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作品名:エクストラ・ディメンジョン(余剰次元) 作者:ツジセイゴウ

第1回   前編

不思議だ、あまりに不思議すぎる。あなたは、なぜ自分という人間がこの瞬間、この場所に存在するのか考えたことがあるだろうか。夜空を見上げれば、無限に続く星々がまたたいている。こんな広大な宇宙がなぜ存在するのだろう。そして、これから先、人間は、地球は、そして宇宙はどうなっていくのだろう。その答えを出すのは、哲学でも、宗教でもない。最先端の素粒子物理学があなたをこの不思議の世界へと誘ってくれる。
まず、身近なところから始めよう。今、何もないと思っているあなたの眼前にも空気がある。そしてその空気の中には酸素分子や水素分子の粒々が無数に浮かんでいる。あなたは、そのことを息をすることで実感している。もし、酸素分子がなかったら、あなたはたちどころに呼吸困難に陥って死んでしまうであろう。でも、あなたの目には何も見えてはいない。それは、ただ単にあなたの目の解像度がそこまで精巧に出来ていないからに過ぎない。
同じように、この世には解像度が低いために知られていない世界がまだまだ存在する。酸素分子の粒々はさらに陽子や中性子という小さい粒子に分解できる。その陽子や中性子ですら、さらに細かいクォークやレプトンに分解される。10のマイナス33乗メートル、想像を絶する小ささだ。世界最高性能の電子顕微鏡をもってしても絶対に見ることの出来ない極微の世界。それが、今CERN(欧州合同原子核研究機構)にあるLHC(大型ハドロン粒子加速器)による実験で明らかにされようとしている。果たして、その結末は…。

この小説を読んで理解するためには高度な素粒子物理学の知識を必要とします。本文に入る前に、必要最低限の知識を分かりやすく解説します。本文中でも適宜簡単な説明は加えながら進めますが、読み始める前に是非、目を通してください。
(用語解説)
@ 相対性理論…20世紀初め、アインシュタインにより確立された理論。あまりに有名なのは物体が光速に近い速度で移動する際、その時間の進み具合が遅くなるというのがある。この他にも、大きな重力をもつ天体(物体)の近くでは空間が歪められ、やはり時間の進み具合が遅くなるということも、現実に実証されている。
A ブラックホール…物質が極度に凝縮した結果、重力が極端に大きくなり近づく物体は光さえも飲み込んでしまうとされる謎の天体。銀河の中心等に存在するとされているが、直接観測できないため、その周囲で起きている現象から間接的にその存在が仮定されているに過ぎない。この小説の主要テーマとなる。
B 事象の地平面…ブラックホールの周囲にある一線。この線を超えるともはや何物も戻って来られないとされるギリギリのライン。事象の地平面の向こう側で何が起きているのかは無論観測されていない。
C 膠着円盤…ブラックホールの重力に捉われた物質がブラックホールの周囲に渦を巻きながら膠着した状態。バスタブの栓を抜いた時に渦を巻きながら水が穴の中に吸い込まれていく様子を想像すればいい。
D 真空のエネルギー…全く何もないはずの真空の中でも常に極微のエネルギーが存在し、そのために空間自体が波打つ水面のように絶えず揺れ動き、またこの宇宙自体をも膨張させていると言われている。別名ダークエネルギー(目に見えないエネルギー)とも言う。
E 対生成・対消滅…真空のエネルギーにより、全く何もないと見られる真空中でも粒子(物質)とそれに対を成す反粒子(反物質)が絶えず生まれては消えているとされる現象。0=1+(−1)ということ、つまり「無」から「有」が生まれるためには、+1と同時に−1が生まれなければならないという理屈。
F 対称性の破れ…必ず対をなして生成・消滅するはずの粒子と反粒子(対称性)だが、対称性が微妙に破れていたため反粒子だけが消滅し、粒子だけが残ったとする理論。我々が住むこの宇宙が存在するに至った根拠とされている。日本の物理学者、南部、益川、小林博士らが、この理論によりノーベル物理学賞を受賞したのは記憶に新しい。しかし、この小説では敢えて対称性は破れていなかったという仮説を前提として物語を展開する。
G ヒッグズ粒子…物質に質量を与えるとされる未確認の粒子。物理学では質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。物質が動かしにくいのは、動くのを邪魔する何かが空間中に満ちているからとされる。その何かがヒッグズ粒子(あるいはヒッグス場ともいう)と仮定されている。
H 階層性問題…この世に存在する4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、重力のうち、重力だけが他の3つの力に比べて何十桁も弱いという不思議。素粒子物理学最大の難問とされる
I ひも理論…この世に存在する全ての素粒子は、粒ではなく極微のひもで出来ており、そのひもが振動するパターンにより素粒子の性質や種類が決まるとする理論。現在素粒子物理学の最先端かつ最も有力な理論であるが、未だ確立されていない。
J 余剰次元…エクストラ・ディメンジョン、この小説のタイトル。ひも理論でもその存在が仮定されている目に見えない次元のこと。我々の住むこの世界は、縦・横・高さの3次元に時間を加えた4次元時空とされているが、ひも理論ではこれ以外に目に見えない時限が6次元あるとされている。
K ブレーン(膜)理論…ひも理論をさらに進めた理論。我々の宇宙は高次元時空の中に浮かぶ膜のようなもので、我々の目に見えない別の宇宙(並行宇宙)が存在するとする理論。未だ仮説の域を出ていない。この小説は反粒子ばかりで出来た並行宇宙が存在するという前提で物語が進む。
L LHC…大型ハドロン粒子加速器。陽子を光速の99.99%まで加速して衝突させることで、新しい素粒子の生成や発見、人工ブラックホールの生成、余剰次元の有無の確認などが出来ると期待されている装置。現在、スイスのCERNにあるものが世界最大。


1.ひらめき
2012年X月、スイスジュネーブ近郊CERN(欧州合同原子核研究機構)。
「グレイト・サクセス(大成功だ)」
オペレーターの発声とともに半円形の巨大なモニタールームに大きな歓声と拍手が響き渡った。この瞬間、世界で最大といわれる大型ハドロン粒子加速器(LHC)が初稼動した。世界中の物理学者がこの日を心待ちにしていた。LHCは、スイスジュネーブ近郊の地下深くに周囲27キロメートルという途方もない巨大なトンネルを掘り、その中で陽子を高速の99.99%まで加速して衝突させ、その衝突の痕跡を探ることにより、物質の根源である素粒子よりさらに小さい世界を探り、あわよくばこの宇宙の起源であるビッグバンの秘密にも迫ろうかという代物である。
「チアーズ、チアーズ(乾杯)」
あちらこちらからシャンパングラスをトスする声が上がり、その場に居合わせた数百人の著名な物理学者や各国の政府関係者から大きな拍手が沸き起こった。次いで、ある者は硬い握手を交わし、ある者は抱き合って、装置稼動の瞬間の喜びを分かち合った。
しかし、そんな華やかなセレモニーの傍らで、誰一人不安げな様子で嘆息を漏らす人物がいた。歳はまだ30過ぎ、ぼさぼさの頭に短い脚、丸い眼鏡をかけた不細工な格好のその人物は凡そこの華やかな場所に似つかわしくないという風体で、その様子を見守っていた。益山公平、日本素粒子研究機構の新鋭の理論物理学者で、ここCERNには日本の研究チームの一員として招聘されていた。
「とうとうパンドラの箱が開いてしまったか。」
公平は一人ボソリと呟いた。
「ハーイ、コーヘイ、どうしたの、そんな浮かない顔をして。」
公平の傍らにシャンパングラスを片手にした金髪の若い女性が近づいてきた。
「ケイトか。」
ケイト・ハブロン、ケンブリッジ大学素粒子物理学研究所の研究員で、ここCERNでは公平のパートナーとして研究に携わることになっていた。
CERNのLHCは世界各国の政府の出資により建設された。総額2兆円に上ろうかという巨費は到底一国でまかなえたものではない。出資した国々は、その出資割合に応じて研究員を派遣する権利を得ていた。アメリカ、EUに次いで世界で3番目の出資国日本からは総勢35名の研究員が派遣されており、公平はその中の一人であった。
「いや、少し気になることがあってね。」
公平は、モニタールームの丁度反対側にいる一団に目を向けた。ケイトもそっと公平の視線の先にある一団に目を向けた。そこには数人の男女が、場の喧騒を避けるかのように丸くなってグラスを傾けていた。
「ああ、アメリカチームね。どうも好かないわ、あの連中。いつもあの調子。自分たちだけで集まってヒソヒソ話。」
ケイトは吐き出すようにののしった。LHC最大の出資国であるアメリカは、ことの他ここでの研究成果に期待を寄せていた。相次ぐスペースシャトルの事故で宇宙開発の分野におけるアメリカの権威は失墜し、最近ではロシアはおろか後発の中国やインドにも追い上げを受けていた。ここCERNで起死回生の研究成果を挙げ、理論物理学はおろか宇宙物理学の分野でも再び世界をリードしようとせんばかりに野心的な物理学者を数多く送り込んできていた。
「いや、僕が気にしているのは、やつらの人物像ではなく、あの研究テーマだ。」
「アメリカチームの研究テーマって、コーヘイ、あなたまさかあんな馬鹿げた理論を信じてるの。あんなの理論物理学の世界じゃありえない。百年経っても出来っこないわ。」
「だといいが。ただ、どうも嫌な予感がするんだ。僕の計算が間違ってなければ、ここのLHCで出現する可能性はゼロではない。もし、そんなことにでもなったら世界は破滅する。」
「大丈夫よ。そんなもの、出て来っこないわ。そんなことより、さあ飲みましょう。こんなシャンパン、滅多にお口に入らないわよ。私たちの研究の成功を祈って、ハイ、チアーズ。」
ケイトは陽気にシャンパングラスを傾けると一気にその中味を飲み干した。

その三ヶ月後。
「駄目だわ、また駄目。」
ケイトは大きなため息を漏らした。ケイトの目の前にあるコンピューターの画面には「CALCULATION FAILURE(計算失敗)」の文字が浮かび上がった。
「まだ研究が始まって三ヶ月だ。そんなに簡単に成果が上がるわけないよ。」
傍らから公平が笑いながら覗き込んだ。公平たち日英合同チームの研究テーマはヒッグズ粒子と呼ばれる未知の粒子の検出である。「ヒッグズ粒子」、物質に質量を与えると言われているこの粒子は、勿論どのような精巧な電子顕微鏡を使っても直に見ることなど到底不可能な小ささである。
物理学では、質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。動かしにくいのは、動くことを邪魔しようとする何かがあるからである。それは、今夜あなたがお風呂に入り、バスタブをまたいで立って足踏みをすればすぐに実感できる。バスタブの外にある左足は軽く動く。ところがお湯に浸かった右足を動かそうとするとお湯が邪魔になって動かしにくい。ヒッグズ粒子とはこのバスタブを満たすお湯のようなものである。真空の中にもお湯らしき何かが満ちている。だから物質に動かしにくさ(質量)が与えられる。
冒頭でもお話したとおり、何もないように見える空気中にも酸素分子や水素分子が無数に浮かんでいる。それが見えないのは、単にあなたの目の解像度が低いからに過ぎない。同じように、全く何もないと思われる真空の中でさえ、動かしにくさを与える何かが潜んでいる。それが見えないのは、単に人類が手にした最高性能の機械ですら解像度が低すぎるからに過ぎない。
しかし、あなたは手を素早く動かすことで、間接的に酸素分子の存在を実感できる。手を大きく素早く振れば、手は空を切る。しかし、その瞬間、あなたは手に微かな抵抗を感じる。それで、あなたは空気中にも何かがあることを知ることになる。
公平たちが探し求めているこのヒッグズ粒子を見つけるのも原理的には同じである。ヒッグズ粒子の大きさは10のマイナス33乗メートル、いわゆるプランク長さと呼ばれるレベルの大きさである。それは原子の大きさよりもさらに何億倍も小さい。想像するだけで気が遠くなりそうである。どんな精巧な電子顕微鏡でも直に観察することは絶対に出来ない。陽子衝突実験により検出されるエネルギーの流痕から間接的に観察するしか方法はない。手を振ることによって起こる空気の流れの変化を観察することで、酸素分子の存在を間接的に観察しようとするのに似ている。
しかし、ヒッグズ粒子を見つけるのは酸素分子を見つけるように簡単ではない。その理由は、その粒子が常にそこに存在しているわけではなく、真空の中のごくわずかなエネルギーの揺らぎの中で浮かんでは消え、消えては浮かぶという、まさに幽霊のような存在だからである。山のような数があるのに、それが見つかる確率は10の何乗分の1とかいうレベルかもしれない。何兆個という陽子を衝突させてやっと1個めぐり合えるかどうかという類の話である。世界最高速のコンピューターで解析を続けても明日発見できるという保証はない。
「まあ、焦っても仕方ないさ。2〜3年以内には何とか。」
「また、そんな暢気なことを言って。アメリカチームに先を越されてもいいの。彼らは毎日24時間体制で交代で研究を続けてるわ。」
「おいおい、また、アメリカチームかい。君はいつもそのことになるとムキになるんだから。」
「だって。あいつらだけには負けたくないんだもの。」
ケイトは膨れっ面をして見せた。
「それより、どう、これからハイキングに出かけない。外はこんなにいい天気だし。」
「ハイキングですって。」
ケイトは釣り上がった目をさらに釣り上げるように公平を睨みつけた。
「ああ、ここでこうやっていてもすぐには結論も出そうにないし。外に出ていい空気を吸った方が、きっといいアイデアも浮かぶ。ほら、かのニュートンだって、リンゴが木から落ちるのを見てひらめいたんだろう。そう、物理学の世界なんて所詮そんなものさ。」
公平に言われて、ケイトは渋々重い腰を上げた。
2人はハイキングシューズにリュックサックという軽装で表に出た。外は、抜けるような青空。遠くには雪を抱いたアルプスの山々が見渡せ、6月の強烈な紫外線が2人の目を刺激した。CERNのある村からは10分も歩けば、すぐにハイキングコースに出られる。
2人は黄色い標識の指示に従って、一路シルトゼー(シルト湖)を目指す。なだらかなアルプの広がる斜面には初夏の風が吹きぬけ、草原で草をはむ牛たちのつけたカウベルがカランコロンと心地よい音を立てる。2人はそんな中、緩やかな斜面に沿って歩いた。
こうして歩いていると、この地下数10メートルのところに巨大な粒子加速器のトンネルがあることなど微塵も感じさせない。のどかで平和な空気に包まれていた。
「ねえ、コーヘイ、コーヘイはどうして、また物理学の世界に。」
「ウーン、何となくかな。ほら、日本じゃ、あまり自分の将来のことを考えて大学を選ぶっていう習慣がないから。僕だって、子供の頃の夢は電車の運転手になることだったんだ。」
「電車の運転手?」
ケイトは思わず吹き出した。
「そう、子供の頃から速い乗り物が好きだった。特に日本の新幹線、そう超特急には憧れてた。何しろ時速300キロで走るんだから。すごいだろう。」
「でもいくら速い電車でも粒子加速器には適わない。こっちは光の速さの99%。」
「それとこれとは別次元の話だ。そんなに速く走ったら、体がバラバラになってしまう。」
「バカね。ジョークに決まってるわ。」
そこで2人は大笑いした。道はいつしか緩やかな上りになり、2人の額には薄っすらと汗が浮かんだ。出発してきた村はもうはるか眼下に退き、赤い小さな家々の屋根が点々と見える。
「転機になったのは大学2年の時だったかな。あの時、北部先生のノーベル賞受賞の発表があった。」
「ホクブ?、ホクブ博士ってあの対称性の破れの。」
「そう、対称性の破れ。あの時は正直びっくりした。まだ対称性っていう言葉の意味もよく知らない頃だったからね。でも、わけが分からないながらも、何かとんでもないものを日本人が発見したということだけは、今でもハッキリ覚えている。あれが物理学の道に進もうと決めるきっかけになった。」
「対称性の破れ」ビッグバン直後の初期の宇宙は物質と反物質が同じだけ存在していたとされている。しかし、その後電荷がプラスの物質だけが残り反物質はすべて消えてしまった。これがビッグバンの最大のなぞとされていた。でも、ホクブ理論により、対称性が破れることで反物質だけが消滅することがありうることが証明された。これにより今日宇宙というものが存在する理由が明らかにされたのである。
「意外と単純なのね。コーヘイほどの物理学者なら、もっときっちりした動機があったとばかり思ってたのに。」
ケイトは公平の少し前に歩み出た。
「単純で悪かったね。人生なんてそんなものさ。かく言う君の方はどうなんだい。」
公平は、先を進むケイトを追いかけるようにして聞き返した。
「私は、もっと真剣だったわ。物理学の道に進もうと決めたのはハイスクールの時。化学の実験で顕微鏡をのぞいた時だった。この世には、私たちの目に見えない物が一杯ある、そしてその目に見えない物が私たちの世界を決めている。そう思った時から、私の一生を捧げるのはこの世界しかないと思った。」
「ヘー、それはすごい。ハイスクールの時なんて、日本じゃ皆な受験勉強で大騒ぎだ。自分が将来何をしたいかなんて関係ない。どれだけ難しい大学の、どれだけ難しい学部に入れるか、皆なそんなことしか考えてない。」
「かわいそうね、日本の学生さんは。」
道はいつしか峰を回りこみ、突然眼前に美しい湖水の風景が広がった。
「ワオー、ビューティフル。」
ケイトの口から驚きの一声があがった。
シルト湖。アルプスの雪解け水が地下水となって湧出して溜まったその湖は周囲が3キロメートルほどの小さなものであったが、鏡のように平らかな湖面にはアルプスの山影が映り、喩えようのない美しさであった。湖の周囲にはなだらかな草原が広がり、のんびりと草をはむ牛たちが緑一色の美しい斜面に点々と彩を添えていた。
「さて、お昼にしようか。」
公平とケイトは湖を一望できる高台に持ってきたシートを広げると並んで腰を下ろした。ガイドブックにも載っていないような小さい湖の周辺は、訪れるハイカーも少なく虫の飛ぶ音が聞こえるほどの静けさがあたりを包んでいた。このような美しい風景を堪能できるのは、地元に住む人とCERNに派遣されている物理学者たちだけであった。
2人は用意してきたサンドイッチを頬張りながら、のんびりと眼前に広がる雄大な景色に見入っていた。公平は不思議な気持ちで一杯であった。もし対称性が破れていなかったら、この美しい風景も、このアルプスの山も、いやそれだけではない、この地球や宇宙すら存在していなかった。わずか10の何乗分の1の確率で対称性が破れたからこそ、今自分がここに存在し、この景色を見ている。宝くじに当たるよりもはるかに小さい確率がこの世界を創り出した。何度考えてもそのことが不思議でならなかった。やはり神というものが存在するのか。そう思わないではいられなかった。
「あの人たちには、きっとこんな景色もただの風景かもね。いや、こんな場所があることすら知らないかも。」
「またアメリカチームの話かい。よほど彼らのことが気に入らないようだね。」
「だって、明けても暮れても研究所に入りびたり。おまけに陽子出力装置も独占。少しはこっちのことも考えて欲しいわ。」
「仕方ないさ。アメリカは最大の出資国だし、派遣されている研究員の数も群を抜いて多い。」
公平は、持ち上げかけたコーヒーカップを止めて、嘆息を漏らした。
「ただ、気になるのは彼らの研究テーマの方だ。あの分野は危ない。まだ知られていないことが多すぎる。もし想定していないことが起きたら、コントロール出来るかどうか。」
「それって、ブラックホールのことかしら。」
公平は黙ってうなずいた。
「ブラックホール」、物質が極端に一点に凝縮した結果、重力が無限大になり近づく全ての物質を飲み込んでしまうなぞの天体である。この穴にはまり込むともはや光すら脱出することは出来ない。ゆえに観測すら物理的には困難な理論上の天体である。この広大な宇宙空間では銀河の中心部に存在すると言われて久しいが、それを直接観測した者はおらず、間接的な観測結果からその存在が仮定されているに過ぎない。ところが、ここCERNのLHCでは、この恐るべき難物を人工的に生成できるかもしれないということが予言されており、アメリカチームの主たる研究テーマとなっていた。
仮に、人工的なブラックホールの生成に成功すればノーベル賞10個分に値するほどの大発見と言われているだけに、アメリカチームが力を入れるのも無理はない。しかし、それには当然に大きなリスクも伴う。
「そう、ブラックホール。もし見つかれば世紀の大発見になることは間違いない。ただ、それがこの宇宙空間にどんな影響を与えるのかは未知数だ。もし対称性が破れていなかったら、そう、対称性の破れが間違っていたとしたら、大変なことになるかもしれない。」
「対称性が破れていない? コーヘイ、あなた一体何を言ってるの。そんなことありえないわ。だって、あれは実際に実験でも検証されている。生成された反物質は全てすぐに消滅する。理論とも矛盾がないわ。まさにホクブ博士の理論どおりよ。」
「そう、確かに。万が一にも北部先生の理論に間違いがあるはずなどありえない。ただ、生成された反物質が消えているように見えているだけだとしたら。もし実際には消えてなくて、巧妙にその姿を隠しているだけだとしたら…。」
その時、2人の眼前の湖面に黒い影が映った。上空を飛んでいた一羽の水鳥が水面に向かって急降下してきた。鏡のように真っ平らな湖面に映る鳥の影。次の瞬間、鳥はその影に向かって突っ込み、水面に大きなスプラッシュが上がった。と同時に、鳥の姿は消え、湖面には鳥が残した波紋だけが幾重にも残った。
「そうか、分かった。そういうことか。」
その瞬間、公平の脳裏に閃光が走った。公平は素早く立ち上がると、わき目も振らず駆け出した。
「コーヘイ、コーヘイ。待って。どうしたのよ、いきなり。コーヘイ。」
公平は、ケイトの呼び声に振り返りもせず一目散に山を駆け下り始めた。


2.出現

丁度その頃、CERN、Dファクトリー。
「もっと出力を上げろ。」
モニタールーム内に、パソコン画面を凝視するハワードの怒声が響く。ハワードが操作するパソコンには赤や黄、緑色の入り混じった万華鏡のような色鮮やかな図柄が映し出されている。カロリーメーターにより検出されたエネルギーの流痕である。
カロリーメーター。光速の99%まで加速した陽子同士を衝突させたとき、陽子は電子や陽電子を放出しながら別の粒子へと崩壊していく。その崩壊過程で放出されるエネルギーを検出する装置である。もちろんその過程は肉眼では観察できない。今、ハワードの目に見えているものは、このカロリメーターが検出したエネルギーを可視化した映像に過ぎない。
「これ以上は無理だ。危険すぎる。」
傍らから助手のスティーブンの制止する声が聞こえる。
ハワード・スミス、ハーバード大学素粒子物理学研究所の精鋭として、100人を超える客員研究員を率いてCERN入りしていた。先のノーベル物理学賞では韓国と中国の研究者に先を越されたということもあって、今回のミッションにはアメリカの威信がかかっていた。
彼らの専門分野は超重力理論。ひも理論、膜理論のさらにその先を行く最先端の理論であり、それを実証できる唯一の方法はブラックホール内で実際に何が起きているのかを明らかにすることであった。物理学の世界の最大の難問とされる「階層性問題」、つまり4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、そして重力のうち、重力だけが極端に弱いのはなぜかという問題である。重力は他の力に比べて何10桁も弱く、特別な理論がないと記述できないのではないかとされてきた。
しかし、ブラックホールの中にあっては、この重力が無限大に大きくなる。そこに階層性問題を解く鍵がありそうなことは容易に予想できた。そのブラックホールがここCERNの大型粒子加速器で人工的に生成できるかもしれないのである。もしそれが実現できれば、ブラックホールの崩壊過程を眼前で観測でき、その秘密に迫れるかもしれないのである。
「出力を、9Tev(テラ電子ボルト)まで上げろ。ここのLHCは理論上言われているエネルギー限界に30%の余裕率をみて設計されている。とすれば12Tev位まではいけるはずだ。」
再び、ハワードの声が響く。スティーブンは渋々モニターの出力レベルを上げた。

それから1ヵ月後。
CERNのカフェテリア。窓の外は、いつしかスイスの短い夏も終わり既に秋の気配が漂っていた。公平は、朝からもう何時間もメモ用紙に鉛筆を走らせていた。とっくに乾ききったコーヒカップが経過した時間の長さを物語っていた。
「コーヘイ、コーヘイったら。」
公平は、相変わらずケイトの声も耳に入らない風で、計算に没頭していた。
「もう少し、もう少しだけ待って、あと一息だから。」
公平のメモは、殴り書きされた数式が無秩序に並び、白い紙が黒々として見えた。ケイトは大きな嘆息を漏らして窓の外に目をやった。公平は一体何を計算しているのか。あの日から、ハイキングに出かけたあの日かから、公平はほとんどファクトリーにも顔を出さなくなり、自室にこもって一人鉛筆を走らせることが多くなった。理論物理学者には間々あることだけに最初のうちはケイトも黙ってそんな公平を見守ってきたが、今日は待ったなしの事態が生じていた。
「やったー、完成だ。ついに出来た。」
今一度ケイトが声をかけようとして身を乗り出したその時、公平は最後のメモ一枚を破り取った。そこにはある数式が一本記されていた。
「コーヘイ、一体何が完成したというの。」
ケイトの今一度の呼びかけに、ようやく我に返った公平はニヤリと微笑んだ。
「エクストラ・ディメンジョン(余剰次元)だよ。」
「エクストラ・ディメンジョン?」
「ああ、僕の計算に間違いがなければ、エクストラ・ディメンジョンは間違いなく存在する。君も見ただろう。シルトゼーで。あの水鳥、鳥が水面に突っ込んだとき鳥の影は完全に視界から消えた。」
ケイトは黙って頷いた。
「でも、実際には鳥は消えてはいない。水の中に鳥はいた。ただそれだけのことだ。物理学の世界も同じだよ。反物質は消滅したのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されただけなんだ。おそらく推測だが、今我々が住んでいるこの宇宙は物資ばかりで出来ている。同じように反物質ばかりで出来たパラレル・ワールド(並行宇宙)が存在するはずだ。」
ケイトはにわかには信じられないという表情で尋ね返した。
「ということは、対称性は破れていなかった?」
「その通り、破れたように見せかけて、反物質は巧妙にその姿を隠していたんだ。今の宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、この隠された反物質の正体だ。重力だけはエクストラ・ディメンジョンを透過して我々の世界に滲み出してくると予言されている。もし僕の理論が正しければ、当然のことながら我々の宇宙に存在するのと同じ数だけの反物質が別の世界に存在するはずだ。これで、この宇宙で最大の謎とされているダークエネルギーの説明がつく。」
公平は、興奮するように畳み掛けた。
「グ、グレイト。と言うより、何て言っていいのか、もしその通りだとしたら物理学の世界がひっくり返るわ。まさに天と地が入れ替わるような大事件だわ。でも、間違いじゃないの。何か大きな落とし穴が…。私も、コーヘイもまだ気がついていない。」
流石にケイトはすぐには公平の言うことを信じなかった。彼女もケンブリッジ大学きっての著名な理論物理学者である。大体、物理学者というのは人の考えや理論を否定するところから始まる。大発見とか革新的理論と言われるものほど最初は懐疑的な目で見られる。実際、当初は見向きもされなかった斬新的なアイデアが何十年も後になって実証されて大騒ぎになるということはこの世界ではよくある話であった。
「そう、その通り、だからこそ君にお願いしたいんだ。僕の計算が間違っていないかを検証して欲しいんだ。」
「OK、わかったわ。すぐにでも。」
「このメモじゃわけが分からないから、少しまとめて明日にでも渡すよ。それで、君の方は何? 何か話があったんじゃ。」
公平は、ようやく一段落して、ケイトの話に耳を傾けた。ケイトも思い出したかのように持ってきたばかりの話を切り出した。
「実は、2日前Dファクトリーが閉鎖されたの。」
「何だって、閉鎖?」
「そう、表向きは出力装置の故障で当分の間使用禁止だとか。でも、何か妙なの。アメリカチームの研究者たちだけは出入りしてるし、それに入り口にはセキュリティーも。」
「セキュリティー? フーム、それは尋常じゃないな。ファクトリーで何かあったんだろうか。」
公平の脳裏にいやな予感が走った。
「ついにパンドラの箱が開いてしまった」、あのセレモニーの日に口をついて出た言葉が再び公平の頭の中をかすめた。
「所内LANの方はどうだい。ここでは各ファクトリーでの研究成果を出来る限りオープンにするよう定められている。アメリカチームのホームページは。」
「1週間前に更新された切り。その後のことは何も。」
公平の不安げな様子に、いつも快活なケイトの顔にも暗い影がさした。

丁度その頃、Dファクトリー。
「おかしい、どうやっても消えない。一体どういうことだ。」
ハワードは何度もパソコンのキーパッドを操作する。ボサボサに伸びたハワードの無精ひげが、今回の事態の重大さを物語っていた。
1週間前の大興奮も覚めやらないまま、アメリカチームには重苦しい空気に包まれ始めていた。公平が自らの新理論の計算に没頭していた頃、アメリカチームは一足先に世紀の大発見を成し遂げていた。人工のブラックホールである。LHCの出力を11Tevにまで上げたところでついにブラックホールの痕跡らしきエネルギーの流痕がモニター画面に現れた。大きさは10のマイナス30乗メートル、もちろん目には見えない。その流痕はほんの一瞬現れてすぐに消えていった。まさに予言どおりの短さであった。
当初、アメリカチームはこの大発見をすぐには公開せず秘匿した。発見が間違いでないことを検証しタイミングを見計らってサプライズで大々的に報じる手はずであった。ところが大きな誤算が生じた。検証実験中、出現したブラックホールの一つが消滅しなかったのである。それどころか、このブラックホールは日増しに大きさを増し始めた。当初の直径は10のマイナス30乗メートルであったものが、2週間後には10のマイナス28乗メートル、2桁もその大きさを増していた。
「おい、ハワード。もうあきらめろ。それより一刻も早くこの事実を委員会に報告しないと大変なことになるぞ。」
「まあ待て、大きくなったとはいえまだまだ直に見えるようなレベルじゃない。黙ってりゃ誰にもわかりっこないさ。本国からもまだ極秘裏にしておけとの指示だ。それより、今はどうやって後始末をつけるかの方が先だ。陽子ビームの出力を上げてもう一度照射してみよう。」
スティーブンは大きなため息を漏らしながらハワードの指示に従った。
当初の予言では、人工のブラックホールは発生後ほとんど瞬時に蒸発して消滅すると予言されていた。そしてまさにこの予言どおり、ブラックホールはすぐに消滅した。しかし、アメリカチームはブラックホール内部の観測精度を上げるため、消滅までの時間を延ばすことを試みた。
これこそが、まさに公平が恐れていた点であった。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そして余剰次元の向こう側に反物質ばかりで出来た並行宇宙があったとしたら、このブラックホールは我々の住む物質宇宙と向こう側にある反物質宇宙をつなぐトンネル役となる。物質と反物質はブラックホールの中で出会い合体して対消滅を起こし始める。そしてその穴は次第に大きくなり、やがてはこの地球、太陽系、いや銀河さえも飲み込むまで成長する可能性があった。
アメリカチームはまさにパンドラの箱を開けてしまったのである。吸い込まれると光さえ脱出できない恐怖の穴が、しかもこともあろうにこの地球上に出現してしまった。

その1週間後。
CERN全体に激しい警報音が鳴り響いた。
「緊急警報発令、緊急警報発令、Dエリアで極微量のX線検出。」
悪いことは隠し覆せないものである。
ブラックホールは成長すると、その中心から膠着円盤に垂直な方向に向かってX線のジェットを噴出する。物質と反物質が合体消滅する時に莫大なエネルギーが放出される。そのエネルギーは巻き上げられて巨大なストリームとなって解放される。それがX線ジェットである。実際に地球上でも宇宙のあらゆる方向から飛来するX線が多数観測されている。ただ、何億光年もの遠くから飛来することに加え、地球の厚い大気がそれを遮り、人体への影響は極わずかに抑えられている。
しかし、X線自体は強力な放射線であり、一つ間違えば人命にもかかわる惨事になりかねない。
「Dエリアは、すぐに閉鎖しろ。それと原因が究明されるまでLHCは停止する。」
CERNの規約で、事故発生時には直ちにLHCの稼動を停止し、その原因究明が行われることになっていた。

3日後。
「なぜ、すぐに報告しなかった。一体、Dファクトリーでどんな実験をしたんだ。」
査問委員の厳しい視線が一斉にハワードとスティーブンに集中した。査問委員会、各国の代表で構成されるこの委員会は、CERNの中で重大な規律違反や事故が発生した場合に緊急に召集される。LHCの公正な平和利用と安全性を確立するため、査問委員会には各国政府ですら介入できないほどの絶大な権力が与えられていた。
ハワードとスティーブンは、しかし、居並ぶ20余名の査問委員の前で直立不動のまま正面を見据えていた。
「あくまで黙秘するつもりか。それは本国からの指示か。」
さらに厳しい査問委員の叱声が飛ぶ。
しかし、この時ハワードとスティーブンの脳裏には別のある光景が思い浮かんでいた。
「いいか、君たちは、この合衆国の命運を左右する重大な使命を担うために派遣される。家族のことは忘れろ。いや、いざという時には自身の命のことすら忘れろ。いいな。」
本国を立つ前に、国防省に召集された派遣員全員に国防長官自ら任務の説明が行われていた。2人にはもとより自らの命など関係のない話であった。
愛国心の美名の下にイラクに派遣されて無益に命を落としていったあまたのアメリカ兵士同様、ここCERNに派遣されているアメリカの物理学者には、もはや個人の自由などありえないものとなっていた。
「よろしい。君たちはもう下がり給え。」
いつまで経ってもらちが明かないと見た査問委員長は2人に退室するよう命じた。警ら官に付き添われた2人は、まるで留置所へ運ばれる容疑者のように無表情のままドアの外に消えた。
「明日、Dファクトリーを強制査察する。」
委員長は静かに閉会を告げた。
翌日。査問委員会の調査団10名がDファクトリーに入った。全員が宇宙服を思わせるような被爆防護服を身に着け、頭には深々とシールド用ヘルメットを装着していた。
調査団の一人が、『Radiation Hazard Area(放射能危険区域)』と赤く表示されたドアの電解錠のキーパッドを操作する。ドアは音もなく開いた。放射能検出装置を手にした先頭隊が恐る恐る第一歩を踏み入れた。
ファクトリーの中は思ったより平穏だった。爆発や火災が起きた様子もなく、外のセキュリティーカメラに映ったそのままの状態が調査団の眼前に広がった。
「放射能レベル問題なし。」
その声に続いて、一人また一人と、調査団が中に入る。調査団は、ファクトリーの中をゆっくりと検分して回る。パソコンや検出装置が並ぶ通路を進み、あと少しでモニター画面の前というところで放射能検出装置が反応した。
「ごく微量のX線検出、警戒レベル2。」
調査団は一瞬怯んだように見えたが、すぐに平静を取り戻した。防護服を身に着けていれば警戒レベル2は全く安全な被爆量である。
調査団長は、ゆっくりとモニター画面のスイッチをオンにした。モニター画面には、例の万華鏡のようなエネルギー分布図が現れた。その画面を凝視していた調査団の1人からうめき声が漏れた。
「こ、これは、一体…」
「ま、まさか。」 
カロリーメーターが検出するエネルギー量は最も高いところで40Tev以上、このCERNの粒子加速器で生み出すことの出来る最大エネルギーの3倍を超えていた。その周囲には、まさに台風の渦巻きのように黄色い色が分布し、その渦巻きから垂直方向に長く噴き出すX線のジェットがハッキリと映し出されていた。
「ブ、ブラックホールか。」
「恐らく。」
「ありえない。」
調査団の一団は絶句したまま、しばらくモニター画面に見入っていた。


3.新理論

その頃、CERNのカフェテリア。
「コーヘイ、完璧だわ。どこから見ても問題なし。」
ケイトは興奮気味に身を乗り出した。公平が頼んでいた例の理論式の検証が済んだのである。反物質がエクストラ・ディメンジョン(余剰次元)に隔離されれば、対称性の破れがなくても物質だけでできた今の世界が理論上も存在しうることが証明された。
「で、コーヘイ、どうするの。いつ、これを発表する?」
「今日にでも。所内LANのホームページ上にでも…」
ケイトは目を丸くした。
「コーヘイ、あなた、正気なの。ノーベル賞級の発見よ。私、イギリスの科学雑誌『デスカバリー』に親しい編集長がいるわ。頼み込んで、出来るだけ大々的にセンセーショナルに発表しましょう。」
「いや、僕はどうも、そういうのは苦手で。所内LANで十分。なるべく目立たないように。」
公平は慎重だった。物理学の世界では、足の引っ張り合いは日常茶飯事であった。世紀の大発見と言われるような理論ほど、大勢の著名な学者たちから集中砲火を浴びせられる。どうも学者というのは他人を批判し、こき下ろすことが、自らの存在を主張する手段のように考えていた。他人の理論を認めることは、すなわち敗北を意味した。
「で、ケイト、君に頼みがあるんだけど。今回の発表は君との共同研究っていうことにしてくれないかな。」
ケイトは、再び目を丸くした。
「共同研究って、コーヘイ、あなた何言ってるの。これ、あなたが発見した理論よ。私なんか、何もしてないわ。名前を出すことすら恥ずかしいわ。」
「いや、そんなことはない。君が教えてくれた、あの熱エネルギーの定数、あれがなかったら今回の発見はなかった。」
公平は譲らなかった。公平が発見した熱力学方程式にエネルギー定数を加えれば全ての理論的問題が解決するとヒントを与えたのはケイトであった。公平の言うとおり、研究者に名を連ねる資格はあった。
「コーヘイったら。ホント欲のない人ね。それで、今までよく理論物理学者が務まってきたわね。」
ケイトは、少し声を詰まらせた。
「その代わり、攻撃があったら、防御の方はよろしく。」
公平は、本当に正直であった。学生時代にあまりディベートという訓練を受ける機会のない日本人にとって、他人と議論するのは苦手な分野であった。
「コーヘイがそこまで言うなら。」
ケイトは、渋々連名発表に同意した。

3日後、調査団の調査結果が発表された。
アメリカの研究チームは、CERNの内規を破り、許される最大出力の1.5倍の負荷を掛けてブラックホール生成を試みたばかりか、ブラックホール生成後もその事実を公にせず、自国のみでその研究の成果を秘匿しようとした。それ以上のことは、外交上の問題もあり詳しくは説明がなされなかったが、その裏にはペンタゴンの存在があったことは、容易に想像がついた。
結局、アメリカチームは即刻退去を命ぜられ、問題の事後処理はEUの研究チームが引き継ぐこととなった。翌日、早々に対策会議が開かれた。
「で、今後このブラックホールはどこまで大きくなるのかね。」
EU代表のホルムシュタイン主査官は渋い表情で質問を投げかけた。ホルムシュタイン主査官、ベルリン大学物理学研究所長を務めるこの人物は、超対称性理論の先駆者的存在で、今回のLHCの実験で仮に超対称性粒子の一つでも発見されれば、ノーベル賞は間違いなしといわれる世界的な権威中の権威であった。その人物が、今回の対策チームのリーダーに選ばれたということは、それだけでも、今回の事件、あるいは事故とでも言うべき偶然の出来事の重大さが窺い知れた。
「それは我々にもわかりません。何しろ、人工的に生成されるブラックホールは、大きさが10のマイナス30乗メートル以下、生成後もほとんど一瞬にして消滅すると予想されていましたから。今回のような事態は全く想定外のことでして。」
補佐役のミシェル主任研究員が苦渋の表情で説明を続ける。ミシェル主任研究員はパリ大学理学部の助教授で、超ひも理論の研究ではこれもまた世界の権威の1人に名を連ねていた。この他にも、その道の人が聞いたら卒倒しそうな程の面々がこの対策会議に集められていた。
「何とか、この難物を消滅させる方法はないのか。このまま成長を続けると大変なことになるぞ。」
主査官の言うとおりであった。当初は10のマイナス30乗メートルのスケールで発生したブラックホールは今では、10のマイナス24乗メートルまで成長し、そこから放出するX線ジェットの強度も指数関数的に強くなってきていた。
「ブラックホールは周囲の物質を飲み込んで成長してゆきます。ですから、ブラックホール全体を鉛製のカプセルで覆い、中を真空にすれば、物質の供給が止まり、成長が止まる可能性があると思われます。」
「なるほど。だが、そんなカプセルがすぐに用意できるのか。」
「ええ、わが国の原子力委員会を通じで、超高純度プルトニウムの保管用カプセルを取り寄せます。」
超高純度プルトニウム、通常のプルトニウムを数百倍の濃度に濃縮したこの物質は、軍事用目的にのみ使用される。そのエネルギーは広島型原子爆弾の1千倍近くにも及ぶとも言われる。そんな超高純度プルトニウムから漏れ出す放射線を遮蔽するためのカプセル、その技術はその中身にも勝るとも劣らぬ程の高レベルの軍事機密であった。それを、フランス国が提供するという。もはや事態は、単なる物理学研究の域を超えていた・
「ことは急を要しますので、早々に本国に連絡を。」
ミシェル主任研究員は足早に部屋を後にした。

3日後、件のカプセルが到着した。
「オーライ、オーライ。」
仏国の国旗が銘打たれたトラックからカプセルが降ろされる。カプセルの直径は約1メートル、放射能を遮蔽するための鉛の厚さは約20センチ、それが三重の入れ子状になっている。わずか10キログラムの高純度プルトニウムを包むための入れ物の重さは2トンもあった。
「これは、すごい。このような代物、見たことがない。」
ホルムシュタイン主査官は感嘆の声を漏らした。それもやむ終えないことであった。第2次世界大戦の敗戦国であるドイツでは未だ核兵器を保有することは許されていない。このレベルのカプセルを保有するのは、世界でもアメリカ、ロシア、中国とフランスぐらいであった。しかも最高度の軍事機密とあれば、たとえ世界的な物理学の権威者といえどもまず目に出来るものではない。
カプセルは慎重にDファクトリーへと運ばれる。Dファクトリーの放射能レベルはさらに上昇し、もはや放射能防護服を身に着けていても危険なレベルに達していた。
やむなくモニター室からの遠隔操作により、まだ目にも見えないブラックホールをカプセル内に閉じ込める作業が始められた。カプセルは球形で、真ん中で二つに割れるようになっていた。密着後は中を真空にすることで完全に外部と遮蔽される。
ブラックホールの大きさはまだ10のマイナス20乗メートル以下、電子顕微鏡でも捉えられない大きさである。ブラックホールの位置は、カロリーメーターのモニター画面に映し出されるエネルギー分布で確認する。最も高いエネルギーレベルを表す赤の表示がブラックホールの中心点である。その位置は、LHCのトンネルの丁度真ん中辺り、高さ2メートル近辺にあった。
赤い点の周辺にはレコード盤のような円形のエネルギー領域が黄色で表示されている。ブラックホールに落ち込む物質が作る膠着円盤である。そして、この膠着円盤から垂直方向に向って、長いひも状のエネルギー痕が見られた。ブラックホールから噴出するX線のジェットである。ジェットの長さは数メートルにも及んでいた。もし、カプセルに効力があれば、密封と同時にこのX線放射が封鎖されるはずである。
カプセルの半球を支えた2台の作業車がトンネル内に入る。作業車は遠隔操作により、ブラックホールを挟むようにトンネルの両側から進入した。何しろ目に見えない極微の代物を手探りで包み込むのである。作業は、エネルギー分布のモニター画面を見ながら慎重に進められる。作業車は、ブラックホールがあると推定される位置まで、毎秒1センチメートルの速度でにじり進む。進めては止め、進めては止めを繰り返しながら、その都度僅かのズレを補正して前へ進める。
そしてついに、モニター画面の縁にカプセルの陰が映し出された。半球と半球の間の距離はわずか5ナノメートルである。後は、上下と左右の微調整を加え、最終的に両の手の平を合わせるように、ピタリと半球を合体させるだけである。モニター画面に映し出された半球の影は、まるで日食のように光り輝くエネルギーを徐々に遮蔽してゆく。そして最後は地平線の彼方に沈む太陽のように微かな光を残して、画面は真っ暗になった。
「やったー。成功だ。X線ジェットが消えたぞ。」
その瞬間、モニター室に歓声が上がった。
「大成功だ。放射能の漏れは完全に止まった。」
つい先ほどまで、赤々とモニター画面を照らしていたブラックホールのエネルギー痕は完全に遮蔽され、画面上を暗闇が支配した。
「カプセル内の圧力もどんどん下がっています。」
オペレーターの報告が続く。カプセル内の空気は瞬時にブラックホール内に飲み込まれ、カプセルの中はあっという間に真空になる。中が完全に真空となったカプセルは、外部からの圧力により密着させられ、ブラックホールは完全に封印された。

その頃、研究所内は別の意味で大騒ぎとなっていた。公平とケイトの論文が所内LANのホームページ上に掲載されたのである。わずか数ページの短い論文であったが、それが百年来、幾多の物理学者を悩ませ続けてきた問題に決着をつける世紀の出来事であることに、意のある物理学者たちはすぐに気付いた。
「しまった。」
ホームページを見た研究者の舌打ちする音があちらこちらで聞こえた。コロンブスの卵とはまさにこのこと。こんな単純な理論がなぜ今まで世界中の著名な物理学者たちに発見されなかったのか。
公平とケイトの論文は、なぜこの世界が、この宇宙が存在するのかを単純な公式で説明していた。
理屈は極めて簡単である。
「1−1=0」
小学校1年生の算数である。しかし、この数式は注意深く観察するとこうも書ける。「0=1+(−1)」、すなわち、ゼロからプラス1を生み出すためには、マイナス1が同時に生まれなくてはならない。道理といえば道理である。理屈といえば理屈である。こんな単純なことが世紀の大発見に結びついた。
この宇宙は「無」から生まれたというのは今ではもう常識になっている。針の先よりもさらに何十桁も小さい目に見えない世界が、インフレーションと呼ばれる急膨張を起こし、そしてかの有名なビッグバンによって灼熱の火の塊となって宇宙は生まれた。
しかし、ちょっと待った。どんなに高温、どんなに高密度に押し縮めても、数千億個もあるといわれる銀河が針の先よりも小さい空間から生まれ出るなどという話は、馬鹿げている。手品か何かでもない限り、地球1個ですら創り出すことなど不可能である。
でも、マイナス1を導入すれば、すべてはかたがつく。全く何もない世界からでも、マイナス1があれば間単にプラス1は作られる。
鏡のように真平らな水面も石を放り込むと波が立つ。波は必ず山と谷を作る。山だけの波、谷だけの波など存在しない。量子論の世界も同じである。我々が住む世界、そう、あなたのすぐ鼻の先の空間にも「ヒッグズ場」と言われるフィールドがある。ヒッグズ場は、この水面のように絶えず揺れ動いている。それを感じられないのは別にあなたが悪いわけではない。人間の五感では絶対に感じることができないほどの微細な揺れに過ぎないからである。
しかし、このヒッグズ場が、この世界を創り出していることだけは忘れてはならない。この世にある一切のモノ、身の回りにある水や土は言うに及ばず、この地球や太陽、そして天に輝くあまたの星々や銀河、その全てはこのヒッグズ場に浮かぶ泡沫のようなものである。
我々が住む世界は、電荷がプラスの陽子(正確には電荷が中立の中性子も含む)と電荷がマイナスの電子でできている。電荷がマイナスの反陽子や電荷がプラスの陽電子でできた物質は我々の世界(宇宙)には存在しない。
別の言い方をすれば、我々の世界はヒッグズ場が創り出す波の山の部分だけでできており、谷の部分が全く存在しないのである。だからこそ波は打ち消し合うことなく存在し続けていられる。不思議である。あなたはこの不思議をどう考えるであろうか。
宇宙創生の過程では、陽子(プラス1)が生まれるときに、同時に同じ数だけの反陽子(マイナス1)が創られたと考えられている。ゼロからプラス1が生まれるにはマイナス1が同時に生まれなければならない。波の山が生まれるときには、同時に谷が生まれなければならないのと同じである。これを量子論の世界では「対生成」という。このことは、現実に粒子加速器の実験でも確認されている。
本来なら、対生成で生じた陽子と反陽子は、生まれた瞬間にすぐに合体して消える運命にあったとされる。これを「対消滅」という。波の山と谷が一瞬の後に打ち消し合うのと同じで、プラス1とマイナス1は常に瞬時に合体してゼロになるはずであった。
ところが、わずかに対称性が破れていたため、反陽子だけが消え、陽子だけが残った。だからこそ、今日の宇宙が存在するとされた。しかし、そんな膨大な量の反陽子が本当に消え去ったのであろうか。そして、消え去ったのだとすれば、なぜ消えたのは反陽子であって、陽子ではなかったのか。陽子だけが消えて、反陽子だけが残っていても、おかしくはなかった。反陽子は一体どこへ消えたのか。
公平は、反陽子が消えたのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されているにすぎないと考えた。対称性が破れるとは、反陽子が壊れることを意味するのではなく、別の次元にその身を隠すことを意味するものだと公平は考えたのである。
公平の理論を裏付ける証拠がこの宇宙に存在する。宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、それを物語る重要な証拠である。ダークエネルギー、別名「真空のエネルギー」と呼ばれる謎のエネルギーは、今我々が存在している宇宙にある物質の総量からだけでは説明できない。この宇宙に存在する銀河の全てを足し上げても、宇宙全体のエネルギー総量にはるかに足りないのである。
この不思議を説明するためには、対称性は破れていなかったと仮定するしかない。公平は、この理屈をシルトゼーで水鳥が水面から消えた瞬簡に思いついた。そう、水鳥は消えたのではない。消えたように見えて、実は水の中という別の世界(次元)に水鳥はいた。そして水鳥が水の中で動き回ることで生み出されるエネルギーは水を伝わって水面に微かな波を作る。我々は、この波を見て水の中(別の世界)に何かがあることを知る。ダークエネルギーこそが、エクストラ・ディメンジョンがあることを、そしてそこに隠された膨大な量の反物質があることを示す証拠なのである。
公平のレポートが発表されて後、研究所の中は大騒ぎとなった。同じ研究所の中で、とんでもない大事件が起きていることなど誰一人として知る由もなく、人々はこの世紀の大発見に酔いしれ、賞賛し、そしてある者は眠る時間も忘れて反論探しに血眼になっていた。
しかし、この公平の発見した理論こそ、かねてより公平が危惧していた事態を現実に招来させ、そして全人類の運命をも大きく変えてしまうものになろうとは、当の本人もまだ全く気付いていなかった。


4.脅威の力

3日後、CERN主査官室。
ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員他、数人の幹部が密かに集まり、カプセル内に閉じ込めたブラックホールをどう処分するかの議論が行われていた。
「それは、危険すぎる。」
「いや、ブラックホールは今この瞬間も成長を続けている可能性がある。我々の手に負えるうちに、ロケットを使って打ち上げ、宇宙のかなたへと送り出すしか方法はない。」
「もし打ち上げに失敗したら。それであの危険極まりない物体が大西洋のど真ん中に沈みでもしたらそれこそ取り返しのつかないことになる。」
議論は、延々ともう5時間以上も続けられていた。世界の物理学の最高権威が何人も顔をつき合わせて議論しても結論を引き出せないでいた。それもそのはず、何しろブラックホールなる物体を初めて目に見える至近距離で捉えたのである。
これまでブラックホールと言えば、何億光年も離れた遠い宇宙のかなたの天体と思われてきた、いやその存在すら、間接的に得られる観測情報から推測されてきたに過ぎない。そんな難物がこの地球上に突然現れたのである。
相手は全く未知の物体である。たとえ目に見えない極微の大きさでも、一体どのような性質も持ち、これからどのように成長していくのか、あるいは消滅していくのか、それすらも分かっていない。そんな代物を、この研究所からトラックで運び出し、飛行機に乗せて打ち上げ基地に運ぶ、それだけでもどんな危険が伴うか分からない。ましてやロケットで打ち上げるなど、常識のある科学者なら考えも及ばない。
「でも、このまま放置して、ブラックホールがコントロール出来ないレベルまで成長したら。」
「しかし、カプセルの中は今、真空状態だ。物質の供給が止まれば、ブラックホールの成長も止まるのではないか。」
強硬論のミシェル主任研究員に対して、ホルムシュタイン主査官は、あくまで慎重意見で通した。
そもそも研究所内で起きた規律違反により重大な危険を招いてしまった。今回のことが明るみに出ればCERNの存続自体がEU委員会の中で議論の俎上に上がるであろう。あまたの物理学者たちが夢にまでみたLHCによる実験は完全に頓挫するばかりか、これまで注ぎ込まれた何十億ユーロという予算もすべて無駄金になりかねない。出来れば極秘裏に事態を収拾し、何よりこの研究所を守らねばならない。そのためには、何としてもこの難物を研究所内で処理しなければならない。
議論に決着が付かないまま、1週間が過ぎた。そして、この1週間という時間の経過が結局致命傷となった。

「Dファクトリーで強力なX線検出。」
CERNに再び警報音が鳴り響いた。
「一体どういうことだ。ブラックホールは完全に密封したはずだが。」
ホルムシュタイン主査官以下のEUチームは足早にDファクトリーのモニタールームへと向かう。しかし、そこでは既に恐ろしい事態が進行していた。
ブラックホールを包み込んでいたはずの鉛製のカプセルは無残にも歪み、わずかに開いた裂け目からブラックホールから放射されるエネルギーの光が、今度はハッキリと肉眼でも確認できた。
「信じられん。厚さ20センチの鉛製のカプセルが。何ということだ。」
今、人類は初めてブラックホールの恐ろしく凄まじい力を目の当たりにした。アインシュタインの予言どおりブラックホールの周囲では空間自体が歪められ、その空間に巻き込まれた物質は、鋼鉄だろうが鉛だろうが、いやそれだけではない、この地球上で最も固いとされるダイヤモンドでさえ、長いゴムひものように引き伸ばされ、やがては渦を巻いてブラックホールの中に吸い込まれていく。
空間が歪むとは一体どういうことか。膨らんだ風船を両手で捻じ曲げるところを想像して欲しい。風船は手の力で簡単に形が変わる。風船の中に水が入っていれば、水も同じように形を変える。
同じように、神の手は人間の手の何兆倍の何兆倍の何兆倍もの力で空間を捻じ曲げる。同じように空間の中に入っている物体も全て捻じ曲がる。そしてブラックホールに落ち込むときはバラバラになり素粒子レベルの粉になっている。
「ここは、危険です。すぐに緊急退避を。」
対策チームの1人が叫んだときは、時既に遅かった。
「ギャー」
研究員の1人をX線ジェットが直射し、研究員は床に叩きつけられた。
「シールド作動。」
その声と同時に、Dファクトリーのモニタールームを閉鎖するシールド扉が下がり始めた。扉が下がり切る前に、一同が目にしたものは、大きく歪み、引き伸ばされて、ブラックホールの膠着円盤の中へと引きずり込まれていく鉛製のカプセルの最期の姿であった。
「おい、しっかりしろ。」
ホルムシュタイン主査官が負傷した研究員を助け起こそうとしたが、ミシェル主任研究員がそれを制止した。
「主査官、お下がりください。二次被曝の危険があります。」
強力なX線照射を受けた研究員の肩は無残にも焼け爛れ、赤黒い肉がのぞいていた。周囲には溶けた被服と焼け焦げた肉の匂いが立ち込めた。
「メディカル、すぐにDファクトリーへ。負傷者1名、X線の大量被曝。」
素早くメディカルルームに連絡を取るミシェル主任研究員。軍隊経験のあった彼は、放射能被曝に対する訓練も受けていた。このような場合、大量の放射能を浴びた負傷者の体には残留放射能が滞留している。うかつに素手で触れば確実に二次被曝に遭う。かわいそうだが、負傷者は防護服を着た救護斑が到着するまで、放置するしかない。
主査官以下、Dファクトリーに入った10名の研究員は、ミシェル主任研究員の誘導に従いファクトリーの外に出て、メディカルチームの到着を待った。

その2日後、公平とケイトがホルムシュタイン主査官室に呼び出された。まだ研究所内で起こっている事態を知らされていない2人は、てっきり例の論文のことだと思った。2人が研究所のホームページの掲示板に張り出した論文は、最初は懐疑の目で読まれていたが、今では日増しにアクセス件数が増え、所内に限らず全世界を巻き込んだ論争を引き起こし始めていた。主査官も当然目を通しているはずであった。
「すごいわ。コーへイ。主査官が直々に及びなんてありえない。」
ケイトは興奮冷めやらぬ声で、何度も公平の方を振り向きながら主査官室へと歩みを進める。
ホルムシュタイン主査官と言えば、ノーベル物理学賞を10個もらってもまだ足りないと言われるほどの大科学者である。千人を超える優秀な物理学者が集まるこの研究所で、まだ学生上がり程でしかない無名の一研究員が直に主査官と話しをするなど普通では考えられない。
「どうしたの、コーヘイ。そんな浮かない顔をして。嬉しくないの。」
ムッツリと押し黙ったまま歩みを進める公平に向って、ケイトは覗き込むように声をかけた。
「いや、ちょっと、嫌な予感が。」
公平は、ボソリとつぶやいた。公平は何となく胸騒ぎを覚えていた。研究所の正式な許可もなく、まるでブログに書き込みをするぐらいの気持ちで論文を発表した。そのことを咎められるのか。いや、それが問題だとすれば、当然査問委員会を通じて日本の主査官に連絡があるはずである。
しかし、今回はEU代表のホルムシュタイン主査官から直々に呼び出しがあった。そして、何よりも主査官から、今日主査官室で面談することは極秘にしてくれとの要請もあった。論文についての議論を交わすだけなら、何もそこまで大げさにする必要はない。楽天的なケイトに対して、いつも冷静でどちらかというと悲観論者の公平にとっては、今回の呼び出しがどこか普通ではなかった。
主査官室は、EUチームの活動域であるAファクトリーの一番奥にあった。2人は緊張した面持ちで主査官室のドアをノックした。
「カムイン。」
中から声がして、電解錠の外れる音がしたかと思うと、ドアはスッと開いた。
「あっ。」
一瞬、ケイトの声が上がった。てっきり主査官1人と思っていた2人にとって、ミーティングテーブルに居並ぶ10人ほどの蒼蒼たる面々を目の前にして、足がすくんだ。世界物理学研究会でもゲストスピーカーに選ばれそうな面子が何人もいる。公平にも見覚えのある顔がいくつもあった。一体、今からここで何が始まるのか。
「いやー、よく来てくれた。まあ、座ってくれたまえ。」
中央に座っていたホルムシュタイン主査官が2人に席をすすめた。昨年の世界物理学研究会で見たときは壇上のスピーカーであった主査官が、今日は手を伸ばせば届きそうな場所にいる。テカテカと輝く頭に、立派な口ひげは典型的なドイツ人の風貌である。主査官の右隣にも見覚えのある顔があった。ぼさぼさの頭に鋭い眼光、ミシェル主任研究員である。
予想外の状況に2人の緊張は一気に高まった。
「君たちの論文、読ませてもらったよ。いやー、素晴らしいの一言に尽きる。」
まず、ホルムシュタイン主査官の口から賛辞の言葉が出た。やはり例の論文のことであった。しかし、油断は禁物。この世界では、どんな駄作にもまずは儀礼的な賛辞が送られる。その後に、「しかし」という言葉が来る。2人は、その言葉を受けるべく身構えた。
「まあまあ、そう固くならんでくれ。今日は君たちの論文を吊るし上げにするために来てもらったんじゃない。」
2人は、拍子抜けした。もちろん論文の中味に自信はある。しかし、これだけの蒼蒼たる面々に囲まれて質問攻めにあえば一たまりもない。いくらディベートが得意のケイトでもお手上げである。それが、どうやらそういうことではないらしい。
「実は、今日来てもらったのは、君たち2人の知恵を借りたくてね。」
主査官の口から意外な言葉が出た。知恵を借りる? IQ200を軽く超えるような面々が10人もいて、その上に何の知恵が要るのか。
しかし、次の主査官の一言で2人の人生はすっかり狂ってしまうことになる。
「そ、それって。本当なんですか。」
2人は顔を見合わせた。主査官はこれまでの経緯をかいつまんで2人に話した。物理学者の端くれならば、その先を聞かずとも、今回の事態の重大さとこれから起こるであろうことは簡単に予想できた。
「X線を遮蔽して、カプセルの中を真空にすればブラックホールは消えるかもしれないと考えたが、少し考えが甘かったようだ。やつはカプセルそのものも捻じ曲げ、引き伸ばして、飲み込んでしまった。そして、今も成長を続けている。どうやら、こいつは我々の知る物理学では扱えん代物らしい。」
誰もが、その出現を予想しながら、すぐに蒸発して消えてしまうと、その危険性に考えが及ばなかった。それどころか、アメリカチームは、それを軍事目的に利用しようと考えた。まさに天に向って唾する行為であった。
公平は、早くからその危険性に気付いていた。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そしてエクストラ・ディメンジョンに無数の反物質が隔離された並行宇宙があるとしたら、ブラックホールを造ることは、2つの世界を隔てている壁に穴を開けることになる。それは自殺行為そのものである。
「君たちの論文があともう少し早ければ、今回の事態は防げたかもしれない。それが残念だ。」
主査官は、大きな嘆息を漏らした。公平もケイトも押し黙ったまま、石のように固くなっていく。仮に2人の理論が正しければ、この地球に、いやそんなものでは済まない。この太陽系全体あるいは天の川銀河全体にとっても大変な未来が待ち受けていることになる。
ブラックホールは宙に浮くただの穴ではない。今我々が住む世界とエクストラ・ディメンジョンにある別の世界とをつなぐへその緒のようなものである。へその緒を切らない限り、新生児を母親から切り離すことが出来ないのと同じで、ブラックホールだけを包み込んでどこかへ運ぶなどということは不可能なのである。それは、エクストラ・ディメンジョンにある別の宇宙全体を引っ張ろうとするのと同じだからである。
「で、率直に聞くが、何かいい知恵はないか。この化け物のような穴を塞ぐいい方法は。」
公平とケイトは顔を見合わせた。これだけ居並ぶ蒼蒼たる世界の頭脳を前にして、知恵をくれといわれても、すぐには考えが思いつかない。公平は、事の重大さとこれから予想される大惨事のことで頭の中が真っ白になり、考えの整理が付きかねていた。
1分2分と沈黙の時間が経過していく。主査官の唇が微かに動いたと思ったその時。
「1つだけ、可能性があります。」
公平の口が開いた。
「反陽子の塊をつくり、それをブラックホールの中心に向けて打ち込めば、ブラックホールを蒸発させることが出来るかもしれません。」
「は、反陽子の塊だと。バ、バカな。」
ミシェル主任研究員が怪訝そうな顔で尋ね返した。いくら物理学会の天地を揺るがす新しい理論を発見したといっても、公平はまだ学位も正式に得ていない新米研究員である。会議室の中に冷ややかな嘲笑の囁きが上がった。どんな素晴らしい理論も、所詮は理論、机上の空論であって、実証がなされなければ意味はない。
「まあ、まあ、その先を聞こうじゃないか。」
ホルムシュタイン主査官が場のざわつきを抑えた。
「私たちの理論が正しければ、ブラックホールの特異点より向こうは、エクストラ・ディメンジョンにある反陽子ばかりで出来た別の宇宙と繋がっています。ご存知のように私たちの世界の物質は、全て電荷がプラスの陽子と電荷が中立の中性子ばかりで出来ています。その物質がブラックホールに吸い込まれれば、別の世界の反陽子と出会い、どんどん対消滅を起こして消えてゆきます。この連鎖は、陽子か反陽子のいずれかが全てなくなるまで続くと考えられます。」
ここで、少し専門的な説明が必要であろう。ブラックホールの特異点とは、ブラックホールに吸い込まれた物質が最終的にたどり着く1点である。理論上は、特異点では密度と重力が無限大になると言われえいる。物質をどんどんと押し縮めていくと、その密度はどんどん高くなっていく。ブラックホールの中では地球が角砂糖ほどの大きさに押し縮められる。特異点はそれをさらに小さく押しつぶす。密度無限大である。
しかし、ちょっと待った。いくら重力が強くても、現に存在する地球規模の物体を針の先より小さい1点に押し込めるなど、どう考えても何かがおかしい。神の手が実在したとしても、どこか変だ。
しかし、マイナス1があれば話は変わってくる。公平の言うとおり、ブラックホールの中で陽子と反陽子が対消滅を起こしているとしたら、ブラックホールは無限に物質を吸い込めることになる。
特異点は、陽子と反陽子が最終的に出会い消滅する場所なのである。
「この対消滅をどこかで止めることが出来れば、ブラックホールはエネルギーの供給を断たれ縮小してゆくでしょう。反陽子の塊をほんの一瞬でもブラックホールの中に送り込めれば、電荷が同じである向こうの世界の反陽子と反発しあい、対消滅の連鎖は止まると考えられます。」
公平は自信を持って、自らの理論を説明した。公平の理論は、要するにブラックホールの穴を反陽子ばかりでできたふたで塞ぐということに他ならない。バスタブの栓を抜いたら、当然バスタブの中の水は渦を巻いて排水管に吸い込まれていく。それはバスタブの中の水が全てなくなるまで止まらない。でも、バスタブの栓を元に戻せば、渦の吸い込みは止まる。理屈は簡単である。
しかし、大きな問題があった。
「君の理論はよくわかった。ただ、問題はそれだけ大量の反陽子の塊をどうやって作り出すかだ。君も知っての通り、ここのLHCで反陽子の生成実験を繰り返したが、出てきた反陽子は10のマイナス10乗秒後には、陽子と合体して対消滅を起こしてしまう。それを塊にしてブラックホールの中に打ち込むなど、今の我々の技術では到底不可能だ。」
ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を肯定してはくれたが、反陽子の塊をブラックホールの中に打ち込むという途方もないアイデアは、今の人類にとってはまさにSFの世界の話であった。主査官は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。この男の言っていることは正しい。正しいが絶対に不可能だ。どんな早撃ちガンマンでも10のマイナス10乗秒の瞬間を捉えて弾を発射するなど、神でもない限り出来ない。
ミシェル主任研究員も話にならないとばかりに、斜に構えて、嘲笑の笑みを浮かべていた。彼にしてみればじくじたる思いがあった。フランス政府が国を挙げて送り込んだカプセルが無残にもブラックホールに飲み込まれ、真空状態でブラックホールが消滅すると主張した自説も脆くも崩れ去った。そんな難物を、日本のしかも無名の一研究者が簡単に消滅させでもしたら、自身の沽券にもかかわる。
しかし、公平は諦めなかった。
「確かに解決すべき問題はあります。ただ、全く策がないわけではありません。アインシュタインの一般相対性理論によれば、重力の大きな物体の近くでは時間の進み具合が遅くなるはずです。」
「あっ。」
ミシェル主任研究員の喉から小声が漏れた。一流の物理学者ならば、その先を聞かずとも公平が何を言おうとしているのか、一瞬のうちに理解できたはずである。
アインシュタインは、相対性理論で、光速に近い速度で進む物体では時間の進み具合が遅くなると解いた。しかし、彼は同時に重力の大きな物体の近くでも同様のことが起きると予言した。このことは既に実証され、実用化されている。地球上と人工衛星とではごく僅かであるが時間の進み具合がずれる。GPSはこのわずかの時間のずれを補正しないと正確に位置を示せなくなる。これは、もはや理論ではなく現実なのである。
だとすれば、ブラックホールの事象の地平線の近くでは大きな重力により時間の進み具合が遅くなっているはずである。
公平の説明が続く。
「粒子加速器で光速の99.99%まで加速した中性子同士を、ブラックホールの事象の地平線から10のマイナス5乗メートルのところで衝突させれば、反陽子が対消滅を起こすまでの時間を3秒程度にまで引き伸ばすことができると思われます。その瞬間に、その塊を強力な電磁場を使ってブラックホールの中に打ち込むのです。」
公平は、今まさに自らが考えた理論を実証して見せようとしていた。大体、物理学の世界では理論が実証されるというのは、理論が発見されて何十年も後になってということが多い。ノーベル物理学賞の受賞者に高齢者が多いのもそのせいである。若くして斬新的な理論を発見したとしても、それが生きている間に実証されるという保証はどこにもない。
公平は、運がよかったのであろうか。もし、この方法でブラックホールを消滅させることが出来たなら、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きているとする公平の理論が実証されることになる。
「そうか、分かった。やってみよう。」
ホルムシュタイン主査官は、軽く頷きながら静かに会議の終了を告げた。


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