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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

最終回   エピローグ
 恵子の研究結果はWHOに送られ、約1ヵ月後正式な結果報告が出された。
『最近、日本国で多数報告されている大規模な男性不妊の原因は、給食制度で使用されている食器にある可能性が非常に濃厚である。当機関(WHO)としては、日本政府に対し、給食で使用されている食器をより安全性の高い材質のものに改めるよう正式に勧告する。また、我々は、今回の事態を重く受け止め、ビスフェノールAに関する安全基準を早急に見直す手続きに着手した。』
恵子の研究結果は、今度は世界的な権威によりはっきりと裏づけされた。もはや誰も疑いを挟む余地はなかった。

「いやー、津山君、おめでとう。本当によく頑張ったね。」
 篠原教授は、満面の笑みを浮かべた。恵子と一輝は、今回の研究結果の報告のため恩師宅を訪ねていた。例のMA米騒ぎの責任を取って薬学研究所の所長を辞任した後、教授はすっかり第一線を退き、自宅で隠遁生活を送っていた。
「もう、研究所の方も大騒ぎだ。何しろ君たちは、この国の危機を救った英雄だからな。」
「また、先生お得意のお世辞が始まった。」
「バカな。何でわしが世辞なんぞ言わにゃならん。本当のことだ。」
 教授の言葉に、恵子と一輝は互いに顔を見合わせて大笑いした。
「でも、先生、気になることが。」
 しかし、すぐその後、恵子の声の調子が暗くなった。
「例の件か。」
「ええ、一色さんの忠告してきた期限を過ぎてしまった。もう後戻りは出来ないんですよね。」
 その一言に、教授は、大きなため息を漏らしながらソファにもたれかかった。
 WHOへ正式な調査の依頼をしたために、一色修也が設定した挑戦状の期限、妊娠22週目を既に3週間ほどオーバーしてしまっていた。ここまで来ると、もう中絶は出来ない。修也の言葉が本当ならば、間もなく世界初のクローンベビーが誕生することになる。
 教授は、渋い表情で、あごに手を当てた。その時、教授の夫人が大慌てで部屋に入ってきた。その手には、コードレス電話の受話器が握り締められていた。
「あなた、警察の方から電話が。」
「何、警察。」
 一瞬、3人の顔に緊張の色が走る。夫人も心配顔で恐る恐る教授に受話器を渡す。
「はい、はい、そうですか。はい、分かりました。じゃ、明日ということで。」
 一頻り真剣な表情で受話器を握り締めていた教授は、やがて放心状態で話を終えた。
「例の女性が自殺したそうだ。」
「じ、自殺ですって。」
「ああ、昨夜のことらしい。」
 恵子は開いた口に手を当てた。何と哀れな結末。自ら世界初のクローンベビーの実験台となり、あと一息というところで、子供の命ばかりか自らの命までをも絶ってしまった。身重のまま自ら逝った女性の気持ちを思うと、恵子は同性として居たたまれない気持ちになった。夫人もハンカチで口を覆っている。
「解剖の結果、胎児のDNAと父親のDNAが完全に一致したらしい。」
「と言うことは、やっぱり。」
「そうだ。胎児は、完全無欠、父親のクローンだったということだ。一色君には正式に逮捕状が出たそうだ。ヒトクローン規正法違反の容疑だ。私には、参考人として一色君の研究について、詳しく話を聞きたいということらしい。」
 一輝は、茜のことを思い出していた。子供が欲しい。その欲望のために、この夫婦も破滅への道を突き進んでしまった。恐らく、自殺した女性は、罪の意識に苛まれ続けていたに違いない。自らの欲望と身勝手のために法を犯し、まるで悪魔の子を身ごもってしまったかのように報道されたこともあった。世界初のクローンベビーの母親、勇気溢れるヒロインとなるはずであった人が、あっけなく地獄に堕ちてしまった。
「一色君は、クローン技術によってこの女性に子供を授けてやることは出来た。しかし、彼は人にとって一番大切なものを、この夫婦に授けてやることが出来なかった。」
「大切なもの?」
「そう、心だよ。人の心。人は獣じゃない。子供を産めさえすれば、それだけでいいって言うのなら犬畜生と何ら変わりはない。不妊治療にとって一番大切なものは、顕微授精でも、クローン技術でもない。メンタルケアだよ、メンタルケア。自身の血を分けた子孫を残すことが出来ない、その苦しみをいかに理解し、いかに解放してやれるのか。彼は、そんな基本的なことを忘れていたんだよ。」
 恵子は、いつかどこかで聞いたような言葉だと思った。この女性も、もう少し早くあの温泉女将に巡り合っていたら、もっと違った人生を歩んでいたかもしれない。そのことが残念でならなかった。
 一輝も、同じ思いであった。その通り、自分は人としての『心』をなくしていた。子供だけが全てで、茜の気持ちも、いや自分自身の気持ちすら理解できないでいた。一輝は、いま改めて深い悲しみと反省の念を抱いて、茜の顔を思い出していた。茜が、ようやく天国から微笑みかけてくれたような気がした。
「ねえ、先生。お願いがあるんですけど。」
 恵子は、背筋を伸ばすと、改まって切り出した。
「お願い?」
「ええ、その、つまり…、仲人をお願いしたいんですけど。」
「な、仲人って、君、結婚するのか。で、相手は一体どこの誰…」
 恵子は、少し恥じるように、一輝の方にチラリと視線を向けた。一輝は、あまりに突然の言葉に絶句した。もちろん恵子のことは学生時代からよく知っている。でも、自分のようなバツイチ男になぜ。一輝が口を開く間もなく、教授の夫人が先に答えを出してしまった。
「そ、それは、おめでとうございます。」
 教授も、嬉しそうに頷きながら、ニヤリと笑った。
「そうか、そういうことか。君は、不妊研究でも第一人者になったが、どうやら恋愛術の方もすっかり先輩を追い越したようだな。」
「恵ちゃん、ホントにいいのか。子供出来ないかも…」
 と言いかけて、一輝は大慌てで口を塞いだ。『子供、子供』はもはや禁句であった。
篠原教授の家から、男女4人の賑やかな笑い声がいつまでも響いていた。
 
日本列島を襲った不妊騒ぎも、これでようやく一段落することとなった。
一色修也によりクローンベビーを妊娠させられた残りの女性たちについては、本人の同意の下、中絶手術が行われることとなった。政府は、WHOの勧告を受け容れ、給食の食器は全て磁器製のものに改めるよう通達を出した。また、政府公認の精子バンクの設立は中止となり、代わりに不妊治療に関する健康保険の適用範囲を拡大することとなった。
しかし…。その頃報日新聞の社会部には、人知れず外電が入り始めていた。
「米国ロスアンゼルス近郊の病院で、大量の男性不妊患者発見。新種の環境ホルモンか。」                                (了) 

後記

この小説はフィクションであり、事実と異なる箇所も多々あります。特に、メタミドホスに不妊効果があるという事実は報告されておりません。また、給食の食器も現在ではすべて安全なものに切り替えられており心配する必要は全くありません。
ところで、かく言う小生も男性不妊患者の1人です。子供はいません。原因も分かりません。
ただ、最近の有力な説にストレス原因説があります。魚類の中には、自然に性転換するものがいます。その理由には諸説ありますが、エサが不足してくるとストレスホルモンの分泌が増加し、それが生殖ホルモンのバランスが崩して最終的にオスがメス化するというものです。因果関係は解明されていませんが、群れ、ひいては種の全滅を防ぐために巧妙に仕組まれたプログラムではないかと考えられています。
翻って、人間界を見てみるとエサ不足なんて問題はないように見えます。でも、「エサ=所得」と考えると必ずしも安心していられなくなります。厳しい競争の中で、十分な所得を得るために人々にかかるストレスは確実に増えてきています。格差、貧困、うつ、自殺、暴力、そして不妊…。


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