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作品名:深層海流 作者:ツジセイゴウ

第3回   3
7 水先案内人

 一週間後、茜が退院した。二人はその足ですぐに下田の魚市場を訪ねた。茜は病み上がりであったが、グズグズしている余裕はない。二人の行動が政府の知るところとなった以上、ことを急がないとどんどん窮地に追い込まれる。
「おや、あんた達はいつぞやの。」
 魚市場の仲買人が笑顔で二人を出迎えてくれた。肥料にしかならない海ナマズの腹を裂いて中味を持ち帰るなど常人のすることではない。顔を覚えられていてもおかしくはない。
「それで、今日は何の用だい。」
 仲買人は、今水揚げされたばかりの真鯵を発泡スチロールの箱に詰め込みながら、用件を聞き返した。
「もう一度海ナマズを分けて欲しいんですが。」
 茜は、その問い掛けに勢い込んで返事を返した。しかし、意外にも返ってきた返事は冷たいものであった。
「ああ、あれ。悪いけどもう水揚げできないんよ。」
 仲買人は気の毒そうに答えた。
「えっ?、それってどういうことですか。」
「水産庁の方からお達しがあってさ、何でもあいつが有害魚に指定されとかで、肥料にすることは勿論、水揚げもダメだってことだ。」
 洋一と茜は唖然として顔を見合わせた。海ナマズがないと固形メタンのサンプルが入手出来ない。それが分かっていて敢えて水揚げを禁止したに違いない。締め付けはこんな果ての魚市場にも及んでいた。桂子の言葉は脅しなんかではなかったようである。
「一匹くらい何とかならないかしら。」
 茜は懇願するように頼み込む。
「無理だろうね。もともと肥料にしかならねえクソ野郎だ。それを水揚げして免許停止でも食らったら元も子もないで。どこの漁師も皆、網に掛かったやつは海の上でドボンさ。どうしてもって言うんなら、漁師に直接掛け合うしかねえな。」
 これ以上この人に頼んでも無理なようである。二人は断念して市場を後にしかけた。その時……。
「あれ、あの人。昨日確か同じ電車に。」
 そう言いながら、茜が視線を向けたその方角に一台の乗用車が止まっていた。こんな朝早い時間に海辺の魚市場に乗用車が一台、どう見ても不自然である。その乗用車の脇に男が二人、何をするともなく下を向いて佇んでいた。尾行?、二人の背筋に一瞬の緊張が走る。二人は魚市場を離れて、急ぎ足で漁村の方へと向った。二人が後ろを振り返ると、何と先程の男どもも付けて来るではないか。
 二人は必死になって駆け出した。夜が明けたばかりの静かな漁村に靴音が高くこだまする。二人は迷路のような路地を息を切らせて走り回る。男達の靴音はもうすぐそこまで迫ってきていた。二人は思わず、路地裏に干してあった魚網をかいくぐって、一軒の家の裏庭に身を潜めた。その二人の目の前を男達は大慌てで駆け抜けていった。ぜーぜーと二人が肩で息をしながら身を潜めていると、ゴトゴトと裏庭の引き戸が開き、一人の老人が出てきた。
「どちらさんですかな。」
 二人はギョッとして顔を見合わせた。まずい。今、路地に出れば間違いなく男達に見つかってしまう。二人は凍り付いたようにその老人の顔を見詰めた。その時。
「ちくしょー。どこへ行きやがった。」
 路地の向こうから男達の罵声が聞こえてきた。もうだめだ、と思った瞬間、老人は二人に目配せした。二人は考える間もなく、老人の後に付いて引き戸の中へ飛び込んだ。間一髪、引き戸のすぐ外を男達の靴音が過ぎていった。二人は、ふっーという長いため息とともに、全身の力が抜けていくのを感じた。しばらくして、ようやく老人の存在に気付いた二人は、思わず立ち上がって会釈をした。
「す、すみませんでした。」
「いや、ええってことよ。」
 老人は、二人の挨拶に顔も上げず、淡々と網の繕いに精を出していた。皺枯れたその顔は、既に七十過ぎかという年齢を感じさせた。二人は初めて漁師の家の中を見た。六畳ほどの納戸部屋には、壁一面に繕いの終わった魚網が掛けられ、天井裏には錆付いた漁具が無造作に積み上げられていた。長年の間に染み付いた魚臭いにおいが微かに鼻を突く。華やかな都会の魚市場を支えているのは、こうした裏寂れた漁師達なのである。
 二人が一頻りお礼を言って、その場を後にしようとした時、ようやく老人が顔を上げた。
「まだ連中が外にいるかもしれないで。もう少しここに居なせー。」
 その言葉に、洋一は一旦引き戸に掛けた手を引っ込めた。
「お若いのに礼儀はようわきまえていらっしゃるの。余計なことかもしれんが、あっしみたいなものでよろしければ、お話をお聞きしやしょうか。」
 気難しそうな老人の顔に微かな笑みがこぼれた。二人は一瞬どうしたものかと顔を見合わせたが、じはらくして茜が先に口を開いた。
「私たち、わけあって海ナマズを探しているんです。でも魚市場では最近水揚げが禁止されたとかで。」
「ほうー。海ナマズをね。じゃが、あんな肥やしにしかならんような化け物を、またどうして。」
 老人は訝るような目線を茜に向けた。茜はどうしたものかと迷った。この年寄りに難しい話をしても恐らく分かるまい。ただ他に説得性のある理由もすぐには思いつかなかった。
「そ、それは……。学術研究のためなんです。」
「学術……?。」
 案の定、老人は初っ端から理解できそうにもなかった。しかし、茜は怯まなかった。深層海流のこと、気候変動のこと、バクテリアのこと等、出来るだけ老人にも解るように言葉を砕いて説明を試みた。一人でも多くの人に今世界で起きかけていることを知ってもらいたいという一心からであった。
「そうですかい、そうですかい。難しいことはよう解らんが、確かにこのところめっきり魚の水揚げが落ちてましてな。特にわしらの一番の食い扶持だった鰯や鯵なんぞは、昔の半分も上がらんですよってに、漁師仲間も皆食うのに困っとりますわ。丁度その頃からですわ、海ナマズが網に掛かり始めたのは。」
 洋一と茜は、老人の話に驚いた。昔から日本の大衆魚として人気のあった鰯や鯵の水揚げが落ちている。地球規模の気候変動が、魚の水揚げにまで影響を及ぼし始めていたのである。老人は話を続ける。
「この海ナマズの肉は硬い上に臭いもきついんで、とても食えたもんじゃねえ。皆、ちっとは家計の足しにと思って、肥やしの業者に売っ飛ばしているのさ。まあ大した金にもならんけどな。それがついこの間、水揚げ禁止だとか。まったく国は、わしらみたいな者を見殺しにする気かのう。」
 二人は黙って老人の話を聞いていた。気候変動は漁師や農家など自然を相手に生計を立てている人々に多大の影響を及ぼす。いや漁師や農家だけではない、それはいずれ全ての人の食卓にも影響してくる。そんなことを知ってか知らずか、政府は地球環境までをも政争の道具にしようとしている。全く馬鹿げたことが、今この国で現実になろうとしていた。
「よろしければ、海ナマズ持って行きなされ。」
「えっ?」
 洋一と茜は老人がボソリと呟いた最後の言葉に驚いた。
「いくら水揚げするなと言われても、わしらも食い扶持が掛かってますでな。どこも内緒で業者に卸してるさ。業者の方も心得たもんで、週に一度は回ってきてくれるだ。」
 そう言いながら、老人はそっと裏庭の奥にある納屋の中に二人を案内した。薄暗い納屋の中は海ナマズ特有のムッとした臭いが立ち込めていた。老人がムシロのふたを巻き上げると、地面の下に掘り下げられたコンクリート製のいけすが現れた。暗くてよくは分からなかったが、少し濁りのある海水の中に死んだ海ナマズが数匹沈んでいるのが見えた。
 老人はヨイショとばかりに、大きな鍵の付いた銛をいけすに突っ込むと、グイッとばかりに海ナマズを引き上げた。見覚えのあるグロテスクな姿が浮かび上がり、吐きそうな臭いが辺りに立ち込めた。洋一は三ヶ月前のことを思い出して思わずもどしそうになった。一方の茜は、持ってきた鞄から解剖用キットを取り出すとすぐに作業に取り掛かった。十分も経たないうちに器用に魚の捌きを終えた茜は、この前と同じように胃の内容物をガラス製の採集瓶に詰め込んだ。その間、洋一の方はと言うと、またしても顔を背けたまま両手で口を押さえていた。
「可愛い顔なさって、いや大したもんだ。」
 老人は、てきぱきとした茜の手つきを見て頻りと感心の声を洩らした。一人前の漁師ですら、この魚を扱うのは嫌いである。ましてや腹を裂いてなど、考えただけでもおぞましい。それをこの若い小娘はさっさっと済ませてしまったのである。老人は茜のことがすっかり気に入ったらしく、気難しそうな顔をぐしゃぐしゃに崩して茜の様子を見ていた。
「おんや、もうお済みかな。」
 茜が捌きの終わった海ナマズをいけすに戻したのを見て、老人は少し拍子抜けしたように尋ね返した。洋一と茜は、思わぬところで海ナマズに再会できたことで内心小躍りして喜んだ。まだ勝負は終わっていない。
「どうも、有り難うございました。」
 茜は笑顔で挨拶すると、漁師の裏庭を後にした。
「わしらに出来ることがあれば、いつでもまた来なせえ。」
 老人は別れを惜しむかのように不自由になった片足を引き摺りながら、路地裏まで二人を見送った。外はすっかり夜も明け、いつしか陽が高くなり始めていた。

 一ヶ月後。
「洋一、茜、すごいぞ、すごい発見だ。」
 電話の向こうのブラウン教授の声は興奮で上ずっていた。茜は大急ぎで例のレポートを仕上げると、洋一とも相談してロンドン大学のブラウン教授に相談を持ち掛けていた。日本政府は完全にアメリカ寄りであることがはっきりとした。加えて幻のバクテリア探しを始めた二人には徹底した妨害と監視の目が向けられていた。二人の力だけでは最早どうすることも出来なかった。
「これ以上の調査には深海潜水艇が必要なんです。」
「心配するな、俺に任せておけ。」
 教授の興奮はすぐには鳴り止みそうになかった。教授によれば、地球温暖化を防止するための切り札となる幻のバクテリアをイギリス政府も長年探し求めていたらしい。その世紀の宝の痕跡らしい情報が、こともあろうに今や敵国となってしまった日本からもたらされたのである。
「一ヶ月時間をくれ。」
 そう言い終わる間もなく、あっという間に教授の電話は切れていた。

「今年の夏もまた異常気象のようです。東京大手町の最高気温は今日で五日連続で四十度を超えました。昨日も百人余りの人が熱中症で入院しました。内二名が死亡したとの情報が入っております。」
 お昼時、気象庁の食堂にあるテレビには、猛暑にうだる丸の内の様子が流されていた。画面には、流れ出る汗をハンカチで拭いながら横断歩道を足早に木陰に向って歩くOLの姿が映し出されていた。
 洋一は嘆息交じりに新聞を広げた。異常気象は日本だけではなかった。中国でも今年の夏は雨が少なく、百万頭の家畜が死んだと報じられていた。一方、ヨーロッパは百年ぶりの大洪水で多数の死者が出ていた。そればかりではなかった。アフリカでもロシアでも、そしてアメリカでも異常気象は伝えられていた。
 これまでは、エルニーニョとか特殊な要因のあった年だけ異常気象が起きていたが、最近は異常が異常でなくなるほど平年とかけ離れた気候が多くなった。平年の気温とは過去三十年の平均値を取ったものである。その数字が傾向的に尻上がりになっていれば、過去の平均は最早今を映す鏡とはならない。このところ日本の夏の最高気温は毎年、平年値を二度以上上回る異常値が続いていた。
「それでは次のニュースです。今日午前、米国政府は横須賀に配備中の空母エンタープライズを出航させるのに先立ち、イージス艦の派遣を正式に日本政府に申入れしてきました。行き先は明らかにされていませんが、最近EU諸国との間での緊張が高まってきていることを背景にした措置と見られています。これまで地球環境問題では中立姿勢を示してきた日本政府ですが、このたびのアメリカの要請にどう応じるのかが注目されます。」
 とうとう来るものが来たか。洋一には日本政府が出すであろう答えは既に分かっていた。「領土が倍になるぞ。」という言葉が洋一の頭の中で何度となくこだました。

 一ヶ月後。
「洋一、準備が出来た。英国王立海洋アカデミーが潜水艇ヨークシャーの派遣を決定した。」
 電話の向こうに興奮したブラウン教授の声が響いた。いよいよイギリス政府が動き始めた。「俺に任せておけ」と言った教授の言葉に嘘はなかった。イギリス政府は宝捜しに本気である。洋一は嬉しさの反面、事の深刻さを改めて実感せざるを得なかった。その洋一の不安は的中した。
「空母バーミンガムの護衛付きだ。」
 何というものものしさか。たかがバクテリア一匹のために空母まで派遣するとは最早尋常ではなかった。イギリス政府は武力をもってしても幻のバクテリアを入手する気だ。
 他国籍の船が理由もなく日本の近海をうろつけば、当然海上保安庁の知るところとなる。下手をすればイギリスの海洋調査船が臨検、拿捕されかねない。そうなれば折角手に入れたバクテリアも日本政府の手に渡り、二度と小笠原海域には立ち入ることも出来なくなるであろう。あまりに当然といえば当然の手配りであったが、洋一は自分が予期せぬ軍事紛争に巻き込まれていくような不安と緊張を覚えた。
「じゃが一つ問題がある。水先案内人だ。」
「水先案内人?。」
「そうだ。我々は小笠原の海が初めてだ。誰かガイドしてくれる人間が必要だ。」
 水先案内人と言われて、洋一は当惑した。確かに地球の反対側から来る人間にとって小笠原の海は広い。いくら固形メタンのサンプルを入手したといっても、実際に生きたバクテリアを探すのはその比ではない。闇雲に探し回れば何年かかるかさえ分からない。そんな時間的余裕はない。しかし、水先案内人とは一体どういう人を指すのか。洋一が考えあぐねていた時、教授が一言ヒントをくれた。
「そうだな、例えば漁師とか。」
 漁師?。そうか確かにそうかも知れない。漁師であれば地元の海は当然に知り尽くしている。潮の流れ、天候、暗礁の位置、魚の動き等、誰よりも詳しいはずである。漁師、漁師……。洋一が考えあぐねている間にも、電話の向こうで教授は最後の言葉を口にしていた。
「当方は一週間後に出航する。洋一、じゃあ一ヶ月後に会おう。小笠原でな。」
 洋一が返事をする間もなく電話はもう切れていた。

「危険すぎる。だって一度きりしか会っていないのに。どんな人かもわからない。」
 洋一は目を丸くして反論した。
「でも他に手はないわ。私たちの親類や知人に漁師なんていないし。」
 茜は、先日下田で会った老漁師のことを思い出していた。洋一から水先案内人探しの話を聞いて後、色々迷いもあった。事が事だけに出来る限り信頼のおける人物を、しかも全ては隠密裏に運ばなければならない。漁協なんぞを通して公に募集できるような類の話でもない。
「山口君はどうだろう。彼なら小笠原の海はよく潜ってるし。」
「駄目よ。この前私たちが大迷惑を掛けてしまったんで、あの方もきっと政府から目をつけられてに違いないわ。これ以上の無理は言えないわ。」
 洋一はまだ納得出来ない様子であった。
「でも、あのおじいさんじゃなあ。もう八十近いんじゃないか。」
「あの人は無理でも、きっと息子さんとかお孫さんとかがいらっしゃるはずよ。とにかく行ってわけを話せば分かってもらえるわ。」
 茜には説得できる自信があった。地球規模の異変は漁師自身が肌で感じ取っているのは間違いない。この前も鰯や鯵の水揚げが落ちていると言っていた。少なくとも興味は持ってくれるはずである。

 翌日、下田漁師村。
「駄目だったら駄目だ。そんな危ねえ仕事にどうして俺達が行かなきゃいけないんだ。」
 がっしりした体格の四十過ぎの男が大声を張上げた。傍らでは先日会ったあの老人が腕組みをしたままその男を睨み付けていた。二人はその日初めて老人の名を知った。名は源吾といい、歳は七十六、小笠原の海では幼い頃より五十年以上も漁師として働いてきたという。十年前に漁に出た際にしけに遭って片足を不自由にしてしまって後、漁の仕事は専ら息子の健三に任せていた。大声で反対したのは、この健三という男であった。
 この健三の一言で、親子の間で激論が始まった。どちらも海で鳴らした男達である。どこからこんな大きな声が出るのかと思うほどの地声で、口角に泡を飛ばしながら怒鳴りあった。
「だども折角こうやって遠いところを来てくだすったんだ。おめえだっていつも小笠原の海が変だ、何かおかしいって言っているでねえか。おめえが行かないならおらは一人でも行くぞ。」
「馬鹿な、もう十年も船に乗ってねえのに行けるわけがねえ。」
「馬鹿にすんのか、こいつ。こう見えても若い頃は帝国海軍の航海士だったんだぞ。おめえなんか俺の足元にも及ばねえ。引っ込んでろ、この雛っ子が。」
 二人は今にも掴み合いを始めそうな気配で罵り合った。散々罵り合った挙げ句、息子の健三は土間に置いてあったバケツを力任せに蹴り上げると、プイッと外に出て行った。やっぱり無理だったか。洋一と茜は半ば諦め顔で、大きなため息をついた。
「すいません。頑固な野郎で。」
 源吾爺さんは本当に済まなさそうに頭を下げた。
「い、いえ。こちらこそ無理なお願いをしてしまって、返ってご迷惑を……。」
 二人は申し分けなさそうに頭を下げると、源吾爺さんの家を後にしようとした。しかし、源吾爺さんは二人の背中に向って懇願するように叫んだ。
「お願いです。あっし一人でも連れていってやって下せえ。決して足手まといにはなりやせんから。」
 見ると、源吾爺さんは不自由な片足を引き摺りながら二人の後に食い下がってきた。洋一と茜は顔を見合わせた。水先案内人は喉から手が出るほど欲しかった。しかし、こうした老人を危険な目に巻き込むわけにはゆかない。思案している二人に源吾爺さんはさらに懇願を続ける。
「あっしは小さい頃から船に乗るのが好きでやんした。若い頃は軍艦に乗って小笠原の海を駆け回り、戦争が終わってからは漁師になって五十年も働いてきた。あっしは本当に海が好きなんです。その海が今、わけの分からんことになりかかっとる。難しいことはよう解りませんが、皆昔のような海に戻って欲しいと思っていやす。丘に上がった漁師がどんなに惨めか。足さえよけりゃ、まだまだ若いもんには負けやしません。この年寄りがどなたかのためにお役に立つのなら、死んだって構わねえ。」
 源吾爺さんの目は真剣だった。魚市場に「大漁だ、大漁だ」という威勢のいい声が聞かれなくなって久しい。昔のよかった時代は二度と戻ってこない。それは単なる孤独な老人の郷愁ではなかった。この老人はそうした地球規模の異変を肌で感じ取っていた。
「よ、よろしくお願いします。」
 洋一と茜は深々と頭を下げた。

「イギリスの空母バーミンガムがシンガポール港に入りました。行き先は不明です。」
 総理執務室に佃防衛庁長官の声が響いた。
「ふーむ、一体どこへ行く気だ。イギリスの空母が極東地域まで出動してくるなんて珍しい。」
 首相は腕組みしたまま考え込んだ。
「恐らく対抗措置かと……。」
「対抗措置?」
「はい、アメリカは既に空母インディペンデンスを北大西洋に配備しました。そしてわが国もそれに追随してイージス艦を派遣しています。このままでは軍のバランスが保てません。喉元に刃を突きつけられれば当然刃を突き返す、これが有事の鉄則です。」
 佃防衛庁長官は淡々と説明を続ける。
「ふーむ。そういうものか。だが、用心するに越したことはない。引続き動きはウォッチしておいてくれ。ところで例の件はどうなった。」
「例の件?」
「そうだ、バクテリアだよ。幻のバクテリアとかいったかな。あんなものが明るみに出てくれば、我々の目論見は全て水の泡に帰する。」
「そちらの方は我々にお任せを。」
 脇から海上保安庁長官が口をはさんだ。
「例の深海魚の水揚げは全面禁止いたしました。それと全ての深海潜水艇の方も海上保安庁の指揮下に置きました。潜水艇がなければ誰も手も足も出せませんよ。」
 長官は自信たっぷりの笑みを浮かべた。


8 決意新た

 3月某日未明、まだ夜明けまで二時間以上もあるという早朝に、洋一と茜は源吾爺さんとともに下田の漁港に向った。三日前、ブラウン教授からイギリスの海洋調査船が沖縄付近の公海上を通過中との連絡が入った。教授の指示では、洋一と茜の二人と水先案内人を小笠原近海で待つとのことであった。イギリスの船舶が許可なく日本の経済水域内に入れば、当然海上保安庁の監視に掛かることになる。公海上で落ち合うのが道理であった。そこまでの道程はこちらでつけるしかない。
 当初は反対していた洋一も、源吾爺さんに今回の役目を依頼して良かったと思えるようになった。仮に小笠原まで定期船で行ったとしても、そこから先の足がない。現地で船をチャーターするにしても、そのようなリスクの高い仕事を、しかも極秘裏に引き受けてくれる人がいるかどうかの当てもなかった。下田からであれば、返って怪しまれずに小笠原に向けて出発することが出来る。
 三人が暗い路地を抜けて漁港に出ようとしたその時、突然三人の前に人影が立ちはだかった。三人はギョッとして立ち止まる。
「こっちだ。」
 男は洋一の手首をむんずと掴むとぐいっと脇に引っ張っり込んだ。
「しっ、親父、俺だ。」
 男の口から聞き覚えのある声が漏れた。
「何でえ、健三でねえか。おめえどうしてこんなところに。まさか俺たちの邪魔をする気では……。」
 洋一はまずいと思った。健三は水先案内人の仕事に大反対だった。その健三に気付かれた以上、只では済まないかも知れない。洋一の背筋に一瞬の緊張が走る。しかし、次の瞬間健三の口から意外な言葉が返ってきた。
「バカ、その反対だ。港は危ない。三日ほど前から水産庁の役人と称する連中が出入りする船を臨検していやがる。」
 洋一はさらにまずいと思った。港は既に政府の監視下に置かれている。恐らく出入りする船に不審者が乗っていないか点検したり、あるいは海ナマズを不正に水揚げしようとするのを取り締まるのが目的であろう。それにしても尋常でない厳戒態勢である。日本近海も俄かに緊張が高まってきた。
「大丈夫、船は昨日のうちに岬の裏に回しておいたさ。」
 三人はほっと胸を撫で下ろした。健三がいなければ、もしかすると洋一と茜はその政府の役人らしき人物に見咎められていたかもしれない。二人はどう見ても漁師には見えなかった。
「お、おめえってやつは。」
 源吾爺さんは余程嬉しかったのか、健三の両手を握って大きく揺さ振った。健三はそんな源吾爺さんの手を黙って振り払うと、着いて来いとばかりにさっさと先に立って歩いた。村を抜けて四人は岬の方へと向った。岬は港とは正反対の方向にあり、港からは全く見通せない。まさかこのような場所で船に乗り込む人間がいるというところまでは監視の目も届くまい。
 船は、岬の外側、外洋に面した岩陰に隠されるように係留されてあった。四人は健三が用意していたゴムボートに乗り移ると船を目指す。今日は波も静かな方であったが、それでも外洋の波は港の中に比べると高い。洋一と茜は振り落とされまいと必死にゴムボートにつかまった。やがて船側にゴムボートが横付けされると、真っ先に健三が船に上がった。ゴムボートをしっかりと船側に結わい付けると、茜、洋一、源吾の順に次々と甲板に引き上げる。
 船は思ったよりも小さかった。長さは三十メートル、幅は五メートル足らず、こんな小さい船で本当に太平洋の荒波の中で漁が出来るのかと思うほどのものであった。健三はゴムボートを引き上げると手慣れた調子で右舷側にしっかりと結わい付けた。
「天気は上々、絶好の漁日和だ。」
 源吾爺さんは懐かしそうに船に頬擦りした。爺さんが丘に上がって久しかった。普段の漁は健三たち若い衆に任せっ切りで、年寄りの出る幕はなかった。感傷に浸っている源吾爺さんを尻目に健三はさっさっと機関室の方へと向かう。
 程なく船のエンジンが掛かり、錨が上がり始めた。いよいよ出航である。最初はポンポンと軽い音を立てていたエンジンも、やがでボボボッという逞しい音に変わり、船の舳先が垂直に波を切り始めた。
「小笠原の海までは、だいたい一日半ほどだ。それまではこの波を枕にお昼寝さ。」
 源吾爺さんは得意気に船の中を案内して回った。甲板の中央には水揚げした魚を入れる巨大ないけすと保冷庫があった。後甲板は乗組員たちの居住空間になる。一回の漁で一週間から十日は港を離れる。船の中には、一度に八人の人が寝泊まりできるよう二段ベットが四組しつらえられていた。その隣は簡単な炊事場と食堂になっていた。いずれも年季が入っているらしく、壁板一枚一枚に染み込んだ魚の臭いが鼻を衝いた。
 下田を出て約二時間。白々と夜が明けはじめた。東の水平線が朱に染まり、青黒かった空が少しずつ青白く輝き始めた。周囲は三百六十度見渡す限り海または海、微かに遠くに見えるのは伊豆大島の島影であろうか。洋一と茜は頬に吹き付ける潮風を胸一杯に吸い込みながら、これから来たるべき時のことに思いを馳せた。
「あの、幻の、ほれ幻のバ、何て言ったけな……。」
「バクテリアですか。」
「そうそう、その幻のバクテリアっていうのは、本当に見つかるんですかえ。」
 源吾爺さんは心配そうに二人に尋ねた。
「それは分かりません。でも何としても探さなければ。さもないと地球の気候が大きく変わってしまうかもしれないんです。」
 茜は不安気に答えた。
「そうですかい、そうですかい。お願いしますよ。わしはこの小笠原の海が根っから好きだ。昔みてえに一杯魚が獲れる海に戻ってくれるなら、それだけでいいのさ。」
 源吾爺さんは目を細めて水平線の彼方を見やっていた。

 翌日の昼過ぎ、洋一の携帯電話が鳴った。
「洋一、今どの辺りだ?。」
 電話の向こうにブラウン教授の声があった。洋一はあらかじめ小笠原近海に到着できる日時を伝えておいたのである。洋一は慌てて機関室に入ると、GPSを使って現在位置を確認する。今の漁船には大抵GPSが搭載されており、太平洋のど真ん中でも即座に自分のいる場所が確認できた。
「よーし、すぐ近くだ。そこに動かずにいてくれ、すぐこっちから行く。)」
 洋一は健三に停船するよう告げるとすぐに甲板に出た。三百六十度見渡してみるが、肉眼では船影は確認できない。本当に教授の乗った船はそんな近くまで来ているのであろうか。洋一はイライラしながら船の中を歩き回って、時を待った。
「おーい、船が見えたぞー。」
 一時間ほどの後、健三の叫ぶ声が左舷の舳先から聞こえてきた。見れば、南西の方角に豆粒ほどの小さな船影が見えた。待つこと五分、十分……、その船影はみるみる大きくなってきた。洋一たちが乗っている漁船の十倍以上はあろうかと思われる巨大な船は純白に輝き、船尾には青と赤のユニオンジャックがはためいているのが見える。
 源吾爺さんはというと、すっくと立ち上がると武者震いをして見せた。イギリスといえば、太平洋戦争時代は敵国であった。帝国海軍魂が復活したのであろうか。
 程なく、洋一と茜は白い船の甲板上で手を振る人を発見した。もじゃもじゃの白髪、がっしりした大柄の体つきのその人物は間違いなくブラウン教授であった。
「洋一、茜、とうとう来たぞ。よくやった。」
 教授はいつもと変わらぬ調子で快活に叫んだ。
 やがて白い船体が洋一たちの乗る漁船に横付けされ、ステップが下ろされた。洋一は源吾爺さんに手を貸しながらステップをゆっくりと上る。甲板の上で待ち受けていたブラウン教授は洋一と茜の姿を見るなり、かわるがわる両腕の中に二人を抱きしめて大袈裟な挨拶をして見せた。もじゃもじゃの顎鬚がチクチクと頬に当たるのは、何度経験してもあまり気色のいいものではない。一頻りの挨拶が済むと、ブラウン教授はこちらの御人はとばかり、源吾爺さんの方を向いた。洋一は源吾爺さんと健三をブラウン教授に紹介した。
「はじめまして、ご協力どうもありがとうございます。」
 教授は恭しく一礼すると右手を差し伸べた。源吾爺さんはどうしてよいか分からず一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐに右手で教授の手を取ると力任せにグイッと握り締めた。その力が意外に強かったので教授は痛いとばかりに仰け反った。その仕草があまりに滑稽だったので、その場に居合わせた全員が腹を抱えて笑い出した。常に人を楽しくさせるのが得意なようであった。
 
 一通りの挨拶が済むと、教授はすぐさま三人をブリッジへと案内した。年代を感じさせる船のブリッジには難しそうな計器類が並び、何人かのクルーが忙しく立ち働いていた。ブラウン教授は三人をキャプテンに紹介する。長身のキャプテンは白い制服がピッタリ似合う紳士であった。洋一と茜はかわるがわる握手を交わした。源吾爺さんも今度はうまく握手を済ませた。
「よーし、早速始めようか。」
 教授は待ちきれないとばかりに、ブリッジの中央に置かれた大きなテーブルに近付いた。あらかじめ用意しておいたのであろう。テーブルの上には巨大な海図が貼り付けられていた。全員が海図を取り囲むように囲んだ。
「ここが父島、こちらが母島……。」
 洋一は海図を見ながら源吾爺さんにも分かるように説明した。最初は少し戸惑いの見られた源吾爺さんの目も次第に鋭く輝き、むさぼるように海図を覗き込み始めた。暫く海図をチェックしていた源吾爺さんは、やがてテーブルの脇に置いてあった赤色のマジックペンを取ると、いきなり海図の上に大きな丸を描いた。
「何ですか、これは。」
「この辺りは浅瀬があって危ない。」
 洋一は源吾爺さんの言葉に驚いた。海図の上では何も描かれていない太平洋のど真ん中である。どう見ても平均水深は千メートル以上はありそうな場所である。
「こんな海のど真ん中に浅瀬が?、何かの間違いじゃ……。」
「いや、昔から漁師仲間ではよーく知られている。大潮の時にゃ、海の底まで見えるだ。」
 源吾爺さんは自信たっぷりに説明した。洋一はまだ信じられないという表情で何度も海図を確認した。
「何か問題でも?、この赤い印は何だ?。」
 ブラウン教授が心配そうに横から口を挟んだ。洋一は二言三言、源吾爺さんの主張を英語に訳して伝えた。一頻り頷きながら聞いていたブラウン教授は、なるほどと言わんばかりにニヤリと笑った。
「やっぱり、俺は正しかったな。」
 教授は満足そうに目を細めて源吾爺さんの方を見ていたが、やがて堰を切ったように話し始めた。
「俺はこの人の言うことは正しいと思う。我々の調査では、かつてここに大きな島があったと見られている。それが今から一万二千年程前、海水面が急上昇した際に海の中に沈んでしまったんだ。」
 教授の話を聞いて今度は洋一の方が驚いた。伝説くらいにしか思っていなかった海に沈んだ大陸というものが本当にあったのだ。仮に源吾爺さんの言うことが正しければ、氷河期が来れば海水面が下がり、この付近にも巨大な島が姿を現すことになる。日本の領土は倍になるどころでは済まないかもしれない。まだまだ洋一の知らない未知の可能性が眠っていた。洋一の頭の中に再び畠山首相の言葉がこだまし始めた。
「洋一、本当によくやった。この方を水先案内人雇えて、我々は本当にラッキーだった。」
 教授は満足そうに微笑んだ。洋一が教授の言葉を手短に源吾爺さんに伝えると、今度は源吾爺さんが嬉しそうに頭を掻いた。
「よーし、今日はこれまでにしよう。ところで今夜は君たちを船長主催のディナーに招待したいんだが。」
 教授は再び快活な笑顔を振りまいた。

 その夜、船長室で歓迎のディナーが開催された。
「こりゃ煮付けにした方が美味いのに。こりゃだめだ、これじゃ魚の味が台無しだ。」
 その夜は小笠原の海で採れた新鮮な魚がメインコースに載せられたが、源吾爺さんの口には合わなかったらしい。言葉が解らないことをいいことにしきりと文句を言いながらも、源吾爺さんは殊のほか上機嫌で給仕される料理に箸を運んだ。ナイフとフォークを使い難そうにしていた源吾爺さんの様子を見て、料理長が気を利かして箸を用意してくれたのである。そんな細やかな気遣いを知ってか知らずか、源吾爺さんは一人がつがつと皿に向っていた。
「幻のバクテリアは本当に見つかるんでしょうか。自信がないんですが。」
 茜が心配そうに教授に尋ねた。
「大丈夫きっと見つかるさ。いや見つけねばならん。」
 教授は確信半分、願望半分で呟いた。幻のバクテリアはもはや一研究者の宝捜しの域を超えていた。全人類の運命が、目に見えない微生物の発見に掛かっていた。教授はその使命感の大きさを言外に言い表わそうとしていた。

 翌日、今度は健三も交えて海図の検討が続けられた。
「じゃあ、この赤い点が海ナマズのよく揚がる場所ですね。」
 茜は念を押すように健三に尋ねた。
「そうだ、少なくともここ一年ばかしの間に海ナマズが揚がったところだ。」
 健三が付けた印は、丁度昨日源吾爺さんが浅瀬があるといって印を付けた海域の周辺部を取り巻くように並んでいた。
「やはり深層海流の影響ね。太平洋の南西方向から流れ込んだ深層海流は、この大きな浅瀬にぶち当たって、二手に分かれて進んでいるんだわ。その深層海流の流れが弱くなったんで、海ナマズはえさを求めて水面近くまで上がってきているのよ。」
 茜は改めて海ナマズの行動パターンを推測した。
「でも、問題はこの海ナマズがどこで幻のバクテリアを呑み込んだかだ。それが分からないと……。」
 洋一は当然の質問を発した。海ナマズが揚がった地点と海ナマズがバクテリアを呑み込んだ地点とは必ずしも一致しないかもしれない。やみくもに深海底を調査し回ったのでは、何年経っても見つからないかもしれない。茜は赤い点を追いかけるように海図の上を行ったり来たりしてみたが、簡単に答えは見つかりそうにもなかった。
「とにかく、この辺から調べてみるか。」
 考えあぐねている茜を見かねた教授が適当な場所を指差してみた。とにかくいつまでも海図の上でこうやってにらめっこをしていても事は前に進まない。考えるよりはまず実行である。しかし、その時健三の眉がピクリと釣り上がった。
「そこはだめだ。」
「どうして。」
「そこは危ない。しょっちゅう海の色が変わるんで漁師仲間は誰も近寄らねえ。」
「海の色が変わる?……。」
 洋一は思わず眉をひそめた。海の色が変わるとは一体どういうことか。
「時々海の色が茶色に濁るんだ。」
 健三は真剣に説明する。
「海底火山かもしれないわ。」
 今度は茜が呟いた。なるほど海底火山の可能性はある。この辺り一体は富士・小笠原火山帯の真っ只中にある。海底火山の一つや二つあっても不思議ではない。
「何の話だ?。」
 脇からブラウン教授が興味津々で割り込んできた。
「火山ですよ、海底火山。恐らく。」
 洋一が通訳する。
「火山?、それだ、それだよ。なかなかいい着眼だ。」
 教授は嬉しそうにはっしと手を打った。
「きっとでかい熱水鉱床があるはずだ。」
 その瞬間、茜の口からあっという声が漏れた。「熱水鉱床」、まさに海底に湧く温泉である。火山帯の近くにある深海では数多くのミネラルを含んだ熱水が湧き出る場所が見付かることが多い。熱水鉱床の近くではそうしたミネラルをエネルギーの糧とする微生物が数多く棲息し、それらの微生物をまた糧とする深海生物が集まってくる。光も届かない闇の世界で、しかも何百気圧という超過酷な条件下で外の世界とは隔絶された独自の生態系が形成されているのである。太古の世界から人跡未踏のこの別世界であれば、幻のバクテリアがいる可能性が高い。
 洋一は改めて教授が水先案内人を連れて来いといったことの意味が分かったような気がした。こうしたちょっとした海の変化は毎日そこで働く者にしか分からない。大海原のど真ん中では、知識や学識は二の次なのである。
 しかし喜びも束の間、洋一と茜は教授の顔が急に険しくなったことに気付いた。
「どうかしましたか。」
 今度は洋一が心配そうに教授の顔を覗き込んだ。
「ああ、大問題だ。火山は日本の排他的経済水域内にある。」
 教授は本当に困ったという表情で頻りと顎鬚を撫でくり回した。「排他的経済水域」、国連海洋法条約で各国の主権を認められた水域である。この水域の中にあっては漁業権や資源開発権等の経済的権利はその国にのみ独占的に認められる。従って、いくら調査といっても許可無く他国の船舶がこの水域内に出入りすれば、臨検、拿捕の対象となる。
「我々は日本政府の許可なくこの領域に立ち入ることはできん。」
「どうかしたのか。」
 場の雰囲気が一瞬凍り付いたことに気付いた健三が、恐る恐る洋一に尋ねた。
「いや海底火山のある場所が、日本の排他的経済水域内にあるんでイギリスの船は近寄れないと……。」
「何だ、そんなことか。」
 健三はそんな全員の心配を一蹴するかのように言い放った。
「何かいい方法でも?」
「密漁だよ。密漁。」
「密漁?」
「ああ、皆やってるさ、この辺じゃ。中国やフィリピンの船はしょっちゅう見掛ける。ここは黒潮のど真ん中、本当にいい漁場だ。皆要領を心得たもので、日本の海上保安庁の船に見つかる前にドロンさ。」
 魚の水揚げが減っている中で他国の船による密漁は余計腹が立つのであろう。漁師たちにとってはまさに死活の問題であった。
「そんなにうまくいくものだろうか。」
 洋一は俄かには信じられないという素振りをして見せた。
「ああ、密漁を始めても最低八時間は巡視艇は来ない。やつらもそれを知っていて巡視艇が到着する前には公海に出る。まったく、泥棒猫みたいなやつらだ。」
 洋一の口にもう言葉はなかった。尋常な手段では幻のバクテリアは手に入らない。今ここで国際法や条約のことを議論しても始まらなかった。洋一は静かにブラウン教授の方に向き直ると一言ポツリと通訳した。
「八時間だけなら。」
 教授は洋一の意図するところを見抜いてか、静かに頷いた。

「公海上から問題の場所まで約二時間、そして潜行に約二時間、海底での作業を一時間として、浮上に約二時間……。どう見ても行って帰ってくるのに九時間は掛かる。」
 洋一は何度も行程を検討し直してはため息を漏らした。
「でも八時間というのは最低の時間でしょう。運がよければ十時間だって気付かれないかもしれないわ。」
 茜は何とか洋一を説得しようとするが、洋一は慎重だった。
「いや小さな漁船ならそうかもしれない。でもこの船は三千トンもある海洋調査船だ。見つからない訳はない。もし見つかったら一大事だ。」
 確かに洋一の言う通りであった。イギリス船籍の海洋調査船が日本の排他的経済水域内で何やら隠密の調査を行っていた、しかもそれに日本の科学者が同乗していたなどということが明るみに出れば、それこそ一大事である。
「我々のゴールは我々だけのものではない。人類全てのためのものだ。」
 教授は静かに目を閉じて天井を仰いだ。教授の決意は固かった。洋一は茜の言葉を思い出していた。幻のバクテリアは人類共通の財産だ。それが政治的な意図で利用されてはならない。どのような困難が待ち受けていようと、自分たちは真実を調査し、その結果がどのようなものになろうと等しく全世界の人々の前に明らかにする義務がある。教授の選択に間違いはなかった。

 決行はその日の夜と決まった。夜であれば多少なりとも発見が遅れるかもしれない。そして万一発見されても逃げ果せるかもしれない。
「ごめんなさい。私のせいでこんなことに巻き込んでしまって。」
「いや、こっちこそあんな研究をしたばっかりに。」
 洋一と茜は後甲板に出て、沈み行く太陽を見詰めていた。地球温暖化を巡ってこのような国際紛争がなければ、洋一と茜は平凡な一人の気象学者と一人の海洋生物学者として平和裏に結ばれていたであろう。それが今、こうやって太平洋のど真ん中で危険な冒険に加わろうとしていた。
「お邪魔だったかな。」
 洋一と茜は声のする方を振り向いた。ブラウン教授がゆっくりとパイプの煙を燻らせながら二人の方に近付いてきた。
「いえ、どうぞ、さあ。」
 洋一は教授のためにスペースを空けた。教授は甲板の手すりに肘を突きながら、茜色に染まった水平線を見やると、済まなさそうに呟いた。
「二人をとんだことに巻き込んでしまって済まなかった。」
「ご心配なく。私たちはなすべきことをしようとしているだけですから。」
「地球の気候を変えようなんて本当に馬鹿げた発想だ。アメリカ人め、あいつらは変わってしまった。もう昔の古き良き地球市民でなくなってしまったんだ。ほら、君たちもイラクのことは覚えているだろう。あいつらにとっては自分たちが正義で自分たちが支配者なんだ。」
 教授は憤りを隠せない様子で吐き捨てるように話を続ける。
「同感です。彼らは誤解しています。全てを自分たちが決め、そして世界を自分たちの思う方向に導いて行けると思っている。」
 洋一は真っ直ぐ前を見つめたまま思うところを口にした。
「そうだ、君の言う通りだ。誤解だ、あいつらは誤解している。」
 教授はうれしそうに相槌を打ちながら頷いた。そして最後に力強く言いきった。
「わしらがその誤解を解いてやらねばならんのだよ。」


9 危機一髪

「オーライ、オーライ、OK、ストップ。」
 「Yorkshire」と船腹に書かれた潜水艇の駆体がゆっくりと揺れる海水面に下ろされた。「うみゆり」より一回り大きく見える潜水艇の左舷後方にはユニオンジャックが大きくペイントされていた。
「急げ、あまり時間がない。」
 教授の声が響く。調査船は日本の排他的経済水域の奥深く、問題の地域に到達していた。船が領海線を横切ってから既に二時間が経過していた。早ければそろそろ日本の海上保安庁の知るところになっているかもしれない。今はとにかく一分一秒も大事であった。潜水艇には操舵手の他に、ブラウン教授、洋一、茜の計四人が乗り込んだ。四人が乗り込むとすぐに天井のハッチが閉じられた。
 ゴポゴポという排水音が艇内に響き潜水が始まった。夜間の潜水のため、昼間のような幻想的な風景は見られない。潜行を始めてすぐに小窓の外は漆黒の闇となった。四人は静かに向かい合って座ったまま、来るべき世紀の発見の瞬間に胸を高鳴らせた。咳払いするのも憚られるような静けさの中、コーンコーンというソナーの音だけが微かに艇内に響き渡る。時折深度を読み上げるコンピューターの音声にさえドキリとさせられた。
 潜行を始めて約二時間、潜水艇はようやく海底に到達した。深度は四千フィート。円錐形に広がるサーチライトの光の中には異様な光景が映し出された。
「こ、これはすごい。」
 教授が思わずうめき声を上げた。サーチライトの光が届く数十メートルの空間は、一面に煙突状の突起に覆われ、その突端からは細かい気泡がブクブクと漆黒の闇へと立ち上っていた。教授が予想した通り、深海底には巨大な熱水鉱床が広がっていた。煙突状の突起は熱水の噴出口であり「チムニー(煙突)」と呼ばれる。熱水に含まれるミネラルが長い長い年月を掛けて沈殿して煙突状に積み上がったもので、高いものは数メートルにも達していた。
 一体どれほどの広さの空間にこうしたチムニーが広がっているのか、サーチライトの限られた光だけからではその全容は全く掴めなかった。チムニーの周辺は海底の温泉から噴き出したと思われる硫黄により黄色っぽく変色し、まさに海の底の地獄を思い起こさせる死の世界が広がっていた。
「エビがいるわ。」
 茜の言葉に洋一は思わず目を凝らした。確かに無数の小さなうごめく物体がいる。長年真っ暗闇の世界に棲みついていたせいか体中の色素が抜け、ほとんど透明に見える。しかし形は確かにエビであった。大きさは三センチメートル程であろうか、小さな虫けらのような生き物が海底を静かに這いずり回っている様子が観察された。
「熱水に含まれるミネラルをエネルギー源とするバクテリアがいるわ。そのバクテリアを栄養源としてプランクトンが繁殖し、さらにそのプランクトンをエサとして様々な生き物が集まってくる。ここでは、そうした生き物たちによって外の世界とは隔絶された独自の生態系が息づいているのよ。」
 茜は興奮気味にレクチャーを続ける。その時である。時間が止まっているように見えた静かな風景に一瞬の乱れが襲ってきた。海底の泥が白っぽく巻き上げられ、小エビたちはパニックに陥ったように一斉に動き出した。一体何が起きたのか。
「きゃー。」
 次の瞬間、艇内に茜の叫び声が響いた。全員がギョッとして小窓の外を見やると、見覚えのある黒い巨体がゆっくりと目の前を横切って行った。海ナマズであった。全長二メートル程はあろうかという大物である。海ナマズは、大きく開いた口をまるで掃除機の吸込み口のように使って、小エビの群集を呑み込んでいく。海ナマズは、もうもうと舞い上がった泥も吸い込みながら、悠然と暗闇の中に消えて行った。
「やはり、いたわね。」
 茜は、海ナマズを発見したことで大いに興奮した。あの下田の漁港で見た海ナマズたちも、ここでバクテリアを呑み込んだかもしれない。幻のバクテリアの発見への期待は一気に高まった。

「始めようか。」
 教授は、まだ興奮の止まない茜を横目に作業の開始を告げた。潜行を始めて二時間余り、残り時間はますます少なくなっている。教授は、操舵手を指揮して作業用アームを海底に伸ばした。先日日本の潜水艇で使ったアームに比べると一昔も二昔も前のもののようで、操舵手が手動で操作する。全てがコンピューター制御されていた日本のものとは随分と違っていたが、この際贅沢は言っていられない。
「よーし、もう少し左、よし止めろ。」
 アームは一際高いチムニーの前で停止した。続いてアームの先端から標本採取用のスロットがチムニーの根元付近をめがけて打ち出される。微かに海底に泥煙が上がりスロットが刺さった。操舵手はゆっくりとアームを操作し、慎重にスロットを回収する。
「よーし、扉を閉めろ。」
 アームが静かに縮んで格納庫に収納された。教授は内扉を開いてスロットの中からサンプル容器を取り出した。長さ二十センチ、太さ三センチ程のガラス製の容器の中には採取したばかりの海底の泥が詰まっているはずである。教授はピッタリと閉まった容器の蓋を慎重に開くと、中から泥のサンプルを取り出した。少し茶色掛かった灰色の泥は、一見すると何の変哲もない深海の堆積物のように見える。しかし、この中に世紀の大発見となるバクテリアが入っているのではないかと思うと、洋一も茜も胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。教授は取り出したサンプルを小さいガラス片に載せると、艇内に備え付けられた顕微鏡にセットした。
 洋一は固唾を飲んで教授を見守る。茜はというと両手を合わせて結果を待った。教授は何度も何度も顕微鏡を覗き込んではチェックを重ねる。五分、十分と時間が過ぎる。一分がこんなに長いと感じたことはなかった。やがて慎重な検証を重ねた教授は落胆したような表情で二人の方に向き直った。
「だめだ、何もない。この泥の中には生きた物は何もみつからなかった。」
 茜は大きな嘆息を洩らしながら肩を落とした。期待を裏切られた洋一も全身の力が抜けていくのを感じた。しかし、一番ショックが大きかったのは教授のようであった。どんな時にも快活であった教授が一言も口を聞かず放心状態で二人を見つめていた。何ヶ月も掛けてはるばるイギリスから小笠原の海までやって来て、さらに大きなリスクを冒して日本の領海にまで忍び込んだ。その苦労が全て水泡に帰そうとしていた。幻のバクテリアなどそう簡単に見つかるはずがない。太古の世界に生きていたであろうはずと推測されるだけで、何の確証もなかった。まさにあるのかないのかすら分からない宝探しであった。
「別の場所でもう一度トライしてみましょう。」
 そうした鬱屈した沈黙を破ったのは茜であった。茜の言う通りであった。たった一回の調査で見つかると考える方が甘い。調査はまだ始まったばかりであった。茜の言葉に、教授は我に返ったかのように新たな指示を出した。
「よーし、操舵手、前進だ。」
 その声で潜水艇はゆっくりと前進を始めた。この潜水艇には移動用の小さなスクリューが付いており、海底で少しばかりの移動が出来るようになっていた。潜水艇は林立するチムニーの間を縫うように進む。辺り一帯は不気味に静まり返り、チムニーのてっぺんからは熱水が静かに立ち上っていく。潜水艇が進むにつれ、海底に堆積した泥が静かに舞い上がる。太古の世界から訪れる者もなかったこの闇の世界に突然の来訪者が侵入してきた。驚かされた異形の深海生物たちが四方に散り散りに身を隠していく。
 そんな様子を小窓を通して見ていた四人は、やがて巨大な海底の絶壁を目の当たりにした。その壁は海底から垂直に上方向へと切り立っているが、限られた光ではどの程度の高さのものか想像も出来ない。ここから先は完全な行き止まりとなった。もはや引き返すしかない。その時である。
「あれは何かしら?」
 茜が叫んだ。見れば、絶壁の底の辺りの海底の裂け目が次々と盛り上っては崩れ、また盛り上っていく。盛り上がりが崩れる度に白い泡がブクブクと立っていく。岩の割れ目からは赤い光がチラチラと見えた。
「海底火山だ。地殻の割れ目からマグマが噴き出している。」
 洋一が叫んだ。潜水艇は巨大な海底火山の縁まで来ていたのである。地下から噴き出すマグマはあっという間に海水によって冷され黒く固まっていく。その塊を押しのけるように次から次からとマグマが押し上がってくる。四人は生きた地球の息吹を目の当たりにした。
「レッドアラーム。温度が急激に上がっています。このままここにいるのは危険です。」
 操舵手が絶叫した。彼の言う通りであった。潜水艇はまさに活火山と目と鼻の先の位置にいた。地上であればマグマの反射熱でとっくに焼け焦げていた距離である。ただ、ここは水の中、しかも四百気圧を超える超高圧下である。かろうじて艇は安定を保っていた。
「ここでサンプル採取出来ませんか。」
 茜が懇願した。
「馬鹿な、ここで死にたいのか。こんな地獄に生き物なんかいやしない。」
 操舵手が再び絶叫した。
「どのくらいもたせられる。」
 教授はそう叫びながら、自らがアームの操縦かんを握りしめた。操舵手はしぶしぶ潜水艇の後退を止めた。教授は慎重にアームを操作すると、マグマが噴き出すすぐ脇の泥の中にスロットを打ち出した。
 その瞬間、目の前の絶壁がグラリと崩れ、真っ赤に燃え盛るマグマがベロリと水中に顔を出した。海水に触れて一瞬にして冷却化されたマグマは、水蒸気爆発を起こして周囲に強烈な衝撃波を送り出した。みしっという音とともに潜水艇が大きく左右に揺れ、艇内の四人全員が床に投げ出された。
「何が起きた。」
 鳴り響く警報音に続いて、艇内に母船からの声が届く。
「全速後退。」
 操舵手の声と同時に、潜水艇がゆっくりと後退を始める。次の瞬間、海底にそそり立っていた絶壁の一部がドドッーと崩れ、たった今潜水艇がいた場所は舞い上がった海底の泥で全く何も見えなくなった。まさに間一髪、潜水艇はもうもうと上がる水煙の中からチムニーの林へと後退した。
「あんたのお陰で、もうちょいでお陀仏だったぜ。全く自殺行為もいいところだ。」
 操舵手は教授の胸座を掴みそうな勢いで、食って掛った。
「すまん、すまん。じゃが見事な操縦だったよ。ありがとう。」
 教授は謝罪の言葉を繰り返すそばから、悪びれる様子もなく回収したスロットの方に神経を注いだ。教授は震える手でスロットの蓋を開くと、中の堆積物から耳掻き一杯ほどのサンプルを抜き取った。そして再び顕微鏡にガラス板をセットした。今度こそ。洋一と茜は、身を乗り出して教授の脇に詰め寄る。またしても一瞬の緊張が走る。
 教授は一心不乱に顕微鏡を操作する。目指すものはあったのか。しかし、教授の目はなかなか顕微鏡から離れない。二分、三分と時間が過ぎる。洋一と茜のイライラも次第に高じていく。時計の針が五分目を刻もうとしたその時、ようやく教授の目が顕微鏡から離れた。教授は一言も声を出さず、茜に向って覗いてみろとばかりに目配せした。
 茜は恐る恐る顕微鏡に目を近づけた。丸い円形の画像の中には茶色いゴツゴツした岩のような物体が見える。しかし、目を凝らしてよく見ると白っぽい球形の物体がプヨプヨと蠢いているのが見えた。やや半透明のその物体は間違いなく細胞壁と核を持っていた。さらに細かく観察すると、核の脇に見覚えのある白く輝く小さな粒が見えた。まるであこや貝の中に抱かれた真珠のように、バクテリアが動く都度その白い粒はコロコロと転がるようにバクテリアの体内を移動した。
 茜はゆっくりと顔を上げると、教授の方を向き直った。教授は黙ったままニヤリと笑った。続いて洋一が顕微鏡を覗き込む。三人はしばらく無言のまま発見の喜びを分かち合った。どれほど時間が経ったであろうか。最初に口を開いたのは教授であった。
「おめでとう。すごい、本当にすごい発見だ。」
 教授は興奮をどう表現していいか言葉を探しあぐねているかのようであった。白い顎鬚がひくひくと波打った。茜は言葉を失ってひたすら感涙した。洋一は黙って大きく深呼吸した。三人は、しばらくこの海底の密室で世紀の発見の瞬間を喜び合った。幻のバクテリアが今二億年の眠りから覚めた。しかも、この事実はまだ世界中でここにいる四人しか知らない。これから先、このバクテリアが人類にもたらす恩恵を考えると、計り知れないものがあった。
 しかし、三人にはゆっくりと感傷に浸っている閑はない。潜行が始って既に四時間が過ぎていた。まだこれから海上まで二時間、そして日本の領海から出るまでに更に二時間、バクテリアを無事に日本の国外に持出せる保証はない。
「よーし今から浮上する。全速だ。」
 教授は、ようやく平静に戻って潜行調査の終了を宣言した。

「オーライ、オーライ、ストップ。ドッキング完了。」
 潜水開始から九時間、潜水艇ヨークシャーは無事海上に帰還した。小窓から見える外の世界は既に夜も明け、さんさんと照り輝く陽光が眩しいほどに輝いていた。四人の乗組員たちは茜、教授、洋一、操舵手の順にハッチへ通じる階段を上る。教授の手には今採取したばかりのサンプルの瓶がしっかりと握られていた。四人は意気軒昂にハッチに渡されたステップを踏みしめると、次々と後甲板に降り立った。その顔は、皆一様に大仕事を終えた満足に満ち溢れていた。しかし……。
「長い間の潜水、ご苦労様。」
 その四人を出迎えたのは意外にも一人の女性であった。洋一と茜はその女性の姿を見て仰天した。
「葛城さん、どうしてあなたがここに。」
「津山さん。あなたもお人の悪い方ね。こんなことをして何になると思ってらっしゃるのかしら。もう日本は後戻りできない道を歩み始めたの。」
 桂子は腕組みしたまま、横目でゆっくりと四人の方を見ながら二歩三歩と甲板の上を近付いてきた。桂子の脇には黒のスーツに身を固めた屈強そうな男どもが五〜六人付き従っていた。一瞬にして洋一と茜はその連中が、以前下田の市場で見かけた連中だと悟っていた。
「あいつらは誰だ。どこから来た。」
 教授は突然の乱入者に驚いたように声を荒げた。教授の問いに答えようとする洋一を差し置いて口を開いたのは葛城桂子であった。 
「私は日本の外務省の者です。遺憾ながら日本の排他的経済水域への不法侵入ということであなた方を拘束します。それからあなた方この水域で得たもの全ての引き渡しを要求します。お分かりかしら。」
 桂子は自信たっぷりに不遜な笑みを浮かべて見せた。
 時間切れ。三人は一瞬にして状況を理解した。予定より早く日本の当局者が到着してしまったのである。いや、むしろ当の最初から全てが監視されていたのかもしれない。葛城桂子がここにいること自体も不自然と言えば不自然であった。
「葛城さん。あなたっていう人は。折角地球を救えるかもしれないっていう時に……。あなた程の人がどうしてこんな簡単な判断が出来ないんですか。」
 洋一は桂子に食ってかかった。
「津山さん、あなたは単純ね。地球の温暖化が避けられればそれでいい。ただそれだけ。でもその先に何があるというの。」
 桂子は、口元に片手を当てて少し考える仕草をした後、徐に口を開いた。
「それでこの日本は一体どうなるっていうの。戦争に負けた、資源のない、こんな小国がどんなに惨めなものか、外交に携わったことのない人間にはきっと分からないわね。私たちは日本の国益のために、いつも頭を下げることしか出来なかった。世界中どこへ行っても、常に白人社会は私たちの上にあった。そして、そんな私たちを国民たちは支援してくれるどころか、能なし外務省と見下しさえした。そんな折、地球温暖化が遠い将来氷河期をもたらすかもしれないという話を耳にした。私はこれだと思った。氷河期が来れば白人社会が終わる。そして日本の領土は大幅に増え、日本はアメリカと共に世界を制することができるの。」
 桂子は自信たっぷりに持論をぶちまけた。洋一の頭にいつぞやの不遜な首相の笑みが浮かんだ。野心に満ちたその顔からは地球環境を守ろうなどという気持ちは微塵も見られなかった。桂子と洋一は後甲板の上でにらみ合ったまま対峙した。そこに割って入ったのはブラウン教授であった。
「済まんが、私はこれをイギリスまで持ち帰らにゃならん。どんな手段を使ってもだ。」
「それはどういう意味かしら。宣戦布告ということかしら。」
「君がそう考えるなら、そういうことかもしれん。我々はイギリスの空母に護衛されている。万が一にも君らに勝ち目はない。」
 教授は自信たっぷりに胸を張って見せた。何やら急にきな臭いニオイが立ち始めた。イギリス政府は真剣であった。それもそうである。このバクテリアがイギリスに届かない限り、数百年後にはイギリス全土が厚い氷の下に葬られる。もうこれは単なる宝探しではなかった。国と国との争いであった。
「残念ながら、それはこちらの台詞ね。あなた方こそ逃げられないわ。私たちは、もう米国の太平洋艦隊に完全に囲まれているのよ。そちらがお望みならば……。」
 その時、上空を三機のヘリコプターが爆音を立てて通り過ぎた。船の上からでも輝く星条旗の印がはっきりと見えた。
「くそっ、騙したな。」
 教授はほぞを噛んだ。
「いいえ、悪いのはあなた方の方よ。ご自分たちを泥棒猫とは思われないのかしら。さあ、サンプルケースを渡してもらいましょうか。」
 桂子はついに目的のものに触手を伸ばした。教授は渡すものかとばかりに手にしていたサンプル瓶を後ろ手に隠した。屈強な男どもが銃を片手にそろりと足を踏み出した。双方の間に緊張の波が走った。
 その瞬間である。教授の手からサンプル瓶をむしり取った茜は、目にも止まらぬ速さで力任せに後甲板の手すりに瓶を打ち付けた。男たちが銃を発射する間もない程の早業であった。鋼鉄製の手すりにぶち当たったガラス製のサンプル瓶は粉々に砕け散った。
「な、何をする。気でも違ったか。」
 教授が絶叫するが、時すでに遅し。茜は返す力でサンプル瓶を海の彼方へと放り投げた。サンプル瓶は揺れる波間に落ちると、あっという間もなく海中に消えていった。その場に居合わせた全員が放心状態で沈み行くサンプル瓶を見つめていた。割れたガラスで指を切ったのか、茜の右手からはポタリポタリと赤い滴が甲板に落ちた。
「バクテリアは世界中の皆のもの。それが政争の道具に使われるなんて、私は絶対に許せない。」
 茜の言うとおりであった。バクテリアは太古の世界から静かに深海底で生き続けてきた。誰の目にも触れることなく、ひたすら海中に溶けた二酸化炭素を糧として脈々と生き続けてきた。人類は今、目にも見えないその小さな生き物を巡って、殺し合いを始めようとしていた。人とは何と愚かな生き物か。
「さあ、帰りましょうか。もうここには用はないわ。後はあなたたちに任せるから。この方たちを公海上までご案内して差し上げて。」
 桂子は静かに争いの終了を告げた。問題のバクテリアが海の藻くずとなって消えた以上、もうここにいる理由はない。桂子はそう言い残すと自らは早々に海上保安庁のヘリに乗り込んだ。結局、今回の一件は、イギリスの海洋調査船が誤って日本の排他的経済水域に迷い込んだため、海上保安庁の巡視船がエスコートして公海上まで送り届けたということにされた。


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