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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

第8回   8
 東京に戻った恵子と一輝は、早速健常者の生育地の村役場や町役場に電話を架けて、給食の有無を調べ始めた。
「やはり、ここも分校は、お弁当だったわ。」
 結果は恵子の予想通りであった。生殖機能に異常の見られなかった男性の多くは小学生時代をお弁当で過ごしていた。2人はもはや給食を疑わざるを得なかった。
「でも給食の何が問題なの。先輩の言うように、給食は厚生労働省の厳しい基準で監視されている。とにかく一度給食センターに行ってみないと。」
 一色修也の挑戦状の期限まで後3週間、それを過ぎればもう後戻りは適わなくなる。
「所長、お願しますよ。日本の将来が掛かっているんです。」
 一輝は深々と頭を垂れた。2人は一輝が以前取材に行ったことのあるという埼玉の給食センターを訪ねていた。このセンターは衛生管理のモデルセンターとして何度も厚生労働省から表彰を受けていた。数年前、出血性大腸菌O157の騒動があった時に、給食センターがどのようにして食中毒を防止しているのかを調査した。調査結果は報日新聞でも大きく採り上げられ、全国的に話題となったセンターである。
「と言われましてもねー。今回は事情も違うし、それに役所の許可も無いんじゃ。」
 所長は渋い表情だった。今時珍しい黒縁の眼鏡を掛けた所長は神経質そうな顔をさらに歪めた。それもそのはずである。モデルセンターと言われる給食センターが、今世間を大騒ぎさせている環境ホルモンを混入させていたと分かれば、それこそ一大事である。
「ですから。これは新聞記者としての取材じゃなくて、我々は真実を知りたいんですよ。それにもし何らかの環境ホルモンが原因だとしたら、それはここだけの話じゃなくて全国全ての給食センターに当てはまるんです。子供たちの、いえこの国の将来が掛かっているんです。絶対ご迷惑はお掛けしませんから。」
「でも、うちは厚生労働省の厳しい基準を守ってやってますからねー。そんなことは絶対にないと思いますよ。」
 一輝が必死になって説得を続けるが、所長はなかなか折れようとしない。管理者としての自信と責任感が一層ガードを固くしているようであった。
「その厚生労働省の基準が怪しいからこうやって確かめに来ているんです。私も自分が不妊症患者でなければ、何もここまでしませんよ。」
 一輝が声を荒げたその瞬間、所長の態度がガラリと変わった。
「えっ。あ、あなたが。そ、それは、知らなかった。」
 所長は、済まなさそうに目を伏せるとそのまま考え込んでしまった。しばらくして所長はようやく思い腰を上げた。
「少しだけですよ。それと新聞沙汰だけは絶対なしですよ。」
「あ、有り難うございます。」
 2人は大慌てて立ち上がると、声をそろえて頭を下げた。
その後、2人は所長の案内で調理場に向った。入り口の手前で白衣と白帽を着け、さらに専用のゴム長靴に履き替えさせられた。まるでこれから手術室に入っていく外科医のような恰好である。何千、何万という子供たちの健康を預かっているのである。いくら厳重にしても過ぎることはない。
 ガッシャン、ガラガラ。2人が調理場の入り口に立った時、凄まじい音がこだました。体育館ほどあると思われる広い調理場は、さながら工場のようであった。中央に据えられた巨大な洗浄装置には、今使い終わったばかりの無数の食器が流し込まれていく。やはり同じように白衣を付けた大勢の職員が忙しく立ち働いている。その内の1人が機械のスイッチを入れた。ブーンという音とともに洗浄機が回転を始めた。
「うちのセンターは東地区の11の小学校と4つの中学校を担当しています。毎日1万5千食余りの給食を供給しています。」
 所長が声を大にして説明を始めるが、洗浄機の音がうるさくて良く聞こえない。そのうち、3人の見ている前で、職員の1人が重そうなポリ容器を抱えると、ドクドクと緑色の液体を洗浄機に流し込み始めた。
「あれは、何ですか。」
「洗浄液ですよ。殺菌作用を高めるために塩素系の消毒薬が入っています。注入量は厚生労働省の基準で決められています。」
 所長はそう言いながら半透明のポリ容器に付された目盛りを指差した。その間にも、先ほどの職員は管理日誌にポンとスタンプを押すと、そそくさと次の作業場へと向っていった。2人が日誌を見ると、毎日欠かさず洗浄液を注入した日付と時間そして注入量が記録されていた。
このようにして毎日決められた量の洗浄液が間違いなく洗浄装置に注がれているのである。薬液の注入し忘れが食中毒など思わぬ大事故を引き起こしかねない。作業は慎重の上にも慎重を期して進められていた。恵子は、ポリ容器に記された薬品名を素早くメモに取った。
 3人は洗浄室を後にすると続いて隣の調理室へと入った。調理室では既に明日の献立の準備が始っていた。毎日午前11時に管轄内の全ての小中学校に1万5千食分の給食を遅れることなく配達するのは並大抵のことではない。山のように積まれた人参が流し込まれるように裁断機に吸い込まれていく。機械の向こう側には巨大なポリバケツが細かく刻まれて出てくる人参を受け止めていた。恵子は自分達が普段何も考えずに食べていた給食が、こうした大きな舞台裏で作られていたことを知って大変驚いていた。
「このファイルは何かしら。」
 恵子は調理台の脇の棚に並べられたA4サイズ程のバインダーに目をやった。
「あっ、これね。これは毎日の献立毎に投与された添加物と調味料の記録ですよ。これを見れば、いつ、誰が、どの献立に何をどれだけ入れたかが分かるようになっています。食中毒の防止が主目的ですが、子供たちの成長や栄養状態を管理する目的でもデータは使われています。もちろん添加物の量なども全て厚生労働省の基準で定められています。」
 冊子の各ページには、カレー、ハンバーグ、野菜旨煮、ポテトサラダ等々の献立名とともにその日に供給された食数や添加物や調味料の投入量が記され、担当者と責任者の印が押されていた。どこまでページを繰っても、もれ一つなく記録は取られていた。
 2人はこの水も漏らさぬ徹底的な管理にとても驚いた。もちろん食中毒など絶対にあってはならないものではあるが、まるで養鶏所の鶏のように均一に規格され、管理された食べ物を毎日食べされている子供たちの姿を思うと、内心複雑な気持ちであった。あの神谷村の子供たちは本当に楽しそうにお弁当を食べていた。手作りであれば、たまには失敗もあろう、ひょっとするとお腹を壊すこともあるかもしれない。でもどちらの子供たちの方が本当に幸せだろうか。2人はそんなことを考えながら調理場の様子をボンヤリ眺めていた。
「ほら、これでお分かりになったでしょう。全ては厚生労働省の基準に従ってやっているんです。万が一にも間違いなどあろうはずはありません。不妊の原因はもっと別のところにあるんじゃないですか。」
 所長は自信たっぷりに笑ってみせた。なるほど所長の言う通りかもしれない。この水も漏らさぬ徹底管理は、日本人の最も得意とするところであった。やはり給食もダメか。2人が半ば諦め顔で調理室を出ようとしたそのとき、カランカランという音とともに2人の見ている目の前に白いプレートが1つ転がってきた。
「あーら、ごめんなさい。手が滑ったわ。」
 先ほどの洗浄機から取り出す際に、職員の一人が手を滑らせたらしい。
「気を付けて下さい。この季節が一番食中毒の危険性が高いですからね。」
 慌てて拾おうとする白衣姿の女性に所長が声を掛けた。しかし、その声を遮るように恵子は咄嗟にそのプレートに手を伸ばした。
「す、すみません。これ、頂いてもいいでしょうか。」
 所長は、一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、すぐに笑顔を返した。
「ええ、いいですよ。こんなにたくさんありますから。でも、こんな物持って帰って一体どうされるんですか。」
「え、ええ。ちょっと気になることがあって。」
恵子は、あいまいな返事をした。恵子にも確信があるわけではなかったが、その食器はポリカーボネイト樹脂(PC樹脂)製の可能性があった。ポリカーボネイトはプラスチックの一種で、割れにくく熱にも強いことから食器の原料として幅広く使われていた。しかし熱湯を入れるとビスフェノールAという環境ホルモンがごく微量ではあるが溶出することが確認されていた。このビスフェノールAという物質はごく微量でも長期間取り続けると体内に蓄積し、生殖機能に影響する可能性のあることが指摘されていた。
 2人は、丁重にお礼の言葉を述べると、給食センターを後にした。

夕刻、浦和駅前。
「今日午後、日本クローン技術研究所は、新たに5人のクローンベビーの妊娠を確認したと発表しました。代表の一色修也所長によりますと、半年前世界初のクローンベビーを妊娠したとされる女性が20週目を迎え、胎児は順調に成長しており、クローン技術による医学上の問題は全てクリアされたとのことです。所長の話では、来週にはさらに8人の女性に受精卵の移植が行われるとのことです。
 これを受け、厚生労働省はヒトクローン規正法に基づき、近く同研究所に立ち入り調査を実施すると発表しました。」
 駅前の電器店の店頭に並べられた10数台の大型テレビには、自信に満ちた一色修也の顔がアップで映し出されていた。同じ映像もこれだけ数多く並ぶと返って不気味に見える。まるでクローンで作り出されたかのように、同じ顔が同時に同じ仕種をする。果たして、このようなことが現実になってしまうのであろうか。
「大変なことになったわ。あの人は本気だわ。」
恵子は、大きな嘆息を漏らした。約束の時限まであと2週間を余して、修也は新たな挑戦に着手した。3千人が登録を済ませたというのが事実ならば、待ち切れない不妊症患者は我先にと一色修也の餌食に堕ちてゆこう。実験台になることを希望する人はいくらでもいた。

「もう時間がないわ、急がなきゃ。」
 マンションに戻った恵子はすぐさまインターネットにアクセスした。パソコンの傍らには、給食センターでメモってきた薬品や添加物の名の記された紙が置かれていた。この薬品や添加物に関する記事なら何でもいい、とにかく何か男性不妊に結びつくような研究、記事がないかと恵子は手当たり次第に探し始めた。WHO、環境保護団体、薬事学会のウィブサイト、とにかく関係のありそうなものは片っ端から開いて行く。
しかし、それはまるで大海に小舟で漕ぎ出して行くようなものであった。そもそもこれらの薬品や添加物の全ては厚生労働省が長い年月をかけて研究した結果、基準値を定めて運用してきたものである。民間の一研究員の手におえるような代物ではなかった。ましてや結論の当てもないまま手探りで探し回ることにどれ程の意味があるというのであろうか。
 一心不乱に画面に向う恵子のために何もしてやれない自分に腹立たしさを覚えた一輝は、黙って立ち上がるとキッチンに向った。今夜は長丁場になりそうである。一輝は手探りでコーヒーカップを探すと、眠気覚ましにとかなり濃いめのコーヒーを入れた。
「ありがとう。」
 一輝が差出すコーヒーカップをチラリと横目で見た恵子は、しかし、マウスを動かす手を緩めようとはしなかった。今はコーヒーに口を付ける時間も惜しい。
 一方、手持ち無沙汰の一輝はというとカップを片手にソファに腰を下ろした。
一体、日本はこの先どうなってしまうのか。もし、一色修也の言葉が本当なら、そして生まれ出てくる子供が本当にクローンベビーであったなら、政府はどうすればいいのか。まさか、クローンベビーを処分するわけにもゆくまい。クローンと言えども、生まれてしまえば一人の人間としての人格を得る。その命は、何者の手によっても奪い取ることは出来ない。
法は所詮法、いつかは必ず誰かの手によって破られる。倫理、宗教、哲学…、そんなものは子孫を残したいというごく当たり前の生物的本能の前では無力である。人は、もう後戻りできない河を渡ってしまったのかもしれない。
子供を作るのにセックスも要らなくなる時代がやってくる。セックスはやがてタブーとして廃れるであろう。そして能力を失した男どもは、もはや生物学的にも人間的にも無用の存在となるのである。人類史上かつてなかった壮大な実験が今始ろうとしてた。そんなことをつらつら考えているうちに、いつの間にか一輝はソファの上で眠り込んでしまった。
 どれくらい時間が経ったであろうか。一輝は人の気配を感じて目を覚ました。傍らには赤く目を腫らした恵子が座っていた。
「やっぱり何も出てこない。センターで使っていた薬品や添加物はどれも白ね。もうおしまいだわ。」
 恵子は疲れた表情で深いため息をついた。重苦しい沈黙だけが延々と続く。恵子は両手で顔を覆ったまま、悔しさに肩を震わせていた。一輝は言い様もない口の渇きを覚えて、たまらずテーブルの上に置いてあったコーヒーカップに手を伸ばした。しかし、カップの底にわずかに残っていたコーヒーはすっかり渇き切って、黒々とした渋だけが底の方にこびり付いていた。
 一輝は、軽く舌打ちして、カップをテーブルの上に戻した。恵子は、ボンヤリとそのカップを眺めていた。湯気と香りに満ちたコーヒーカップは人に安らぎとくつろぎを与える。一方、今ここにある枯れたカップ、それは、侘しさと空しさだけを感じさせた。今の恵子の胸中は、まさにこの枯れたカップのように乾き切っていた。
しかし、奇跡はまだ2人を見放してはいなかった。その乾き切ったはずのカップの底から、滲み出るように清水が沸いてきた。死人のようだった恵子の顔に朱がさした。
「ひょ、ひょっとして、これかもしれない。そう、これよ、これだわ。どうして今まで思い付かなかったのかしら。」
 恵子はその一言とともに、いきなりセンターで拾ってきたプレートを引っつかむと、一目散にドアの方へと駆け出した。
「恵ちゃん、どこへ行くんだよ。こんな時間に。」
 一輝がちらりと時計を見ると、もう真夜中の3時を過ぎようとしていた。引き止める間もなく、恵子はドアの外に出た。一輝も慌てて後を追う。一体恵子は何を思い付いたのだろうか。そしてこんな時間からどこへ行こうというのか。
 表に出た恵子はそのまま息を切らして駅の方へと走る。一輝も必死になって後を追いかけるが次第に2人の間の距離は開いてゆく。学生時代、片や長距離選手、そして片や短距離選手であった。駅までのマラソンは言うまでもなく恵子の勝ちであった。一輝が駅に着く頃、恵子は既に駅前に一台だけ残っていたタクシーに乗り込んでいた。続いて一輝も倒れ込むように乗り込む。
「お客さん大丈夫ですかい。」
 タクシーの運転手は心配そうに2人に声を掛けた。こんな真夜中に女と男が息も切れんばかりの追い掛け合いとなれば誰だって心配になる。恵子は息を切らせながら行き先を告げた。もちろん、そこは東都大学臨床薬学研究所。
「ごめんなさい、先輩。でも今度こそ本物かもしれないわ。」
 恵子は肩で息をしながら、プレートを握り締めた手に力を込めた。その間にもタクシーは深夜の街を疾駆し、やがて研究所のゲート前に着いた。恵子は、守衛にセキュリティーパスを見せると、そのまま入り口へと急ぐ。一輝も後を追うようにしてそれに続いた。
 恵子は、研究所の入り口で暗証番号を入力する。ガシャという音とともに電解錠が外れ、2人は真っ暗な夜の研究所の中へと入った。廊下は不気味なほど静まり返り、ところどころにある非常口のサインだけが異様に明るく輝いて見えた。恵子は、その廊下を小走りに進むと、やがて「分子構造解析室」というプレートの上がった部屋の前に立った。
恵子が先ほどのカードをかざすと、再び電解錠の外れる音がしてドアは軽く内側に開いた。 一体この中に何があるのか。一輝は恐る恐る恵子の後についてその部屋に入った。部屋の中には人の背丈ほどもある巨大な円筒形の装置が二基置かれていた。恵子は、その内の一つのスイッチを入れると、持ってきたプレートを円筒形の胴体部分の中央にセットした。ブーンという軽い音とともに明かりが点灯し、丸い小さな観察窓から先ほど中に入れたプレートが白く輝くのが見えた。
「これ、走査型の電子顕微鏡よ。今からこのプレートの表面を分析するの。」
 恵子はそう言うと、顕微鏡の脇に置かれたパソコンのスイッチを入れた。一輝はその一部始終を見て目を丸くした。小学校の理科室にある顕微鏡くらいしか見たことのない一輝にとって、無論電子顕微鏡を見るのは初めてであった。顕微鏡といえば、薄いガラス片の上に見たい試料を載せ、下から光を当てて観察するものとばかり思っていた。しかし、ここにある物はまるで違っていた。大きさといい形といい、およそ一輝の思い描く顕微鏡などではなかった。
「ほら、こうやったあの先から電子ビームをプレートの表面に当てるのよ。その反射具合でプレートの表面にあるナノ単位の細かい凹凸が観察できるの。」
 驚いて覗き込んでいる一輝を横目に、恵子はパソコンの画面を操作する。やがて一輝には訳の分からぬ映像が浮かび上がってきた。巨大な樹状のような構造物が浮かび上がり、その所々にごつごつした結晶様の物体が数多く張り付くようにくっついているのが見える。
「やっぱり予想した通りだわ。大量のビスフェノールAが沈着している。ほら、この木の根っ子のように見えるのがプレートの表面、つまりポリカーボネイト樹脂。そして棘のように刺さってみえるのが消毒液の分子だわ。その隙間を埋めている無数の小さな結晶構造、これがビスフェノールA。消毒液の結晶が触媒になってビスフェノールAの溶出を促進している。」
 すべすべに見えるプレートの表面が実際はこんなに凸凹していたとは。一輝は電子顕微鏡が映し出すミクロの世界に只々驚嘆していた。この走査型の電子顕微鏡の最大解像度は百万倍、通常の光学顕微鏡のさらに千倍以上小さな物質をも見極めることが出来る。このレベルまでくるともはや物というよりは、それを構成する分子の一つ一つまでも観察できる。いま目の前にある映像は、プレート表面のナノ単位の世界で起きていることをありのままに映し出していた。
「でも、どうしてそんな大量のビスフェノールAが。だってWHOや厚生労働省の実験でも安全性は確認されていたはずなのに。」
 一輝には原因がよく分からなかった。厚生労働省のあの水も漏らさぬ厳しい管理に見落としなどあろうはずがない。
「そう通常の状態ならね。でも化学や薬学の世界ではほんのわずかの条件の違いで全然結果が違ってくることもあるの。もちろんPC輝脂についても、熱湯、塩分、消毒薬、その他ありとあらゆる食品添加物に対する安全性テストは徹底的にやられたはずだわ。でも塩素系の消毒液の、しかも純度100パーセントの結晶がプレートの表面に沈着するという可能性までは誰も想定していなかったんだと思うわ。そうまさにあのコーヒーカップの底に付いた渋と同じことがこのプレートの表面で起きていたのよ。」
 恵子はそういいながら傍にあったフラスコに、蒸留水と書かれた瓶から水を注ぐと電熱器の上に乗せた。しばらくするとフラスコの表面にフツフツと小さな泡が吹き出し始めた。蒸留水が沸騰するのを待つ間にも、恵子はさらに自らの仮説を続ける。
「給食センターでは洗浄が終わるとそのままプレートを洗浄装置の中で高温乾燥させる。布巾でプレート表面に付いた水滴を一つ一つ丁寧に拭き取ることなどまずありえない。水分の蒸発とともにプレートの表面にごくわずかに残った消毒薬の濃度はどんどん上がってゆく。そして水分が全て蒸発すると消毒薬の結晶だけが薄い被膜となってプレートの表面に張り付く。ほら、夏の暑い日に陸上の練習をした後、ユニホームをきちんと水洗いしておかないと塩分が沈着して変色しちゃうことがあったじゃない。原理的にはあれと同じよ。そして張り付いた消毒薬の結晶がPC輝脂と反応し、想定外に大量のビスフェノールAを溶出させたのよ。」
 その間にもフラスコの中の蒸留水はぐらぐらと音を立てて沸騰し始めた。恵子は慎重に熱湯をプレートに注ぐ。一瞬にしてもうもとした湯気が上がった。
「でも、見た目はきれいだけど。」
「そう、被膜の厚さは千分の一ミクロン単位の薄さよ。人間の目には全く見えない。でもこうやって顕微鏡で見ればはっきりと分かるわ。」
 もはや疑いの余地はなさそうであった。日本全国の子供たちは長年の間、知らず知らずのうちにかなりの量のビスフェノールAを摂取させられていたのである。誰が悪いわけでもない。ほんのちょっとした人為の成せる業であった。
「でも、そんな危険性のある物質、どうして厚生労働省は禁止しなかったんだろう。だって、環境団体からも指摘があったんだろう。」
「そこがお役所仕事なのよ。薬害エイズ、アスベスト、BSE(狂牛病)…、どれをとっても皆同じことが言える。そう、健康被害がすぐには表に出ない。何十年も後になってやっと分かった時には後の祭り。非加熱血液製剤の危険性はかなり前から指摘されていた。でもはっきりとした確証がなかったから厚生労働省は禁止には踏み切らなかった。その結果、多くの人が知らない間にエイズに感染してしまったわ。薬事行政は、本来は「疑わしくは禁ず」でなくてはならないはずなのに、実際は「疑わしきは禁ぜず」となっていた。それで多くの悲劇が生まれたのよ。いいえ、今度ばかりは日本も滅亡の瀬戸際まで追い込まれたのよ。」
 一輝はやり切れない思いであった。科学の進歩が世の中を便利にした。給食制度のおかげで何百万、何千万という主婦の手間が省かれた。子供たちも一流の栄養士が作る献立を毎日食することが出来た。この制度でどれだけの国民が恩恵を受けたことであろうか。しかし、この画一化された食制度が日本をぎりぎりの崖っ縁に立たせる結果になろうとは、何という皮肉であろうか。あの神谷村のように昔ながらの手弁当の方がよかったのかも知れない。
『多様性は繁栄を育み、画一性は破滅へと通ずる』
 2人は、いま心底よりこの言葉の重みを感じていた。
 呆然と中空を見つめる一輝の目の前で、恵子は器用にピペットを操るとプレートからお湯を少しばかり抜き取った。そして壁際に置かれた分析装置の取水口に採取したばかりの試料を流し込んだ。液晶画面に表示される指示に従い、恵子が2度3度データを入力する。20秒、30秒と時間が経過していく。待っている時間が途方もなく長く感じられた。やがて分析終了の電子音が鳴り、暫くするとプリンタから解析結果がアウトプットされた。
「やっぱりすごい量よ。WHOが定める1日許容量の千倍近い量だわ。表面に沈着していたビスフェノールAがお湯の中に溶け出したのね。」


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