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作品名:偽装過疎 作者:ツジセイゴウ

第7回   廃坑
 一ヶ月後。
「こ、これは大変な値だ。」
 隆は思わずつぶやいた。隆の手にはこの前の水質検査の結果表が握られていた。デスクの上には、今封を切られたばかりの東京化学大学環境化学研究所の封筒が置かれていた。
「どうだったの。」
 傍らから心配そうに彩が覗き込む。
「大変な量のビスフェノールAだ。」
「ビスフェ?。」
「そう、ビスフェノール、有機系の樹脂ポリカーボネイトから溶出することが確認されている。プラスチック製の食器等に使われていたが、生殖機能に影響が出るとの報告が出されて後、使用禁止になっている。WHO(世界保険機関)が定めた一日許容摂取量は十ピコグラムだが、この村の水はその値の千倍近い濃度になっている。」
 彩は目を皿にして隆の話に聞き入っていた。
「前にも言ったけど、この手の環境物質はほとんど色も臭いもない。だから毎日摂取していても全く気が付かない。でもどんな微量でも十年、二十年と摂取を続けていると、分解されずに少しずつ人体に蓄積していって、何十年かの後にその影響が体に出てくるんだ。この村の人は、そうまさに知らず知らずのうちに、このビスフェノールを大量に摂取していた可能性がある。」
 彩は気が遠くなりそうになるのをじっとこらえて、聞き返した。
「でも、そんな恐ろしい物質、どうして役場の水質検査で見つからなかったのかしら。」
「恐らく、最初から検査基準のリストに載っていなかったんだろう。だってあの取水口から奥には人家もないし、そんな化学物質が混入するはずもないからね。」
 隆は、そう言う尻から、自らが矛盾したことを言っていることに気付いた。本来あるはずのないものが、実際にはあったのである。検査結果の数字は曲げようもない事実であった。
 しかし、取水口は深い森林の奥の清水である。全てが矛盾だらけであった。診察室には重苦しい空気が漂った。隆も彩も押し黙ったまま、放心状態で中空を見つめていた。どのくらい経ったであろうか。最初に口を開いたのは彩の方であった。
「山の祟りだわ。」
「山の祟り?」
 隆は思わず聞き返した。
「昔、じいちゃんがよく話してくれた。銀山が出来てからというもの、多くの村人が原因不明の病気で死んだらしいの。もう百年以上も前、明治の頃の話らしいんだけど。村の人たちは、山から銀を掘り出したりするから山の神が怒ったって言って。でも、後でそれが銀の鉱毒によるものだとわかって。それからは、国が厳しく鉱毒の垂れ流しを規制したお陰で、病気も徐々に減って。」
 鉱毒被害は、鉱山には付き物である。足尾銅山の鉱毒事件はあまりに有名である。富国強兵の時代に住民の健康を顧みず、鉱毒を垂れ流し続けたことが原因で多くの悲劇が生まれた。この平和な村にもかつてそのような痛ましい事件があったということは、隆も今初めて聞いた。
 しかし、銀山は四十年前に閉山になった。それに彩が言うように、百年も前に鉱毒の垂れ流しを国が規制したとなると、それが原因でもなさそうである。とすると、彩が言うように本当に山の神の祟りなのかもしれない。しかし、そのような迷信が今の社会に通じるはずもない。きっと何か原因があるはずである。
「山の祟りか、祟り……。」
 隆は、彩の言葉を何度も口の中で繰り返した。そして、思い出したように手を打った。
「そうか山か。原因は山にあるかもしれない。あの山の中には、銀山の廃坑が網の目のように張り巡らされているはずだ。何しろ、ホテルやコンサートホールが出来るほどの広さだからね。きっとこの中に何かあるんだ。僕たちもまだ知らない、何かの秘密が。仮に山の中に何か原因物質が存在していたとしたら、雨水に混じってそんな物質が染み出してきたとしても不思議じゃない。そう、山だよ。答えは山の中にあるんだ。」
 隆は目を輝かせて叫んだ。傍で聞いていた彩は、自分の話が隆のヒントになったことで、内心嬉しそうに微笑んだ。
「でも、どうやって廃坑の中に入るんだ。入口はあの変な連中が占領しているし。」
 隆は途方に暮れた。先日往診に行った時に見たように、銀山の廃坑にアクセスするには二重のゲートを通らなくてはならない。一度は銀山跡地への入口、そして今一度は廃坑への入口。いずれも硬い鉄製の扉で閉ざされている。工事現場の人足に見られずに中に入るのは至難の業である。よしんば中に入れたとしても、縦横に張り巡らされた廃坑の中を道に迷わず行き来することなど神業としか思えなかった。隆は、自らの無謀な考えに絶句して、大きな吐息をついた。
「大丈夫、秘密の入口があるわ。」
 その時、彩が快活な声を上げた。
「秘密の入口?」
「ええ、落盤事故等に備えて、鉱山には非常用の出入口があるの。この前行った取水口からもう少し上の方に古い入口があるわ。昔、子供の頃よくイタズラをしに入り込んで、両親に怒られたわ。もしものことがあったらどうするんだってね。」
 彩は探検心旺盛ないたずらっ子のように目を輝かせた。
「でも中は真っ暗だろう。道に迷ったら出てこられなくなる。危険すぎる。」
「大丈夫よ。子供の頃、毎日のように遊びに行っていたから。親の目を盗んでね。皆で秘密の地図まで作ったりして。一度は表の入口まで来ちゃったりしたこともあるわ。目隠ししてても大丈夫よ。」
「目隠し?」
 隆は思わず吹き出した。どの道真っ暗な廃坑の中で、目隠しも何もあったものじゃない。隆が大笑いしたため、彩も自らの失言に気がついて思わず笑い出した。

 三日後の日曜日。
 二人は廃坑内への突入を試みることにした。二人は簡易なケービングスタイルに身を包み、診療所の前で落ち合った。坑内は夏とはいえ気温は十度前後である。薄手のセーターを着込んだ上から黄色のヤッケを身に着け、足にはゴム長靴を履いた。どこで用意したのか、彩は電球のついたヘルメットを二つ用意していた。さらに万一に備え、予備の懐中電灯を二つリュックの中にしのばせた。
「これが坑内の地図よ。ちょっと古いけど。」
 彩が隆に手渡した紙には、子供の字で坑道の絵地図が書かれていた。恐らく彩が小学生の頃に廃坑の中に入っては、少しずつせっせっと書き溜めたものなのであろう。
「もう十何年ぶりだから。でも中に入ればすぐに思い出すと思うわ。」
 彩の目は、まるで秘密の宝探しにでも出かけるかのように、イタズラっ気たっぷりに輝いていた。
 廃坑の中は、幾重もの階層構造となっており、各階へはエレベーターか階段で移動するようになっていた。縦横に無数の坑道が走っており、ところどころ行き止まりとなっている。
「この地図はかなりラフなもので、実際はもっと複雑よ。」
 そうであろう。銀山自体は江戸時代の昔から既にあったという。近代的な採掘が始まったのは明治になってからであるが、それでも優に百年近くは掘り続けられたのである。こんな一枚の紙では到底その全てを書き表すのは無理であろう。しかし、こんな簡単な地図でもこの際とても貴重な情報である。二人は意を決するかのように深呼吸すると、山への道を歩き始めた。
 取水口まではこの前も歩いた道程である。厚着をしていたせいか取水口の辺に着く頃には、びっしつりと背中に汗が噴き出ていた。二人はとりあえずヤッケを脱いで、取水口のところで一休みした。透き通った清水は相変わらず滾々と湧き出てきている。この水にどうしてそのような怪しげな化学物質が混入してしまったのか。二人は改めて不可解な気持ちに包まれた。
 五分ほど休んで、二人はつづら折れの道をさらに上流へと上る。道は一層細く険しくなり、両側から生い茂る夏草に覆い隠されてしまうのではないかと思われる程である。この辺りまでくると、もはや山菜採りの村人か物好きなハイカーくらいしか入り込まないのであろう。谷の流れは、いつしか見下ろすほど下の谷合いへと深くなり、沢を流れる水音も次第に小さくなっていった。
「あの辺りだわ。」
 歩き始めて十分、彩は山の急斜面を指差した。銀山跡地とは丁度山を挟んで反対側くらいの見当である。ハイキング道から数メートルほど上った場所に秘密の入口はあった。生い茂る木々に隠されて下からでは全く見えない。彩のような勝手知ったる人の案内がなければ、入口に辿り着くことすら覚束ない。二人は下草を掻き分けながら斜面を上った。
 入口は至って簡素であった。崩落を防ぐためであろう、苔むしたコンクリートで簡易に斜面が支えられ、さび付いた鉄格子の扉が付けられていた。扉越しに中の様子を窺うが、一メートル先はもう漆黒の闇であった。もともとこの場所自体か陽の光が届かない裏斜面である。勝手口は表玄関とは比較にならないほどみすぼらしく寂れたものであった。
 扉にはこれまた恐ろしく朽ち果てたプレートが貼り付けられ、「危険、立入禁止」という文字が辛うじて読み取れた。扉には鍵がついていたが、恐らく壊れているのであろう、扉はキイッという音とともに内側に開いた。
 二人は腰に巻いていたヤッケを羽織り直し、ヘルメットの電球を点けた。無言のまま顔を見合わせると、互いの意思を確認し合うかのようにしっかりと頷いた。こういう場面では普通は男が先に中に入るものだが、この場は彩が先に立って中に入る。隆もすぐに後に続いた。
「きゃー。」
 しかし、一メートルも進まないうちに、彩はいきなり大声を出した。続いて一歩を踏み込んだ隆はギョッとして足を止めた。彩は額からしきりに何かを拭い去るような仕草をしたかと思うと、蜘蛛の巣が一杯巻き付いた手を、ゴメンナサイとばかりに隆の目の前に差出した。
「僕が先に行こうか。」
 隆は思わず彩の前に立とうとしたが、彩はここは自分の城よと言わんばかりに隆を制した。二人は蜘蛛の巣をゆっくりと掻き分けながら奥へと進む。一瞬にして坑内のひんやりとした空気が噴き出た汗を消し去った。
 坑内は思ったよりも狭かった。少し背を屈めないとヘルメットがごつごつと天井に当たる。道幅も一メートルほどで二人並んで歩くのは難しい。足元は比較的平らであったが、ところどころ崩れ落ちたと思われる岩が転がっていて、うっかりすると躓きそうである。 
 二人は慎重に壁や天井を観察しながら、奥へと足を進める。粗削りの岩肌がライトに照らされて怪しく輝く。五メートルも進むと、辺りは完全な闇と化した。後ろを振り向くと、先程入ってきた入口が異様に明るく輝いて見えた。隆は、これほど光が有り難いと思ったことはなかった。ここから先はライトから照らされるわずかな光だけが頼りである。
「昔と全然変わっていないわ。」
 彩は懐かしそうに湿った壁に手を当てると、その感触を楽しむかのように指を動かして見せた。
「狭いのはこの辺りだけ。もう少し行くと広い坑道に出るわ。」
 隆はやれやれと思った。こんな中腰で長時間歩くのは大変である。探検どころではなくなる。五分ほど経ったであろうか。次第に目が周囲の暗闇に馴染んでくると、おぼろげながら坑道の内部が見えるようになってきた。ごつごつとした岩肌が剥き出しになり、ところどころ天井から水滴が壁を伝って落ちていくのが見える。
 坑道は次第に大きくなり、ようやく真っ直ぐ立ったままでも歩けるようになった。丁度その時である。道はポッコリと大きな坑道に出くわした。これまで歩いて来た道とは比較にならないほど大きな坑道には、鉱石を搬出するトロッコのものと思われるレールが敷かれていた。
「メインストリートよ。」
「メインストリート?」
「そう、銀山の各階にはこうしたレールの敷かれた大きな道が何本か走っていて、そこから両側に実際に鉱石を掘る支道が伸びているの。丁度魚の骨のようにね。」
 彩はまるで鉱山ツアーのガイドのように胸を張って説明する。なるほど坑夫たちは、めいめいこの支道の中に入って鉱石を掻き出し、それをこの本道のトロッコに投げ込んだのであろう。トロッコが一杯になるとさらに大きな坑道まで牽引していくのである。
「この坑道が「五のハ」だわ。つまり五階のハの通りということね。」
 彩が懐中電灯で照らし出した壁には鉄のプレートが打ち付けられ、ほとんど消え入りそうな字で「五のハ」と書かれていた。なるほどこれなら小学生でも道に迷うことはあるまい。ここは天然の洞窟ではない。かつて何千人もの坑夫が働いた人工の穴である。この道標さえしっかり押さえておけば、外界に戻れるのである。隆はようやく彩たちが子供の頃どうやって迷わずに廃坑の探検をしたのかが分かった。秘密の出口に通じる暗証番号は「五のハ」である。


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