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作品名:UBASUTE 作者:ツジセイゴウ

第5回   4 確信
「うーん、確かにおかしいですねー。」
 医師は、首をかしげながら2枚の検査結果表を見比べた。医師が手にしている片方は先日大樹がセカンドオピニオンを求めに来た際に持参したもので、もう片方はたまたま三郎が三年前に町ぐるみ検診の際に受けた血液検査の結果表であった。明子を手伝って家の中を整理していた時に、たまたま大樹の目に留まった。
「この前も言いましたように、血液検査の数値を見る限り明らかに肝機能の低下が見られます。それに白血球の数も増加している。確かに肝ガンの可能性は高いといえます。ただ、とても気になるのは、ほら、ここです。これを見てください。」
 医師が指差した、そこには総コレステロール「155」という数字があった。医師は人差し指を滑らせるようにして、3年前の検査表の数字を指し示した。そこには「263」という数字があった。
「この患者さん、お父さんでしたね、高脂血症のお薬を服用されてましたか。」
「高脂けっ・・?」
「高脂血症です。要するに血中のコレステロール値が高いんです。コレステロールが高いと脳卒中や心臓病を引き起こしやすいので、このレベルだと通常はコレステロールを下げる薬を処方する場合が多いんです。」
「母に聞いてみないと確かなことは。ただ、多分そのような薬は飲んでなかったと思います。それで一昨年脳梗塞で倒れちゃって。」
「そうですか、やっぱり。」
 医師は、再び二枚の検査結果表をしげしげと見比べながら、眉をひそめた。
「で、もし、薬を飲んでなかったとしたら・・・」
「通常、血中のコレステロールの値は遺伝によって決まります。つまりご家族の中にコレステロール値の高い方がおられると、その子供もコレステロール値が高くなります。もちろん日常の食事や運動によってもコレステロール値は下げることが出来ますが、値が100も下がるというのは何か積極的な治療をしない限りありえないと思います。」
 医師の口からは相変わらず歯切れの悪い説明が続く。大樹は、こめかみの辺りが少しイライラしてくるのを覚えた。
「こんなこと、私の口から申し上げてよいのかどうか。ただ、この2枚の検査表を拝見する限り、こちらの方と、こちらの方は別人としか思えな・・・」
 その瞬間、大樹は頭の中が真っ白になった。2枚の検査結果表が別人のもの。大樹は医師の手から2枚の検査結果表をむしり取るように手にすると、一番上の氏名欄を確認した。そこには紛れもなく「飯野三郎」という文字が印字されていた。
「ま、まさか。」
 その時、大樹の脳裏にある恐ろしい考えが浮かんだ。

永久の荘、食堂。
「飯野さん、何かおかしいと思いませんか。」
「おかしいって、何が。」
 三郎と桜井友男は二人並んで食事を取っていた。三郎は特段桜井氏に好意があるわけではなかったが、桜井氏の方はいつも三郎の脇に擦り寄ってきた。どちらかというと人当たりのいい三郎は、付き合い下手の桜井氏にとっていい話し相手だったのかもしれない。
 桜井氏もそんなに悪い人ではないのだか、時折人目を憚るように声を落として耳打ちするようにしゃべる仕草が三郎には気になっていた。桜井氏がそのような話し方をする時は決まって悪い話であった。
「旅立ちの日まで半年のはずなのに、ここじゃ入所5ヶ月を超える人についぞ会ったことがない。こんなに多くの人がいるのに、ですよ。」
 確かに、桜井氏の言うとおりであった。少なくとも三郎がいつも話をしている入所者のほとんどは長くても入所4ヶ月目、旅立ちの日を目前に控えた人はまず見たことがない。
「それは、入所者の皆さんが多かれ少なかれ重い病気を抱えて入ってこられるからでしょう。かく言う私も肝臓にガンがあって半年持つかどうかって言われてきました。余命が少ないと言われて来ている人ばかりだからでしょう。」
「確かにそれも一理ある。私も胃ガンであと3ケ月持つかどうかと言われて来た。ただ、それにしたって、半年持つ人が一人もいないなんてありえないんじゃないですか。一人ぐらい天寿を全うする人がいたっておかしくはない。」
 三郎は、桜井氏の言わんとするところを測りかねていた。というか、これまでそういうことを考えたことすらなかった。ただ、改めて言われてみると気になることもある。
 第一に、自分でも信じられないくらいに体調がよい。末期の肝臓ガンであれば、そろそろ微熱や食欲不振、それに黄疸やガン特有の疼痛が始まってもおかしくはない。しかし、今の三郎は食欲もますます盛んで、これまで全く動かなかった左手も少しずつ動くようにすらなり始めていた。
 最初は、この施設のケアがいいからだろうと信じていた。末期のガン患者に幸福のうちに旅立ってもらうため、恐らく最善の治療が施されているのであろう。だから、微塵の症状も出てこないのだろうと思っていた。
「旅立ちの日が近くなると精神的に不安定になるので隔離している可能性も考えられる。いくら十分考えて納得の上で入所したといっても、所詮は刑の執行を待つ死刑囚のようなもの。後2ヶ月、後1ヶ月などと指折り数えていたら頭もおかしくなる。」
 三郎は改まって言われてドキリとした。どうせ、自分は最後まで持たないだろうと思って入ってきた。ただ、今の調子だと6ヶ月持ってしまうかもしれない。果たして期間満了の日、自分は平静のまま旅立ちを迎えられるのであろうか。そう考えると、三郎は背筋がうそら寒くなるのを覚えた。
 桜井氏は、何かをじっと考えるように、湯飲みを口に近づけた。その時。
「ぐわーっ」
 桜井氏が急に腹を抱えて苦しみ出した。
「桜井さん、桜井さん、大丈夫ですか。」
 三郎は、桜井氏の突然の急変に慌てふためいた。自分は寝たきりで助け起こすことすら出来ない。自分に出来ることは、とにかく出来る限り大声を出して助けを呼ぶことくらいである。
「誰か、誰か来てください。」
 異変に気付いて、すぐに近くにいた2人のヘルパーが駆け寄ってきた。その間にも桜井氏の容態はどんどん悪くなっていく。腹を抱えたまま、時折吐きそうな声を喉の奥から絞り出している。すでに口角からは白い泡も吹き出し始めた。
「げーっ。」
 その時、桜井氏はつい先ほど食べた物に併せて、これ以上はありえないというほどの大量の鮮血を床の上に吐き上げた。
「キャーッ。」
 ヘルパーの一人が顔を背けて尻餅をついた。その間にも、桜井氏は小刻みに痙攣を起こし始めた。素人目にも重篤な状況であるのはハッキリと分かった。
 ようやく懸かり付けの医師が駆けつけた。この施設では、こうした緊急時に備えて各棟に医師が常時待機しており、何かあれば確実に5分以内に駆けつける体制が出来ていた。
「ガン性潰瘍からの大量出血の可能性、緊急手術の準備を。」
 ガラガラガラとストレッチャーを押す音が近づいてきた。その間にも、桜井氏の意識は次第に薄れていく。抱きかかえられてストレッチャーに載せられる桜井氏が、苦しそうな息の中でかろうじて最後に発した言葉は。
「飯野さん、私の言ったとおりでしょ。気をつけなさ・・・」
 言葉を最後まで言い切る前に、桜井氏は再び大量の血を吐いた。やがて氏の右腕はダラリと力なくストレッチャーの外に垂れ出した。あっという間もなく、ストレッチャーは医師や看護師とともに病院棟の方へと走り去った。
 その日の夜、三郎はなかなか寝付けなかった。昼間、桜井氏が吐いた大量の血を見てしまったこともあったが、それ以上に氏が最後に残した言葉のことが気になっていた。「気をつけなさ・・」とは、どういうことか。
 桜井氏は、何か今日の出来事を予感していたような口ぶりであった。それに、これまでの経過を見ても、桜井氏に胃ガンらしき症状はあまり見られなかった。食欲もあり、すこぶる元気であった。なぜあんなことが。これは、昼間桜井氏が話していたことと何か関係があるのか。三郎は入所2ヶ月目の最初の日を言い知れぬ不安を抱えたまま終えた。

飯野家。
「何だって、そ、それってどういうことなの。」
 大樹はついに明子に例の件を打ち明けることにした。三郎の健康診断結果表の数字が間違っていた。死んでも明子にだけは言うまいと思ってきたこの秘密を今敢えて明子に話すにはそれなりの訳があった。
 明子は、最初大樹の言っていることがよく理解できなかったようである。しかし、それが健康診断表の人間違いの話だと判り始めた時の明子の動転はとても言葉に言い表せたものではなかった。両の手はプルプルと震え、入れ歯がガチガチと音を立て鳴った。
「どうしましょう、もしそれが本当だったら。私、お父さんにとんでもないことをしてしまったことになるわ。どうしましょう。」
 明子は、三郎の入所申請書を市役所に出しに行く前の夜のことを思い出していた。
「どうせ、あと半年持たないんだ。遅かれ早かれだ。それだったらせめて最後の半年くらいは・・・」
 明子の脳裏に、しゃがれた三郎の声が何度となく蘇った。あの夜、三郎に懇願されて申請書の提出を決めたのは明子であった。無論、三郎も自分の寿命を知った上での覚悟であった。それが、間違っていたかもしれないとは。
「ど、どうしよう。大樹。ねえ、どうしたらいいの。」
 大樹はやはりよせばよかったと思った。明子の動揺ぶりは尋常ではなかった。下手をすれば三郎の後を追ってよからぬことを考えるかもしれないとの不安がよぎった。
「永久の荘は一度入所してしまうと入所の撤回は絶対認められない。入所時点で戸籍も抹消され、文字通り死別したのと同じ扱いになる。でも、その意思決定の前提となる情報に重大な間違いがあれば、取り消すこともできるかも。いや出来る、絶対に。」
「ねえ大樹、お願い。何とかお父さんを取り戻して。お願いだから。でないと私、死んでも死に切れない。」
 明子はワーッと泣き崩れた。
「母さん、とにかく落ち着いて、最後にがんセンターの先生の話を聞いたときのことをもう少し詳しく話してくれないかな。」
 大樹は、三郎が最後の告知を受けた際の様子を克明に知りたかった。一体、どういう話がなされ、そしてどういう意思決定がなされたのか。それが分からなければ、話の持ってゆきようもない。しかし、明子の悲鳴はなかなか止みそうになかった。
 その時である。電話の呼び鈴がけたたましく部屋の中に鳴り響いた。大樹はタイミングを逸らされた気がして少しイラッと来た。しかも明子はとても電話に出られそうな状況ではない。仕方なく、大樹は受話器を上げた。
「もしもし、飯野です。」
「おう、大樹か。元気か。」
 大樹の耳元で聞き覚えのある声がした。
「と、父さん。」
 最悪のタイミングであった。大樹は一瞬言葉を失った。何をどう話せばいいのだろう。まさか健康診断表が間違っていたなどとは口が裂けてもいえない。いずれは話すにしても、今はその時ではない。
「げ、元気?」
 大樹は、とりあえず平静を装ってありきたりの問いを投げかけた。
「ああ、元気だ。ちょっと最近食欲が落ちたかなっていうくらいだ。医者は抗がん剤のせいだろうって。まあ、末期のガンにしては上出来の部類だ。」
 三郎の声は明るかった。明子から聞いていた通り、三郎は肩の荷を下ろしたかのように楽しそうに話をした。とても半年後に死を迎える人の声には思えなかった。
「そ、そう。よかった、元気そうで。」
「どうした、大樹。何か元気がないな。」
 大樹はドキリとした。離れていてもさすが実の親である。大樹の言葉の端に隠れた陰をすぐに聞き分けた。
「いや別に、そんなことはないさ。ちょっと風邪を引いただけで。」
「そうか、それならいい。ところで母さんはいるか。ちょっと代わってくれ。」
 大樹はまたドキリとした。明子はすぐ隣にいた。大樹は大慌てで受話器の口を手で塞いだ。
「か、母さんは、今ちょっと買い物に出かけていて。それで僕が代わりに留守番を。」
「そうか。変なやつだな、お前は。俺があんまり元気なんでビックリしたのか。」
 電話の向こうで三郎の笑い声がした。
「まあ、いいや。母さんが戻ったら伝えてくれ。夕方また架けるって。」
 やがて電話の切れる音が耳に届いた。大樹はやれやれとばかりに大きな嘆息を漏らした。もし明子の泣き声が先方に伝わっていたら。そう思うと、改めて背中にじっとりと脂汗が浮かぶのが分かった。
「父さんからだったよ。元気そうだった。やっぱりガンというのは間違いなのかも。」
 その一言で明子の泣き声がまた高まった。
「母さん、分かったから。とにかく泣いてないで、お医者さんの話を。」
 大樹の再三の問いかけに明子はようやく重い口を開き始めた。
「難しいことはよく分からなくて。だってがんセンターでも一番の偉い先生だとか。そんな先生に話をされたら誰だって信じちゃう。」
 そこで明子はまた泣き崩れた。
「わかった。わかったから。それでレントゲンとかMRIの写真は?、見たの?」
 どうしても詰問調になってしまう。明子は黙って頷いた。
「で、どんな説明があったの。」
「よ、よくは覚えていない。この白い陰がガンだって。それしか。後は手術はもう出来ない、よくて半年だとか。ワーッ。」
 明子はまた声を上げて泣き出した。これでは会話にならない。やはりもう一度国立がんセンターに行くしかない。行って、もう一度よく話を聞くしかない。人一人の命が掛かっているのである。

「飯野さん、また残しちゃったんですね。」
「すみません。あまり食欲がなくて。」
「いいんですよ。気にしなくて。一度先生によく見てもらいましょうね。」
 ヘルパーは食器を片付けながら笑顔で答えた。
 入所して1ヶ月と10日、三郎は初めて体の不調を感じた。食欲が落ち、身体も何となくだるく感じるようになった。これまでは、もの珍しさも手伝って、電動ベッドを操作しながら所内をあちこち行き回ったり、温泉に一日2回も入ったりと、精力的にここでの生活をエンジョイしてきた。
 しかし、先週あたりから急におかしくなり始めた。これが桜井氏が言っていた『魔の二ヶ月』というやつかもしれない。そう、ここへ来る人は大抵が重い病気を抱えてくる。入所して半年持てばいい方なのである。自分だって、脳梗塞に肝臓ガン、これまで何もなかったことの方が不思議なくらいであった。
 三郎は、そっとベッドに背をもたれかけさせてため息をついた。その後桜井氏はどうなったのか。何の知らせもなかった。うるさく付きまとわれていた時は鬱陶しく思えた人の顔が妙に懐かしく、気になった。これも魔の二ヶ月のせいかもしれない。
 しかし、三郎にはもっと気になることがあった。桜井氏が運ばれてゆく直前に微かに口にした言葉。確かに彼は「気をつけなさい。」と言った。一体何に気をつけるのか。身体に気をつける?、そんなことは当たり前のことである。彼の言葉にはもっと意味深長の響きがあった。
「まさか。そんなことは。」
 三郎は、その言葉の意味をあれこれ推測するうちに、ある恐ろしい結論に行き当たった。


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