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作品名:エクストラ・ディメンジョン(余剰次元) 作者:ツジセイゴウ

最終回   2
5 非情

準備はすぐに始められた。まず、強力な電磁場を作り出すためのEM装置がDファクトリーに運び込まれた。Dファクトリーのモニタールームは既に強い放射線に汚染されているため、作業はシールド越しに遠隔操作で行われる。ファクトリー内のモニター画面でブラックホールの状況を確認しながら、作業は慎重に進められる。万が一にでも、EM装置がブラックホールの膠着円盤に捉われるとあの鉛のカプセルと同じ運命が待っている。
「オーライ、オーライ。もう少し右だ。よーし、そのあたりでいいだろう。」
公平の指示の下、ケイトと数人のスタッフたちが忙しく立ち働く。ことは1分1秒を争う。この瞬間にもブラックホールは成長を続けている。時間が過ぎれば過ぎるほど、成功の確率は低くなる。
「コーヘイ、準備はどうだ。」
その日の午後、ホルムシュタイン主査官自らが準備の状況の視察に現れた。
「順調です。この調子であれば、明日にでも実験が始められると思います。」
「そうか。よろしく頼む。この研究所の、いやここだけではない、全人類の運命が君たちの双肩にかかっている。」
主査官の激励の言葉に、公平とケイトは鳥肌が立つのを覚えた。まさに主査官の言うとおりであった。もし、公平の理論が間違っていたら、そしてこの実験が失敗したら、地球はおろか太陽系の全てが跡形もなく消えてしまうことになるかもしれない。公平とケイトは3日続きの徹夜の作業を敢行した。

3日後、対策チームの一団が見守る中、公平たちの実験が始められた。
「出力装置よし、カロリーメーターよし、EM装置問題なし、モニター画面感度良好。」
モニタールームの隣室の設けられた臨時のオペレーションルームに、公平の声が響く。
「準備が完了しました。まずは、3Tev(テラ電子ボルト)から始めます。」
公平の合図に、ホルムシュタイン主査官が静かに頷いた。
「中性子ビーム発射。」
公平が出力装置のタッチパネルに触れた次の瞬間、カロリーメーターに微かな閃光が走った。LHCから発射された中性子のバンチがブラックホールのすぐ脇で衝突し崩壊した。次の瞬間、ケイトがEM装置を操作し強力な電磁波を発生させる。本来なら、中性子の衝突で対生成を起こした陽子と反陽子は一瞬のうちに対消滅を起こして消えるはずであったが、公平の予想した通り、ブッラックホールの近傍では時間の進みが遅いため、反陽子の消滅までにわずかばかりの猶予が生じた。
ケイトは、その瞬間を捉えて電磁波を発射する。これなら早撃ちガンマンでなくてもOKである。強力なマイナスの電荷を負荷された反陽子は、その反発力でブラックホールの中へと照射された。まばゆい閃光と共にカロリーメーターにそのエネルギーの流痕が映し出された。
ゴクリ。その瞬間を見守る一団の誰からともなく喫唾する音が聞こえた。果たして結果は…。
「ブラックホールのエネルギー量3%低下。」
オペレーターが読み上げる数値にドッと歓喜の声が沸いた。この瞬間、公平の理論が証明された。
人類が始めてブラックホールをそのコントロール下に置いた瞬間である。物理学の世界がひっくり返った。何百年に1度あるかないかの大発見が実証された。まさに歴史的瞬間であった。
反物質の塊をブラックホールの中に打ち込むことによってブラックホールのエネルギーレベルが低下したということは、ブラックホールの事象の地平線の向こう側で対消滅が起きていることを証明したことを意味する。こちら側から送り込んだ反物質と向こうの世界から来る反物質が反発しあい、対消滅が部分的に制止されたのである。
「エネルギーレベルを5Tevに上げて続けます。」
公平は、興奮冷めやらぬ声で次の中性子ビームの照射に入った。再び閃光が輝き、それに呼応するようにケイトの指が動く。
「エネルギーレベル5%低下。」
オペレーターの声が響く。今度は、カロリーメーターに表示されたブラックホールの色もはっきり変わった。中心辺りを赤々と染めていたエネルギー分布の色が僅かにオレンジ色になり、エネルギーレベルの低下はモニターでもハッキリと確認できた。
「大成功だ。」
ホルムシュタイン主査官の興奮した声がオペレータールームに響く。最初は半信半疑だったミシェル主任研究員もゆっくりと、しかし相変わらず無愛想な表情で賛辞を送る拍手をした。
その後も、反物質の投入は続けられブラックホールのエネルギーレベルはどんどん低下していった。

しかし…。その先には、恐ろしい落とし穴が待っていた。この未知の怪物は、予想だにしていなかった反撃を開始してきた。
「だめです。エネルギーレベル20%で、変化なしです。」
オペレーターの声が空しく響いた。先ほどまで順調に減っていたブラックホールのエネルギーレベルであるが、あと20%というところで急速に減少に歯止めが掛かった。
「一体どうしたんだ。先ほどまでは順調にエネルギーレベルが下がっていたというのに。」
ホルムシュタイン主査官が、心配そうにカロリーメーターの表示を覗き込む。ブラックホールのエネルギーレベルを表示した万華鏡のようなグラフからは赤い色は既に消え、エネルギーレベルの低い黄色や黄緑色の表示が拡大していた。しかし、そこから先はいくら中性子ビームを照射しても目立った変化が現れなくなった。
公平は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。
「ひょっとすると、中性子コアかもしれません。」
「何? 中性子コアだって。」
ホルムシュタイン主査官の顔色が変わった。
「済みません。まだ私の理論も完全には確立されているわけではありません。まだお話していなかったことが…。」
「話していなかったこと? そ、それは大事なことなのか。」
「いえ、まだ私にも何とも。主査官、主査官もご存知のように、超新星爆発の後には中性子星が生まれることがありよますよね。」
ホルムシュタイン主査官は、そんなことは百も承知とばかりに、黙って頷いた。
超新星爆発とは、太陽の百倍もの質量を持つ巨大な恒星が燃え尽きる時に起きる。星は、水素やヘリウムを燃料にして光り輝いている。しかし、どんなに膨大な量の水素やヘリウムもいつかは燃え尽きてなくなる。その時、星々は自らの重力に耐えかねて急激に爆縮を起こし、その反発力で太陽の何千倍という明るさで光り輝き最期の瞬間を迎える。これが超新星爆発である。
この超新星爆発の後に残されるのが、ブラックホールか中性子星である。そのいずれになるのかは、死に行く星の質量の大きさによるとされてきた。すなわち、星の質量が十分に大きければブラックホールになり、小さければ中性子星になる。中性子星は、中性子が極度に圧縮され凝り固まった残骸物である。
公平は、ここで新たな仮説を提示した。そして、その仮説こそがわが地球の運命を決定付ける最終理論となった。
「中性子星は、ブラックホールが蒸発した後の残骸物と考えられます。」
「何だって。中性子星がブラックホールの残骸だと。」
「そうです。ブラックホールには陽子のほかに中性子も吸い込まれてゆきます。陽子は別の次元からやってくる反陽子と対消滅を起こして消えてゆきます。でも電荷が中立の中性子だけは一緒になるパートナーがいないため、ブックホールの中に閉じ込められます。そして、陽子と反陽子の吸い込みが止まった後、固く凝縮された中性子だけが残ると考えられます。」
「ふーむ。なるほど、中性子星というのは、そういうことだったのか。」
ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を認めるかのように大きく頷いた。
物理学者というものは、対称性をことのほか重要視する。対称的なものは美しいからである。我々人間の体も心臓を除けば完全に左右対称である。羽を広げた蝶はこの上もなく美しい対称性をなしている。もし蝶の羽の対称性が少しでも破れていたら、そして左右の羽に極微のアンバランスがあったなら、蝶は美しく空を舞うことすらできないであろう。対称性が美しいとはそういうことなのである。
「蝶の羽は対称的で美しいものです。もしエクストラ・ディメンジョンをまたいで両方の世界を同時に見ることが出来たなら、それは羽を広げた蝶のように見えるでしょう。その姿は、まるで私たちの物質宇宙と向こうの世界にある反物質宇宙を表現しているかのようです。でも、この2枚の羽を繋げる部分には蝶の体の本体があります。
さなぎから羽化する蝶を写したビデオを逆回しするところを想像してみてください。2枚の羽はどんどん小さくなって蝶の体の方へと縮んでゆくように見えるはずです。でもどんなに縮めても最後にはさなぎ姿の蝶が残ります。羽がなくなった蝶の姿は醜いものです。地面を這いずり回るただの虫けらに戻ります。でも、その部分にこそ羽を動かす蝶の筋肉がありエネルギーが存在しているのです。」
ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員、そしてケイトまでもが、この公平の斬新な考え方の意味を咀嚼し、理解しようとしていた。
「ということは、君の喩えを借りるなら、ブラックホールというさなぎの中には、中性子ばかりで出来た蝶の体の本体が隠されているということか。」
「恐らく…。そして、この中性子コアがあるためにブラックホールを完全に閉じ切ることは出来ないのかも知れません。」
公平が、大きな嘆息を漏らそうとしたとき、オペレーターの叫び声が上がった。
「ブラックホールのエネルギーレベルが上昇し始めています。」
その場にいた全員の視線が、カロリーメーターのモニター画面に釘付けになった。黄色がオレンジ色に、緑色が黄色にと、万華鏡の色がどんどん変化していく。
「来るぞ。全員、即刻退避。急げ。」
その様子を見ていたミシェル主任研究員が悲鳴に近い叫び声を上げた。しかし、時すでに遅し。その瞬間、Dファクトリー内で大爆発が起きた。ブラックホールは、それまで押し込められていたエネルギーを一気に吐き出すかのように、強烈なX線ジェットでファクトリー内のシールド壁を吹き飛ばした。
「緊急警報発令、緊急警報発令。警戒レベル5。警戒レベル5。Dファクトリーを完全封鎖。繰り返すDファクトリーを完全封鎖する。」
CERN全館に警報音が高らかに鳴り響いた。警戒レベル5は、原子力発電所でいえば炉心のメルトダウンに相当する。モニタールームだけを隔離するシールド壁などもはや何の役にも立たない。こうなると放射線防護服を身に着けていても1分が限度である。それ以上の被曝は命にかかわる。
全員がDファクトリーの外へ向かって走る。
「ブー、ブー、ブー」という警報音が鳴り響く中、ファクトリーの入り口では既に厚さ20センチのコンクリート製の扉が下がり始めていた。研究所の中は、こうした放射能漏れ事故に備えて、各ファクトリーを封鎖するための隔壁があちらこちらに張り巡らされており、放射能検知器が放射能を検知すると、中央の制御室にあるコンピューターから隔壁を作動させる指令が自動的に発せられる。
一旦隔壁が下がってしまうと、内側の放射能レベルが下がるまで2度と隔壁は上がらないように設計されていた。万が一避難が遅れても、手動で隔壁を上げることは、研究所全体あるいはこの地域全体に甚大な放射能汚染をもたらしかねないからである。
非情でも。逃げ遅れた者は見捨てるしかない。ホルムシュタイン主査官に続き、ケイト、公平、その他の所員が滑り込むように扉の下を潜る。その間にも隔壁の高さはどんどん下がってゆく。後30センチあるかないかという間隙をミシェル主任研究員が転がり込むようにして潜り抜けた。次の瞬間、隔壁はゆっくりと最後の隙間を閉じた。
「全員無事か。」
ミシェル主任研究員が防護用ヘルメットを外しながら、全員に声をかけた。公平も、ホルムシュタイン主査官も、他の所員も、ホッと安堵の嘆息を漏らしながら、次々とヘルメットを外した。
しかし…。1人だけヘルメットを外さない人間がいた。もう防護隔壁は完全に下がっている。被曝の危険性もない。なぜ、その人物はヘルメットを外さないのか。全員の視線がゆっくりとその人物に注がれたとき、その人物はドサリと床の上に崩れ落ちた。その人物の背中からは焼け焦げた防護服の匂いが立ち上がり、赤黒く火傷した皮膚がチラリと見えた。
「ケ、ケイト。」
駆け寄ろうとする公平。しかし、その間に割って入ったのはミシェル主任研究員であった。
「は、離れろ。二次被曝の危険がある。」
「でも、ケイトが、ケイトが。」
叫ぶ公平を腕ずくで下がらせたミシェル主任研究員は、すぐさまメディカルルームへ伝令を発した。

メディカルルームの隔離室のベッドでケイトは静かに眠っていた。二次被曝の恐れがあるため、放射線を通さない特別のガラスで仕切られた部屋で治療が続けられていた。部屋の外では、公平が医師からケイトの怪我の状況について説明を受けていた。
「火傷の方は、大したことはありません。しかし、X線の被曝量が我々の想像の範囲をはるかに超えています。」
「想像の範囲を超えている?」
医師の言葉の意味がよく理解できずに、公平はオウム返しのようにそのまま尋ね返した。
「そうです。少なくとも私の知る限りこれだけ大量の放射線を一度に浴びた患者の前例がありません。ですから、今後彼女の体がどのように変化し、そしていつまで持つのかも…」
「い、一体どういうことです。彼女は、彼女は…」
公平は、その先を聞こうとするが、心ははるか別のところにあった。この先を聞いてはならない。聞けば、きっと後悔する。彼の脳が自ずと拒絶反応を起こしていた。
「一言で言えば、原爆症ですよ。彼女は、通常のレントゲン検査で浴びる放射線の10万倍を超える量の放射線を一度に浴びてしまった。これは、広島の原爆の爆心地をもはるかに凌ぐ量です。」
「じゃあ、これから彼女はガンにかかりやすくなるとか。」
公平も物理学者の端くれ、重度の放射線被曝症の末路がどのように悲惨なものか薄々は理解していた。ただ、彼の心がまだ最後通告の言葉を受け容れる用意ができていなかった。
「いえ、そういうレベルの話ではなくて。大変申し上げにくいことですが、後、何ヶ月いや何週間もつかというレベルの話です。見た目には、彼女の火傷痕は大したことがないように見えます。しかし、細胞レベルで見れば、彼女の体細胞の30%はすでにDNAが破壊されていると思われます。」
『ガンマナイフ』、体の深部にあるガンを治療する装置である。強力な放射線であるガンマ線をミクロン単位で調節しながらガン細胞だけに照射して焼き切る。だからガンマナイフと呼ばれる。最新鋭のガンの治療方法である。仮に、このガンマナイフが無差別に人体を貫通するとしたら何が起きるのか。見た目には何の変化もない。ガン患者はほとんど痛みもなくガンマナイフ治療を受けている。
しかし、人間の体細胞のDNAは強力な放射線が貫通することでズタズタに破壊される。目に見えない極微のナイフが体中を貫通するのである。こうなると、もうこの細胞は分裂することができなくなる。細胞が再生されないため、個々の細胞が寿命を迎えるたびに、組織は少しずつ崩れて壊死していく。薬もない、治療法もない。患者は、組織が崩れるたびに、出血と強烈な痛みに苦しみながら、死を待つしかない。まさに生きながらにしての拷問である。
「今ある最高性能のMRIを使っても体細胞の1個1個までは調べようもありませんので、体のどこの部分が、いつ、どのくらいのペースで壊死してゆくのか予測が出来ません。ですから…。」
「わ、わかりました。もう結構です。」
公平は、ゆっくりと医師に背を向けた。
「なぜ、ケイトなんだ。なぜ、俺でなくて、ケイトなんだ。」
公平は、わずか0.1秒差の非情な運命のいたずらを恨んだ。あの時、わずか30センチでも自分のいた位置がずれていたら、X線ジェットの直射を受けたのはケイトではなく自分であったかもしれない。かわいそうに、ケイトは自分の身代わりになったのだ。
その時、公平は初めて自らの心の奥深くに芽生え始めたケイトに対する思いに気が付いた。それは、単なる研究パートナーに対するものではなく、もっともっと深い人間的なものであった。


6 滅亡への序章

その2日後、Aファクトリーにあるホルムシュタイン主査官室で再度の対策会議が開かれた。
「仮にムッシュ・コーヘイの理論が正しいとしても、私の計算では、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさが地球規模より大きい確率は100万分の1以下、このCERNの研究所内で消失する可能性の方がはるかに高いと思われます。ここは焦らず、もうしばらく様子を見るのが最善かと思います。」
最初に口を開いたのはミシェル主任研究員であった。彼は、自信たっぷりに公平に視線を向けた。
確かに彼の意見にも一理あった。確率論である。宝くじでも高額の当選金が当たる確率は、はるかに小さい。一生買い続けても当たらない人の方がずっと多い。
マルチ・バース(多宇宙)理論では、今我々が住むこの宇宙は、高次元空間に無数に浮かぶ宇宙の一つに過ぎないと考えられている。その大きさは、プランク長さ(10のマイナス33乗メートル)のものから何億光年の広さを有するものまで様々である。原子レベルの大きさの宇宙は文字通り無限にあるが、地球規模以上の大きさを持つ宇宙となると存在する可能性もずっと小さくなる。今、Dファクトリーにあるブラックホールと繋がっている並行宇宙も十分に小さいかもしれない。いや、むしろその可能性の方がずっと大きい。
「誰か意見は?」
ホルムシュタイン主査官が意見を求めた。ミシェル主任研究員は反論があるなら言ってみろといわんばかりに正面に向って自信たっぷりの視線を向けた。誰も反論を述べそうにない。と言うよりも、今となってはブラックホールを人類が持つ科学知識の範囲で消失させる手立てはなくなっていた。まさに運を天に任せるよりほか術がなかったのである。
しかし、一番末席に座っていた公平が、ゆっくりと手を上げた。
「確かに、そうかもしれません。でも、問題なのは、仮に並行宇宙の大きさが十分に小さくても、地球に壊滅的な打撃を与える可能性がないとは言い切れないということです。」
ミシェル主任研究員は、またかという表情で挑戦的な視線を公平に向けた。それを遮るかのようにホルムシュタイン主査官が尋ね返す。
「ミスター・コーヘイ、一体どういうことかね。」
「流動性の問題です。地球は単なる物質の塊ではありません。大気もあれば、海洋もある。大陸もあれば、地下にはマグマもある。仮にブラックホールがDファクトリーのシールドを破るようなことになれば、まずは最も軽く、流動性の高い地球大気を吸い寄せ始めるでしょう。私の計算では、仮に並行宇宙の大きさが野球ボールほどの大きさでも、その密度が十分に大きければ地球の全大気を吸い込んでもまだ対消滅は止まらないでしょう。その確率は5%よりも大きいと思われます。」
場に居合わせた全員がざわつき始めた。仮に地球大気の全てが、いやその3分の1でもブラックホールに吸い込まれれば、地球はもはや生物の住めない環境となってしまう。
地球が我々にとって安住の地でありうるのは、全て大気のおかげである。大気は我々が呼吸するための酸素を供給しているだけではない。大気のおかげで有害な紫外線や宇宙線が遮られ、大気の温室効果のおかげで地球全体の平均気温が15度に保たれている。その大気が全て剥ぎ取られたら、地球はたちまち死の星となる。
「最悪の事態を想定して、我々はすぐにでも準備を始めるべきだと考えます。」
公平は、既に頭の中で人類滅亡の危機までを想定していた。もはや何物もブラックホールの成長を止めることは出来ない。あいまいな確率論に期待して無駄に時を過ごせば、取り返しのつかないことになる。
それからも議論は延々と続いた。このまま静観すべきとするミシェル主任研究員と対策を打つべきとする公平の主張にそれぞれ何人かの研究員が同調した。天才科学者が何人も顔を付き合せて何時間も議論が続いている。それでも結論が出ない。それは、事態が既に物理学の世界から政治の世界へと移ったことを意味していた。
「分かった。明日、緊急のEU首脳会議の招集を要請する。どうするかの判断は政治家に任せよう。」
ホルムシュタイン主査官が力なく会議の終了を告げた時、既に日が変わっていた。

その日の昼過ぎ、ケイトの体の残留放射能のレベルが下がり二次被曝の恐れが少なくなったとして、ようやく面会が許された。公平は、静かにケイトの病室に入った。
「ケイト、大丈夫か。」
「コ、コーヘイ。ありがとう。心配してくれて。」
公平は、ゆっくりとケイトのベッドの脇にあった椅子に腰を下ろした。ケイトは見たところ何の変わりもなかった。2日間食事をすることを制限されていたため、少しやつれた感じが出ていたことを除けば、3日前のケイトと同じケイトがそこにいた。白い肌に、長く垂れた金髪、少しお茶目な感じの大きな目は、物理学者というよりはいたずら好きのロンドン娘という感じがした。
「それで、例のものはその後どうなったの。」
ケイトは、ブラックホールのことを尋ねた。大爆発の時に気を失ってから、その後のことはまだ聞かされていないようであった。
「残念ながら、不首尾だった。ブラックホールは今もDファクトリーの中で成長を続けている。恐らく大きさはもうミクロンレベル、肉眼でもみえるはずだ。」
「そう、これからどうなるのかしら。」
「主査官が、明日、緊急のEU首脳会議を要請することになった。俺たちの役目はもう終わった。舞台は政治の世界に移った。」
「そう。」
ケイトは少し寂し気に嘆息を漏らした。と言っても、一流の物理学者である公平やケイトにとっては、これから起きるであろうはずの地獄の惨劇はある程度の予想がついていた。いくら政治の世界が頑張ってみたところで、自然の驚異の前では無力である。あるのは混乱のみである。ケイトのため息は、事態の報告を前にして、右往左往するしかない政治家たちの心の内を代弁しているかのようであった。
「背中が痛いわ。少し起き上がってもいいかしら。」
ケイトは、ゆっくりと左手で上体を起こそうとした。手を貸そうと公平が手を差し伸べた、その時。
「キャー。」
ケイトの悲鳴が上がった。
「何なの。これ、何なのよ。」
見れば、ケイトの美しい金髪の一束がバサリとベッドの上に抜け落ちていた。その一部は公平の腕の上にも降り注いでいる。放射能被曝症の最初の兆候がもう現れ始めた。
「いや。いやよ。」
ケイトは、抜け落ちた髪を両手ですくいながら、全身をワナワナと震わせた。
「落ち着くんだ。ケイト。落ち着いて。」
「出てって。出てって。1人にして。早く、出てって。見ないで。」
ケイトは泣き叫びながら、抜け落ちた髪の毛を手当たり次第にあたりにばら撒き始めた。異常に気付いた医師が大慌てで病室に駆け込んできた。医師は素早く鎮静剤をケイトの腕に打つ。しばらくして、ケイトはぐったりとしてベッドの上に横たわった。半分意識の薄れたケイトの目尻から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。
「先生、何とかならないんですか。」
公平は、無理とは分かっていても、一縷の希望の言葉を医師の口に期待した。しかし、医師は黙って首を横に振るだけであった。

その3日後、ベルギー国ブリュッセルにあるEU本部特別会議室。
円卓を囲む各国首脳の後ろには、秘書官だけが1人ポツリと座っていた。通常の首脳会議であれば、各国から百人を超える事務方や報道陣が詰めかけ、会場はまさにお祭り騒ぎとなる。首脳が席に着く頃には、事務方での調整があらかた終わり、共同声明の内容について最後の確認が行われるだけである。各国の大統領や首相は筋書きに沿って発言し、後はお決まりの儀礼的な握手と写真撮影を済ませるだけである。
しかし、今日はまるで様子が違っていた。事が事だけに、会議は極秘裏に進められなければならない。あらかじめ用意されたスピーチもなければ想定問答集もない。無論マスコミは完全にシャッタアウトである。スケジュール調整が間に合わず欠席している首脳も数名いた。
各国首脳にも、今日ここで報告される内容については事前に一切知らされておらず、ただとてつもない非常事態がCERNで起きたということと、マスコミにも絶対気付かれぬよう参集されたいということだけが伝えられていた。
定刻、本日の会議の議長を務めるホルムシュタイン主査官より、今回の事態の経緯とこれから起こると予想される大惨事についての報告が行われた。
「何? そ、それって一体どういうことだ。」
「そんなことが起きていたとは、わしは一切、聞かされとらんぞ。」
主査官の報告の途中にも、既に各国首脳の口からは混迷と怒りの声が上がり始め、場は騒然となった。立ち上がって拳を振り上げる者、腕組みをして考え込む者、皆それぞれの思いと仕草で、主査官の報告に反応した。
「それは、もう避けようもない事態なのか。間違いということはないのか。」
「仮に事実としても、我々にどうしろというのだ。」
「マスコミ発表はどうするんだ。それに国民には何と説明すれば。」
会議室内は、もう首脳会議の体をなしておらず、時間の経過と共に混乱だけが拡大していった。その混乱を鎮めるように、主査官からの提案が続く。
「私たちは何段階かの事態を想定して、それぞれのレベルに対応した対策を考えました。
まずフェーズ1。ブラックホールが間もなく消滅し、放射能汚染がCERNの研究所内に留まる場合です。この場合は、CERNにおいて放射能漏れ事故が起きたため原因が究明されるまで研究所を閉鎖することをマスコミ発表します。それ以上の対応は必要ありません。
次いでフェーズ2。ブラックホールが隔壁を破ってさらに成長を続ける場合です。CERNの外部に放射能が漏れ出すため、スイス国並びにフランス国にはCERNの周囲半径100キロメートルの住人に緊急避難を勧告していただきます。原子力発電所がメルトダウンを起こしたケースを想定してオペレーションを行っていただくとお考えいただければよろしいかと思います。
さらに運悪くフェーズ3まで至った場合。ブラックホールがさらに成長して地球大気を飲み込み始めた場合です。ここまで来るともう全ての人類が生き延びることは不可能となります。大気がなくなれば、地球上の生命の大半は死に絶え、地球はまさに死の星となります。この場合、全世界から選ばれた人々が世界各国にある核シェルターに入り、嵐が通り過ぎるのを待ちます。まさに現代版ノアの箱舟です。」
主査官がここまで説明を進めたとき、バンというテーブルを叩く大きな音とともに、ギリシャの大統領が立ち上がった。
「バカバカしい、何が現代版ノアの箱舟だ。こんな茶番にはもう付き合っていられん。だいたい、これはお前たち先進国が始めた実験だろう。素粒子だか、物理学だか、何かは知らんが、わが国は最初からこの計画には反対だった。あんな訳の分からん機械に何億ユーロも注ぎ込んで。おかげでこっちの財政は火の車だ。お前たちだけで何とかしろ。」
ギリシャ大統領は、フランス大統領とドイツ首相に向って繰り返し指差ししながら大声を張り上げた。
「そうだ、そうだ。」
それに、スペインとポルトガルの首脳が呼応した。
「お静かに、お静かに。まずは落ち着いてください。」
ホルムシュタイン主査官が、額に噴出した汗を拭いながら、繰り返し場の喧騒を鎮めようとする。憮然とした表情のまま、ギリシャ大統領はどっかと席に着き、脇を向いてしまった。
「で、もしフェーズ3に至ったとして、核シェルターには何ヶ月くらい入っていればいいのかね。」
場が少し落ち着くのを見計らったようにフランス大統領が質問した。しかし、フランス大統領はこのノアの箱舟を少々甘く見すぎていた。
「それは、ブラックホールが消失した時の状態にもよりますが、仮に地球大気が完全になくなっていたとすれば、シェルター内で生き延びた人類によりテラフォーミング、つまり地球を再び人の住める環境に戻す計画を実行していくことになります。それには、何十年、いや何百年かかるか分かりません。」
「な、何と。わが国の核シェルターは1万人の人間が1年間暮らせるだけのキャパしかない。そんな何十年、何百年もシェルターの中でもぐらみたいな生活をするなんて想定外の話だ。」
フランス大統領が言うのももっともであった。世界各国が有する核シェルターは核戦争を想定して作られている。核戦争が起きた場合、いわゆる核の冬が続くのは長くても2〜3年である。放射能レベルが下がるまで辛抱すればいい。
しかし、地球大気が剥ぎ取られた場合、それを元に戻すのははるかに長い時間と労力が必要となる。まず植物プランクトンを海で増殖させ、酸素や二酸化炭素を発生させていく。地球がかつてのように温暖で生き物の住める環境に戻すには何百年かかるか分からない。いや成功するかどうかすら、怪しい。もしうまくいかなければ、人類は永遠にシェルターから出られない。シェルター内の酸素と食糧が尽きる時、やはり滅亡という運命が待っている。
「ミスタープレジデント、おっしゃる通りかもしれません。しかし、たとえ生き残れる確率が万に一つでも、我々はあらゆる限りの手を尽くすべきです。このまま座して時を過ごせば人類には確実に滅亡という道しか残りません。どのような困苦の時代が待ち受けていようと、我々はこの文明を次の世代につないでゆかなければなりません。」
フランス大統領は、あきらめるかのように大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに頭を当てて天井を仰いだ。
「首脳の皆様には、この後一刻も早くご帰国いただき、極秘のうちにシェルターに入る方々の人選を始めてください。無論マスコミには一切漏れないよう注意してください。万が一漏れでもしたら、それこそ収拾がつかなくなります。何しろ、60億もいる人類のうちシェルターに入れる可能性のある人は全世界を足し合わせても10万人に満たないかもしれません。
人選をどのように進めるかは、無論各国の主権に委ねられることになりますが、EU科学技術委員会としましては、以下の点をご考慮いただけるよう勧告いたします。
まず、シェルターに入れる人は健康で若い男女に限定してください。特に重篤な感染症や遺伝病を持った人は絶対避けてください。シェルター内で滅亡するリスクが高くなります。もう差別だ、人権だなどということは言っていられません。我々は、この苦難の時期をどうやって生き延びるかを、まず第一に考えなくてはなりません。それには若くて強靭な生命力と精神力を持った人々を選ぶしかありません。宇宙飛行士の人選をする以上に難しいものとお考えください。
それと、重要なのは、医学、工学、生物学など自然科学の知識のある人々を優先いただくということです。我々に必要なのはとにかく生き延びるために必要な知恵です。どのような立派な経歴を持った人も、どのような大金持ちの人も、この際関係ありません。これから訪れる時代には、経歴もお金も無価値のものとなるからです。
私の説明は以上です。皆様と、皆様の国民の幸運をお祈り申し上げます。」
ホルムシュタイン主査官は、静かに、そして空しさの気持ちを抱きつつ最後の辞を述べた。
各国首脳の口にも、もう言葉はなかった。事の重大さに抗し切れず秘書官に支えられながらやっとのことで立ち上がる者、無言のまま目を閉じて何分経っても微動だにしない者、怒りを抑えきれずに椅子を蹴倒して退室する者、皆それぞれの思いを胸にその場から散会した。


7.混乱

ケイトの容態は日増しに悪化していた。金髪は既にすべて抜け落ち、ケイトは代わりにスキー帽を深々と被っていた。皮膚の一部にもすでに壊死が起こり始め、黒っぽいアザが何箇所かに現れ始めていた。
「昨日は、少し吐血したわ。」
細胞の壊死は既にケイトの胃の粘膜も侵し始めていた。今はまだ痛み止めが効いているが、さらに壊死が広まれば全身にのた打ち回るような激痛が襲い始める。
「す、済まない。僕のせいでこんなことに。」
「コーヘイ、あなたのせいじゃないわ。私の運が悪かっただけ。」
「いや、僕があんな実験を提案しさえなければ、こんなことには。」
「でも、あの時はあれが最善策だったわ。おかげで、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きていることが実証された。これでノーベル賞は間違いなしよ。」
ケイトは、公平の前ではわざと明るく振舞った。しかし、その目には深い憂いと絶望の色が見て取れた。今のケイトにとっては、毎日病室を見舞ってくれる公平との短い会話だけが唯一の生きがいとなっていた。公平がいなければ、絶望に押しつぶされて自ら死を選んでしまったかもしれない。
そんな公平のもとに過酷な知らせが届いたのは、そのわずか数日後であった。
「じゃあ、どうしても戻らないつもりかね。」
Bファクトリーにある日本の研究棟では、津山主査官による面接が行われていた。
「これは、政府からの命令だ。拒否はできない。」
「それならば、辞表を提出するまでのことです。」
もう、同じやりとりが何時間も続いていた。公平には総理府から直接に核シェルター行きの発令が送られてきていた。日本原子核機構の所管は本来なら文部科学省であるが、今回は事が事だけに総理府から直々の命令として異動の通達が発せられた。
日本の核シェルターは関東の北部、那須高原の自衛隊演習所の地下にあった。核戦争が勃発した場合、東京は当然にその標的となる。どのような頑強なシェルターでも弾道ミサイルの直接攻撃を受けたらどうなるかは分からない。
そもそも平和主義を掲げる日本では、核シェルターなどというものに費やされる予算は限られていた。防衛予算のごく一部が機密費としてその維持管理に充てられていたに過ぎない。当然その収容力もアメリカやロシア、それにEU諸国に比べても格段に少ない。公平はわずか300人の候補者の1人として選ばれたのである。
「しかし、どうしてなんだ。巷じゃ、次のノーベル物理学賞の候補は君だというのがもっぱらの噂だ。ホルムシュタイン主査官からも君のことは何度も聞かされている。君は十分にシェルターに入る資格があると思うんだが。私も自信を持って推薦する。」
「それじゃ、主査が行かれればいいじゃないですか。」
「私か? それは無理だ。私は年齢制限に引っかかった。」
日本では、シェルター行きの資格者の年齢を45歳以下に制限した。何年、いや何十年シェルターの中で暮らさなければならなくなるのかも判らない。出来る限り若い人が選ばれるべきなのは自明であった。津山主査官の年齢は52歳、残念ながら非適格である。
「でも、私には、ここを離れることの出来ない理由が…。」
その時、公平の頭の中にはケイトの顔がチラついていた。彼女をここに残しては行けない。それは、即彼女の死を意味した。もう公平とケイトは離れて生きることのできない絆で結ばれていた。
「何だ、その理由というのは。もう施設の装置はすべて停止された。各国の研究員も次々に帰国し始めている。わが日本の研究団も来週には退去する。残っていても何もすることはないはずだが。」
「いえ、私にはブラックホールの最後を見届ける義務があります。物理学者として、この先あの怪物がどうなるのかどうしても見てみたいんです。」
「それは危険すぎる。仮にやつがDファクトリーのシールド壁を破れば、一貫の終わりだぞ。」
「そうなったら、もう地球上のどこにいても同じです。遅かれ早かれ、です。」
津山主査官は大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに仰け反った。

ところが、その翌日、事態は急変した。出所はまたしてもあの大国、しかもその元首たる大統領自らが大演説をぶち上げてしまったのである。
「我々はいま人類存亡の危機に直面しています。CERNにおける粒子衝突実験の最中に発生したブラックホールが成長し、いまこの地球を飲み込もうとしています。我々は私欲を捨て、この国のため、そして全人類のために、自己犠牲の精神を発揮する必要に迫られています。皆さん落ち着いて行動してください。恐れてはなりません。恐怖は混乱を引き起こします。神は必ずあなた方の貴い行動に報いを与えられでしょう。今こそ全国民が一丸となって、国のために自らの果たすべき使命を全うしてください。合衆国は永遠です。」
ホワイトハウスから大統領の緊急声明が発表された。自国の強引な実験がブラックホールを生成させたことには一言も触れられず、これから起こると予想される大惨事についてのみ説明がなされた。
アメリカでは同時に全土に戒厳令が発せられ、全ての市民の外出は禁止された。治安を維持するため予備役を含めた全国防軍に出動命令が出され、文字通りの全ての街の角々に自動小銃を構えた兵士が立ち並んだ。
しかし、全てを極秘裏のうちに粛々と運ぼうとしていたヨーロッパ各国にとっては、このアメリカによる電撃的発表はまったく寝耳に水の話であった。急遽非常事態宣言を出し軍隊を展開させたが、ヨーロッパの主要都市ではすでに略奪や暴動が広がっていた。
何ヶ月か後に全人類に確実に死が訪れると分かった時、人間の理性は脆くも崩れ去った。法律はもはや無用のものとなる。犯罪は罰せられることもなく、契約は全て無効となり、通貨も無価値となる。たちまちの内に無秩序と混乱が街を覆い、法治国家はもろくも崩れ去った。
「な、何という愚かなことを。」
ホルムシュタイン主査官は、ヨーロッパ全土に広まりつつある混乱を目の当たりにして、ほぞを噛んだ。EU諸国には極秘裏にことを運ぶよう要請した。しかし、海の向こうにまでは手が回らなかった。いや仮に手を回していても結果は同じであったかもしれない。アメリカは隠すより明らかにする道を選んだ、ただそれだけのことである。
主査官が腹立たしく思ったのは、むしろ人間の愚かさと醜さの方であった。敬虔なクリスチャンを装い、毎週日曜日には教会で恭しく礼拝をしていた者たちが、ここぞとばかり殺戮と略奪を繰り返し始めたのである。神の前に跪いて祈りを捧げるあの姿は全部偽りだったのか。
インターネットでは、既に民間が運営する核シェルターへの入居権が破格の値段で売買され始めていた。事の真偽は不明であったが、販売している業者によれば、地下50メートルのシェルターには3LDKの広さで30年間暮らせるだけの設備と食糧が用意されており、既に世界の富豪約千人から登録の申請があったという。6万分の1の確率、それに高度な自然科学の知識、そんな栄誉ある選考試験にパスできる人はほんの一握りの一握りしかいない。愚かな金持ちどもは、価値の無くなった札束を握り締めて右往左往した。
ヨーロッパ各国の空港は閉鎖され、道路という道路には少しでもCERNから遠くへ逃げようとする市民たちの長い車の列が何十キロと続いた。人々は、一縷の望みを抱いて、ありったけの食糧を積んで地獄への逃避行の旅に出た。しかし、それももうすぐ終わる。

「コーヘイ、いよいよお別れね。」
ケイトはやつれた顔に憂いの表情を浮かべた。ケイトの病状はさらに悪化し、もう食事も喉を通らない状態になっていた。
「お別れって、どういうことだ。」
「明日、日本の研究チームも退去するって聞いたわ。」
「僕は、残る。日本には帰らない。」
公平は、窓の外に視線を移しながらそっと呟いた。
「帰らないって、どういうこと。あなた、核シェルター入りのメンバーに選ばれたのでしょう?」
ケイトは咳き込みながら、苦しい息の中で声を振り絞った。
「そんなことはどうだっていい。それより君とここにいたい。」
「私のことだったら気にしないで。どの道もう長くないだろうし。」
ケイトは既に自身の状態を理解していた。重度の放射能被曝患者の末路がどういうものか、物理学者の端くれならば大体の想像はついている。
「だからこそ、一緒にいたいんだ。」
「ダメよ。私の分まで生きて。生きて、それでノーベル賞をもらって、私の分も。」
「いや、もう終わった。全ては終わったんだよ。」
「終わった? 終わったって、どういうこと。」
公平は、その先のことを告げるのに少し躊躇した。そして、ゆっくりとケイトの前に一枚の紙を差し出した。万華鏡のようなカラフルな色に塗られたその紙はカロリーメーターの解析図であった。
「この解析図の右上を見てごらん。」
ケイトは言われるがままに視線を移すと、食い入るようにその箇所を何度も凝視した。
「こ、これは。ひょっとして…」
「そう、重力波だ。重力波らしい痕跡を検知した。」
公平の口から、またしても驚愕の事実が告げられた。アインシュタインは重力が波のように空間を伝わっていくと予言した。もし、公平の言うことが事実なら、またまたノーベル賞級の発見になる。
光も波の一種である。光線は一本の線のように見えるが、実際には波として伝わっている。波長の長さに違いがあるから光に色が生まれる。長い波長は赤、短い波長は青。さらに人の目に見えない紫外線やX線も波長の短い光の一種である。
重力も同じように、波となって空間を伝わるとされてきた。しかし、これまで重力波は発見されていなかった。空間の振動ともいえる重力波はあまりに弱く、今の人類が持つ科学技術では検知できないとされてきた。一体、公平はそれをどうやって検知したのか、いや正確には検知できたのか。
「干渉縞?」
さすがに一流の物理学者、ケイトは瞬時に重力波が作り出す微かな縞模様の意味を解析した。
「そう、干渉縞だ。重力波は2つの方向からやって来ていた。それがぶつかりあって空間の揺らぎが増幅され、干渉縞ができた。だからエネルギー痕が検知できたんだ。通常の状態だったらまず見落としていただろう。運がよかったとしか言いようがない。」
干渉縞。光を2つのスリットがあいた板を通すと、その向こう側にあるスクリーンには、ちょうど2つの波がぶつかった時にできるような縞模様ができる。それは光が波のように伝わっている重要な証拠となる。重力波に干渉模様が出たということは、重力波が2つの方向からやって来たことを意味していた。一つは、我々の住むこの地球自身から、そしてもう一つはブラックホールの向こうにある別の世界から。
エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙は、我々の世界からは直接には観測できない。その存在は我々の世界で起こる現象から間接的に確認することでしか知ることはできない。その一つが重力波の検出であるとされてきた。重力だけは、次元を超えて伝わると予想されていたからである。そして、その予想どおり、エクストラ・ディメンジョンからの重力の漏出を検知した。公平は、その微かな空間の揺らぎのエネルギーを捉えたのである。あのシルトゼーで水鳥が起こした波模様、それを捉えたのである。
しかし、公平の顔色はなぜか冴えなかった。そして、次に公平の口から出た言葉こそ、わが地球の、いやわが太陽系の、いやわが銀河系の運命をも決定付けるものとなった。
「この重力波に対する僕の計算が間違いでなければ、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさは我々の銀河系をも凌ぐ大きさである可能性が極めて高い。」
ケイトの口はポカンと開いたまま閉じることはなかった。野球ボールほどの大きさでも地球を壊滅させるのに十分と思われていたものが、一銀河よりさらに大きい可能性があるという。向こうの世界の大きさが銀河ほどもあるということは、我々の銀河系の全てがブラックホールに飲み込まれるまで対消滅の連鎖は止まらないということを意味した。
公平が「終わった」と言ったのは、そういう意味だったのである。
「もう、どこへ逃げても同じだ。すべては、あの穴に吸い込まれる。」
「そ、それって、人類が滅亡するっていうことじゃない。で、もう委員会には報告したの。」
「いや。報告はしていない。報告しても無駄だ。誰も信じないだろう。いや信じたくもないだろう。」
公平は、大きな嘆息を漏らした。
「それで、あと地球に残された時間は?」
「さあ、それは僕にも分からない。しかし、これだけは確かだ。君に残された時間よりは間違いなく短い。」
その時、CERN全館にけたたましい警報音が鳴り響いた。
「Dファクトリーのエネルギーレベル上昇。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。」

8時間後、CERNヘリポート。
「ムッシュ・コーヘイ、何をしている。早く乗れ。もうすぐシールドが破れるぞ。」
爆音が響く中、ミシェル主任研究員の怒鳴る声が響く。この瞬間、ヘリポートから最後のヘリが飛び立とうとしていた。既に大半の研究員たちは退避し、周辺の街にも人影は全くなかった。
公平は、無言で首を横に振った。
「バカな考えは捨てろ。」
ミシェル主任研究員の怒声が続く。公平は最終ヘリを見送る側の一団の中にいた。ホルムシュタイン主査官とそれに付き従う数名の研究者たちもその中にいた。
「ミスター・コーヘイ。本当にこれでいいのかね。」
ホルムシュタイン主査官は静かに尋ねた。主査官も年齢制限に引っかかった1人である。60過ぎの主査官は核シェルター入りのメンバーから外れた。ノーベル物理学賞10個をもらってもまだ足りないほどの偉大な科学者も、人類の生き残りという大義の前では選外とならざるを得なかった。主査官は、CERNの最高責任者として、その最期を見届けるという非情な決断を自らに下した。これは、ある意味、物理学者としても最高の栄誉であったのかもしれない。
一方、ミシェル主任研究員は既にフランス国の核シェルター入りメンバーに選ばれていた。年齢の差がこれほどまでに非情な差別を生み出すとは。わずか20年ほどの差が人の運命を大きく左右した。公平が日本の核シェルター入りの切符を手にしたことをミシェル主任研究員は津山主査官から聞かされ、最後の説得工作を続けてきた。しかし、公平の心が揺らぐはずもない。公平は静かにヘリポートに背を向けた。
待ち切れなくなった最終ヘリは、爆音を上げながら宙高く舞い上がった。そこに乗った人々は、ミシェル主任研究員も含め、無論公平の最終計算結果を知る由もない。


8.最後の旅

ヘリの音が遠ざかってゆくのを確認した公平は、ホルムシュタイン主査官に軽く頭を下げた。
「主査官、一つお願いがあります。研究所の作業車を1台お貸しください。それと3日分の酸素と食糧も。」
「作業車? それは構わんが。どの道、もうすぐあいつの口に何もかもが吸い込まれるだけだからな。で、一体どうするつもりなのかね。」
主査官は、公平の依頼に怪訝そうに尋ね返した。
「ケイトです。彼女に一目生まれ故郷のドーバーを見せてやりたいんです。」
ケイトはイギリス南東の港町ドーバーの出身であった。もう二度とその地を踏むこともない。せめて最後にドーバー海峡を挟んでドーバーの港の様子を見せてやりたい。今の公平にとって、ケイトにしてやれることはそれくらいしかなかった。
「そうか。いくらでも持って行きたまえ。君たちのハネームーンに相応しい旅だ。」
主査官はニヤリと笑った。公平とケイトが2日前、CERNにある小さなチャペルで永遠の愛を誓ったことを主査官は既に聞き知っていた。
「あ、ありがとうございます。」
駆け出していく公平の後姿に向って、主査官は叫んだ。
「ミスター・コーヘイ。急げ、あまり時間がないぞ。」
Dファクトリー内のエネルギーレベルは既に警戒レベル7にまで達しており、いつシールド壁が破れてもおかしくない状態であった。CERN全館に鳴り響く警報音も次第に大きく、そして性急になっていった。
公平は、作業車の中に急ごしらえしたベッドにケイトを抱きかかえるようにして運ぶ。そして、積み込めるだけの食糧と水、医薬品、それに酸素ボンベを作業車の中に押し込んだ。
「では、主査官、お別れです。」
公平は、作業車の運転席に着くと、窓越しにホルムシュタイン主査官に向って一礼した。
「幸運を祈る。君たちに神のご加護があらんことを。」
主査官は胸の前で十字を切った。
作業車は静かに滑り出した。作業車の最高速度は時速30キロ。速度は遅いが、その代わり装甲車を思わせるような車体は500度の熱に耐えうるように設計されており、強力な放射線をも遮断する能力を備えていた。そして、公平たちはこのノロノロの作業車を選択したことが正解だったことを、間もなく知ることになる。作業車がCERNの敷地ゲートを抜け出た後も、ホルムシュタイン主査官はいつまでもその後姿を見送っていた。
CERNを抜け出て約5時間後、大きなアルプスの峠を一つ越えた辺りで、公平とケイトは巨大なX線ジェットがアルプスの山並みをはるかに越えて天空に突き刺さるのを見た。今までシールド壁の中に押し込められていた鬱憤を晴らすかのように、巨大なストリームは周囲の大気との摩擦で竜巻をもはるかに凌ぐ上昇気流を巻き起こし、無数の稲光を引き起こした。その先端は、成層圏をはるかに超え、彗星の尾のように長く宇宙空間にまで伸びた。
続いて、大きな地響きと共に地面が大きく揺れた。X線ジェットのもう一方の片割れが、CERNの地下深く地殻を破りマントル層にまで達したのである。
巨大化したブラックホールは、ついにその全容を現した。最初は10のマイナス30乗メートルしかなかった大きさも今では直径10メートル程に達し、その周囲に広がる膠着円盤の大きさも半径数キロに及んだ。公平の予想通り、ブラックホールはまず地球大気を飲み込み始めた。風速30メートル、ハリケーン並みの強烈な風がアルプスに向って渦を巻きながら吸い寄せられていく。公平は、その風に抗すかのように作業車のアクセルを力一杯踏み込んだ。

CERNを出て12時間余り、公平たちを乗せた作業車はようやく山を下り、広い平原に出た。その平原を貫くように一本の高速道路が地平線の彼方まで延びている。高速道路はすでに避難を始めた人々の車で溢れかえり、見通せる限り赤いテールランプが点灯したままになっていた。車列はほとんど動いているようには見えない。並行して走る一般道も夥しい数の車が連なっている。
「これは、無理そうだな。」
公平は、半ば諦めるように作業車を停車させた。後ろを振り返ると、アルプスの方角は天を突くような真っ黒な雲に覆われ、その雲の奥の方では時折怪しげな稲光が繰り返し明滅した。アルプスに向けて吹く風はさらに強くなり、折れた木々の枝々や看板、屋根瓦の類を軽々と天空へ巻き上げる。
「コーヘイ、ありがとう。もういいわ。もうここで十分。」
ケイトは弱々しい声で運転席にいる公平に語りかけた。公平は、運転席を離れ、ケイトの脇に身を寄せた。ケイトの体はさらに醜くなっていた。細胞の壊死が進み、口や鼻、目の粘膜を溶かし、いたるところからジクジクと血とも膿とも判らない液体が滲み出している。時々苦しそうに咳き込むケイトの顔は苦痛に歪んだ。恐らく内臓の方も同じように溶解が進み、激烈な痛みが襲っているはずである。
公平は、痛み止めのモルヒネのアンプルを取り出すと、そっとケイトの腕に刺し込んだ。少し落ち着きを取り戻したケイトは、苦しい息の中で呟いた。
「CERNの研究所はどうなったかしら。」
「恐らくもうブッラクホールの中だ。携帯電話もまったく通じなくなった。」
「そう。」
ケイトは、そっと目を閉じた。
その時、ゴーという音とともに車体が激しく揺れた。これまで経験したことのないような突風が襲ってきた。平原で草を食んでいた牛や馬が軽々と巻き上げられ、高速道路に並んでいた車も1台また1台と剥ぎ取られるように宙に舞ってゆく。公平は再び作業車のエンジンをかけた。重さ8トンもある作業車はまだ飛ばされる心配はなかったが、グズグズしているとあの牛馬や車と同じ運命が待っている。公平は、車が剥ぎ取られた隙間を縫うように、広いフランスの平原を一路北へと作業車を進めた。目指すはドーバーの対岸にあるカレーの街である。
しかし、地獄の惨劇は、さらにその激烈さを増してゆく。それまで、空を覆っていた雲が切れ、一条の陽光が差し込んできた。ただ、雲間から見えた空はあの美しい青空ではなく、青暗く冷たい色をしていた。太陽の光は目を開けていられないほど眩しいのに、なぜか星が瞬いているのが見える。大気圏のはるか上、オゾン層や電離層までも破壊された天空は既に太陽光を遮るバリヤーの力を失い、地表は宇宙空間に剥き出しになっていた。
ついに予言されていたフェーズ3の恐怖が始まった。太陽光と宇宙線の直射を受けた人々の皮膚はたちまち焼け爛れ、目は瞬時に失明した。宇宙服もなしに宇宙空間に放り出されるようなものである。人々は、何が起きたのかも分からないまま、車を出て高速道路の上で悶絶した。太陽の光が直射した場所ではあちらこちらから発火して、炎と煙が上がり始めた。炎は激烈な風に煽られて、時速数十キロの速さで全てを焼き尽くしてゆく。ガソリンを積んだ車はあっという間に炎に包まれた。
そんな中、公平たちの乗った作業車だけはかろうじて前進していた。熱さ500度の高温にも耐え、強力な紫外線や放射縁を遮蔽するように造られた作業車はこの地獄の中でもまだ耐えていた。

CERNを出て丸々一昼夜が過ぎた頃。
「やった。ついに見えた。海だ。海が見えた。ケイト、海だ。海だよ。」
2人の乗った作業車はついにドーバー海峡の辺にたどり着いた。しかし、2人を待ち受けていたのは破壊の限りを尽くされたカレーの街並みであった。美しい木々はほとんどなぎ倒され、道路には飛ばされてきたありとあらゆるゴミとガラクタの山がうず高く積みあがっていた。それらに混じって無数の遺体が散乱している。2人は、壊れたマネキン人形のように無造作に転がる遺体を見てももう何も感じなくなっていた。いや、そんな余裕すらない地獄の惨状であった。
「キャー。」
突然、ケイトの悲鳴が上がった。吹きつけた突風に煽られたガラクタに混じって、作業車の小窓に醜く焼け爛れた死人の顔がベタリと貼りついた。酸素がなくなり苦しんだのか、首筋には何度も掻きむしったような傷痕が残っていた。大慌てで公平が作業車を発進させると、遺体は軽々と宙に舞って2人の視界の彼方へと消えていった。
公平は、道を塞ぐガラクタを右に左に避けながら、海辺の道路を一路北へと作業車を進める。そして、2人はついに目的の地にたどり着いた。カレーの街の外れ、ドーバー海峡を見渡せる海の突端に作業車は停車した。海は10メートルを超す大波で荒れ狂い、風速も50メートルを超えている。重さ8トンもある作業車も吹きつける海風で激しく揺れた。
「ケイト、見えるかい。あれがドーバーの港だ。」
公平は、ケイトの体を抱き起こしながら、作業車の窓の外を指差した。
「あ、あれが、ドーバー?」
「ああ、そうだ。君の生まれた故郷だよ。」
ドーバーの港は、荒れ狂う波間から微かに見えるだけであった。いつもであれば、何十隻もの船が行き交う海峡も今では死の海となっていた。ドーバーの近く、セブンシスターズの白亜の絶壁も次々と海の中へと崩落してゆく。
「あ、あれが、ドーバー?」
ケイトは再び同じ言葉を繰り返した。その目には血の涙が溢れ、顔は苦痛で歪んでいた。そして、ケイトはそのまま激しく咳き込み大量の血を吐き上げた。これまでにない大量の吐血で、作業車の中は血で真っ赤に染まった。慌ててモルヒネのアンプルを用意する公平。
「待って、止めて。」
ケイトは苦しい息の中で、腕に注射針を差し込もうとする公平を制した。
「どうして、これを打てば少しは楽になるはずだ。」
「そうかもしれない。でも、もしそれを打てば、二度とコーヘイの顔を見ることができなくなるような気がする。」
ケイトは自らに忍び寄る死の影を察していた。ここでモルヒネを打てば確かに楽になるかもしれない。しかし、そのまま目覚めることもないまま公平と永遠の別れをすることになるかもしれない。ケイトはそれを恐れていた。そして、自ら苦痛に耐える道を選んだ。
「ああ、神様。神様はどうしてこんな過酷な試練を人間にお与えになるのかしら。私たちが何をしたっていうの。」
ケイトは、そっと胸の前に架けられたクロスのペンダントに手を当てた。その時、公平の口から思いもよらなかった言葉が飛び出した。
「ケイト、君は、今でも神を信じているのか。こんなひどい目に遭わされた今でも。」
「もちろんよ。神を信じ、そして祈れば、必ず奇跡は起きるわ。」
ケイトは、当たり前と言わんばかりに、公平の唐突な問いかけに即座に反応した。キリスト教徒にとって、神は絶対であり、信仰の対象であった。公平は、その神に挑んだのである。
「そうだろうか。君は本当にそう思っているかい。自分の気持ちに偽りはないか。自分ではどうにもできないことを神様のせいにしていない。」
ケイトは、神を否定されたことで少しムッとするかのように、公平を睨み返した
「じゃあ、コーヘイはどうなの。日本人だって仏教を信じてるじゃない。それともコーヘイは、仏様を信じていないの。」
「僕はキリスト教徒じゃないから、聖書のことはよく分からない。でも、物理学者として、そう科学者の1人として、天地創造だとか最期の審判とかいう話にはどうしても着いてゆけないんだ。君も本音のところはそうなんじゃないのか。」
『物理学者として』と言われて、さすがにディベート好きのケイトも押し黙った。そう、物理学者にとっては、神も奇跡もない。あるのは、自然の法則であり、物理の理論だけである。そして、次の瞬間、ケイトは世にも不思議な公平の最終理論を耳にすることになった。
「僕は、仏教は宗教ではなく物理学だと思っている。」
「エッ? 仏教が物理学ですって。それって、一体…」
「少し難しい話になるが、仏教の基本的な精神は受動だ。すなわちありのままをそのまま認め、そして受け容れる。仏教徒が手を合わせ祈ることの本当の意味は願い事をするためではない。そうすることによって、この宇宙と自らの精神を一体化するためだ。仏教の始祖、お釈迦様は、それを『悟りを開く』と表現された。まさにその通りだ。君も物理学者の1人なら、この世界の物理の法則が人の力で変えられるとは思わないだろ。神様だって物理の法則は変えられない。そう、我々人間はまさにありのままを受け容れるしかないのさ。」
「そ、それは、そうだけど…」
ケイトは、公平の理屈を認めつつも、まだ半ば納得できないという口ぶりで呟いた。全知全能の神をもってしてもできないことがあると言われれば、キリスト教徒でなくとも反論したくなる。しかし、公平はケイトにその余裕を与えなかった。
「もっと身近な例を話そう。例えば、ケイト、君は今僕の顔を見ている。君は、自分の意思で僕を見ていると思っているだろう。でも実際は違う。人が物を見るというのは基本的には物理現象の結果なんだ。まず、僕の顔に当たった光が君の目の奥にある網膜で像を結ぶ。それが電気信号に変えられて視神経を通じて脳に伝えられ、君の脳ではその電気刺激を情報に変えて、その映像が僕であることを認識する。ただそれだけのことだ。
外から観察すればこの一連の動作の全ては物理現象として確認される。でも、君は客観的にこの物理現象を観察できるわけではない。だから自分自身が物を見ていると思っている。仏教の基本の教えは、人間の五感すべては空だと教えている。すなわち、人は自らの意思で物を見たり、聞いたり、触ったりしていると思っている。でも、実際はその全ては物理現象の結果なんだ。
客観的に捉えることができないがゆえに、そこから人間の煩悩(アゴニー)が生まれる。怒り、恐怖、苦しみ、痛み、数え上げれば切りがない。でも、心を無にしてしまえば、全ての煩悩は消え去る。悟りを開くとはそういうことだ。」
「そりゃあ、そうだけど。でも、心を無にするってどういうこと。意味がよく分からないわ。」
ケイトは、好奇心の塊となって公平の話に耳を傾けた。その目は、先ほどの空ろな目から、輝く物理学者の目に変わっていた。
「ケイト、君は、今この瞬間、痛みのことを忘れていないかい。」
「あっ。」
ケイトは、思わず手を口に当てた。その瞬間、ケイトは『悟り』の意味を知った。公平の難解な話を理解しようと神経を集中させている間に、痛みはどこか違う場所に置き去りにされていた。五感の一つ、痛覚のスイッチが切れていたのである。ケイトが心を無にすることを体験した瞬間である。
そして公平から『痛み』と言われた瞬間、ケイトは全身に激烈な痛みが戻ってくるのを覚えた。ケイトは、その痛みに顔を歪めながらも、大笑いしていた。
「どうだい、分かったかい。心を無にするというのは、そういうことだ。」
「分かったわ。公平の言いたいことが。そして、痛みもまた物理現象の結果だっていうこともね。」
公平は、ケイトが理解したとみて、さらに話を次の段階へと進めた。
「さて、ここからが本題だ。人間の五感がすべて物理現象の結果だとしたら、人間が『生きる』ということ自体も物理現象の結果ということになる。もし、僕が今から1分後に死んだとしよう。1分前の僕と1分後の僕と物理学的にみてどこが違うと思う。」
ケイトは、またしても難解な禅問答を仕掛けられて、再び痛みのことを忘れていった。『生と死』、生物学的あるいは医学的にみれば、それは天と地ほどの差がある。でも、物理学的にその違いを述べよと言われても答えに窮してしまう。
「物理学的には1分前の僕も1分後の僕もほとんど違いはない。僕の体を構成する水素原子や酸素原子、炭素原子は同じように存在している。」
ケイトは静かに頷いた。
「でも一つだけ大きな違いがある。エネルギーだ。生あるものにはエネルギーが宿っている。それが無くなると死が訪れる。死とは人がエネルギーを失うことなんだ。仏教では、このエネルギーのことを魂と呼んでいる。でも、その魂は永遠だとされている。」
「分かったわ。熱力学の第一法則(エネルギー保存の法則)ね。」
ケイトは、得意気に笑って見せた。そこには、先ほど見せた陰鬱な表情は微塵も残ってはいなかった。
「さすが一流の物理学者だ。理解が早い。」
公平は、ケイトの笑顔を見て、うれしそうに微笑んだ。
「エネルギーは形を変えるが永遠に保存される。魂も同じだ。仏教では、人の体からに抜け出した魂は、長く暗いトンネルを抜け出た後、三途の川という川を渡って極楽浄土に行くと説いている。
まさにその通り。エネルギーだけはブラックホールの中に落ち込んでも消滅しない。どのような強い重力で押しつぶされようともエネルギーだけはブラックホールを潜り抜け、エクストラ・ディメンジョンの中へと旅をする。仏教では、極楽浄土に行くために魂は10万億土を旅するとしている。」
「10万億土?」
「そう。天文学的に言えば10億光年っていうところかな。いつまでも、どこまでも、魂は極楽浄土を目指して旅を続ける。ブラックホールもエクストラ・ディメンジョンも乗り越えて、何物にも邪魔されずに。そして、いつか、どこかでエネルギーはまた別のものに姿を変えて蘇る。」
ケイトの円らな瞳は、いつしか溢れ出る涙で美しくキラキラと輝いた。
「素敵なお話ね。でも、魂に意識はあるのかしら。そして、こうしてあなたの顔を見ることもできるのかしら。」
「さあ、それはどうかな。多分そういう感覚じゃあないと思うよ。ほら、さっきも言っただろう。君が僕の顔を見ているのは、君の脳の働きによる物理現象だと。人が死んで魂になれば、もちろん目も神経も脳もなくなる。そういう意味では意識はないだろう。でも、そんなことはどうだっていいじゃないか。2人の魂は絶対に離れず永遠に飛び続ける。」
「ありがとう、コーヘイ。あなたを信じるわ。2人でどこまでも行きましょう。絶対に離れないでね。」
「ああ、約束する。どこまでも一緒だ。永遠に…」
公平は、ケイトをしっかりと抱きしめた。
その2人に向って、はるか彼方から海水面がどんどんせり上がってくるのが見えた。ドーバー海峡の彼方、北海とバルト海から吸い寄せられた海水が怒涛の壁となって押し寄せてくる。高さ50メートルを超す大津波は作業車を一気に呑み込むと、あっという間にアルプスの方角へと運び去った。


エピローグ

その3週間後。
「ヒューストン、バイコヌール、タネガシマ…、誰かいませんか。誰かいませんか。応答願います。」
国際宇宙ステーションから、通信官の空しい呼びかけが続く。
ブラックホールはさらに成長し、X線ジェットは月をはるかに超えて長く伸びていた。ステーションからは、地中海とバルト海から海の水が、渦を巻いてブラックホールの巨大な胃袋の中に吸い込まれていくのが見える。アルプスの山々の大半は既に原形を留めないほどに歪み、崩れ、原子の大きさまで打ち砕かれ、侵食されていく。
地下ではマグマがブラックホールに吸い込まれ、地殻は到るところで陥没し始めていた。厚さがわずか数キロの地殻は地球全体からみれば、リンゴの薄皮のようなものである。赤い、ドロドロしたマントルの上に浮いているだけに過ぎない。そのマントルが地下の方からブラックホールに吸い取られてゆけば、地殻は萎んでゆくだけである。
もう地上には、核シェルターも含め、誰も残っているとは思えなかった。
「キャプテン、姿勢制御装置が働きません。ステーションの高度が下がり始めています。」
ブラックホールの強大な重力が地球の重力にも影響を及ぼし始めた。
「やむをえない。フェーズ4を実行する。」
フェーズ4、滅び行く人類に残された唯一にして最期の手段。このような事態を想定して、各国より集められた衛星が、今永遠の旅につく準備が始められた。
直径2センチほどのカプセルの中には数対の卵子と精子、それにヒトのゲノム配列とこれまでに解読されたありとあらゆる生物のゲノム情報が搭載されていた。その極微のカプセルを運ぶために直径1メートル程の推進エンジンが付けられた。エンジンの動力源は約1トンの超高純度プルトニウム。高性能の核弾頭を急遽解体して燃料とされた。この先何万年、いや何百万年かかるかわからない宇宙空間の旅、1トンのプルトニウムで果たして直径2センチのカプセルは何光年先まで飛び続けることが出来るのであろうか。このようなカプセルがわずか2ヶ月ほどの間に約100個用意された。もう、国籍云々などと言ってはいられない。アメリカ、ロシア、EU、日本、中国、インド、衛星を打ち上げる能力のある全ての国が、まさに宇宙空間を漂うノアの箱舟造りに尽力した。
いつの日か、遠い未来に、この広大な宇宙空間のどこかで、運良く高度な知的生命体にカプセルのいずれかが拾われて、人類が再生される可能性だけを信じて。それは、宝くじに当たるよりはるかに低い確率かも入れない。万分の1、いやたとえ億分の1でも可能性があるのなら、それに賭けるしかない。今の人類の科学技術でかろうじてできるラストリゾートであった。
「急げ、ブラックホールの重力圏に捉われる前に衛星を発射する。」
国際宇宙ステーションの全乗組員が慌しく衛星の発射準備を進める。その間にも宇宙ステーションは大きく傾き軌道を外れ始めた。
「発射準備完了。」
「よーし、衛星格納庫を離脱させる。」
「10、9、8…」
カウントダウンが続く間にも、ステーションはどんどん地球に向って落下を始めてゆく。「ゼロ」という声と共に、格納庫がゆっくりとステーションから離脱した。
「ロケットエンジン噴射。」
離脱した格納庫は、その底部からオレンジ色の炎を噴出しながらあっという間にステーションから遠ざかってゆく。格納庫がステーションから十分な距離に離脱した後、格納庫の扉が開き衛星が発射される。しかし、その間にもステーションの傾きはどんどんと大きくなってゆく。
「ダメです。大気圏に突入します。」
「あともう少しだ。」
キャプテンの悲壮な声がステーション内に響く。ステーションの側面がわずかに残された大気との摩擦で赤々と輝き始めた時、人類最期の指令が発せられた。
「衛星発射。」
ステーションから既に数千キロも離れた宇宙空間で、格納庫の扉が開き、100個の衛星は文字通り花火の如く全天に向けて散り散りになった。各衛星に積まれたコンピューターにはあらかじめ計算された100通りの飛行コースがセットされており、太陽系を離れるまでは自動航行を続ける仕組みになっている。その後は、文字通り運を天に任せ、各衛星は、暗く何もない宇宙空間をひたすら飛び続ける。
「よーし、成功だ。」
モニター画面に散り散りになってゆく衛星の軌跡が映し出された時、国際宇宙ステーションは炎に包まれた。
そして、その1ヵ月後、2012年12月XX日、太陽系第三惑星はその全てが跡形もなく闇の中へと消えていった。その後、打ち上げられた衛星のいずれかが知性ある生命体に巡り合い、人類が再生されたかどうかは、無論誰も知る由もない。


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