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作品名:偽装過疎 作者:ツジセイゴウ

第5回   5
 翌日から隆と彩は村の青年たちに精液調査への協力を呼びかけ始めた。夜、男たちが仕事から戻る時間を待って、一軒一軒家を回って、調査の趣旨を説明して回る。しかし、青年たちの反応は芳しくなかった。村の男たちは、検査の結果異常が判明することを怖れていた。
「困ったわね、今日までに協力を申し出てくれのはたった二人。」
 彩はため息を吐きながら呟いた。隆も予想外の障害に直面し、困り果てた。昔から子供が出来ないのは嫁のせいと言われてきた因習深い村で、男の方が原因で子供が出来ないということが発覚するということは、男のプライドが傷つくばかりか家の恥にすらなる可能性があった。このような狭い村にあっては、家系の中から病人が出たといえば、たちまたその噂は村中に知れ渡る。プライバシーも何もあったものではなかった。
「そうだ、この手を使おう。」
 一頻り思案に暮れていた隆は、やがて意気軒昂してロッカーの中をまさぐり始めた。隆は一体どうするつもりなのか。彩は傍らから隆の様子を覗き込むように見ていたが、隆が取り出した物を見て顔を背けて絶叫した。
「何、先生、これ。やだ、先生ったらいつもこんなものを。」
 隆の手には「淫乱教師の濡れ授業・女医さんの秘密診察室」というタイトルの書かれたビデオが二本握られていた。
「い、いや、いつも見てるわけじゃ。」
 隆は少し赤面しながら頭を掻いた。しかし彩は許してくれなかった。
「だめです。絶対だめ。」
「でもこの際仕方ないだろう。村の若い人たちに集まってもらうためには、こうでもしなきゃ。いいかい、これはれっきとした調査なんだ。」
 隆は大真面目で彩の説得を続ける。
「知りません。やりたければお一人でどうぞ。私は絶対いやですから。」
 彩は、顔を真っ赤にして診察室を飛び出してしまった。
「純真な乙女には、少し刺激が強すぎたかな。」
 一人残された隆は、苦笑しながらビデオ上映会の案内を作成し始めた。そして今一度、一軒一軒の家を回って改めて説得を続けた。被験者のプライバシーが絶対に守られることも併せて説明する。
 やはり男というものは助べえであった。この前は聞く耳持たぬという風であった男たちも、何人かは調査への協力に同意した。中には親や新妻には内緒にすることを条件に応募してくる者もいた。不思議なもので一人が手を上げると後は簡単であった。噂は人伝に伝わり、今度は自ら協力を申し出る者も出てきた。このような村では、仲間の行動に乗り遅れる方が問題となることが多い。結局、一週間で応募者の数は七十名を超えた。

 ビデオ上映会当日、夜七時過ぎに早くも会場の診療所に村の男たちが集まり始めた。診療所にはかつて入院病棟があり、その病室は今では村の青年団の集会所になっていた。上映会は午後八時からというのに、会場は既に人の熱気でムンムンしていた。
「おら、アダルトビデオなんて初めてだ。」
「おらも、五年前盛岡で一度見た切りだべ。」
 さすがに今では村のどの家にもビデオくらいは置いてあったが、村には映画館や貸しビデオ屋はなかった。アダルトビデオを目にする機会など滅多になかった。若者たちはこれから始まるビデオに思いを馳せて、早くもその話で持ち切りになっていた。
「では皆さんいいですか。上映中に我慢できなくなった人は、部屋を出てご自分でこの容器にアレを採って下さい。間違っても飛ばし過ぎて溢さないように。」
 部屋の中に若者たちのどっという笑い声が響いた。隆は一所懸命に精液の採取の仕方について説明を続ける。しかし、当の被験者たちは上の空で、ビデオ映像機の方に見入っていた。
「取り終わりましたら、容器に貼り付けてあるラベルに名前と年齢を記入して下さい。こぼれないようにしっかりと蓋を閉じて、受付に置かれた箱の中に入れて下さい。宜しいですね。では始めます。」
 隆の合図で電灯が消され、ビデオの上映が始まった。部屋の中は一瞬にして水を打ったように静まり返り、ゴクリという喫唾の音までがはっきりと聞こえた。
 始って間もなく、映像は早くも淫らな映像に切り替わった。この種のビデオは大抵はまともなストーリーもなく、最初から淫乱な場面が連続する。若者たちは食い入るように画面に釘付けになった。  
 一方、隆はというと壁に背をもたれかけさせたまま、立ってビデオの画面を見詰めていた。その時、隆はふと入口の扉が十センチ程開いていることに気付いた。わずかに開いた隙間から覗き込むその目は明らかに彩のものであった。あんなに軽蔑していた当の本人が覗き見とは。怖いもの見たさであろうか、それとも本当は根っからの助べえ?……。隆はそんなことを想像して、思わず笑いが込み上げるのをぐっとこらえた。そうこうしているうちに、画面は早くも絶倫の域に入っていく。
「ああ、おらもうだめだ。」
 始ってまだ二十分も経っていないというのに、もう一人が立ち上がった。
「お、おらもだ。」
 続いてまた一人、そしてまた一人と、容器を片手に慌てて廊下へと出て行く。診療所のトイレは瞬く間に若者で一杯になり、ある者は廊下の隅で、またある者は診療所の外へ飛び出し、めいめいの場所で昇天した。
 そして、三十分後には部屋の中は隆を残して誰もいなくなった。隆がビデオの前に進み出ようとしたその時、プチリという音とともにビデオの画面は真っ暗になった。隆が驚いて振り返ると、そこにはリモコンチャネルを片手に構えた彩が立っていた。
「あり、まんだ途中だども、何で切ってしまうだ。」
 最初に部屋を飛び出して行った若者が戻ってきた。続いて一人また一人、精液採取を終えた若者たちが部屋に戻ってきた。皆、真っ黒になった画面を見て、口々に騒ぎ始めた。
「ハイ、皆もう済んだでしょう。ビデオはもうおしまいよ。」
 部屋の中に彩の甲高い声が響く。
「おや、彩ちゃんでねえか。何で切っただ。」
「健全な若者はこんなもの見ないの。さあ、帰った帰った。」
 彩はどっかとビデオの前に立ち塞がって、若者たちを追い返す。彩に追い立てられた若者たちは、文句を放れつつもすごすごと引き下がっていった。若者たちが全員帰って行くのを確認した彩は、ビデオテープをデッキから抜き出すと、声を強ばらせて隆に告げた。
「先生、これは明日処分させて頂きます。診療所には二度とこういう淫らなものは持ち込まないようにして下さい。」
 彩があまりに大真面目に言うのを聞いて、隆は思わず吹き出しそうになった。

 三日後の朝、隆はゴーゴーという大きな音に揺り動かされて目が覚めた。休診日ということもあり、朝寝坊を決め込んでいた隆は思わぬ邪魔物に跳び起きた。
「先生、お目覚めですか。」
 隆が目を覚ますのを待っていたかのように、女将が襖の向こうから声を掛けた。
「一体何ですか、この騒ぎは。」
 隆は襖を開けるや、朝の挨拶も忘れていきなり問い掛けた。
「工事が始まったんですよ。」
「工事?。」
「そう、何でもマインランドの建設とか。」
 隆は、ああと思った。つい一ヶ月ほど前、村長室で見たあの計画が早くも動き始めたのである。村長は結局、あのベンチャー企業の計画を承諾したのであろう。過疎を食い止めるには他に道がなかったのかもしれない。
 しかし、この静かな村がニ〜三年後は岩手でも指折りのリゾート地になってしまうのかと思うと寂しい気もした。過疎地の医療を志してこの地に移り住んだ隆であったが、原因不明の不妊騒ぎといい、訳の分からぬレジャーランド建設といい、物事は隆の思いもよらぬ方向に進んでいた。
 朝食を済ませた隆は、女将の案内でその工事現場を見に行くことにした。工事現場は昔の銀山の廃坑跡で、村の中心からは歩いて十五分くらいの谷間にある。二人は村の裏手に回り込み、沢沿いの砂利道を山に向って歩く。道はゆっくりと上り坂になり、沢を流れる水音が次第に大きくなった。
「今度の工事のために、人足さんが二百人も移り住んだそうです。こんなに一遍に人が増えたのは、銀山が閉鎖になってから初めてのことですわ。工事が本格化すれば、まだまだ人足さんの数が増えるとか。村長さんも役場の方々も、過疎が止まるって、そりゃあ大喜びです。」
 女将は息を弾ませながら説明する。
「そうですか。でも私はそういうのはどうも。折角静かないい村だと思っていたのに。」
 そんな隆の言葉をかき消すように、パッパーという警笛の音がしたかと思うと、巨大なダンプカーが二台、後ろの方から近付いてきた。二人が慌てて沢沿いに身を寄せると、ダンプカーはもうもうとした土煙を上げながら、二人を追い越して行った。山間の寒村が、いつの間にか騒々しい街へと変化しようとしていた。
「でもよかったですね。これで旅館の経営の方は随分とよくなるんじゃ。私も今日からは、特別室から布団部屋に引越ししますから…。」
 隆は、女将に気遣ってニッコリと微笑んだ。しかし、女将の反応は意外なものであった。
「それがそうでもないんですよ。人足さんたちは、村中には住まないらしいんです。そんなたくさんの人が住める場所もないですし。」
「じゃあ、その人たちはどこに住むんですか。」
「銀山の跡地ですよ。もともと二万人近くが働いていましたから、かなり古いですが当時の寄宿舎や事務所の建物がまだいくらかは残ってます。それに簡単なプレハブ住宅の建設ももう始まっているとか。」
 隆は驚いた。四十年近くも前に廃坑になった鉱山跡地が果たして使えるのだろうか。冬はかなり雪も積もる。人が住めるようにするのは至難の業のように思えた。しかし、そんな隆の疑問に対する答えはすぐに来た。歩き始めて約十五分、谷が押し迫った山の懐にそれは存在した。
 赤レンガ造りの古い建物が三棟、山裾にへばりつくように建っていた。もう何十年も煙を吐いたことのない煙突が一本、天空に向ってそびえている。なるほど、女将の言うとおり銀山跡地は隆の想像以上に巨大であった。
 延々と続く古いレンガ塀に沿って歩みを進めるが、なかなかゲートまで辿り着かない。これであれば数千人は楽に収容できるかもしれない。やがて二人は、かつての銀山の廃虚跡の前に建った。
「夏草が兵どもの夢の跡…か。」
 女将は吐息混じりに呟いた。
「昔はここもよかったのよ。毎日毎日、二万人の山男たちがヘルメットを被ってこのゲートを通って行った。あの煙突も四六時中黒い煙を吐いて、そりゃもう賑やかなものだったんですよ。」
 隆は、俄かには女将の言うことが信じられなかった。昔の繁栄の跡はどこにも見られず、ゲートに掲げられた木製のプレートは長年の風雪に晒されて、ほとんど字も読めなかった。
 二人は中の様子を窺おうとするが、ゲートに設置された高い鉄製の扉に遮られて全く覗き見ることが出来ない。「安全第一」という大きな緑の表示が掲げられたその扉は、周囲の廃虚とは全く相容れない新しいものであった。どうやら今回の工事のために新たに設けられたらしい。
 わずかな隙間から辛うじて二人が中を覗き見ると、山積みにされた建築資材が見えた。先程二人を追い越して行ったダンプカーも止まっていた。さらに奥の方からは、ブルドーザーやショベルカーがうねりを上げる音が伝わってくる。
 隆は陰鬱な気持ちに包まれた。この村はもう後戻りの出来ない川を渡ってしまった。過疎から抜け出すために、村全体が大きく離陸し始めた。これから二〜三年は、毎日何千人かが働く街になる。さらにその跡は、毎年何万人もの観光客が訪れる賑やかな街へと生まれ変わるのである。

 一週間後。
「やっぱり思った通りだ。」
 隆は深い吐息をつきながらつぶやいた。先週のビデオ上映会の時に採取された七十人分の精液サンプルは、その翌日には盛岡の大学病院に検査のために送られた。隆の手には今その結果の通知表が握られていた。
「これも一千万を切っている。これもだ。」
 次々と検査表を繰っていく隆の手は小刻みに震え始めた。傍らから彩が心配そうに覗き込む。
「先生、そんなに悪いんでしょうか。」
「ああ、精液中の精子の数が極端に少ない。普通、人の精液一CCの中には五千万から一億くらいの精子が含まれている。でも、この村の人のは、そう恐らく平均すると二千万から三千万というところだろう。一千万に満たない人もかなりの数に上っている。」
 彩は目を丸くして隆の話を聞いていた。子供が生まれるためには卵子と精子が受精しなければならないことくらいは、今では小学校の性教育でも教える。しかし、卵子と受精すべき精子の数は一個だけでいいのではないのか。どうしてそんなに多くの数が必要なのか。
「あはは、驚いたようだね。何千万という数の精子も子宮の中に入れば単なる異物にすぎない。子宮の中は雑菌が入り込まないように高度な免疫系に保護されているんだ。そこに入ればたとえ精子といえども強烈な攻撃に晒される。精子はスクラムを組んでその攻撃に耐える。屍を積み重ねて、そして子宮の奥へ奥へとひたすら突き進む。最後に卵子と巡り合えるのは、たった一個の幸運な精子だけだ。仲間たちはその一個の精子を守り抜くため、自らを犠牲にして子宮の中の免疫系と闘うんだ。」
 彩は隆の話に仰天した。精子も子宮の中に入れば単なる異物。何千万という精子が、たった一個の精子を子宮の奥底にある卵子に届けるために、命を賭して闘うのである。何という神秘的な生命の営みであろうか。しかし、彩はこの隆の話に驚いている隙はなかった。その先には驚嘆する結論が待ち受けていた。
「この免疫系を突破するには一千万という数じゃ到底足りないということだ。ほとんどの精子は子宮の中の道半ばで死滅してしまう。これじゃ自然受精は難しいだろう。つまりこの村で起きている不妊の原因はほとんど男の方にあったことになる。精子の数が少な過ぎるんだ。」
 隆の説明が終わると、しばらく二人の間に重苦しい沈黙の時間が流れた。その沈黙を破ったのは彩の方であった。
「でも、どうしてそんな恐ろしいことがこの静かな村に。」
「問題はそこだ。恐らく何らかの環境ホルモンが関係していると思われるんだが。」
「環境ホルモン?」
 彩は耳慣れない言葉に、思わず問い返した。
「そう、環境ホルモン。別名、外因性内分泌撹乱物質。少し難しい言い方だけど、つまり人の体のホルモンバランスを狂わせる化学物質のことだ。彩ちゃんもダイオキシンの名前くらいは聞いたことあるだろう。プラスチックを燃やしたときに出る猛毒の化学物質だ。ダイオキシンは煙とともに空気中に放出され、やがて雨とともに地上に降り注いでくる。勿論、色も匂いもない。ピコグラムという極小さい単位で測られるの。ピコグラムっていうのは一兆分の一グラム、といっても見当もつかないかな。ただ、そんな極微量でも毎日飲んでいると少しずつ体の中に蓄積されていく。そして僕たちの知らない間に少しずつ体のホルモンバランスを崩していくんだ。」
「そ、そんな恐ろしい物、国は何で規制しないのかしら。」
 隆の説明に、彩は当然の疑問を投げ返した。
「いや、ダイオキシンはもう規制されている。WHO(世界保健機関)がガイドラインを定めていて、今では排出量が厳しく監視されている。でも、それはつい最近のこと。これまで長年に渡って排出されてきたものは分解されずに土の中に残っている。それに環境ホルモンはこれ一つじゃない。野菜を作るときに使う農薬、食器や衣服を洗う洗剤、それに数多くの産業廃棄物、数え切れない程の物質がその候補になりうる。そのどれが、どのくらい人体に影響するのか、誰にも分からないし、仮に分かったとしてもその時は手遅れになっているかもしれないんだ。」
 自らの知らない間に我々の体を虫食んで行く毒物が身の回りにたくさんある。隆の話に彩は背筋が凍りつく思いであった。この村の男たちの不妊もそうした環境ホルモンが原因なのであろうか。だとしたら一体何が?。林業と農業くらいしかないこのような山奥の村でなぜそのような恐ろしいことが起きるのか。彩は黒雲のように沸き上がる不安を隠せず、思わず身を縮めた。

「そげに悪いだか。」
 検査結果を聞く村長の顔は次第に蒼ざめていった。
「ええ、被験者七十人中、正常だったのはわずか五人。後は何らかの異常が認められました。中でも精子数が一千万人を切っている、いわゆる乏精子症の人の数は二十人にも上りました。これでは自然に子供が出来るのは、まず無理と思われます。その他の人も、普通の人よりはかなり子供が出来難い状況だと思われます。」
 村長は動揺の色を隠せず、仕切りと膝を揺らしながら隆の話を聞いていた。
「せ、先生。それでどうすればいいだか。このままじゃ村は……。」
「村長さん、まず水を調べさせて下さい。村の人たちの飲料水になっている上水の方です。」
「み、水?」
「そうです。水が原因である可能性が高いんです。」
 それから、隆は彩に説明したのと同じ内容を時間を掛けて村長に説明した。理解しているのかしていないのか、時折小首を傾げながら聞いていた村長は、一通り聞き終わると水道課の課長を呼びにやった。突然降って湧いた村の一大事に村長は動揺の色を隠せず、待っている間も頻りとため息を洩らした。
 やがて村長室のドアが開き、五十過ぎに見える初老の人が部屋に入ってきた。胸ポケットに「野辺山村水道課」という字が赤くプリントされた灰色の作業服を身につけ、足にはゴムの長靴を履いている。他に課員はいないのであろう、水質検査から取水管理まで全て一手に任されているようであった。村長は隆から聞いた話を手短に伝えると、水質調査に協力するよう指示した。
「そ、村長。水は絶対大丈夫だ。おらあ、この道三十年、いつも国が決めた基準をきっちし守ってやってきただ。急にそげなこと言われても…。」
 課長は大慌てで弁解した。長年、国の基準を忠実に守って、この村の飲料水を守ってきた。忠誠心と自信だけは誰にも負けないとの自負があるようであった。その自尊心が無残にも打ち砕かれようとしている。自己防衛に走るのも仕方のないことであった。
「その国の基準が怪しいから、こうやってお願いしているんです。厚生労働省の検査基準は大腸菌の数や、せいぜい農薬などの有害物質の濃度くらいでしょう。その基準には含まれていない未知の化学物質が混入している可能性もあるんです。課長さん、僕たちは何もあなたの責任を問うつもりはありません。何としてもこの村を救いたいんです。ただそれだけです。」
 隆は熱心に課長の説得を試みた。しばらく腕組みをして考え込んでいた課長は、村長の再三の説得でしぶしぶ水質調査に同意した。

「ここが、浄水場だ。」
 課長の案内で隆と彩は、村の浄水場を訪ねた。村の外れにある浄水場は、ところどころ金網も破れ惨めな姿を晒していた。この規模の村であればこの程度の大きさでいいのであろう、十メートル四方くらいの小さな浄水池には、そのままでも飲めそうなほどのきれいな水が湛えられ、池の中には十センチほどのいわなが数十匹放たれていた。
「ここの水は、上流の取水口から直接このパイプで引いてきてるだ。」
 課長が手で指し示した方向には、口径五センチメートル程のパイプが二本、谷川の方に向って伸びていた。
「浄水池の水は、三日に一度決められた検査をするだ。こりがその記録だべ。」
 課長が差出したノートには、三日に一度朱色の「検査済印」がきちんと押されていた。律義な性格なのであろう、どこまで遡っても全てこの男の検査印が押されており、一日たりとも誰かに検査を交代したような形跡は見られなかった。
 隆は、用意したガラス瓶に慎重に池の水を汲み取ると、しっかりと蓋を閉めた。
「取水口の近くの水も調べたいんですが。」
 隆は改めて課長に願い出た。課長は意外にもいやな顔一つせず、俺に付いてこいとばかりに先に立って歩き始めた。最初の取っ付きは悪かったが、一旦心が決まってしまうと存外人はよさそうであった。隆と彩は小走りに課長の後を追いかけた。
 取水口は、例の銀山跡地からさらに奥の谷間にあるという。三人は銀山に通じる道を並んで歩き始めた。工事が始まって一ヶ月、砂利道は頻繁に行き交いするダンプカーの轍の跡がくっきりとついていた。
「本当、どうなるだか。村長はえらいことを始めちまったもんだ。おらあ水が汚れるんでねえかと思って、心配で。昔は川でたくさん獲れたいわなも最近はめっきり少なくなっただ。」
 課長は、歩きながら独り言のように呟いた。
「いわなの数が減った?。」
 隆は思わず聞返した。
「ああ、おらが小さかった頃は、春になると手で掴めるほどいわなが上ってきただ。だども二十年くらい前から少しずつ減り出して、最近じゃ養殖物しか見なくなっただ。」
 課長は寂しそうにうな垂れた。一方の隆は内心やっぱりと思った。環境ホルモンの影響は既にこの村の川に棲息する魚にまで及んでいるようであった。
 道はいつしか銀山跡の脇に差し掛かった。この前隆が女将と二人で訪ねた時からさらに工事が進んだようであった。プレハブ建ての寄宿舎の数はさらに増え、塀越しに聞こえてくる建設機械の唸り声も一層大きくなっていた。
 三人は長い塀に沿った道をさらに奥へと進む。塀が途切れるあたりから道はさらに細く荒れた山道となった。ここまでは工事用の車両も入らない。ガーガーという建設機械の音が小さくなるに連れ、今度はサーサーという谷川の音が高くなってきた。目の前に岩山が迫ってきて、もう行き止まりではないかと思わせる。しかし、道は器用に曲がりくねって奥へと続いていく。
 課長は先に立ってさっさっと山道を上っていく。隆と彩は息を切らせながら後に続く。道はさらに細くなり、あたりは鬱蒼とした杉木立になった。ひんやりとした空気が深い森の中に漂い、谷底を流れる清水の音はさらに高くなる。上ることさらに十分、三人は小さな淵のほとりに出た。
「ここが取水口だで。」
 見れば、小さなコンクリートの堰が川の流れをせき止め、わずかばかりの透き通った清水が湛えられている。淵の脇には小さなトタン葺の小屋が建っていた。どうやらこれが取水口のようである。二人は課長の案内で小屋の中を覗き込んだ。
 二メートル四方程の小さな小屋の中では、コンクリート製の四角い取水口が小さな口を開けて清水を吸い込んでいた。口に張られた金網に朽ち果てた小枝や落ち葉が絡み付いている。
「ここで取った水は、このパイプを伝って浄水場まで流れていくだ。」 
 課長はしゃがみ込むと、黙ったまま両手で小枝を掃除し始めた。隆も並んで手伝う。一通り簡単な清掃が終わると、隆は用意した瓶に静かに清水を汲み取った。この澄んだ水に一体どんな物質が混じっているというのか、そしてその物質はどこから来たというのか。隆は、何やら空恐ろしさを感じつつ、採取した水の入った瓶をバッグへと押し込んだ。
「有り難うございました。」
 隆と彩は課長に深々と頭を下げた。
「先生、宜しくお願いしますだ。おらには村人の飲み水を守る責任があるだ。」
 課長は小さい体をさらに縮めるようにしてペコリとお辞儀をした。


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