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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

第4回   悲劇
 一ヶ月後。結婚式場。
「誠さん、このドレスはどうかしら。」
 二人は一ヶ月後に迫ってきた結婚式の打ち合せをするため、東山にあるホテルのブライダルルームを訪れていた。真由の手には、ウェディングドレスのカタログが握られていた。
「真由の晴れ姿を見るのもこれが最後になるだろう。一生の思い出になるものにしよう。」
 誠は最近ますます低下してきた視力を庇うかのように、カタログに見入っていた。出来る限り目の話しはしないつもりでいても、ついつい口を衝いて出てしまう。自分の視力に残された期間がもうそう長くはないということは、眼科医である誠自身が最もよく分かっていた。しかし、今の二人にはそんな辛い話しも平静をもって聞くことが出来た。
「新郎新婦のお席は、出席者の皆さんと同じ高さにさせて頂きます。」
 コーディネーターが披露宴会場の設営につき説明を続ける。バリアフリー、最近ようやくこの言葉が定着してきた。頻繁にひな壇を上り下りする新郎新婦にとっては、わずかの段差も気にはなる。誠の目が不自由であることを知っての上で、出来る限り健常者と同じように自然な披露宴をと願っての、心憎いばかりのホテル側の気配りであった。二人はそんな細やかなホテルの配慮が気に入って、ここを結婚式場に選んだ。  
 二人は、コーディネーターに案内されて、さらに控え室からチャペル、バンケットルームと下見をして回った。いずれも段差は取り払われており、これであれば車椅子でも不自由なく移動が出来る。二人は一ヶ月後に迫ったその日を頭に思い浮かべながら、幸せ一杯にホテルを後にした。

 夕暮れ少し前に、二人は誠のマンションに戻った。エレベーターホールを抜け廊下を進む間に、二人は誠の部屋の当たりに佇む怪しげな二人の人影を見かけた。こんな時間にこんなところで一体何を。泥棒?、いや泥棒にしてはきちんとした身なりである。それにこそこそした様子は微塵も感じられない。それどころかその目つきは人を威圧するように鋭かった。二人の手に緊張が走る。真由が二人を避けるように通り過ぎようとしたその瞬間、二人のうちの一人が声を掛けてきた。
「林田誠さんですね。厚生労働省の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして。検察庁までご同行願えませんか。」
 その人物は例の手帳らしきものをチラリと見せると、すぐに屈強な腕でガッシと誠の手首を掴んだ。抵抗する間もなく、あっという間に誠はエレベーターホールまで連れて行かれた。
 エレベーターホールには先程真由と誠が乗って上がってきたエレベーターがそのまま待機していた。男二人は誠の両脇を抱えるようにエレベーターに乗り込んだ。慌てて乗り込もうとする真由の身体を遮るように、一人の男がしゃがれた声で呟いた。
「ご心配いりません、すぐに済みますから。」
 真由が何かを口にしようとした時には、無情にもエレベーターのドアが閉じていた。慌てて非常階段を駆け下りる真由。薄暗くなりかけた階段は、やはり視力の落ちた真由には辛かった。何度も階段を踏み外しそうになるのをじっとこらえながら、ひたすら階下を目指す。わずか三階差を降りる時間が無限に長く感じられた。
 やっとの思いで、一階のエントランスまで降りた真由が表通りに出た時、バタンと車のドアの閉じる音がした。音のした方を真由が振り向いた時、誠を乗せた車は既に人気のなくなった通りを急発進していった。真由は呆然としたままマンションの前に佇むだけであった。

 翌日。
「真由さん、誠が検察に連れて行かれたんですって、一体あの子ったら、何を……。」
 電話の向こうの節子の声は明らかに動転していた。節子にしてみれば、目の不自由な誠が検察庁の世話になるようなことをしたとうことが全く信じられないという風であった。
「大丈夫です、お母様。きっと何かの間違いです。誠さん、すぐに戻ってきますよ。」
 真由は自信あり気に電話に向って話してはみたものの、内心は不安な気持ちで一杯であった。とうとう恐れていたことが起こってしまった。例の診断書のことが当局の知るところなった以上、何事もないでは済まされないであろう。真由の心のうちには、絶望感だけが黒雲の如く沸き上がっていった。節子に悟られまいとするものの、電話で話す真由の声は既に涙声になりつつあった。
 しかし、真由は気丈であった。その日のうちに「緑内障患者友の会」の事務所を訪ねた。もはや個人の力ではどうにもならない。組織の力を借りれば誠を助け出せるかもしれない。真由はワラにもすがる思いで事務所の門を叩いた。
 「友の会」の事務所は、烏丸にある雑居ビルの最上階にあった。四人乗るのがやっとの狭いエレベーターがゆっくりと六階まで上がる。エレベーターを降りると、すぐ眼前に雑然とした事務所の風景が広がった。
 事務所の中は騒然となっていた。全国から寄せられた署名と思われる紙片がうず高く積み上げられ、五人いる職員全員が引っ切り無しに鳴る電話の応対に追われていた。壁には産児制限法反対を唱える大きなポスターが貼られ、その横には今日までに集められた署名の集計結果を示す棒グラフが描かれていた。
 受付で事情を説明すると、やがて所長らしき男性が応対に出た。
「いやー、林田先生のことはよく存じ上げています。先生には何百人という数の緑内障患者がお世話になりました。いやそれどころか全国にいる何百万という患者にも多大の勇気を与えて下さいました。本当に林田先生には足を向けては寝られませんよ。」
 真由はよかったと胸を撫でおろした。この人達が誠の救出に力を貸してくれるに違いない。百万人の会員がいると言われる友の会が動けば、政府としても黙ってはいられないはすである。そうすれば誠はすぐに真由の手の元に戻ってくる。しかし、そう思ったのも束の間、真由は次の瞬間冷たい言葉を耳にしていた。
「お助けしたいのはヤマヤマですが、今は少しタイミングが悪すぎます。実は来週早々にも、反対同盟は百万人の署名を集めて政府に産児制限法の撤廃を求める陳情をすることになっています。こんな大事な時に、抜け駆けで法破りをしていたことが表に出るのは、いかにもまずい。たとえそれが人道的に見て正しいことでも、そうは見ない人もこの世には多くいます。
 私たちは今回の陳情を何としても成功させたいのです。今度の陳情が成功すれば、産制法は撤廃になるはずです。そうすれば何もかもが終わるのです。もう少しの辛抱ですよ。」
 所長は自らの抱負を熱っぽく語った。あまりの熱心さに真由はそれ以上説得を続ける術を失った。あと一週間待てば全てが解決する。真由はこの言葉を信じた。しかし、このことが後になって取り返しの付かない大事に発展することを、この時の真由は予想だにしていなかった。

 検察庁取調室。
「先生、ええ加減に吐いたらどないや。楽になるでー。悪いことは言わへん。先生が診断書書いた人のリストあるやろ。そのありかを教えてくれるだけでええんや。ほなすぐに家に帰れるで。捜査に協力してくれたら、あんたも無罪や。全部まあるうー収まるんや。」
 誠は狭い取調室に入れられていた。誠を取り囲むように二人の捜査官と思しき人物が、一人は椅子に腰掛け、一人は誠の後ろに立っていた。誠はそんな二人を無視するかのようにように黙っていた。もう何時間もこんなことが続いていた。テーブルの上の灰皿には煙草の吸い殻が山のように溢れ、取調室の中は目が痛くなるほど煙が渦巻いていた。
「わーれ。ええ加減にせーよ。お役所なめたらえらい目に遭うど。」
 突然捜査官の一人が、凄んできた。ガシャーンという椅子が吹っ飛ぶ音がしたと思うと、次の瞬間誠は手首に焼け付くような痛みを覚えた。捜査官が繰り出す火攻めをじっと耐える誠の額には脂汗が滲み出た。
「ほんましぶといやつやなー。ええか、耳かっぽじってよう聞きやー。おまえらの一人や二人どないでもなるんやでー。取調中に急性心不全ということにでもしょうか。」
 今度はもう一人の捜査官が誠の胸座を掴むと、グイッとばかりに締め上げた。襟が締って息が出来ない。苦しみに歪む誠の顔。次の瞬間、誠はどっかと投げ出され、床の上に倒れ落ちた。倒れる際に、こっぴどく机の角に顎をぶつけた誠は、アッパーカットを食らったようにクラリと来た。
 顎をぶつけた時に弾みで眼鏡が飛ばされたのであろう、誠の眼前は湯煙に包まれた風呂場のように変わった。四つん這いになった誠は手探りで眼鏡を探して取調室の床を這いずり回った。捜査官は爪先で誠の横腹に足蹴をくれながら嘲笑を飛ばした。
「情けないなー、盲いうんは。なんやーこのざまは。しゃあーない、今日んところはこれまでにしたろ。続きは明日や。一晩よう考えてみー。」
 二人の捜査官は担当の係官に誠を留置所に連れて行くよう指示すると、声高に笑いながら取調室を出ていった。

 真由のアパート。
「誠さんたら、こんなに。」
 真由は誠から預かったファイルをパラパラと繰った。ハードカバーの分厚いファイルが二冊、これまで誠が診断書を書いた人達の記録である。捜査官に連行される二日前、それを予感するかのように誠は密かにファイルを真由に預けた。このファイルが捜査官の手に渡っていたら一大事である。これまでの誠の努力が全て灰塵に帰するところであった。
 真由は一枚一枚丁寧にファイルされた診断書のコピーを繰っていった。この一人一人が誠の手によって子供を授かる機会を得た人々である。本来なら大罪となる誠のこの行為が、しかし多くの人を苦しみから救ったのである。常人に出来ることではない。
 その時、真由はふと診断書と一緒に綴られた一通の手紙に目が留まった。几帳面な字で書かれた便箋は全部で三枚あった。

林田先生
 先日は本当に有り難うございました。おかげ様で無事元気な男の子を産むことができました。先生に教えられた通り、たとえ私の目がどうなろうとも、そしてたとえこの子の目がどうなろうとも、私たちは絶対に先生のご恩を無駄にはいたしません。
 遺伝子により人の命を選別する、そんな馬鹿げたことがいつまでも続くとは到底思われません。命は神から授かるもの、それを人の手でどうこうしようなんて、いずれ天罰か下ります。
           < 中略 >
 でも、私は先生のことが大変心配です。本来なら頂いた診断書はあってはならないもののはずです。この診断書が先生ご自身の地位と引き換えになりはしないかと気が気でなりません。どうかご自愛なされて、くれぐれもご無理なさいませぬよう。     かしこ

 手紙とともに、一枚の赤ん坊の写真が出てきた。無邪気に笑う赤ん坊の瞳は黒く、そしてキラキラと輝いていた。こんなつぶらな瞳が緑内障に冒されるということが、真由には信じられなかった。いつかきっと治療法が見つかる、いや見つけなくてはならない。真由はそう実感するのであった。
 真由は、丁寧に診断書を繰っていった。最後の診断書のナンバーは「五九八」、そして書かれた日付は三日前となっていた。誠は連行されるつい先日まで、欠かさず診断書を書き続けていたのである。
自分が書いた論文のせいで多くの人々が苦しむ結果となったことを、誠は常々悔やんでいた。誠はきっと罪滅ぼしのつもりで、この診断書を書き続けてきたのであろう。真由は今ようやく誠の気持ちが分かり始めたような気がした。
 何とかしなければ、この人の帰りを待っている人々はまだ何千何万といる。一日も早く戻れるようにしなければ。真由は電話帳のページを繰ると、誠の弁護人の電話番号を調べた。そして、受話器を取り上げようとしたその瞬間、電話がけたたましく鳴り響いた。
 ギョッとして取り上げた受話器の向こうには動転したような女性の声があった。
「ああ、真由さん。節子です。」
 一体どうしたのだろう。真由は節子の声の調子から只ならぬ気配を感じ取った。
「今、京都の洛北病院から電話があって、誠が風呂場で躓いて頭を打ったらしいの。かなりひどいらしくて、すぐに病院に来てくれって。私もすぐに向うけど、真由さん先に行ってもらえないかしら。お願い……。」
 節子はかなり動転しているらしく、その後が言葉にならなかった。突然のことで真由も驚いた。一体誠に何があったのだろう。そして怪我とはどの程度のものなのだろうか。
 真由は家を飛び出すと、すぐにタクシーを拾った。真由のアパートから洛北病院までは車で三十分程の距離である。しかし、夕刻時の京都は大変な交通渋滞でタクシーはノロノロとしか進まなかった。真っ直ぐに伸びた東大路のはるか向こうまで赤色の信号が並んでいるのが見える。
「運転手さん、お願いです。急いで下さい。」
「わかっとります。でもこの渋滞では、どうもなりまへんで。」
 運転手は気の毒そうに応えた。真由は諦めるかのように後部座席に身を沈めた。家を出て約一時間、タクシーはようやく洛北病院のエントランスに入った。真由は慌てて料金精算を済ませると、小走りに病院の中へと入った。診療時間の終わった受付は人気もなく、迫り繰る闇の中で自動販売機の明かりだけが異様に明るく輝いていた。
 ナースステーションで来院の目的を告げると、救急病棟に行くようにと指示された。 
 真由は長い廊下を息を切らせて走った。人気のない廊下にパタパタという足音だけがこだまする。真由はようやく林田誠という札の掲げられた病室の前に辿り着いた。丁度診察を終えた医師が部屋から出て来たところであった。
「ご家族の方でしょうか。」
 医師は真由の姿を見るなり、切り出した。
「ええ、婚約者です。で、具合はどうなんでしょうか。」
「出来る限りの処置はしました。でも予想以上に損傷がひどくて…。」
 医師は気の毒そうに首を横に振った。
「そ、それって、どういうことでしょう。」
 次に医師の口から出てくる言葉を予想してか、真由の両足はガクガクと小刻みに震え始めた。
「つい二時間程前のことでした。検察の方から電話がありまして、内の病院じゃ手に負えない患者がいるということで。何でも拘置所の浴槽でつまずいて転ばれたとか。林田さん目がご不自由だったようですね。それで、緊急手術を施しましたが脳挫傷による出血がひどくて、もう手の施しようがない状態で……。」
 そこまで聞いた真由は気が遠くなりそうになった。やっとのことで看護師に支えられるようにして廊下の長椅子に身を沈めた。それから暫くして気持ちを落ち着けた真由は、恐る恐る病室の扉を開いた。
「ピッ、ピッ、ピッ。」
 規則正しく心電図をモニターする電子音が静かな病室に響く。頭に二重三重に包帯を巻かれた誠は、痛々しい姿でベットに横たわったまま静かに眠っていた。誠の腕には点滴の針がさされ、ポタポタと落ちる輸液の滴が見えた。血の気の引いた誠の顔にはあちこち蒼いあざがあった。浴槽でつまずいて出来るようなものでないことは素人目にもはっきりと分かった。
「ひどい、ひどすぎる。こんなになるまで。どうして……。」
 真由はベットの傍らに跪くと誠の手をしっかりと握り締めた。それに反応するかのように誠の目が微かに動いた。ほとんど視力を失した誠の目は何かを探し求めるかのように空ろに中空を見詰めていた。
「真由?。そこにいるのは君か。」
「そうよ、誠さん、真由よ。分かる?。」
 そう言いながら、真由が握り締めた手の平に力を入れると、誠はそれに反応するかのように答えた。
「ああ、すまなかったな。心配をかけて。」
「ううん。いいのよ。それより早く元気になって。誠さんを待っている人が大勢いるわ。」
 真由は誠が書いた診断書のことを思い出しながら、誠にそう言った。話したいことは山のようにあったが、次から次へと湧き出る涙のせいで言葉にならなかった。
「ああ、そうだな。でも、そんなことより真由のウエディングドレス姿を早く見たいな。」
「見れるわよ。もうすぐ。きっと、きっと……。」
 真由は気も狂わんばかりに誠にすがりつくと、その腫れ上がった顔に頬ずりした。零れ落ちる涙が、乾き切った誠の唇を濡らす。
「疲れた、眠りたい。」
 誠がその一言を呟いた瞬間、心電図モニターの電子音が急に途切れ途切れになり始めた。すぐさま先ほどの医師と看護師が病室に駆け込んできた。
「血圧低下、五十〜二十。呼吸停止。」
「心臓マッサージ。カンフル静注。二十CCだ。」
 医師はバッと誠の胸を開くと、すぐさま両手を当ててエイッエイッと心臓マッサージを始めた。一方、看護師は注射器にアンプルから輸液を抜き取ると、素早く誠の腕に針を刺し込む。真由は、見ていられなくなり、病室の片隅にしゃがみ込んだまま両手で顔を覆ってしまった。
「エイッ、エイッ、エイッ。」
 医師の懸命の心臓マッサージが続く。しばらくして弱々しい心音が戻ってきた。
「真由……。」
 誠は最後の力を振り絞るように微かな声を出した。誠の口元に耳を近づけた真由が最後に耳にした言葉は。
「北山不動に行くんだ。北山……。」
「き、北山不動がどうしたの、そこに何があるの。」
 しかし、真由が叫んだその瞬間、プーッという音とともにモニターの画面に映し出された心電図の波形は完全に真っ平らな横線となった。医師は、そっと頚動脈に手を触れると、続いてペンライトをかざして瞳孔を確認した。
「午後九時十二分。お気の毒ですが。」
 医師は深々と頭を下げた。
「先生、何とかして下さい。ほらっ、誠の身体はまだこんなに温かいんです。まだ誠は生きています。先生、先生。」
 真由は必死になって医師の袖口にすがり付くが、医師は直立不動で頭を下げたまま微動だにしなかった。このような場面に慣れているはずの看護師もそっと目頭を押えて背を向けた。真由は誠の上体の上に突っ伏して、大声を上げて泣き叫んだ。
 そこへ一人の女性が息を切らして病室に駆け込んできた。節子であった。
「ま・こ・と…………。」
 病室の中の様子から一瞬にして全てを悟った節子は、そこから先が言葉にならなかった。放心状態の老親の目からは不思議と涙すら出なかった。まだ事の重大さを咀嚼しきれないでいるようであった。
五分程たってようやく病室から女性が号泣する声が廊下にまで響き渡った。真由は優しく節子の手をとりながら、だんだんと冷えていく誠の身体を一晩中いたわり続けた。

「南無大師遍上金剛、南無大師遍上金剛……。」
 葬祭場に読経の声が響き渡る。正面には白い菊の花に包まれた誠の遺影が飾られ、誠の亡骸は静かに棺の中で眠っていた。時折鳴り響く鐘の音が殊更にその場の侘しさを増幅した。黒の礼服に身を包んだ真由は、黒留姿の節子を支えるようにして立ったまま、焼香に訪れる会葬者の一人一人に深々と頭を下げていた。
「そうだったの。あの子がそんなことをねー。あの子ったら一言もそんな話はしてくれなかった。小さい頃から恥ずかしがり屋でね。人様に喜ばれるようなことをしてもいつも黙ったままで。」
 節子は手にしたハンカチでそっと目頭を押えた。誠はどうやら診断書のことは節子にすら話していなかったらしい。いらざる心配を掛けまいとする優しい気配りであった。
 二人がそんな話をしている間に、一人の乳飲み子を抱いた女性が焼香に立った。
「ほら。あの人があんたのもう一人のお父さんだよ。あの人がいなかったらあんたは生れていなかった。そして多分……、私もここにいなかった。」
 その女性は誠の遺影に向って子供に言い聞かせるように話をした。幼子はそんな母親の言葉の意味も分からず、無邪気な笑顔を振り撒いていた。
「あのー。誠さんとはどういうお知り合いで。」
 真由は焼香を終えて戻って来た女性に声を掛けた。
「林田先生は、私達二人の命の恩人なんです。あれは一年ほど前のことでした。初めての子供が出来て、それで国が定めたDNA検査っていうのを受けたんです。そしたら緑内障の因子があるって言われて、検査をしたらもう視野の三十パーセントも欠けてるって。まさか自分がと思いました。だって全く普通に見えてるんですもの。そしたら追い討ちを掛けるように、お腹の赤ちゃんを中絶するよう奨められて……。」
 ああこの人も同じだ、真由はそう思った。その女性は一瞬周囲を憚るような様子を見せたが、意を決したようにさらに心中を吐露した。
「私は絶望の余り、もう死ぬことしか考えていませんでした。そんな私を諭して下さったのが林田先生でした。先生は、どんな重い障害があろうと生れて来る子供に罪はない。そんな子供たちの将来の可能性を勝手な大人達の都合で奪い取っていいものか、とおっしゃいました。それであの診断書を……。」
 そこまで話すとその女性は大粒の涙をポロポロとこぼした。真由は、この瞬間この女性があの五九八人の内の一人であったと知った。
「そうでしたか。誠のためにわざわざご会葬下さいまして、本当に有り難うございました。あの子もさぞ喜んでいることでしょう。」
 節子が声を詰まらせながら、深々とお辞儀をした。しかし、次の瞬間、この女性の口から意外な言葉が返ってきた。
「私、心に決めました。明日テレビ局に行きます。行って全てを国民の前に明らかにします。こんな理不尽なことが許されるはずがない。私、先生の死を無駄にしたくないんです。」
 真由と節子は突然のことで大変驚いた。
「でも、そんなことをすればあなたは罪人。折角生まれてくるお子さんは一体どうなるんですか。」
 真由は咄嗟のことで何と言っていいか分からず、とりあえず女性を制した。しかし、この女性はひるまなかった。
「いいえ、私のことはいいんです。それよりも私は日本人の心にまだ温かい血が流れていることを信じたいと思います。黙っていては、不幸は広がるばかりです。お願いです。林田先生のこと、あの診断書のこと、全てを世の中の人に知ってもらいたいんです。」
 真由はさらに驚いた。この人はたった一人で権力に対して闘いを挑むつもりである。このか弱い女性のどこからそんな強い勇気が生れるのであろうか。人は苦難を経験すればするほど強くなるというのは、本当にあるものだと真由は思った。この人に比べれば、自分は何と情けないことか。一人で闘う誠の命すら助けることは出来なかった。返事をためらっていた真由を差し置いて、今度は節子がポツリと言った。
「宜しくお願いします。誠もきっと浮ばれることでしょう。」
 亡くなった我が子のことをそこまで考えてくれる人がいることが、節子には余程嬉しかったらしい。誠を罪人のまま見送ることは出来ない、何としても名誉だけは回復してやりたい、節子の目はそう語り掛けていた。
 夜九時を回り、ほとんどの会葬者は三々五々帰って行った。真由と節子は静かになった祭殿の前で、誠の遺影を見つめていた。人気のなくなった斎場の中は一層侘しさを増し、二人は心の中にポッカリと大きな穴が開いたことをようやく実感した。誠が死んでまだ四十八時間しか経っていないといのに、二人には無限の時が過ぎたように感じられた。
「お母さん、北山不動ってご存知ですか。」
 真由が、侘しさを紛らせるように尋ねた。
「北山不動?。」
「ええ、誠さんが息を引取る間際に口にしたんです。北山不動に行けって。」
 節子に思い当る節はなさそうであった。「北山不動」。どこかのお寺の名のようであったが、あまり聞いたこともない。一体、北山不動はどこにあるのか。そしてそこへ行けば何があるというのか。そして誠は何故あのような不可解なことを言い残したのか。
 二人は互いに顔を見合わせたまま思案を巡らせた。やがて真由は立ち上がると、葬祭場の電話ボックスに置かれていた分厚い電話帳を持って来た。真由がパラパラと電話帳を来る脇から、節子は肩を寄せ合うように覗き込んだ。北山クリーニング、北山酒店、北山病院、……、北山のつく名前は数多くあったが、結局「北山不動」という名は発見できなかった。余程小さい寺か、あるいは北山不動というのは俗称で別に正式名称があるのかもしれない。いや、そもそも京都にあるお寺なのかどうかも分からないのである。真由は諦めるかのように、電話帳を元に戻した。

 三日後。
 告別式を終えた真由は、節子の依頼で誠のマンションの片付けに来ていた。心労が祟ったのであろう、告別式の翌日から床に臥せっていた節子は、マンションの片付けを真由に頼んだのである。もとよりそのつもりでいた真由は、節子の依頼を二つ返事で引き受けた。
 見慣れたはずの誠のマンションも、主の姿を欠いては全く別の部屋のように思えた。しばらく人気のなかったせいであろう、テーブルの上には薄っすらと埃が積もり、デスクの上には読み掛けの本が開かれたままとなっていた。恐らく誠が連行されてからずっとこのままの状態であったのだろう。ベットの枕元に置かれた目覚し時計のコチコチという音だけが、一層その部屋の侘しさを増幅した。
 真由は書棚に並べられた本をいとおしむようにダンボール箱に詰め始めた。手垢の付いた本の一冊一冊に誠の思い出が詰まっている。そう思うと改めて一人取り残された寂しさが込み上げてきた。
 その時、真由は書棚の中に数札のポケットアルバムがあるのを見つけた。アルバムというよりは、写真屋でよく景品としてくれるような薄っぺらなホルダーである。真由は何とはなしにその一冊を手に取ると、パラリと開いてみた。
そこには誠と手をつないで嬉しそうに微笑んでいる自分の姿があった。半年ほど前、二人で訪れた大原三千院の門前で撮ったものである。たまたまそこに居合わせた外人観光客にシャッターをお願いしたのだが、その後散々英語で話し掛けられて困ったことが、ほんの昨日のことように思い出された。もうあの人はこの世にいない。真由の心の中に懐かしさが込み上げ、また目頭が熱くなるのを覚えた。
 真由はさらにページを繰っていった。どこかの居酒屋で友達とグラスを掲げる誠、海水パンツ一枚で水を掛け合っている誠、制服姿で緊張した面持ちで写った誠、いろいろな誠が次から次へと現れては消え、また現れた。真由は目を細めて誠の人生を振り返っていた。
 その時、ふと一枚の写真が真由の目に留まった。誠ともう一人、がっしりした体格の青年が写っている一枚の写真があった。どこかの寺の山門のようである。山門の奥には天まで届くような高い石の階段が続いているのが見えた。
 その写真を手にした時、真由はふと不思議な感覚にとらわれた。何故かこの場所が初めてではないような気がした。自分は遠い昔、この山門を通って行ったような気がする。でも一体ここはどこなのだろう。何か手掛かりになるものがないかと写真を見つめていた真由の脳裏に、はっきりと自分を呼ぶ声が聞こえた。
「真由、ゆっくりだよ。」
 その声は確かにそう言った。死んだ真由の祖母の声であった。真由がまだ小学生だった頃、祖母と二人で間違いなくこの地を訪ねたことがあった。目の不自由だった祖母は、真由を杖代りによく連れて歩いた。この時もそうであった。急な石段を駆け上がろうと無邪気に走り回る真由を、祖母はたびたび制しながら一歩一歩この高い石段を踏みしめて上がった、そんな祖母の姿を真由は今鮮明に思い出していた。
 真由は二十年以上も前の微かな記憶を辿った。確か電車とバスを乗り継いで京都の遥か北の方へ行ったような気がする。真由は書棚の中に地図がないかと探し回った。
 やがて「京都市市街図」というポケット版の地図があるのを見つけた真由は、ゆっくりと大判の地図を広げた。京都市は意外に広い。左京区と右京区は遥か北の山間部まで広がっている。真由は慎重に地図の上端からそれらしき場所がないかどうか調べ始めた。
 こうした大判の白い地図を見ていると、はっきりと視野が欠けているのが自覚できる。発症から三年、症状はさらに進んだようであった。真由は、そんな目を庇いながら、どんな小さな字も見落とすまいと慎重に地図を探した。混み合った等高線は山が急峻なことを表わしている。その等高線の間を縫うようにうねうねと曲がりくねった道路が北へと延びており、ところどころに集落を表わす地名と黒い点が描かれていた。
 真由の予感は的中した。京福電鉄の終着駅鞍馬駅からさらに北へ十キロ程行った山中にその寺は存在した。卍のマークの脇に記された「称明寺(北山不動院)」という文字には微かに鉛筆で囲った後が見られた。やはり誠はこの寺を訪ねたことがあるのだ。この写真はその時写したものなのであろう。
 しかし、一体誠はこの寺で何を見聞きしたのだろうか。そしてこの誠と一緒に写っている青年は一体誰なのか。この世の最後の言葉として言い残すほどの秘密がこの寺にあるというのか。子供の頃の真由の記憶では、何の変哲もない普通の寺であったように思える。それとも子供であった真由は何か重要なものを見落としていたのか。とにかく、何としても一度この寺に行かねばならない。真由は片付けもそこそこに、誠のアルバムから件の写真を抜き取ると、バックの中に差し込んだ。

 翌日、真由は鞍馬駅から北へ向うバスの中にいた。一日わずか三往復しかないバスの車内は、真由以外に地元の人と思われる老婆が一人とお遍路姿の女性が二人、全部合わせてもわずか四人の乗客しかいなかった。右へ左へと大きく揺れるバスの車窓からは洛北街道の鬱蒼とした杉木立が続いているのが見えた。
 真由はそんなバスの揺れに身を任せながら今後のことを考えていた。誠という大きな支えをなくした自分はこれから何を拠り所として生きてゆけばいいのだろうか。失明という重圧の中でこれまで懸命に頑張ってこられたのも、全て誠のお陰であった。その最愛の人を失った真由には、再び「生きる」ということに対する疑問が生じ始めていた。
 鞍馬を出て約四十分、バスは終着の北山背に着いた。北山背は洛北の山間にある寒村で、五十軒程度の家々が谷間に寄り添うように建っていた。目指す北山不動へはここからさらに歩いて三十分の道のりである。交通の便が悪いこともあって、専ら地元の人や修験道の行者等の限られた人だけが、この寺を訪れるようであった。
 バス停を後にして歩き始めると、すぐに山が目の前に迫ってきた。行き止まりかと思えるほどの狭い山道も、近づくと器用に曲がりくねって上へと続いている。そんな九十九折りの参道を息を切らせて上っていくと、やがてあの写真で見た山門が見えてきた。
 実物は予想外に小さかった。急な斜面に張り付くように建てられているため、スペースがあまりなかったせいであろう。山門の脇には、長年の風雨に晒されて消え入りそうになった「称明寺」という文字が微かに読み取れた。これでは写真にも写らないはずである。
 息を切らせて山門まで辿り着いた真由の背中はもう汗でびっしりと濡れ染まり、額からも玉のような汗が噴き出していた。しかも、ここから上はさらに急な石段である。真由は今ようやく祖母の言葉の意味が分かった。身軽な子供にとってはこの程度の坂はどうということはないが、年老いた身には相当きつかったであろう。そんなこととはつゆ知らず、無邪気に駆け上って行こうとしていた自分は何て冷たい人間だったんだろう。そんなことを考えながら、真由は石段の下で立ち止まって息を整えた。
「お先です。」
 そんな真由を横目で見ながら、先ほどのお遍路姿の二人は休むことなくスタスタと石段を上り始めた。こうした山道は幾度となく上っているのであろう、達者なものである。一頻り感心していた真由は、ようやく石段に第一歩を乗せた。見上げれば天まで届くかのような急な石段の最上部は下からでは全く見えない。先に進んだお遍路さんの姿は既に随分と小さくなり、石段の上に覆い被さるように茂った木々の枝の間に見え隠れしていた。
 真由は一歩一歩苔むした石段を踏みしめるように上り始めた。靴底にごつごつ当るこの石の感触は二十年前と全然変わっていなかった。その時、懐かしい祖母の声が再び聞こえてきた。
「真由、ゆっくりだよ。ほら、走ったら危ないよ。」
 祖母はこの時どれほど見えていたのだろうか。目を患って久しく、もうほとんど見えていなかったのかも知れない。かわいそうに、医者から見放された祖母は、最後に御仏の力にすがるためにここを訪れたに違いない。もっと優しく祖母の手を引いてあげればよかった。後悔の念とともに、真由の目は汗とも涙ともつかないものでグシャグシャになっていった。
 もうどれ程上って来たであろうか、突然視界が開け尾根伝いに涼しい風が吹いてきた。見上げると、微かに記憶に残っていた北山不動の本堂が視界に入ってきた。ようやく石段を上り切る頃、不思議と真由の汗も涙も乾き、かすかなしょっぱさだけが舌にまとわりついた。
 境内からは遠くまで続く洛北の山々が見渡せ、さらにその向こうに微かに京都の市街地が見えた。境内はきれいに玉砂利が敷かれ、正面に本堂、脇に宿坊、そして本堂の裏手にはさらに奥の院へと続く細い小道が見えた。昼下がりの境内には訪れる人もなく、セミの声だけがうるさいほどに鳴り響いていた。真由は息を整えながら宿坊へと向った。


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