それから四十年。 「全くとんでもない山奥だな。」 隆は、右に左に揺れるバスに身を任せながら思わずつぶやきの声を上げた。丹羽隆、二十八歳。岩手県野辺山村の診療所の医師として新しく赴任するところである。東京の医大を卒業後、しばらくは都内の大学病院に勤めていたが、かねてより過疎地の地域医療に興味があり、自ら手を上げての志願であった。 盛岡を出たバスは既に五十分以上も山道を走っていた。いくつか峠を越え、いつしか辺りはすっかり民家もない山奥の風景に変わっていた。ところどころに残る残雪の跡が、雪深い北国の名残を留めている。隆は憧れていた寒村での医療活動を目前にして、期待に胸を膨らませていた。 「ハイ、上新庄。」 運転手の気だるいアナウンスが車内に響く。乗客は隆のほかに地元の人と思われる老人が二人と女子高生らしいセーラー服姿の女の子が一人だけである。その女子高生もここで下車してしまった。見上げれば山の斜面に四〜五軒の家がへばりつくように建っている。この辺りの人は一体どうやって生計を立てているのだろう、隆はそんなことをつらつらと考えながら車窓を見やっていた。 盛岡を出て一時間半、バスはようやく終点の野辺山村落合に着いた。落合は急峻な北上山地の谷間にある寒村で、昔平泉を追われだ義経が弁慶とこの地で落ち合ったという伝説からこの名がついたという。バスは村の中心にある停留所に横付けする。十五分後には盛岡行きの最終便として出発する予定である。といっても一日三往復の便しかない。 隆は大きく伸びをしながらバスを下りた。まだ四時というのに、西日は既に山の陰に隠れ、反対斜面には黒々とした不気味な影を落としていた。 「あのー、診療所はどっちでしょうか。」 隆は、一緒に下りた村の老人に診療所の方角を尋ねた。 「ああ診療所かえ。こん道を真っ直ぐ行きさ。五分ほどで着くで。」 ひどい訛りである。そう、ここはもう東京ではなかった。隆は地元の人と口を聞いてみて初めてとてつもない田舎に来たということを実感した。 隆はよれよれのスポーツバッグを肩に担ぐと、言われた通り道を歩き始めた。バス停から奥の村道はさらに道も狭まり、センターラインもなくなった。車通りもないため、堂々と道の真ん中を歩くことが出来る。両側は古い造りの民家が軒を連ね、電信柱が石垣にへばりつくように立っていた。 歩き始めて五分、瓦葺きの大きな建物が見えてきた。村の集会所か何かであろうか、木造のその建物は、一見して五十年は経っているかと思わせるほどの傷みようである。壁板はところどころ裂け、窓ガラスには大きなガムテープが絆創膏のように貼られていた。 近付いて玄関口に掲げられた木の札を見て、隆は腰を抜かさんばかりに仰天した。札には、かすれかかった字で「野辺山村立診療所」とあった。ああ、何ということか。これこそが自分がこれから勤務する診療所であった。覚悟はしていたつもりであったが、ここまでひどいとは……。隆は、恐る恐るお化け屋敷のような診療所の玄関に手を掛けた。 「今日の診療はもう終わりましたよ。」 隆が中へ入ると、明るい女性の声がした。ふと見ると、白衣を着た看護師と思しき女性が、せっせと片付けものをしていた。カルテであろうか、ファイルの詰まったみかん箱を重そうに部屋から運び出している。かなり重いのか、足元がフラフラして、見ているだけで危なっかしい。 「お手伝いしましょうか。」 隆はそう言うなり、廊下の片隅に積まれていたみかん箱に手をかけた。 「あっ、そればダメ。」 看護師が叫んだ時は既に遅かった。みかん箱の底が抜け、中に入っていたカルテがどどーっと床一面に流れ落ちた。 「あ、す、済みません。」 隆は狼狽して床に這いつくばった。看護師も続いてしゃがみ込む。その瞬間、二人の手か触れ合った。看護婦は恥じらうようにさっと手を引くと、慌てて立ち上がった。 「もう、余計なことしないで下さい。」 看護師は、また仕事が増えたとばかりムッツリとして隆を罵った。 「さっきも言ったでしょう。今日の診療はもう終わりって。先生も今日はもう家に帰られて……。」 「先生っていうのは、ひょっとして林田先生のことでしょうか。」 「ええ、そうよ。」 看護師は一瞬怪訝そうな顔つきで隆の方を見返した。 「申し遅れました。私、丹羽隆と言います。今度ここでお世話に…。」 隆は立ち上がるとペコリとお辞儀をした。その声を聞いた途端、今度は看護師の表情がさっと変わった。 「に、丹羽。じゃああなたが大先生の後任の…。」 「ええ、今日からこちらでお世話になります。」 隆はニッコリと微笑んだ。 「ご、ごめんなさい。私ったら、また行儀の悪い患者さんかと。」 看護師は顔を赤らめて、伏し目がちにつぶやいた。 「いえ、いいんですよ。私が余計なことをしたばっかりに。」 隆は改めて床に散らばったカルテを拾い集め始めた。看護師も慌てて手を伸ばす。また指先が触れ合ってしまい、二人は思わず手を止めた。 「わ、私、看護師の水沢彩っていいます。よろしくお願いします。」 彩は伸ばした手を慌てて引っ込めると、一歩後ろ退りしてペコリとお辞儀をした。 「いえ、こちらこそ。よろしく。」 隆はニッコリと微笑んだ。隆は正直、驚いていた。このような鄙びた田舎の診療所には全く似つかわしくない愛らしい看護師が今自分の目の前にいる。年格好は二十二〜三というところであろうか。短く切った髪は淡い茶に染め、身につけた白衣の上には愛らしいピンクのカーディガンをまとっていた。 一方の彩の方も驚いていた。新任の医者が来ると聞いて内心とても心配していたのである。都会の大きな病院の医者はどこか官僚的で人間味に欠けていることが多い。これから長年、共にこの診療所を守っていくパートナーとしてうまくやっていけるのか、大きな不安を抱いていた。 ところが今目の前にいる隆は、医者とは到底思えない爽やかな青者である。デニムのシャツにジーパン姿、日焼けしたその笑顔はどこかスポーツ選手を思わせる。 二人はカルテを拾うのも忘れて、しばらくボンヤリと互いの顔を見詰め合った。視線を合わせるのもはばかられるような淡い緊張の時間が流れた。最初にその沈黙を破ったのは彩の方であった。 「大先生、いえ林田先生はこのところ腰が痛いとおっしゃって、実は今日も早仕舞いされたところだったんです。もう七十五歳になられますから。」 「そうでしたか。」 二人は、ようやくカルテを元の箱に戻すと、ほっと一息ついた。 「ごめんなさい。新しい先生が来られると聞いてたもので、朝から片付けてたんですが…。」 その時、隆は初めてこのゴタゴタの作業が自分のためのものであったと知った。 「それは済みませんでした。僕のことでしたらどうかお構いなく。適当にやりますから。」 彩は嬉しそうに白い歯を出して笑った。この先生と一緒なら、これからも楽しく仕事が続けられるかもしれない。そう思うと思わず心がウキウキしてきた。 「今日はどちらに。」 「ええ、確か松の屋っていう旅館にしばらくご厄介になると聞いてたんですが。」 隆は、ポケットの中をまさぐる仕草をした。 「松の屋さんならすぐ近くです。ご案内しますわ。」 彩は快活に言った。 「いいえ、一人で大丈夫です。どっちへ行けばいいかだけ教えてもらえれば。」 隆が言い終わる間もなく、彩は先に立ってもう診療所の外へ出ていた。隆は苦笑しながら、バッグを担ぎ上げると後に続いた。谷間の村の日暮れは早い。西日はすっかり山の向こうに隠れ、代わって冷たい夜風が山から吹き下りてきていた。四月とはいえ、ここは北国。ポカポカ陽気だった昼間と違って、夜の訪れも早かった。二人は旅館へと足を急ぐ。 「先生、先生はまたどうしてこんな山奥の診療所に。」 歩きながら彩は尋ねた。昨今ではこんな山奥の寒村の診療所に来たがる医師はいない。大先生こと林田医師は老骨に鞭打って診療を続けてきたが、さすがに歳には勝てない。最近では腰痛で、診療も休みがちになっていた。 「都会が嫌になったんですよ。東京の大きな病院じゃ、どこも同じ。患者は薬漬けだし、病院の待ち時間だって二時間以上は当たり前。これじゃ治るものも治らないですよ。僕は医療の原点を考え直すつもりでここを選びました。患者一人一人と親身になって向かい合う。そんな医療がしてみたかったんです。」 「へえー、先生って、偉いんですね。」 彩は真顔になって感心したようにつぶやいた。姿恰好だけを見れば、どこかの突っ張り兄ちゃんくらいにしか見えない隆の口から「医療の原点」という真面目な話を耳にした。この人は第一印象から想像されるよりもずっと立派なお医者様なのかもしれない。彩は明日から始まる診療に胸を膨らませた。 程なく二人は「松の屋」という看板の上がった旅館の前に着いた。こちらも見るからに古い建物である。玄関先にはなるほど一本の大きな松の木があった。樹齢は軽く二百年は超えていると思われる幹回りである。入口を入ると、仄かに木の香りがして、一層ひなびた雰囲気が醸し出された。 「ごめんくださーい。」 彩が先に立って案内を請う。しばらくして、廊下を渡る音がしたかと思うと割烹着を身につけた六十過ぎと思われる女将が姿を現した。 「あーら、彩ちゃん。どうしたの。」 女将は彩の姿を見ると、歳に似合わぬ高い声で呼びかけた。 「女将さん、こちらうちの診療所の新しい先生。」 「丹羽隆と言います。お世話になります。」 隆は紹介されてペコリと頭を下げた。 「あら、まあ、これはこれは、どうも、先生。お待ちしておりましたのよ。」 女将は恭しく隆を出迎えると、スリッパを用意した。 「じゃあ、私はこれで。」 隆を送り届けた彩は軽く一礼して、表に出ようとした。 「あら、あなたもお上がんなさいな。話もあるでしょうに。それに、お似合いよ、お二人さん。」 女将はからかうようにポンと彩の背中を叩いた。 「わ、私、そんなんじゃ。」 彩は顔を真っ赤にして、その場にたじろいだ。やはり年の功であろうか、女将の方が一枚も二枚も上手のエンターテイナーであった。二人は先程までのぎこちなさもすっかり消え失せて、女将に促されるまま玄関に上がった。 女将は二人を奥の部屋へと案内する。旅館の中は外にも増して年代を感じさせる造りで、奇麗に磨き上げられた廊下は黒光りがしていた。二人はその廊下を進むと、やがて二十畳はあろうかと思われる大きな部屋に通された。部屋の中央には黒檀性と思われる巨大な座敷机がしつらえられ、床の間には一見して高価な銀製の鯉の置物がどっしりと構えていた。 女将は、いつもここで客人をもてなすのであろう。二人が座る間もなく、手慣れた調子で急須を傾けると、二人の前に次々と湯飲み茶碗を差出した。 「随分と立派なお部屋ですね。」 隆は部屋の中をぐるりと見回しながら呟いた。 「有り難うございます。でも今じゃそんな嬉しいことを言ってくれるお客さんも減ってしまって。」 女将はそこで一呼吸を置くと、畳の上に両手をついて改まって挨拶をした。 「女将の酒井絹代と申します。どうぞ宜しくお願い申し上げます。」 「い、いえ、こちらこそ、ご厄介になります。」 隆は慌てて正座し直すと自らも手をついた。 「この村も昔はよかったんですよ。明治の初め頃に銀山が開かれてからというもの、たくさんの人が集まってきて、それはもうすごい賑わいで。当時は旅館も五軒あったそうです。どこもいつも満室で、布団部屋まで使っていたりしたそうです。それが四十年前、銀山が閉鎖されてからは、どんどん寂れる一方で。正直、今日もお客様は、先生お一人。」 女将は自嘲するように口を抑えた。 「でも、よかったわね、彩ちゃん。こんな立派な若先生が来て下すって。大先生はもう随分とお歳でしてね。自分では、まだまだと強情を張っておられたんだけど、よく臨時休診もあるし。皆で心配していたんですよ。本当によかった。」 女将は嬉しそうに微笑んだ。それにつられて、隆の隣に座っていた彩も愛くるしい歯を見せた。一頻り満足気に隆を見つめていた女将は、やがてお茶を飲み干すと席を立った。 「じゃあ、そろそろお部屋にご案内しましょうか。」 隆も後に続いて立ち上がる。 「じゃあ、先生、明日は九時からですから。」 彩は一言言い残すと廊下を玄関の方へと走り去って行った。 「先生には別館の特別室をご用意しておきましたから。」 女将は隆をさらに旅館の奥へと案内しながら説明する。 「そ、そんな。僕は普通のお部屋で一向に構いません。」 「いえ、どの道いつも空いていますから。部屋も使わないと傷みますので。丁度よかったんですのよ。」 隆は恐縮しながら女将の後に続いた。 本館から別館へは渡り廊下で繋がっていた。外は何時の間にか黄昏色になり、山から下ってくる夜風も一層冷たくなっていた。隆は、大きな石灯籠の置かれた中庭を回り込むように渡り廊下を進むと、別館の建物に入った。 別館は本館に比べると少しは新しい風であったが、それでも築後五十年くらいは優に経過しているように見えた。 「はい、こちらですよ。」 女将は先に立って隆を中へ招き入れる。その部屋はなるほど特別室というだけあって立派なものであった。十五畳ほどの畳の部屋は塵一つないほどに奇麗に掃除され、床の間にはみずみずしい切り花が生けられていた。いつ客人が来ても恥ずかしくないようにとの女将の気配りであろう。部屋の中を見回していた隆は、ふと奇妙な四角い穴が部屋の真ん中にあるのを発見した。 「これは?」 隆は物珍しそうに穴を覗き込んだ。 「あら、先生は掘り炬燵をご存知ないのですね。」 「掘り炬燵?」 「ええ、ここは北国、冬場の寒さは東京の比じゃありませんよ。そんな寒い冬を少しでも暖かくと工夫したのがこの炬燵。昔は冬になると、ここに炭を入れて使ったものです。もっとも今じゃそんなことはしませんけど。」 女将はまた嬉しそうに微笑んだ。隆は空の掘り炬燵に足を入れてみた。なるほど、これは楽である。畳の上に座っているとどうしても足が疲れる。こうやって椅子に腰掛けるように座れば随分と楽である。長い北国の冬の夜を過ごすには恰好の造りだったに違いない。 「夕食は七時くらいにご用意できますから。」 女将は一言言い残すと、再び丁重に両手をついて音もなくふすまを閉めた。 隆は大きな嘆息とともに、足をだらりと下げたまま、仰向けに寝転がった。部屋の中はとても静かであった。耳を清ますと風の音までが大きく聞こえる。昨日までの騒々しい生活がウソのように、ここでは時間がゆっくりと流れていた。隆は目を閉じて、今日一日のことを振り返った。 盛岡からのバス、きらきら輝く新緑、古めかしい村の診療所、そして、愛くるしい彩の笑顔……。そんなことをつらつら考えているうちに、隆は何時の間にか夢見心地に誘われて行った。
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