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作品名:続・不可思議情報の私的考察 作者:ツジセイゴウ

第32回   死刑制度の是非
またまた重たいテーマである。この問題については、すでに多くの識者によって賛否両論、数多くの議論がなされているので、改めて筆者が云々するつもりはないが、一点だけ明らかに欠けていると思われる視点があるので、再考察してみたい。
結論から先に言うと、筆者は死刑制度自体には賛成である。死刑反対論者に欠けている重要な視点が一つある。それは、ミクロ(単一事例)で見た場合とマクロ(社会全体)で見た場合とで、答えが全然違ってくる可能性があるということである。
現在、死刑囚の数は約130人、日本の人口対比で言えば100万人に1人の割合である。数が少ないがゆえに1人くらい拘置所の中で一生を過ごさせてやっても問題ないのではないか、という甘い考えがその背景にある。
ミクロで見れば、確かに人権を理由に死刑を回避しようとするのは正しい姿勢のように思える。でも、仮に殺人事件を起こす人間が10人に1人というような極端な確率で生まれるとしたらどうか。日本の拘置所はあっという間に一杯となり、あなたの家のすぐ隣にも凶悪殺人犯で溢れかえる拘置所ができるかもしれない。それでも、死刑反対論者は、死刑はダメと言い続けるのであろうか。
そんな、極端なありえない仮定を持ち出すのはおかしいと言われそうだが、死刑囚の数の多い少ないで判断がぶれるようであれば、それは信念とは言い難い。
では、言い方を変えて、日本が人口100人の村だと仮定して、そんな平和な小村の中で凶悪殺人が起きたとしたらどうすべきか。村の安全を確保するためには、殺人犯を厳重に監禁して、見張りも付けなくてはならないし、一生飯も食わせてやらなければならない。下手をすると村の存亡にもかかわる事態になるかもしれない。そんな状況に置かれた場合でも、自信をもって死刑には反対と言い切れるのかということである。マクロで見ると、答えが違ってくる可能性があると言ったのは、そういう意味である。
人は誰しも一人の人間として人権を有している。その人の生きる権利を、理由の如何を問わず他人が奪うのは問題だと考えるのは、人として当然のことだと思う。しかし、同時に人は日本国という集団の一構成員として生活していることを忘れてはならない。集団の中で生活していく以上は、最低限のルールは守ってもらわなくては、社会の安寧は保てない。
サッカーでも危険プレーを繰り返す選手には、レッドカードが出され退場させられる。そうしないと、サッカーの試合自体がメチャクチャになってしまうからである。
それでもなお、死刑反対論者が反対する理由としてしばしば主張するのが、死刑囚の更生の可能性と冤罪の可能性である。筆者もこれについては必ずしも否定はしない。その可能性が全くないとは言い切れないからである。
だから、まず冤罪の可能性が少しでもある人は死刑にしないという原則が必要である。でも、通り魔事件のように明らかな現行犯の場合は、冤罪の余地は全くないので確定刑でもよいはずである。よって、冤罪を理由に死刑制度自体を否定するというのは、そもそも論理が矛盾している。
次に更生の可能性についての判断である。筆者の答えは、一犯目はもう少し幅広く救済の余地を残してやってもよいのではないかというものである。被害者の遺族の心情も分からないではないが、人間、誰しも魔が差すということはありうる。それがたまたま殺人という重大犯罪であったとしたら、即死刑というのはやはり厳しすぎるようにも思う。反対論者が言うように、更生の余地を残してやる必要もあるのではなかろうか。
ただ、人が一生の間に、過失によらずして2度も殺人を犯すというのは、確率的には非常に低いことなので、やはりこういう事例では死刑しか選択肢はないと思う。よって、更生の可能性を理由に制度自体を否定してしまうのは、やはり無理がある。世の中には、絶対更生しない人もいるわけだから、そういう人にはこの世から退出していただく以外に道はない。
さて、最後になったが、死刑執行に法務大臣の署名が必要なのはどう考えてもおかしい。しかも、大臣の個人的信条によって執行がなされたり、なされなかったりというのは、法の下の平等原則にも反している。まずは、この問題を早急に見直してほしいものである。


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