丁度その頃。永久の荘C棟。 「1045の関根さん急変です。」 看護師が慌ただしく廊下を駆け下っていき、すぐ後に担当医が続く。ストレッチャーに載せられた80過ぎの女性が点滴を打たれながら病院棟の方へと運ばれていく。 「いつ頃からこんな状態に。」 担当医がストレッチャーの脇を駆けながら看護師に尋ねる。 「風邪をひかれたのか、夕べから少し咳と熱が。朝の検温の時はまだしっかりされてて。まさかこんな急変されるとは。」 看護師は青ざめた表情で答えた。後少しで病院棟の入り口というところで中から数名のメディカルチームが慌ただしく出迎えた。 「よーし、ご苦労様、後は我々の方でやる。」 胸に「戸田内科部長」という胸章を付けた少し年配の医師が前に進み出た。 「先生、インフルエンザの疑いがあります。すぐにC棟の病室と廊下に消毒の手配を。」 担当医が進言する。 「いや、その必要はない。ただの風邪だ。」 「で、でも、もしインフルエンザだったら。大変なことに。」 「そんなこと君に言われんでも分かっている。インフルエンザの検査はこっちでやるから、君たちは通常業務に戻り給え。」 「で、でも、担当医は僕ですから、僕にも責任があり・・」 「すぐに戻り給え、これは部長命令だ。」 その言葉と同時に数人のメディカルチームがストレッチャーの周囲をグルリと取り囲んて、あっという間に病院棟の奥に運び去っていった。
永久の荘、理事長室。 「理事長、ついに患者第1号が出ました。83歳の女性です。」 木田事務局長の嬉しそうな声が理事長室の中に響く。 「で、その患者はどうなったのかね。」 渋い表情の北村理事長が尋ね返した。 「先程死亡が確認されました。間違いありません。強毒性のインフルエンザです。」 「そうか。とうとう始まってしまったのか。」 北村理事長は、がっくりと肩を落とすと、ソファの上に崩れ落ちた。 「なあに、心配要りませんよ。理事長。ウイルス散布の件を知っているのは、メディカルチームの幹部だけです。一週間もすれば、自衛隊の医療チームに引き継いで、それで万事終了です。」 事務局長は、自信満々で胸を張った。 「本当にそんなにうまくいくのかね。こんなバカげた茶番劇が。」 北村理事長だけが、ただ一人不安の声を漏らした。そして、その理事長の不安はやがて現実のものとなる。
「親父、もう一息だ。この階段を下りれば、地下の駐車場だ。」 茂樹は、三郎を背負って非常階段を下っていた。三郎はかろうじて動く右腕をしっかりと茂樹の首に巻きつけて、肩に身を預けていた。三郎の目には再び涙が浮かんでいた。一番どうしようもないと思っていたドラ息子の茂樹が、今一心に自分を背負って階段を下りている。もし、誰かに見つかれば、二人とも生きてここを出られるか分からない。命を賭けた逃避行が親子の絆を再び固く拠り直した。 「親父、随分軽くなったな。」 「そ、そうか。ずっと寝たきりだったからな。足なんかもうミイラみてえだろ。ホント情けないよなー。それにしても、お前も力強くなったなー。さっきから息一つ切れてねえ。」 「バカにすんなよな。こう見えても、介護歴一年だ。もう何百人、風呂に入れてやったことかか。あの風呂に入っている時のみんなの顔、たまんなく幸せそうだよな。一度見ると、病み付きになるぜ。ホント。」 「そ、そうか、そうか。」 三郎の目に再び涙が浮かび、その後は声にならなかった。 「よーし、着いた。ラッキーだ。誰もいない。」 幸い、巨大な駐車場はガランとしていて不思議なほど人がいなかった。茂樹は、少し不審に思った。いつもなら、この時間帯、交代の看護師やら介護士で少なくとも何人かの人影は必ず見えるはずであった。ところが、今日は人っ子一人いない。一体どうなっているのか。 「親父、また少し辛抱しろよな。」 茂樹は、三郎を後部座席に寝かしつけると、頭からスッポリと毛布をかぶせた。後3分、ゲートを出てしまえば、もうこっちのものだ。茂樹は、ゆっくりと車をゲートへと走らせた。 しかし・・。 「おーい、止まれ。そこの車。」 守衛が赤い灯火を振りながら、茂樹の車を制した。 「ちっ。」 茂樹は、舌打ちした。いつもなら、難なく通り抜けられるのに今日に限ってなぜ。守衛は、運転席の脇に近づくと、茂樹に声を掛けた。 「おい、聞いてないのか。今夜は誰も外には出られない。いや、今夜だけじゃない。当分の間、センターへの出入りは全面禁止だ。」 「冗談きついぜ。そんな話、聞いてないっすよ。また、どうしてすっか。」 茂樹は、驚いた様子で尋ねた。 「緊急通達が出たんだよ。ほんの10分程前だったかな。俺も、まだ詳しい話は聞かされてない。ただ、通達によれば、何でもセンター内で伝染病が発生したらしい。それで、しばらく永久の荘全体を封鎖するとかさ。」 「ダメだよ。今日は、どうしても行かなきゃなんねえ用があんだよ。通してくれよ。なあ、一人位いいだろう。」 茂樹は、懇願するように守衛に頼んだ。しかし、守衛の返事は冷たかった。 「ダメだ。ダメだ。今日は、絶対誰一人外に出すなと言われている。たとえ親が危篤でもだ。」 茂樹は、今ようやく地下の駐車場が不気味なほどに静かだった理由を知った。通達が出て、全てのスタッフがセンター内に足止めされていたんだ。そんなこととはつゆ知らず、三郎を背負った茂樹だけがこのゲートまでたどり着いたというわけだ。 守衛は、運転席の窓から後部座席を覗き込むと、トーチの光で毛布を照らした。 「何、積んでんだー。このガキは。やけにでかい荷物だなー。」 茂樹は、ドキリとした。同時に三郎も石のように身体を固くした。寸歩でも動こうものなら、守衛に知られるところとなる。もう躊躇はしていられない。茂樹は一瞬の隙を突いて、アクセルを思いっきり踏み込んだ。 「あっ、おい。コラ。待て。待たんか。」 守衛の叫びも空しく、茂樹の車はゲートの遮断機をへし折って急発進した。その後、茂樹の車は真っ暗な伊豆高原の森林の中へとスピードを増して消えていった。しばらくして、はるか後方の彼方より緊急警報の鳴る音が微かに聞こえた。
約3時間後、杉並の茂樹のアパート。 わずか一部屋の小さなアパートは、足の踏み場もないほどに乱雑に散らかしてあった。茂樹が伊豆にある永久の荘に介護士として勤務し始めて後、このアパートに戻るのは二週間ぶりのことであった。こんなこともあろうかと思い、アパートの賃貸契約を解除しなくて良かったと思った。 「親父、少し狭いけど辛抱するんだぞ。今、飯野の家の方はヤバイかもしれん。親父が永久の荘から抜け出したことがバレてたら、もう手が回ってるかもしれない。でも、ここなら、誰にも気付かれねえ。」 茂樹の言うとおりだった。三郎が失踪したとなると、一番に家族の元が疑われる。茂樹のアパートが一番の隠れ家かもしれない。何しろ、当の三郎ですら、茂樹が杉並に住んでいたということすら知らなかったくらいである。 茂樹は、少しかび臭いにおいのする自分のベッドに三郎を寝かせると、自らはドサリと壁に背を持たれかけ.静かに目を閉じた。長い長い緊張の糸が突然プッツリと切れたように、2人はそのままぐったりと深い眠りに落ちていった。 どれくらい時間が経ったであろうか。まだ外は真っ暗で夜は明けていなかった。三郎は、茂樹の微かな咳の声で目が覚めた。 「茂樹、大丈夫か。風邪でも引いたか。」 「ああ、かもな。でも、大したことはないさ。少し疲れただけだろう。」 茂樹は、そう言いながらも、身体の異変を感じていた。軽い咳に、少し熱っぽい感覚。風邪の初期によく経験するアレであった。だが、2人とも、まだこの茂樹の異変が、今永久の荘で起こりつつあるとんでもない大事件と関わりがあるなどとは微塵も思っていなかった。 「なあ、茂樹。これから一体、どうするつもりだ。いつまでも、ここにいるわけもいかねえし。と言って、飯野の家は、お前の言う通り、もう役人の手が回ってるかも知れない。何しろ、俺も、お前も、永久の荘から脱獄したお尋ね者だからな。」 茂樹は、しばらく考え込んだ後に、呟いた。 「どこか遠くへ行こう。誰も知らない所へ。どうせ親父の戸籍はもう抹消されてる。どこで、どうやって暮らそうと自由だ。心配すんなって。親父の面倒は、どんなことがあったって、この俺が見るからさ。何しろ、俺は、介護士・・」 と言い掛けて、茂樹はそのまま激しく咳き込んだ。 「おい、茂樹、大丈夫か。茂樹。」 三郎は、不自由な右手をかろうじて伸ばして、茂樹の額に手を当てた。 「す、すごい熱じゃないか。おい、茂樹。どうしたんだ。本当に大丈夫か。」 「ああ、心配すんなって。風邪だよ、風邪。」 茂樹は、三郎の手を払いのけると、そのまま床の上に横になった。
永久の荘、理事長室。 「理事長、患者数が300人を超えました。死亡者数も31名です。」 パソコン画面を確認しながら、木田事務局長は自信満々の笑みを浮かべた。 「この調子だと、後24時間位で死亡者数が規定の数に達します。予定通り、マスコミ発表を行い、正式に官邸に自衛隊の特別医療チームの派遣を要請します。理事長、あと一息です。」 「好きにしろ。くそったれが。」 苦虫を噛み潰したような表情の北村理事長だけが、一人罵声を発してソファにうずくまった。
その頃、病院棟。 次々と運び込まれてくる患者に、何も聞かされていない若い研修医や看護師たちが右往左往していた。 「先生、こちらお願いします。血圧20−60。呼吸停止。」 ピピピピッ、ピピピピッ、激しく心電図のモニターが鳴り響く。 「先生、心停止です。」 「先生、こっちもです。」 慌しく、医師がベッド脇に駆けつける。看護師が大急ぎでアンプルから薬液を注射器に抜き取った。巨大な救急救命室の中はベッドに横たわった患者で溢れ、廊下にも数え切れない位のストレッチャーが並べられていた。ストレッチャーの上では、一様に高齢者たちが咳き込み、もがき苦しんでいた。 ついに平成の大量虐殺の幕が開いた。 「一体、何が起きているんだ。」 「どうやら、院内感染らしい。悪性のインフルエンザだ。先程患者の嘔吐物から陽性反応が出た。」 医師の一人が絶叫した。 「それにしても、症状かひど過ぎる。第一号の患者が出たのは、何時ごろだ。」 「よくは分かりません。ただ、一昨日の夕方に、一人の患者が肺炎で死亡しています。」 「早く、ウイルスの型を特定しろ。それにタミシリンの用意だ。」 「タミシリンのストックは500人分しかありません。」 「何をバカな。ここには2万人のお年寄りがいるんだぞ。それに医師や看護師も・・。」 と言い掛けた若い研修医が、そのままどっと咳き込んで、床に倒れた。 それを無視するかのように、戸田内科部長の指示が飛ぶ。 「よーし、皆よく聞け。これからトリアージステージに入る。いいか、トリアージだ。助かる見込みのない患者はドンドン切り捨てる。」 「トリアージだ。患者を素早く選別しろ。いいな。」 「トリアージだ。」 次々に救急救命室に伝令が飛ぶ。 「この患者は、無理だ。見捨てろ。こっちもダメだ。これもだ。」 次々とストレッチャーを覗き込みながら、内科部長の怒声かこだまする。 「先生、この患者まだ脈があります。助かる見込みが・・」 「バカを言うな。こいつらは全部ダメだ。もっと助かる見込みのある患者を探せ。そっちを優先する。」 戸田内科部長は、廊下を走り回って、次々と治療の中止を指示して回った。しかし、患者選別に奔走しているように見えた内科部長の目は、眼鏡の奥で密かに笑っていた。あと10人、あと20人、内科部長は頭の中には死亡者数のカウントしかなかった。
茂樹のアパート。 茂樹の容態はさらに悪化していた。激しい咳、額に噴き出した大量の汗、一見してかなりひどい状態であった。 「おい、茂樹。大丈夫か。茂樹。」 三郎は、右手一本で、不自由な身体をにじらせながら這うようにして茂樹に近づいた。茂樹の額に手を当てた三郎は飛び上がらんばかりに驚いた。人の身体が、こけほどまでに熱くなるものであろうか。茂樹の身体はまさに炎に包まれていた。 「茂樹、救急車だ。救急車を呼ぼう。」 三郎は、かろうじて動く手で茂樹の携帯電話を手に取った。 「や、止めろ。親父。今、病院に行ったりしたら、全部バレちまう。大丈夫だ。明日の朝になれば、きっと、よくなって・・。」 と言いかけて、茂樹は、そのままどっとその場に突っ伏してしまった。 それから少しして、未明の杉並の街に一台の救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら走り去って行く音が聞こえた。
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