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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

第6回   拙速
それから3日後。
「何だ、これは。」
山中総理は、出勤するなり官邸の執務室で、テーブルの上に朝刊を叩きつけた。
『汚染米から不妊原因物質』
報日新聞の一面トップにデカデカとした見出しが踊っていた。
『中国産のMA米に基準を超える残留農薬』
『汚染米が密かに流通、農水省黙認か』
一輝らの手掛かけた特集記事が発表されたのである。
残留農薬の入った汚染米を農水省が工業用として業者に卸し、落札した業者が密かにその汚染米を食用として流通させていた。しかも、その汚染米に含まれていたメタミドホスが東都大学臨床薬学研究所の実験により、マウスの精巣を萎縮させ、精子の数を減らす作用のあることが明らかにされた。
この前の不妊のリーク記事とは比較にならないほどの衝撃が日本列島を駆け巡った。
「とにかく早急に善後策を打たねば。政権基盤にかかわりますぞ。」
傍らから官房長官が呻き声を上げた。
総理執務室の会議テーブルには、総理以下、官房長官、農林水産大臣、厚生労働大臣、それに外務大臣らの顔も見えた。とにかく関係する省庁が多すぎた。米の流通は農水省管轄、薬害は厚生労働省、中国関係は外務省…、何からどう手をつければいいのか全く収拾がつかない状況になっていた。
「すぐに、記者会見の準備…」
総理が口を開こうとした瞬間、執務室の電話がけたたましい音をたてた。
「ちっ。」
総理は舌打ちしながら、キャッチボタンを押す。
「総理、中国の駐日大使から至急面会の要請が。例の記事の件です。」
「ええい、待たせておけ。今大事な会議中だ。」
プッ、総理は忌々しげに電話を切った。しかし、電話は鳴り止まない。
「総理、そこに農水大臣はおられますか?」
「今会議中だと言っとるだろう。」
「それが、農水次官からです。至急大臣に取次願いたいとのことで。朝から省内の電話が鳴り止まないとのことですが。」
「適当にあしらっておけ。今、会議中と言っとるだろ。電話は全て断れ。」
総理は秘書をどやしつけると、電話回線を根元から引っこ抜いた。ようやく静けさを取り戻した執務室の中で、総理は居合わせた閣僚全員の顔を次々と嘗め回すように睨み付けた。
「やはり今回は、記者会見はなしにしよう。」
前回の記者会見での失態が総理の脳裏をかすめた。今の状況では国民の前で何を言っても無駄である。政府の危機管理能力の無さを衆目に曝すだけである。事ここに至っては、むしろ『沈黙は金なり』である。
「しかし、総理、今回は東都大学臨床薬学研究所のお墨付きですよ。この前の武沢の時とはインパクトの大きさが比較になりません。このままでは次の総選挙は到底…」
「ええい、そんなことは、いちいち言われんでも分かっとる。」
結局、朝からの密談は、お昼を過ぎても延々と続き、何の結論も見出せないまま三時過ぎに終了した。

 しかし、その夜、政府にとって思わぬ救世主が現れた。それはくしくも、政府公約の精子バンクに真っ向から異を唱えたあの人物であった。
「それでは、一色さんは、メタミドホスが不妊原因物質ではないと。」
 興奮と緊張のため、小池キャスターの声は微かに震えていた。
 テレビカメラの前には、篠原教授と一色修也が対峙するように座っていた。
「MA米が不妊の原因だなんて馬鹿げてますよ。東都大学薬学研究所も地に堕ちたものです。」
「し、失礼な。当研究所の動物実験でハッキリと精巣の萎縮が確認された。何よりの物証だ。」
 温厚な篠原教授が、珍しく声を荒げた。
 恵子は、手の平に噴出してくる汗を握り締めながら、教授と修也の対決の行方を見守っていた。本来なら、今日のニュースワイドには、今朝の報日新聞の記事を受けて篠原教授一人が出演する予定なっていた。それが番組の直前になって急遽修也の割込みが決定したのである。一体何があったのか。
 恵子は、慌しいテレビ局側の動きに一抹の不安を抱きながらも、教授のディベートに確信を持っていた。あれだけハッキリとした実験結果が出たのである。日本中の薬学関係者をもってしても否定しようのない事実であった。
「確認されたといっても、どうせマウスか何かでしょう。高等動物での実験はまだですよね。それに、仮にメタミドホスに環境ホルモン作用があったとしても、今回の不妊騒動との因果関係までハッキリと証明されたわけではない。」
「確かにまだ調べるべきことは残っているかもしれない。しかし、汚染米が密かに流通して我々の食卓に載っていたのは事実だ。我々はあらゆる可能性を排除すべきではない。」
 篠原教授の応接は、どこか歯切れが悪かった。
 恵子は、研究所で慎重な姿勢を示した教授の言葉を思い出していた。『科学の世界では推測でものを言うのは危険だ』、確かに修也の言うとおり因果関係と言われると、恵子にも確たる自信があったわけではない。やはり教授の言葉の通り、自身は少し功を焦りすぎたのか。
 そして、恵子のその不安は、次の修也の一言で的中した。
「私は、確信を持って、ここにメタミドホスが今回の不妊騒動の原因物質ではないと断言します。理由は、ここにその生き証人がいるからです。」
「い、生き証人? ですか。それは一体誰…」
 一呼吸も二呼吸も置いて、修也は静かに告白した。
「それは、私自身です。私自身が男性不妊患者だからです。」
 スタジオの中に一瞬ざわめきが響いた。恵子も、思わずエッという声を上げた。
「もう5年も前のことです。しかも私のケースは無精子症、つまり全く精子が見つからないほどの重症でした。」
「一色さんが、む、無精子症。」
 恵子は息を呑んだ。スタジオ内も水を打ったようにシーンと静まり返った。教授は腕組みをしたまま天井を仰いだ。小池キャスターも次の言葉を考えあぐねている。
 恵子は、一色修也がなぜあれほどまでにクローン技術に拘ったのか、今その理由を知ったような気がした。『自身と同じDNAを持つ子孫を残すことが出来ない、その苦しみが君にわかるか』、修也の切ない言葉が何度となく恵子の頭の中を掛け巡った。
「まあ、それはいいとしまして…」
 重苦しい沈黙を最初に破ったのは修也だった。
「ここからが本題ですが、実は私の実家は農家でした。ですから少年時代には、家で獲れた米以外口にしたことがないんです。」
 スタジオの中が再び騒然となった。恵子の頭の中にも金槌で殴られたような衝撃が走った。
「父は化学肥料を使うのが嫌いで、野菜はおろか米もいつも有機農法で作っていました。ウソだとお思いでしたら私の生まれ故郷に行って調べていただいてもかまいません。その私が不妊症になった。私が何を言いたいか、もうお分かりでしょう。不妊の原因はコメじゃない。もっと別の何かがあるはずです。」
 修也は、恵子の出した結論を見事に喝破してみせた。やはり教授の勘が当たっていた。恵子は、功を焦るあまり、結論を急ぎすぎたのである。
「一色君、私の負けだ。済まなかったね。話したくないことまで話させてしまったようだ。」
 教授は、大きな嘆息を漏らしながら、修也に向かって深々と頭を下げた。その額には、敗北を示す深いしわが刻まれていた。
「いえ、いいんです。隠しても仕方のないことですから。」
 修也は、恨み言を言うこともなく、静かに教授に向かって一礼した。
『篠原教授、薬研所長を引責辞任』
『薬研、拙速な研究報告で名声に傷』
 翌日の各紙は、昨日の出来事を一斉に報じていた。

 あの夜から三日がたった。
 恵子は、うつ状態のどん底にあった。自身の手掛けた研究報告がとんだ勇み足であったことが判明したばかりか、それが原因で篠原教授が研究所を去ることを余儀なくされた。とても顔を上げて研究所に出られたものではない。
 あの一色修也の話にウソ偽りはなかった。仮にメタミドホスに不妊効果があるとしても、汚染米が北海道から沖縄に至るまで全国津々浦々まで行き渡っていた可能性は極めて低い。なぜそんな単純な事に思いが至らなかったのか。
MA米、メタミドホス、食品偽装…、一連の話があまりに都合よく次々と表沙汰になった。恵子でなくても、疑いをもってもおかしくはなかった。しかし、肝心の因果関係は実証されていなかった。不十分な調査による拙速と言われても仕様のない内容であった。
恵子は、学生時代を思い出していた。あの時は、常に一輝の笑顔が傍にあった。どんな苦しい時も、どんなスランプに陥った時も、一輝の声を聞けば勇気が沸いてきた。しかし、今はそれもない。もう、どうにでもなれ、自分が走らなくても、自分が走ることを止めてしまっても、誰も困らない。不妊が原因でこの国がどうなろうと、自分の知ったことではない。恵子の心の中にそんな捨て鉢な気持ちが芽生え始めていた。
「ピンポーン」
 その時、玄関チャイムが鳴った。今頃、誰? どうせ面白半分、興味半分のマスコミ取材であろう。世間を騒がせたおバカな研究者、不妊研究第一人者の転落人生、記事にするには恰好の材料であった。しかし…。
「せ、先輩、一輝先輩なの。」
 インターフォンのモニター画面には、あの懐かしい顔があった。
「もう三日も研究所に出ていないって聞いて、心配で。」
 恵子は、大慌てでエントランスの開錠ボタンを押した。そして、すぐさま玄関の扉を開けて、一輝が上がってくるのを待った。エレベーターの扉が開いて、一輝の姿が現れた。恵子は、一輝の胸に飛び込んで大声で泣き崩れた。一輝は、そんな恵子の肩をそっと抱いた。
「ひどい顔だな。」
 一輝の笑う顔が、涙でかすむ恵子の目に映った。そう言えば、この三日間、ろくに化粧もせず、風呂にも入っていなかった。とても人に会えたものではなかったが、恵子は、そんなことも忘れて再び一輝の胸の中に泣き崩れた。
「まあ、とりあえず生きててよかった。」
 一輝は、今度はしっかりと恵子を抱きしめた。
 落ち着きを取り戻した恵子は、ようやく一輝を部屋と招き入れた。ワンルームマンションの一室は、とても独身女性のものとは思えないほど乱れに乱れていた。敷きっ放しの布団、食べかけのインスタントラーメン、ゴミ箱からはみ出したティッシュの山。座る場所どころか、足の踏み場すらない。2人は顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「やっと、笑ってくれたね。」
 一輝はやれやれという表情で、ようやく恵子の顔を直視した。一輝には、この酷い顔に見覚えがあった。学生時代、グラウンドで見たあの顔、スランプに陥った恵子は救いようのないこんな顔をしていた。それが今の一輝には妙に懐かしかった。
「恵ちゃん、まだ諦めるのは早いぞ。」
 一輝は、12年前に大学のグランドで掛けたのと同じ言葉を掛けた。
「恵ちゃん、例のサンプル調査の結果はキチンと分析したのか。」
「サンプル調査?」 
 そう言われれば、ここしばらく汚染米のことで頭が一杯で精液のサンプル調査のことなどすっかり忘れていた。恐らく、もう5千件は集まっているはずである。
「そうだ。君自身が言い出したことだろう。それを放ったらかしにしておくなんて、一体どういうつもりなんだ。君らしくないな。」
 一輝は、今度は厳しい表情に変わった。ある時は優しく、ある時は厳しく、そうやって一輝は恵子の成長をサポートしてきた。
「でも、中間集計段階で大体のことは。年齢が25歳以下という点を除けば、不妊症患者に地域的偏りもなかったし。それ以上のことは調べても時間の無駄…」
「果たしてそうかな。本当に自信を持ってそういい切れる。」
 恵子は、渋々パソコンを開くと、研究所のデータベースにアクセスした。
 膨大な数のサンプルデータが表示された。年齢、主な生育地に続き、精液1CC中に含まれる精子の数がランダムに表示される。一輝は、エクセルに表示されたデータを素早くソーティングに掛けた。傍らから恵子がパソコンを覗き込む。
「先輩、一体何を調べてるの。」
「正常値に近い人のデータだよ。」
「正常な人のデータ? 私たちはいま不妊症患者の調査をしてるのよ。正常な人のデータを調べて一体何になるの。」
 恵子は怪訝そうに尋ね返した。
「押しても駄目なら、引いてみなっていうことさ。俺は薬学の知識はないけど、統計学なら少しはかじったことがある。新聞社の方じゃよく世論調査とかやっていたからね。世論調査では、結果を集計する際に、よく上位5パーセントと下位5パーセントを切り捨てる。これは調査結果を歪ませる異常値を排除し、統計の信頼性を高めるためだ。でも、その捨て去った5パーセントに大きな意味がある場合もある。」
 恵子は、そんな一輝の声に昔の先輩の声を聞いたような気がした。その声には、自信に満ちた響きがあった。一輝はソーティングした結果を、精子数の多い順に並べてみた。1CC中の精子数1億5千、1億4千…、1億以上であればまず全く問題ない完全な健常者である。
「ほら、これを見てごらん。問題はこの正常な人たちの出身地だ。」
 恵子は『主たる生育地』の欄に目をやった。そこには一輝の言わんとしている文字が並んでいた。『群』、『村』、『字』。
「どこも、かなり田舎のようね。」
「その通り。答えのカギは『田舎』。それも、普通の田舎じゃない、かなり山奥だ。」
「でも、当然の結果じゃない。都市部に比べたら、田舎の方が環境ホルモンに晒されるリスクも低いし。それにこれだけじゃ、何の脈絡もない。答えになってないわ。」
 恵子は途方に暮れたようにため息を漏らした。一輝はしばらく考えるしぐさをしていたが、やがてポツリと口を開いた。
「一度、この場所に行ってみないか。何か分かるかもしれない。」
 一輝は、いま新聞記者独特の嗅覚を働かせていた。社会部の記者はデスクに座っていては記事は集められない。「足で稼げ」と常々ハッパを掛けられてきた一輝にとって、まず現場に足を踏み入れることが全ての第一歩であった。記者になって8年、最近ようやくその意味するところが分かりかけていた。
「でも、どこへ行けばいいの。対象先はこんなにたくさんあるのよ。闇雲に走り回っても時間の無駄かもしれない。」
 これまであまり研究所から外に出たことのなかった恵子には一輝の言葉が唐突に思えた。今日では欲しい情報は大抵インターネットを通じてオフィスに居ながらにして手に入る。汗をかいて自分の足で歩き回るなんて一昔前のことのように思えた。
「どこでもいいさ。とにかく行ってみよう。きっと何か手掛かりになるものが見つかるよ。」
 一輝にも確信があるわけではなかった。でも、ここでこうやって座っていても進展はなさそうであった。一輝は、画面をスクロールさせると、適当にストップさせた。
「ここはどうかな。ここなら東京からも近そうだし。」
 一輝が指し示した欄には、「群馬県奥敷郡神谷村字落合」という住所が示されていた。被験者の年齢は23歳、精子数は1億1千万となっているから正常の範囲内である。
 一輝は、インターネットの地図帳にアクセスする。地名を入れるとすぐさまその場所は画面に表示された。神谷村は群馬県の東の端、栃木県との県境に近い奥地にあった。ハイキングで有名な尾瀬沼の登山口にも近いあたりである。
「随分と山奥ね。」
 恵子は一輝の傍らから地図を覗き込みながら呟いた。
「よーし。じゃあ出発は明日だ。少し早いけど朝7時に迎えに来るから。いいかな。」
 半信半疑のまま、恵子は、ようやく重い足を上げてグランドを走り始めた。今の恵子には、一輝の言葉を信じるほかに道はなかった。


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