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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

最終回   進化
 丁度その頃、真由の知らない間に世の事態は大きく進展していた。
「♪♪さあみんな手を取り合おう。人は等しく生ける者、友に幸あれ光りあれ・・・」
 国会議事堂の周辺は十万人を超す群集で埋め尽くされ、高らかに歌う合唱の声が天までこだました。
「ご覧下さい。この熱気です。全国から集まった緑内障患者友の会のメンバー、そしてそれを支援する全国障害者協会、その他の支援団体の皆さんは、今百万人の署名を携えて、産児制限法の撤廃の訴えを起こしました。産制法の制定以来、数多くの議論がありました。人間の生きる権利かそれとも国家の存立か、多くの専門家の意見も真っ二つに割れました。しかし、日本国民は今ようやくこの論争に結論を出そうとしています。」
 昂奮したレポーターの声がテレビを通じて全国津々浦々に流れていた。今、何百万何千万という日本人がテレビの前でこの中継を見ているはずであった。一年半の忍従の時間を経て、今国民の怒りが爆発した。画面の片隅には、誠の遺影を掲げた節子の姿が、そして誠のお陰で一児を授かったあの女性の姿もあった。
「視聴者の皆さん、日本人はまだ捨てたものではありません。一年半前、あの産制法の公布の日以来、子供を産みたいという緑内障患者のために愛の診断書を書き続け、そして獄中で非業の最期を遂げた眼科医師林田誠さんの志は今何十万人いや何百万人もの国民に受け継がれようとしています。命を賭して闘ったその勇気ある行動は、曇りかけていた日本人の目に再び輝く灯火を点してくれました。彼の名は歴史に残る名医として長く後の世に語り継がれることでしょう。」
 押し寄せる群衆を眼前にして、我が子の遺影を胸にして微動だにせず佇む老親の姿は、見る人の心を打った。誠の善行は、口伝て、ネット伝に全国に伝わり反対集会を一気に盛り上げたのであった。
 世の中は皮肉なものである。誠の死後一週間、国連の下部組織である世界人権保護委員会が公式に日本政府に対し、産児制限法の撤廃を促す勧告を発した。
 翌朝の新聞には、産制法撤廃を確信する見出しが躍った。
「首相、産制法撤廃の検討を確約。」
「人道主義の勝利。産制法撤廃へ。」
 本来なら大喜びすべきはずのこの知らせも、しかし今の真由にとっては単なる文字列に過ぎなかった。何故これがもっと早く来なかったのか。せめてあと十日早く。そうすれば誠は死なずに済んだかもしれない。いくら名誉が回復されたとしても、逝ってしまった者は帰って来ない。人々の喜びが大きくなればなるほど、真由の悲しみは大きくそして深くなるばかりであった。あの楽しかった日々はもう戻っては来ない。あの優しかった誠の声もそして笑顔も。夢のように過ぎ去ったこの三年間が走馬灯の如く真由の脳裏を駆け巡った。初七日を迎えた真由は改めてかけがえのない人を失った悲しみを実感した。

 しかし、それから半年後。
「不思議ですね。進行が止まっています。」
 医師は二枚の視野検査の結果表を見比べながら、しきりと首を傾げた。視野検査表に描かれた真由の視野の陰影は半年前とほとんど変わっていなかった。末期の緑内障としては異例であった。
「やはり、進行が止まっていますね。半年前とほとんど同じです。」
 医師は今度は眼底鏡を覗き込みながら繰り返した。一頻り慎重に眼底の診察を終えた医師は、真剣な表情で真由に尋ねた。
「この半年間特に変わったことはありませんでしたか。例えば食生活が大きく変わったとか、何か変わった目薬を使ったとか、何でもいいんです。」
「変わったこと?」
 真由はしばらく考えていたが、考えうることと言えば誠の死くらいであった。人は精神的に大きなストレスを体験したときに、病気が発症したりあるいは逆に平癒したりすることがあるという。真由の緑内障もその類のことであろうか。真由はもうすっかり完全に失明することを覚悟していた。それが一転、緑内障の進行が止まっているという。これは喜んでいいことなのか、真由はまだ半信半疑であった。何かが原因で一時的に進行が止まっているだけかもしれない、また半年後には進んでいるかもしれない。
「とにかく、一度眼底写真を撮っておきましょう。隣の部屋で看護師の指示にしたがって下さい。」
 医師は眼底撮影の指示を出した。真由は指示されるままに眼底カメラの前に座った。
「では、目を大きく見開いてこの穴を覗いて下さい。赤い点が見えますね。瞬きを止めてこの点を見てて下さい。少し光りますが、瞬きしないで下さい、いいですね。」
 眼底カメラのレンズを覗きながら、看護師は器用に機械を操作する。もう何度となく眼底写真を撮っている真由にとっては、慣れた検査であったが、今日はいつもと違った。いつもは検査を受けるたびに症状は悪くなっていた。結果を聞くのが怖くて、検査を受ける眼球までが固くなっていくような気がしていた。
 だが、今日はとても気持ちがリラックスしていた。カメラを覗き込む瞳孔が自然に開いていくような感覚に襲われた。その時、眩いフラッシュの光が輝き、一瞬目の前が真っ白になった。
「あっ。」
 真由はこの瞬間、半年前のあの体験を思い出した。あの時は今の何倍も何十倍も強烈な刺激であった。
「そうですか、半年前ですね。眩み目にしては三十分というのは長すぎますね。やはり視神経細胞に何かが起きたんでしょうかね。とにかく次回の定期検査までは何とも申し上げられませんが……。」
 医師は真由の話しを聞きながら、カルテに何かを走り書きした。結局、詳しい原因も、また本当に治ったかどうかも分からないまま、真由の診察は終わった。

 その翌日、山村工房。
「真由、えらいこっちゃー。」
 親方が、一通の手紙を片手に真由のところに駆け寄ってきた。
「いやいや、えらいことになった。」
 見れば、親方の皺顔がさらに崩れて、ぐちゃぐちゃになっている。こんな嬉しそうな親方の顔を見るのは、真由が弟子入りしたいと言った時以来であろうか。
「親方。一体、ど、どうしたんですか。」
 親方は、何度も何度も手紙に目を通す仕草をして、ようやく真由に手紙の内容を告げた。
「お前のあの作品、ほら半年前にコンクールに出したあの清水焼の皿、あれが大賞に選ばれたそうや。」
「えっ?、ウ、ウソでしょう。」
 真由には全く望外の知らせであった。入選すら覚束ないだろうと思っていたあの作品が大賞?、何かの間違いではなかろうか。
「大賞に選ばれた関口真由氏の作品「カキツバタ」は少し霞のかかった淡い緑の色調と朱に輝く一輪のカキツバタの色が見事に調和し、何ともいえない優雅な雰囲気が描き出されている。これまでの清水焼きになかった新しい技法を用いたこの作風は、長年の伝統工芸に新風を吹き込むものとして高く評価される。」
 選評を読み上げる親方の声は、興奮と喜びで震え、次第に涙とともにかすれていった。
 視力の低下した真由は、ミリ単位の繊細な筆運びを止め、自らの見える範囲で描ける最良の方法を工夫していたのであった。その芸術性が高く評価されたのである。
「健常者には到達し得ない高い芸術性を体得する」、いつか本能寺で誠が話していたあの盲目の能楽師のことが思い出された。あの話を聞いたときは俄かには信じられなかったが、今の真由にはその意味がよく分かるような気がした。
 視力が低下し全く描く気力を失していた真由を励まし筆を持たせ続けたのは誠であった。「一OO%完璧なものなんてありえない。これも立派な作品だ。」あの誠の言葉がなかったら、今日の真由はなかったであろう。そしてこの作品も…。
 誠に諭されて後、真由は自らの視力の続く限り筆を動かし続けようと決心した。うまく描こうとする気持ちを抑え、見える範囲で最大限の努力をしてきた。どんな障害があろうとも、人間の可能性は無限である。その可能性を自らの手で摘み取ってはいけない。障害者と健常者を隔てるものはほんの紙一重なのである。

 三年後。
「誠さん、私、緑内障の進行が止まったようなの。難しいことはよく分からないけれど、お医者様は強い光を一時に見たことで、遺伝子の退化プログラムが解除されたのが原因じゃないかって。失われた視力は元には戻せないそうだけど、残された視力だけでも日常生活は大丈夫そうなの。」
 今日は誠の命日であった。真由と節子は三年前のあの暑い夏の日のことを思い出しながら、誠の墓前で祈りを捧げていた。「林田家の墓」と書かれた墓石はどこまでも冷たく無言であった。真由は薄れていく誠の記憶を必死に胸に留めようと祈りを続けるが、誠は沈黙を守ったままであった。
 真由の症例を聞きつけた眼科学会がその後実験と研究を重ねた結果、強烈な光が一時に視神経に入り込んだとき、緑内障の退化プログラムが解除されるらしいことが分かった。かつては、光を避けることで遺伝子の退化が起こってしまった。今度は逆に一時に強い光を見ることで遺伝子の「進化」が起きたようであった。
何千年と受け継がれてきた退化のプログラムを解除する方法があることが、全くの偶然により発見された。もはや緑内障が不治の病ではなくなる日もそう遠くないことが予感された。
「でも、誠さん、私素直に喜ぶ気持ちにはなれない。最近はあのまま見えなくなっていた方が幸せだったんじゃないかと思えて。目が見えるようになればなるほど、あなたが私の傍から遠ざかっていく、そんな気がして。」
 真由がそう呟こうとした瞬間、今度は真由の耳にはっきりと呼ぶ声が聞こえた。空耳なんかではなかった。
「真由、それは君が進化したからだよ。」
「えっ、進化?」
 真由は思わず声を出して聞き返した。
「ほら、言っただろう。退化と進化は表裏一体、いや実際は同じものだって。人は体だけじゃなくて、心も進化するんだよ。いつも暗い陽の当たらない方ばかり向いて生きていると人は心までも退化してしまう。あの洞穴ヤモリの目のようにね。
 真由、君の心は進化したんだ。これからはもっと明るい方だけを見て生きていくんだ。どんな障害を背負っていても、いつも心を光の当たる方に向けていれば、人は必ず幸せになれる。君はそのことを身を持って体験したんだよ。もう大丈夫。僕がいなくても君は立派に生きてゆける。」
 真由の目に今はっきりと誠の姿が見えた。幻影なんかではなかった。人は死ねば必ず土に帰っていく。誠の身体を構成していた酸素原子や水素原子の粒々は、今墓石の傍らに咲く一輪のリンドウとなって、真由を見つめていた。風にそよぐその清楚な花を摘み取ろうとした真由の手は、しかしはたと止まった。今目の前に見えているものは所詮「空虚」なもの。そんなものを手にしなくとも、誠の心は永遠に真由の心の中に生き続けていた。
「真由さん、そろそろ戻りましょうか。」
 真由がはっとして顔を上げると、傍らには節子の顔があった。誠が亡くなってから、節子の身体はやつれてさらに一回り小さくなったように思えた。しかし、そんなことは微塵も表には出さず、真由の前では節子はいつも明るく振る舞った。
「ねえ、真由さん。お見合いしない?」
「お見合いですか?」
 真由は突然のことに驚いて、思わず聞き返した。
「誠が死んでもう三年になるし、あなたもいつまでも若くないんだから。私、いいお見合い写真一杯持ってるのよ。」
「あらー、いやだ。お母様ったら。」
 真由は、立ち上がろうとする節子に手を貸すと、頬を赤らめて苦笑した。野辺の石段に、二人の談笑する声が静かに消えていった。
(了)


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