奥まった場所にあり、騒々しいハイカウンターとは少し違った落ち着いた雰囲気に包まれていた。お客様のプライバシーに配慮するため、窓口は人の背丈ほどの壁で仕切られたブース状になっており、隣の話声はほとんど聞こえなかった。オープンスペースとはいえ、このブースに入ってしまえば、周囲とは隔絶された半密室状態となる。行員はここでお客様と2人きりで投資相談をしなければならない。
無論、周りには他のお客様や行員もいる。ロビーにはロビー係や警備員もいる。何も起こるはずはないし、起こりようもない。でも、この中途半端な半密室状態が後々思わぬ問題を引き起こしてゆくことになる。
今日の最初のお客様は、60代半ばくらいの男性。最近会社を退職したとかで、退職金の運用相談であった。主任はマニュアル通りにテキパキと商品の特徴やリスクの説明を進めてゆく。私がそのすごさに圧倒されている間にも、もう3百万円の投資信託が売れていた。お客様が席に座り、申込書に印鑑を押すまで30分も要していなかった。私は、その鮮やかさに圧倒され、また感銘を受けた。
山口主任は、その後も何人かの客の相談に応じ、結局その日の成果は3件で8百万円。やはり凄い。でも主任に言わせると、これでも今日は少ない方だという。私は、改めて主任の力量に圧倒されると同時に、自分も同じようにできるのであろうかと不安になった。

そして、約1ヶ月の後、ついに私が一人でブースに座る日が来た。緊張で少し足が震えていた。誰も助けてくれる人はいない、どんなお客かも分からない。半密室状態のブースの中で私はお客様と2人きりで話をしなければならない。うまく話せるだろうか。お客様を怒らせてしまわないだろうか。入行して初めて電話を取った時のような緊張感が体中に満ちてゆくのを感じた。緊張の中、お客様を呼び込むためのコールボタンが押された。
「番号札8番でお待ちのお客様、5番窓口へどうぞ。」
というアナウンスが響き、間もなくお客様がブースの前に現れた。その人を見て、私は緊張の糸がほぐれてゆくのを覚えた。70前後のおばあさん、一見して柔和な表情の優しそうな方である。私は、すぐにこの人となら、うまく話せそうな気がした。
「今日は、どういうご相談でしょうか。」
「普通預金に年金がだいぶ溜まってたようなの。このまま置いとくのももったいないからって、ロビーの方に言われましてね。」
なるほど、ロビー係からの誘導であった。私は、普通預金の通帳を見ながら、なるべく安全な商品を選んで説明した。70歳くらいなるとリスクの高い商品を進めるのは危ない。おばあさんは難しい話もいやがらずに最後まで聞いて下さった。でも、成果はゼロ。
「今日んところは帰ります。おじいさんと相談してから、また。どうもお世話様。」
このようにして、私の第一号の接客は終了した。大体、そんなものである。
なかなか成果が上がらないまま3日間が過ぎた。そして、その3日目の午後、わずかではあったが初めての成果があった。お客様はあのおばあさんであった。金額は百万円と少なかったが、私の丁寧な説明がよかったと改めてご来店いただいたのである。
その日の夕方の営業会議で、山口主任から私の第一号案件成約の紹介が行なわれ、課員全員から拍手をもらった。正直に嬉しかった。ようやく、これからここでやって行けそうな、そんな気持ちになれた。しかし…。

私が投資相談窓口に出るようになって1ヶ月ほどが経ったある日のこと。朝から霧雨の降る肌寒い日であった。別に天候のせいではなかったが、何となく嫌な予感のする日だった。
「番号札15番でお待ちのお客様、5番窓口へどうぞ。」
ブースに入って来たその人は、ウインドウブレーカーのフードを深々とかぶり、寒そうに両手をポケットに突っこんでいた。顔がよく見えないが、まだ20代後半という感じであった。顔色は青白く、少し無精ひげが生えたその姿は、浮浪者ではないかと思わせるほど生気がなかった。
「いらっしゃいませ、今日はどのようなご用件で。」
私は、軽く会釈をすると、いつものように席を奨めた。たとえ浮浪者であろうとも、店頭に来られたお客様はお客様である。私は、嫌な気持ちを抑えながら出来るかぎり明るく振る舞った。
「あのー、これで投資信託を始めたいんですけど。」
と言いながら、男はポケットから東都銀行の通帳を取り出した。名前は「松山裕樹」と印字されていた。おもむろに通帳を開いた私は、その残高を見て驚いた。最後の行は3千万円となっていた。見かけで人を判断してはいけない。
「松山様、ご投資ですね。ありがとうございます。それでご予算はどのくらいでしょうか。」
「そうですね、とりあえず使わないんで5百万円ばかり…。」
私は再び驚いた。5百万円、初めて扱う金額であった。もし獲得できれば一発で今月の目標達成である。つい先ほどまでの陰うつな気分は消え去り、何とか獲得したいという気持ちに変わっていた。
「松山様は、さわやか銀行にお口座をお持ちでしょうか。」
「いいえ。」
変わらず、陰うつな低い声でボソリと返事があった
「私どもで投資信託をお取り扱いさせて頂くためには、まず普通預金をお作り頂く必要がございます。今日はご印鑑をお持ちでしょうか。」
「あっ、はい。」
男は、再びポケットの中をまさぐり始め、小さな印鑑をデスクの上に置いた。
「ありがとうございます。それでは、こちらが普通預金のご新規の申込書になりますので、ご記入いただいてもよろしいでしょうか。」
男は言われるままにボールペンを取ると、申込書の記入を始めた。若い人にしては珍しく、一字一字しっかりと指で押さえながら、几帳面な字をゆっくりと書いてゆく。名前と住所を書くだけなのに、少しイラッとするほどの時間を要した。
「ありがとうございます。それではご本人様を確認できる資料をお持ちですか。運転免許証とかでもよろしいのですが。」
「あっ、免許証が要るんですか。」
どうやら持ち合わせていなかったようである。残念、ここでストップ。
普通預金口座の開設のためには、本人確認資料が必須となる。コンプライアンスがうるさく言われている昨今、本人確認なしで口座を開設することは規則違反になってしまう。仕方なく、今日のところは一旦お帰りいただいて、後日改めて来店いただくことにした。
「今度ご来店されます際には、ぜひ、私、河原をご指名ください。」
私は、そう言いながら、当たり前のごとく、何も考えず名刺を差し出した。5百万円の投資信託、何としても自分が成約するんだという強い気持ちで一杯だった。しかし、この1枚の名刺が、そうこの1枚を渡してしまったことで、後日とんでもないトラブルに巻き込まれてゆくことになる。
「河原…、真澄…、さん、ですね。」
男は、しげしげと名刺を見つめながら、その視線をチラリと私の方へ向けた。その時初めて、私の目と男の目が合った。そう言えば、受付をしてから一度も男の目を見ていなかったことに気が付いた。研修の時に何度もお客様とのアイコンタクトが重要だと訓練を受けていたにもかかわらず、それを忘れていた。男がわざと視線をそらしていたのか、それとも私の心のどこかに潜んでいた畏怖の念がそうさせたのか。理由はわからない。でも、その視線はゾッとするほど冷たく、私の心臓の傍らをスーッと抜けてゆくような感じがした。
「あ、あ、ありがとう、ございました。」
私は、舌がうまく回らず、つまずきながら何とか言葉を口にした。立ち上がってお辞儀をする際には、はっきりと足が震えているのが分かった。

「そうか、よかったじゃないか。5百万と言えば大きな額だ。何としてでも今月中にはゲットしてもらいたい。頑張ってくれ。今月はちょっと厳しい状況だからな。」
夕方の営業会議で課長より指示があった。
「は、はい。」
私は、生半可な返事をした。5百万円の案件は何としても取りたい。でも、そのためにはあの陰うつな嫌な感じの男と再度話をしなければならない。私の声の調子に気が付いたのか、山口主任が声を掛けてくれた。
「河原さん、大丈夫? もし心配だったら、代わりに受けましょうか。」
「い、いえ、大丈夫です。もう名刺も渡してありますから。」
私はつまらぬ意地を張った。初めての大口案件、それを主任に横取りされてたまるか。しかし、今にして思えば、あの時主任にお願しておけば、少なくともあんな結果にならずに済んだかもしれない。私が、そうこの私が意地を張ったために、この先事態は思わぬ方向に展開してゆくことになる。

2日後の午後、男が再来店した。ロビー係に名刺を見せたのであろう、私あてに指名で申し込みがきた。私は接客中だったので、ロビー係からメモが入った。メモを見た途端、なぜだか緊張してしまって、前のお客様との話もそこそこで切り上げてしまった。
私のブースが空いたのを確認したロビー係が男を案内してきた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
私は、無理やり笑顔を作りながら心にもないことを言った。男は、今日は前よりサッパリした恰好をしていた。薄手のセーターにジャケット姿、髭もきれいに剃ってあり、この前の時ほどの陰うつさはなかった。
「免許証、持ってきました。」
男は、財布から免許証を抜き出すと、口座開設書類とともにカウンターの上に無造作に置いた。書類はきれいに記入されており、印鑑も押されていた。
「それでは早速手続きをさせて頂きますので、あちらでお掛けになってお待ちください。」
私は、男にロビーのソファで待つようお願いした。しかし…。
「ここで待ってちゃ、ダメですか。」
男は、カウンターの前で待つと言った。私は、とても嫌な気分だったが、断る理由もない。
「少々、お時間がかかりますが、よろしいでしょうか。」
私はその言葉で男があきらめてソファに下ってくれることを期待した。しかし男は黙ってうなずいただけで、動こうとする気配はなかった。
別にかまわないのであるが、あまり機械のオペレーションをしているところをジッと見つめられるのも嫌なものである。私は、機械を操作しながら、横眼でチラッと男の様子を観察した。男は、能面のように無表情な顔でじっと私の指先を見詰めていた。私は、背筋が寒くなるような気がして、思わず声をかけた。
「もうちょっとですので…」
男は、やはり黙ってコクリとうなずいた。
わずか5分ほどであったろうか。でも、私にはとても長く感じられた。ようやく普通預金の開設のオペレーションが終わり通帳が出てきた。私は、ほっとして通帳を手に取った。
「松山様、お待たせしました。こちらが新しい口座のお通帳になります。投資信託をご購入されるには、まずご資金をこの通帳に入金していただく必要がございます。ご都合のよろしい日に東都銀行に行かれて、振込の手続きをしていただけますでしょうか。」
聞いているのかいないのか、男は、真新しい通帳を手に取って繁々と見つめていた。この日の手続きはこれで終わりだった。男は黙ってすっと立ち上がった。
「ありがとうございました。」
私も、立ち上がり、深々とお辞儀をした。やれやれ、やっと終わった。私は、ほっと嘆息を漏らしながら席に着いて、次のお客様を呼ぼうとコールボタンに手をかけた。その時…。
何とはなしに視線を感じた私は、ふとロビーの方に目をやった。例の男がじっと私の方を見ていた。用件はもう済んでいる。でも、男はすぐには帰ろうとしなかった。私を見る男の目は氷のように冷たかった。私が、頭を下げると、男はまるで私の視線を避けるかのような素振りですっと背を向けて出て行った。
この時、私はようやく先日の山口主任の言葉を思い出していた。「お客様には気を付けて」、私が初めてこの言葉の意味を微かに感じ取った瞬間であった。

あれから3日が経った。振込はまだ入って来なかった。
「河原君、その後例の5百万はどうなった。」
「あ、はい、まだ…」
「まだ、じゃなくて。フォローアップの電話はかけたのか?」
課長から叱責の言葉が飛んできた。投資相談課に来て初めてのことであった。それまでは新米さんということもあり、営業会議でもあまり厳しい言葉はなかったが、月末も近づいており、課長も少し焦っているようだった。
「今月あと5千万だから、各人手持ちの案件はきちんとフォローして確実に獲得するように。」
課長からの指示が飛んだ。
私は複雑な気持ちだった。5百万円の案件は成約したい。でもそのためにはあの嫌な男とまた話をしなければならない。最初のおばあさんの時はうまくいった。そう、これは仕事だ。好きとか嫌いとかいう個人の印象や感情は抜きにして、粛々と話を進めればいい。それだけのことだ。
私は気を取り直して、電話の受話器を手にした。しかし、何度かけても留守番電話。仕方なく伝言を残した。
「さわやか銀行の河原です。その後、ご相談の件はいかがでしょうか。この機会に是非ご検討くださいますよう改めてお願い申し上げます。またのご来店をお待ち申し上げております。」
そして、翌日、5百万円が振り込まれた。

その2日後、男が来店した。予定通り投資信託を始めたいとの申し出であった。課長からの指示があったこともあり、私は何とか契約を獲得しようと必死になって商品の説明をした。
一口に投資信託と言っても、その数は100種類くらいもある。公社債を中心にした比較的安全なものから、株式や外債を組み入れたリスクの高いものまで様々である。
男は投資経験が少ないようであったので、マニュアル通りとりあえず安全な公社債投信を奨めることにした。私は、パンフレットを広げて商品の特徴やリスクの内容について説明してゆく。しかし、男の反応は微妙なものであった。聞いているのかいないのか、まるで私の説明には関心がないとの風で、パラパラとパンフレットを繰っていた。
15分ほどが経ち、私もそろそろしびれを切らして尋ねてみた。
「松山様、どの商品に致しましょうか。」
「そうですね。どれでもいいです。」
私は、当惑した。5百万円もの資金を投資するのである。どれでもいいというわけにはゆかない。
「そういうわけにも参りません。あくまで、ご投資はお客様のご判断で、お客様の責任においてされるものですので、中身をよくご確認いただきまして…」
「じゃあ、これでいいです。」
男は適当に指を動かした。男が指し示したのは「日本小型株エース」という商品であった。国内の小さな企業の株式に投資するファンドで、株価の変動によって大きく値が動き、専門家でも敬遠するようなリスクの高い商品であった。
「そ、それは、かなりハイリスクですので、あまりお奨めできませんが。」
私は、心底からお客様のリスクを心配した。
「いえ構いませんよ。どうせ当分使う予定もないんで。」
男はさらりと受け流した。その後も何度か止めるように促しもしたが、結局男はその投資信託の申込をすることになった。
「そうか、獲得したか。よーし。」
その日の夕方の営業会議では課長はことの他上機嫌であった。私の5百万が入ったことで今日めでたく今月の目標を達成したとのことであった。
唯一、山口主任の顔色だけが冴えなかった。それは、後輩に追い抜かれたとかいうくだらない理由ではなく、もっと深い、深い意味があるように思えた。主任は、しきりと私の報告書を読み返していたが、結局何も言わなかった。

それからしばらくは何事もなく順調に過ぎた。株価も上がり、例の男の買った投資信託も大幅に値上がりした。男もその後何回か来店し、同じ商品を追加で購入した。私も、何の迷いもなく男の注文を受け続けた。
すべては私の思い過ごしだったんだ。やはり人は見かけで判断してはいけない。どんなに取っ付きにくそうな人でも、こちらが心を開いて話せば気持ちは通じる。やはり、研修の時に講師の人が話していたことは本当だったんだ。
私の不安が自信に変わりかけたと思い始めた矢先、その事件は起きた。前日のニューヨーク市場で株価が暴落したのである。原因は大手の証券会社の破綻。日経平均は前場からの大暴落で、投資相談課の電話も朝から鳴りっぱなしになった。
「とにかく、ろうばい売りはするなと、お客様には伝えろ。相場はすぐに反転する。」
課長の怒声がとぶ。私も、山口主任も、その他の課の全員が、窓口であるいは電話でお客様からの相談や苦情の対応に追われた。昼食にも行けないような喧騒の中、一日が終わった。結局、その日の日経平均は千円以上の大暴落となった。
そして、夕方の営業会議で、各人の担当顧客の「評価損益リスト」が配られた。評価損益リストには各顧客が所有する投資信託の購入金額とその評価損益が記載されていた。ほとんどの顧客の評価損益欄には▲マークが付いていた。
「今回の暴落で大きな含み損を抱えられたお客様に電話をかけ、市場の状況を説明してもらいたい。ただし、投資による損失の責任は基本的にはお客様にある。決して損失を補てんしますとか、必ず値上がりしますといった言い方はしないように。」
沈痛な面持ちで課長からの説明があった。課員全員が疲れた表情で評価損益リストに目を通していた。幸い、まだ新米だった私の担当顧客は20名足らず、大口客も少なかったため電話が必要な客は2〜3人というところだった。しかし…。
評価損益リストに目を通していた時、私の目は点になった。例の男、そう「松山裕樹」の欄には、▲5百万円という数字が記載されていた。投資残高欄には「日本小型株エース2千万円」とあった。私は愕然とした。最初、このファンドは危ないからと止めるように進言していたにもかかわらず、その後の値上がり局面で、つい調子に乗って男の申出通りに受けてしまっていたのである。
投資が初めてのお客様に最もリスクの高い株式ファンドをしかも大量に奨めていたのである。投資アドバイザーとしてはまったく失格であった。
「では、さっそく取りかかってくれ。万が一、うるさい客がいて困ったら報告してくれ。私から改めて説明するから。」
私が、心の乱れを整える前にも、会議は終了していた。
私は、どうしようか迷っていた。5百万円もの損失である。私の脳裏に、あの男の陰うつな表情がさらにゆがんでゆく様子が、目に見えるようにはっきりと浮かんだ。でも、私の責任ではない。私は、一度はリスクが高いからと説得もした。投資による損得はすべて市場の変動によるもの、自己責任である。こんなことでいちいち気をもんでいたらとても投資相談窓口なんかやっていられない。私は、気を取り直して受話器をあげた。
「ただいま留守にしています。ピーという音の後に…」
やはり何度かけても留守番電話であった。きっと仕事で忙しいのであろう。私は、とりあえずの時間的猶予を得たような気がしてホッとした。もし、うまくいけば相場も回復して、損が出ていたことなど忘れ去られて…。まったくお気楽な投資アドバイザーである。こんなことで話が片付くなら誰も苦労はしない。
事態は、私の意に反して悪い方へと動いてしまった。あれから3日が経ち、相場はさらに下落し、松山氏の含み損はとうとう8百万円にまで膨らんでしまった。あの時、無理やりにでも連絡を取り、事態を報告して損切りをお願いしていれば、損失は5百万に抑えられたかもしれない。でも自宅の電話以外に連絡先も分からない。私は、悶々とした日々を過ごした。そして、ついに恐れていた日が到来した。

「河原さん、松山さんというお客様がお見えですが。」
ロビー係からメモが入った。
男は、特に怒っているような様子もなく、以前と同じように無表情のままブースに入ってきた。私は、何と切り出していいのやら戸惑いを隠せないまま席を奨めた。感情が表に出ないため、どう対応してよいのか分からない。
「あの…」
と言いかけた私をさえぎるかのように、男の方から口を開いた。
「株価が暴落しているようですが、私がお預けしている投資信託はどうなってますか。」
何の前置きもなく、ズバリと核心に切り込んで来られた。
「は、はい。実は、その…」
私は、段々と身体が縮んでゆくのを感じた。
「損が出てるんでしょう。」
答えは男の口から出た。もう逃げも隠れもできない。私は、目をつむってプリントアウトされた評価損益表を差し出した。
「フーン。かなりの損ですね。」
男は相変わらず怒りを露わにしないまま、まるで他人の損益表を見ているかのようにコクリコクリと首を振っていた。
「も、申し訳ございません。」
「別に、いいですよ。あなたに謝ってもらっても相場が戻るわけでもないし。」
私は、縮こまっていた身体をさらに小さくした。1分、2分と沈黙の時間だけが過ぎてゆく。
「それで、どうすればいいんですか。」
「は、はい。今はとにかく焦らず様子を見られるのがよろしいかと…」
「あ、そう。それ、あなたの考え。それとも、そう言えって上の方から言われてるのかな。」
男はねちっとした言い回しで、まとわりつくようにからんできた。私は、何と答えていいのかわからず黙って下を向いていた。
「黙ってないで何とか言ったらどうですか。あなた、この商品を奨める時、こんな大きな損が出るなんて一言も言わなかったですよね。」
男はついに本性を露わにしてきた。私は怒りで肩が震えた。私は、あの時、この商品はリスクが高いから止めた方がいいと奨めた。でも、男自身がこの商品に固執した。その結果である。
「自己責任だって言いたいんでしょう。あなたの目にそう書いてある。銀行さんはいつもそうなんだよね。調子のいい時は何も言わず、悪くなると途端に都合よく自己責任だとかなんとか。」
男は、私の心の内を見透かしているかのように矢継ぎ早に責め立ててきた。私は、この時初めてこの男が実は素人ではなかったのでは、と気付かされた。「自己責任」なんていう言葉はあまり一般の人は使わない。実はかなり投資に詳しくて、わざと知らないふりをしていたのではないか、と思われた。
そして、その私の予感は男の次の言葉で明確になる。
「銀行さんがいくら自己責任だって言い張っても、一方で説明義務っていうのがあるんだよね。知ってる? それもお客様が明確に商品の内容を理解するまで説明することが求められている。」
もう私の手に負える相手ではない。私は、何も言えないまま震えていた。
その時、誰かが気を利かして注進してくれたのであろう、課長がブースに入って来た。
「あの、よろしければ、私がお話をお伺いします。」
「あなた、誰?」
「はい、課長の浅井と申します。」
「私、いまこの人と話をしてるんだけど。」
「いえ、ですから課長の私が代わりにお話をお伺いします。」
そう言いながら、課長は私に後方に下がるよう目配せした。私は、おもむろに席を立ち、男に向かって一礼しようとしたその時、男はすっと立ち上がった。次の男の行動を予見して、私も課長も思わず首をすくめた。
しかし、何も起こらなかった。男は、黙って踵を返すとロビーの方に向かって歩き始めた。
「お、お客様、松山様、少々お待ちを。」
課長の声が聞こえているのかいないのか、男は後ろを振り返ることもなく、静かにエントランスの外へと消えて行った。
その日の夕方、昼間の出来事についての話し合いが行われた。
「ということは、あの暴落が起きた後、一度もフォローをしていなかったということだな。」
「申し訳ございませんでした。お客様と連絡が取れなくて。」
私は、これまでの経緯をかいつまんで課長に報告した。
「確かに、2千万の投資で8百万も損が出たら怒りたくもなるな。でも、まあいい。仕方のないことだ。松山さんって言ったかな、しばらくすれば落ち着くよ。」
しかし、この時の課長は楽観的すぎた。この後、あの男の行動はだんだんと常軌を逸したものにエスカレートしてゆくことになる。


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