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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

第5回   皆空
「ごめんください。」
 宿坊の玄関に真由の声が響く。誰も返事がない。正面には置かれた巨大な屏風には「大悲大乗」という墨字が力強く踊っているのが見えた。留守なのであろうか。
「ごめんくださーい。」
 今一度、今度は少し声を大にして叫んでみる。やがて廊下を渡る人の気配がして、一人の男性が出迎えた。
「何かご用でしょうか。」
 気だるい夏の午後、訪れる者もない中で呼び出されたせいであろうか、少しむっとしたような無愛想な返事が返ってきた。
「あっ。」
 しかし、その男性の顔を見た真由は絶句した。そこに立っている男性は、あの誠と一緒に写真に写っていた人そのものであった。真由は一瞬戸惑ったが、すぐに返答した。
「あのー。住職さんにお会いしたいのですが。」
「住職は私ですが。」
 またまた驚きである。この人が住職?。見れば、TシャツにGパン姿、バサバサに伸びた髪の毛は、凡そ僧侶とは縁遠いいでたちである。戸惑いの色を隠せなかった真由は、しかし黙って例の写真を差出した。その写真を手にした住職は一瞬驚いた様子であったが、すぐ打ち解けたような笑顔になって応待した。
「いやー、なつかしい。林田君じゃないですか。この写真一体どこで?。」
 真由は何と言ってよいかわからなかったが、林田誠が亡くなったこと、そして彼が今際の際に北山不動に行けと言い残したことなどを順序立てて話した。
「そうでしたか、彼が……。そうですか。」
 住職は非常に落胆したような表情を見せ、しばらく言葉を失っていたが、ようやく真由を宿坊の中へと促した。玄関を上がり、長い廊下を右手に下っていくと居間に辿り着いた。かつては宿坊の受付として使っていたのであろうか、部屋の中央には大きな黒檀性の座敷机が置かれ、宗教関係の本や檀家帳と思われる綴りがうず高く積まれていた。
「少しここでお待ちください。」
 住職は、真由を案内すると一言言い残して宿坊の奥の方へと消えていった。一人取り残された真由は改めて部屋の中を観察した。二十畳ほどあると思われる部屋の天井には巨大な梁が剥き出しとなり、エアコンも入っていないのに冷んやりとした空気が漂っていた。一見すると、よくある田舎の寺の風景であった。
 しばらく部屋の中を見まわしていた真由は、しかし、おやっ?と思うものを発見した。「宇宙物理詳解」、「量子論入門」、「相対性理論解釈」など、凡そお寺とは縁遠そうな難しいタイトルの専門書が、檀家帳に混じって置かれていた。しかも、そのいくつかは明らかに読みかけの状態であった。一体誰がこんな難しい物理学の本を読んでいるのだろう。真由は少し違和感を覚えながら、住職が戻ってくるのを待った。
 暫くして、住職は冷たい麦茶の入ったグラスを二つ手にして現れた。一つを真由の前に差出すと、今一つを持ったままどっかと机の前に胡座をかいた。
「いや、ご挨拶が遅れました。住職の大西道継といいます。まあ、住職といいましても、まだ正式な僧侶の資格は取っていないんですが。」
 大西住職は、気恥ずかしそうに頭をポリポリ掻きながら、説明を始めた。
「林田君とは、大学時代の友人でしてね。彼は、洛大の医学部で眼科医を目指していました。一方の私は、多分信じられないでしょうけど、理学部で宇宙物理を専攻していたんです。彼とは、碁敵でもありまして、よく授業をサボっては碁盤の前に座っていましたよ。彼の碁は緻密でしてね、大雑把な私はいつも苦しめられていましたよ。でも最後はいつも私の勝ち。彼、物凄く優しい性格でしてね、ここに石を置けば死ぬって分かっていても、そこには置かないんですよね。」
 真由は誠の性格を端的に言い表していると思った。その優しさが結局は彼を死に追いやってしまったのかもしれない。それにしても真由が意外だったのは、この住職と思しき人が洛東大学で宇宙物理とかいう何やら難しそうな学問を専攻していたという話である。一体、宇宙物理とはどういう学問なのであろうか。そしてそんな学問を修めた人が何故このような人里離れた荒寺にいるのであろうか。そもそも、この人が言っていることは本当なのだろうか。真由がそんなことを考えている間にも、住職はさらに話を続ける。
「この写真は、彼が三年前この寺を訪ねてきた時に撮ったものです。その時、彼は既に目を患っていて、いつまで見えるか分からないって言っていました。それどころか、彼と同じ病気の人がこの日本に何百万もいると聞かされた時はショックでした。彼も、かなり落込んでいましてね、あのまま放っておいたら本当に自殺するんじゃないかって心配した位ですよ。」
 真由は誠の意外な面を聞かされて驚いた。真由から見れば誠のどこからあんな強靭な精神力が生れてくるのか分からなかった。しかし、今耳にしている誠は自分のイメージとは少し違った誠であった。一体、三年前誠の身に何があったのか。
「彼は、あの日一晩ここに泊まりました。といっても実際は徹夜でしたけどね。私は一晩掛かって彼に般若心経を説教して聞かせてやったんですよ。」
「はっ、般若心経ですか。」
 真由は一瞬聞き返した。そう言えば、誠からプロポーズされたあの夜、誠の口から同じ言葉を聞いた。本能寺で薪能を観賞したあの夜、能の精神は般若心経に通じるものがあると、誠は言っていた。誠と般若心経の繋がりは本当はこの地から発していたのだ。真由の心中から先程の猜疑心は消え失せ、真由は一気に大西住職の話に引き込まれていった。
「ええ、地元の人はうちのことを「お般若はん」と呼んでます。先代、と言いましても私の親父ですが、般若心経が好きで、よく人を集めては講話をやってました。ただ、私が林田君にしてやった話は少し、いえ随分と親父のものとは違ってたと思いますがね。」
 真由は、二十年前祖母がこの寺に来た理由が何となく分かったような気がした。祖母はきっとその般若心経の講話を聞きに来たに違いない。それにしても般若心経とはそんなに有り難いものなのであろうか。たった一晩で人の性格を変えてしまうようなそんな素晴らしい教義がこの世にあるものなのだろうか。宗教なんて冠婚葬祭のための手段くらいにしか思っていなかった真由にとって、俄かには信じられない話であった。
 しかし、真由はこの後、とてつもなく深遠なそして不思議な話を耳にすることになるのである。
 
 住職は改めて机の前に座り直すと、背筋を伸ばすようにして話を始めた。
「私は、お寺の子として生れたのが嫌でした。学校に行っても、いつもお寺の子、坊主の子といって皆にからかわれていました。親父は私に寺を継いでもらいたかったようなのですが、私はそんな親父が嫌で嫌で、とにかくここから逃れたい一心で勉強に励み、それで洛大の理学部に進学したんです。
 大学では宇宙物理を専攻していました。宇宙物理は今の最先端の科学技術を使ってこの宇宙の謎を解き明かそうという途方もなく壮大な学問でした。私は毎日が面白くて面白くて、すっかりお寺のこと等忘れて研究に明け暮れていました。」
 住職は当時を振り返るかのように懐かしそうに話を続けた。
「ところが、五年前のある日のこと、突然親父が重い病気だと知らされたんです。親父のやつ隠してたんでしょうね、病院に駆けつけた時はもう手も付けられない程の重篤な状態でした。でも親父は一言も寺を継いでくれとは言わなかった。その代わり、一回でいいから般若心経を読んでみろ、いや読んでくれ、と懇願するように言いましてね。それでこれを渡してくれたんです。親父はそのまま息を引き取りました。」
 住職は山のようにある書物の中から、一冊の単行本を取り出した。手垢で真っ黒に汚れたその本は「般若心経入門」と背表紙に書かれていた。特段何の変哲もない宗教の入門書のようであった。ここに一体何が書かれているのか。誠を変え、そしてこの住職まですっかり変えてしまった般若心経とは一体何なのか。
「最初はまた般若心経かよ、と思いました。でも親父がそこまで言うんなら読んでやるかと思いました。まあ遺言ですからね。ところが……。」
 ここで住職は一区切り置いて、すっかり生ぬるくなった麦茶をぐいっと飲み干した。
「最初、私が般若心経を読んだとき、これが宗教かと思いました。そこに書かれていることは、私が今必死になって研究していることそのものだったんです。私は大変なショックを受けました。もう気も狂わんばかりでした。」
 これを聞いて真由もすっかり驚いた。般若心経が宇宙物理とどう繋がるというのか。般若心経と言えばお釈迦様が紀元前もの大昔に悟りを開いた教義ではなかった。それが今日の最先端の科学とどう繋がるというのか。
「関口さんとおっしゃましたか。関口さんはご自身がどこから来て、そしてどこへ行こうとしていると思われますか。いえ、あなただけではありません、この広大な宇宙に存在する万物がどこから来て、そしてどこへ向おうとしているのか、全てはこの疑問から出発するのです。」
 いよいよ難しい禅問答が始った。真由は入口からつまずいたような気持ちになったが、とにかく必死になって頭脳を回転させ始めた。
「般若心経の根元にある考え方は「一切皆空」です。この世にある物は全て「空」、すなわち空虚な物、本来存在しない物だという考え方です。今日の宇宙物理学では宇宙は「無」から生れたというのはもう常識になっています。何もないところから急激にビッグバンと呼ばれる大爆発を起こして、宇宙は生れました。そしてその後数十億年に渡って未だに拡大を続けているのです。
 しかし、量子力学ではこの「無」の状態の方をむしろ常あるいは安定的と考えます。逆に物質に満ち溢れた現在の宇宙こそが異常な状態、あるいは仮の姿なのです。ですから万物の存在はとても不安定です。形ある物はすぐに壊れ、そしてどんどん新しい物へと変化していく。仏教では、こうした現象を「諸行無常」という考え方で捉えました。」
 真由はもう頭の中が混乱してぐるぐる回り始めていた。般若心経と宇宙物理という二つのとてつもなく難解な話を同時に頭の中にぶち込まれたのである。恐らく誠も三年前に同じ話を聞いたのであろう。真由は必死になって誠の足跡を辿ろうとするが、住職の話の半分も理解できないでいた。小首を傾げている真由の様子を見てか、ここで住職は少しトーンダウンした。
「アッハハ、ごめんなさい、いきなり難しいお話をしてしまいました。もう少し分かりやすくお話しましょう。この世にある物質を細かく砕いていくと、それはやがて原子になり、さらにそれよりも小さい素粒子という物質にまで分解されます。この位は関口さん、あなたも高校の化学の時間に勉強したでしょう。」
 真由は高校の化学の授業を思い出していた。酸素、水素、炭素いろいろな元素記号、そしてそれらが電子をやりとりして新しい物質を作り出していくことなど、朧げながらに記憶が蘇ってきた。真由は黙ったまま、コクリと頷いた。
「現代物理学の理論では、この世に存在する素粒子には必ずそれに対になる反粒子が存在すると考えます。なにも無いところから物質が生れ出るためには、必ずそれと対になる反物質が同時に生れなくてはなりません。ゼロからプラス一が生れるためにはマイナス一が同時に生れなくてはならないのが道理です。物理学の専門用語で、これを「対生成」と呼んでいます。
 今の宇宙は、針の先よりもさらに小さい一点からこの対生成が猛烈なスピードで発生することで一気に生れたのです。しかし、先ほども言いましたように、量子力学ではこの物質が存在する状態を異常と考えます。従って、今この宇宙に存在している物質はやがてそれと対を成す反物質と出会い合体して消滅してゆきます。これを「対消滅」と言います。
 そしてどんどん宇宙は消えてゆき、最後はまた針の一点、つまり無に戻っていくと予想されています。勿論、私達が生きている間にそんなことは起こりません。宇宙が完全に無の常態に戻るには数百億年はかかるでしょう。ただ、そんな途方もなく長い時間も、宇宙創世の過程の中ではほんの一瞬の出来事でしかないのです。
 お釈迦様は、恐らくこうした宇宙の成り立ちを二千年もの昔、まだ科学も無い時代に悟られたのでしょう。仏教でいう「空」の思想は、宗教でも絵空事でもない、科学的に証明された紛れのない事実なのです。」 
 真由は気が遠くなりそうになるのを覚えながら、住職の話に聞き入っていた。この世には必ず始まりと終わりがある。人の一生もそうであるが、この宇宙自体もまたそうなのである。無から始まり、そしてまた無へと戻っていく。真由は何度となく住職の講話を咀嚼し、その深遠な意味を理解しようとした。
 しかし、住職の、般若心経とも現代物理学とも解らない講話はさらに先へと続いていく。
「「輪廻転生」という言葉を聞いたことがあるでしょう。」
「ええ、人は必ず生まれ変わるという意味ですよね。」
 真由は、それくらいなら自分にも分かるという気持ちで、即答した。しかし、住職の禅問答はそれでは許してくれなかった。
「確かに人々はそのように解釈しています。でも一旦死んだ人が、また生れて出てくるという意味ではありません。正確には、その人を構成している物資が形を変えるということです。人を細かく砕いていくとなんと六十兆もの数の細胞に分かれます。その細胞はさらに何十兆、何百兆という原子、つまり酸素や水素、炭素の粒の集まりより出来ています。
 人が死ねば、腐敗してその形はどんどん崩れてゆきます。そうまさに土に帰るのです。でも、人の身体を構成している物質は不滅です。私の肉体は滅びても、私の身体を作っている酸素の粒は、ある時は花に、ある時は犬畜生かもしれない、いえそれどころか単なる路傍の石ころにだってなり得るのです。この世に物質が存在し続ける限り、このサイクルは永遠に続いてゆきます。輪廻転生とはそういうことなのです。」
 真由は再び驚いた。人が生まれ変わるなどというのは確かに非科学的な話である。でもこの住職の話を聞けば妙に納得させられる。真由の肉体が滅びても、真由の身体を構成している物質は別のものに姿を変え存在し続けるのである。
「この世に宇宙が生まれた瞬間から消滅するまでの一切の過程は物理の法則によって支配されています。つまりあらゆる現象には原因があり、そして結果がある。あなたが今ここにいるのも単なる偶然ではありません。あなたのご両親がいて、そしてそのさらに向こうにご先祖様がいた、その結果なのです。この因果の全ては「無」から始っているのです。
 無から宇宙が生まれ、そしてこの地球が誕生し、やがてそこに生命が宿りました。最初は目に見えないほどの小さいものでした。それから数十億年の進化の過程を経て今の私たちがあるのです。仏教ではこうした一連の法則のことを「縁起」と呼んでいます。ほら、縁起がいいとか悪いとかいう、あの縁起です。
 人が病気になるのも、死ぬのも全て縁起によるものなのです。あなたの目の病気は、あなたの遺伝子のごく一部の塩基配列の書き間違いにより生じています。それも、ある意味ではこの縁起によって決められたと言えるのです。」
 住職が説明し終わるのを聞いて、真由は長い長い嘆息をもらした。一切皆空、輪廻転生、諸行無常、縁起、今まで宗教用語だ思っていたこれらの言葉一つ一つにこのような深遠な意味が隠されていようとは、思いもよらなかった。
 真由のような一人の人間がどうあがこうと、この縁起の法則は止められない。人は、いや人だけではない、凡そこの世に存在する万物は全てこの決められた法則に従って、長い長い時間をかけて再び「無」へと戻っていくのである。何という恐ろしくまた不思議な世界観であろうか。真由は何時の間にか両の腕に鳥肌が立っているのに気付いて、思わず手の平を当てて身をすくめた。

 住職はそこまで話すと、喉の渇きを潤すかのようにすっかり空になったコップをグイッと飲み干す仕草をした。
「少し休みましょう。私はまだ般若心経が説くもう一つの重要な思想についてお話しなければなりません。そのためにもっとふさわしい場所があります。」
 えっ、この講話にはまだ続きがあるのか。真由にとっては、これまでの話だけでも十分過ぎるくらいであった。この上さらに住職は何を話そうというのか。ためらっている真由を横目に、住職はさっさと立ち上がると、先に立って寺の奥へと向い始めた。真由も慌てて後に続く。
 宿坊の奥からは細く長い廊下が、裏庭を回り込むように本堂の方へと続いていた。強烈な真夏の日差しが木々の間からこぼれ、セミの鳴き声がうるさいほどに耳を衝いた。苔むした岩の間を流れる泉水も、暑さのせいですっかり淀んでいる。
 しかし、微かな遠雷とともに裏山から吹き下りてくる湿った風が、わずかに夕立の気配を感じさせた。住職は廊下を端まで進むと、さらにそれに続く渡り廊下へと進む。この渡り廊下は本堂の脇に繋がっていた。二人は渡り廊下を渡って本堂へと向った。
「さあ、どうぞ。暗いですから気をつけて下さい。」
 住職は本堂脇の扉を開くと先に中へ入り、真由を中へと案内した。庇が長く張り出した本堂の奥にはほとんど陽の光は届かず、真昼でもほんのりと薄暗かった。歩みを進める真由の足の裏には、冷たい板張りの床の感触が心地よく伝わってきた。住職に促されるまま、外陣の正面に着座した真由はそっと顔を上げた。
 天井の高さは五メートル位あるであろうか、薄暗くてよく分からない。正面の内陣の奥には本尊と思しき阿弥陀如来の像が安置され、仄かに揺れるローソクの火に照らされて安らかな御顔が浮かび上がった。像の前にはみずみずしい供物が添えられ、さらにその下に小さな経机が置かれていた。特に何の変哲もない、よく目にするお寺の本堂の風景であったが、今の真由には何故かとても新鮮な気がした。住職は真由の斜め前に着座すると、先程の講話の続きを始めた。
「般若心経はこの「一切皆空」の真理から始まり、やがて「五蘊(ごうん)皆空」へと人々を導きます。五蘊すなわち「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」の五つは、人々が物質を認識するパターンを言い表しています。つまり、あなたが物を見るという行為がどういうことなのかを説明したものです。
 人は「見る」、「聞く」、「触る」などの五感の働きを単純な一言で言い表してしまっていますが、実はこれは極めて複雑な物理現象の結果なのです。般若心経は、そうした人の認識のパターンを五段階の現象として捉えました。」
 真由は再び不思議な感覚に襲われはじめた。物を見るとか聞くということがそんな大袈裟なことなのか。そしてこの単純な人の動作をそこまで細かく分析することに果たしてどういう意味があるというのか。住職はさらに話を続ける。
「色(しき)は「いろ」という字を書きますが、これはこの世に存在する物質のことを言い表しています。あなたの身の回りに見えるありとあらゆる物、これらが全て「色」です。見るという動作は、この色に光が当るところからから始ります。
 光もまた光子という極小さい粒子の集まりです。この光子の束が物質に当ると反射され、四方に散乱します。その一部が、あなたの目の奥にある網膜に届き、そしてそこに並んだ視神経が刺激を受けるのです。これが般若心経でいう第二の段階、つまり「受」です。外界からの刺激を受け止めるという動作です。」
 真由は、初めて緑内障の診断を受けたときに説明された目の解剖図を思い出していた。目に入ってくる光りは最初に角膜というレンズを通過する。ここで屈折した光は次に眼球の中にある水晶体という液体の中を通り、網膜の上に像を結ぶ。網膜には光の刺激を受けるための視神経細胞が無数に並んでいる。この視神経が一つ一つ死んでいくのが緑内障の原因だと真由は聞かされていた。しかし、真由がその時受けた説明はここで終わりであった。人が物を見るためには、この先まだ三段階もの作業が本当に必要なのであろうか。住職はさらに講話を続ける。
「刺激を受けた視神経の中では、ロドプシンというタンパク質が変化を起こし、それによって電気信号が生まれます。その電気信号はすぐさま脳へと送られます。脳では送られてきた電気信号を再合成して、脳内に映像を再生します。これが三段階目の「想」です。想は想像するの想の字を書きますが、文字通り頭の中に映像を想い浮かべるという行為です。
 しかし、この時あなたの脳はまだこの映像を単なる図形としか見ていません。本当に物を見るためにはさらなる情報の分析が必要です。」
 真由は人間の感覚作用の複雑さに圧倒され、無言のまま住職の話に聞き入っていた。
「あなたの脳は、送られてきた電気信号の情報から色、形、大きさ、などいろいろな情報を読み取り、それが何であるか突き止めようとします。ある時は嗅ぐ、触るなど他の感覚器官の助けを必要とする場合もあるかもしれません。そうした行動が「行」なのです。
 例えば、赤くて、丸くて、手の平に乗るほどの大きさの物は何かというようにナゾナゾをしてゆきます。そして最後にそれが「りんご」だと答えを出す。つまり最終段階の「識」に至るのです。文字通り認識するということです。この全ての動作が完了した時、人は初めて物を見たことになるのです。」
 そう言いながら住職は、供物として備えられた果物の山を指差した。真由が視線を移したその先には、山と積まれたりんごと梨があった。この瞬間、真由は五蘊の全てを体験し、りんごを認識した。それに要した時間はわずかO・O一秒ほどである。
「見るという動作はこのように複雑な過程を経て実行されているのです。でも、人はこうした認識パターンを一瞬のうちに処理しています。ですから意識にすら上ることはありません。聞くという動作も、嗅ぐという動作も、全く同じです。全てはあなたの体の中で起きている物理現象の結果なのです。」
 そこまで話すと、住職はすっくと立ち上がると本堂正面の巨大な観音扉をパタリと閉めた。一瞬にして表からの光は遮断され、薄暗かった内陣はさらに真っ暗となった。わずかに残った二本のローソクの火に照らされて、かろうじて阿弥陀如来の塑像がボンヤリと浮かび上がった。
「ほら、こうやって光がなくなると本当に何も見えなくなるでしょう。所詮この世とはこんなものです。全ては外界とあなたの脳とのインターフェースの成せる業なのです。仮に物質の存在自体が「空」であるとしたら、見る対象となる物も、その機能を担うあなたの目も、脳も全てが、空虚なものなのです。五蘊皆空とはそういうことなのです。言い換えれば、あなたがこれまで見聞きしてきたものは全て五蘊が作り出した幻影のようなものなのです。」
 真由は今全てを聞き終わった。そして、誠が最期に「北山不動へ行け」と言ったことの意味がようやく分かった。
 「見える」ということが幻影であるとしたら、「見えなくなる」ということはそうした幻影が消えるということでしかない。光があるから目が必要となる。光がなければ目は無用のものとなる。洞穴ヤモリの目は退化してなくなってしまったのではなかったか。いつか誠の口から聞いた話が真由の脳裏に蘇った。
 一切皆空、輪廻転生、縁起、五蘊……、真由はこれまでに聞いた話を静かに反復していった。そしてその含蓄に富んだ内容を何度も咀嚼した。「見えなくなる」ということをあれほどまでに思い悩んできた自分が何と浅薄だったことか。真由は深い深い後悔の念とともに、言い知れぬ安らかな気持ちに包まれ始めていた。
「さあ目を閉じて、静かに心を無にしてご覧なさい。全ての五感を閉じ、外界とのインターフェースを遮断するのです。」
 住職はそう言うと、最後まで残っていたローソクの火を吹き消した。何もない漆黒の闇が襲ってきた。真由は言われるがままに目を閉じて、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てを一つ一つ閉じていった。途端に真由は不思議な感覚にとらわれ始めた。
 体全体が突然言いようもなく軽くなり、先ほどまで膝にごつごつ当っていた床板の痛みも消えた。真由は、自らの身体を構成している細胞の一つ一つが雲散霧消していくのを感じた。もう右も左も、前も後ろも分からない。生きているのか死んでいるのかすらも分からない。無限に広がる空間を自由自在に飛んでいけそうな、そんな不思議な気持ちにとらわれた。
 どのくらい経ったのであろう。ほんの五分くらいしか経っていないはずであるが、真由にはそれが無限の時間のように思えた。その真由の安らかな瞑想を破り、現実世界へと引き戻したのは、突然の突風であった。
 バタンという大きな音とともに、観音扉が両開きとなり、湿った空気が一気に堂内に流れ込んできた。ギョッとして二人が外に目をやったその時、ガシャーンという轟音とともに、眩い閃光が走った。咄嗟のことで何が起こったのか真由には分からなかった。しかし、次の瞬間真由は目を押さえて床にひれ伏した。
「目が、目が……。」
「ど、どうされました?。」
「目が見えないんです。目の前が真っ白で。」
 長時間真っ暗闇の中にいた真由の瞳孔は、これ以上大きくならないというほどに開いていた。その開き切った真由の瞳孔の奥底に落雷の強烈な閃光が一気に差し込んだのである。何億兆個という光子の束が、真由の網膜に並んだ視神経を直撃した。
 正常な人間の場合、明るい光りが目に入ると瞬時に反応して目を閉じるが、視力の半分以上を失っている真由の目は反応が遅かった。わずかO・O一秒の違いが、繊細な人間の視神経には致命傷となることがある。真由の視神経は完全に機能を停止してしまったのである。
「しばらく、ここで休みましょう。きっとすぐに見えるようになりますよ。」
 住職はそう言うと、鎹を使って風に揺れる扉を止めると、真由の隣に座った。外はいつしか真っ暗となり、大粒の雨がバラバラと音を立てて降り始めた。時折走る閃光と耳をつんざくような雷鳴が代わる代わる襲ってくる。湿気を帯びた風が真由の頬に横殴りに吹き付けた。
 五分、十分……、時だけが経過していく。しかし真由の視覚はなかなか戻ってこなかった。一時的な眩み目にしては回復が遅い。もうこのまま見えなくなってしまうのでは。真由の脳裏に不安がよぎった。一切皆空、五蘊皆空、真由は先ほど住職から聞いた講話を脳裏に写経するかのように何度となく復唱しながら、じっと待ち続けた。待つこと三十分、ようやく真由の目に朧げな住職の姿が戻ってきた。
「もう大丈夫のようです。」
 真由はまだ少し陰の残った目をさすりながら呟いた。
「そうですか、よかった。本当によかった。」
 住職はやれやれというように胸を撫で下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がると先に立って真由を宿坊の玄関口へと案内した。先ほどまで滝のように降っていた雨も上がり、切れた雲間から傾きかけた陽光が一条の光となって差し込んできた。それとともに騒がしいセミの声も戻ってきた。
 真由の口にもう言葉はなかった。今の安らかな心の安寧をどのように表現しても到底言い尽くせるものではなかった。真由の心はようやく誠の心と融和した。溢れ出る涙を抑えながら、真由は何度となく住職に頭を下げると北山不動を後にした。
 豪雨に洗い流された山の草木、そして玉砂利の一つ一つまでが傾きかけた陽光に照らされて美しく輝いた。今の真由にとっては、周囲にある全てがみずみずしく、生まれ変わったように感じられた。


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