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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

第3回   挑戦
 本能寺境内。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなーりー。一度生を得て滅せぬもののあるべきかー。」
 物悲しい鼓と笛の音に合わせて、シテ方の見事な舞いが続いてた。本能寺にある能舞台では、毎年夏になるとこの場所で明智光秀との戦いに敗れて自害した織田信長がこよなく愛したと言われる能楽「敦盛」が演じられた。
 能舞台の前で焚かれるかがり火のわずかな光に照らされて、一層優雅な雰囲気が醸し出されていた。舞台前は咳払いをするのも憚られるほどピーンと張り詰めた空気が満ち、シューという絹の衣装の擦れる音までが耳に届いた。やがて舞いを終えたシテ方が静々と橋懸かりを下がっていく。静かだった場内に拍手が沸き起こり、終演を迎えた。観客は舞台の余韻を楽しむかのようにパラパラと席を立ち始めた。
「能の精神は般若心経に通じるものがあるそうです。」
 誠は、舞台正面を見据えたままようやく口を開いた。
「般若心経?、ですか。」
 真由は思わず聞き返した。
「そう、般若心経。仏教の基本の基本の教えです。この世は一切が「空」すなわち本来は何も存在していない、従って物事に一々拘ってはいけないという釈迦の教えです。」
「何か難しそうな、お話ですね。」
 真由も般若心経という言葉くらいは耳にしたことはあったが、それがどういう教えなのかは全く知らなかった。
「能が生れたのは今から六百年くらい前、室町時代のことです。世の中は乱れに乱れ、人々は明日をも知れぬ中で暮していました。そうした人々の心の支えになったのが諸行無常を説く仏教だったのでしょうね。世阿弥はきっとこの世の地獄を見たのでしょう。そしてこのような素晴らしい芸術が生み出されたのかもしれない。」
 真由は誠の説明に逐一頷きながら聞いていたが、まだ大きな疑問があった。誠は一体なぜ能なんかに興味を持つようになったのだろう。今の世にはありとあらゆる芸術や文化が満ち溢れている。どちらかというと退屈そうな古典芸能のどこにそんなに惹かれたのだろうか。
 真由がそんなことを考えている間にも、観客の列が引いて二人もそれに付き従って本能寺の門前へと出た。外は既に真っ暗になり、上りはじめた月が寺の本堂の大屋根に掛かっていた。
「大分涼しくなりましたね、少し歩きましょうか。」
 誠はそう言うと、そっと右手を差出した。真由は遠慮がちに左手を差し伸べ、誠の手を取った。トレーニングを通じてかなり親しくなってはいたものの、こうして誠の手を握るのは初めてであった。誠は真由の手を取ると、河原町を過ぎ鴨川縁へと歩みを進めた。
「私が能楽に興味を持ちはじめたのは三年前のことでした。担当した患者さんに能楽師の方がいらっしゃいまして。確か翔応流の宗家の方とか。やはり緑内障を患っておられて、トレーニングに通って来られたんです。あの素晴らしい身のこなしは今でもはっきりと覚えています。その方は、能の極意は「無」の境地に至ることだとおっしゃっていました。全身全霊を無にすれば、身も心も空気のように軽くなり、あの狭い能舞台が無限の空間に変わるとね。」
 人間は本当にそこまで変われるものなのであろうか、真由は不思議な気持ちで誠の話を聞いていた。
「それで、その方は今はどうされているのですか。」
「まだ現役で活躍されていますよ。もうほとんど見えていないはずなんですが。舞台に立つと全くそんな素振りは見られないし、今じゃ人間国宝の候補にも名が上がっているそうです。障害があるがゆえに健常者には到達できない奥深い芸術性を体得されたのでしょう。」
 真由はますます驚いた。健常者には到達できない極致、そういう世界があること自体がまだ信じられなかった。
「私も不思議な気持ちで一杯でした。緑内障に苦しむ患者さんの姿を毎日毎日見ていた私は、医学の限界を感じ始めていました。あんなに苦労して勉強して医者になったのに、自分の病気すら治せない。情けなかった。苦しかった。そんな時、能との出会いがあったんです。あの方の力強い一言に、人間の無限の可能性を見たような気がしました。それから能の不思議な世界に魅せられていったのです。」
 真由は今ようやく誠がなぜ能に興味を持つようになったのかを知った。頼もしく思えた誠も、実はもがき苦しみ、答えを求めて悶々としていたのだ。真由は温かく大きなものに包まれたような穏やかな気持ちになった。それが何なのかわからない。ひょっとすると、これが能の持つ魅力というものかもしれない、真由はそんなことを考えながら誠の手を握り締めていた。
 道はいつしか三条大橋の近くになっていた。夜十時を過ぎると、この辺りはすっかり人通りも少なくなり、川面を渡ってくる夜風が暑い京都の夏に涼を与えていた。その時、突然誠が歩みを止めた。そして振り向きざまにはっきりと真由に告げた。
「真由さん、このままずっと僕の支えになってくれませんか。僕はこう見えても弱い人間です。本当は、見えなくなることがとても怖いんです。いつも張り詰めているようで、少しでも触るとこわれてしまうんじゃないかって気がして。あなたのような人に、しっかりと支えてもらいたいんです。」
 真由は咄嗟のことで言葉を失った。予想だにしていなかった誠のプロポーズの言葉であった。二年前のあの最初の出会いの時のこと、そして一年前の再会の日のこと、そして辛かったトレーニングの日々、全てが走馬灯の如く真由の頭の中をぐるぐると駆け巡った。
 あの絶望的な告知の瞬間以来、二度ありえないと思っていた至福の時が今真由の周囲に満ち溢れていた。真由は無言のまま誠の胸に飛び込んだ。真由の目には止め処もなく涙が溢れ、誠の襟元をしっとりと濡らした。時折遠くを行き交う車のヘッドライトだけが、しっかりと抱き合った二人の姿をいつまでも繰り返し映し出していた。
 
 翌日、眼科部長室。
「林田君、困るなあこんなことをしてくれちゃ。」
 眼科の高柳教授は不機嫌極まりない表情を浮かべていた。
「一体どういうつもりなんだ君は。これがどういうことかわかってんのか。」
 教授の机の上には、産児制限法反対同盟の機関誌「心の眼」が置かれていた。医療審議会の答申の発表以来、全国緑内障患者友の会の下部組織として反対同盟が結成され、法案成立後も撤廃を求めて全国的な運動を展開していた。
 誠はこの機関誌に寄せた原稿の中で、産児制限法がいかに愚策であるかについて意見を述べていた。遺伝子の欠陥を原因とする病気は緑内障だけではない。がん、痴呆、心臓病等、ありとあらゆる病気が大なり小なり遺伝子の欠陥により生じることは既にいろいろな研究で明らかにされていた。それを逐一産制法で排除していたのでは日本の人口はどこまで減り続けるか解らない。産制法はむしろ亡国の法律となりかねないのである。
 誠はさらに原稿の最後で、重要なのは欠陥遺伝子の保持者を排除することではなく、病気の根本治療を目指して不断の努力を続けていくことにあると説いていた。誠のこの論文は、産制法成立の旗振り役を勤めてきた高柳教授と洛東大学医学部に対する挑戦状でもあった。
「とにかく、私は大恥を掻いた。いや私だけではない、本学の威信も著しく傷がついた。この責任は必ず取ってもらうからな。」
 教授は威圧するような眼差しを誠に対して向けた。言われるまでもないことであった。誠の心は既に大学の外にあった。誠は平然と頭を下げると、無言のまま部長室を後にした。

 福知山、誠の実家。
「ど、どういうことですか。」
 六十過ぎの初老の女性は狼狽した様子で言葉を返した。林田節子、誠の母親である。早くに夫と死別した節子は、女手一つで誠と誠の妹の二人を育ててきた。林田家は福知山でも名の通った旧家で、男手がなくても特段食うには困るものでもなかったが、かねてより林田家に気兼ねしてきた節子は林田家の財産には一切手を付けず、自ら働きに出て生計を支えてきた。
 十畳はあろうかと思われる大きな座敷には、節子を囲むように三人の男と二人の女が座っていた。節子は仏壇を背に先程から一時間以上も正座を崩さずに親戚一同の話にじっと聞き入っていた。節子を囲んでいたのは、亡き夫義一の兄弟とその嫁たちであった。
「節子さん、あんたには本当申し訳ないと思うんやが、わしらの立場も考えて欲しいんや。三郎んちの智子は来月見合いしよるし、泰彦んとこの義行君やったかいな、ええ縁談話が来とるそうや。それが、あんた、親戚に緑内障の人がおるなんて世間に聞こえてみいな、縁談も何もあったもんやないで。」
 節子の義弟に当たる林田健二は一族を代表して深々と頭を下げていた。産児制限法が施行されて後、緑内障遺伝子の保持者を排除しようとする動きは日増しに強くなり始めていた。
 日本人はなぜこうも因習深いのであろうか。田舎では、未だに縁談話を進める前には必ずといっていいほど聞き合せが行われる。誠と節子の存在は、林田家の親類縁者にとってまさに死活問題であった。
「林田家の血筋には緑内障の人はいてへん。わしらも遺伝子診断したけど、皆シロやった。ということは節子さん、あんたの筋や。あんたが林田家から籍抜いてくれたら皆大助かりなんや。もう一辺よう考えてくれへんか。お金のことやったら何も心配せんでええで。義一の遺産も全部あんたのもんやし……。」
 健二は執拗に節子に対して林田家からの離籍を迫った。
「財産なんて、そんな……。私は、ここでこうやって義一さんの慰霊をお守りしているのが一番の幸せなんです。迷惑は掛けませんから……。」
 節子はそう言うと、救いを求めるように仏壇の方を見やった。そこにはみずみずしい菊の花に並んで亡き夫の位牌が奉られていた。その時、健二の激昂の声がとんだ。
「かなん人やなあ。あんたが林田家におることが迷惑なんやて言うてんのに。ことの分からん人やな。ほんま義一もえらい人を嫁にしたもんや。」
 健二は湯呑み茶碗を座敷机の上に叩き付けると席を立った。机の端からこぼれたお茶がポタポタと畳の上に落ちた。
「行くで。これ以上この人と話しても無駄や。」
 健二は座布団を蹴飛ばしながら玄関へと向った。
「ほんま、節子さん、もう一回よう考えてなあ。」
 残された親戚連中も代わる代わる席を立って、済まなさそうに声を掛けると部屋を後にした。全員がいなくなった後、閑散とした十畳の間から節子の号泣する声がいつまでも漏れ聞こえた。

「ねえ、誠さん。お母さまって、どんな方なの。」
 真由は、また同じ質問を繰り返した。暑い夏の日もようやく西に傾き、街の家並みがセピア色に染まり始めた夕暮れ時、誠と真由は福知山の実家に着いた。
 誠は真由のことはまだ節子にも話していなかった。もうすぐ目が見えなくなる、そんな人間のところにそれと知って嫁いでくる人など居ようはずもない。節子は恐らく誠が結婚するなどと針の先ほども思っていないに違いない。誠はいたずらっ子が隠し事を母親に打ち明けるかのように胸をときめかせていた。
「大丈夫。きっと君のことを気に入ると思うよ。」
「だといいけど。」
 二人は手を取り合って林田家の門をくぐった。
「ただいまー、母さんいる?。」
 誠は玄関先で大声で叫んだ。出て来た母親が真由の姿を見てどのような反応を示すか、それが楽しみで誠の胸の鼓動はさらに高まった。しかし、母親はなかなか迎えに出て来ない。いつもはいそいそと玄関先に出て来る人が、今日に限ってどうしたのであろうか。珍しく留守にしているのであろうか。それにしては玄関に鍵も掛けず、不用心である。誠は今一度声を上げて母親を呼んでみるが、返事がない。
 仕方なく、誠は靴を脱ぎ捨てると玄関に上がった。真由も後に続いて上がると、跪いて靴を丁寧に並べた。誠と真由は家の奥へと廊下を進む。いつも母親がいるはずの十畳の間には人の気配はなく、呑みかけの湯呑み茶碗が六個、無造作に座敷机の上に並べられていた。しっかりと閉じられた障子には、真っ赤な夕日に照らされて庭の松の枝がシルエットとなって浮かび上がっていた。
「母さん、どこ?。」
 誠は大きな屋敷の中をグルグル回って母親を探すがどこにもその姿がない。そうしている間にもどんどんと夕闇が迫ってくる。一体どこへ出かけているのであろうか。誠は勝手口の扉を開くと裏庭に出た。林田家は大きな旧家で、家の裏手には土蔵と納屋があった。その土蔵の陰で誠はようやく節子の後ろ姿を発見した。
「母さん、そんなところで何を……。」
 誠が声を掛けるが、節子は誠の来訪に気付いていないのか、一心不乱に手を動かしている。後ろからそっと近付いて今一度声を掛けた。その声にようやく振り返った節子の顔を一瞥して、誠は跳び上がらんばかりに驚いた。そこにはいつもの優しい母親の顔はなく、髪は乱れ、目はぎょろりと充血し、鬼面のような形相が漂っていた。
 しかし、誠がもっと驚いたのは、節子が手にしているものを見た瞬間であった。節子の手の中には、一本のロープがしっかりと握られていた。そのロープの端は間違いなく円形に結わえられていた。
「ま、誠?。」
 節子は突然の来訪者に、まるで夢遊病者のような視線を投げかけた。誠は咄嗟に節子が何をしようとしていたのか悟って、心臓が凍りつきそうになった。
「母さん、何を馬鹿なことを……。」
 誠はそう言うなり、節子の手からロープをむしり取った。節子は、空ろな目で自らの両の手を代わる代わる睨みつけると、ゆっくりとその視線を誠に向けた。ようやく我に返った節子は、誠の両手に顔を押し付けて号泣した。

「ひどい、何てひどいことを……。」
 話を聞く真由の目にみるみる涙が溢れた。節子は二人を前にして、昼間の出来事を話した。誠は憤りを隠せない様子で、プルプルと拳を震わせた。幼い頃より「誠ちゃん、誠ちゃん」と言って可愛がってくれた叔父や叔母の顔が、今となっては鬼畜のように思えた。
 叔父や叔母が悪い訳ではない。全ては「緑内障」という遺伝病のせいであった。こんな凄惨な目に遭っているのは節子だけではあるまい。恐らく日本全国にいる何万何十万という家で、今同じようなことが起きているはずであった。
「頼りない息子ですが、どうか宜しくお願いします。」
 ようやく落ち着きを取り戻した節子は、真由を前にして深々と頭を下げた。
「いいえお母様、こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いします。」
 真由も慌てて畳に両手を突いた。
「本当に早まらずに良かった。本当、本当に夢のようです。三年前、誠が重い眼の病気を患ったといって帰って来た時は、すっかり気が動転してしまって。誠を結婚も出来ないような身体に産んでしまったことを何度も悔やみました。でもよかった、真由さんのような素敵な人に巡り会えて、本当に…。」
 節子は涙声を詰まらせて、その先は言葉にならなかった。誠の病気が遺伝性のものであったと知って、節子はずっと負い目を感じていたようであった。人の親として、子供を五体満足に産んでやれなかったことを悔やんで、何日も仏前で過ごしたこともあった。そして、つい先程は死の淵までをも覗き込んでしまった。その誠が結婚する。節子の胸中は、まさに地獄から天国に上る心地であった。
「でもお母様、私も同じ病気でいつ見えなくなるか分からないんです。誠さんの支えになるどころか、重荷にすらなりかねないんです。」
 真由は恐れずに、きっぱりと言った。
「大丈夫よ、真由さん。二人で力を合わせてゆけば、きっと幸福な家庭が築けるわ。きっと……。」
 節子は両手で真由の手を握り締めると、力強く言い切った。老親の手は痩せてはいたが奇妙なほどに温かかった。そうかもしれない。それまで半信半疑であった真由の心も、節子の言葉にようやく結婚に対する自信が沸き始めた。
 誠はというと、すぐ隣で満足そうに目を細めて二人の様子を見ていた。誠の心の中は、二人の結婚に快く賛成してくれた母への感謝の気持ちと、これまで心配を掛けてきた親に対してこの上ない孝行が出来たことへの満足感で満ち溢れていた。

 翌日夕刻、誠と真由は京都に戻った。
「真由、本当にありがとう。母さんも君のことを気に入ったようだし。本当に何といっていいか……。」 
 誠がそう言いかけたその時、真由の視線が釘付けになった。
「あれ、あの人……。」
 真由の視線の先に、その人影はあった。橋の欄干に両手を突いて下をじっと覗き見ている。薄暗がりでよくは分からないが、時折両手を合わせるようにぎこちなく動く様は、明らかに尋常ではなかった。
 その人は二人の存在に気が付いていないようであったが、やがてゆっくりと欄干に足を掛けはじめた。自殺?。真由は反射的に駆け出した。誠も後を追う。間一髪のところで真由はその人影をゲットすると、折り重なるように歩道に倒れ込んだ。しかし、その人はすぐさま起き上がると再び欄干に手を掛けた。必死にすがりつこうとする真由の眼前を黒い影が駆け抜けた。次の瞬間、真由は誠の腕の中にしっかりと抱きかかえられた女性の姿を発見した。
「お願い、死なせて、放して。」
 女性は誠の腕の中でもがいた。女性にしては恐ろしく力が強い。死を覚悟した者は普段考えられない力を出すものである。振り切られそうになる誠の脇から真由も改めてしがみついた。二人に羽交い締めにされ、流石に観念したらしく、女性はその場に崩れ落ちて泣き伏した。
 真由と誠はようやくホッと一息ついて顔を見合わせた。街灯の薄明かりに照らし出されたこの女性は、年格好は三十過ぎ、いかにも育ちの良さそうな端正な顔立ちからは「自殺」という言葉は到底想像できなかった。
「真由、手を貸してくれないか。」
 誠はそう言うと、その女性を抱きかかえるように立ち上がらせた。
「一体どうするつもり。」
「こんな場所にこのまま放っても置けないし、とにかく僕のマンションまで運ぼう。」
 幸い誠のマンションは鴨川べりのすぐ近くにあった。二人は女性が再び駆け出すことのないように両脇をしっかりと固めると、足早に誠のマンションに向った。女性もようやく落着いてきたのか、観念して二人に付き従った。

「すみません、すみませんでした。本当に……。」
 俯いたまましばらく沈黙を続けていた女性は、やがて涙声で頭を何度も何度も下げた。三人は誠のマンションの一室で向き合ってソファに座った。
「一体、どうされたんですか。その若さで死のうなんて、余程のことがあったんでしょう。」
 誠の問い掛けに、その人は一瞬ためらう様子を見せたが、やがて堰を切ったように話し始めた。
「私、もうすぐ目が見えなくなるんです。若年性の緑内障だとか。」
 ああこの人もか…、誠と真由は思わず天井を仰いだ。
「ショックでした。何度もお医者さんを変えてみましたが結果は全て同じ。あと五年程で完全に失明するって。治療法もないとか。怖くて怖くて、神様にもお祈りしました。でももうどうにもならないと分かった時、自分でも知らない間にあそこに立っていました。」
 そこまで話すと女性はわっと泣き伏した。真由は言葉を失って、ただ女性の肩に手を掛けるだけで精一杯であった。その時である。女性の顔がみるみる蒼ざめ、慌てて手にしたハンカチで口元を被った。
「どうかしましたか。大丈夫ですか。」
 心配そうに覗き込む真由の傍らで、女性は苦しそうに顔を歪めた。どう見ても心理的な苦痛のようには見えなかった。もっと差し迫った何か、まさか薬?、再び真由の脳裏に緊張が走る。しかし、一方の誠はというと落着いた表情でポツリと尋ねた。
「あなた、ひょっとして……。」
「そうです、三ヶ月です。赤ちゃんが出来たって聞いた時は、夫と二人で本当に大喜びしました。結婚して三年なかなか子供が出来なくて。待ちに待った初めての子供でしたから。でもそれが悪夢の始まりでした。お医者様が、念のため緑内障遺伝子の検査をしておきましょうとおっしゃって……。」
 そこで、女性は再び涙で声を詰まらせた。その後、真由も誠も予想だにしていなかった世にも恐ろしい言葉がこの女性の口から発せられた。
「お医者様は中絶しましょうって。このまま産めば産児制限法に引っかかって罪になります、どの道目が見えなくなれば子育てどころじゃなくなりますよって。」
 茫然自失、真由と誠は一瞬にして言葉を失ってしまった。人は誰でも失明すると言われただけで大変なショックを受ける。それに追い討ちを掛けるように、子供の中絶を促すなど、温かい血の通った人間のすることではなかった。ましてや人の命を預かる医者の言葉とは到底思えなかった。
「お医者様から、何故子供を作る前に遺伝子検査を受けなかったのかって言われました。今じゃ常識だって。でも私、まさか自分がそんなややこしい病気にかかると思ってもみなかったので……。」
 そこまで話すと、女性は再びハンカチを口に当てて突っ伏した。
「ひどい、ひどすぎる……。」
 真由は、女性の背中を擦りながら、絶句した。誠も怒りのために全身をワナワナと震わせた。
長い、長い沈黙が続いた後、誠はそっと立ち上がると、壁際に置かれていたデスクの引出の中を弄り始めた。やがて、何かの書類を手にして戻って来ると、誠は一心不乱に書類に何事かを記入し始めた。ボールペンを握る誠の手は怒りのために硬くなり、ペン先が折れんばかりにしなっている。
「申し遅れましたが、私は眼科の臨床研究医をやっています林田といいます。心配要りません。医師の診断書さえあれば子供は産めます。」
 誠は、自信に満ちた口調ではっきりと話す。一体誠は何をしようというのか。心配そうに隣から覗き込む真由は、やがてその書類の表題を見て仰天した。そして、誠の恐ろしい発想に身震いを覚え始めた。
「誠さん、そ、それって……。」
 真由が制するのを無視して、誠は「診断書」と表示された三枚複写の書類にペンを走らせていた。診断結果の欄には「NP(異常なし)」の二文字が自らを喧伝するかのように踊っていた。やがて書類を書き終えた誠は、右下隅「担当医師」とある欄に自らの署名をすると、力任せに次々と三枚の紙に判を押した。
「さあ、どうぞ。一枚目は出産のときに産婦人科医に、二枚目は出生届の際に市役所に、そして三枚目があなた自身の控えです。」
 誠は書き終えたばかりの診断書を女性に手渡した。最初は何のことかわからずキョトンとしていた女性も、やがて誠の意図するところを汲み取るやいなや、ワナワナと手を震わせて泣き始めた。
「あっ、有り難うございます。あ、あ、……。」
 その後は声にならなかった。
「いいえ、いいんです。生まれてくる子供に罪はありません。たとえ、どんな苦難が待ち受けていようと、その子は私たちの明日を担っていく大事な運命を背負っているのです。その芽を自ら摘み採ってしまってはいけません。」
 誠はきっぱりと言い切った。紅潮した誠の横顔を見ていた真由の口にもう言葉はなかった。真由は誠の深い、深い優しさの一旦を垣間見たような気がした。と同時に、何ともいえぬ冷たい予感が背筋に走るのを覚えていた。

 洛東大学病院外来待合所。
 多くの患者が診察の順番を待っている中、テレビから漏れ伝わる首相の演説が、殊更に大きく廊下に響いていた。
「日本国民の皆さん、私は今敢えて皆さんに「忍耐」ということをお願いしたい。皆さんの苦しみは私にも痛いほどよく分かります。でも今私たちがやらなければ、私たちの子供はさらにその何倍も苦しむことになるのです。私たちこの苦しみを子供たちに引継ぐわけには行きません。日本のため、国のため堪え忍ぶことが今私たちに求められているのです。」
 テレビ画面一杯に映し出された首相の顔はいつになく紅潮していた。新しい産児制限法が施行されて後、政府の締め付けは日増しにきつくなっていた。法律に違反して子供を産む人を取り締まるため、厚生労働省の下部組織として新たに遺伝性緑内障監視委員会(緑監委)が設置された。緑監委の主な任務は、緑内障遺伝子保持者の発見と監視であり、産児制限法の違反者に対しては逮捕権まで有していた。
「お国のために耐え忍ぶ、か。いつかどっかで聞いたような台詞やなあ。ホンマ、何でこないなけったいな法律が出来よったんかいなあ。」
 テレビを見ていた患者の一人が呟いた。誠は、その声に、はたと足を止めた。「お国のために耐え忍ぶ」、日本の危機を救済するという名目のために、一体何人の尊い命が、しかも生まれる前に奪われていったのか。そして、障害者の人権はいとも簡単に踏みにじられていく。
あの日以来、誠はせっせっと例の診断書を書き続けていた。偽の診断書を書いてくれる医者がいるという噂は、口伝て、ネット伝に広まり、多い時は、日に何通も書くこともあった。
 診断書を書く誠の目は輝いていた。あと自分の目は何年見えるか分からない。せめて目が見えるうちに一人でも多くの人を苦しみから救済したい。今の日本には若年性の緑内障患者は少なく見積もっても数百万人はいる。その何万分の一でもいい。自分の力で子供を生ませてあげることが出来るのなら、自分の身はどうなってもいい、と誠は思っていた。

「いや、お願い。お願いだから、産ませて。いやーー。」
 廊下にけたたましい叫び声が鳴り響き、患者の視線が一斉にその声の方に向けられた。見れば三十過ぎと思われる女性がストレッチャーで運ばれていくところであった。ストレッチャーの脇から数人の看護師が女性の体を押さえつけている。女性は必死の形相でその手をはねのけようと暴れ回っている。
 騒ぎを聞きつけて、誠がストレッチャーの方に駆け寄ろうとしたその時、一人の看護師が注射器を片手に大慌てで誠を追い越していった。しばらくして、女性の叫び声は次第に静かになり、やがてカラカラというストレッチャーの車輪の音だけになった。女性を押さえつけていた看護師は、やれやれという表情で一人また一人と手を離した。
「一体、何事ですか。」
 誠は、そんな看護師の一人に声をかけた。
「中絶ですよ、中絶。あれですよ、ほら、いつもの。」
 看護師は馴れた口調で、特に悪びれる様子もなく答えた。その声には同情の気持ちなど微塵もなく、わずかに嘲笑の響きさえ感じられた。
「ちょ、ちょっと、待ってください。」
 誠は、走り去るストレッチャーを大声で呼び止めた。ストレッチャーを取り囲んでいた医師や看護師の人垣がさっと割れて、上に乗せられた女性の姿が露わになった。恐らく鎮静剤でも打たれたのであろう、先ほどまであれほど騒いでいた女性がぐったりとなっていた。
「何か、ご用ですか。」
 「産婦人科」と記された胸章を付けた医師が誠の前に立ち塞がった。
「止めてください。あんなに嫌がってたじゃないですか。」
 産婦人科の医師は、怪訝そうな表情で誠の胸章をジロジロと見回した後、ふんと笑い飛ばすように言い返した。
「先生、そりゃあ無理ですよ。緑内障ですよ。緑内障患者が子供を産んだらどうなるか、眼科の先生なら一番よくご存知じゃ・・・」
「分かってます。よーく、分かってます。でも、この人、あんなに嫌がってたじゃないですか。産ませてあげてください。一人くらい産んだって、大したことじゃ・・・」
 誠が言い返そうとしたその時、誠と産婦人科医師の間に、二人の男がのっそりと割って入った。
「先生、無理なものは無理なんですわ。」
「あなた方は?」
「私たちですか、私たちはこういうもんですわ。」
 二人の男はチラリと手帳のようなものを誠に指し示した。そこには「厚生労働省遺伝性緑内障監視委員会」と記されていた。
「先生、こればかりはいくら先生でもね。」
 男の一人が冷たい口調で誠の耳元で囁いた。
「そ、そんなバカな。人一人の命がかかっているんですよ。あなた方、お腹の赤ちゃんを中絶するということが、どういうことか分かってるんですか。赤ちゃんの命を奪うっていうことですよ。」
 誠は、廊下中に響き渡るような声で叫んだ。
「先生、私たちもよーうその辺のことは分かっとります。でも、これは規則なんですわ。緑内障の遺伝子を持ってるもんは子供産んだらあかん、そう法律で決められとるんですわ。まあ、先生、そういうことですので。」
 男は、医師や看護師に先へ行くよう目配せした。
「ちょ、ちょっと待ってください。止めてください。」
 誠は、手を伸ばしてストレッチャーの手すりを掴もうとした。その時、もう一人の男が誠の行方を遮った。
「先生、ええ加減にしてください。私ら、国からの指示でやっとりますんや。ご存じないかもしれませんが、私らには逮捕権いうもんがありますねん。要は、警察と一緒ですわ。先生、あんまり面倒起こしはるようでしたら、公務執行妨害いうことで、行くとこ行ってもらうことに・・・」
「そんなもの、関係ありません。人の命と・・・」
 誠が、さらに男を押しのけて手を伸ばそうとした瞬間、白衣の胸ぐらをむずっと掴まれた。
「あかんもんは、あかんのや。ええ加減にせーよ。こらー。」
 男は、大声で叫ぶと、誠の体を両手で突き戻した。押された拍子で誠は体勢を崩して、どっと床の上に崩れ落ちた。
「ま、待て、待って。」
 誠の空しい叫びを残して、ストレッチャーはすべるように産婦人科処置室の中へと消えていった。
 待合所はシーンと水を打ったように静まり返り、人々の視線は一斉に二人の男と倒れた誠の方に注がれた。人々の目には怨嗟の念が込められていた。
「ほらほら、見せもんはもう終わりや。法律破りしたらどないなるか、皆もよう分かったやろ。」
 男たちは、ぶつぶつ言いながら産婦人科の方へと消えていった。誠は、白衣の裾を手で払いながら、ゆっくりと立ち上がると、男たちの後姿に燃え上がる炎の視線を投げかけていた。

 眼科部長室。
「林田君、一昨日の話耳にしたんだが。病院の廊下で厚生省のお役人さん方と一騒動あったそうじやないか。困るなあ、ああいうことをしてもらっては。」
 どうやら先日の件が教授の耳にも届いたようであった。高柳教授は、この前にも増して険しい表情になっていた。一方の誠はというと、もう何を言われても聞く耳持たぬという様子で立っていた。
「このご時勢、ああいうのは許されんのだよ。これは、一個人の問題では済まされない。お宅の病院ではああいう問題医者を抱えておられるのか、ということにもなりかねない。とにかく、厚生労働省から目を付けられたら一大事だ。私の責任者として立場も考えてくれよな。」
 誠は相変わらず黙ったまま教授の話を聞いている。
「とにかく、この件は明日の教授会でも話が出る。まあ、私も出来る限りの弁明はするつもりだが、恐らく君には系列の病院に行ってもらうことになるだろう。いいかね。」
 誠は、もとより今日の帰結は予想していた。いや、むしろ自分の方から言い出すべきであったと思っていた。
「そうですか、お世話になりました。失礼します。後のことはどうぞお気遣いなく。」
 誠は、自信たっぷりの口調で即答すると、くるりと踵を返した。部屋を出て行こうとする誠の後姿に対し、しかし、教授は意味深な最後の言葉を掛けた。
「林田君、これは君のためを思って最後に忠告しておくが、君、最近何かよからぬことに手を染めてはいないだろうね。」
「よからぬこと?。」
 誠は立去ろうとした足を止め、後ろを向いたまま聞き返した。
「いや、それならいいんだ。この世の中は善人ばかりじゃない。壁に耳あり、障子に目ありだ。くれぐれも身辺には気を付けるんだな。」
 誠は、その教授の言葉を聞くとも聞かずともなく、ドアノブに手を掛けた。


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