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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

第2回   再会
その一週間後、恵子のマンション。
 恵子は眠い目を擦りながら、ベッドの中からテレビのスイッチを入れた。
「ハイ。こちら武沢薬品本社前です。ご覧のように朝からたくさんの報道陣が詰めかけています。今日発売されました週刊文秀の記事について、会社側からはまだ正式なコメントはありません。時折出社して来る社員は報道陣のカメラを避けるように通用口から中へと消えてゆきます。」
 画面には恵子が見慣れた本社ビルの正面玄関が映し出されていた。恵子も週に一度は報告のために本社を訪れる。いつもは静かな本社ビルの前は、黒山の人盛りとなっていた。
「一体、どうしたんだろう。」
 先ほどのまでの眠気もどこかに吹っ飛び、恵子は食い入るように画面に見入った。丁度その時、目覚し時計のように携帯電話の呼び鈴が室内に鳴り響いた。反射的に取り上げた受話器の向こうには聞きなれた青山チーフの声があった。
「ああ、津山君か。よかった、連絡がついた。」
 恵子は、チーフの声の調子から只ならぬ気配を感じた。
「例のレポートだよ。誰かがリークしたらしい。」
 恵子は咄嗟に自分たちのチームが手掛けたあの報告のことを思い出た。先日の役員会議の後、レポートの内容については極秘扱いとするよう本社の上層部からかん口令が出されていた。そのレポートが社外に流出したとなると只事では済まない。
「とにかくすぐ出勤してくれ。それと分かっていると思うが、報道陣に何を聞かれても一切ノーコメントだから。いいね。」
 恵子が返事をする間もなく、電話はもう切れていた。
 恵子は慌てて身支度を済ませると、マンションを出て駅へと向った。研究所はJR京葉線浦安駅からバスで十分程の工業団地の中にあった。新しく開発されたその一帯には、東京から数多くのエレクトロニクス、バイオ関係のベンチャー企業が進出して来ていた。武沢製薬も、最近工場と研究所をその一角に移転していた。バスは駅を出るとスピードを増しながら工業団地を目指す。恵子はこの先どうなるのだろうと考えながら行き過ぎる車窓をボンヤリ眺めていた。やがてバスはいつも曲がる角を直進すると、すぐに停車した。
「申し訳ありません。塩浜一丁目で降りられる方、今日はここで降りて頂けますか。」
 運転手のアナウンスを聞いて慌ててバスを降りると、研究所へと通じる道は二台のパトカーが封鎖していた。研究所のゲート前には、報道関係と思われる車が十数台と百人を超えると思われるカメラマンや記者たちが人垣を作っていた。恵子は朝チーフから電話をもらっておいてよかったと思った。少なくとも心の準備は出来ていた。
 恵子がゲートに近づいたその時、後ろから黒塗りの乗用車がモーターケードをすり抜けて入って来た。所長車のようである。マイクを手にした記者達が車の方へと走る。体と体が激しくぶつかり合ったと思うと、一人の記者が道路に弾き飛ばされた。
「ちくしょー。」
 記者は罵りながら立ち上がろうとしたが、カグリとして座り込んでしまった。どうやら足を挫いたらしい。足首を抑える記者の顔は激痛に引き攣っていた。その間にも、所長車は記者たちを振り払うようにゲートの中へと消えていった。
「大丈夫ですか。」
 近づいて声を掛けた恵子は、その記者に手を貸そうとして思わず声を上げた。
「先輩、一輝先輩じゃないですか。こんなところで何を。」
 まだ痛そうに足を抱えていた一輝は、最初相手が誰か分からない様子であったが、しばらくしてようやく思い出したのか、大声で叫んだ。
「恵ちゃん、恵ちゃんじゃないか。君こそここで何を。」
「私、ここに勤めてるの。」
 恵子は研究所を指差しながら言った。そう言いながら、恵子は立ち上がろうとする一輝に手を貸した。とても真っ直ぐには歩けそうもない。恵子はとりあえず人垣を離れて、バス停のベンチに一輝を座らせると、自分もその隣に座った。一頻り肩で息をしていた一輝はようやく落ち着きを取り戻した。
「久しぶりだな。何年ぶりだろう。」
「そうね、卒業以来だから10年ぶりかしら。」
恵子と一輝は東都大学時代ともに陸上部に所属していた。一輝の方が二年先輩で短距離走の選手だった。一方の恵子は長距離を得意としていた。いつも同じグラウンドで練習していた二人は、大学時代は先輩・後輩以上の関係になりかけたこともあった。しかし、卒業後は全く別々の道を歩み始めたこともあり、その後は音信が途絶えていたのである。
「そうか、恵ちゃんは薬学部だったんだよな。武沢薬品に勤めてたなんて知らなかったよ。ゴメン。それにしても、すごいな、恵ちゃんは。こんなところで難しい研究をしてんだ。」
「ううん、大したことはないわよ。明けても暮れても小学校の理科の実験のようなことばっかり。薬を混ぜたりとか。」
 恵子は謙遜するように声を落としながらも、一輝が学生時代に比べて随分とやつれたことに気付いた。肩は落ち、頬が痩せて目だけがギョロリとして見える。10年の歳月がこうまで人を変えてしまうものなのだろうか。法学部を卒業した後、マスコミ関係に就職が決まったと聞かされた時、一輝の目は輝いていた。世の不正を正し、社会のために大衆を啓蒙していく、それがマスコミの務めだと胸を張って見せた一輝の姿が昨日のことのように思い出された。
 しかし、今目の前にいる一輝は、その時の一輝ではなかった。一体この10年間に一輝の身に何があったというのか。学生時代の一輝は本当に輝いて見えた。自分が苦しい時、スランプの時、いつも一輝は励ましてくれた。そんな自信に満ちた頼り甲斐のある先輩の姿はもうそこにはなかった。
「それで、先輩は、どうしてここに?」
「取材だよ。おれ今、社会部の記者やってんだ。朝一番、叩き起こされて。家からここに直行。準備運動もせずに走ったから、このザマだ。」
 一輝は痛めた足をさすりながら苦笑いをして見せた。
「ご、ごめんなさい。私のせいで。」
「恵ちゃんが謝ることはないだろう。つまずいた俺が悪いんだ。」
「で、でも。あの記事のせいで・・」
 恵子は、リークされた週刊文秀の研究レポートは、自分たちが手掛けていたものだと言いかけて、思わずゴクリと飲み込んだ。マスコミに何を聞かれても一切「ノーコメント」というチーフの言葉が頭の中をよぎったからである。
「俺のことはいいから早く行けよ。今日は大変なんだろう。」
 恵子は、ハッと我に返って、周囲を見回した。先程所長車が通り抜けていったゲートは黒山の人盛りとなっていた。
「ご、ごめんなさい。落ち着いたらまた連絡するから。」
 恵子は、バス停のベンチに座った一輝の方を何度となく振り返りながらゲートへと急いだ。

 一週間後。一輝はまだ治りきらない足を引き摺りながら、寒風の中取材を続けていた。例の記事の発表後、騒ぎは一気に全国に広まっていた。一輝は新橋駅に近いそば屋で昼食をとっていた。こういう寒い日は熱いそばに限る。一輝はそばつゆで暖を取りながら、ボンヤリと流れてくるテレビの音声に耳を傾けていた。
「今、私は聖マリアンナ病院の不妊外来に来ています。ご覧のように診療時間をとっくに過ぎているというのに、まだ大勢の患者さんが診察の順番を待っています。」
 小太りの記者が病院の待合所から立ちレポートを続けている。患者のことを気にしてか、後ろを行き交う人の顔にはモザイクがかけられていた。
「それでは、ここで不妊外来の高田先生にお話をお伺いします。先生、今日はどうもお忙しいところ、有り難うございます。それにしても大変な状況ですね。」
 レポーターがマイクを向けた先には、疲れた表情の白衣姿の医師が立っていた。
「ええ、あの日以来、日増しに患者さんの数が増えています。特別に診療時間を延長して対応していますが、とても間に合いません。これまでは結婚して三年ほど子供が出来ないといって初めて来院される方が多かったのですが、最近では結婚もしていない若い男性の患者が多くなりました。中には、婚約者に付き添われて無理やり連れて来られた方もいらっしゃいますよ。」
 医師は少し苦笑しながら説明する。10人中4人といえば、もはや他人事ではない。日本人男性すべての間にパニックが広がりつつあった。
「それで、結果はどうなんでしょう。やはり不妊の方が多いのでしょうか。」
「そうですね、結果は武沢薬品のあのレポートと似たようなものです。特に若い人に重度の乏精子症が見られます。全く精子の発見できない人もかなりの数に上ります。私もここにもう15年近く勤めておりますが、こんなことは初めてです。やはり異常ですね。」
「先生、どうも有り難うございました。病院では予約制をとって新しい患者さんを受け付けていくとのことですが、今日現在順番待ちは三千人、一ヶ月先まで埋まっているとのことです。以上、聖マリア病院からのリポートでした。」
 マイクを戻したレポーターは、興奮気味にレポートを終えた。
「全くとんだことになりやしたねえ。あっしんところも息子が二人なんですがねえ、もう心配で、心配で。」
 そば屋のおやじが居ても立ってもいられないという口調で一輝に話し掛けてきた。
「そうですね。」
一輝はそっと一言つぶやくと、百円玉を5個静かにテーブルの上に置いた。

 同日午後7時半。霞ヶ関記者クラブ。
「遅いな、総理は。」
 数十人の記者たちが、山中総理を今か今かと待ち受けていた。記者席にはテレビカメラがしつらえられ、数多くのカメラマンがシャッターチャンスを逃すまいとカメラを構えている。照明用の強烈なスポットライトに照らされ、中は熱気でムンムンしていた。記者席の最前列には一輝の姿もあった。
 程なく記者クラブのドアが開き、山中総理が小走りに入ってきた。先ほどまでざわついていた会見場は一瞬水を打ったように静まり返ったが、次の瞬間シャッターを切る音とまばゆいばかりのフラッシュの光が走った。演台の前に立った総理は少し間を置いて、フラッシュの嵐が静まるのを確認すると、徐に口を開いた。記者たちは総理の一言一句を聞き漏らすまいとペンを構えた。
「えー、詳しくはもう皆様ご存知と思いますが、先週の週刊文秀にわが国の少子化についての記事が発表されました。深刻な不妊が原因でわが国の人口が近い将来劇的に減少するという内容でございます。私も早々に厚生労働大臣に事実関係の調査を命じましたが、私どもの知る限りそのような問題はございません。この調査は一民間研究機関によるものであり、政府としては公式にコメントする立場にはありません。国民の皆様に置かれましては、どうかパニックにならないよう、冷静に行動して頂くようお願い申し上げます。」
 わずか二分ほどの説明であった。これほどの一大事を説明するにはあまりにもお粗末な内容であり、記者たちは唖然とした。
「質問、質問。」
 記者席から一斉に手が上がり、記者たちの怒声が飛ぶ。総理はゆっくりと最前列の女性記者に指を向けた。ピンクのスーツに身を固めた若い記者はその細身の体に似合わない大きな声でハッキリと尋ねた。
「総理、今回のレポートの内容は政府として事前に承知しておられたのでしょうか。」
「ご説明申し上げました通り、政府は一切関知しておりません。」
 総理は落ち着き払って答えたが、記者はさらに質問を浴びせる。
「このような重大事、知らぬでは済まされないのでは。」
「ですから、政府としては、そもそもあの記事の内容が事実ではないと申し上げているわけで、取り立てて大騒ぎする必要は全くありません。」
 畳み掛けるような記者の質問に、総理は少しムッとしたような表情で回答する。
「質問、質問。」
 今度は中ほどに座っていた大柄の男性記者が立ち上がった。
「仮に、仮に、ですよ、これが事実であったとしたら、政府としてどう対応されるおつもりですか。」
「仮定の質問にはお答えできません。政府としましてはそういう事実はないとの理解です。」
 その後も似たような応酬が延々と続く。総理は噴き出て来る額の汗をハンカチでぬぐいながらひたすら応接を続けた。一輝は一向に質問の機会が回ってこないことに少し苛立ちを覚え始めていた。一輝にとって、この問題は一新聞記者としてではなく、自分自身の問題でもあった。
 一輝は2年前に医師から受けた告知の瞬間を思い出しながら、何としてもこの問題を看過させるまいと身構えていた。そして質問が少し途切れた間隙を狙って一輝は一際大きい声で叫んだ。
「総理、確か少子化白書でも不妊の問題は取り上げられていますよね。ということは政府としても、我が国の出生率の低下に不妊が関係しているとの認識はあるんじゃないですか。」
「確かに白書にそういう記述があるかもしれません。しかし、政府としましては少子化の原因は社会的、経済的なものであって、国民の生殖機能の異常が原因とは考えておりません。」
「ですがね、総理。現に不妊に苦しむ男性が全国には数多くいるんですよ。少しでも不安があれば徹底的に調査すべきではないですか。それを放置するのは国を預かる立場として怠慢とは思われないのですか。」
 一輝の畳み掛けるような質問に総理の堪忍袋の緒はついに切れた。演台を右手で激しく平打ちすると同時に、大声で罵声を浴びせた。
「君は一体どこの記者かね、名前も名乗らずに。失礼じゃないか。私たちが若い頃にはこんな馬鹿げた話はなかった。こんなところで文句を言っている閑があったら、バイアグラでも食らって少しは夜のお勤めに精を出したらどうだ。大体君たち若いもんが女の扱い方も知らんから子供も出来んのだよ。」
 その一言に場内は一瞬水を打ったようにシーンと静まり返った。重苦しい沈黙がしばらく続いた後、最初に質問に立った女性記者が無言のまま立ち上がった。その後を追うように記者たちは一人また一人とドアの外に消えていった。
『山中総理、記者会見でまた失態』
『危機管理意識の欠如、日本破滅の淵へ』
 翌朝の新聞各紙は一斉に総理の失言を報じることとなった。

 三週間後、お台場ベイホテルのスカイレストラン。
「ご注文は何になさいますか。」
「Aコースにして下さい。ワインはブルゴーニュの白で。」
 恵子は手慣れた調子で注文を済ませる。
 再会の日からあっという間に三週間が過ぎていた。一輝は一輝で取材に走り回り、恵子は恵子でマスコミ対応に追われる日々が続いていた。その忙しい合間を縫って二人はようやく夕食を共にする時間を作った。
恵子は淡いブルーのワンピース姿、昔に比べて大人の女性らしさが増していた。学生時代は陸上の練習でいつも真っ黒に日焼けしていた顔も、今では透き通るように白くなり、微かに朱のさした頬が仄かな色気を醸し出していた。
「お、俺も同じもので。」
 対する一輝の方は、スーツ姿にネクタイは締めていたものの、学生時代に見られた硬派のイメージはすっかり消え失せ、どこか内気な裏寂れたサラリーマンという風に見えた。このような場所にはおよそ縁がないように見えた一輝は、恭しくお辞儀をして下がって行くウェイターの後ろ姿を見ると、ホッとしたような表情で口を開いた。
「そうか、恵ちゃんがあのレポートを担当していたなんて驚きだな。」
「私も最初は驚いたわ。数字が間違っているんじゃないかって、何度も計算し直したわ。でも何度やっても答えは同じ。理屈上、日本の人口はわずか数十年の間に5千万人を切る水準になってしまうの。」
 しばらく重苦しい沈黙が続いた後、一輝は意を決したように口を切った。
「実は、三年前俺も男性不妊を宣告されてね。」
「えっ?」
 恵子は一瞬何と言っていいのかわからずに言葉を失った。
「ご、ごめんなさい。し、知らなかったわ。」
「いや、いいんだ。それより僕の方こそお礼を言わなきゃ。三年前のあの日以来、随分と悩んだ。何度も医者に通った。何で俺がって自分を責めて、生きる気力すら失いかけていた。でも、恵ちゃんのレポートを見て本当に驚いたよ。この問題が自分だけではなくもっともっと苦しんでいる人がたくさんいるんだってね。いや、それどころか日本の将来にとっても大変なことが起きているっていうこともね。」
 恵子は、今ようやく一輝の疲れ切った様子の原因を知った。先輩は、きっと自らの不妊に悩み、苦しみ、それで生気を失してしまったのだろう。あの学生時代の快活で逞しい先輩の姿はもうそこにはなかった。
しかし、本当にそれだけだろうか。無論、男にとって子供を作れないという屈辱がどんなものか、女である自分には理解し難いものがある。ただ。それにしてもこの先輩の萎れ方は尋常ではなかった。先輩は、まだ何かを隠している、そしてそのために心底から苦しんでいる。そう思わないではいられなかった。
恵子が、次の言葉を探している間にも、タイミングよくウエイターがメインコースの皿をもって現われた。恵子は、ようやく話題を変えるチャンスを得た。
「ねえ先輩、実は先輩にお願いがあるの。この問題は一研究所の力ではどうにもならない。政府もあの調子じゃ当てにならないし。問題を解決するためには、国民の勇気と協力が欠かせない。そして、そのためにマスコミの力がどうしても必要なの。」
 話を続ける恵子の目が輝いた。
しかし、一方の一輝はというと、まだ恵子の真意を測りかねていた。自分のようなくたびれ三文記者に一体何が出来るというのか。今の自分は、精根尽き果てたダメ男の烙印を押されても仕様のない状況にあった。一輝は、半信半疑で尋ねた。
「それで、原因は分かっているの。」
「残念ながら私たちにも分からないの。環境ホルモンが関係しているのだろうと推定されるんだけど、その数があまりにも多いし、それに目に見えて影響が測れるものでもないし。全然見当もつかない状態だわ。」
 恵子は大きくため息をついた。
「環境ホルモン?」
 一輝は耳慣れない言葉に思わず聞き返した。
「そう、別名、外因性内分泌撹乱物質、少し難しい言い方だけど、つまり私たちの体のホルモンバランスを狂わせる化学物質のことね。先輩もダイオキシンの名前くらいは聞いたことあるでしょう。プラスチックを燃やしたときに出る猛毒の化学物質よ。ごく微量でも体内に蓄積されると、ガンを発生させたり、生殖機能に影響が出たりするの。この他にもいろいろな環境ホルモンの候補が指摘されていて、その数は数千もあるという学者もいるわ。でも、どの物質がどの程度ヒトに影響するのか実証するのはとても難しいの。因果関係が分からないから。」
 一輝は、驚いた様子で恵子の説明に聞き入っていた。ひょっとすると、自分の不妊の原因もそうした化学物質の影響だったのかもしれない。一輝の冷え切った心のうちに、微かに新聞記者特有の好奇心と探求心の灯火が点り始めた。
「これだけ、広範かつ大規模な不妊は、間違いなく何らかの環境ホルモンが原因だと思うわ。それも日本全国に万遍なく広まっているかなり身近なものね。例えばこの水。」
 恵子はテーブルに置かれたグラスにそっと手を触れた。透き通った水がグラスの中で微かに揺れた。
「えっ、この水が。」
 一輝は信じられないという表情で、グラスに目をやった。
「ダイオキシンは煙とともに空気中に放出される。それはやがて雨とともに地上に降り注いでくる。勿論、色も匂いもない。ピコグラムという極小さい単位で測られるの。ピコグラムっていうのは一兆分の一グラム、といっても見当もつかないわね。ただ、そんな極微量でも毎日飲んでいると少しずつ体の中に蓄積されて、私たちの知らない間にホルモンバランスを崩していく。」
「でも、そんな恐ろしい物、国は何で規制しないのかな。」
「いいえ、ダイオキシンはもう規制されているわ。WHO(世界保健機関)がガイドラインを定めていて、今では排出量が厳しく監視されている。でも、環境ホルモンはこれだけじゃないの。野菜を作るときに使う農薬、食器や衣服を洗う洗剤、数え切れない程の物質がその候補になりうるわ。そのどれが、どのくらい人体に影響するのか、誰にも分からないし、仮に分かったとしてもその時は手遅れになっているかもしれない。」
 自分たちの知らない間に我々の体を虫食んで行く毒物が身の回りにたくさんある。恵子の話に一輝は背筋が凍りつく思いであった。人類は科学の発達のおかげで、いろいろなものを手にした。虫一つ食っていないキャベツ、お腹を壊すことなく飲める牛乳、とろけるような霜降りの牛肉……、これらの豊かな食文化は全て科学との危ういバランスの上に成り立っていた。
「ごめんなさいね。折角の料理が台無しね。いつもこんなことばかり考えていると、本当に何も食べられなくなっちゃうわね。」
 恵子は済まなさそうに下を向いた。
「いや、こっちこそ有り難う。とても面白かったよ。こんな問題があるなんて、今まで知らなかった。ジャーナリストとして失格だな。」
 一輝は自戒するように呟いた。恵子はそんな一輝の姿にまた暗い影を見たような気がした。「ねえ、先輩。先輩は今でも陸上の練習を?」
「いや、もう何年も走っていない。だから。この間も・・・。」
 唐突に聞かれて一輝は一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐさま痛めた右足首をちらりと見やった。
「そ、そう。ごめんなさい。」
 恵子はまた余計なことを聞いてしまったとばかりにうな垂れた。再びどちらからともなく長い沈黙が流れた。昔は、こんなではなかった。どんな苦しい時も、どんなスランプの時も、いつも多弁であった先輩が、なぜ。恵子は10年という時間の隔たりを痛感していた。
その長い沈黙を破ったのは、今度は一輝の方であった。
「恵ちゃん、悪いけど俺はもう昔の俺じゃないんだ。先輩と呼ばれる資格なんかないどうしようもない男なんだ。見れば分かるだろう。これを限りにもう会わない方がいい。」
「どうして、どうしてなの。先輩。この前会ったばかりなのに。何があったの。私に出来ることがあれば、何でも言って。」
「いや、いいんだ。今日はありがとう。誘ってくれて。」
 これ以上話すことはないと言わんばかりに、一輝は食後のコーヒーにも口を付けずさっさと席から立ち上がった。恵子も慌てて席を立つと一輝の後を追う。ロビーに出た恵子が声を掛けようとした時、一輝の姿は既にロビーの雑踏の中に見え隠れしていた。恵子は一輝の歩みを止める術もなく、ただ黙ってその背中が小さくなっていくのを見送った。


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