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作品名:深層海流 作者:ツジセイゴウ

第2回  
4 深海からの贈り物

 一週間後、下田の魚市場。
「はい、五万二千円、五万二千円、あとないか……。」
 威勢のいい競り売りの声が響く。洋一と茜は眠い目を擦りながら底冷えのする市場の中をウロウロと「海ナマズ」を求めて歩き回った。広い市場の中にはあちらこちらに新鮮な魚の入った発泡スチロールの箱がうずたかく積まれ、大勢の買付人達が次々と競り落としてゆく。箱の中には裸電球に照らされて青黒く光る魚の背中が並んでいるのが見えた。やがて二人は市場の片隅に無造作に並べられた奇妙な形をした魚を見つけた。
「これだわ。」
 茜は宝物を発見して喜ぶ子供のように不気味な魚の傍らに駆け寄った。体長は八十センチメートル位であろうか、思ったよりは小さかったが、細長くヘビのように延びた尾ひれまで入れると優に二メートルはあろう。ヌメヌメした黒光りのする魚体は、なるほどナマズというに相応しい。顔半分くらいあろうかと思われる巨大な口が半開きとなりノコギリのようなギザギザな歯がのぞいていた。あの歯に挟まれると、人間の手首も簡単に食いちぎられそうであった。深海から引き上げられたせいか、白い腹は風船のように異様に膨れ上がり、グロテスクな様相を増していた。
 茜は、忙しく立ち働く競売人の一人をつかまえると大声で尋ねた。
「この、海ナマズいくらでしょうか。」
「えっ?。」
 男は茜の方に耳を向けて聞こえないという素振りをして見せた。茜の声はうるさい競売りの声にかき消されて男の耳に届かなかったようである。茜はさらに声を張上げて同じ質問を繰り返す。
「あんなもん買ってどうすんだ?。」
「いえ学術研究です。」
「へえー研究ね、いいよ持って行きな。どうせ肥やしにしかならねえんだし。」
 男は気前よく言った。これだけ図体が大きくても肥料にすればせいぜい数百円にしかならない。解体の手間賃も出ないのであろう。男は一言言い残すと、せわしなく次の持ち場へと去って行った。茜は何かを探すかのようにキョロキョロと辺りを見回していたが、やがて大きな木製のテーブルを見つけた。
「先輩、ちょっと手伝って。」
「一体どうするつもり。」
「あそこの台の上に載せるの。少し重いけど二人で持ては何とかなるわ。」
 二人は海ナマズの尻尾を掴むとズルズルと台の下まで引っ張って行った。台は三メートル四方くらいの大きなもので、おそらく魚の解体に使われるのであろう、ところどころ血糊の跡と思われる黒い染みが見られた。二人は海ナマズを抱えると台の上に載せようとするが、ヌルヌルとした手触りで手が滑る。危うくずり落ちそうなるのを、腕で支えながら二人は何とか魚体を押し上げた。目線が高くなると、海ナマズはさらにそのグロテスクな表情を増した。ギロリとした目は既に空ろになってはいるものの、半分以上眼窩から飛び出し落ちこぼれそうになってる。普通の魚にはない生臭いニオイが鼻を衝いた。
「こんな所に載せてどうするんだい。」
 洋一は茜に尋ねた。
「今からここで解剖して、胃の内容物を確認するの。」
「えっ?。」
 洋一は仰天した。見ているだけでも気持ちの悪いこの魚をこの場で解剖する?。洋一は茜が気でも違ったのではと思った。しかし、茜は真剣であった。持ってきた鞄の中から解剖用のキットを取り出すと台の上に並べ始めた。そして白いマスクとビニール製の手袋を着けると、洋一にも同じ物を着けるように促した。
「お、おれはいいよ。」
 洋一は小声で言った。
「先輩、何びびってんの。魚を三枚に下ろすと思えばいいのよ。」
 大した度胸である。なるほど海洋生物学者ともなれば、これくらいのことは日常茶飯事なのかもしれない。洋一は渋々茜の指図通りマスクと手袋を着けた。
「でも、胃の内容物を調べてどうするの。」
「この魚は深海から浮かび上がってきたのよ。しかも貪欲で何でもかんでも呑み込むの。ひょっとして幻のバクテリアも一緒に呑み込んでいるかもしれないわ。」
 洋一は漸く茜の真意を知って納得した。その間にも、茜はキットの中から鋭い解剖用のメスを取り出した。二人の間に緊張が走る。洋一は魚の解剖など初めての経験であった。せいぜい魚屋の店先でサンマを開くところくらいしか見たことはなかった。しかし、ここにいるやつは大きさといい形といい、サンマとは比較にならなかった。黒光りのするグロテスクな姿を間近に見るだけで背筋が寒くなる。
 茜は手慣れた手つきで胸ヒレの下当たりにメスを突き立てると、一気に下腹まで切り下げた。白い腹が割れて中からピンク色の肉がのぞく。茜はメスを抜くと、さらに今一度開いた創口にメスを刺し入れ、奥深くへと切り込んでいく。水揚げしてもう何時間も経っているはずであるが、血液とも体液ともつかぬ赤茶けた液体がダラダラとテーブルの上に流れ出る。茜は脂がついて切れ味の悪くなったメスを取り替えると、三度目でようやく厚い肉が切り開かれ創口は腹腔に達した。茜は創口に両手を差し込むとエイッとばかりに両脇に押し広げた。大量の液体とともに、巨大なピンク色の肉塊がダラリとテーブルの上に流れ出た。周辺には生臭い悪臭が一層強烈に立ち込めた。
「おえー。」
 洋一は見ていられなくなり、テーブルに背を向けると側溝の上にしゃがみ込んだ。
「ちょっと、先輩、しっかり押さえててよ。」
 茜は洋一に命令する。しかし、洋一はとても真っ直ぐには立っていられそうになかった。それどころか、側溝の上にしゃがみ込んだままゲーゲーと喉を鳴らしていた。
「もう、だらしないんだから。」
 茜はぶつぶつ言いながら一人で作業を続ける。フットボールが十位も入りそうな巨大な胃袋を開くと、持ってきたガラス瓶に内容物を詰め始めた。この魚は本当に貪欲で、ありとあらゆる物を呑み込んでいた。半分ほど消化された魚の骨やら貝殻、カニの甲羅、それに石ころの類まで入っていた。
「終わったわよ。」
 茜はマスクと手袋を外しながら洋一に声を掛けた。対する洋一は、まだ蒼ざめた表情でゼーゼーと肩で息をしていた。このような場面に強いのは、どうやら女性の方のようであった。男は存外気が弱いものである。
「必要なものは頂きました。有り難うございました。」
 茜は先程の競売りの男をつかまえると、軽く頭を下げた。
「あいよ、お疲れさん。後はあのままにしておきな。昼過ぎには業者が回収に来るから。」
 二人はようやく白みかけた早朝の魚市場を後にした。

「先輩、ちょっと研究所まで来れないかしら。」
 三日後の昼過ぎ、茜から電話が入った。先日持ち帰った海ナマズの胃の内容物の調査結果が出たというのである。茜の声は明らかにいつものトーンと異なっていた。何かを見つけたのであろうか。洋一は取るものもとりあえずオフィスを後にした。
 東京海洋大学の研究所は浦安にあった。気象庁のある大手町からは地下鉄で二十分程度の距離であったが、今日の洋一にはその時間がとてつもなく長く感じられた。研究所は東京湾に面した広々とした海浜公園の隣にあった。モダンな建物はどこか水族館を連想させる。洋一はエントランスで茜の名を告げると、ソファに腰を下ろして茜を待った。三階まで吹き抜けになった巨大なエントランスホールには座頭クジラの剥製が飾られていた。待つこと五分、茜が下りてきた。
「先輩、ありがとう。大至急見て欲しいものがあって。」
 茜の声はやはり興奮に震えていた。その興奮はすぐさま洋一の心臓にも伝わった。エレベーターに乗って上に上がる間にも、洋一の胸はドキドキと動悸を打ち始めた。茜の研究室は三階の海に面した側にあった。全面ガラス張りの大きな窓からは東京湾が一望でき、明るい陽光が差し込んでいた。壁側の棚には奇妙な形をした海の生物の標本がホルマリン漬けの瓶に入れられて並んでいた。ずらりと並んだデスクの上には、顕微鏡やパソコン、その他諸々の実験器具が所狭しと並んでいた。
「これよ。」
 茜は洋一に顕微鏡を覗いてみるよう促した。洋一は緊張した面持ちで恐る恐る目を近づけた。丸い画像の中には、ゴツゴツした黒色の物体に混じって小さな白い球状の粒が無数に光るのが見えた。
「こ、これ、ひょっとして……。」
 洋一は期待と緊張で声を引きつらせながら、かろうじて茜に尋ねた。洋一は直感的にこれが幻のバクテリアではないかと考えたのである。しかし、そんな洋一の淡い期待は、すぐさま否定された。
「残念ながら、バクテリアじゃないわ。」
 無論そうであろう。そんなに簡単に幻のバクテリアが発見出来るのであれば誰も苦労はしない。洋一は期待に膨らんだ風船が一気にしぼんでいくような気がして、ガックリと肩を落とした。しかし、茜の話しにはまだ続きがあった。
「これ、固形メタンよ。顆粒状の固形メタンは自然界には存在しないわ。こんな粒状のメタンを合成できるとしたら、何らかの微生物しかありえない。」
「そ、それって……。」
 茜の一言に、消えかかっていた洋一の好奇心に再び火が灯った。
「そう、この固形メタンは幻のバクテリアが存在する可能性を示すものよ。バクテリアは生きてゆくためのエネルギーを得るために海水中の二酸化炭素を分解する。その時の副産物として出来る固形メタンが体内に蓄積されていくの。バクテリアの死後も、固形メタンは分解されずに残る。これはあくまで仮説だけど、今洋一が見ている固形メタンは、バクテリアが海ナマズの胃袋の中で消化されて、その後に残った残留物の可能性が……。」
「す、すごい発見じゃないか。もしそれが事実ならノーベル賞級の発見だ。」
 洋一は興奮して茜の話を途中で遮った。
「いいえ、だめよ。まだ確たる証拠がないわ。この固形メタンが本当にバクテリアの生成物だということを証明するには、どうしても生きたバクテリアのサンプルが必要だわ。」
 茜はあくまでも慎重であった。もしこの固形メタンが全く別の理由で自然界に存在するものであったとしたら、とんだ勘違いになる。確証を得るためにはとにかく生きたバクテリアを採取するしかない。
「そのためには深海まで潜れる潜水艇が必要ね。少なくとも二千メートルまでは潜れる潜水艇。それで深海底の泥を採取して調べるの。でも問題は、そんな潜水艇をどうやってチャーターするかね。」
 茜は途方に暮れたように天井を見上げた。二千メートル級の深海潜水艇は我が国には二隻しかない。海洋資源開発公団と海洋科学センターが、大陸棚の資源開発と海洋性地震の観測の目的でそれぞれ所有していた。いずれも簡単には利用できるようなものではない。
「俺達だけでは無理だな。気象庁の公式ルートで使用許可申請を出そう。」
「ダメよ。公式ルートで申請すれば当然理由を聞かれるわ。そして万一バクテリアが発見されたとしても、それは日本政府の管理下に置かれる。バクテリアをどのように使うか、政治判断の入る余地が出てくるわ。」
 茜の研究者としての勘であろうか。万一、日本政府がバクテリアの存在を不都合と判断すれば……。洋一は、「領土が二倍になるぞ。」という総理の言葉を思い出していた。もし日本政府がアメリカ側に付くとすれば、氷河期の到来を食い止める可能性のあるバクテリアの出現はむしろ不都合である。
「この調査は極秘に進めなければならないわ。そしてもしバクテリアの存在が確認されれば、それは人類共通の財産として世界中の人が共有しなければならない。」
 洋一は舌を巻いた。茜はそこまで計算していたのである。
「ゴメンナサイ。海洋生物学を専攻していると、どうしてもこうしたことを考えてしまうの。歴史を振り返ってみても、一国の我がままな判断で絶滅に追いやられた生物も少なくないわ。」
 洋一はなるほどと思った。過去には人間の乱獲によって絶滅した動物も数多くいる。このバクテリアもどのように使われるか分からない。貴重であるがゆえに政治的に利用されないとも限らないのである。しかし、洋一はハタと困った。公式ルートを通さずに深海潜水艇を利用するなど到底無理な相談であった。洋一は頭を抱えたまま、しばらく絶句してしまった。何かうまい方法はないものか。
「そうだ、山口君に頼んでみよう。ほら、君も知ってるだろう、地震観測局の山口君。彼が定期的に小笠原海域の深海底の調査をしてるって聞いたことがある。彼に頼んで何とか次回の調査に同行出来ないか聞いてみよう。」
 洋一の提案に茜は即座に反応した。
「先輩、お願い。何としてでも潜ってみたいわ。」
 茜は懇願するように洋一の手を取った。
「大丈夫さ。俺に任せて……。」
 洋一は自信たっぷりに茜の両手を握りかえした。

 しかし、一ヶ月後世界情勢は一気に緊迫の度を増した。
「昨日発表されました第三四半期のアメリカの化石燃料消費量は、前年の同じ時期に比べて八パーセント増加しました。自動車などの禁輸措置に踏み切って以降も、一向に事態の改善が図られないことに、EU諸国は揃って非難の声を強めています。イギリスは既にワシントン駐在の大使を召還するとの意向を表明しており、ドイツ、フランスなどもこれに追随する見込みです。アメリカとEU諸国の対立が決定的になったことで、議長国である我が国は極めて難しい立場に立たされることになりました。今後の日本政府の対応が注目されます。」 
 総理執務室に備え付けられた大型テレビの画面からは臨時ニュースが流れてくる。そのニュースを聞きながら、畠山総理以下、関係する諸官庁の大臣が打ち揃い、対応策の協議が続けられていた。
「いよいよだな。で、どうする?、我が国は……。」
 ニュースが一区切りしたのを確認した畠山総理は徐に口を開いた。
「今はとりあえず静観するのがよろしいかと。この問題はアメリカとEUの間の問題でもありますし……。」
 村山外務大臣は火の粉が降りかかるのをかわすかのように中立策を打診した。
「いや、それでは済まんだろう。現にアメリカは空母インディペンデンスを横須賀から出向させると通告してきた。行く先は恐らく北大西洋か地中海だろう。アメリカは本気だ。」
 総理は、意見を求めるかのように佃防衛庁長官の方へ視線を向けた。
「万一欧州で有事ともなれば、日米安全保障条約に基づきアメリカは我が国に後方支援を求めてくるでしょう。アフガニスタンでの前例もありますように、我が国としての立場を明確にせざるを得なくなるかも……。」
「それは無理だろう。今の法律で欧州まで自衛隊の艦艇を派遣するなど、到底国民が納得するはずがない。」
 防衛庁長官の説明に青木官房長官が膝を前に進めて具申する。黙ってその様子を聞いていた総理は、やがて意を決したように自らの思うところを述べ始めた。
「いや、私が欲しいのはそうした目先の事務手続きの話ではない。もっと大所高所の議論が必要だ。今回の問題は、地球温暖化が氷河期入りのトリガーになるということに端を発している。我々が考えている以上に根が深い。目先のことにはとらわれず、何が真に我が国の国益に叶っているかを見極めなければならない。これほどに我が国の将来を大きく左右する政治判断は、恐らく真珠湾以来、いやそれ以上の重みがあるというものだ。どうだ?、わかるかね、諸君。」
 総理は腕組みをしたまま、じっと沈思黙考に沈んだ。その場に居合わせた閣僚全員も、併せるかのように押し黙った。緊張の時間が過ぎていく。やがてゆっくりと腕を解いた総理は一言はっきりとした口調で全員に自らの意思決定を告げた。
「我が日本国は、アメリカと運命を共にする。」
「そ、総理。」
 閣僚全員が一様に驚いた様子で、総理の方に視線を向けた。
「前にも言ったが、歴史的に見ても我が国は国土の狭さに大きなコンプレックスを抱いて生きてきた。それが、戦前は太平洋戦争を生み、戦後は貿易戦争を生んだ。そして未だに資源小国としての悲哀を味わい続けている。いつまでたっても欧州諸国の後塵を拝したままだ。諸君、こんなチャンスは滅多にない。氷河期が来れば、海水面が下がり我が国の国土面積は今の倍になる。大陸棚に眠る資源の開発も思いのままだ。アメリカを抜く大国になることも夢ではなくなるぞ。」
 閣僚一同は唖然として総理の一人演説に聞き入っていた。何という恐ろしい野心であろうか。国益のために、アメリカと一緒になって世界の気候を変えてしまおうという選択肢を、今総理は提案しようとしているのである。それがどのような帰結をもたらすことになるのか誰にも予測できない。まさに国運を左右する重大な意思決定であった。
 総理が話し終わっても誰も口を開く者がいなかった。一分、二分……、長い長い沈黙の時間が流れてゆく中、ようやく一人が口を開いた。
「分かりました、総理。総理がそこまでお考えなのであれば、我々としましては着いてゆくのみです。」
 青木官房長官であった。もはや誰も反対する者はいなかった。そして一週間後、日本政府は公式に京都議定書を批准しないことを発表した。


5 小笠原へ

「大変なことになったわ。」
 洋一と茜はこのニュースを海洋科学センターの深海調査船「小笠原」の上で知った。二人は幻のバクテリアを探し求めて、同センターの潜水調査のミッションに加わっていた。
「一体日本政府は何を考えているのかしら。議長国の日本が議定書を批准しなかったら、そもそもこの議定書自体が反故になってしまうわ。」
 茜は怒りを露わにして強い口調で言った。一方の洋一は落着いてこのニュースを受け止めていた。総理との極秘会議の後、いつかはこうなるであろうことを予想していた。ただ、事態は洋一の思惑よりもはるかに早いスピードで進んでいた。
「とにかく、こうなったら一日も早く幻のバクテリアを探し出さなきゃ。あれがあれば全ての問題は解決する。」
 洋一と茜は、自分たちの宝探しがとてつもなく大きな使命を帯びてきたことに、言いようもない緊張と興奮を覚えていた。
 船は黒潮のうねりを蹴散らすように南を目指す。水平線のかなたまで雲一つない青空が広がり、大海原からは心地よい潮風が吹きつけてくる。まだ三月というのに、小笠原の陽射しはもう初夏を思わせるかのように肌に焼きつく。二人は後甲板に並んで座ると、久しぶりの海の香りを胸一杯に吸い込んだ。
 海は人の心を開放的にする。ここにいると一切の嘘や隠しごとは通用しない。洋一は、すぐ隣で大の字に寝転がっている茜の方にチラリと目をやった。タンクトップからはみ出した茜の両肩は、陽に焼けて早くも赤く染まり始めていた。ふっくら膨らんだ胸の下には、間違いなくロンドンで見たものと同じビーナスが隠されていた。あれは単なる幻だったのか、それとも……。
「茜、今度の仕事が一段落したら、結婚しよう。」
 洋一は頭上に広がった青空を見つめたまま、呟くように言った。
「えっ?」
 茜は突然の洋一の言葉に仰天した。無論洋一とはもう赤の他人ではない。自分でもいつかはこんな日が来ると思っていた。答えは「YES」しかないはずであったが、何故かその一言がすぐには出て来ない。
「わっ、私……」
 洋一の人差し指がそっと茜の唇に触れようとしたその時、無情にも茜の次の言葉を掻き消すように船内放送が流れた。
「エンジン停止。全乗組員は後甲板に集合。繰り返す、……」

 翌日早朝。
「よーし、オーライ、オーライ。もう少し右。」
 後甲板では潜水艇を海面に下ろす作業が始っていた。船の底が両側に開き、潜水艇は後甲板の上に渡された鉄製のトラスから直接海中に吊り下げられる仕組みになっている。
二人は言いようもない胸の高まりを覚えながらその作業を見守っていた。小型深海潜水艇「くろしお」は全長約五メートル、ずんぐりした卵型の船体には丸い小窓が四つと移動用の小さいスクリューが前後左右に一つずつ付いていた。側面には「くろしお」という文字が描かれ、赤い日の丸が鮮やかに輝いて見えた。二本の太いケーブルに支えられた潜水艇はゆっくりと左右に揺れながら、徐々に下ろされてゆく。
「今回の調査では全部で八回の潜水が予定されています。津山さんのチームには一回目と五回目にスケジュールを入れておきましたから。」
 洋一と同期入庁の山口主任が笑顔で二人に近付いてきた。山口裕、二十九歳、現在気象庁地震観測局の主任の地位にあった。海底の地殻変動の調査のため、半年に一度はこの潜水艇に乗り込んでいるこの道の大ベテランである。洋一と茜は公式ルートを通さずに、山口主任を通じて非公式に深海潜水艇への乗り組みを依頼していた。
「潜水艇の定員は四人、お二人の他に操舵手と助手が一人乗り込みます。潜水艇は一分間に約十メートルの速さで降下します。千メートルを降下するのに約二時間かかります。上昇するときも同じです。ゆっくりと時間を掛けて減圧しながら浮上します。一気に浮上しますと潜水病になったり、最悪の場合は命にかかわることもありますから。」
 命にかかわると聞いて、二人は思わずゾクリとした。千メートルもの深海まで潜るのである。危険のないはずがない。万一海底で何かが起こっても、二時間は戻って来れないのである。二人の表情が険しくなったのを見てか、山口主任は笑って説明を続ける。
「あっはは、ゴメンナサイ。でも心配しないで下さい。この潜水艇は最大三千メートルまで潜れるように設計されています。艇内のタンクには八時間分の酸素と、それに万一の場合に備えて三時間分の予備タンクが備えられています。仮に海底で何か起こっても余裕を持って帰還出来るようになっています。潜水艇の操作はここにいる操舵手にお任せください。もう二百回以上潜っているベテランです。それに潜水艇は海上からも遠隔操作が出来るようになっています。」
 山口主任が話している間にも、くろしおの船体は上部のハッチの部分を残してスッポリと海の中に消えた。
「では用意が出来ましたので、どうぞ。」
 操舵手が先に立って二人を先導する。二人は恐る恐るステップに第一歩を乗せると、ゆらゆらと揺れる潜水艇の天井部に移った。ハッチは直径五十センチ程の円形で、人一人がやっと通れる大きさであった。深海での強烈な水圧に耐えるためには入口は小さい方がよい。そう分かってはいても、やはりこの閉ざされた密室に入っていくのは鬱陶しいものである。二人はかわるがわる大きく深呼吸し、最後の空気を胸の奥底まで入れ込むと、ゆっくりと梯子を艇内へと下りていった。
 潜水艇の内部は外から見るよりもさらに狭かった。三畳ほどの広さの中は大人四人が入ると一層狭くなる。潜水艇の前方部分には丸い小窓が二つ、それに両側面にも一つずつ、計四つの窓があった。窓は丁度海水面下の高さにあり、海面が揺れる度に太陽光が散乱されてキラキラと輝いて見えた。
「どうぞ、適当にお座り下さい。」
 操舵手は二人に声を掛けると、自らはさっさと操縦席に座り込んだ。操縦席の前には様々な計器類が並び、赤や緑のランプが点滅している。これらの一つ一つが、潜水艇の状況を逐一知らせてくれる命綱である。二人は、訳が分からないまでも、好奇心の塊となって操舵手の一挙一動を注視していた。程なく、助手が乗り込んできた。
「今回お二人の調査をお手伝いさせて頂きます中井と申します。宜しくお願いします。」
 中井助手はペコリと頭を下げた。見るからに律義そうな青年である。
「い、いえ、こちらこそ宜しくお願いします。」
 二人は緊張した面持ちで中井助手に挨拶した。この人がこれから数時間の間、この密室で自分たちの調査のサポートをしてくれる。良くも悪くも、同じ船に乗り合わせた同士、まさに運命を共にするパートナーである。中井助手が乗り込むとすぐにハッチが閉じられた。先程まで艇内に流れ込んでいた外気はピタッと遮られ、外の喧騒も完全にシャットアウトされた。いよいよ出発である。
「空気圧正常、排水装置異常なし、通信感度良好、……。」
 次々と計器を点検する操舵手の声が艇内に響く。
「潜行開始、では良い旅を。」
 インターホンから山口主任の声が聞こえた。ガクンという軽い振動とともに潜水艇は水面下へと降下した。コポコポという気泡の音が聞こえたかと思うと、すぐにその音はコーンコーンというソナー音に切り替わった。二人は、ゆっくりと潜行していく潜水艇の小窓から海中の様子を覗き見た。時折、目の前を魚の群れが通り過ぎて行く。キラキラと白く光るその一団を見ながら、二人は躍動する生命の息吹を感じずにはいられなかった。
「海底に着くまで二時間ほど掛かります。その間にアームの使い方でもご説明しましょう。」
 中井助手は二人をアームの操作パネルの方に促した。
「操作は簡単です。アームを伸ばす時はレバーを前に倒し、縮める時は手前に倒します。あと、レバーに付いているボタンを押せば向きを変えることが出来ます。上向きにしたい時は上方向のボタン、左向きにしたい時は左方向のボタンです。アームの状況は、このモニター画面に映し出されますので、それを見ながら操作します。テレビゲームよりはずっと簡単ですよ。」
 中井助手はそう言いながら、アームの操作の仕方を実演して見せた。なるほどこれであれば素人でも操作出来るかもしれない。二人は少しホッとしながら、中井助手の説明に真剣に聞き入っていた。
「あと、サンプルを採取する時は少し難しくなります。アーム伝いにスロットを打ち出して引き上げるのですが、打ち出す角度や強さを間違えるとうまく行きません。最初は私がお手伝いしますので……。」
 中井助手がそこまで説明した時、艇内に操舵手の大きな声が響き渡った。
「深度三百(フィート)、異常なし。」
 もう水面下三百フィートも下がってきた。いつしか小窓の外は黄昏時のような淡い光に包まれていた。この深さまで来ると、もう太陽の光はほとんど届かない。これから先は巨大な漆黒の闇が待つばかりである。その闇の底へと潜水艇はまだまだ何千フィートも下っていくのである。夕闇の訪れとともに、心なしか艇内の温度も下がったように感じられ、洋一と茜は思わず身を縮めた。コーンコーンというソナー音だけが、静かな艇内に殊更大きく響く。そんな重苦しい沈黙を破ったのは、茜だった。
「マリンスノーだわ。」
 マリンスノー、海中の微生物の死骸である。何も無いように見える海水の中にも、無数の目にみえないバクテリアやプランクトンが棲みついている。それらの微生物が死ぬと、深い深淵に向って海の中を何日もかけて沈降していく。そんな微生物の死骸に光が当たると微かに白く見える。その様が、まるで冬の夜に津々と降り積もる粉雪のように見えることから、この名が付いた。
「マリンスノーを見るのは大学院の実習の時以来、ホント久しぶり。きれいだわねー。」
 茜は、一時の海の中の芸術を楽しむかのように呟いた。洋一も初めて見る不思議な現象に感動を覚えながら、茜とともに小窓の外を見やっていた。
 その間にも、潜水艇はどんどんと深度を下げていく。周囲は完全に真っ暗となり、潜水艇から発せられるサーチライトの届く範囲だけしか見えなくなった。深海の世界は殊のほか暗い。地上であれば、どんな山奥でも一つや二つは明かりが見える。例え人家がなくても、見上げれば空には星が瞬いている。しかし、ここにはそれすらない。壁一つ隔てた外にあるのは、完全な闇の世界と何百気圧という海の水だけである。この地球上にも、未だこのように人知れぬ世界がある。それ自体が不思議でもあり、不気味でもあった。
 その時である。
「キャーッ。」
 茜の絶叫が艇内に響き渡った。一体何が起きたのか。ギョッとして他の三人が茜の方を振り返ったその時、小窓の外をゆっくりと巨大な魚体が過ぎていくのが見えた。アクアノプロテウス、いつか下田の漁港で見たあの不気味な深海魚、それも生きた実物がほんの数十センチしか離れていない目と鼻の先を通り過ぎていった。まるで侵入してくる者を威圧するかのように、長い尾ひれをくねらせながらゆったりと闇の中に消えていった。
「深度三千六百五十、間もなく海底です。」
 潜行を始めて約二時間、潜水艇は深海底に近付いた。程なくゴクンという軽い振動とともに、エレベーターが停止するように潜水艇の沈降が止まった。窓の外にもうもうと白い泥煙が上がった。パウダーのように細かい海底の汚泥がゆっくりと時間をかけて沈降すると、窓から深海底の様子が姿を現した。一面真っ白な泥の平原がどこまでも続く。まさに死の暗闇が果てしなく続いていた。
 しかし、よく観察すると、この死の世界にも生き物がいた。泥の平原の上をごそごそと這いずり回っているその生き物の姿形はエビのようにも見える。外の世界は一千気圧、光さえ届かないこんな過酷な環境の中にも生物がいることすら不思議であった。
「オクトノオイローパ、原始的なエビの一種ね。世界でもこの海域にしか棲んでいないと言われている。光が届かないので、色素がなくなり体は透けて見えている。目も退化してしまっているわ。」
 流石に海洋生物学者である。自信たっぷりに説明する茜の講義を、洋一と中井助手は感心しながら聞き入っていた。茜がさらに講義を続けようとしたその時、操舵手が話を遮った。海底での作業時間は約二時間、今は一分一秒を惜しむべきである。三人は、すぐさま作業に移った。
 中井助手に言われたとおり、二人はアームを伸ばして海底の泥の採取を始めた。説明を受けた時は簡単そうに思えた操作も、いざ実演するとなると難しい。洋一と茜はかわるがわるアームを操作するが、モニター画面を通しての操作は思うようにはゆかない。レバーの動かし方が悪いのか、アームはなかなか海底の方向に伸びてゆかない。見かねた中井助手がサポートを申し出た。中井助手がレバーを握ると三十秒も経たないうちにアームは所定の角度にセットされた。中井助手は得意気に笑って見せると、二人に声を掛けた。
「はい、じゃあこの当たりでいいですか。ではスロットを打ち出しますよ。」
 中井助手がスロットの発射ボタンを押そうとしたその瞬間、異変は起きた。潜水艇の下部からドスンという鈍い音が響いたかと思うと、潜水艇全体がグラリと大きく振動した。
「何だ、今の音は。」
 中井助手の甲高い声が艇内に響く。一瞬にして緊張が二人にも伝わる。次の瞬間、今度は操舵手が叫んだ。
「左舷より浸水、エアーリーキング。繰り返す、左舷より浸水、エアーリーキング。」
 その声と同時に潜水艇の駆体が大きく傾き、乗っていた全員がどっと床に投げ出された。コポコポコポという音とともに傾きはどんどん大きくなっていく。全員が床をずり落ちるように、折り重なって壁際に倒れ込んだ。全面の小窓を通して見えていた海底の泥がふっと消え、代わってもうもうと舞い上がる白い霧に包まれた。
「姿勢制御、姿勢制御。緊急事態発生、緊急事態発生」
 操舵手の絶叫が続く中、ズーンという音とともに潜水艇は完全に横倒しとなり、洋一と茜は肩と腰の辺りを激しく壁に打ち付けた。次の瞬間、明かりがふっと消え、艇内は真っ暗闇に包まれた。
「茜、大丈夫か。」
 洋一は手探りで茜の体を探り当てた。
「私は大丈夫。それより一体何があったの。」
 茜は打ち付けた肩を擦りながら上体を起こした。中は真っ暗でお互いの顔すら見えない。二人は死を覚悟した。ここは海の底千メートル、海上とは隔絶された閉ざされた空間である。このような場所で事故など起きたら一たまりもない。暗闇の中で、二人の頭の中には、二度と青い空を見ることが出来ないのではという思いが過ぎった。
「うーむ。」
 その時、鈍い呻き声とともに、もう一人が上体を起こした。声の様子からどうやら中井助手のようである。
「だ、大丈夫ですか。」
 洋一が尋ねる。
「ええ、どうやら。」
 中井助手は力ない声で返事をした。二人は中井助手が無事だったことで、とりあえず大きな安堵の嘆息を洩らした。洋一は手探りで中井助手が起き上がるのを助けながら声を掛けた。
「一体何があったんです。」
「いえ、私にもよくは……。こんなことは初めてです。」
 中井助手は大きく息をついて、座り込んだ。一頻り呼吸を整えていた中井助手は、ようやく我に返ったかのように呟いた。
「とにかく、補助電源を入れなければ。」
 中井助手は四つん這いのまま、操舵席の方に進んだ。停電のため操舵席のモニターも真っ暗になり、そこにいるはずの操舵手の姿も見当たらなかった。唯一、補助電源のスイッチを示す赤ランプの表示だけが、暗闇の中で異様に明るく輝いていた。中井助手がボタンを押すと、モニターパネルが点滅し、室内に仄かな明かりが戻ってきた。
「良かった、補助電源はやられていなかった。」
 中井助手はほっと安堵の声を洩らした、が次の瞬間。
「キャーッ。」
 茜の叫び声が響いた。ギョッとして、洋一が目をやったその先に操舵手の体が横たわっていた。
「村本さん、村本さん。大丈夫ですか。」
 中井助手が操舵手を揺り動かそうとするが、ピクリとも動かない。腕に力を入れて上体を回転させたその瞬間、一筋の赤い血が潜水艇の床にツーッと流れた。どうやら先程の衝撃で頭を打ったらしい。中井助手がいくら呼んでも意識が戻る様子はない。ほっとしたのも束の間、艇内に新たな緊張が走った。その時である。
「こちら司令室、こちら司令室、どうかしましたか。レポート願います。レポート願います。」
 インターホンを通じて山口主任の声が聞こえた。この時、洋一は潜水前の山口主任の話を思い出した。確か潜水艇の状態は海上の母船からもモニター出来ると言っていた。恐らく海上の方でも何か異常をキャッチしたのに違いない。中井助手は操舵席のマイクを握り現状報告を行う。
「よくはわかりません。でも潜水艇の左舷に浸水、今船体は横倒しになっています。それと操舵手の村本さんが負傷、意識がありません。」
「よーし了解。緊急浮上する。後は当方に任せてくれ。」
 再び山口主任の声がインターホンから聞こえた。艇内の一同はほっとした。操舵手がいなくても遠隔操作で潜水艇は浮上させることが出来る。後は山口主任に任せておけば、二時間後には海の上である。三人はようやく気を取り直して、操舵手の応急手当に当たった。茜は艇内に備えられていた救急キットから包帯を取り出すと操舵手の頭にしっかりと巻いて止血した。脳内の出血がどの程度あるか分からないため体を大きく動かすのは危険である。手当ては慎重に進められた。
 その時、再びインターホンが鳴り響いた。
「悪い知らせだ。」
 山口主任の重苦しい声が聞こえた。悪い知らせ?、とはどういうことだろうか。安堵の色が広がっていた艇内に再び冷たい空気が流れた。
「潜水艇の状態をチェックした。左舷に大きな亀裂が入って、そこからエアーリークが起きたらしい。原因がよくわからない。酸素残量は約二十パーセント、あと一時間分ほどしか残っていない。」
 全員が絶句した。海上までは二時間の道程である。それなのに一時間分の酸素しかないとは一体どういうことだ。
「補助タンクは?。」
 中井主任が聞き返した。洋一と茜は山口主任の説明を思い出した。万一に備えて補助タンク内に三時間分の酸素が入っている。これを使えば余裕で帰還できるのではなかったか。
「その補助タンクもやられた。横倒しになった時に供給管が折れたようだ。」
 茫然自失。何という失態か。万一の時に備えるはずの補助タンクが、バックアップにならなかった。三人の耳に再び絶望の囁きが聞こえ始めた。
「何といっていいか。とにかくすぐに引き上げます。諦めないで下さい、絶対に助けますから。」
 山口主任は少し上ずったような声で話し掛けるが、三人の耳にはもう何も届かなかった。海上まで二時間掛かるというのに、一時間分の酸素しかない。小学生の子供でも結果は計算できた。暗い海の底で息が詰まって死ぬのは一体どんな心持ちだろう。じわじわと苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと今ここで手首でも切って……、洋一がそう思いかけたその時、山口主任の説明の声が聞こえた。
「一時間で引き上げます。減圧時間を短縮しながら引き上げるので体に異常が起きるかもしれません。しかし、今考えられるのはそれしかありません。とにかく動かないで。動くと酸素の消費量が増えますから。しゃべるのも止めて下さい。いいですか。」
 その声と同時に、ガクンという振動が潜水艇に伝わった。どうやら引上げ作業が始まったらしい。横倒しになっていた潜水艇はゆっくりと持ち上り、今まで床になっていた左舷の壁が元の位置に、そして床が元の床の位置に戻った。三人は操舵手の体を抱きかかえるようにして床の上に静かに横たえると、夫々も壁に背をもたせかけた。
「深度三千五百。」
 コンピーター音声による深度の読み上げが始まった。三人は互いに顔を見合わせたままじっと息を殺して安静にした。動くと酸素消費量が増えるという山口主任の説明を思い出し、茜は思わず息を止めた。息を止めている間は少なくとも酸素は消費されないであろう。文字どおり息の詰まるような瞬間が一秒また一秒と過ぎていく。
「深度三千。」
 確かに早い。沈んだ時の倍のスピードで浮上が続いていた。水圧計もどんどん目盛りを下げていく。三人はしだいに手の平がしっとりと濡れていくのを感じた。その時。
「あっ。」
 茜が小声を上げた。茜の手の甲に一滴の赤い液体がポタリと落ちた。続いてまた一滴。その液体は間違いなく茜の鼻孔から落ちてきた。減圧の影響がもう出始めたようである。減圧スピードが早すぎると人の体内圧がその変化についていけず、体のあちらこちらに異常を来たす。鼻の粘膜に無数に巡らされた毛細血管の一部が破れたのは、そうした異常の序章に過ぎない。このまま浮上を続ければ、体中の至る所の毛細血管が破れ非常に危険な状態になる。
「司令室、司令室。こちらしんかい。鼻血が出ました。少しスピードを落とせますか。繰り返します。鼻血が出ました。」
 中井助手がマイクに向って叫ぶ。しかし、その質問に対してはすぐに答えがなかった。代わりにインターホンを通してザワザワという議論の声が返ってきた。その間にも、浮上は同じペースで続いていく。やがて洋一の鼻孔からも赤いものが滴りはじめた。頭がのぼせたような感覚が走り、軽いぬまいが襲ってきた。
「こちら司令室。浮上スピードを三十パーセント落とします。浮上スピートを三十パーセント落とします。」
 インターホンから新たな指示が来た。三人はやれやれといった風に胸を撫で下ろした。しかし、それも束の間、新たな試練の伝令が入った。
「安全のため浮上スピードを三十パーセント落としました。これにより、浮上までの時間が二十分ほど長くなりますが、これがギリギリです。」
 山口主任は済まなさそうに説明を続ける。先程返事に時間を要したのは恐らくこの計算をしていたためであろう。浮上スピードを落とせば酸素がもたない、酸素をもたせようとすると減圧のスピードを上げるしかない。大きなジレンマであった。どちらの道を選んでも行き着く先は同じである。海上とはほんの数百メートルの距離である。その距離がこれほど遠く感じられのは、潜水艇の上に覆い被さる何千トンという海水の所為であった。人間という生き物の何と情けないことか。茜は深海魚になって壁の外に泳ぎ出したいという気持ちになった。
「深度千五百。」
 コンピューター音声が冷たく艇内に響く。ようやく半分少しまで上がってきた。浮上スピードを落としたお陰であろう、先程までダラダラと垂れていた鼻血が止まり、ズキズキとした頭の痛みも消えた。しかし、そのことは何の問題の解決にもなっていなかった。この付けは必ず最後の十分に襲ってくる。結局、生き長らえる時間が少し延びただけではないのか。ここを生き抜いても、最後には酸欠という生き地獄が待っている。三人はわずかに残った酸素の味を確認するかのように大きく深呼吸した。その時、コンピューターのビープ音がけたたましく鳴り始めた。
「酸素残量二パーセント。後十分で酸素が切れます。酸素残量二パーセント。後十分で酸素が切れます。」
 中井助手は、洋一と茜の顔をゆっくりと見回すと、そっとビープ音をオフにした。計算違いはなかった。海上まではどんなに早くても後三十分はかかる。逆立ちしても酸素はもたない。後はもう運を天に任せるしかない。
「深度千。」
 わずか千フィート。歩けば五分もかからない距離である。この距離がこんなに恨めしく思えたことはない。三人は迫り来る死の恐怖にじっと身構えた。意識のない操舵手だけが何の遠慮もなく、ゴーゴーというイビキ音を立てて酸素を胸一杯に吸い込んでいた。この一人がいなければ酸素は何分延びるだろうか。三人は操舵手の口と鼻に目をやって、思わず顔を見合わせた。その時。
「警告、酸素残量ゼロ。警告、酸素残量ゼロ。」
 ついに酸素が切れた。後はこの密室内に残っているわずかの酸素だけである。一体あと何分もつのか。そして海上までは後何分か。三人は息を殺してこの時間との競争の結末を待った。小窓の外の暗闇の色が微かに変わったように思えた。窓の外をマリンスノーが上から下へと猛スピードで流れていく。酸素濃度が下がってきているはずだが、不思議と息苦しさは感じない。それどころか体全体がフワフワして奇妙なほど温かく感じる。酸素の不足により意識レベルが低下し始めたようであった。
「深度五百。」
 コンピューターは確かにそう言った。しかし意識が朦朧としてその意味を考えることすら出来ない。洋一はそっと茜の手を握り締め、空ろな目で小窓の外を見やった。外はいつしか黄昏色に変わっていた。黒から深い濃紺に、そしてその間を縫うように淡い光が差し込んでくる。ついにお迎えが来た。洋一は全身が温かい光に包まれていくのを感じた。

「おーい、しっかりしろ。」
 洋一と茜は、遠くで呼ぶ声に揺り動かされた。体がフワフワと揺れて何とも心地よい。ついにあの世とやらに着いたかと思ったその時、強烈な光が目に入ってきた。大きく開いたハッチから流れ込んでくる潮風が頬を打つ。助かったのである。洋一はようやく正気に返って、茜を揺り動かした。隣で中井助手もゆっくりと上体を起こした。どうやら全員無事に帰還したようである。フワフワとした感触は、海に浮かんだ潜水艇の揺れだったのである。
「危なかった。後五分遅かったら低酸素脳症で良くて植物状態になるところだった。」
 梯子を下ってきた白衣姿の医師が起き上がろうとする二人に手を貸した。洋一はボンヤリした意識の中で、最後に覚えていた記憶を呼び覚ました。
「そう言えば、村本さん、操舵手の村本さんが……。」
「大丈夫です、命には別状なさそうです。間もなく海上保安庁のヘリで八丈島の病院へ搬送します。」
 医師が操舵手の怪我の具合を説明すると、二人はようやくやれやれという表情になって梯子に手を掛けた。二人はゆっくりとハッチの外に出ると胸一杯に大海原の空気を吸い込んだ。何もない大海原がこれほどありがたく、そして温かく感じた瞬間はなかった。暗く冷たいトンネルを長い時間を掛けて潜り抜け、今生まれ変わったような気持ちになった。ハッチの外では、当惑した表情の山口主任が済まなさそうに二人を出迎えた。
「一体何があったんです。」
 洋一はまだ少しクラクラする頭に右手を当てながら、山口主任に尋ねた。
「それは船体を調べてみないと何とも……。でも私も長いこと潜水調査をやっていますが、こんなことは初めてです。全くお二人は運が悪かったというか、それとも運が良かったというべきか……。」
 二人がそんな話をしている間にも、ウインチの回る音がして、潜水艇の駆体はゆっくりと後甲板上に吊り上げられた。


6 警告

 そして、その日の夜のこと。
「いやー、大変なことが分かりました。昼間の事故ですが、何と申し上げていいか。その……。」
 山口主任は洋一と茜を前にして、説明に窮したような表情をして見せた。その様子から二人は只事ではないという雰囲気を感じ取った。
「サ、サボタージュです。」
「サ、サボタージュですって?。」
 茜が跳び上がらんばかりの声を出した。
「ええ、実はアーム格納庫に通じるシャフトのボルトが三本抜かれていました。本来なら八本あるはずのボルトが五本しかなかったんです。それでシャフトが水圧に耐え兼ねて亀裂が入り……。後はご存知の通りです。」
「で、でも、事故ということも。」
 洋一は破壊工作があったということが未だ信じられないという様子で聞き返した。
「いえそれは有り得ません。ボルトは表と裏から二重に留めることになっています。自然に抜け落ちることなど考えられません。」
 山口主任には確信があるようであった。だとすると、一体誰が、そして何のために。
「とにかく潜水艇の損傷がひどくて、ここでは修理が出来ませんので一旦戻ることにします。」
 山口主任は気の毒そうに今後のことを話した。
「いえいえ、こちらこそ無理なお願いをしてしまったばかりに、済みません。」
 洋一は深々と頭を下げた。はっきりとは断言できなかったが、今回の破壊工作が自分たちの調査と関係があるような気がした。誰が妨害工作を行ったかは分からない。ただ、幻のバクテリアが見つかると都合の悪い連中がいる。「バクテリアが政治の道具にされかねない。」、洋一は、以前茜が言っていた言葉の意味がようやく分かったような気がした。

 洋一と茜が東京に戻って一週間後、再び世界に驚愕のニュースが流れた。
「イギリス政府は、昨夜ベルギーのブリュッセルで開かれました欧州首脳会議の席上で、地球温暖化が欧州地域の氷河期入りのトリガーになりうるという調査結果を報告しました。関係者によりますと、同様の調査結果は米国政府もかなり以前から認知していた模様で、今後EU諸国の米国に対する圧力がさらに強まることが予想されます。それではここで政治部の小島解説委員にお話をお伺いします。」
 カメラがぐいっと引かれて、画面の右半分に解説委員の姿が現れた。
「小島さん、地球温暖化が氷河期に通ずるというのは一見矛盾しているようにも思われるのですが、その辺りのことは如何でしょう。」
「はい、温暖化と氷河期、確かに矛盾しているように見えます。ただ、専門家によりますと、地球規模の気候変動は何百年単位でゆっくりと進んでいくとのことで、昨日今日の温暖化が数百年後の寒冷化を引き起こす原因になることも十分考えられるのです。EU諸国がこれまで地球環境問題にあれほどうるさく取組んできた背景には、数百年後の氷河期入りを阻止する狙いもあったものと考えられています。」
 小島委員は淡々と説明を続ける。洋一は息を呑んでこのニュースに聞き入った。無論二人には周知のことであり特段のビッグニュースでもなかったが、そんなことよりもこの事実がこのタイミングで発表されたことの意味を考えずにはいられなかった。それを察するかのように、テレビの報道は更に先に進んでいく。
「イギリス政府は何故今の時期にそんな発表をしたのでしょう。」
「はい、ご存知の通り、米国は半年前京都議定書への調印を拒否しました。それどころか最近の報告によりますと、二酸化炭素の排出を加速させているとのことです。このまま放置しておくと、ここ数十年の間に地球の温暖化はさらに進み、そしてその後はある年を境に急速に氷河期に突入すると予想されます。EU諸国としましては、今この事実を公にすることで、アメリカの身勝手を糾弾しようとの意図があるものと見られます。」
 洋一の脳裏にブラウン教授の顔が浮んだ。全ては教授の予想通りに物事が進展していた。アメリカは自らが正しいと思ったことは万策を尽くして実現しようとする、今や世界でアメリカの行動を阻止できる力を備え持つ国はなかった。アメリカは常に正義であり、アメリカは常に正しい道を歩んできた。国連という枠組みは既に形骸化し、国力が全てを決する時代に突入しようとしていた。
 アメリカとEU諸国の対立が明白になったことで、日本は極めて難しい立場に立たされた。「領土が倍になるぞ。」、洋一の頭の中に不遜な首相の声が響き渡った。日本は、米国とともに再び野心に満ちた道を歩み始めた。

 一週間後。茜の研究所。
「さてと、これでよし。」
 茜は大きな伸びをした。固形メタンの分析を終えた茜は、連日深夜まで一人研究所に残り、レポートの作成に追われていた。そのレポートがようやく今完成した。
 潜水艇の事故もあり、幻のバクテリアの発見は不首尾に終わった。しかも、山口主任によると、あの事故が原因で事態は極めてまずい方向に動いていた。潜水艇の事故当時、山口主任のチームとは何の関係もない二人が潜水艇に乗り込み、しかも本来の潜水目的とは関係のない調査をしようしていたことが関係当局の知るところとなってしまったのである。山口主任はその責任を問われて、海底地震の調査団から外された。幻のバクテリアを発見しようという洋一と茜の目論見は完全に頓挫してしまった。
 そこで茜は方針転換した。バクテリアの生きたサンプルを自ら探すのではなく、固形メタンの分析結果を公表することで、世界中の学者や研究者たちに幻のバクテリアの存在の可能性を告知しようと考えた。もし自力で幻のバクテリアが発見できれば、それこそノーベル賞級の大発見となるはずであったが、今は自らの栄誉よりも世界の安寧の方が遥かに優先する。茜のその判断は正しかった。
 茜は、パソコンからレポートの入ったロムディスクを抜き取ると、そっと鞄に仕舞い込んだ。壁際の時計を見ると、既に夜の十一時を回ろうとしていた。夜の研究所はことの外暗い。省エネルギーへの配慮から、残業する者は自らのデスクの周辺以外の明かりは全て消すことが、研究所のルールで決められていた。昼間は何十人という研究員が忙しく立ち働くこのフロアも、不気味に静まり返っていた。茜のデスクの周辺だけはシーリングライトに照らされているが、その他は真っ暗である。わずかに非常口を示す緑色のサインだけが明るく輝いているのが見えた。
 茜がデスクに鍵を掛けようとしたその瞬間。
「あれ、誰かいるのかしら。」
 茜は微かな人の気配を感じて頭を上げた。不思議なものである。静かな夜の研究所に一人でいると五感が鋭敏となり、僅かな空気の動きまでも感知される。
「誰か、いるの?」
 茜は大きな声で叫んでみた。茜の声は広い研究所の中に微かにこだました。返事はない。ヒーンというパソコンの放熱音と、ブッブッという外電の印字音だけが暗い部屋のあちこちから伝わってくる。茜は、う空寒さを感じながらも、果てしなく続くデスクの間を縫うように研究所の奥へと進んだ。先程の気配は、確かに標本庫の方からあったような気がした。暗闇の中へと進む茜の心臓は既に早鐘のように打ち響き、手の平にはしっとりと汗が滲んできた。既に三十メートルは進んで来たであろうか。明かりも届かなくなり漆黒の闇が襲ってきた。あと一息で壁際の電灯のスイッチに手が届くというところで、茜はいきなり後ろから何者かに後頭部を殴られた。振り返る間もなく、茜はその場に倒れ込み、そのまま意識を失った。

「ああ、よかった。気がついたか。」
 茜は朦朧とした意識の中でその声を聞いた。ハッとして目を開けると、白っぽい天井がボンヤリと目に入り、その隣に朧げな人影が浮んできた。
「ここは、どこかしら。」
 ベットの上に起き上がろうとした茜は、しかし、ズキリという激しい痛みに顔を歪めた。
「まだ無理だよ。おとなしく寝てなきゃ。」
 洋一は起き上がろうとする茜を制しながら、自らもベット脇の椅子に腰を下ろした。
「昨日の夜だよ。研究所の警備員が倒れている君を発見したのは。」
 警備員?、研究所?……、しばらくして茜の脳裏にようやく昨夜の出来事が蘇ってきた。真っ暗な研究所の中で何者かに襲われて……、その後のことは何も覚えていない。一体何があったというのであろう。
「警備員が午前零時の巡回の途中に君を発見して、それですぐに病院に。」
 洋一はさらに説明を続ける。
「どうやら何者かが研究所に忍び込んだらしい。そこを君に発見されたんで、いきなり……。とにかくよかった。命に別状はないそうだ。一週間もすればよくなるだろうって。」
 洋一はホッと胸を撫で下ろすかのように説明した。しかし、茜の不安は消えなかった。
「泥棒が?……。でも一体何をしに。あんなところに金目の物なんて何もないはずだけど……。」
 茜の問い掛けに一瞬洋一の顔が曇った。洋一の顔には明らかに迷いの色が浮んだ。その瞬間を、しかし、茜は鋭敏な感覚で捉えた。
「ひょっとして……。」
「そう、そのまさかだよ。盗まれたのは、固形メタンのサンプルだった。」
 茜は、ああやっぱりという表情で枕に顔を突っ伏した。
「今朝、研究所の人が出勤してきて調べたところ、標本庫の扉が破られていて、例のものがなくなっていたそうだ。」
 しばらくして、茜は再び顔を洋一の方に向けた。
「でも、おかしいわ。あそこに固形メタンのサンプルがあるって知っていたのは、洋一と私、それと研究所の中のごく限られた人だけ……。」
 そこまで言い掛けて、茜はアッと小声を上げた。
「そう、君の推察の通りだよ。犯人は研究所の中にいる。それもかなり近しい人だ。」
 茜は、自分が今進めている研究のことを知っている同僚の顔を一人一人思い浮かべた。チームリーダーも含めてせいぜい十人という数であろう。その中に犯人がいる?。茜は信じられないという表情をして見せたが、気を取り直して話を続ける。
「でも、大丈夫。固形メタンの分析は終わったわ。それにレポートも……。」
 と言い掛けて、茜は再びアッと小声を上げた。
「先輩、悪いけど、私のバッグ……。」
 茜はそう言いながら上半身を起こそうとして、再び頭に走った激痛に顔を歪ませた。
「ああ、寝てなきゃ。バッグってこれのこと?。」
 洋一は再び茜を制しながら、ベットの脇机の上に置かれていた赤い色のハンドバッグを差出した。茜はバッグを受取るや否や、大慌てで中を弄り始めた。
「ない、ないわ。ディスクがない。」
「ディスクって?。」
「固形メタンの分析結果のレポートよ。昨日の夜それを保存したCDをこのバッグに入れたの。家に持って帰って読み返そうと思って。」
 茜の顔色はみるみる蒼ざめていった。
「と言うことは、それもやられたっていうことか。」
 洋一は大きな落胆のため息を漏らした。固形メタンのサンプル、それに出来上がったばかりのレポート、確かに近しい人間にしか知る術のないものばかりであった。この前の潜水艇の事故といい、今回の事件といい、明らかに二人の調査を妨害している人間がいる。それも一人や二人ではない。複数の人間が二人の行動を密かに監視している。二人は背筋に冷たいものが走るのを覚えて絶句した。
「でも、レポートのバックアップはハードディスクの中にも残っているんだろう。」
 洋一は何とか茜を励まそうとするが、見通しは暗かった。
「だと、いいけど。」
 茜は諦め気味に呟いた。仮に研究所の中の近しい人間が犯人だとしたら、茜のパソコンも破壊された可能性が高い。いやそれに間違いないであろう。これはただの妨害工作ではなさそうだ。幻のバクテリアが世の知るところになると都合の悪い連中、それもかなり高いレベルの人間が介在しているのは間違いないようであった。

 三日後、洋一は大手町の気象庁に戻った。わずか二週間ほど離れていただけにもかかわらず、随分と中の雰囲気が変わったように思えた。例のニュースが流れて後、気象庁への人の出入りが倍加した。事の真偽を確かめようとする政府関係者、大学の専門家、そしてそれらの後を付け回すマスコミ関係者等々、さまざまな人がエレベーターホールを往来した。洋一は行き来する人の流れを避けるように、エレベーターに乗り込もうとした瞬間、フイに後ろから声を掛けられた。
「津山さん、お久しぶりね。」
「か、葛城さん。」
 洋一は突然の桂子の登場に少し驚いた様子で立ち止まった。その間にも、エレベーターの扉が閉まり、洋一は一階のホールに一人取り残された。
「津山さん、大変でしたのね。お怪我はなかったかしら。」
 洋一が一人になったのを確認すると、桂子は洋一の耳元で囁いた。
「け、怪我って?。」
「あーら。お惚けになって。潜水艇のことよ。大変でしたのね。」
 桂子は不遜な笑みを浮かべて、洋一を柱の陰に導いた。
「ど、どうして、そのことを……。」
「あーら。私は何もかもお見通しよ。潜水艇の事故のことも、それにバクテリアのことも。」
 洋一は顔から血の気が引いていくのを覚えた。潜水艇の事故といい、固形メタンの盗難といい、偶然とは思えない事件が相次いでいた。しかし、その仕掛人が葛城桂子であったとは全く予想だにしていなかった。桂子は洋一とは目を合わさず、斜交いに視線を向けながら話を続ける。
「そろそろお諦めになったら。いるかいないか分からない、そんなものを血眼になって探すことにどんな意味があるのかしら。そんなことより私と一緒にいらして頂けない。わが日本国には、まだまだあなたを必要としている方々が大勢いらっしゃるのよ。」
 桂子の目は明らかに誘惑の色に満ち溢れていた。洋一の脳裏には、再び先日の首相との面談のことが浮かび上がった。自分を必要としている人間がいるというのは、恐らくああいう野心に満ちた輩のことであろう。洋一は自らの運命が既に大きな政治の渦の中に巻き込まれていくのを感じずにはいられなかった。
「ば、馬鹿な。馬鹿げている。日本もアメリカも間違っている。皆、間違った道に歩もうとしている、そのことに気が付いていないだけなんだ。」
「あーら、それはどうかしら。今じゃ、アメリカの右に出る国は世界中どこを探しても見当たらない。アメリカが全てなのよ、何もかも。アメリカの考え方が世界のスタンダードであり、アメリカが世界の中心であり、アメリカが世界の正義なのよ。悔しいけど。もう何者もアメリカを止めることは出来ない。だとすれば、アメリカに着いていくしかない。それが唯一、日本が生き残ることのできる道なのよ。そうは思いません。」
 桂子は一気に自説をまくしたてた。やはり、と洋一は思った。桂子は自分たちとは違う世界に住む人間なのだ。何が国益に叶うのか、スタンダード自体も全く異なってしまっている。これ以上議論しても無駄のようであった。
「帰ってくれ。二度と僕の間に姿を見せないでくれ。」
 洋一は壁に向ったまま吐き捨てるように呟いた。桂子は、洋一の言葉には答えず、代わりに意味深な最後の言葉を残した。
「いいわ。分かったわ。でも津山さんもせいぜい身辺にはお気を付けなさって。政府はあなたが思ってるほど甘くはないわ。これは私の本心。あなたのような人をこのまま失いたくはないの。」
 桂子は、そう言いながらそっと洋一の肩に手を掛けようとした。洋一はその手を振り払うかのようにエレベーターに乗り込んだ。
 


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