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作品名:鬼母の子 作者:ツジセイゴウ

最終回   後編
 それから一週間後、亜理沙の退院の日が来た。幸い後遺症もなく亜理沙は元気になって病院を出た。しかし、行く先はわが家ではなく、叔父夫婦の家であった。児童相談所によるカウンセリングの結果、一定期間母と亜理沙は別々に暮らした方がいいという判断になった。父が亡くなった時にも話があったとおり、叔父夫婦にしてみればもとより私たちを引き取るつもりでいたため、事は二つ返事で決まった。
 当初は私もということのようであったが、母が私を手放すことを渋ったため、結局私は母とともに残ることになった。私は、少しだけ不安があった。亜理沙がいなくなることで、母の虐待の矛先が私の方に向けられるのではないかという危惧であった。しかし、母と二人きりで暮らすようになって、そんな私の心配はすぐに杞憂に終わった。
 亜理沙がいなくなって不思議と母は落ち着いた。以前のような母に戻り、洗濯や食事の支度もし始めた。やはり、母にとっては亜理沙が大きな負担になっていたようである。分別のつく年頃になっていた私と違って、亜理沙はことの他手間のかかる子であった。反抗期かと思えるほど母によく逆らいもした。そんな亜理沙がいなくなって、母は肩の荷が少し下りたようであった。
 私は、亜理沙がいなくなって随分と寂しい思いもしたが、それでも母の具合がよくなるのであればと辛抱した。亜理沙の方も、最初のうちは家に帰りたいと言って叔父夫婦を困らせたようだが、程なく叔父にもよくなついて、相変わらずのイタズラ振りを発揮しているようだった。私も月に一度は叔父夫婦の家にお泊りに行った。叔父夫婦は、私たちを実の子供のようにかわいがってくれた。
 全てはこれでよかったのだ。母の病気もよくなり、亜理沙も幸せになり、叔父夫婦も喜んでいる。何も言うことはなかった。強いて言えば、父の葬儀の日、あの日に叔父夫婦の申し出の通りにしておけばよかったのかもしれない。そうすれば、亜理沙はこんな辛い思いをしなくて済んだ。やはり女手一つで二人の子供を育てていこうということ自体が無理な話であった。随分と遠回りをしたが、ようやく落ち着くべきところに落ち着いたという気がした。
 しかし、楽しい日々は長続きしなかった。亜理沙が叔父夫婦の家に引き取られて半年と少しが経ったある日のこと、叔父が脳梗塞で倒れてしまったのである。一命は取り留めたものの、重い障害が残り、介護が必要な状態となってしまった。
 再び家族会議が開かれた。叔母は何とかなるからと言って引き続き亜理沙を育てていくことを望んだ。しかし、母は亜理沙を引き取ることを申し出た。自身の体調が大きく改善したこともあったが、これ以上叔父夫婦に負担をかけられないという思いもあった。そして何よりも亜理沙自身が、依然として母を恋しがった。あれだけ、ぶたれて、ひどい目に遭わされても、やはり母は母である。叔父夫婦の家でも時折「ママに会いたい」と言っては、ムズかっていたようである。
 結局、児童相談所の上山さんにも相談乗ってもらい、亜理沙は我が家に戻ってくることになった。最近の母の様子から、もう亜理沙を戻しても心配ないだろうとの結論であった。亜理沙も来年から小学校に上がる。以前よりは落ち着きも出てきて、叔母の話でもこの半年で随分と変わったとのことであった。
 十月の初め、亜理沙は約八ヶ月ぶりに我が家に戻ってきた。あの日の亜理沙のはしゃぎようは大変なものであった。つい半年ほど前まで母に虐待を受けていたことなどすっかり忘れたかのように母に甘えた。母も亜理沙を抱き上げて頬ずりした。母の目には光るものがあった。亜理沙が戻ってきたのを一番喜んだのは、何を隠そう私自身であった。また妹と一緒に暮らせるようになったことも嬉しかったが、何よりも母と妹の関係が元に戻ったのが嬉しかった。
 母は、その夜、久しぶりにシチューを作ってくれた。大きなシチュー鍋を三人で囲んで歌を歌った。あんな楽しい夕食は本当に久しぶりのことであった。このままこの平和な時間が止まって欲しいと願った。

 亜理沙が家に帰ってきて三ヶ月ほどは何事もなく平和に過ぎた。正月には叔父夫婦も家に来て大勢で賑やかなお正月も過ごした。亜理沙も随分と大人しくなり、イタズラもあまりしなくなった。もうすぐ小学生になる、自分でもお行儀良くしないと、という意識が芽生えてきていたのかもしれない。しかし・・、そんな亜理沙の気持ちを踏みにじったのは、ほんのちょっとした出来事であった。
「ママ、お漏らししちゃった。」
 正月も過ぎた、ある寒い朝のこと、亜理沙はお寝小をしてしまった。そんな大きな地図ではなかったが、亜理沙の布団には確かにそれらしい跡がくっきりと付いていた。
「あらあら、夕べは少し寒かったから。寝冷えでもしたのかしら。」
母は一瞬いやな顔をしたが、さして叱ることもなく、さっさと亜理沙のパンツを取り換えし始めた。私にも覚えがあった。私のラストお寝小は小学校に入ってからだったので、あまり偉そうなことは言えないが、あの時は母にひどく叱られたような記憶がある。でも今日の母は不思議なほど静かであった。ニコニコとして亜理沙のパンツを取り換えてやっていた。そんな母の笑顔に私は何故だか微かな不安を覚えた。
次の日も亜理沙はお寝小をした。今度は昨日のより一回り大きかった。母は、その日も特に怒ることもなく淡々と亜理沙のパンツを取り換えた。
しかし、不幸は続くものである。その次の日も、またその次の日も亜理沙はお寝小をした。不思議なことに、お寝小というのは、してはいけない、してはいけないと思えば、思うほど余計にしてしまうものらしい。私の時もしばらく続いたような気がする。
「亜理沙、どうしてお寝小が止まらないんだろうね。」
 5日目の朝、とうとう母は大きなため息を漏らした。亜理沙のパジャマとシーツはこれで4日連続で洗濯されていた。ここまで来るともう根競べである。亜理沙のお寝小が止まるのが早いか、母の堪忍袋の緒が切れるのが早いか、私は朝起きるとヒヤヒヤしながら、母と亜理沙の寝室をのぞきに行った。
「亜理沙、一度お医者様に診てもらおうか。」
「やだ。」
 お医者様と聞いて、亜理沙は即座にしかめっ面になった。私もお医者様はキライだったが、亜理沙も私以上にキライであった。3つの時には、風邪でお医者様に行った際に診察室の中を逃げ回って大変だったらしい。
 結局、その日母は一人でお医者様のところへ行ったらしい。でも、それがいけなかった。夕方、私が学校から帰ってくると、母は疲れたような表情でソファに座り込んでいた。夕陽が西に傾き、リビングの中も薄暗くなり始めていたのに、明かりも点けていなかった。傍らでは、亜理沙が一人犬のぬいぐるみをいじって遊んでいた。私は、いつか体験したような、とても嫌な気持ちの悪い感覚を覚えた。
「どうしたの、こんな暗い部屋で。」
「あっ、朋美、お帰り。」
 母は、ハッとしたように弱弱しい声で返事をした。私は、リビングの明かりを点けた瞬間、ドキリとした。母の表情は明らかに変わっていた。いつか見た顔であった。私は、母の表情から咄嗟に鬼の存在を感じ取った。髪が乱れ、目は空ろになり、化粧も半分ほど落ちたその顔は、いつもの母のものではなかった。
「今日、お医者様に行ってきたの。」
 母は力なく言った。
「心理的なものだろうって。小さい時に何かとても怖い思いをした記憶が残っていて、それが原因で夜中にお漏らししたりすることがあるとか・・」
 いわゆるトラウマというやつである。幼児の時に何かとても怖い思いをし、それが本人も気付かない潜在意識の中にあって、夜寝ている間に突然思い出してお漏らししてしまう。神経質な子供によく見られる症状だそうだ。
「私がいけないんだわ。私が、前にしたことをあの子はまだ覚えていて、それで・・」
 母は、そのことが余程ショックだったらしい。少なくとも表向きは、亜理沙は母によく懐いていたし、怖がる素振りも全く見せることはなかった。ただ、それは本人が忘れているかあるいは隠しているかのどちらかであった。本人自身も気付かない深い、深い心の奥底で、亜理沙は母に対する恐怖心をまだ捨て切れずにいたのである。そのことが、お寝小という目に見える形で表に現われた。
しかも、さらに悪いことには、そのことをお医者様から指摘されたという点であった。これで、母の自信は一気に消え失せた。幼児虐待という暗闇の世界からようやく立ち直り、以前のような平和な暮らしを取り戻したかのように見えた。しかし、それらは全て化粧された世界であったのだ。一度切り裂かれた傷跡は二度と癒えきることはない。表向きはきれいに治ったように見えて、実際は皮膚の下の見えないところでジクジクと膿を溜め込んでいたのである。
この日を境に母の心の闇に潜んでいた鬼が再び姿を現し始めた。

 それから一週間、亜理沙のお寝小は続いた。亜理沙も母の異変を感じ取ったのか急に口数が少なくなった。子供は鋭敏である。母に話しかけられても、うんとかううんとか言うだけで、自分から話をしようとはしなくなった。それどころか、お寝小をしても全く平気な顔で謝りもしなくなった。毎朝布団に地図を書いては、そ知らぬ顔で床から抜け出すようになった。
「亜理沙、お寝小したのなら、ちゃんと言いなさい。」
 母は、毎日大きなため息を漏らすようになった。明るかった家庭に再び暗い影が忍び寄り始めた。そして、母はついに禁断の果実に手を染めてしまった。
 その日の夕方。
「亜理沙、お寝小しないように、いいお薬買ってきたわ。」
 母はいつになく上機嫌で帰ってきた。母が買い物袋から取り出したものは、小さな袋包みだった。お薬というからてっきりビンか何かに入った錠剤だと思っていた私は、最初それが何だか分からなかった。小さいビニールの包みに入ったそれは白っぽい綿のようでもあり、よく見ると綿でもない奇妙なものだった。袋の表には「もぐさ」と書かれてあった。私は初めてもぐさというものを見た。
「薬局のおじさんに聞いたの。お寝小にはこれが一番よく効くって。」
 母は、ようやく亜理沙のお寝小を治す手がかりが見つかったことで、嬉しそうであった。しかし、これが後日とんでもない結果に結びつくことになるのである。
 その日の夜、お風呂上りに、母はお灸の準備を始めた。父の遺影が飾られている仏壇からお線香を一本取り出すと、マッチで火をつけた。私は、初めてお灸というものを見ることになった。お灸が熱いということくらいは聞いて知っていたが、それが本当にどんなに熱いものなのか、体験したこともないので全然想像もつかなかった。
 亜理沙はといえば、まるで何事が始まるのかという風に、興味深げに母の様子を見入っていた。かわいそうな亜理沙。
「さあ、亜理沙、お灸始めようか。」
 母は、亜理沙のパンツをずらした。亜理沙の白いお腹が露わになり、かわいいおへそが丸出しになった。
「この辺かしら。」
 母は、おへその下あたりを軽く押さえながらツボを探した。亜理沙はくすぐったいとばかりキャッキャッと声を上げた。母は、もぐさを一つまみ取ると親指と人差し指の間に挟みグリグリと丸めた。そして亜理沙のお腹の上、おへその下三センチくらいのところに丸めたもぐさを置いた。いよいよ、である。
「ちょっと熱いけど、辛抱するのよ。」
 母は、そっとお線香の火を近づけた。私は、じっとその様子を見てゴクリと生唾を喫飲した。初めて見るお灸である。一体亜理沙はどういう反応をするのか。もぐさに火がつき、白い煙が上がり始めた。直径二ミリほどのゴミみたいなもぐさが赤く輝くのが見えた。その瞬間。
「アツーイ。」
 亜理沙は、反射的にもぐさを手で払った。と同時に、火のついたもぐさが床に転がった。
「あっ、ダメ、亜理沙、じっとしてなきゃ。」
 母は、大慌てでパンパンと平手でもぐさを叩くと火を消した。幸い、もぐさの火はもう消えており床に焦げ跡は残らなかった。亜理沙のお腹にはわずかに赤いポッチがついた。
「さあ亜理沙、もう一遍ね。今度はじっとしてなきゃダメよ。」
母は次のもぐさを一つまみした。
「やだ、お灸キライ。お灸キライ。」
 亜理沙は、転がって起き上がろうとした。母は、そんな亜理沙をグイッと押し倒した。
「ダメよ、亜理沙。またお寝小してもいいの。」
 母は、むずかる亜理沙をもう一度仰向けに押さえつけた。亜理沙は必死になって逃れようと手足をバタバタと動かした。
「朋美、ちょっと亜理沙を押さえてて、危ないから。」
 突然、私にもお鉢が回ってきた。私はとても嫌な気持ちがした。亜理沙がかわいそうな気もしたし、また亜理沙のお腹の上で煙を上げるお灸を見るのも少し怖かった。
「朋美、何してるの、早く。」
 母に急かされて、私は泣く泣く亜理沙の両足を押さえた。これで亜理沙のお寝小が治るのなら、治ってくれるのなら、亜理沙ゴメンね。私は目をギュッとつむって脇を見た。
「熱い、熱い、ヤダ、ヤダー。」
 亜理沙の泣き声と絶叫が聞こえた。
「ほーら、もう済んだわ。」
 母の声でそっと目を開けると、お灸は消えた後だった。亜理沙のお腹の上の赤いポッチは先程よりも濃くなり、ハッキリとお灸の痕が付いていた。亜理沙の肌の白さが余計にその赤みを際立たせた。私は、ホッとすると同時に、ゾクッとした。お灸なんて、自分でするのも嫌だけど、人がしているのを見るのはもっと嫌だった。亜理沙は、しばらくヒーヒーと泣きながら、頻りとお灸の痕を指でなぞっていた。
 翌朝、亜理沙のお寝小はピタリと止まった。それまで一週間連続して続いていたお寝小が止まったのである。やはりお灸が効いたのか。私はよかったと思った。少なくとも亜理沙はあんなに熱い目に遭ったのだから、これで効果がなければ最悪である。亜理沙もお寝小をしなかったことで今朝は上機嫌であった。
 その日の夜。
「さあ、亜理沙。今日もお灸してから寝ようね。」
 亜理沙は覚悟を決めていたのか、今日は大人しく仰向けになった。昨日のお灸の痕は赤みが消えて少し色が黒っぽく変色していた。母は、そのポッチを目印に昨日と同じようにもぐさを置くと火を点ける。亜理沙はギュッと目をつむって、耐えていた。私は怖かったのでなるべくお灸の様子は見ないようにしていたが、煙の匂いだけはどうすることもできなかった。
 その次の日も亜理沙はお寝小をしなかった。よかった本当にお灸が効いているのかもしれない。半信半疑だった私もいよいよ真剣にお灸の効力を信じるようになった。しかし、お灸は所詮お灸。心の病までは治すことは出来ない。
「ママ、お漏らししちゃった。」
 お灸を始めて四日目の朝、私たちの期待は裏切られた。その日の朝、亜理沙はまた地図を描いてしまった。しかもたっぷりと。まるで四日分のお寝小をまとめてしたかのような大きな地図であった。
「おかしいわね。昨日はちょっと小さかったからかしら。」
 その日の夜、どうやら母はもぐさの量を増やしたようであった。私は怖くて亜理沙の方を見ていなかったが、煙の量と匂いからいつもと随分違うように感じた。
「熱い、熱い、熱い・・・」
 亜理沙の泣き声も一段と大きかったような気がする。翌日、やはり亜理沙のお寝小は止まった。しかし、この中途半端な結果がいけなかった。お灸の効力に対する母の信頼感はますます増し、亜理沙がお漏らしする度に、それに比例するかのようにもぐさの大きさも大きくなっていった。そして亜理沙の悲鳴の大きさも。
 亜理沙のお寝小が止まったり止まらなかったり、そんな日が十日ほど続いたある日、私は恐ろしいものを見てしまった。久しぶりに亜理沙と一緒にお風呂に入ったその時、亜理沙の下腹部、おへその下辺りに直径二センチほどの大きなケロイドの痕が出来ていた。最初は蚊が刺したような赤いポッチであったのが、いつの間にかお灸の痕は亜理沙の柔らかい肌を焦がし、ドロドロとした膿を内包して赤黒く腫れ上がっていた。母は、繰り返し、繰り返し、そのケロイド上に新たなもぐさを載せては、火をつけていたのである。
「亜理沙、痛そう。大丈夫?」
 私は、恐る恐るその亜理沙の傷跡にそっと指で触れてみた。ニュルッとした気持ち悪い感触が私の指先に伝わった瞬間、亜理沙はビクンと動いた。
「ゴメン、痛かった。もうお灸は止めようね。お姉ちゃんがママに言ってあげる。」
 亜理沙は黙ってコクリと頷いた。その目には微かに光るものが見えた。
「ママ、亜理沙のお灸の痕かなり具合悪そう。もうお灸よそうよ。」
「ダメ、もうしばらくは。お寝小も少しずつ良くなってるし。」
「でも、見てるだけで痛そう。少し膿んでるみたいだし。」
 母は、そんな私を無視するかのように、せっせとお灸の準備を始めた。
「さあ、亜理沙、今日もお灸しようね。こっちにいらっしゃい。」
「やだ、亜理沙、もうお灸しない。」
 亜理沙は、私からの援軍を得て、きっぱりお灸を拒否した。
「だめよ、亜理沙。わがまま言っちゃ。またお寝小してもいいの。」
「やだ、やだ、やだ。」
 亜理沙はパンツを押さえながら、おへそを両手で抱えるようにして縮こまってしまった。その直後、私は恐ろしい光景を目の当たりにした。
「亜理沙、こっちに来なさい。」
 その一言で、母の表情はガラリと変わった。私は、再び母の顔に鬼を見た。いつか見たのと同じであった。釣り上がった目、眉間に刻まれた深い皺、強張った頬。鬼母は、嫌がる亜理沙を素早く押さえ込むと、あっという間にパンツを取り去った。それは、まるで獲物に襲いかかる獣のような素早さであった。亜理沙は、あの痛々しいケロイド痕を露わにして、完全に仰向けに押さえ込まれた。必死になって逃れようとする亜理沙の両足の上に馬乗りになり、左手でしっかりと上半身を押さえ込んだ。
「ママ、止めて。ママ、ママ。」
 私は、必死になって止めに入ろうとした。鬼母はそんな私を一撃のもとに跳ね飛ばした。私は倒れた弾みにテーブルの角で背中を打ちつけ、息が出来なくなった。目の前が真っ黒になりそうなほどの激痛が背中に走った。そんな中、かろうじて私が目にしたのは、巨大なもぐさが亜理沙のおへその下で赤々と光り輝く光景であった。
「うぎゃー。」
 狼に襲われたうさぎのように、亜理沙は何とも言い表せない断末魔のうめき声を上げた。
「ハア、ハア、ハア。」
 全てが終わり、母は荒々しく肩で息をした。母の口角は不気味にねじれ上がり、よだれがポタポタと床に落ちた。

三日後。
「そ、そんな、虐待だなんて。私は、ただお灸がお寝小に効くと聞いただけで。」
 母はそんな弁解口上を申し立てた。居間には叔父夫婦が来ていた。私が、先日のことで叔父夫婦に相談したのである。叔父夫婦は母の虐待が再び始まったと思ったのか、すぐに飛んできてくれた。叔父は不自由になった身体を押して、杖を突きながらやっとのことで居間までたどりついた。それほどに叔父夫婦は私たちのことを心配してくれていたのである。
 しかし、私の期待は裏切られた。母は昨日のことなどすっかり忘れて笑顔で叔父夫婦と話をしていた。亜理沙も何事もなかったかのように、犬のぬいぐるみと遊んでいた。先日、まさしく叔母が座っているその場所で、恐ろしい光景が繰り広げられていたことなど、微塵の形跡も残っていなかった。
「じゃあ、そういうことで。あんまり無理しないで、困ったことがあればいつでも相談に来なさいよ。」
「有り難うございます。わざわざお気遣いいただきまして。」
 結局、小一時間ほどで叔父夫婦との話は終わってしまった。叔父夫婦が帰った後、お茶の片づけを済ました母は、ギロリと私の方に邪悪な視線を向けた。
「朋美、あんたね。叔母さんに何て言ったの。」
 私は蛇に睨まれたカエルのように直立不動のまま硬直していた。
「まあ、いいわ。あんまり変なこと言わないでね。あんたも亜理沙と同じお灸してあげようか。」
 私は、背中がゾクッとするのを覚えた。『お灸』という言葉を発した瞬間、母の口角には微かなそして邪悪な笑みがチラリとのぞいたような気がした。
 私は、期待していた叔父夫婦に裏切られたことで絶望の淵に沈んだ。何とかしなければ、何とかしなければ、本当に亜理沙は殺されるかもしれない。その時、私は初めて亜理沙の『死』を真剣に心配し始めた。亜理沙は、母の虐待が祟ったのか、最近食も細ってきていた。そうでなくても華奢な亜理沙の身体がますます痩せ細っていた。
 私は、何か救いの手はないかとインターネットの世界に入り込んだ。キーワード「幼児虐待」と打ち込んで、エンターキーを押し下げる。全部で二十九万件という数字が出てきた。私は、その数字の大きさに驚いた。こんなにたくさんの人が幼児虐待で苦しんでいる。家だけが特別じゃなかったんだ。この広い日本のどこかで、他にも同じように苦しんでいる人たちが大勢いる。そう思うと、少し安心したような気にもなったが、同時に特別ではないということが心のどこかに引っかかった。
私は、一つ一つ開いては、幼児虐待に関する様々な記事や報告を読んだ。自らの体験談を紹介した記事、幼児虐待の防止を訴える広報、そして専門家による難解なレポート・・。小学校六年生が読むには難し過ぎた。読み方の分からない漢字も一杯あった。
 そんな中で、幼児虐待の原因について説明するレポートにふと私の目が留まった。はっきりとは覚えていないが、どこかの大学か研究機関の論文のようなものであったと思う。
『幼児虐待は、一般的には親が子供を育てられない、いわば育児ノイローゼの一種と見られている。わが国でも、その原因を離婚、経済的困窮等、社会的要因に求める説が有力である。しかし、一方でアメリカでは、その残虐性、猟奇性から、性犯罪の一種と捉える見方もある。強者が弱者を支配下におき、虐げ、苦痛を与えることで性的陶酔を得る、いわゆるサディズムとの類似性を指摘する研究者もある。』
 難しい内容でその意味は良く分からなかったが、なぜか『サディズム』という言葉だけが深く印象に残った。そもそも十二歳の私には、性的陶酔とは何かすらも分からなかった。これは、ずっと最近になってから知ったことであるが、この世には他人を虐げ、痛めつけることで性欲を満たす変態的性格の人がいるらしい。
 私は、この時初めて母の行動に病性を見た。やはり、あれは普通ではない。よくは分からないが、母の亜理沙に対する責めはまさにここに書かれていることに酷似していた。そして、その後私はさらにショッキングな一文を目にする。
『この性的幼児虐待は、一時的に良くなったように見えて完全治癒は難しいとされる。何かの事象を契機に繰り返し発生し、最終的には子供を死に至らしめるケースが多い。かかるケースの場合は、早い段階で子供を親から隔離保護することが必要とされる。』
 私は、その一言一句を繰り返し頭に刻み込んだ。完全治癒は難しい、繰り返し発生、そして『死』、それらの言葉が何度となく頭の中をグルグルと巡った。そして、私の心配を見透かしたかのように、母の亜理沙に対する虐待は、この記事の通りに進んでいく。

翌日の夜。
「ママ、おしっこ。」
 私は、亜理沙の泣きそうな声が耳に入った。私は、おやっと思った。そう言えば、私が学校から帰ってきてからずっと亜理沙がトイレに行くのを見ていなかった。一体どうしたんだろう。おしっこがしたければトイレに行けばいいじゃない。一人で出来ない訳でもないのに、なぜ母におしっこがしたいと言うのであろうか。
「もうちょっと辛抱しなさい。」
「出ちゃう、ママ、出ちゃう。」
 亜理沙は、泣きそうな顔で両足をよじらせた。
「亜理沙、トイレに行けばいいじゃない。」
 私は、亜理沙をトイレに連れて行こうとした。その時。
「ダメ、朋美。訓練なんだから。」
「訓練?」
「そう、おしっこを我慢する訓練。お寝小しちゃうのは我慢が足りないからなの。おしっこを我慢する訓練をすれば、夜中にお漏らしをしないようになるの。」
 私は、変な理屈だなあと思った。お寝小は、夜寝ている間にお漏らしするものだから、いくら練習してもそれで治るとは思えなかった。母はこの異常な理屈をたてに取り、亜理沙をトイレに行かせないようにしていたのである。
「亜理沙、ダメよ。お漏らししたらお灸だからね。分かった。」
 異常であった。母は、訓練と称して、亜理沙をトイレに行かせず、しかもお漏らししたら罰としてお灸をすえるという。狂っている、何かが狂っている。私は、昨日インターネットで見た『サディズム』という言葉を思い出していた。人が苦しむのを見て性的快感を覚える。今の母の表情には微かに陶酔の微笑が感じられた。身をよじって悶える亜理沙を目の前にして鬼は密かに笑っていた。
「ママ、出ちゃう。出ちゃう。」
 その間にも、亜理沙の声はドンドン悲壮感を強めていく。顔は青ざめ、額に薄っすらと脂汗が浮かんでいる。もう限界が近いという風であった。
「ママ、亜理沙があんなに嫌がってるじゃない。どうして、そんな・・。」
 と言い掛けた時、亜理沙はワッと泣き出して、その場にへたり込んだ。しばらくすると、亜理沙のパンツはじんわりと濡れ始め、やがてその形は床にも広がっていった。
「亜理沙、あれだけ辛抱なさいと言ったのに。どうして辛抱できないの。」
 母は、ものすごい形相で亜理沙の濡れたパンツをずり下ろしにかかった。亜理沙は、虎に睨まれた猫のように萎縮し、緊張と恐怖でガタガタと震えた。ほとんど抵抗する力も気力も失した亜理沙は、母のなすがままに下半身を素っ裸にされ、床の上に組み伏された。
「ママ、やめて。」
 私は、見ていられなくなり、傍らから母を突き飛ばした。私ももう小学校六年生、さすがの母も私の力任せの攻撃で床の上に横倒しになった。亜理沙はこの時ばかりと、ゴロリと横に転がって難を逃れた。
「何するの、朋美。」
 獲物に逃げられた母は、攻撃の刃を私の方に向けてきた。その時、私は初めて母に頬をぶたれた。それまで母の攻撃の対象はいつも亜理沙であった。母は決して強い者に手出しはしなかった。虐待されるのは常に弱い者であった。
 ぶたれたショックで一瞬ひるんだ隙に、私はあっという間に組み伏されて右の手首をしっかりと床の上に押し付けられた。そして、次の瞬間、手の平に焼け付くような痛みを覚えた。圧迫された苦しい息の中で、かろうじて首をねじった私は、痛みの原因を知った。亜理沙にお灸をすえるために火がつけられたお線香の先が、そのまま直に私の手の平に押し付けられていた。
 その時の母の顔は一生忘れられない。いつか夢の中で見たあの顔であった。目は爛々と輝き、眉間には般若の面のような深い皺が刻まれ、わずかに開いた口からはダラダラとよだれが垂れて、仰向けに押さえ付けられていた私の頬にボタボタと落ちてきた。
私は、観念してそっと目を閉じた。もう逃れることも出来ない、このまま殺されるかもしれない。それでもいいと思った。私が殺されれば、間違いなく亜理沙は開放されるであろう。かわいそうな亜理沙。私は、亜理沙に約束した。お姉ちゃんが守ってあげると。
しばらくすると、ハアハアという荒い鬼母の息遣いが次第に収まった。同時に私の手を平を押さえていた力が緩んでいった。私は、そっと目を開いた。母の顔から次第に鬼の様相が消えていくのが分かった。母は、憑き物が取れたように放心状態のまま床にペタリと座っていた。
 私の抵抗が効いたのか、この日を境に、母のお灸攻めはピタリと止んだ。もぐさもいつの間にか処分されてしまった。そして、不思議なことに亜理沙のお寝小もピタリと止まった。こんなことならもっと早くに抵抗していればよかった。そうすれば亜理沙はこんなに苦しまずに済んだ。母の立ち直りももっと早かったかもしれない。私はわずかな希望の光が見えたような気がした。ほんの微かな光であった。
しかし、その光は嵐の前の雲間からわずかに差し込む一条の陽光のように、一瞬だけ輝いた後すぐに雲間に消えていった。鬼に魅入られてしまった者は二度とこの世には戻って来られない。この一瞬の平穏は、恐ろしい惨劇が最終章に突入する前のほんのわずかの幕間であったのだ。
 亜理沙に対する母の虐待は、間もなく手を替えて再開した。怒鳴る、殴る、蹴るは当たり前、時には素っ裸にして冷水を浴びたり、ろうそくの火を押し当てたりもした。そして、亜理沙を虐待する時の母の表情には、まるで麻薬の禁断症状が満たされるかのような陶酔が見られた。私は、確信した。間違いない、サディズムだ。母は、亜理沙を虐待することで性的陶酔を得ている。この恐ろしい結論に到達した時、私の心の奥底にとてつもなく怖いある考えが芽生え始めた。考えるだけでもおぞましい帰結。しかし、この後恐怖のジェットコースターは最後の大崩落に向けて速度を増していった。

最近の亜理沙は食欲もなくなり、保育園にも行かなくなった。亜理沙にはもう保育園に行く力すら残っていなかったのである。手足は細り、顔色は青白く、およそ五歳の女の子とは思えないほど元気もなく、やつれ返っていた。私が学校から帰ると、亜理沙はいつも独りで犬のぬいぐるみの相手をしていた。犬のぬいぐるみだけが、唯一今の亜理沙の生きる拠り所となっているような気がした。
 まだ十一月だというのに、その日は朝から木枯らしの吹く寒い日であった。寝冷えでもしたのか、亜理沙は朝から下痢気味であった。お昼ごはんもほとんど食べなかった。そして、午後にはますます体調も悪くなり、いつもの遊び相手の犬のぬいぐるみも床に転がしたままになっていた。
私は、そんな亜理沙を見て、ついに決心した。明日、もう一度叔父夫婦のところに相談に行こう。この前はダメだった。そして、鬼母からも口止めされた。余計なことを言えばあんたにもお灸・・。それが怖くて、私は叔父夫婦の家に駆け込むのを一日伸ばしにしてきた。でも、もう限界だ。このままだと亜理沙は確実に殺される。鬼母の異常な欲望の犠牲になる。その前に、私が、この私が、自身の手で何とかしなければ。しかし、私の決心は、残念ながら一日遅れだった。
その日の夜。亜理沙の体調は極限状態に達した。もう椅子に腰掛けているのすら辛そうであった。
「亜理沙、食べるの、食べないの。どっちなの。」
 母は相変わらずいつもの調子で亜理沙をしかりつけながら夕食を食べていた。もう我が家の食卓から団欒の声が消えて久しい。私は、母を刺激することのないよう、横目で母を見ながら出来る限り音を立てずにお箸を動かした。亜理沙は相変わらずしんどそうである。顔色も青白く、ほとんど食べようともしない。
 私は、嫌な予感がした。来るものが来そうな気がした。母のこめかみの辺りがひき付くのが分かった。その時である。
「ゲーッ。」
 亜理沙の喉元で奇妙な音がしたかと思ったら、次の瞬間、亜理沙はガーッと吐いた。何も食べていないはずなのに、ビックリするほどの量の内容物を吐き上げた。亜理沙の洋服の胸からお腹にかけて吐寫物がドバッと流れ、特有の酸っぱい匂いが食卓に立ち込めた。
 私と母は一瞬石のように固まった。そして、次に私が母の顔を見た時、それはあっという間に鬼母のものに変わっていた。
「何てことするの、亜理沙。」
 母は、亜理沙を食卓の椅子から引き摺り下ろすと、あっという間に亜理沙の着ている物を剥ぎ取った。汚れたセーターだけでなく、その下に着ていたシャツも、ズボンも、そしてパンツも。亜理沙は一瞬にして素っ裸にされていた。痩せた亜理沙の身体はすぐにでも壊れそうなほど痛々しく、胸の辺りにはあばら骨が何本も浮き出して見え、おへその下にはまだ完全には癒え切っていないお灸の痕が不気味な色を見せていた。
「ヒーッ」
 亜理沙は奇妙な悲鳴を上げて、手足をばたつかせた。最後の力を振り絞るようにして鬼母の暴力から逃れようとした。
「言うことを聞けない子は、言うことを聞けるようにしてやる。」
 母は、素っ裸の亜理沙を抱きかかえると風呂場の方に向かった。私は咄嗟に判断した。今殺らなければ殺られる、と思った。その時の私は、もう無我夢中であった。考える余裕も、善悪の判断もなかった。とにかく鬼母の手から亜理沙を助け出すことだけで頭の中が一杯であった。何をどうしたのか分からない。気がついた時、私の手にはキッチンにあった包丁が握られていた。
「神様、お許しください。」
 胸の中で、そう念じた私は包丁を握り締めたまま風呂場へと向かった。
「やだ、やだ、やーだ。」
 風呂場の中から、火のついたような亜理沙の泣き声に混じってゴボゴボッと湯船に湯を注ぐ音が聞こえる。私は、ゆっくりと風呂場に近づいた。お湯の出る音が次第に大きくなっていく。私の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。口の中はカサカサに乾き、息をするのにも力をこめないと出来ないほどに身体全体が硬直した。
あと一息で風呂場のドアというところで、私は世にも恐ろしい呻き声を耳にした。
「うぎゃーーー。」
 亜理沙の悲鳴とともに、ザブンザブンというお湯を引っ掻き回すような激しい音がした。私はバッと風呂場のドアを開いた。もうもうと上がる湯気の中に、私は異様な光景を目の当たりにした。湯船にたっぷりと張られた熱湯、その熱湯の中に亜理沙の体を押し浸ける鬼母。
私は両手でしっかりと包丁を握りしめ、切っ先を鬼母の背中に向けると、目を閉じて洗い場の中に倒れ込んだ。ブチッ。肉の切れる鈍い音がし、ズシリとした手ごたえが私の両手に伝わった。一瞬の静寂が風呂場を包んだ。静かであった。それまでの騒ぎがまるでウソのように時が止まった。私は、この静けさ、この静かな時間が永遠に続いて欲しいと願った。
しかし、現実の時間は無情にも前へと進んでいく。私はしっかりと閉じていた両眼を恐る恐る開いた。刃渡り二十センチほどのさしみ包丁は、その身の半分以上が鬼母のわき腹の中にめり込んでいた。じわっと、赤いものが鬼母の着ている物を染めていく。
鬼母はゆっくりと私の方に向き直ると、自らのわき腹に目を落とし、何が起きたのかを確認しようとした。あの時の表情を私は一生忘れない。あれは間違いなく鬼であった。眉間の皺はさらに深まり、血走った目は縦に釣り上がり、口は大きく裂け、何本もの歯がギラリと輝くのがハッキリと見えた。
私は、鬼に睨まれ全身が石のように硬直していくのを感じた。私は、狭い風呂場の中で手も足も全く動かせないまま、鬼母と対峙した。やがて鬼母はゆっくりとその邪悪な視線を私の方に向けた。
「やってくれたわね、朋美。」
 次の瞬間、私は恐ろしい力で洗い場の壁に押し倒された。咄嗟のことで、逃げる間もなくそのまま風呂場の片隅にねじ伏された。
「あんたも同じだ。こうしてやる。」
 私の首に鬼母の両の手がかけられた。一瞬にして私は息が出来なくなった。必死になって逃れようとするが、私のお腹の上に馬乗りになった鬼母の身体はピクリとも動かない。それどころか、私の首を絞める鬼母の力はどんどんと増していく。私は次第に意識が薄れていくのを感じた。
死ぬということは、こういうことなんだ。人の死なんてこんな簡単なものだったんだ。私は、ぐったりして鬼母のなすがままになった。すると、突然楽になった。今まであんなに息苦しかったのがウソのように気持ちよくなった。このまま死んだら、今一度父に合って、母も昔のような優しい母に戻り、亜理沙も、犬のぬいぐるみも、皆が平和な団欒の場に集い、幸せな日々が戻ってくる。私の目から止め処もなく涙が溢れた。その時・・。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。」
 微かに私を呼ぶ声がした。誰だろう。そして、私はどうしてここにいるのだろう、私はここで何をしているのだろう。その時、また私を呼ぶ声がした。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。」
 間違いない、亜理沙だ。そう、私は亜理沙を助けるためにここに来たんだ。こんなことをしている場合ではない。私はハッキリと息を吹き返した。幸いにも、鬼母自身の体から流れ出した赤い液体が、鬼母の毒牙の力を緩める方に作用した。見れば、洗い場のタイル一面が真っ赤に染まり、私の首の辺りもヌメヌメとした感触に包まれていた。
 私はぐっと両足に力をこめて、伏された身体をねじろうとした。やはりびくともしない。鬼母の両手は相変わらず私の首を締め付けている。私は、必死になって何か掴むものはないかと手の届く範囲をまさぐり回した。その時、私の目にあるものが映った。鬼母のわき腹から突き出している木製の柄。私は、その柄を右手で掴むと、ぶら下がるように力を込めて下に引いた。
「グゲッ」
 鬼母の喉から奇妙な音が漏れた。包丁の刃が回転するように鬼母のわき腹から下腹の方へと回った。同時に、血とも肉とも分からない生温かい真っ赤な塊が、仰向けになっている私の顔の上にドバッと落ちてきた。それを境に、私の首にかけられた鬼母の手の力は次第に弱くなり、やがて鬼母の体全体に断末魔の痙攣が起き始めた。鬼母の身体はゆっくりと洗い場の隅に横倒しになった。
 私は、恐る恐る起き上がった。気がつけば、全身がこれ以上ないほどに真っ赤に濡れ染まり、風呂場にムッとする血肉の匂いが立ち込めた。不思議と気持ち悪いとか怖いという感覚はなかった。
「亜理沙、亜理沙。」
 私は、鬼母がもう襲ってこないことを確認すると、湯船に浸けられた亜理沙を必死になって助け出そうとした。亜理沙は、体全体が不気味に赤く腫れ上がり、抱きかかえる時に背中の皮膚の一部がベロリと剥がれて真っ赤な身が顔をのぞかせた。私の両手もひどく火傷した。でも不思議と熱いとも痛いとも感じなかった。今も、その時の火傷の痕が右手に微かに残っている。

 母は腹部裂傷による失血死。亜理沙も三日三晩生死の境をさ迷い続けた果てに天に召された。死因は、極度の栄養不良に全身やけど。そんな亜理沙も死ぬ直前までハッキリ意識があった。「お姉ちゃん、ありがと。」、最期に亜理沙が言い残した一言である。かわいそうな亜理沙。何のために生まれ、そして何のためにわずか五歳という短い生涯を閉じていくのか。私は、もっと早くに亜理沙を救ってやることが出来なかったことを幾度となく後悔した。言い様のない自責の念に長い間苛まれ続けた。
 結局、私の行為は妹を救済するために取った緊急避難措置ということで、私は少年院行きにならなかった。私に下された決定は在宅観護措置。叔父夫婦が身元引受人となって、私は人生を再出発することになった。叔父夫婦によると、私は最初ショック状態がひどく、何度も夜にうなされたりしていたそうである。ただ、理解ある叔父夫婦のお陰で私は無事高校を卒業し、今年の春から上山さんの奨めもあって児童相談所で働くことになった。
私は、亜理沙にしてやれなかったことを、一人でも多くの子供たちのためにして上げようと決心した。今日も全国から多くの電話が架かってくる。私は、愛らしい亜理沙の写真を見つめながら受話器を上げた。
「はい、こちらは全国児童福祉相談所、鬼母の子110番です。」
(了)


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