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作品名:鬼父の子 作者:ツジセイゴウ

最終回   後編
 面会の日が来た。やっとのことでたどり着いたこの日。僕は、興奮のあまり昨夜はほとんど眠ることが出来なかった。一体、父はどんな顔をして僕に合間見えるのか。
 予定の時間より30分も早く刑務所に着いた僕は、受付で手続きを済ませた。今日は、通知状があったため、ほとんど何も聞かれずに面会室へと進むことが出来た。
 待っている間、緊張のあまり僕の体は小刻みに震え、喉がカサカサに渇いていくのが分かった。喫唾しようにも唾液も出ない。そしてなぜか息も苦しい。もうあと一分もこのままにしていると失神してしまうのではないかと思ったその瞬間、窓の向こう側の小部屋の扉が開く音がした。僕の心臓は、胸から飛び出さんばかりに高鳴った。一体、どんな恐ろしい殺人鬼が姿を現すのか。アクリル製の窓に仕切られているというのに、襲われる心配など絶対無いはずなのに、僕の頭の中をアドレナリンが駆け巡り、僕は一瞬身構えた。
 しかし、看守に連れられて入ってきた父の姿を見て、僕は拍子抜けした。と同時に、ヘナヘナと椅子の上にへたり込んだ。父の姿は、凡そ凶悪殺人鬼とは思えない、柔和な表情の小柄な中年男であった。殺人犯だと言われなければ、全く普通のおじさんである。丸い目に、小さな鼻、少し肉厚の唇、一見して血の繋がった親子だと思った。ひげはきれいに剃られ、顔の色艶もよい。これが刑の執行を待つ死刑囚かと思わせるほどの落ち着きぶりであった。
「では、時間は30分です。私はすぐ扉の外にいますから、何かあれば。」
 看守は、一言そう言い残すと、部屋から出て行った。
 密室で二人きりになると、僕の心臓は再び高鳴った。一体、この男はこの僕に何を話すのか。そして、僕はこの男に何を話せばよいのか。部屋の中は、二人の鼓動の音が聞こえるのではないかと思われるほどの静寂に包まれた。口を開くことが憚られるような重苦しい空気がその場を覆っていた。持ち時間は30分しかとないというのに、もう1分2分が過ぎてゆく。
 最初に沈黙を破ったのは父の方であった。
「お前が、卓也か。」
 少し低いが、ハッキリとした口調で父は尋ねた。僕は黙ってうなずいた。
「幾つになった。」
「16。」
 全く感情のないモノトーンなやりとりが続く。
「そうか、もうそんなになるか。早いもんだな。あんなに小さかったのにな。」
父は、フーっと大きな嘆息を漏らすと、チラリと脇を向いた。そうであろう。何しろ父が逮捕されたのは僕がまだ1歳にも満たない乳児の頃。父は、その後の10数年間をずっと拘置所と刑務所の中で過ごしてきた。訪れる家族もなく、もちろん家に残してきた母や僕のことなど知る術もない。その間、ずっと裁判に次ぐ裁判、判決が出た後も再審請求と、父は刑務所の中で生と死の間をさ迷い続けてきた。
僕は、最も聞きたいと思ってきたことをどう切り出せばいいのか迷っていた。「なぜ。」、その一言がなかなか口に出せず、相変わらず黙りこくっていた。しかし、程なくその答えは父の口から出た。
「お前、オレが何であんなことをしたのか、それが聞きたくてここへ来たんだろう。」
 図星であった。というより、父にとっては当たり前のことだったのかもしれない。10数年前も経ってわざわざ死刑の確定した囚人に会いに来る、それ以外に目的などありようはずもない。僕は、またしても返す言葉を探しあぐねて、視線をそらした。
 再び重苦しい沈黙が流れた。その時、僕はふと嫌な予感に襲われた。僕はこのところ人一倍神経過敏になっていた。その過敏症が、わずかに歪む父の口角をとらえた。聞いてはいけない、すぐにこの場を立ち去れ、でないととんでもない不幸がお前を襲う、と誰かが囁いたような気がした。
しかし、次の瞬間、逃げ出す間もなく父の口から思いもよらない言葉が飛んできた。
「卓也、お前、虫を殺したことはあるか。」
 僕は、最初、父が何を言っているのか、すぐにはその言葉の意味が分からなかった。
「虫?」
「そう、虫だよ。虫を殺したことがあるかって、聞いたんだ。」
 僕は、父の意図するところを測りかねて、口をつぐんだままでいた。一体、父はこんな質問をすることで何をしようというのか。しかし、次の瞬間、父の口角はさらに不気味に捻じ曲がった。
「フン、どうせ、蚊やハエぐらいだろう。もっとでかいのはどうだ。」
 父は、まるで僕の心の内を見透かしているかのように、鼻先で笑ってみせた。
「ムカデはどうだ。ムカデは。」
 ムカデと言われて、僕は背中がぞくりとした。実を言うと僕はムカデの実物を見たことがなかった。百科事典で初めてそれを見て、この世には何と気持ちの悪い生き物がいるものだと思ったものである。父は、そんな不気味なムカデを殺したことがあるのだろうか。
「そうだろうな。今時、都会じゃムカデなんて滅多に見かけないからな。だが、俺が子供の頃には一杯いた。田舎の家だったからな。夏になれば天井や畳の上、家の中のそこいら中をよく這っていた。俺はあいつが嫌いだった。まあ、好きなやつなんていないだろうがな。俺はあの醜い姿を見つける度に心の底から怒りと恐怖を覚えた。なぜこんな不気味な生き物がこの世にいるのか、と思った。」
 ムカデが家の中を這いずり回っている。それを想像するだけで、僕の心臓は既にドクドクと波打っていた。しかし、父は、さらにその僕の心臓を停止させるような暴言を口にした。
「俺は、あの日、そうあの暑い夏の日、家の壁に張り付いているデカイのを見つけた。10センチほどもあるでかいやつだった。黒光りがする背中に、赤い腹、それぞれの節についた足がゾリゾリと動いている。俺は恐怖のあまり目が点になった。あの時だった。こいつを生かしておいてはいけない。こいつはすぐに始末されなければならない。それも、こいつの体にふさわしい出来るだけ残酷な方法で、とな。」
 そして、父、いやもうただの父ではない、鬼父の話はこの後、語るもおぞましい展開をみせる。
「俺はムカデをしっかりと竹の棒で抑えつけた。ムカデは見つかったとわかったのか、身を捩じらせて圧迫から逃れようとする。あの醜い体を何度も何度もくねらせてな。俺は、ムカデが動けないようにと、用意してきた虫ピンでムカデの頭と尻、そして体の丁度真ん中辺りを壁に釘付けにしてやった。そう、まさに壁に磔にされたムカデは百本の足をジタバタと動かした。自分がなぜ動けないのか、百本もある足をこんなに動かしているのになぜ前に進まないのか。あいつにはそれがわからない。」
 僕は、あまりの恐ろしさに完全に凍り付いていた。全身が石のようになり、息も出来ず、瞬きも出来ず、ただただ鬼父を凝視していた。その鬼父の口はさらに邪悪に歪んでゆく。
「俺は、ムカデを処刑してやった。そう、爪切りを使ってな。プチリプチリと音を立てて、1本ずつ。百本切り落とすのに20分もかかったよ。そしてゆっくりと虫ピンを抜くと、素っ裸にされたムカデ君は、ポタリと地面に落ちた。まだ自分の体に何が起きたのか分かっていないムカデ君はクネクネと足のなくなった体をくねらせていた。アッハハハ。」
 鬼父の口が大きく割れ、中から不気味な歯がギラリとのぞいた。僕は全身の震えが止まらず、食道の中を胃液が逆流してくるのを覚えた。思わず口を押さえて部屋を出ようとした僕の後姿に向かって、鬼父はさらに追い討ちをかけるように声を浴びせた。
「おや、もう帰るのか。最後まで聞かなくていいのか。話はまだ半分も終わってないぞ。」
 僕は、なぜかそこで逡巡した。出ようと思えばすぐにでも逃げて出られたのに、なぜか足が動かなかった。僕は、不思議な感覚に囚われ始めていた。怖い、いいようもなく怖いのに、なぜか続きが聞きたいと思った。それはまるで怖いと分かっていてお化け屋敷に入りたいと思う、あの感覚に似ていた。怖い怖いと言いながら指の隙間からホラー映画を覗き見する、あれに似ていた。止せばよかったのに、僕はきびすを返してしまった。
「そう、そうだろう。お前はやっぱり俺の子だ。最後まで話を聞かずには帰れない。」
 鬼父は不遜な笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ次は毛虫の始末の仕方を教えてやろう。俺の家の庭にはな、昔柿の木が一本あった。当時は、田舎に行けばどこの家でも柿の木があった。秋になればたくさん実がなって、それをもぐのが楽しみだった。ただ、そのためにはどうしてもやらなければならないことがあった。害虫の駆除だ。虫のやつらめ、春になると柿の木の新芽を食べに来やがる。それも一匹や二匹なんてものじゃない。何十匹という集団だ。そいつらがうじゃうじゃと木にたかって新芽を食い尽くす。」
 僕は、再び背筋がぞくりとした。何十匹という毛虫がたかった柿の木、想像するだけでも鳥肌が立った。しかし、その後の鬼父の話は、さらに身の毛もよだつものに発展していく。
「俺は思った、こいつらを始末しなければならない、それもこいつらの姿形にふさわしい、出来るだけ残虐な方法で、とな。普通、農家では毛虫を駆除するのに農薬を使う。噴霧器に入れた水に農薬を溶かし込んで、後は木に放射する。それで、大抵の毛虫はお陀仏だ。でも、俺のやり方は違う。もっと丁寧で確実だ。」
ニヤリ。僕は、ここで鬼父の顔を見上げて卒倒した。目は充血し、口は大きく裂け、口角にはすでに泡が立ち、鬼父は囚人服の袖口で垂れ落ちる唾液を拭った。
「俺は、用意した虫ピンを一本プスリと毛虫君に刺してやった。虫ピンは毛虫君の体を貫き、しっかりと柿の木の枝に突き刺さった。毛虫の奴、逃げようと必死になって体をよじらせる。でもどうしても逃れられない。毛虫はさらに大きく身を捩じらせる。その時、2本目の虫ピンが、プスリ。2本のピンが刺さるとさすがにもう動けない。磔にされたも同然だ。」
 僕は、あまりの気分の悪さに両の手で口を押さえた。洗面器があれば、間違いなく吐き上げていただろう。そんな苦しさの中で、僕は辛うじて狂者の結語を耳にした。
「後は動けなくなった毛虫君をゆっくり料理するだけだ。1本、また1本と虫ピンが刺さっていく。新芽を腹一杯食い尽くした毛虫君は、これ以上ないほどにパンパンに膨れ上がり、ピンが刺さる度にダラダラと緑色の体液を滴らせていく。1本刺さるごとに大きく体をくねらせて苦悶する。ざまあ見ろだ。柿の木の新芽を食べた天罰だ。10本もピンを刺すころには、毛虫君は小さく萎み、動かなくなった。
それから、1本また1本とピンを抜いて・・。」
「やめろー、やめてくれ。」
 僕は、両耳を塞いで絶叫した。鬼父だ、間違いないこいつは鬼父だ。こいつの体の中には鬼の血が流れている。僕は、そう確信した。
「どうしたんです。何かありましたか。」
 僕の絶叫が聞こえたのか、奥の扉がガチャリと開いた。
「こいつを、こいつを、早く死刑にしてください。早く、早く、死刑に。」
 僕は、再び絶叫した。自分の親を早く死刑にしてくれと言う。常人には言えたものではない。しかし、今目の前にいるのは、僕の父親などではなかった。父の仮面を被った鬼だ。この鬼を退治するには吊るし首にするしかない。僕は、咄嗟にそう思った。
「おい、お前、一体この子に何を話したんだ。」
 看守が鬼父に詰問する。
「別に何も。ちょっと虫の殺し方を教えてやっただけですよ。」
 鬼父は、ニタリと笑った。
「よし、終わりだ。もう時間だ。」
 看守に促されるように、鬼父はゆっくりと立ち上がった。僕は、軽いめまいを感じて、ヘナヘナと椅子の上に崩れ落ちた。鬼父は面会室を出て行く瞬間チラリと僕の方を見やって、再び邪悪な笑みを浮かべた。
「お前にもいつか分かる日が来るさ。お前の体の中にも俺と同じ血が流れているからな。『カエルの子はカエル』、さ。へへへ。」
 鬼父は、不気味な笑い声を残して扉の奥へと消えていった。
 やはり母の言ったことは正しかった。あの男に会ってはいけなかったのだ。僕の考えが甘かった。いくら恐ろしい殺人鬼でも、実の子に会えば少しは心が動くだろう。僕は父の心の中に微塵の情の欠片が残っていることを期待した。しかし、そんな僕の期待は無残にも打ち破られた。やはりあいつは鬼父だった。
そして、何よりも非情だったのは、ぼくが鬼父の犯した罪の真の「動機」とやらを聞いてしまったことだ。結局、動機などなかったのだ。鬼父は最初から自身の邪悪な欲望を満たすために、虫を殺し、そして最後には同じように人の子までを手に掛けた。あの虫たち以上の残忍なやり方で。僕は恐ろしくてその詳細をここにしたためる術を知らない。その言葉も思い浮かばない。虫の話だけでご容赦いただきたい。後は、読者のご想像におまかせする。
僕が、唯一言えることは、『快楽殺人』なるものが本当にあったということだけである。

あの日以来、僕の悶々が再び始まった。これまでに味わったことのない深い、深い苦しみ。僕は、そのまま、また何日も部屋にこもった。部屋にこもり、あの鬼父が語った話を何とか消化しようとした。
しかし、どんなに時間をかけても、僕の悶々は消えることはなかった。それどころか、今度は僕の心の奥底に、あの鬼父と同じ邪悪な心が密かに芽生え始めていた。
『カエルの子はカエル』、鬼父が最後に言い残した言葉。なぜか、あの言葉が無性に気になり始めた。カエルの子はカエルとはどういう意味か。僕もいずれあの鬼父と同じ殺人鬼になる、そういう意味か。
何日も眠れぬ夜を過ごし、僕の頭の中は次第に溶けるように夢と現の境を行き来し始めた。そして、僕が最後にたどり着いた結論とは。
それはインターネットの中にあった。『精神異常、遺伝』とキーワードを入力してENTERキーを押し下げる。続いて5万件という膨大な数字が出てきた。こんなにたくさんの情報が。やはりカエルの子はカエルなのだろうか。精神異常は遺伝するのか。僕は、そこに記された記録を一件、一件丹念に調べていった。
僕と同じような悩みを抱えた人のブログに始まり、難解な専門家の研究レポート、精神障害者を擁護するNPO団体の記事、等々何時間掛けても読みきれないほどの膨大な量の情報が、僕の目から脳へと送られていった。そんな中で、僕は一編の研究レポートに目を留めた。日本のものではなかった。よくは覚えていないが、アメリカの大学のとある教授が書いたレポートを翻訳したもののようであった。
そのタイトルは、『人はなぜ快楽殺人を犯すのか』。FBIの特別捜査官を経験したことがあるという筆者の研究は実に生々しいものであった。あの有名な小説『羊たちの沈黙』に書かれていたようなことも一杯書いてあった。そのレポートはこんな一節で終わっていた。
「一般的には精神病が遺伝するという病理学的根拠はない。いわゆる『精神病の家系』というのは遺伝的ファクターよりは、むしろその人が育った環境的ファクターによるところが大きい。例えば、親が粗暴で残虐性を好む性格であれば、多かれ少なかれその子はそうした親の一面を見て育つ。成長過程で親の残虐性に触れることもあれば、自らがその犠牲になる場合もある。それを体感することで、脳内の感情野に著しい障害を来たし、大人になった後も正常な人格を確立できずに、犯罪に走ってしまう。つまり、子の残虐性は、遺伝によるものではなく、その育った環境によるものである。」
 僕は、これを読んでホッとした。よかった、精神病は遺伝しない。カエルの子は必ずしもカエルにはならない。父親がどんな凶悪殺人犯であっても、必ず僕が凶悪殺人犯になるということではない。僕は物心ついてからはあの鬼父とは別れて暮らしている。そう、優しい母の手で育てられた。環境的ファクターに問題があろうはずもない。よって僕が凶悪殺人犯になることはない。
 そのことは自身が一番よく分かっていた。子供の頃から虫一匹殺せない、どうしようもなく気の弱い性格に育った。そんな僕に凶悪殺人など犯せるはずはない。僕は、妙に納得してほくそえんだ。しかし、そんな僕の安堵感は、間もなく打ち破られることになる。この論文にはまだ続きがあったのである。
「ただ、ごく一部には生化学的にみて遺伝性があると指摘する学者もいる。長年に渡り凶悪殺人犯の脳内物質のバランスを調べた結果、そこにはある共通点が見られたという。すなわち、凶悪殺人犯においては他の一般人に比べて、アドレナリン受容体に問題があり、そのためにアドレナリン依存症を発症しやすいというものである。アドレナリンは、人が恐怖や危険に対する防御体勢を取るのに必要な脳内化学物質であり、この物質が分泌されると脈拍増加、血圧上昇等の興奮反応を生じる。
一般的にはギャンブル依存症がその一例とされている。すなわち、ギャンブルで一度大勝ちすると、その時の興奮が忘れられず、ズルズルとギャンブルにのめりこんでゆく。これまでは、生活習慣や人間の嗜好等個人的なファクターによるとされてきたが、近年では薬物依存に類似した精神疾患として捉えるのが主流となっている。この他にも類似の症状として、買い物依存、ゲーム依存、ホラービデオ依存など、様々な依存症が研究対象とされている。
ホラービデオ依存症の患者を対象にした調査で、ビデオを見ている時の被験者の脳内ではアドレナリンの前躯体であるドーパミンの分泌が著しく増加することが確認された。これは、依存症の患者がその対象物に依存することで興奮や快感を得ているということを意味する。そして、同様のことが、性犯罪、快楽殺人等の原因にもなる可能性が指摘されている。 
この学説は、今のところ学会の中でも少数意見であり、根拠も薄いとされるが、最終結論を下すには更なる調査と実例研究が必要と考える。」
 僕は、この一節になぜか拘泥した。普通に読み流してしまえばどうということがない一節であった。少数学説など信頼しなければ、それで全ては終わっていた。しかし、それに妙に拘ったのは、やはり僕の心のどこかに鬼が潜んでいたからなのであろうか。
 僕は、再び悶々とした世界に浸りこんでしまった。やはりカエルの子はカエルなのだろうか。そして凶悪殺人犯の子は凶悪殺人犯なのであろうか。僕の脳内の奥底のアドレナリン受容体にも問題があり、それが原因で僕もやがては快楽殺人依存症になってしまうのか。
オタマジャクシもいつかはカエルになる。全く違う姿かたちをし、大人しそうに水の中をゆらゆらと泳いでいるオタマジャクシ。しかし、いつかは足が生え、エラがなくなり、水の中から外界へと飛び出していく。そして、虫を取ってムシャムシャと食べてしまう、あの不気味な姿になるのだ。

 そんなことをつらつらと考えながらも、僕はようやく学校に復帰した。ただ、いつも見慣れていたはずの校舎や教室、そしてクラスメイトたちの顔が全く違って見えた。同じものを見ているはずなのに、なぜか全てに色がない。モノクロの映画を見ているようだった。あの鬼父の顔が常に頭のどこかにあり、あの鬼父の声が常に頭のどこかで聞こえ、そしてあの研究レポートの文字が常に目の奥に見えた。
そんなある日、とうとう事件は起きてしまった。どうということはない普通の事件だった。いや全く事件なんていうものではなかった。そう、普通の人にとっては。
その日は、インフルエンザの予防接種の日だった。予防接種自体は別に強制ではなかったが、僕の通う高校では受験シーズンを前に、例年希望者に集団接種が行われていた。僕も、毎年のように予防接種は受けていた。確かに効き目があるのか、子供の頃はよく風邪で熱を出していたのに、予防接種を受け始めてから風邪で寝込んだことはなかった。
世の中に注射が好きな人はいないだろう。チクリとした針の刺さる痛み、そしてジワーと薬液が入っていくあの不快な痛み。子供のようだと思われるかもしれないが、何を隠そう僕も注射は大の苦手だった。僅か2、3秒のことが辛抱できず、いつも目をつむって脇を向いていた。
その日も同じだった。皆、腕まくりをしてもいつものように順番に並んでいる。僕と同じように、恐る恐る袖を手繰り上げている奴もいれば、どこにでも打ってくれとばかり豪快に片肌脱いでいる奴もいる。でも、皆にぎやかにワイワイ言いながら順番を待っていた。いつもと変わらぬ光景であった。
白衣を着た医者と看護士が何十本と積まれた注射器を一本一本手にとっては、次々にクラスメイトの腕に刺していく。皆、一瞬眉をひそめるが、終わるとすぐ笑顔になり教室に戻っていく。僕は、いつもと同じようにドキドキしながら順番を待っていた。
そしてついに僕の順番が来た。
「はい、腕の力を抜いて、楽にしててね。」
 余程、緊張したように見えたのか看護士が笑いながら、アルコールを染み込ませた脱脂綿を僕の二の腕に当てた。ヒンヤリした脱脂綿の感覚が肌に伝わったその瞬間、僕の脳内をアドレナリンが駆け巡った。これは何だ、この感覚は一体・・。僕が頭の中の混乱を理解する間もなく、注射針がプスリと僕の肌を貫いた。いつもと違う感覚が僕を襲った。どう表現したらよいのか分からない。ただ、いつものような嫌な感覚ではなく、なぜか不思議と気持ちよく感じた。僕の脳内をアドレナリンの洪水がザーッと流れていくのが分かった。
「はい、終わりましたよ。後、よく揉んでおいてくださいね。」
 気が付いた時、もう注射は終わっていた。僕は、不思議な気持ちに包まれたまま保健室を後にした。
ほんの微かな、注意しなければ分からないほどの心の奥底の揺らぎ。この時、僕はこの不思議な気持ちが悪魔の囁きだとは気が付かなかった。
 その日の夜、僕はじっと注射の跡を眺めながら、昼間のことを考えていた。なぜあんなことが起きたのか。あの不思議な感覚は何だったのか。僕は、そっと左腕に触れてみた。注射の跡は少し赤みを帯び熱っぽかった。軽く押すとずんとした鈍い痛みが腕から脳に伝わり、再びアドレナリンが脳内を循環した。そして、ついに僕は禁断の実験を決行してしまった。
 夜も更けて母が寝静まった頃、僕は二つのものを用意した。一つは裁縫箱の中から、そしてもう一つは救急箱の中から。僕は、震える手で消毒薬のビンの蓋を開けると脱脂綿に液を染み込ませた。僕の脳内のアドレナリン分泌量は急速に増加し、心臓の鼓動が感じられるほどに脈拍が速くなった。しかし、僕の右手は止まらない。いや止めることが出来なかった。僕は、ゆっくりと片肌を脱ぐと上腕に濡れた脱脂綿を当てた。ビーン、昼間と同じ感覚が脳内を貫いた。
そして、次の行動の準備を始めたとき、僕は心臓が止まるのではないかと思うほどの興奮に包まれていた。吐く息は荒く、口の中はカサカサに乾き、異常な刺激が体全体に走る。僕はゆっくりと右手の人差し指と親指でつまんだ縫い針の先を、先ほど脱脂綿で拭いた後に当てた。軽く右手に力を込めると、針の先はわずかに皮膚の中に消え、微かな痛みが皮膚に走り、昼間と同じ感覚が僕の脳内に蘇った。これだ、あの不思議な感覚はこれだったのだ。初めての経験であった。初めて経験する自傷行為。
腕に刺さった針を抜く時、僕は何ともいえない快感を覚えた。針を抜いた後に小さく湧き出した赤いポッチ、赤い血玉が僕の興奮を倍加させた。これが地獄の始まりだった。

 あれから3ヶ月後、僕は新聞で父の死刑執行の事実を知った。法務大臣が執行許可書に署名したのである。今回は全部で3名、いずれも強盗殺人などの凶悪犯罪者ばかりであった。父の死刑執行の知らせは母のところにもなかったようである。無論、周囲の誰も知らない。近所の人も、学校のクラスメイトも、『渡辺正二』という人物が僕の実父だったということには微塵も気づいていなかった。
あの写真が出てこなければ、あの裕也兄さんの写真さえ出てこなければ、母の完全犯罪は成立していた。これまで16年間隠し続けた事実、引越しもし、戸籍も抜き、父に関する全ての情報を消し去り、僕を鬼父の悲劇から守り通したはずだった。時効まであと一息というところで、非情にもあの写真が出てきた。
 鬼父は、地獄で嘲笑っていた。
「カエルの子はカエルだ。」
僕の耳には、あの鬼父の声がハッキリと聞こえた。刑務所の中で、鬼父が最後に残した言葉、それは僕を地獄に引きずり込む悪魔の囁きであった。
 僕は、自身の運命を呪った。あと半年、あと半年父の死刑執行が早ければ、僕はカエルの子にならずに済んだ。実の父親が凶悪殺人犯だったというも知らずに、僕は平和で平凡な人生を送っていたであろう。母もそれを一番望んでいたはずだった。別に、偉くならなくてもいい、立身出世もしなくていい、とにかく一人の人間として何事もなく一生を送ってくれる。それだけで十分だと。
 結局、母は父の死刑執行については一言も言葉を発しなかった。僕の方からも敢えて話すこともなかった。実の父親が死んだというのに、その死に顔を見ることはおろか、その名前すら口にすることはなく、母と子は静かにその魂が地獄に堕ちていくのを見送った。
 しかし、鬼父が死んでも物語は終わらなかった。いや、それどころかこの地獄劇は、その最終章へ向け、さらに狂気の度合いを増していく。
 あれからも僕の自傷行為は相変わらず続いていた。もう縫い針を刺すぐらいでは効き目がなくなり、とうとうカッターナイフを手にしてしまった。最初は、怖さ半分、好奇心半分だった。僕は、恐る恐るカッターナイフを左腕に押し付けるとゆっくりと下に引いてみた。艶々とした肌が割れ、中からわずかにピンク色の肉がのぞいた。不思議と痛みは感じなかった。脳内の快感物質が痛覚神経を麻痺させ、むしろ快感の方が勝っていた。
 しばらくすると開いた傷口にフツフツと血玉が沸いてきた。そんな大量の出血ではない。ティッシュで拭けばすぐに血玉は消えた。ただ、赤い血の色は余計に僕の興奮を高めた。もう自分でも何をしているのか分からない。自身で自身の体を傷つけそれで喜びを感じる。そんなバカな、と思うことがいま目の前で現実に起きていた。
 僕は、今確信を強めた。やはり僕はカエルの子だったのだ。いくら隠しても、いつかは足が生え、エラがなくなり・・。僕は、その先を考えないようにした。一体、この異常な感覚はどこまで拡大するのか。自分の体を切り刻むだけでは飽き足らず、やがて他人の体を切り刻むのではないか。そんな恐怖心がムラムラと沸いてきた。
僕は、大慌てで傷を隠した。この傷が母に見つからないようにと、特大の絆創膏をぺたりと貼り付けた。若い体は傷の治りも早い。幸い傷跡は1週間ほどで僅かな細い線を残してすっかり癒え切った。でも、僕の脳内の傷は癒されなかった。いや、それどころか邪悪な鬼父の血は、ますます強力に僕の心を支配していった。

 僕が、カッターナイフで自傷行為を始めて2ヶ月、ついにその日はやって来た。その夜、母が寝静まったのを確認した僕は、いつものようにカッターナイフを手にした。もう繰り返し同じ場所を切っているので、腕の傷跡は醜く肉が盛り、どす黒く変色していた。
 僕は新天地を求めて上半身裸になった。僕は、自身の裸体を鏡で見て興奮した。若い体は色艶もよく、肌にも張りがあった。僕は、今度は乳首の少し上、鎖骨の下あたりにカッターナイフを当てると胸の方に向かって引いてみた。胸のあたりは腕よりも痛点が多いのか、いつもよりは強い痛みを感じた。同時に、今までなかったような大量のアドレナリンが脳内に噴出した。切り口から滲み出た血玉が一つまた一つと集まって成長していく。やがてツーと乳首の脇を通り上腹部に向けて赤い糸が伸びた。
 その瞬間である。地獄劇の最終章の幕が突然開いた。予鈴も、何の前触れもなく、幕が上がってしまったのである。そこには、何の準備もできていない役者が一人座っていた。
「卓也、夜食持ってきたわよ。」 
 最終章の最初の台詞は母だった。寝入っていたはずの母が、なぜここに。普段は、夜食なんか滅多に持ってこないのに、今日に限って。母は、何か気配を、そう鬼の気配を感じたのかもしれない。
僕が、胸の傷を隠す間もない、アッという間の出来事だった。母は、僕の姿を見るなり、両手の力が一気に抜けた。手にしていた夜食のラーメンが、音を立てて僕の部屋の床一面に飛び散り、ラーメン鉢が真っ二つに割れた。その時の母の表情は、どう表現しても表現しきれない。母は、呆然として部屋の入り口に立ち尽くしていた。
 僕の狼狽振りも相当なものだった。あまりに混乱して、次の台詞を忘れてしまった。大勢の観客が見守る中、二人の役者が対峙したまま台詞のない時間が過ぎてゆく。観客は沈黙も劇の一部だと思ったことであろう。その、長い、長い異常な沈黙を破ったのは、母の号泣する声だった。
 僕は、何も言わず、流れ出た血を拭くこともなく、シャツを着た。何も言えない、言う言葉もない。僕は、ただただ黙って、母の慟哭する姿を見つめていた。どのくらい時間が経ったであろう。母は、ようやく顔を上げた。あの時の母の顔は一生忘れない。泣き腫らした目からは血の涙が流れ、血の気の引いた唇は微かに震え、眉間のしわは一層深くなり、顔色には死相が漂っていた。
「同じ、同じだった。あの時と同じ。どうして、どうして、こんなことが・・。」
 母は、震える声で、意味不明の言葉を口にした。「同じ?」、一体何が。
そして、次の瞬間、僕は驚愕の台詞を、僕の台本には載っていなかった狂気の台詞を、絶対聞いてはならない言葉を、耳にしてしまった。
「あの人と同じ。あの人も最初、そうだった。」
 「あの人?」、 あの人って誰? まさか。
「あの人よ、あの人。そう、あなたのお父さん、そして私の夫だった人。渡辺・・」
 と言い掛けて母は再び慟哭の淵に沈んで行った。長い、長い、悲痛な叫び。聞いているだけで胸が張り裂けそうな悲鳴。僕は、母の号泣する声を黙って聞いていた。
 その夜、母は何時間も掛けて、ゆっくりとゆっくりと、そして何度も何度もつまずきながら驚愕の回顧談を語った。それは、語るにおぞましい狂気の内容であった。
 あの時の、母の話を整理すると大概以下のようになる。
 鬼父『渡辺正二』も最初は自身の体を傷つけることから始まったという。「ピアスをする」と偽りの言い訳をして腕や腹に針で穴を開けたり、刺青を彫ったりもしたという。それが次第にエスカレートし、ナイフで腕や肩を切るようになり、やがてその魔の手は、裕也兄さんや僕にも及び始めることに。
「卓也、ちょっとシャツを脱いでみて。」
 母は、唐突に僕にシャツを脱げと言った。僕は嫌だった。別に、母に僕の裸体を見せるのが恥ずかしかったわけではない。先ほど自分で自分を傷つけた、あの傷を見られるのが嫌だった。僕は、しかし、言われるがままにシャツを脱いだ。胸の傷からの出血はとっくに止まり、赤黒く糸を引いた血の後が不気味な姿を残していた。
 母は、そんな傷などまるで目に入らぬという素振りで、今度は僕に後ろを向けといった。一体、僕の背中に何があるというのか。僕は、ゆっくりと椅子を回転させて母に背を向けると、横目で鏡に映った自身の背中を見た。母は、ゆっくりと僕の後ろに近づくと、僕の背中をそっと指でなぞった。母の冷たい人差し指が肩甲骨の脇の当たりに触れ、ゾクッとするような感触が全身に伝わった。
 その時、僕は鏡の中に見てはならないものを見てしまった。
「ほら、見える。この傷痕。」
 母は、今一度、その場所を指でなぞった。よく目を凝らして見ないと分からないような微かな皮膚の変色。それは細い糸のように僕の肩甲骨の脇から背中の方へと伸びていた。今まで、全く気付かなかった。それ程、微かで、細い線。しかし、僕は、その傷跡に見覚えがあった。どこかで見たような傷跡。アレだ、アレと同じ。初めてカッターナイフで付けた傷、その癒えた痕にそっくりであった。その後、僕は、母の口から驚愕の事実を知らされた。
「コレ、あの人が付けたの。」
「エッ?」
 僕は、一瞬わが耳を疑った。鬼父が、狂気の刃を僕の背中にも押し当てていたのだ。それもわずか生後6ヶ月の赤ん坊の背中に。
 その後、母はゆっくりと着ていたパジャマのボタンを外し始めた。僕は、とても嫌な予感に襲われた。この先を見てはいけない。ここから先は禁断の聖域。僕の心臓が心室細動を起こし始めた。口の中がカサカサに干上がり、息が出来ない。しかし、母の手は止まらない。ゆっくりと諸肌脱いだ母の肩から背中にかけて、例の傷跡が不気味な姿を現した。
「この私の傷、あなたの背中の傷と同じ時に出来たのよ。」
 アア・・。何と言うことか。僕は、この瞬間、これまで何百回と見続けてきた夢の正体を知った。それは、フラッシュバックのように生々しく僕の脳裏に蘇った。生後間もなかった僕は、まだ白い天井を仰ぎ見て寝ることしか出来なかった。遠くで聞こえる子供の泣き声、あれは間違いなく裕也兄さんの泣き叫ぶ声。やがて、鬼父の魔の手はまだ乳児だった僕にも及びそうになり、それを必死に庇おうとする母。僕を胸の中にしっかりと抱きしめたまま、母は鬼父の刃を背中に受けた。これが悪夢の正体だった。いや、夢なんかではない、16年前、現実に起きた事件だったのだ。
 全てを語り終えた母は、そっと僕の背中に頬を当てた。これまで16年間育ててきたこの僕をいとおしむかのように、母は何度も僕の背中に手を当てた。僕の背中は、母の頬が濡れているのを敏感に感じ取った。裸で抱き合う母子、その2人を優しく包むように窓から柔らかい朝の暁光が差し込み始めた。
僕は、そっと目を閉じて、母の次の台詞を待った。覚悟は出来ていた。
「卓也ー、許してー。」
 その絶叫と共に、母は目にも留まらぬ速さで僕の勉強机の上に置かれていたカッターナイフを手に取った。次の瞬間、僕の右わき腹に激痛が走った。ズブズブズブ、ナイフの刃が腹の中にめり込んでいく。皮膚を貫き、肉を切り、さらにその奥底に隠れている肝臓の奥深くまで、刃先が到達していくのがハッキリと分かった。これまで感じたことのない激しい痛み、息も出来ないほどの苦しさ。にも関わらず不思議と恐怖は感じない。脳内に溢れ出したアドレナリンが、恐怖心と痛みを消し去り、奇妙な快感だけが残った。究極の自傷行為。
 これでよかったんだ、これで。僕の心の中は不思議な安堵感で満たされつつあった。母は、僕が完全なカエルになり切る前に、それを制止しようとした。僕が、あの鬼父と同じ鬼の子になる前に、この地獄の惨劇の幕を自らの手で下ろしたのである。
 薄れ行く意識の中で、僕がかろうじて最後に目にしたものは、母の首筋から真っ赤に上がる血飛沫の一閃であった。
 結局、母は頚動脈断裂により即死。一方、僕はというと三日三晩生死の境をさ迷った挙句、何故かこの世に呼び戻された。あの時、僕は無意識の中で鬼父の声を聞いた。間違いない、あれは鬼父の声だった。
「卓也、お前はまだ早い。お前には、まだやり残したことがあるだろう。カエルの子はカエルだ。」

あれから15年。僕は、今忠実に鬼父の遺言を守って生きている。自傷行為の癖は何とか克服したが、最近は他傷行為の方に凝っている。
今日も、僕は、生きた人の体を切り刻んでいる。生身の体を切って、切って、切りまくり、手も、腕も、人の血で真っ赤に染まっている。でも僕は、決して警察に捕まることはない。いくら切り刻んでも絶対に捕まらない、罪を問われることもない。なぜなら、メスを握るのが僕の職業だからである。(了)


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