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作品名:不妊列島 作者:ツジセイゴウ

第1回   宣告
東都大学病院産婦人科不妊外来診察室。
「やはり難しいですね。これは……」
 医師は眉間にしわを寄せながら一輝に向って言った。山本一輝、33歳、報日新聞の駆け出し記者として日々忙しい毎日を送っていた。結婚して3年、特に計画しているわけでもないのに一向に子供が出来ないため、今日は大学病院の不妊外来を訪れていた。
「精子数は500万、それに運動率も極端に悪いです。このままでは自然受精はまず無理と考えます。」
 医師は検査結果を見ながら気の毒そうに説明を続ける。説明を聞く一輝の肩は小刻みに震えていた。最近男性の不妊が増えているという記事はしばしば週刊誌などでも目にはしていたが、まさか自分がそれと宣告されるとは思ってもみなかった。
「お子さんをお望みでしたら、AIH(夫の精子による人工受精)か顕微受精が必要です。ただ、この精子の数や運動率を見ますと、AID(他人の精子による人工受精)でないとダメかもしれません。どちらもまだ保険適用外のですのでかなり高くつきますが。」
 判断がつきかねている一輝の様子を見て、医師はさらに付け加えた。AIH、精液洗浄、顕微受精……、医師の口からは初めて聞く言葉が次々と発せられる。一輝はそれらの言葉の意味もよく判らぬまま黙って医師の告知を聞いていた。
「今日のところはこれまでにしておきましょう。奥様ともよくお話し合いして下さい。とても大切なことですから、十分時間を掛けてご検討下さい。」
 もう多くの患者を看ているのであろう、医師は決して慌てず、この種の説明には手慣れた感じであった。どの男性も不妊と言われるとまず大きなショックを受ける。何故自分がと悩み抜き、時間を掛けてそれを乗り越えて行くのである。一輝は力なくカウンセリングルームを後にした。 
 先程と同じはずの廊下の待合所が今の一輝には随分と違って見えた。明るく照明されているはずなのに、灰色のもやがかかっているように見え、行き交う人の顔もぼんやりして見えた。もうこのまま子供は出来ないのだろうか。茜にはどう説明したらいいのだろう。そんなことをつらつら考えているうちに、一輝は何時の間にか茜の前に立っていた。
「どうだったの?」
 茜は心配そうに尋ねた。一輝より2つ年下の茜は愛くるしい目をさらに大きく見開いて尋ねた。童顔の茜は年齢よりはかなり若く見えた。一輝が取材に行った保育所で保母さんをしていた彼女にいわば一目惚れしてしまったというところである。
 一輝の顔色が冴えないので、茜はもう覚悟を決めているような風であった。
「うん、やっぱり俺が原因だった。精子の数が極端に少ないって。このままじゃ、子供できないだろうって。」
 一輝は力なく医師から言われたままのことを茜に告げた。しばらく沈鬱な表情で押し黙っていた茜は、やがて満面に笑みを浮かべて言葉を返した。
「い、いいんじゃない。最近生活も苦しいし、無理しなくても。きっと2人きりの方が幸せだわ。いつまでも新婚気分で。それに私もまだしばらくは保母さんの仕事を続け……。」
 茜は落込んでいる一輝を何とか励まそうとするが、しゃべっている間にも茜の声は次第にかすれ、円らな瞳にはいつしかキラリと光るものが溢れていた。

同じ頃、東都大学薬学部篠原教授の部屋。
「いやー、津山君。久しぶりだな。元気そうじゃないか。」
 篠原教授は、笑顔で恵子を部屋に迎え入れた。
「いえ、こちらこそすっかりご無沙汰してしまいまして、大変失礼致しました。」
 恵子は、少し伏目がちに申し訳なさそうに、奨められるままソファに座った。津山恵子、32歳、8年前に同大学の薬学部を卒業し、今は都内の大手製薬会社武沢薬品の研究所に勤めていた。
「いやいや、君も忙しいんだろう。噂はよく耳にしているよ。不妊治療薬の研究では、今じゃ押しも押されぬ第一人者だ。本当に育ての親としても鼻が高いよ。」
 篠原教授は、すっかり白くなった頭に手をやりながら目を細めた。
「まあ、先生、相変わらす、お世辞がお上手だこと。」
「いや、お世辞なんかじゃない。これからは、君らのような若い世代に頑張ってもらわんといかん。わしのような年寄りはそろそろ引退だよ。」
「また、ご冗談を。そう言えば、先生、この度臨床科学研究所の所長に就任されるとか。おめでとうございます。」
「何がめでたいもんか。あそこは教授陣の上がりのポスト。いわばご苦労さんポストだ。まあ、それだけ退官か近くなったっていうことだな。」
 教授は少し寂しげに呟いた。恵子もどう答えていいのか言葉が思い当たらず、少し視線をそらした。
「で、今日君に来てもらったのは、それとも関係するんだか。」
 教授は、少し身を前に乗り出して、修也剣な表情で切り出した。
「君、うちの研究所に来る気はないか。」
 恵子は、突然の話に言葉を呑んだ。東都大学薬学部臨床科学研究所と言えば、国内でも屈指の研究所で、その擁する研究者の数は百名を超え、かつてはノーベル賞学者まで輩出した名門である。いくら不妊治療薬の研究で名を馳せているとはいえ、そんなところで自分のような若輩者が勤まるのかどうか、全くの自信がなかった。
「悪い話じゃないと思うんだが。」
 教授は、恵子が黙ったままでいるので、少し間をおいてから念を押した。
「お、お話は、有難いんですが、私のような者で勤まるんでしょうか。」
 恵子も一度は大学に残ろうかと考えたこともある身である。嬉しくないはずはない。ただ、院生時代の成績が今一歩で、それで仕方なく民間行きを希望した経緯がある。
「さっきも言ったが、私ももうこの歳だ。誰か右腕になって働いてくれる人材が欲しい。」
「それなら、研究所にだって優秀な方はたくさんいらっしゃるのでは。例えば・・、一色さんとか。」
 恵子の頭に咄嗟に一色修也の名が浮かんだ。恵子の一年上で、院生時代にはともに篠原教授に師事した。当時、その優秀さは群を抜いており、薬学部を首席で卒業後は迷わず研究所に残る道を選んだ。
「彼か。彼はダメだ。」
 教授は、大きなため息を漏らしながら、どっぷりとソファに背をもたれかけさせた。
「君の言うとおり、確かに彼は優秀だ。ただ切れる刀ほど時には危険な刃になる。」
「危険な刃?」
「そう、彼は研究者としての道を外してしまった。彼の研究には正直もう着いて行けん。」
「何かあったんですか。」
「ああ、丁度今、学内の倫理委員会でもめているところだ。」
 教授は少し言い難そうにお茶を濁した。恵子は、それ以上聞くまいと口をつぐんだ。
「先生、研究所のお話ですが、少しお時間をいただけませんか。丁度今、武沢薬品の方で重要なプロジェクトを担当していて。他のチームのメンバーの人たちにあまり迷惑をかけたくないんです。」
 恵子は、武沢薬品で担当している極秘プロジェクトのことを頭に思い浮かべていた。今、自分があのプロジェクトを抜ければ、武沢薬品のみならずこの日本国の将来にとっても多大の影響を及ぼす可能性が予想された。
「そうか、そうだろうな。武沢薬品の方も、いま君を抜かれたらさぞ大変だろう。いやすまなかった、無理を言って。」
 教授は、残念そうに肩を落とした。
「でも、困ったことがあったらいつでも声を掛けてくれ。研究所の方は、いつでも大歓迎だ。」
「ご期待に沿えなくて申し訳ありませんでした。でも、一段落したら必ず。」
恵子は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

1年後の正月、一輝のアパート。
「へえー、鈴木さん家、赤ちゃん出来たんだ。」
 年賀状の差出人は茜の高校時代の友人だった。昨年の結婚式に招待されたばかりで、まだ一年も経っていなかったが、年賀状には若い夫婦に抱かれて笑顔を振り撒く赤ん坊の写真がプリントされていた。茜は目を細めて年賀状を見ていたが、一輝が部屋に入ってくるのに気付くと、静かに葉書を伏せた。
「なあ茜、今年こそ顕微受精を試さないか。AIHじゃだめだよ。いくらやっても出来ないよ。」
 部屋に入ってきた一輝は茜の隣に座るや否や、いきなり口を開いた。不妊治療を初めて一年、人工受精を受けた回数は既に10回を超えていた。病院から帰る都度、今度こそはと期待を膨らませてみるものの、いつも茜の生理が始まることで一輝の期待は裏切られていた。一輝は焦っていた。結婚して間もなく5年、田舎の両親も孫の誕生を今か今かと待ち望んでいた。一輝は不妊のことはまだ両親に話していなかった。孫を手に抱くことを何よりも楽しみにしている両親の期待を裏切ることは出来ないという思いであった。
「私はいいわ、そこまでしなくても。こうやって一輝と一緒にいるだけで十分幸せ。」
 茜はそっと一輝の手を握った。しかし、一輝はそんな茜の手を振り払うように続ける。
「いや、そういうわけにもゆかない。早く作らないと2人ともどんどん年を取ってゆく。」
「でも、私怖いわ。顕微受精って。だって卵子の中に無理やり精子を入れて受精させるんでしょう。そんなことしたら神様のお怒りに触れて、きっと良くないことが起きるわ。」
 茜は不安そうに言い返す。そんな茜に対し一輝はさらに説得を試みる。
「大丈夫だよ。今の医学をもってすれば、出来ないことなんてないよ。なっ、茜。」
「嫌よ、私は嫌。絶対嫌。」
 一輝のしつこさに、茜はムッとしたようにそっぽを向いた。一輝は茜に無視されたことで、急に険しい表情になって声を荒げた。
「頼むよ、茜。俺はもう嫌なんだ。毎週毎週、病院に行っては自分で精子を取る、こんな生活はもうたくさんだ。狭いトイレで、ポルノ雑誌を広げてゴシゴシとあれを擦るんだ。出るものも出ないさ。それがどんなに惨めか、君には分からないだろう。」
 一輝は肩を打ち震わせてうな垂れた。AIHは、週一回病院に出向いて自慰行為により精子を採取し、洗浄後それを冷凍保存するところから始まる。4〜5回分溜まると妻の排卵日前後にまとめて膣内に注射器で精子の注入が行われる。しかし、人の手が加えられるのはそこまで、そこから先は神の手に委ねられる。これにより受精の確率は上がるが、妊娠が100パーセント保証されるものではない。5パーセントしか望みのないものが、せいぜい20パーセントに上がるかどうかというレベルの話であった。
「やめて、私だって頑張ってきたわ。知らない人の前で、見せたくないものまで見せて。最初は顔から火が出る思いだったわ。痛いのに、無理やり太い注射器を奥底まで差し込まれて。女にとってそれがどんなに惨めか、あなたに分かって?」
 茜は両手で顔を覆って、大声で泣き伏した。茜は一輝以上に辛抱強く耐えてきた。人工受精の辛さもさることながら、この2年間は夜の夫婦事もずっとセーブしてきていた。精子の濃度を上げるため、一輝が病院に精子採取に行く週はセックスを避ける必要がある。新婚当時は優しく抱いてくれた一輝も、今では子作りに血眼になって茜のことはすっかり忘れているようであった。
「す、済まない。少し僕も言い過ぎた。」
 さめざめと泣く茜を前に、一輝は大きな嘆息をもらした。しかし、子供が欲しいという気持ちだけは全くの揺るぎようもなかった。

その半年後、大手製薬会社武沢薬品のボードルーム。
「こ、これは一体どういうことかね、君。」
 文京区本郷にある本社ビルの最上階のボードルームには明るい陽光が差込み、眼下には遠く上野公園の緑が一望できた。そんな美しい景色を掻き消すかのように部屋の中には重苦しい空気が漂っていた。中央に置かれた大きな楕円形のテーブルには社長以下11人の取締役全員が打ち揃い、役員会議が開かれていた。
「私たちの研究チームは過去5年間わが国の不妊の実態を研究してきましたが、予想以上に深刻な状況にあります。結論から申しますと、このまま放置していますと近い将来わが国は深刻な人口減少に見舞われる可能性があります。」
 スクリーンの前では、研究開発担当の岡田常務がパワーポイントを使って説明を続けていた。役員たちの目は、スクリーンに表示された「出生率の推移」というグラフに注がれていた。過去30年間、わが国の平均出生率は緩やかな右肩下がりの線を描いており、最近のところは1.3に近いレベルにまで落ち込んでいた。
「厚生労働省の人口統計によりますと、直近の合計特殊出生率は1.3、つまり1組の成人カップルが平均1.3人の子供しか産んでいないという結果が出ております。単純計算しますと一世代後には日本の人口は現在の70パーセント以下にまで減少するということになります。その後も出生率の改善が期待出来なければ、次の世代にはさらに70パーセント、その次の世代というように、日本の人口はどんどん減っていく可能性があります。」
 岡田常務がさらに説明を続けようとした時、それを遮るように武沢社長が質問を発した。
「ちょっと待った。わが国の少子化は、晩婚化、非婚化など社会的要因が原因じゃないのか。であれば、社会情勢が変化すれば出生率がいつまでも1.3ということはなかろう。いずれ反転して回復するんじゃ。」
 武沢喜平。武沢薬品の15代目当主として長らく社長の椅子に君臨してきた。製薬会社によく見られる典型的な同族経営者で、極めて保守的な采配が会社の安定的な発展を支えてきたが、役員の中にはぬるま湯に浸かったような経営を歯痒いと思う向きも少なくはなかった。
「はい、確かに白書等では若者のライフスタイルの変化が少子化の最大の要因として指摘しております。ですが、私たちの研究ではそうした社会的要因に加えて、不妊という医学的要因の方も無視できないほど大きいのではないかと思わせる結果が出ております。もしそうであるとすれば、はっきりとした原因を究明しない限り出生率の回復は容易でないと考えます。」
 岡田常務はそう付け加えながら、パワーポインタを前に進める。スクリーンの色が変わり、今度は「成人男性の平均精子数」という棒グラフが現れた。
「我々のサンプル調査では、成人男性の精子数に明らかな異常が見られております。この異常は特に若年層で顕著で、25歳以下の層に限って言いますと、10人中4人までが重度の乏精子症つまり精液中に精子がほとんどないという状況であります。この精子数では自然受精はまず無理で、人工受精が必要です。」
 成人男性の精液1CCの中には平均して1億の精子が含まれる。グラフの一番右端にある20〜25歳の覧は、極端にグラフの高さが低く、平均精子数は3千万そこそこのレベルしかなかった。平均値がこれであるから、乏精子症の水準にある男性の数は推して知るべしである。
「今はまだ平均寿命が伸びていますので人口の減少は見られませんが、あと数年もすればわが国の人口増加はピークアウトし、やがて減少に向います。そしてその後は出生率の低下に合わせて急激な人口減少が起き、我々の試算では50年後くらいには日本の人口は最大5千万人を切る水準まで減少し、さらに精子減少の原因が解明されない場合……。」
 やがて、ボードルームは役員たちの動揺した声でざわつき始めた。
「このままじゃ日本が滅んでしまうぞ。神代の時代から続いてきたこの国が、それもわずか1世紀ほどの間にだ。」
 役員の1人の呟き声に一同が深いため息をついた。
「このようなわが国の一大事、早急に国民の前に明らかにすべきと考えます。」
 岡田常務はそう締めくくると静かに席に戻った。それから暫くボードルームには重苦しい沈黙が続いた。役員全員がこの問題をどう受け止め、どう取扱うべきなのか一様に考えあぐねている風であった。やがてその沈黙を破ったのは武沢社長であった。
「まずは、厚生労働省ですかな。これほどの一大事、一民間企業の手に負えるものではない。とにかく厚生労働省に研究結果を報告し、あとは国に任せよう。どうですかな皆さん。」
 社長の言葉に何人かの役員が同調するように頷いて見せた。
「政府にはもう期待出来ません。わが国の少子化の問題はもう10年も前から専門家の間でも指摘されていましたが、厚生労働省はいつも経済的、社会的理由を指摘するだけで、科学的な検証は何一つなされて来ませんでした。手後れにならない内に、国民の前に全てを明らかにし、警告を発すべきです。」
 岡田常務がさらに具申する。
「岡田君。気持ちは分かるがね、役所を敵に回したんじゃうちの商売はおしまいなんだよ。現にいくつも新薬の認可申請も出ている。そういうことは、国の研究機関に任せておけばいい。ここは一つ穏便に事を運んでくれたまえ。」
 社長は丸い眼鏡越しに、威圧するような鋭い視線を常務に向けた。それもそうである。製薬会社の運命など厚生労働省の薬事行政の匙加減で如何様にでもなる。製薬会社は国民の健康を預かるという重要な使命を有する以前に、利益も上げなくてはならない私企業なのである。
「とにかく、本件は極秘扱いとして下さい。いいですね皆さん。」
 最後に社長の甥子で販売担当の武沢専務が出席役員全員の顔を睨め付けるように念押しした。唯一人岡田常務だけがいつまでも不満気な視線を経営陣に投げかけていた。


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