ヒトは誰しも自分の意思で自由に生きていると思っている。これに対し、ヒトは遺伝子に生かされているとする考え方がある。つまり遺伝子が主で、ヒトを含めあらゆる生物は遺伝子に支配される従者に過ぎないというものである。一般的には「遺伝子の利己性」と言われている理論である。 この理論では、遺伝子は自らの勢力を極大化するために、極限まで利己的にふるまうとされている。たとえば進化論で言われている自然淘汰も遺伝子の利己性によるものである。他者よりも少しでも強い遺伝子が生き残り、弱い遺伝子は淘汰される。そうすることによって遺伝子は自らの勢力圏を拡大している。 ヒトの死もそうである。ヒトが自らの死を自由にコントロールできないのも遺伝子の利己性によるものである。遺伝子の目的は一つでも多くの自分の子孫を残すことであるから、個体であるヒトの命がどうなろうと関係ない。子孫を残し終えたら、個体としてのヒトの役割は終わったことになるのである。だから古く年老いた個体は、遺伝子にとってはもはや不要ということになる。よってヒトに死が与えられる。 病気もそうである。感染症とか怪我とか外部要因による場合を除き、ヒトが病気になるのはそのほとんどが、遺伝子の異常によるものである。病気もまた壊れた遺伝子を排除する仕組みである。遺伝子は自分に不都合な形質を排除するため、ヒトを病気にして最後は死に至らしめる。病気がなければ弱い遺伝子が生き残るため、遺伝子にとっては不都合なのである。 非常に冷徹なようだが、遺伝子が利己的なのには理由がある。「前編第21回 なぜ生き物を殺してはいけないか」で書いた通り、生命は宇宙のエントロピー(無秩序)の増大を防ぐために創造された。だから、生命を極大化するためには手段を選ばない。極めて自然的な摂理の結果である。 さて、前置きが随分と長くなったが、ではヒトはiPS細胞を手に入れたことによってこの遺伝子の利己性に勝利したのといえるのであろうか。これまでは、壊れた遺伝子、好ましくない形質をもった遺伝子は排除するしか方法がなかった。でも、iPS細胞は遺伝子に万能性を取り戻させることで、壊れた遺伝子を持つ個体を生き延びさせる術を与えた。言い換えれば、ヒトは遺伝子の利己性に勝利したのである。これからはヒトが遺伝子を支配しコントロールする時代が到来する。その行き着く先がどうなるのかは筆者にも分からない。遺伝子は新たな逆襲の方法を用意しているのであろうか。 ヒトは抗生物質によって病原菌に勝利した。しかし、病原菌は自らの形質を変えることで耐性菌となって逆襲を開始してきた。そして、いま医療の世界では病原菌と抗生物質のいたちごっこが繰り返されている。ヒトと遺伝子の戦いもいま始まったばかりなのかもしれない。 (このテーマについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「Disease」を参照してください)
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