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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

第7回  
 翌日、関越自動車道を走る車の中に恵子と一輝はいた。2人でドライブに出かけるなど学生時代以来であった。あの頃、一輝は先輩としてだけでなく、一人の男性としてもよく恵子を誘った。恵子も、一輝には先輩以上の気持ちを抱いていた。今でもその気持ちは変わっていない。
 一輝は無言のまま車を走らせる。車の中に、男が一人と女が一人、普通なら楽しい会話が弾むはずのところである。しかし、今の2人にそれを求めるのは無理であった。一輝は一輝で、他人には言えない暗い過去を背負っていたし、恵子は恵子で、先日の研究発表の傷痕がまだ癒え切らずに疼いていた。2人が、本当の昔の2人に戻るには、まだまだ道程は遠かった。
 車は、いつしか前橋を過ぎ、一輝は渋川インターで高速を降りた。後はカーナビの仕事である。次第に高度を上げていく峠道を一輝は慎重に車を走らせる。尾瀬沼登山口まで後10キロという表示が見えたところで、カーナビは左折の指示を出した。
道は、さらに険しい峠道へと変わる。車は、センターラインもない細い道を何回もうねりながら上っていく。時折道の上に覆い被さるようにはみ出した熊笹の葉が車窓に当りバサバサと音を立てる。その時、車は急停車した。対向車である。こんな細い道でどうやって交わすのであろうかと見ていると、対向車はゆっくりとバックして待避所に下がってくれた。互いに一礼しながらすれ違う。どうやら相手は地元の人のようであった。物珍しそうに2人の乗った車を覗き込みながら過ぎ去って行った。
 峠道に入って30分も走ったであろうか、車はようやく神谷村に着いた。ある程度覚悟はしていたが、想像以上の山奥であった。一輝は狭い路地のような道を慎重に車を走らせる。やがて、2人は村役場の前に着いた。3階建ての役場の建物は、庁舎というには程遠い存在であったが、それでもこの村にあっては一際目立つ建物であった。
2人は、車を降りるとすぐさま3階の水道課に向った。受付で事情を説明すると、50過ぎの男性職員が現れた。胸に「神谷村水道課」とプリントされた作業着を身につけたその人は、一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、今全国で大騒ぎになっている不妊の調査だと説明すると、嫌な顔一つせず説明してくれた。
「うーん、水道水の方は、厚生労働省で定められたとおりの薬剤を、定められたとおりに毎日添加しているだ。こりが、その記録だが、全国どこも同じだと思うがのー。」
 恵子は、見せられた記録に目を通した。そこには、塩素系の消毒剤を始め、東京でも見慣れた薬品の名がずらりと並んでいた。どこまでページを繰っても、同じ記録がずーっと記されている。やはり水ではないのであろうか。
「井戸水、あるいは湧き水を使ってらっしゃる家庭はありませんか。」
「あーんと、昔はそんな家もあったかも知んねえなあ。だども、最近はねえんじゃないかな。水汲みって結構大変だしな。水道なら蛇口ひねるだけだもんな。」
 職員の答えはつれないものであった。2人は仕方なく、井戸水か湧き水を使っていそうな家を探し求めて村中を歩き始めた。とは言うものの、それは簡単な作業ではなかった。集落のほとんどは、山の中腹の斜面にへばりつくように一軒、二軒と散らばって建っている。10軒訪ねるだけでも、ちょっとしたハイキング並みであった。
 2人は噴き出してくる汗を拭いながら山道を歩いた。既に村役場の建物ははるか下の方に去り、鬱蒼と茂る木立の間に見え隠れしていた。いつしか道は急な上り坂となり、どこからともなく水音が谷を渡る風に乗って聞こえてくる。初夏の陽光に照らされた山々の緑がまぶしいほどに輝く。そこには環境ホルモンのかけらすら存在していないかのように見えた。
 やがて、2人は大きな門構えのある旧家の前で、庭木の手入れをしている村人を見かけた。近寄って声を掛ける。
「済みません、この辺りで湧き水を飲料水に使っているお家はないですか。」
「はあー、どちら様で。」
 もう80過ぎと思われるその老婆は、耳が遠いのか大きな声で尋ね返した。一輝は自分たちが東京から来た者で、今不妊に関する調査をしていることを説明する。分かっているのかいないのか、逐一頷きながら聞いていた老婆は、また大きな声で尋ねてきた。
「フニン? フニンって何の話ですかいの。」
 恵子は、ああとばかり額に手をやった。
「不妊です。だから子供が出来ない人が今日本全国にたくさんいて…」
「ほう、そりゃ大変なことで。じゃが、こん上の源爺さん家は、去年ひ孫さ生まれましたども。」
 どうやら、このご老人にとっては、今世間を騒がせている不妊のニュースなど全く別世界の出来事のようである。
「それで、お婆ちゃん家は、沸き水を飲み水に使っておられますか。」
 恵子は、再び老婆の耳元で大きな声を出した。
「ああ、使ってたよ。」
 老婆の返事に2人の心は躍った。見つかった。ついに湧き水を飲料水に使っていた家が見つかった。
「そ、その水は、どこですか。」
「すぐそこの谷ですわ。あそこから毎朝水を汲んでくるのはそりゃ大仕事でしたわな。戦時中は水道もよう止まってましたでな。」
「戦時中?」
 今度は、一輝がピシャリと額に手をやった。2人にもう話すことは何もなかった。2人は早々にその家を後にした。その後も、何軒か回ってみるが、ついに井戸水や湧き水を飲料水に使っていたとする確たる証拠は見つからなかった。
 いつしか、日は山の西側に回り、山の斜面に黒々とした影が落ち始めた。谷間の集落は日暮れも早い。2人はやむなくその日の調査を打ち切った。

「いらっしゃいませ。」
 女将らしき初老の女性が恭しく2人を出迎えた。麓に戻った2人は、その日は奥敷温泉に宿泊することにした。奥敷温泉郷は秘境ともいうべき山あいにあり、湯治場のような小さな温泉宿が数軒谷川沿いに並ぶように建っていた。シーズン外れということもあるのであろうか、あまり客の姿を見かけない。
2人が案内された部屋は、質素で昔風の造りであった。川面に面しているのであろう、微かに聞こえるせせらぎの音が静けさを一層増していた。ここは都会の喧騒とは別世界である。今、日本を揺るがす大騒動が起きていることなど想像もつかない。
「失礼ですが、ご夫婦でらっしゃいますか。」
 女将はゆっくりと急須を傾けながら2人に話し掛けた。咄嗟のことで何と返事をしてよいやらわからず、顔を見合わせている2人を見で、すぐに女将は苦笑した。
「あーら、ごめんなさい。あんまり仲がよさそうに見えたので、てっきり新婚さんかと。昔からここのお湯に浸かると子供を授かるって言われてましてね。新婚さんなら丁度よかったのにねー。」
 2人は思わず大笑いした。やはり、商売柄なのかあるいは年の功であろうか、女将は人を楽しませるのに長けた人のようであった。その後、一旦奥へ下がった女将が、よいしょと言わんばかりに分厚いアルバムを重そうに運んできた。
恵子は、ゆっくりとアルバムを開く。アルバムの中には、無邪気に笑う赤ん坊のアップの写真や、赤ん坊を抱いて嬉しそうに微笑む夫婦の写真が、所狭しと散りばめられていた。所々に礼状と思われる手紙も入っている。
「ここの湯に浸かって子供を授かった人達からのお礼状なんです。私が特に何かをして差し上げた訳ではないんですけど、皆さん余程嬉しかったのでしょうね。ご丁寧なことで。」
 どうやら女将は、こうした礼状の一枚一枚を丁寧にアルバムにスクラップしているようであった。縁もゆかりもない一見の泊まり客である。その一人一人に子供が出来ることを、まるで自分の事のように喜んで迎える。恵子は女将の誠実な人柄の一旦を垣間見たような気がした。
 一頻りアルバムのページを繰っていた恵子がふと顔を上げると、どうも一輝の様子が変である。いつぞやと同じであった。顔面が蒼白になり、息遣いも荒くなっている。先程までは全くそういう素振りすらなかったものが、わずか2・3分の間に急変した。
「どうしたの、先輩。」
「いや、何でもない。何でも…。」
 一輝は苦しそうな息遣いの中、目を閉じてじっと何かに耐える素振りをしてみせた。肩が小刻みに震え、額にはうっすらと汗が滲み出ている。
「どうかなさいましたか。」
 女将が心配そうに一輝の顔を覗き込む。一輝は気付かれまいと顔を反らすが、もう自制の効く状況ではなかった。恵子は必死になって一輝の肩を擦るが、一向に震えは止まりそうにない。
「あなた、ひょっとして何かを隠してらっしゃいませんか。そのことがあなたの心に大きな負担となっている。そうじゃありません?」
 女将は一瞬にして一輝の心のうちを見透かした。恵子はハッとした。「心の傷」、そう一輝は何か人には言えない深い心の傷を負っている。それでこの前の時も、そしてその前も、同じように。
「よかったら、全部お話しになられたらいかがです。そうすればきっと楽になりますよ。ここへ来られる人は皆そうやって私の前で悩みを打ち明けられ、涙し、そして新たな人生に旅立ってゆかれたんです。このアルバムはそんな人達の記録なのですよ。」
 女将は、一輝に救いの手を差し伸べるかのように、すっと背筋を伸ばして座り直した。しかし、一輝の口は硬い貝殻のように閉じたまま開くことはなかった。長い、長い沈黙が流れた。一輝はこれまでの長い苦しみの時間を振り返るかのように苦悶していたが、やがて泣き叫ぶような声を上げた。
「すべては俺が悪いんだ。許してくれ、茜。俺のせいだ。俺があんなことを言い出しさえしなければ…。」
 一輝は再び苦しそうに口をつぐんだ。そしてその苦しみを吐き出すかのように、話を続けた。
「1年前のことだった。それまで何回人工受精をやっても失敗の連続で。男のプライドも何もかもかなぐり捨てて病院通いした。惨めだった。情けなかった。それで、それで、俺は顕微受精にトライしようと誘ったんだ。嫌がる茜を無理やり病院に連れていって、卵子を採取して。3度目のトライで妊娠が確認された。あの時は本当に嬉しかった。茜と2人で大きなケーキを買ってきてお祝いもした。でも、その日の夜のことだった。茜が突然苦しみ出して。」
 そこまで話すと一輝のテンションはさらに高まった。息遣いが一段と高くなり、こめかみのあたりには血管が青筋を立てているのがはっきりと見えた。その後、恵子と女将は一輝の口から世にも残酷な話を耳にすることになった。
「子宮外妊娠だった。出血がひどくて、救急車が家に着く頃には、もう茜のスカートが真っ赤に染まるほどで。救急車の中で俺は必死に茜の名前を呼んだ。でも、茜の顔色はどんどん白くなっていく。病院に着く頃には、もう意識すらはっきりしない程だった。」
 そこまで話した一輝はほとんど錯乱状態になり、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて留めの言葉を口にした。
「茜は、薄れ行く意識の中で、最後に『ありがとう、楽しかった』って。最後の最後まで、恨み言は一言も口にしなかった。俺の、俺のわがままのせいで、俺は人生で一番大切な人を失ってしまったー。」
 一輝は、そのまま座敷机の上に突っ伏して号泣した。返す言葉を失った恵子と女将は、ひたすらハンカチを口に当てるだけで精一杯であった。恵子は今ようやく一輝の胸のうちを知った。何とあわれな運命であろうか。一輝はこの一年、深い、深い罪の意識に苛まれ続けてきたに違いない。この傷は、到底拭い去れるものではなかった。
どれほど時間が経ったであろうか。その沈黙を破ったのは女将であった。
「子供って何なのかしら。自分の分身? それとも…。」
 女将は、いつか一輝が口にしたのと同じ問いかけをした。あの時、恵子は生物学的回答をした。子供は、DNAを親から孫へとつないでゆくブリッジのようなものだと。しかし、今日の女将の答えは意外なものであった。
「人は自分の果たせなかった夢を子供に託すために子供を作ろうとするんじゃないかしら。」
「夢を、託す?」
 恵子は、つぶやくように言葉を返した。
「そう、どんなに丈夫で長生きする人でもいつかは寿命がやってくる。どんなに精一杯生きても必ずやり残したことは出来てしまう。それを果たせるのは子供しかいないのよね。自分に出来なかったこと、それを子供に実現して欲しい、それが故に人は子供を産み、そして苦労して子供を育てるんじゃないかしら。」
 恵子は、なるほどとばかりにうなずいた。見れば、一輝の息遣いも次第に落ち着きを取り戻し始めていた。
「でも本当にそうかしら。本当に。それは親の身勝手かもしれない。子供は血が繋がっていても所詮は赤の他人。自分の分身であるように見えて、実際は別人なのよね。それを自分の思いのままに動かして自分の夢を託そうとするのは親のエゴなのかもしれない。それじゃ子供がかわいそう。子供には子供の人生があるはずよね。それを自らの身勝手によりコントロールしようとするから、子育てに失敗する。ちょっと待って、お見せしたいものがあるわ。」
 そう言うと、女将は、もう一冊のアルバムを持ち上げた。
「実は、こっちのアルバムに入っている手紙はここの湯に浸かっても子供が出来なかった人達からのものなんです。自分で言うのも変なのですが、『子宝の湯』なんていうのは、やっぱりただの言い伝えなんです。だから、湯に浸かっても子供の出来ない人もいる。いや、実際のところはそんな人の方が多いのかもしれません。」
 恵子は、促されるままにアルバムを開いてみた。そこには、便箋に几帳面にしたためられた手紙が丁寧にスクラップされていた。
「女将様へ。先日は大変お世話になりました。ありがとうございました。残念ながら『子宝の湯』の効用はなかったようです。温泉から戻って半年が経ちましたが、まだ子供が出来る気配はありません。でもあの湯に浸かったことで私たち夫婦は忘れかけていた別のものを取り戻すことが出来たような気がしています。
あの頃の私たちは子供、子供一辺倒でした。とにかく一日も早く自分たちの子供が作りたかった。子供が全てで、私たち自身の生きる目標を失いかけていました。女将さんに頂いたあの言葉、今でも忘れていません。『夢は自分たち自身の手で実現するもの。子供にそれを託そうとするのは親の身勝手です。』おっしゃるとおりだと思いました。自分で努力もせず、最初から子供に期待する、それってどこか間違っている。そう思えるようになりました。
今、主人は弁護士になるべく日夜勉学に励んでいます。私も、介護士の資格を取り老人ホームで働き始めました。毎日が信じられないぐらい充実しています。これも全て女将様のおかげです。女将様は、私たちに子供以上に大切なものを授けてくださいました。本当にありがとうございました。 かしこ」
 手紙を読む一輝の目には光るものがあった。恵子も目頭を押さえている。子供に固執するあまり一番大切なものを失ってしまった。長らく一輝を苦しめ続けた心の傷は、今ようやく癒やしの端緒についた。
 その夜、2人はどちらからともなく唇を重ねていた。学生時代から実に10年ぶりのことであった。甘酸っぱい青春のひと時の思い出が2人の脳裏に蘇った。人が人を愛する。それは、子供を作るためだけのものではない。2人はいまようやく固い絆で結び直された。

 翌朝。
「昨夜はよくお眠りになられましたか。」
 朝食を配膳する女将の顔は笑顔に溢れていた。昨晩、旅館に着いたときのあの一輝の陰鬱な表情が消えていたからである。一方の恵子はというと、今ひとつ冴えない顔をしていた。この地に来て、まだ不妊の手掛かりになるようなものは何一つとして見つかっていなかったからである。そんな恵子の心を見透かすかのように、女将の口が開いた。
「今日は、一度学校に行ってみられてはいかがです。神谷村には分校がありましてね。あそこの子供たちは皆、元気ですよ。きっと何か分かりますわ。」
 別に女将に確信があったわけではない。しかし、旅立つ人に少しでも期待と希望を抱かせて送り出すのが自らの役目と心得ているようであった。
「ええ。そうしてみます。」
恵子は、半信半疑で生半可な返事をした。しかし、この女将の勘が後になって思わぬ結果をもたらすことになる。
 2人は再び、同じ峠道に車を走らせた。学校は役場とは反対側の少し小高い場所にあった。一見して古そうに見える木造の校舎が過疎の進み具合を象徴しているようであった。
 校門をくぐると、すぐに2人は熱心に校庭の花壇の手入れをしている男の人を見つけた。麦ワラ帽子を被って、両手に軍手をはめたその人は、すっかり日焼けした顔に汗を浮かべながら花壇の草むしりをしていた。2人が来訪の目的を告げ、校長との面会を求めた。男は軍手に付いた土を両手で払い落とすと、丁重に2人を校舎の中に案内した。
校舎の中は外見以上に年代を感じさせるものがあった。ところどころ色褪せた木の廊下に、凹んだ壁、天井には雨漏りを思わせる染みもあった。その廊下を真っ直ぐに進むと、やがて男は「校長室」というプレートの掲げられた部屋にいとも簡単にスタスタと入って行った。2人がおやっと思う間もなく、男は振り向きざまに名乗りを上げた。
「校長の田原といいます。」
 この人が校長先生? 2人は拍子抜けして顔を見合わせた。凡そ威厳とは程遠い人のよさそうなおじさんである。田原校長は目を丸くしている2人に笑いながら話かけた。
「アッハハハ、驚かれたようですな。ご覧の通り、ここは分校でしてね。校長とは名ばかりで、用務員兼掃除夫兼教師、要するに何でも屋ですよ。生徒数も全校で17人。若い人がどんどん都会に出てしまって、数は減る一方ですわ。」
 2人は、今日本中を巻き込んで大騒ぎとなっている男性不妊の原因物質を突き止めようとしていること、そしてその手掛かりになると思われる男性がこの土地で生まれ育ったこと等を手短に話した。逐一頷きながら話を聞いていた校長は、2人が話し終わると嬉しそうに微笑んだ。自らの教え子と思われる人物が立派に成人し、そして今日本の危急を救うために重要な役割を担おうしていることを誇らしく思っている様子であった。
「そうですか、そんなことがあったんですか。でも、何が良かったんでしょうかね。うちじゃ特別なことは何もしていませんよ。まあ東京に比べれば、空気もきれいし生活環境だけは間違いなくいいとは思いますが。でも、それだけでそんなに大きな違いが出るものなんでしょうか。」
 2人は校長に案内されて学校の中を見て回った。丁度音楽の時間であろうか、どこからともなくピアノの音に合わせて合唱する声が聞こえて来る。見る限り何の変哲もない普通の小学校であった。とてもここから不妊の原因の手掛かりになりそうなものが得られるようには見えなかった。やはりここもだめか。
3人はゆっくりと校舎から運動場に出た。空は青く澄み、初夏のさわやかな風が山から吹き下りて来た。こんな環境で育てば誰だって健康に育つ、特別な要因なんて結局にどこにもなかったのかもしれない。恵子の顔にはハッキリと落胆の色が滲み出ていた。2人は案内してくれた校長にお礼の言葉を伝え、校門の方へ足を向けようとしたその時、校庭にチャイムの音が響き渡った。
「わーい。」
元気のいい声が校庭に響き、子供たちが次々と運動場に走り出してきた。どうやら午前の授業が終わったようである。この元気な子供たちが日本の明日の運命を握っている。どうか無事に健康に育って欲しいと願わずにいられなかった。2人が目を細めて子供たちの様子を見ていた、その時、恵子の目にある物が留まった。
「あれは何かしら。」
 恵子の視線は子供たちが皆、手に手に持っている小さな包みに注がれていた。赤や白の布に包まれた小さな箱状のものを全員が下げていた。
「あっ、あれですか。あれはお弁当ですよ。今日は天気がいいんで外で食べさせるよう指示したところです。」
「お、お弁当? きゅ、給食じゃないんですか。」
 恵子は、驚いたように聞き返した。
「ええ。生徒数が17人の分校じゃ給食サービスなんか無理ですよ。一番近い給食センターからでも2時間くらいはかかりますから。それにこの村じゃ、ほとんどの家が農家だし、自家製の弁当の方が子供たちも喜びますよ。」
 校長が説明している間にも、子供たちはめいめいの場所を陣取ってお弁当を広げ始めた。しばらくその様子を見ていた恵子は、あっと叫んだ。
「給食、そう給食だわ。どうして今まで気が付かなかったのかしら。」
 一輝と校長は恵子の声に驚いて、一瞬顔を見合わせた。
「給食よ。原因物質は給食にあるかもしれない。給食は全国のほとんどの小中学校に普及している。でも、こんな山奥では非効率だからお弁当なのよね。ひょっとすると他の所もそうかもしれないわ。」
 恵子の説明を聞いてようやく校長は納得したように頷いたが、一輝はこれに反論した。
「でも、給食は厚生労働省が世界でも一番厳しいと言われる基準を決めて指導している。俺も以前O157騒ぎの時に給食センターを取材に行ったことがあるけど、衛生面は徹底的に管理されていた。まさかあの給食が原因だなんて考えられない。」
 一輝は、5年前に取材に行った埼玉の某給食センターのことを思い出していた。子供の健康を預かる給食センターの衛生管理は極めて厳しい。一輝には恵子の言葉が俄かには信じられなかった。
「その衛生管理が曲者よ。殺菌のためにいろいろな薬剤を使っているわ。そのどれかが環境ホルモンになりうる。小中学生の頃はヒトの生殖機能が最も成長するの。子供たちが毎日食べる給食の影響はかなり大きいはずだわ。」
 恵子は確信をもってそう言い切ると、お礼の言葉もそこそこに一目散に駆け出した。一輝は校長に軽く会釈をすると、大慌てで恵子の後を追った。1人残された校長だけが、ニコニコと笑いながら2人の後姿を見送っていた。


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