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作品名:深層海流 作者:ツジセイゴウ

第1回   1
1 異変

「深度六千フィート、水温摂氏三度。」
 キャビンに数値を読み上げる大きな声が響く。船は激しくローリングを繰り返し、何かに掴まっていなければ投げ出されそうになる。
「予想外に低いな。」
 洋一はパソコン画面に映し出されるデータ表を覗き込みながら呟いた。津山洋一、二十八歳。気象庁地球環境局の副主任研究員として、地球温暖化の調査を進めていた。地球温暖化の問題が世間一般に広く知られるようになって久しい。二酸化炭素の排出が原因ではないかと言われてはいるが、本当のところはその原因は未だよく解っていない。影響するファクターがあまりに多すぎて、日本が世界に誇るスーパーコンピューターの全地球気候モデルをもってしても、正確な将来の予測は不可能であった。
「水温が低すぎる、何かの間違いじゃないか。」
「いいえ、計算は合ってるわ。」
 茜は自信たっぷりに言葉を返した。水島茜、二十六歳。東京海洋大学の大学院で海洋生物学の研究助手を勤めていた。今日は洋一の助手という名目で気象庁の海洋調査船「うみゆり」に乗り込み、小笠原海域に調査に来ていた。共に仕事をするようになって二年、二人はいずれからともなく互いに好意を抱く間柄になりつつあった。
「海水面の水温は二十五度。百フィートで0.三度として七度はないとおかしい。このデータはそれよりも四度も低い。深層海で何か異変が起きてるんじゃないか。」
 洋一は頻りと首を傾げると、素早くパソコンのキーボードを操作した。画面には水温分布を表わす赤や青の映像が輝く。その時。
「済みません。台風が近付いています。そろそろ引き返した方が……。」
 操舵手の声が響く。
「分かりました。そうして下さい。」
 洋一の合図で、操舵手は大きく舵を切った。

 一ヶ月後、気象庁特別会議室。
「い、一体これはどういうことだ。」
 その場に居合わせた聴衆の口から重苦しいため息が漏れた。スクリーンには「過去三十年間の我が国近海の深層海水温の推移」と題されたグラフが映し出されていた。
「ご覧のように、我が国近海の深層海の海水温は過去三十年の間に急速に下がってきています。それより以前のデータがありませんので、これがどういう意味を持つのかよくわかりませんが、普通は数千年単位でしか変化しないはずの深層海の水温がこのような短期間に二度も下がったのはやはり異常としかいいようがありません。」
 洋一がパワーポインタを操作すると、スクリーンの表示が変わって今度は日本列島とその近海を示した図が表われた。「我が国近海の深層海水温の分布」と題された地図には、色の異なる等高線のようなカラフルな模様が映し出されている。洋一は、その図を指し示しながらさらに説明を続ける。
「この黄色で示された海域は、深層海水温が八度以下の領域を表わしています。ご覧のように十年前に比べてもそのエリアの面積は約五倍に広がっています。明らかに我が国近海の海水温は下がっています。」
 洋一の声に聴衆たちの視線は一斉にスクリーンに向けられた。確かに黄色のエリアは、十年前は小笠原諸島近海のごく限られたエリアだけだったのが、直近では父島から八丈島付近にまで拡大していた。
「以上で報告を終ります。」
 洋一の合図で薄暗かった部屋に明かりが点り、聴衆一同は大きなため息とともに姿勢を元に戻した。
「で、この結果から何が解るというかね。」
 しばらくの重苦しい沈黙の後、楕円形のテーブルの中央に座っていた局長が口を開いた。地球環境局局長、気象庁の地球温暖化問題の最高責任者である。最近は環境省、外務省、農林水産省等、関係各省庁との間の連絡会等で超多忙な日々を送っていた。
「もう少し分析してみないと解りませんが、日本列島近辺は今後明らかに寒冷化の方向に向かうと予想されます。」
 洋一のその一言に室内にどよめきの声が上がった。
「バ、バカな。君、冗談も休み休みにしてくれたまえ。我々は今、地球温暖化をどうやって阻止するかを議論している。それが寒冷化に向っているだと?。」
 局長は話しにならんとばかりに、テーブルの端を叩いた。
「確かに五十年、百年単位で見ればそうかもしれません。でもさらにその先の数百年、千年を見通すと、地球全体は着実に氷河期に向って……。」
「ひょ、氷河期だと?。は、話しにならん。とにかくこんな茶番劇はもう終わりだ。俺は忙しいんだ。」
 怒りを露わにして、局長はそそくさと席を立った。
「あっ、局長。ちょっとお待ちを……。」
 慌てて後を追いかけたのは、課長であった。それに続いて、他の聴衆も次から次へと席を立ち始め、会議室には洋一が只一人取り残された。確かにバカ気た話しかもしれない。地球温暖化防止の国際会議が間もなく京都で開かれようとしていた。その矢先に地球の寒冷化の問題を議論するなど、ボタンの掛け違いも甚だしい。
 洋一は力なく机の上に残された資料を一枚一枚片付け始めた。その時。
「とても面白かったわ。」
 洋一がふと見ると、淡いグリーンのスーツに身を包んだ女性が一人、小脇に配布された資料を抱えて立っていた。長身のその女性はゆっくりとテーブルを回り込んで洋一の前まで進んだ。年格好は三十少し前、短く切った髪に、薄い化粧は一見してキャリアクラスの人間と見て取れた。
「あ、あなたは?」
「葛城桂子といいます。元々は外務省の者ですが、今官庁研修で環境省に出向中の身です。」
「そうでしたか。いや、お見苦しいところをお見せしてしまいました。」
 洋一は頭を掻きながら苦笑した。
「いえ、私にはとても面白いお話しのように思えましたが。よろしければ続きをお聞きしたいものですわ。」
 葛城と名乗るその女性は真剣な眼差しで洋一の目を正視した。
「そうですか。では。」
 そう言いながら、洋一は閉じかけた資料をもう一度開こうとした。
「こんなところでも何ですから、よろしければお昼でもご一緒に如何ですか。」
「えっ、お昼ですか。」
 洋一は初対面の女性からいきなり食事に誘われたこともあって返事に窮した。戸惑っている洋一を尻目に桂子はすでに廊下を歩き始めていた。人をリードするのが得意なのは外務官僚の常識なのであろうか。洋一は慌てて桂子の後を追った。
「ここなら静かで、ゆっくりとお話出来ますわ。」
 桂子は大手町のビジネス街にある『ボンソワール』というフレンチレストランにスタスタと入って行く。いつもは気象庁の職員食堂でしか食事をしたことのない洋一は、少し戸惑いながらも桂子に付き従った。恭しく出迎えたウエイターは二人を皇居側に面した静かな席に案内した。
「ランチコースのAにしてください。それとワインはシャンパーニュの白で。」 
 桂子は時折ここへ来るのであろうか、慣れた調子でオーダーを出す。
「わ、私も同じもので。それとワ、ワインは結構です。」
「あら、少しくらいよろしいんじゃありません。」
「いえ、午後にはまた別の会議がありますから。」
「お固い方でらっしゃいますのね。」
 桂子は右手を口に当てるとクスッと笑った。洋一は、慌てて傍らに置かれたグラスの水を口に含んだ。オーダーを取り終えたウエイターが下がっていくのを確認した桂子は、周囲を憚るかのように声を落として話を切り出した。
「先程のお話、氷河期が来るっていうのは本当なんですか。」
「いえ、私もまだ確信があるわけではありません。でもデータを見る限り地球全体が温暖化に向っているとは必ずしも言えないかもしれないのです。」
 洋一は話が自分の専門分野に及んだのを確認すると、自信を持って話し始めた。
「でも、世間では今地球温暖化が大問題になっています。現に来週から京都では温暖化防止に向けた国際会議が開かれるわ。」
 桂子は洋一の話が俄かには信じられないという素振りで尋ねた。
「確かに地球の平均気温は少しずつ上がってきています。しかし、それはほんのここ五十年、百年の話です。もっと長いスパンで見た場合、地球は間違いなくまた氷河期に向かっているのです。今から一万二千年ほど前、最後の氷河期が終わり、今我々は間氷期という比較的温暖な時代にいます。でも、地球の長い長い歴史を振り返ってみると、こうした温暖な時期の方がむしろ短くて、ほとんどの時代地球は氷河期の中にありました。過去五十万年の間にこの地球は氷河期を実に五回も経験しているのです。」
 桂子は目を丸くして洋一の話に聞き入っていた。仮に氷河期が来るとなれば、全ては厚い氷に被われ、地球の半分以上は人の住めない土地になってしまう。温暖化どころの話ではなくなる。洋一はさらに続ける。
「今、地球の温暖化問題を扱っている学者たちのほとんどは大気の温度だけを計算に入れています。地球大気の熱効果は、まず太陽の光に始ります。太陽光が地面にあたるとそのエネルギーは熱に交換されます。そのかなりの部分が実は宇宙空間に放射されてしまうので、我々の住む地球は熱地獄になることはなく快適な温度に保たれているのです。しかし、地球大気の中に含まれる二酸化炭素やその他のいわゆる温室効果ガスがこの熱放射を妨げる、つまり温室のように熱が地球の大気圏内にこもってしまうことから温暖化の問題が起きるとされています。この辺りのことは、葛城さんとおっしゃいましたか、あなたも多分ご存知ですよね。」
 桂子は黙って頷いた。この程度の話であれば新聞などでもしばしば取り上げられている。理科好きな小学生なら誰でも知っているレベルの話である。洋一がさらに話を進めようとした時、ウエイターが前菜を手にして現れた。面白いところで話が遮られたので、少しムッとして桂子は椅子の背もたれに身を委ねた。
「スコットランド産のスモークサーモンのマリネでございます。」
 ウエイターが料理の説明をする。二人は仕方なく話を中断して、ナイフとフォークを手にした。洋一はウエイターが下がっていくのを確認すると、さらに話を続ける。
「しかし、地球の気候というのは私たちが考えているほど単純ではないのです。ご存知のように地球の表面積の約七割は海です。実は、私たちはこの海のことについてまだほとんど何も知りません。特に海が地球の気候に及ぼしている役割についてはほとんど解っていないと言っても過言ではありません。ましてや深層海流の役割については……。」
「深層海流?」
 桂子はこの耳慣れない言葉を聞いて、思わず聞き返した。
「そう、深層海流です。深い深い海の底、水深二千メートル位のところをゆっくりと流れる海の大河です。葛城さんも、小学校の理科の時間に『対流』のことは勉強されましたよね。お風呂を沸かす時、あるいはやかんでお湯を沸かす時、熱いお湯は上向きに流れ、冷たい水が下の方へ沈んでゆく。風呂ややかんの中の水はそうやってぐるぐる回りながらだんだんと熱くなっていく。地球も同じですよ。温かい水は上へ上がり、冷たい水は下へ沈む。南極や北極から流れ出た冷たい水は深い海の底へ沈み込み、海の底を這うようにして赤道付近まで流れていく。しかも何百年という時間をかけてね。」
 桂子は驚嘆した。一様にみえる海の水がこのような大きな潮流となって地球を循環しているというのはまさに自然の驚異であった。しかも何百年という気の遠くなるような時間をかけて。
「一番有名なのはグリーンランド沖の深層海流の沈み込みです。グリーンランドの沖合いは北極海から流れ出た冷たくて塩分を多く含んだ重い海水が巨大な滝のような流れとなって大西洋に沈み込んでいます。そこで沈み込んだ海水は大西洋を南下し、アフリカ大陸の南端を回り込んでインド洋に入り込み、最後は太平洋のど真ん中までやって来ます。何千億トンという海水がとうとうと海の底を流れ下るのです。今、小笠原近辺の日本海溝を流れている深層水は凡そ千年前にグリーンランド沖で沈み込んだものなのです。」 
 桂子は何やら胸が詰まる思いがして、そっとナイフとフォークを置いた。しかし、洋一の話はここでは終わらなかった。この後、桂子は仰天するような洋一の仮説を耳にすることになる。
「でも最近、この深層海流の流れが急速に弱まっているらしいという報告がなされています。つまり海という大きなお風呂の水が対流しなくなってきているのです。」
「それが止まってしまうと、どうなるんでしょうか。」
 桂子は心配そうに洋一の顔を覗き込みながら尋ねた。
「地球に大規模な気候変動が起きるのは間違いありません。ある地域は寒冷化し、ある地域はもっと暑くなる、つまり地域での気候差がさらに激しくなるということです。どこがどうということははっきりとは予測できません。今日でも世界の国によっていろいろな気候があります。暑い国、寒い国、雨の多い国、少ない国……。でもこうした違いは私たち地球気候学者から見れば大した違いではないのです。いえ、むしろその違いは小さいといえるでしょう。海が大循環をしてくれているからこそ、地域による気候の較差が平準化されているのです。世界の多くの国が、多少の難はあっても何とか人が暮せる気候を維持できているのはまさに深層海流のお陰なのです。」
 今の世界の気候がまだ平準化された結果だって?。桂子は耳を疑った。ロシアでは冬は氷点下三十度まで下がる、砂漠の国では夏の日中の気温は軽く五十度を超える。最近では日本ですら暑苦しい夏を経験している。しかし、この男はそれがまだモダレートだというのである。だとすれば、海の循環が止まれば一体どうなってしまうのか。桂子がその恐ろしい結末を聞く前に、少しばかりの猶予を与えるかのように、ウエイターがやって来た。
「本日のメインの舌平目のグリルでございます。」
 二人の目の前には、巨大な二枚重ねの皿に載せられたメインコースが置かれた。しかし、桂子は料理に手を付けずに、話を聞くために身を前に乗り出した。そしてそのすぐ後、洋一の留めの一言が発せられた。
「深層海流の流れが止まった場合、同時にメキシコ暖流の北上も停止すると予想されています。そうまさに大きな海の循環が完全にストップするのです。そうなれば、ヨーロッパの平均気温は約十度は下がるでしょう。ヨーロッパは夏でも寒風が吹き荒れ、数十年のうちに厚い雪と氷に覆い尽くされてしまうでしょう。今、ヨーロッパが緯度の割に比較的温暖な気候を享受できているのは、全てはこのメキシコ暖流のお陰なのです。」
「そ、それって、ヨーロッパに氷河期が来るということじゃ……。」
「いえ、ヨーロッパだけじゃありません。ヨーロッパ大陸が雪で覆われた場合、太陽光は地面に吸収されず乱反射されてしまいます。そうなると今度は地球全体の気候にも影響が及んでゆきます。そして次第に気温が下がる地域が拡大して行き、最後は今の亜熱帯地域より緯度の低い場所を除けば、ほとんどが人の住めない世界になってしまうでしょう。私が先ほど『氷河期』と言ったのはそういうことなのです。」
 桂子は洋一の話を聞いて、気が遠くなりそうになった。地球が極寒地獄に覆われる日が来るかもしれないのである。自分達の世代はまず大丈夫であろう。しかし、孫の孫のそのまた孫の時代には随分と違った世界になってしまっているかもしれないのである。
「それで原因は解っているんでしょうか。なぜ深層海流の流れが止まってしまうのか。」
 桂子は興奮を抑えながら、やっとのことで質問の言葉を発した。
「地球の温暖化が原因ではないかと言われています。」
 桂子は耳を疑った。地球温暖化が氷河期の原因?。地球が暖まっていることがどうして氷河期の原因になるというのか。頭の回転には自信のあったはずの桂子も、今度ばかりはこのきつねに化かされたような話に、頭の中がグルグルと混乱した。
「アッハハ、驚かれたようですね。でも事実なんです。地球が温暖化したことで北極圏の氷やグリーランドの氷河が大量に解け出しました。その結果、グリーンランド沖の海水の塩分濃度が下がり、深層海流の沈み込みかストップしてしまったのです。このまま放置していますと、早ければあと五十年ほどで深層海流の流れは完全にストップしてしまう可能性すらあります。そうなれば海水全体の対流の駆動力が失われ、やがてはメキシコ暖流の北上もストップしてしまうでしょう。ヨーロッパの国々にとっては、氷河期の到来は差し迫った危機でもあるのです。」
 テーブルの上はいつの間にかデザートのシャーベットが置かれていた。桂子は話に夢中で自分がメインコースを食べたのかすらよく覚えていなかった。そんな桂子の顔をしっかりと正視して、洋一は話を結んだ。
「地球の気候はものすごくデリケートに出来ています。ごくわずかのバランスの崩れが後になって取り返しのつかない大きな気候変動に発展することも有り得るのです。『地球温暖化』というと、一般の人は地球全体の気温が上昇するものと思っておられるようですが、さらにその先でもっととんでもないことが起こる危険性もはらんでいるのです。」
 桂子はゆっくりと食後のコーヒーを口に含んだ。
「津山さん、今日は有り難うございました。とても有意義なお話でしたわ。」
「い、いえ、こちらこそ。私のような者の話に興味を持って頂いて有り難うございました。」
 洋一が恐縮している間にも、桂子はさっさと勘定書きにサインを終えていた。

 一週間後、京都国際会議場。
「レディース エンド ジェントルメン。本日この会議の議長を努めさせていただくことを大変光栄に存じます。皆様すでにご承知の通り、地球の温暖化は我々の予想を上回るスピードで進行しております。既にいくつかの国、地域におきましては熱波、干ばつといった異常気象、そして海面の上昇といった災害に見舞われております。今ここで我々に何が出来るのか、この疑問に対する答えを見出すことが切に求められており……。」
 宝ゲ池にある国際会議場のメインホールは各国から集まった二千人を超すデリゲーションで埋まり、熱気に満ち溢れていた。演台には会議の議長国を勤める日本の環境大臣の姿があった。急速な地球温暖化の進行を止めるため、今回の会議では二酸化炭素の排出量の削減を義務づける京都議定書への調印が主要議題となる予定であった。
 メイン会議場に入り切れなかった代表団に混じって、洋一と茜は控え室のモニターテレビで会議の模様を見ていた。
「ねえ、この前のあの女の人、一体誰なの。」
 茜は声を潜めて洋一に尋ねた。
「女の人?」
「呆けたってダメよ。ほら一週間前、大手町のレストランで会ってたでしょう。それも二人っきりで顔を突き合わせてひそひそ話?。」
 茜は少しムッツリとして詰め寄った。洋一とは、これまでお高いフランス料理店なんか一度足りとも行ったことはなかった。それが見知らぬ美女と二人っきりで食事となると、内心穏やかならぬものがある。
「何だ、君。見てたのか。あの人は外務省のキャリアで、別に怪しい人じゃない。この前の僕の話に興味を持ってくれて、それで……。」
「どうだか?。やけに嬉しそうだったけど。」 
 茜は相変わらず不機嫌な口調で続ける。
「おいおい、君、まさかやいてんのか。」
「そんなんじゃないわ。」
「しっ。」
 茜の声に、周囲にいた聴衆から叱責の視線が向けられ、二人は思わず首をすくめた。

「このように、二酸化炭素の排出が温暖化の原因であることは明らかであります。今すぐここで排出量を規制しないと取り返しのつかないことになり……。」
 ビデオのモニター画面は何時の間にかゲストスピーカーの基調講演に移っていた。会場の熱気を避けるようにメインゲートの外に出た二人は、ゲート前でテレビ局の記者が立ちレポートをしているのに遭遇した。会議の模様を伝える原稿が次々と手渡される。記者は額に汗を光らせながら、刻刻と入る会議の様子を伝えていた。
「午前十時過ぎ、ここ京都国際会議場で地球温暖化の防止会議が始りました。今回の会議では、温室効果ガスの削減条約でありますいわゆる『京都議定書』に各国が調印することになっています。温室効果ガスの最大の排出国でありますアメリカは今のところ議定書には調印しない意向を表明しており、議長国であります日本が最後の説得工作を試みる手はずになっています。いわゆる化石燃料の最大の消費国であるアメリカがこの議定書に調印しなければ削減効果が限られるとして、すでにヨーロッパ各国からも強い不満の声が上がっており、議長国であります我が国は非常に難しい立場に立たされることになりました。果たして説得が成功するのか、予断を許さない状況です。以上、京都宝ゲ池の国際会議場からの中継でした。」
 原稿を読み終えた記者は汗を拭きながらプレスセンターの方へ戻って行った。

「どうしてアメリカは議定書に調印しないのかしら。」
 立ちレポが終わるのを見届けた茜は独り言を言うように尋ねた。
「経済への影響が大きいからだよ。アメリカは全世界の化石燃料の実に四分の一を消費している。平均的なアメリカ人一人が消費する石油の量は、日本の約二倍、アフリカなどの途上国に比べれば八十倍近い較差だ。それだけ大量の化石燃料を消費することであの強い経済を維持しているんだ。仮にアメリカが議定書に調印することになればたちどころに彼らの経済は立ち行かなくなる。」
 洋一はゆっくりと踵を返すと、ゲートの方へと歩き始めた。
「随分と身勝手ね。だって議定書にはほとんど先進国が調印するんでしょう。なのに世界のリーダー役であるはずのアメリカが調印しないなんて……。」
 茜は、小走りに洋一の後を追った。
「そう、そこがまさに最後の砦だ。もし調印しなければ、アメリカは先進諸国の中で孤立する。いくらアメリカでもそんな危ない橋を簡単には渡らないだろう。日本の説得工作もそのあたりがポイントだ。アメリカも結局は調印するんじゃないかな。」
 洋一は、アメリカの調印についてまだ楽観視していた。いくら世界の超大国といえども、その辺りの分別は残っているはず。アメリカはギリギリまで粘って少しでも有利な条件を引き出そうとしているだけかもしれない。しかし。
「それは、どうかしら。」
 その声に二人が振り向くと、そこには桂子の姿があった。
「か、葛城さん。」
 洋一は思わぬ場所で桂子にあったことに驚いた。桂子は環境省のデリゲーションの一員として今日の会議に随行して来ていたのである。桂子はゆっくりと二人のところに近付いてくると、さらに話を続ける。
「私は、アメリカは調印しないと思うわ。アメリカは実利を追求する国。自らが正しいと信じることは、たとえ世界中を敵に回しても貫き通す。それがアメリカという国よ。イラクを攻撃した時もそうだった。世界の反対を押し切って、単独でも攻撃するとまで宣言した。」
 桂子は自信たっぷりであった。縁無しの丸い眼鏡の奥にある瞳がキラリと輝いた。その目は自信に満ち溢れていた。
「どうしてあなたにそんなことが言えるの。そのアメリカを説得するのがあなた方の役目でしょう。まだ交渉も始っていないのに、どうしてそんなことが……。」
 茜は即座に噛み付いた。桂子の自信に満ちた断定的なもの言いも気に食わなかったが、何よりも自分以外の女性が洋一に近付くことが不愉快でならなかった。
「この方は?」
 一方の桂子はじろりと観察するように茜の顔を睨み付けた。
「水島茜君だ。今東京海洋大学で海洋生物学の研究をしている。」
 洋一は桂子に茜を紹介した。桂子は軽く儀礼的な会釈を交わすと、話を続ける。
「水島さんね、よろしく。外交の世界は時として世の中の常識が通らないことがあるの。皆が最善と思っていることでも、国益が絡むと全く反対の結論を下すこともあるわ。残念ながら事務レベルではもう答えは出てるの。」
 桂子は改めてきっぱりと言い切った。アメリカを説得するための外交交渉は半年も前から続けられて来た。各国の首脳が国際会議の席に着くときには、大抵の場合もう答えは出ている。いくら日本が頑張っても、余程のことがない限り逆転はありえないのである。外務省のキャリアとして外交の修羅場を経験して来た桂子にとって、その辺りのことは百も承知していた。

「話にならん。」
 激しくドアの開く音に続いて、顔を強張らせた代表団がゾロゾロと廊下に出て来た。彼らは一様にドイツやフランスなどヨーロッパの国々の国旗の付いた名札を胸にしていた。
「ちょっと待って下さい。」
 その一団を追いかけるように二人の日本人が走り出て来た。どうやら事務局を勤める環境省の担当者のようであった。洋一と茜が、恐る恐る扉の中の様子を伺うと、後に残された三人のアメリカ人らしい代表団が何やら小声でヒソヒソと話を続けていた。
「うまく行かなかったのかしら。」
 茜は洋一の耳元で呟いた。辺りの張り詰めた空気が、交渉の難しさを物語っているようであった。やはり桂子の言うとおりなのであろうか。確かに交渉は大詰めを迎えていた。京都議定書は2012年までに温室効果ガスの排出量を1990年比、六〜七パーセント削減するという内容であった。EU各国と日本は既にこの議定書に調印する意向を表明していたが、唯一アメリカだけがまだ調印を拒んでいた。
 そして、会議が始まって三日目の夕刻……。
「日本の懸命の説得工作にもかかわらず、最大の温室効果ガスの排出国であるアメリカが結局議定書に調印しないまま温暖化防止会議は閉幕することとなりました。」
 テレビ画面には交渉の決裂を伝えるレポーターの姿があった。
「やっぱりダメだったか。」
 洋一と茜は、この模様をロビーのテレビで見ていた。その場に居合わせた各国の代表団からも大きなため息が漏れた。長年かけて交渉を続けてきた条約に大きな風穴が開いてしまったことに対する失意の念だけが空しく残った。アメリカ抜きでは果たして温室効果ガスの削減にどれほどの効果が上がるというのか。その答えは何世代も後の子孫にしか分からないのかもしれない。
 しかし洋一には一つ気になることがあった。「アメリカは絶対に調印しない。」、桂子はなぜあそこまでハッキリと断言し切ったのであろう。何かある、桂子は何かもっと重要なことを隠している。洋一は心にわだかまりを抱いたまま京都を後にした。


2 ロンドンへ

 一週間後、洋一のデスクの電話が鳴った。
「もしもし、津山さん?、桂子です。」
「か、葛城さん。」
 洋一は一瞬戸惑った。たった一度だけ昼食を共にしただけでファーストネームで名乗られるいわれはない。桂子は驚いて声を失っている洋一に構わず、すぐに自らの用件を切り出した。
「ちょっと会って頂きたい人がいるのですが。」
「誰ですか。」
「ゴメンナサイ、電話では言えないわ。明日、外務省まで来て頂けないかしら。」
 外務省と聞いて洋一は驚いた。気象庁とはあまり縁のない役所である。しかも面談相手の名は電話では言えないという。余程のことなのであろうか。洋一は嫌な予感がしたが、断る理由もなかった。
 翌日、指定の時間に外務省を訪れた洋一は、受付で桂子の名を告げた。待つこと五分桂子が受付まで下りて来た。
「有り難うございます。来て頂いて……。」 
 桂子は先に立って洋一を中へと案内する。エレベーターに乗り込んだ桂子は、素早く三階のボタンを押す。ドアが閉じるのを確認した桂子は改めて口を開いた。
「今日会って頂く方は、林田駐米大使です。」
 洋一はそれを聞いて仰天した。駐米大使といえば事務次官経験者の上がりのポスト、つまり外務省のトップ中のトップを極めた人物である。洋一のような下級官僚からすればまさに雲の上の人、顔を見ることすらない人間である。それが一体洋一に何用があるというのか。ピンポーンという音とともにエレベーターが三階で止まる。桂子はエレベーターを下りながらさらに続ける。
「大使は、今火急の用件で帰国されています。それと、今日ここで大使とお会いになったことはどうか内密にお願いします。」
 洋一は、内密と聞いてまた驚いた。何やら雲行きがますます怪しくなってきた。緊張の余り、歩みを進める洋一の足は石のように固くなっていった。大臣室、事務次官室、審議官室、次々と外務省幹部の部屋が続く。やがで二人は長い廊下の端の特別応接室の前に立った。ここは審議官クラス以上の外務官僚が外国の要人を迎えるための部屋であった。桂子は静かにドアをノックすると、素早く中に入る。洋一もその後に続いた。
「大使、津山さんをお連れしました。」
「いやー、済まなかったね。呼び出したりして。」
 洋一が部屋に入るや否や、大使は立ち上がって出迎えた。大使はやや小柄な体つきで、その柔和な表情からはとても外務省のトップを勤めた人物のようには見えなかった。大使は、洋一にソファに座るよう奨めると、自らも向かいの席に座った。桂子も速やかに脇の席を取る。
「早速だが、今日来てもらったのは、君の「氷河期」説とやらについて少し話を聞きたくてね。」
 何の前置きもなく、大使はいきなり本題を切り出した。
「氷河期?、ですか。」
 氷河期と聞いて、洋一はまたもや仰天した。思わず桂子の方に視線を向けた洋一に対し、桂子は静かに頷いて見せた。
「そこにいる葛城君が面白い話をする人がいるっていうもんでね。それで私も是非一度聞いてみたいと思ってね。」
 洋一は一瞬にして大使がウソを言っていると思った。氷河期の話を聞いてみたいというのは分かる。でも大国の大使が、しかもこのような場所で隠密裏に話を聞きたいというのは、どう考えても不自然である。
「なぜ、そんな話を……。」
 洋一は話を始める前に理由を尋ね返した。大使は、理由を聞かれて一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐに平静を装って答えた。
「いや、大したことではない。君も知っているだろう、この前の京都会議の結果を。私も勉強不足を痛感したよ。もっと勉強しないとと思ってね。」
 なるほど、道理ではあった。アメリカの説得に失敗した責任の片棒は駐米国大使にもあるのかもしれない。しかし、洋一はまだ納得できなかった。地球温暖化の勉強なら、お偉い大学の先生はいくらでもいる。何も洋一のような若手研究員をわざわざ呼び付けるほどのことでもあるまい。しかし、今度は大使も考える暇を与えなかった。
「それで、君はどうして氷河期が来ると思うのかね。」
 突然聞かれて今度は洋一の方が戸惑った。しかし、そこは流石に自分の専門分野、洋一は順序立てて、氷河期が来るメカニズムについて桂子に説明したときと同じように説明した。逐一頷きながら聞いていた大使は、洋一が話し終わるのと同時に深いため息をついた。
「そうか不思議なこともあるものだ。地球の温暖化が実際は氷河期入りのトリガーになるとはな。そうか、我々は今とんでもない方向に向っているのかもしれないな」
 しばらく腕組みしたまま沈思黙考していた大使は、やがて徐に口を開いた。
「津山君と言ったかな。今日はどうも有り難う。とても面白かったよ。それと悪いが私とここで会ったということは内密にしてくれないか。」
 大使の口から再び「内密」という言葉が出てきた。洋一はもとより他人にしゃべる気はなかったが、何かとてつもなく大きな渦に巻き込まれていくような、そんな漠たる不安が心中を過ぎっていった。

 師走。成田空港出発ロビー。
「全日空二○一便ロンドン行きにご塔乗のお客様はゲート番号五十一番にお進み下さい。」
 ロビーにアナウンスの声が響く。ボーディングパスを握り締めた洋一の胸には期するものがあった。温暖化防止会議の決裂、氷河期到来の可能性、そしてあの大使との内密の面談、この二ヶ月程の間に起きたことが今洋一の頭の中でカオスとなって渦巻いていた。洋一は答えを求めてロンドン大学の恩師の元を訪ねることにした。ブラウン博士。ロンドン大学地球科学部の教授で、洋一が留学中に師事した人物である。
「よーいちさーん。」
 洋一が出発ゲートに進もうとした時、後ろで自分を呼ぶ声がした。振り返った洋一の目に飛び込んで来たのは勢いよく手を振る茜の姿であった。分厚いコートに身を包んだ茜は、息を切らして洋一のところに駆け寄って来た。
「ど、どうしたの。」
 洋一は目を丸くして訪ねた。
「今から、ロンドンに行くの。」
「う、うそだろー。」
 洋一はさらに仰天した。しかし、洋一は茜の手の中に自分と同じボーディングパスがあるのを発見して、茜が大真面目であることを知った。
「ケンブリッジ大学で海洋生物学の学会があるのよ。」
 しかし、洋一は茜の言葉が俄かには信じられなかった。こんな真冬に、しかもタイミングよくフライトが同じというのはどう見ても不自然であった。学会というのは嘘で、本当は自分を追いかけて来たのかもしれない。いやきっとそうに違いない。でもまあいいか、一人よりは二人の方が旅も楽しいし、しかも相手が茜であればなお更である。そんな洋一の胸中を知ってか知らずか、茜は一人嬉しそうにパスポートを開いていた。
 十二時間のフライトの後、二人は雪のヒースロー空港に降り立った。このところ温暖化傾向の続いていたイギリスでは十年ぶりの大雪であった。なるほど洋一の言うように寒暖の振幅は年を追うごとに大きくなっているようであった。
「ホテルはどこ。」
「予約してないの。」
 茜の返事に洋一はまたもや驚いた。茜は平然とスーツケースをゴロゴロ転がしながら、ホテルの予約カウンターへと向かう。しかし……。しばらくして茜は困ったような表情をして戻って来た。
「空いてないの。この大雪でフライトのキャンセルが相次いで、どこも満員らしいの。」
 世界の金融都市ロンドンは決してホテルの数は少ない方ではなかった。一流ホテルから小さなB&Bまで、大抵は予約なしでも簡単に泊まることができる。しかし、今日は特別のようであった。緯度の高いロンドンもどうやら雪には弱い街のようであった。茜は困り果てて、空港の到着ロビーに座り込んでしまった。出鼻を挫かれた思いで、洋一はほっとため息をついた。ここに茜を置いてゆくわけにもゆかないし……、どう考えても答えは一つしかなかった。
「俺のホテルしかないか、とにかくトライしてみよう。」
 二人は空港の地下からヒースローエクスプレスに乗り込む。この列車を使えば、空港からロンドンの中心パディントン駅まではわずか十五分の道程である。パディントン駅に着いた二人は雪の降り積もったロンドンの街路をスーツケースを押してホテルに向かう。わずか三分ほどの距離であったが、二人がホテルに着く頃にはすっかり頭と両肩の上に雪が降り積もっていた。
「やっぱり空いていないって。でも俺の部屋をダブルに変更するなら何とかなるって。」
 フロントから戻って来た洋一は茜に交渉の結果を報告した。
「ゴメンナサイ、本当にゴメンナサイ。私のせいで……。」
 茜は今にも泣き出しそうに肩を落とした。
「いいよ、運が悪かっただけさ。」
 洋一は茜を慰めながらも、一方で満更ではない気持ちであった。茜はわざとホテルを予約して来なかったんじゃないかという気がした。茜と一緒に仕事を始めて一年半、二人はもう全くの他人ではなかった。
 洋一の部屋は五階であった。二人は格子戸の付いた古ぼけた狭いエレベーターに乗り込むと五階のボタンを押す。二人は黙って点いては消える階の表示板を見つめていた。チンという音とともにエレベーターはガタンと止まった。二人はミシミシと音を立てる廊下を長々と下っていくと、ようやく目的の五○五号室の前に辿り着いた。重い木の扉を開くと、まず壁際の巨大なダブルベッドが目に飛び込んできた。ほの暗い室内灯に照らされた年代ものの調度品が怪しく輝いた。
 日本を出て十五時間、日本時間ではもう翌日の明け方近かった。二人はベッドの端に腰を下ろして、やれやれという表情でホッと一息ついた。
「どうして僕がロンドンに行くって分かったの。」
 暫くの沈黙の後、洋一はさり気なく茜に尋ねた。
「一昨日、オフィスの方に電話をして……。」
 と言い掛けて、茜はアッと小声を上げた。自分はケンブリッジに行くことになっていたのではなかったのか。
「ゴ、ゴメンナサイ、別に邪魔するつもりは……。」
 茜は、嘘がばれてしまったことで、バツが悪そうに下を向いた。
「いいさ。一人よりは二人の方が……。そう、いいに決まってるじゃないか。」
 洋一はそう言い掛けて、そっと茜の肩に手を伸ばした。その瞬間、茜の背中は待っていたかのようにビクンと波打った。男と女が一つ部屋の中で二人きり、もう二人を押し留めるものは何もなかった。二人は長旅の疲れを癒すかのように、どちらからともなくベッドに倒れ込んだ。

 翌日、二人はすっかり雪化粧したロンドンの街をロンドン大学へ向った。ロンドンにしては珍しい大雪であった。ラッセルスクエアの冬枯れした木々の枝には昨夜の吹雪で付いた雪の結晶がキラキラと輝いていた。二人は大学のキャンパスに降り積もった雪を踏みしめながら歩みを進めると、やがて「School of Global Science(地球科学部)」という表示の上がった建物の前に立った。
 優に百年は経っていると思われる赤茶けたレンガ色の建物はイギリス独特の重厚な雰囲気を醸し出していた。洋一は回転扉を回して中に入ると、先に立って歩き始めた。かび臭い木の廊下、怪しく光る大理石の階段、六年前と何も変わっていなかった。ここでは時間が止まっているように見える。洋一は大理石の階段を二階へ上がると、複雑に入り組んだ廊下を迷わず進んでいく。やがて二人は「Phd. Dr. D Brown(ブラウン教授)」という表札の上がった部屋の前に立った。洋一が軽くドアをノックすると、中からひょいと髭面の初老の紳士が顔を覗かせた。
「オー、洋一、よく来た。さあ入れ入れ。」
 教授は懐かしそうに顔を崩すと、両手を大きく広げて二人を部屋の中に招き入れた。部屋の中は外と違って暖かに暖房が入っていた。一見して何十年も使っていると思われる調度品がどっしりと置かれ、壁一面に立て付けられた巨大な書棚にはびっしりと古ぼけた書物が詰まっていた。
「お久しぶりです、お元気でしたか。」
「ああ、絶好調だ。そっちも元気そうで何よりだ。」
 二人は両手で固い握手を交わした。
「こちらのレディーは?」
 教授は茜の方を振り向いて尋ねた。洋一は手短に茜のことを教授に紹介する。
「ふーん、要は君のフィアンセってとこだな。どうだ、図星だろう。」
 それを聞いた茜は顔を真っ赤にして俯いた。次の瞬間、三人は顔を見合わせて大笑いした。どうやら教授は一枚も二枚も上手のエンターテイナーのようであった。二人はすっかり打ち解けて、教授に促されるままソファに腰を下ろした。
「ティーにするか、それともコーヒーか?」
 教授はそう尋ねながらも、既にティーポットから紅茶を注ぎ始めていた。ここはイギリス、紅茶の国である。教授の部屋には最初からコーヒー豆はなかった。これも茶目っ気たっぷりの教授のジョークであった。教授は次々と二人の前にカップを差出すと、自らも巨大なマグカップに並々と紅茶を注いだ。
「洋一、君のレポートは読んだよ。全く同じだった。」
 教授は席に着くとすぐに本題を切り出した。今回の訪問に先立って、洋一は例の氷河期のレポートの概略を英訳してE−メールで教授に送っておいたのであった。教授は既に洋一のレポートを読んだようであった。しかし、洋一は全く同じと言われて驚いた。一体何と同じというのか。自分はあのレポートを盗作した覚えはない。それとも自分のレポートが誰かに盗作されたのか。
 教授はゆっくりと立ち上がると、大きなデスクの引出から一編のレポートを取り出して、読んでみろとばかりにバサリと洋一の前に置いた。洋一は英文で書かれたレポートに目を通し始めた。傍らから茜も覗き込むようにしてレポートを読み進める。読み進める洋一の手は次第にワナワナと震え始め、目はカッと大きく見開かれた。茜も驚きの表情を露にしていく。
「一体これは何ですか。」
「あいつらだよ。あいつら、全てを知ってたんだ。」
 教授は興奮して呟いた。洋一はレポートの表紙を返して、出所を確認する。レポートのトップには「Strictly Confidential(厳秘)」というスタンプがでかでかと自らを喧伝するかのように押されていた。レポートのタイトルは、「Next Ice Age in Europe(ヨーロッパにおける次の氷河期)」とあった。内容はまさに洋一の書いた報告書と同じ、つまり地球温暖化がヨーロッパに氷河期の到来をもたらす可能性があるというものであった。
 しかし、洋一がもっと驚いたのは、そのレポートの日付と発行者の名であった。日付は1九九五年一二月、発行者名は「米国中央情報局」とあった。一体これはどういうことだ。洋一のレポートよりさらに五年以上も前に、アメリカは既にヨーロッパの氷河期入りを予期していた。とすれば、温暖化防止条約に調印しなかったアメリカの意図とは?
「あいつらは我々を滅ぼすつもりだ。」
 教授は吐き捨てるように呟いた。
「信じられない。」
 洋一は絶句した。
「あいつらはもはやアングロサクソンじゃない。これは真の独立戦争だ。君も見ただろう。イラクに対するあの徹底した攻撃を。アメリカは自らが正しいと思うことは、世界中を敵に回してでも貫き通す。例えそれがヨーロッパだろうと同じことだ。」
 洋一はその瞬間、桂子の言葉を思い出していた。「アメリカは絶対に調印しない。」桂子は自信たっぷりにそう言い切った。恐らく桂子はこのことについて何がしかの情報を得ていたのであろう。自分が内密に駐米大使に呼び出されたのも、このレポートの真偽を確認するためだったのではないか。少なくともアメリカは五年も前からこのことを知っていた。知っていてわざと温暖化を押し進める道を選択した。その帰結がどういうものになるかを全て知り尽くした上で。  
 二十世紀、第二次世界大戦を境に世界のパワーバランスは完全にアメリカにシフトした。もはやヨーロッパは郷愁を誘う故郷でも庇護者でもなくなった。それどころか、独り立ちした子供に未だにうるさく付きまとう老親になりさがったのである。経済力はアメリカの五分の一にも満たないイギリスやフランスが未だに国連でも大きな発言力を維持している。世界のリーダーを自称するアメリカにとって面白いはずはない。冷戦構造が崩壊した今、アメリカにとってヨーロッパやNATOはもはや無用の存在となった。
 そして、時を同じくするように欧州諸国はアメリカに対抗するためEU統合の流れを加速させている。今後EUが競争相手として台頭してくる前に厚い氷の下に葬り去る方が懸命だと判断したとしても、おかしくはなかった。アメリカとヨーロッパが争う日が来る?、洋一はあまりのおぞましさに背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
「き、教授、一体どうすれば……。」
「わしにもわからん。神に祈るしかなさそうだ。」
 洋一と茜は大きなため息をつくとともに互いに顔を見合わせた。ロンドンが厚い氷に覆われる日が来る。例え自分の代ではないとしても、自らが生まれ育ち、自らが愛した国が消えてなくなるのである。教授の顔からは先程の笑顔はすっかり消え失せていた。

 ロンドンからの帰国のフライト。
 長旅の疲れにウトウトし始めていた洋一と茜の耳に驚愕のニュースが飛び込んできた。
「昨夜、ブラッセルで開かれていましたEU緊急首脳会議において、ヨーロッパ諸国はアメリカに対して自動車や航空機を始め、温暖化ガスを排出する機器類の輸出を禁止することを決定しました。これは先の京都会議でアメリカが京都議定書に署名しなかったことに対する報復措置とみられています。今後、アメリカも対抗措置として同様の禁輸に踏み切ることが予想されています。」
 このニュースに機内のあちこちからも驚きの声が上がった。隣の乗客とヒソヒソ話を始めるビジネスマン、慌てて携帯電話のボタンを押す記者風の乗客、皆それぞれにこのニュースが今後の世界情勢にもたらす影響を測りかねているようであった。
「いよいよ始まったわね。それにしても性急ね。」
 すっかり眠気の吹き飛んだ茜も洋一に声を掛けた。
「京都会議が決裂した以上、ヨーロッパ諸国としては力づくでの温暖化を阻止するしかないんじゃないかな。」
 洋一は、昨日のブラウン教授との会話を思い出しながら呟いた。あのCIAのレポートが教授の手元にあったということは、当然にイギリスの識者の間にも幅広く知られているはずである。いやイギリスだけでない、全てのEU加盟国の知るところとなったのである
「ヨーロッパの国々は必死だろう。何しろ自分達の死活がかかっているからね。」
「でも、アメリカも無茶苦茶ね。だって氷河期が来るとアメリカ自身も困るでしょうに。」
 茜は、アメリカが意図的にこの地球を氷河期に導こうとしていることの意味が、未だに飲み込めないでいた。
「いや実はそうとも言えないかもしれないんだ。」
「えっ?、それってどういうこと。」
「気象庁の全地球気候モデルによると、ヨーロッパに氷河期が到来した場合、確かにアメリカにも寒冷化の波が押し寄せる。でもアメリカは巨大な国だ。南部から西部にかけて広がる広大な砂漠地帯は温暖多雨の気候に変化するのではないかという計算結果も出ている。」
 茜は信じられないという表情をして見せた。地球は巨大である。ある一つの地域の気候変動が別の地域には恩恵をもたらす可能性もある。気候を操作することが究極の最終兵器になりうるかもしれないのである。洋一は感慨深げにさらに続ける。
「しかし地球って案外もろいものだね。昔から人は自然の驚異に脅かされて生きてきた。そう、人はまさに神が作った環境をひたすら受入れるしかなかったんだ。それがこんな形で自らの手で自分達の住む世界を変えて行こうとするだなんて……。もう後戻りは出来ないものなのかな。」
 洋一は大きくため息をついた。茜はしばらく中空を見つめていたが、やがてポツリと思い出したように呟いた。
「一つだけ方法があるわ。いえあるかもしれない……。幻のバクテリアよ。」
「幻のバクテリア?」
「そう、今から二億年程前にこの地球に大量絶滅をもたらしたとされるバクテリア。」
「大量絶滅?。」
 古生物学は洋一の専門分野ではなかった。洋一は、茜の次の言葉を待った。
「今から二億年以上も前、古生代と呼ばれていた時代には、地球の大気中の二酸化炭素の濃度は約二千ppm、現在の約五倍以上あったと推定されているわ。地球は今よりもはるかに温暖で、地表面の九十パーセント以上が浅い海で覆われていた。この海の中では、ほら洋一も知っているでしょう、アンモナイトや三葉虫など奇妙な形をした生き物が一杯泳ぎ回っていた。そんな繁栄の時代が一億年近くも続いた。でもある日突然そうした生物種の九十五パーセントが死に絶えてしまったの。それが大量絶滅よ。」
「ど、どうしてそんなことが。」
 洋一は信じられなかった。一億年も繁栄を続けて来た生物群がそんなわずかな期間に絶滅してしまうことが本当に起こりうるのだろうか。茜は、話が自分の専門分野におよんできたことで、さらに饒舌になって続ける。
「いろいろな説があるわ。小惑星が地球に衝突して一気に寒冷化が進んだとする説、恐竜などの爬虫類にとって代わられたとする説。でも、最近幻のバクテリアが関与していたのではないかという新説が出てきた。このバクテリアは海水中に溶けた二酸化炭素を直接固形化する性質を有していたの。普通そう類などの植物プランクトンは光合成により二酸化炭素を酸素に変える。でも、このバクテリアは化学合成により二酸化炭素を直接固形メタンに変えてしまうの。光も必要としないわ。その変換効率たるや通常の光合成の約千倍はあったと推定されているわ。このバクテリアが急激に繁殖した結果、地球大気の二酸化炭素濃度がわずか数十年ほどの間に一気に十分の一程度まで下がってしまったの。そして地球に急激な寒冷化が起き、この寒冷化に着いていけなかった生物群が絶滅した。最近、古生代の地層からこのバクテリアの痕跡らしい化石が見つかって、一気に有力な説となったのよ。」
 洋一は驚嘆した。顕微鏡でしか見ることの出来ないような微生物がこの地球の気候を変えてしまう。それもごく短期間のうちに。もしそんな夢のようなバクテリアが本当に存在すれば、地球温暖化の問題などたちどころに解決する。
「それで、そのバクテリアはどうなったの。」
「それがよく分からないの。恐らく二酸化炭素濃度の低下とともに徐々に死に絶えたのだと思うわ。」
 そうかもしれないと洋一は思った。何しろ二億年以上も昔の話である。あまりにも時代がかけ離れ過ぎている。
「でも、わずかにその子孫が生き延びているという人もいるわ。バクテリアの中には何億年も生き延びて現在も地球に棲息しているものもいる。ひょっとすると……。」
「さ、探そう。その幻のバクテリアを。何としても探すんだ。」
 洋一は咄嗟に叫んでいた。このまま手をこまねいていれば、いずれアメリカとヨーロッパは衝突する。氷河期どころではない凄惨な戦いが始るかもしれないのである。
「でも、どこを探せばいいの。全く手掛かりもないのよ。宝島の宝探しにだって地図はあったわ。それすらないのよ。」
 茜の言う通りであった。手掛かりもなく闇雲にこの広い地球を走り回ってもそれは時間の無駄であった。しかも、幻のバクテリアが存在しているかどうかすら定かではないのである。二人は途方に暮れた。


3 野望

 二週間後、洋一のデスクに課長が血相を変えて駆け寄ってきた。
「津山君、大変だ。局長がお呼びだ。」
「何かあったんですか。」
「俺にもわからん。大至急局長室に来てくれとのことだ。」
 洋一は驚いた。局長が一担当者を直々に呼び付けるということは、厳然たる階級社会の残る役所では異例であった。訳の分からぬまま、二人は廊下を局長室へと急ぐ。
「お前、また何かやらかしたのか。」
 課長の顔に不安の色が走る。洋一は無言のまま課長に付き従った。局長室は気象庁の七階にあった。緊張の面持ちで課長が先に部屋に入る。洋一もその後に続いた。
「いやー、津山君。この前は済まなかったね。失礼なことを言ってしまって。」
 洋一が部屋に入るなり、局長は妙にへりくだった調子で切り出した。
「実は、君のあの話、ほら氷河期が来るっていうあれ、畠山総理が是非聞きたいとおっしゃってね。いやー、大変なことになったよ。」
 局長は興奮した声で話す。いよいよ来るものが来たと、洋一は直感した。駐米大使に続いて今度は総理である。明らかに政治の臭いが漂い始めた。総理は一体どういう意図でこの話を聞きたいというのであろうか。まさか、例のCIAの極秘レポートが既に日本政府の手元にも入ったのであろうか。駐米大使が緊急帰国したというのもその辺りのことがあったからかも知れない。洋一の脳裏に葛城桂子の顔が浮んだ。
「津山君、よくやった。いや、私は最初から彼のレポートは高く評価しておりまして……。」
 黙っている洋一を差し置いて、課長が半歩前に進み出た。
「君は黙っていたまえ。とにかくこんなことは気象庁始って以来、前代未聞だ。とにかく粗相のないように十分に事前準備をしてくれたまえ。時間は明後日の午前十時、いいね。」
 局長は誇らしげに言った。気象庁の人間が総理官邸に足を運ぶなど滅多にないことであった。恐らく東海大地震の予報が出された時くらいであろう。しかも名もない一研究員が総理に直々にプレゼンをするなど通常では考えられない。
「いやー、津山君、本当に済まなかったね。俺は嬉しいよ。君のような優秀な部下を持って。とにかく全力で頑張りたまえ。」
 局長室を後にした課長は、エレベーターに乗り込みながら猫撫で声で洋一に話し掛けた。洋一はそんな課長を無視するかのように閉扉ボタンを押した。傍らでほくそえむ課長とは正反対に洋一の心は冴えなかった。この前の駐米大使といい、今回の一件といい、桂子が自分の前に現れて以来、事態は自らの意思とはかけ離れたところへとドンドン進んでいくような気がした。それにロンドンで見たあの極秘レポートのこともあった。どんな話が飛び出すか全く予測がつかなかった。

「そう、すごいわね。今度は総理。総理が直々に話をというのはきっと余程のことね。」
 電話の向こうの茜の声は明らかに上ずっていた。
「どうだか。この前のこともある、面倒なことにならなきゃいいんだけど。ところで君の方はどうなの。幻のバクテリアの件。何か分かりそうなの。」
「今、いろいろな文献を当っているところなんだけど、なかなか手掛かりになりそうなものは出て来ないわ。そんな簡単に見つかるものだったら、とっくの昔に誰かが見つけてるわよね。」
 茜は受話器に向って深いため息をついた。それもそのはずである。何人もの世界中の著名な生物学者が長年追い求めてきた幻のバクテリアである。一介の若手研究員の手におえるような代物ではなかった。この先一生探し続けても見つからないかもしれないのである。
「まあ、焦っても仕方ないよ。温暖化の問題も今日明日を争うものでもないし。たまには気分転換した方がいい。どう、今夜当たり久しぶりに食事でも。奢るよ。」
 洋一は茜を夕食に誘った。そう言えば、ロンドンから帰って来て後、お互い忙しくてしばらくゆっくりと話しもしていなかった。あまり根を詰めてもいい発想は浮びそうになかった。

 夕方六時半、洋一は気象庁一階のホールで茜を待った。
「あーら、津山さん。誰かをお待ちになってらっしゃるの。」
 洋一がその声にふと振り返ると、そこには桂子の姿があった。
「ええ、まあ。」
 洋一はチラリと時計に目をやりながら、曖昧な返事をした。
「津山さん、総理に呼び出されたんですってね。」
 桂子はそっと耳打ちした。
「ど、どうしてそれを。」
「庁内で噂になってるわ。一研究職の人が総理に直々に面談なんて、まずありえないですもの。でも気を付けた方がいいかもね。アメリカが京都議定書に調印しなかったことで、日本国内でも大騒ぎ。日本はどっちに付くんだってね。」
 桂子は平然と答えた。洋一は直感的に桂子が何かを隠していると思った。知っていて、わざと洋一に近づき、そして駐米大使とのアポまでセットした。ロンドン大学で見たあの極秘レポートは恐らくもう日本政府の手にも渡ったのであろう。だとすれば総理が自分を呼び出した理由も説明が付く。でもどうして桂子はわざわざ洋一に警告めいたことを言うのであろう。親切心?、それとももっと他の意図があるのか。洋一は何と答えていいのか言葉に窮した。その時。
「ゴメンナサイ、待ったー?。」
 茜がエントランスのドアを開けて入って来た。ベージュのコートに身を包んだ茜は、仕事の持ち帰りであろうか、A4大の封筒を小脇に抱えていた。
「あーら、そういうことでしたの。これはとんだお邪魔虫でしたこと。」
 桂子は茜の姿を上から下へと嘗め回すように睨み付けると不遜な笑みを浮かべた。
「また、あなたね。一体何が目的で先輩に近付くの。」
 茜は洋一の前に立って威嚇した。
「別に他意はないわ。津山さんが総理にプレゼンされるって聞いたので、ちょっと励まして差し上げただけ。それじゃあ。」
 桂子は横目で茜を制しながら軽く洋一に向って頭を下げると、スカートの裾を翻すようにエレベーターの中へと消えて行った。
「何よあの態度。外務省のキャリアか何か知らないけど、気取っちゃって。」
 茜は、あかんべー面で桂子の後姿に刺すような視線を送った。茜は桂子のことになると殊更にむきになった。まったく女の嫉妬心にはかなわないと思いつつも、そんな茜の姿を見つめる洋一の心のうちは満更でもなかった。
「今夜は寿司でいいかな。築地の近くのいい店を知ってるんだ。」
 洋一は素早く話題を変えた。
「ええ、何でも。」
 場所については元より洋一に任せるつもりであったが、茜は内心嬉しかった。仕事柄、海の幸には縁が深かったが、このところ仕事優先で「食」の方からはすっかり遠ざかっていたからである。本当に久しぶりの寿司屋であった。
 二人は築地駅で下りると、表通りを回り込みやや人通りの少ない静かな裏通りへと入った。洋一は茜を先導してその通りを進むと、やがて「寿司政」という暖簾の上がった小ぢんまりとした店に入った。
「へい、らっしゃーい。」
 威勢のいい声が店内に響く。二人はコートを脱ぐと、カウンターのやや奥まった場所の席に着いた。ここならゆっくりと話もできる。目の前のガラスケースの中には今朝築地の市場から仕入れたばかりの新鮮なネタが並んでいる。ほどなく、箸と湯呑みが並べられた。二人は冷たくなった両手を湯呑みに当てて暖を取りながら、ネタ探しを始めた。
「何しやしょう。」
「じゃあ、最初はマグロから。」
「へい、マグロ一丁。」
 またもや威勢のいい声が響き渡る。
「お寿司屋さんって、いつ来てもいいわね。」
 茜は嬉しそうにガラスケースの中を覗き込みながらネタの選定に熱中した。タコ、イカ、マグロから、ウニ、イクラ、アワビに至るまで新鮮な海の幸が所狭しとばかり、ケースの中に並んでいた。
「さっきは何の話だったの。」
 茜はケースの中を覗き込みながら、洋一に尋ねた。
「さっきって?。」
「あの人よ。葛城桂子さんっていったかしら。」
「ああ、今度の総理との面談、気を付けた方がいいって。警告かな。」
「よく言うわね、自分が仕掛人のくせに。」
 洋一は苦笑した。茜はどうして桂子のこととなるとこうもムキになるのであろう。女というものは本当に嫉妬深いと思わずにはいられなかった。しかし、茜の勘は当っているのかもしれない。確かにあの葛城桂子という女は底知れぬところがあった。少し距離を置いた方がいいというのは同感であった。
 イクラ、ハマチ、赤貝……、次々と注文は続く。二人は久しぶりに仕事のことを忘れ、食事と会話を楽しんだ。
「もうお腹一杯、そろそろ終わりにしましょうよ。」
「そうだね。じゃあ最後に穴子で締めくくり。スミマセン、穴子お願いします。」
 洋一は大きな声で注文を出した。
「スイヤセン、穴子切らしてましてね。このところ活きのいい穴子が入らないもんで。」
 板前は済まなさそうに謝罪した。
「珍しいですね。穴子を切らすなんて。一体どうしたって言うんです。」
「ええ、このところ穴子の水揚げが落ちているらしくて。漁協の話じゃ、何でも海ナマズの仕業じゃないかって。」
「海ナマズ?。」
 聞き慣れない言葉に、洋一は思わず聞き返した。
「ええ、あっしもよくは知らねえんですが、何でも深海魚の一種らしくて。普段は深い海の底にいて滅多に人の目に触れることはねえらしいんですが、こいつが最近よく網にかかるらしいんですよ。穴子が好物らしくて、人間様のお口に入る前に、こいつがパクリっていうところですかね。こちとら大弱りでさあ。」
 板前は本当に困ったという表情で説明してみせた。
「へえー、そうですか。」
 洋一は何とはなしに板前の話を聞いていたが、茜のこめかみがピクリと動いた。
「それって、どんな魚ですか。」
「いえ、あっしも直に見たこともないんで。でも漁師の話じゃ、体長は二メートルくらいあるヘビみたいなヤツで、穴子なんか軽く一呑みしちまうらしい。こいつは固くて、煮ても焼いてもとても食えたものじゃないって。網にかかれば他の雑魚どもと一緒につぶして肥料工場行きだそうでさあ。」
 板前の話にじっと聞き入っていた茜は、やがて思い出したように呟いた。
「それって、アクアノプロテウスかもしれない。」
「アクアノプロ……?。」
 洋一は思わず聞き返した。
「そう深海魚の一種ね。普段は千メートル以上の深海に棲んでいて、まず人の目に触れることはない。肉食性で、ノコギリのような歯で自分と同じくらいの大きさの魚でもバリバリと噛み砕いて食べてしまう。」
 洋一は目を丸くして茜の話を聞いていた。そんな化け物みたいな魚がなぜ漁師の網にかかったりするのか。茜はさらに話を続ける。
「多分海水温のせいね。ほら深層海水の温度が下がってるでしょう。海水温の変化で深海の食物連鎖が変わり始めているのかもしれない。エサが足りなくて、水温の高い層まで浮んで来たのよ。穴子はきっとその犠牲になったのね。」
「へえー、お客さん、詳しいんでやんすね。」
 板前は一頻り感心したように、握る手を止めて茜の話に聞き入っていた。そんな板前に茜は質問した。
「それで、そのアクアノ、いえ海ナマズなんですが、どこで取れるのかしら。」
「南の方ならどこでも。この近くじゃ、そう下田あたりかねえ。」
 板前は再び忙しそうに手を動かし始めた。
「おあいそ、お願いしまーす。」
 二人は、結局腹八分目のまま店を出た。
「あんなこと聞いて、どうするつもり?。」
 店を出ると、洋一は茜に尋ねた。
「一度下田に行かなきゃ。あの板さんの言ってたことをこの目で確かめるのよ。」
 茜は快活な調子で答えた。茜の胸のうちには何か期するものがあるようだった。

 二日後。洋一と気象庁長官それに地球気候局局長の三人は総理官邸に向う車の中にいた。
「津山君、今日は頼むよ。何しろこんなことは前代未聞だ。何を聞かれるかも聞かされていない。もちろん想定問答もなしだ。」
 長官の緊張した声が後部座席に響く。助手席に座っていた洋一からはその表情を窺い知ることは出来なかったが、声の調子から長官の緊張が洋一にも伝わった。
 車はやがて総理官邸のゲートをパスすると、車寄せに横付けされた。三人はゆっくりと車を降りると、エントランスに入る。迎えの人に先導され、三人は緋色の絨毯を踏みしめながら官邸の廊下を奥へと進んだ。
「ここでしばらくお待ちください。」
 三人は総理執務室に通ずる控え室で待つように指示された。控え室の窓からは先程入って来たメインゲートが見える。三人は、長官、局長、洋一の順に並んで座り呼び出しの時を待った。五分、十分と時が過ぎる。
「遅いな、一体いつまで待たせるんだ。」
 局長がイライラした様子で席を立ってドアのところへ進む。そしてドアノブに手を掛けようとしたその時、ガチャリとドアが開いた。
「ご用意が出来ました。こちらへどうぞ。」
 三人は秘書官の誘導で総理執務室へと進んだ。部屋の中は厚い絨毯が敷かれ、部屋の中央には恐らく総理のデスクであろう、黒光りのする巨大な机が置かれていた。そのデスクとは別に十人ほどが着席できる楕円形のテーブルが窓際に置かれていた。恐らく簡単なミーティング等に使われるのであろう。三人は指図されるがままに入口に近い席に順に並んで座った。さらに待つこと五分、ドアの開く音がして総理が小走りに入って来た。三人は一斉に起立する。
「いやー、お待たせ、お待たせ……。」
 総理は片手を上げながら、快活な笑顔で三人を迎えた。畠山茂、内閣総理大臣である。洋一にとって直に総理の顔を見るのは無論初めてであった。テレビで見るよりは意外と小柄で、その素顔はとても一国の主とは思えないような柔和な表情であった。続いて、村山外務大臣、田中環境大臣が入ってきた。いずれもテレビでお馴染みの顔であった。そして最後に、洋一がおやっと思う人物が入ってきた。防衛庁長官、佃一郎であった。なぜここに防衛庁長官が……。洋一の背筋に一瞬嫌な予感が走った。
 総理は窓側の中央の席にどっかと着座する。続いて三人の大臣が次々と席を占めたのを確認して気象庁の三人も椅子に座り直した。
「早速だが、林駐米大使から話を聞いてね。面白い話をするやつが気象庁にいるって。それで、私も是非その話とやらを聞いてみたくなってね。」
 洋一はやはりと思った。出所はやはり駐米大使だった。大使は恐らく洋一と極秘に面談した後、総理に注進したのであろう。
 洋一は心の隅に桂子の警告が引っかかったが、そこは自分の専門分野である。駐米大使の時と同じように順序立てて、ヨーロッパに氷河期が訪れるメカニズムについて総理に説明した。一頻り頷きながら聞いていた総理は、洋一が話し終わったのを確認すると、徐に議論を切り出した。
「不思議なことがあるもんだ。地球温暖化が原因でヨーロッパに氷河期が来るとはな。環境大臣どう思うかね、この話。」
 総理は田中環境大臣の意見を求めた。
「はい、駐米大使の報告の通りかと。」
「そんなことは言われんでも分かっとる。それよりこれをどう解釈するかだ。」
 環境大臣の平凡な受け答えにに少しムッとして、総理は自らに向って疑問を発した。
「仮にだ、仮にこの話が本当だとして、その場合、我が日本国は一体どうなるんだ。」
 洋一はどう答えていいものやら少し戸惑ったが、理論に忠実に予想されることをそのまま陳述した。
「仮に地球全体の平均気温が五度下がると仮定すれば、海水面の高さは五十メートルから最大百メートルは下がると思われます。」
 地球の気温が下がると、海から蒸発した水は厚い雪と氷の層となり陸地に覆い被さる。この結果、海にたまった水の量が減って、海水面の高さが下がるのである。地球温暖化により海水面が上昇するのと全く反対のことが起きるのである。
「ふーん、それで。」
 総理は興味深そうにさらに洋一の意見を求める。
「海水面が下がりますと、我が国周辺の大陸棚のかなりの部分が干上がると思われます。海岸線は大きく後退し、沖縄の近海、それに小笠原の近海には四国ぐらいの大きさの島が出現するでしょう。」
 この一言に総理は一瞬ポカンと口を開けたまま押し黙った。しばらくしてクックッと笑い始めた総理は、やがてカラカラと高笑いを始めた。
「おい、聞いたか。日本の領土が倍になるぞ。こんなに手っ取り早く領土を広げる方法があったとはな。戦前の帝国陸軍にも聞かせてやりたかったな。アッハハハ……。」
 島国日本にとっては国土面積が広がることは悪いことではなかった。もはや東京湾を埋め立てて人工の島を作る必要もない。資源開発も思いのままである。仮に気温が低下することで北海道全体が厚い氷に覆われたとしても、それを補って余りある国土が南方の海上に出現するのである。海水面が下がって誰も損をすることはないように思えた。
「諸君、我々は今大いなる決断をする時に直面した。これは我が日本国の百年、いや千年の大計になるやもしれん。この局面において日本がどこへ進むべきか、君たちの英知を出し合ってもらいたい。」
 総理の一人演説を聞きながら洋一は震えが止まらなかった。この男は日本を道連れにするつもりだ。あのアメリカと同じ舟に日本を乗せる気なのだ。どの道アメリカとの間には安保条約がある。アメリカが世界中を敵に回すとしても、日本はどこまでも付いていくしかない。洋一は今ようやく防衛庁長官がこの席に呼ばれていた理由がわかった。気候変動がいよいよ領土拡大の野心に使われる日が来ようとしていた。居合わせた全員が押し黙る中、ただ一人総理だけがいつまでもカラカラと笑い続けていた。


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