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作品名:続・不可思議情報の私的考察 作者:ツジセイゴウ

第43回   なぜ理系離れが止まらない
大学では相変わらず理系離れが止まらない。子供たちの理科嫌いも進み、日本の理科教育のレベルは低下する一方だという。筆者は若者の理系離れは、好き嫌いの問題ではなく、必然的なものではないかと思っている。
どのような素晴らしい科学技術も日常化してしまうとただの「当たり前」となり価値がなくなってしまう。例えば、あなたが今毎日見ているテレビ。これは人類の科学技術の粋を集めて作られた素晴らしい文明の利器である。理系人間がいなければ、あなたはテレビを見ることも、車に乗ることも、パソコンを使うこともできない。まさに原始時代のような生活を送らなくてはならなくなる。
でも、今日では別に理系人間でなくても、ボタンを押せばテレビを見ることもできるし、ハンドルを握れば車を運転することもできる。つまり科学技術が日常化してしまい、それを使いこなすのに特別な知識や能力が不要になってしまったのである。
サルを使った面白い実験がある。長い筒の付いたガラスケースの奥にエサのバナナが置いてある。サルの手の長さでは筒の奥まで手が届かない。そんな時、1匹のサルが棒きれを使って筒の奥のエサを引き出すことを思いついた。このサルはこの道具のおかげで他のサルよりも多くのエサにありつくことができた。でも、しばらくすると他のサルも真似をし始めて、このサルの優位性はすぐに消えてなくなってしまった。
テレビも最初にそれを開発した人は、まさにノーベル賞級の発明だったに違いない。でも、そんな高度な技術も日常化されてしまうと二束三文の価値しかなくなる。もちろん、長い歴史の中でテレビに関する技術も進歩し、現代のテレビは50年前のものよりは各段によくなっている。でも、電波を受信し映像を再現するという基本的なコンセプトは何も変わっていない。
だから、どのように外見や機能をいじくってみても、新たな価値を産むこともない。意のある理系人間にとっては、今やテレビの開発はまったくつまらない玩具いじりのレベルの話になってしまっている。夢も、希望も、興奮もない世界である。いくら研究に没頭しても、大した成果を上げることもなく一生を終える人がほとんどである。これでは、若者の理系離れが進むのも当然である。
その一方で、テレビを売っている販売業者はあの手この手を使って利益を上げようとする。サルの例を借りるなら、苦労して棒きれを使ってエサを取る方法を考えるよりは、そうやってエサを取ったサルから要領よくエサを分けてもらった方が楽だという発想である。人間誰しも、楽をしてエサを得る方法があるならば必然的にそちらを選ぶ。
こう言うと、いや文系人間だっていろいろと頭を使って少しでも多くのエサを得る方法を考えようとしているという反論がありそうだ。でも、「頭を使う」の意味が根本から違っている。文系人間の「頭を使う」とは、要領よく利益を上げるということだけである。
いくら文系人間が頑張っても、理系人間がいなければそもそも売るためのテレビも存在しないし、エサのバナナもガラスケースの中に入ったままである。今の文明社会は、基本的にはこれまで生きてきたあまたの理系人間が作り上げてきたものである。何か理系人間をえらく持ち上げる話になってしまったが、筆者は別に理系大学の回し者でもないし、実際は生粋の文系人間であり、世間で最も文系的と言われている某会社に勤めていた。
ただ、そこは新しい発明も発見もなく、与えられたモノを毎日右から左に流すだけのつまらない社会であった。その会社の社長が訓示で言った言葉、「学者は要らん、考えている暇があったらとにかく走れ」。日本の将来を憂う。


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