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作品名:UBASUTE 作者:ツジセイゴウ

第8回   7 逃避行
一週間後。
三郎は、相変わらず薬を隠し続けていた。ある時は、シーツの下に、ある時は食べ残しのスープに溶かし込んで、とにかく出された薬には一切手を付けなかった。しかし、こんなことが一体何時まで続けられるのであろうか。いずれ、看護師か介護士の誰かにバレる時が来る。そして主治医に報告が。そんなことを思い続けていたある日。
「飯野さん、点滴のお時間ですよ。」
 いつもの看護師が、点滴薬の入ったバッグを手にして三郎の部屋に入ってきた。
「点滴?、そんなお話聞いてませんよ。」
「先生から何も聞いておられません?。経口剤の効き目があまり芳しくようなので、今日から抗がん剤の点滴を始めますからね。」
 看護師は、何のためらいもなくバッグを吊るし、点滴の準備を始めていく。
「抗がん剤?、でも身体の調子はいつもと変わりがない・・」
 そう言い掛けた瞬間、三郎の脳裏にあの恐ろしい記憶が蘇った。「気をつけなさい・」という桜井氏の言葉、そして大量の血を吐き上げて意識を失した同氏の顔。ひょっとして、この点滴薬の中にも。そう言えば、三郎が入所して二ヶ月と二日が経っていた。桜井氏の言っていた「魔の二ヶ月」とやらも過ぎた。この永久の荘では、三ヶ月を超えて生き長らえる人は珍しい。
「変わりがないと思っても、血液検査の結果は確実に悪くなっています。自覚症状が出る前に早め早めにお薬をね。」
 看護師は、そう言いながら点滴の留置針を管にセットする。ツーっと薬液が管の中を流れ落ち、針の先から一滴が滴り落ちた。
「いやだ、絶対にいやだ。点滴なんかしたくない。いやだー。」
 三郎の心臓はもう飛び出さんばかりにドクドクと脈を打ち、額から冷や汗が噴き出した。何とか逃れようともがくが、わずかに動く右腕以外は、ビクとも身体が動かない。まさにベッドの上で磔にされたまま、殺されるのか。
「まあまあ、飯野さんたら。まるで子供みたいに。」
 看護師は、ニコニコ顔で三郎の左の袖を腕まくりしていく。その時、三郎は、見た。看護師の口角が不吉な微笑でかすかにゆがむのが見えた。間違いない、黒だ。この看護師は何もかも知っている。この点滴の中身が何で、この薬液が三郎の身体の中に入ると何が起きるのかも、全て知っている。
「いやだー、死にたくない。」
 三郎の絶叫が室内にこだました。三郎は、右手で看護師の手を払いのけようとするが、すぐさまベッドの手すりに革ベルトで手際よく固定されてしまった。と同時に、三郎の左腕にヒンヤリとした脱脂綿の感触が触った。万事休す。
三郎は観念して静かに目を閉じた。三郎の脳裏に、死んだ母の顔、そして最愛の明子の顔、大樹の顔、裕樹の顔が次々と浮かんでは消えていく。どんなに覚悟を決めて入所したとはいえ、それでも死への恐怖は隠せない。ましてや、健一の言うとおり、嘘の診断書で始末されるなら死んでも死に切れない。事ここに至って、三郎の心に生への執着が芽生え始めた。
その時である。
「飯野さん、入浴の時間ですよ。」
 部屋に一人の介護士と思しき若者が入ってきた。その男は、看護師を押しのけるように三郎のベッドの脇に立った。
「な、何をするんです。」
 今まさに注射針を三郎の腕に刺し込まんとしていた看護師は、突然の邪魔が入ったことでムッとしてこの若者の顔をにらみつけた。
「飯野さん、入浴の時間はキチンと守って頂かないと。最近は入所者も増えてるんですから。」
 三郎は、その男の顔を見て、飛び上がらんばかりに驚いた。
「し、茂。」
 思わず男の名を呼び掛けようとしたが、そんな三郎に向かって茂樹は微かに目配せした。
「に、入浴って、あなた。点滴の方が先でしょ。」
「入浴が先に決まってるでしょう。最近は予約制になってるんですから。点滴こそいつだって出来るじゃないですか。」
 看護師は、茂樹を押しのけようとするが、茂樹と看護師では端から相手にならない。茂樹は問答無用とばかりに、看護師を突き飛ばすとあっという間に三郎のベッドを廊下に押し出した。
「あっ、ちょっと待ちなさい。ちょっと。」
 看護師が床に打ちつけた腰をさすりながら、やっとのことで起き上がろうとする間にも、茂樹に押された三郎のベッドは廊下の彼方に消えていった。

「茂樹、お前、また、どうしてここに。」
「詳しいことは後で。それより今はここからどうやって抜け出すかを考えなきゃ。」
 ベッドを押す間にも、茂樹は、三郎の左手首に巻かれたリストバンド外すと、廊下に止めてあった食膳用のカートの中に投げ込んだ。カートの中は今終わったばかりの昼食の食器や残飯で山のようになっていた。
「これで、しばらく時間が稼げるかも。」
 茂樹は、そう言いながら、ドンドン三郎のベッドを押し続ける。
「オーイ、いたぞ、こっちだ。」
トレースパッドを手にした数人のセキュリティーが、食膳カートを追って廊下を駆け下っていく。彼らは、三郎のリストバンドから発っせられる電波を頼りにして三郎の位置を確認していた。無論、そこにはバンドの主はいない。
三郎はベッドの上でホッと安堵の嘆息をもらした。間一髪、後少し茂樹が三郎のリストバンドを外すのが遅れていたら。そう考えただけで、背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。と同時に、茂樹の手際のよさに少なからず驚いた。
セキュリティーの足音が遠ざかっていくのを確認した茂樹は、ようやく人目に付きにくい談話コーナーの片隅に三郎のベッドを止めた。周辺には他に2台の電動ベッドと数台の車椅子、それに10人程の入所者が三々五々食後の雑談にふけっていた。
「茂樹、お前。」
三郎はようやく一息ついて、茂樹の顔を落ち着いて見ることが出来た。三郎が茂樹に会うのは実に三年ぶりのことであった。脳梗塞で倒れる前、まだ三郎が元気だった頃、いつまでも定職に就かずニート生活を送っていた茂樹を張り倒して以来のことであった。あの時に、茂樹は家を飛び出してしまい、それ以来、飯野家の敷居をまたぐことすらなかった。一体どこで何をしていたのか。
「親父、おれ今ここで介護士として働いてるんだ。」
「か、介護士?、でも、お前、そんな資格、いつどこで。」
「一年前さ。覚えてるか。三年ほど前、親父にぶたれて。あの時は、ホントにブッ殺してやろうかとも思ったよ。でも、あれから自分でもよく考えて、それで介護士の資格を。こんなダメ人間でも、心から喜んでくれる人がいる。そう思った時、いつの間にか介護士に。」
「そ、そうか。」
 三郎の声は、その後言葉にならなかった。3年ぶりに息子に会えたということもあったが、それ以上に、どうしようもないと思っていたダメ息子が立派に独り立ちしていたことが余程うれしかった。隠そうと思っても、次から次へと涙が溢れ出た。
「親父が、永久の荘に入所するって聞いて。ホントは免除申請したかったんだけど、今の俺にはまだそんな金もないし。それで、介護士としてここにもぐり込んで。親父が亡くなる前に、こんな俺でもしてやれることがあるんじゃないかって思って。」
「そ、そうか。」
 茂樹の話を聞いて、三郎の涙の量が倍増した。もう目が霞んで茂樹の顔すらハッキリと見えない。自分は茂樹のことを誤解していたのかもしれない。どうしようもないダメ人間と決め付けていた。茂樹、済まん。三郎は、その一言すら口に出せずにむせび泣いた。
「でも、親父。ここは大変なところだったよ。介護士の俺たちには正確には知らされてないが、
半年の贅沢三昧なんて嘘ばっかりだ。入所して二ヶ月もすると、元気な人が次々と悪くなって隔離棟へ送られて。」
「そ、そうか。お前もおかしいと思っていたのか。」
「ああ、でも確たる証拠もないし。もうしばらく様子を探ってと思ってた矢先に、親父の点滴騒ぎが。俺、咄嗟に思ったよ。今すぐ動かなきゃ大変なことになるって。」
 三郎は再び背筋に鳥肌が立つのを覚えた。恐らく、茂樹の判断は正しかっただろう。あの点滴の薬液が自分の体内に入っていたら、間違いなく自分は隔離棟へ。
「でも。これからどうするんだ。ここにいても、いつかは見つかる。」
「逃げよう。親父、とにかく、ここを出よう。」
「でもどうやって。」

2人がその答えを考えつく間にも、事態は急変していく。
「緊急連絡、緊急連絡。ベッド番号Dの7769、飯野三郎さんの行方が分からなくなっています。見つけられた方は、すぐに近くの係りの者までご連絡ください。繰り返します・・」
「ちくしょー。」
 茂樹は、そう言いながら、大急ぎでベッドを押し出した。たちまち、周囲にいた人々の視線が2人に注がれる。茂樹は、三郎のベッドを押して長い長い廊下を駆け下っていく。しかし、一体どこへ。その間にも、ベットを追いかけるセキュリティーの数はドンドン増えていく。
もうこれ以上、逃げ場がないと思った時、廊下の傍らからむんずとベッドの端を掴む手が伸びた。
「サブちゃん、早くベッドを降りろ。」
 見れば、杖を片手にした健一がしっかりとベッドの手すりを掴んでいた。
「お、おじさん。」
 茂樹が返答する間もなく、健一は三郎をベッドから引き摺り下ろした。腰から下が全く動かない三郎は、無残にも廊下の上に転がり落ちた。
「サブ、お別れだ。シゲ坊、サブのこと頼んだぞ。」
「お、おい。健ちゃん。おめえ、一体。」
 三郎の叫びが終わらないうちにも、あっという間に中山健一の身体は三郎のベットの上に転がっていた。そして、次の瞬間、健一は電動ベッドのアクセルレバーを力の限り押し倒した。
「おーい、こっちだ。こっちだぞー。捕まえて見ろ。バーカ。」
 三郎の身代わりに健一の乗った電動ベッドはみるみる小さくなっていく。
「親父、早く掴まれ。俺の背中に乗るんだ。」
 茂樹は、床に横たわる三郎を抱え起こすと、脇に手を回した。
「バ、バカな。健を置いて行けるか。おい茂樹、戻れ、早く、連れ戻しに行くんだ。」
「親父、分からないのか。中山おじさんの好意を無駄にするのか。」
「健はな、健はなー、俺に知らせに来てくれたんだ。知らせに。命を張ってだよー。それをみすみす置いて行けるかー。」
 茂樹は、泣きわめく三郎を無理やり背に乗せると、廊下の反対側に走り始めた。
「貴様と俺とは同期の桜、同じこの街の・・、元気でなー、健ちゃん。奥さんによろしくなー。」
 健一の歌う声がドンドン小さくなっていき、代わってセキュリティーのドヤドヤという足音が廊下をこだましていった。

 健一のお陰でわずかばかりの時を得た茂樹は、廊下の端まで来ると胸ポケットに入れてあったセキュリティーカードを壁際のリーダーに通した。カシャと電解錠の外れる音がして、ドアがすっと開いた。茂樹は、恐る恐るドアの向こうを覗き込んで、誰もいないことを確認すると一歩足を踏み出した。
 三郎には、初めて見る永久の荘の裏方の姿であった。整然と片付けられた表と違い、裏の廊下は雑然としていた。遥かかなたまで続く廊下には、数え切れないほどの電動ベットや車椅子、それに食膳カートやリネンカートが無秩序に並べてあった。
 茂樹は、とりあえず大きな食膳カートの陰に三郎の身を隠した。裏の廊下とはいえ、いつ何時別の介護士や看護師が来ないとも限らない。そんな連中に、万一三郎の姿が目に止まったら、全ては一巻の終わりである。
茂樹は、何とか人に見られずに三郎を運ぶ手段がないかを考えた。何しろ三郎は重度の身体障害者である。自分で歩くどころか這うことすら出来ない身である。その三郎を一体どうやって所の外へ連れ出せばいいのか。
その時である、ガシャと電解錠の外れる音がして、ドアが開いた。茂樹の心臓の音が一気に高鳴った。開いた扉の陰から、シーツを満載したリネンカートが現われ、続いてカートを押す介護士の姿が現われた。茂樹は、万一に備えて身構えた。しかし、次の瞬間、茂樹はホッと安堵の嘆息を漏らした。
「あ、茜。」
「あら、茂樹。どうしたの、こんなところで。それに、そんな怖い顔して。」
 淡いピンク色の介護服に身を包んだ小柄な女性介護士が笑顔で茂樹の前に立った。
「いや、丁度午後の入浴時間が終わったところで、ちょっと一息ついてたんだ。」
「大変でしょ。入浴介護の方は。力仕事だし。危険もあるし。」
 2人は、慣れた口調で声を交わした。
「ねえ、茂樹、今夜空いてない。私、丁度非番なの。」
「こ、今夜かい。」
 茂樹は茜から誘われて一瞬躊躇した。
「い、いや。今夜はダメだ。今夜は大事な用があって。」
「なーんだ。いつもそうなんだ。折角楽しみにしてたのに。」
 茜は少し膨れっ面をして見せた。茂樹は、茜が三郎のことに気付くのではないかと気が気ではなかった。とにかく、何とか早く茜をこの場から去らせなければ。
「明日ならいいよ。明日の夜、いつものところで、どう。」
 茂樹は口から出まかせの受け答えをした。どうせ、今夜三郎をここから助け出せば、二度とここへは戻れない。茜には申し訳ないが、いつかどこかで訳を話せる日も来よう。茂樹は胸の内で手を合わせた。
「明日、オッケー。いいよー空いてる。じゃあ明日ね。」
 茜は、小躍りしながら、大きなリネンカートを残して颯爽と戻って行った。
「ゴメン、茜。」
 茂樹は、茜の後姿がドアの向こうに消えていくのを確認すると、すぐさまリネンカートからシーツやタオルなどを投げ出し始めた。茜が、各入所者の部屋から回収してきたばかりのリネン類で、汗や汚物の匂いでムッとするほどに汚れていた。
「親父、少しだけ辛抱しろよ。」
 茂樹は、三郎を抱きかかえると、リネンカートの奥底に沈め、その上から悪臭の漂うリネン類を覆いかぶせ始めた。間一髪、ガチャリとドアの開く音がして別の介護士2人が入ってきた。
「いやあ、ひでえ匂い。おい、何やってんだ。こんなところで。」
「す、すみません。ちょっとリネンカートをひっくり返しちゃって。」
 茂樹は、大慌てでシーツを拾い集めるとカートの中に投げ込む。寸でのところで三郎の足がシーツの下に隠れた。
「気をつけろよな。新米さん。汚物を撒き散らすと、また消毒しなきゃならなくなるからな。」
 2人は、鼻をつまみながら、汚いものを避けるようにそそくさとその場を立ち去った。三郎と茂樹はやっと安堵の嘆息を漏らした。
「親父、少しの間、辛抱しろよ。このカートには誰も近寄って来ねえさ。」
 そう言いながら、茂樹はカートを押し始めた。
「おい、茂樹、いいのか。今の子、茜さんとかいったかな。」
三郎はリネンカートの中からカートを押す茂樹に声をかけた。
「いいのかって何が?」
「とぼけたってダメだ。好きなんだろう。あの茜って子が。」
「何言ってんだ、親父。そんな分けねえだろう。」
「いいや、声を聞けば分かるさ。済まねえなこんな老いぼれのためによー。」
「うるせーな、だから言ってるじゃん。関係ねえって。親父は少し黙ってろ。人が来るぞ。」
茂樹は黙ってカートを押し続けたが、カートの中の三郎の目に浮かんだ涙を一番よく分かっているのは茂樹自身であった。
「おい、そこのカート、ちょっと待った。どこへ行くんだ。」
廊下を中ほどまで進んだところで、今度は2人のセキュリティーに呼び止められた。三郎は思わず息を殺した。カートの薄いシートを通してセキュリティーらしい2人のシルエットが微かに見える。もうおしまいだ。カートのグリップを握る茂樹の両手にもねっとりと汗が噴き出した。そして、ついにセキュリティーの一人がカートの中を覗きこんだ。
「臭っせー。何だ、これ。」
セキュリティーは、そのまま顔をそむけて鼻をつまんだ。もう一人のセキュリティーが嘲笑するように言い放った。
「どうせ、ババアやジジイが吐いたり、漏らしたりしたアレだろう。アレ。」
その時、茂樹が口を開いた。
「す、すみません、リネン庫はどっちですか。僕、新米なもんで。」
「リネン庫ならあっちだ。臭えから、早く行け。」
茂樹はしめたとばかりカートを折り返し、グイッと力を込めて押した。
「全くとんでもない野郎だぜ。」
セキュリティーはブツブツ言いながら廊下を反対の方向へ去っていった。茂樹は大きな嘆息を漏らした。


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