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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

第2回   暗転
 三ヶ月後。
「そう、その調子。かなりうまくなりましたね。」
 アイマスクを着けた真由は杖を片手にステップを上がり下がりした。このステップは障害者の歩行訓練用に特別に作られており、ところどころに段差や傾斜を自由に設定することが出来るようになっていた。最初は躓いてばかりいたステップも、杖を頼りに高低差や傾斜具合を測りながら何とかクリア出来るようになってきた。
 真由は点字の習得にも精力的に取組み、人よりも一段と早い上達を見せていた。あれほど惧れ嫌がっていたトレーニングにこうも熱心に取組むことができる背景には、「誠」という存在があることを真由自身うすうす感じ始めていた。
 そんな真由の上達ぶりを目を細めて見ていた誠の傍に、一人の若い研修医が息を切らせて駆け寄って来た。
「先生、これを見て下さい。」
 そう言いながら研修医らしき青年は誠に何かのレポートを手渡した。
「何だ、今トレーニング中だぞ。」
「分かってます。でも、これ……。」
 差出されたレポートを読んでいた誠の手はやがて小刻みに震え始め、顔もみるみる険しくなっていった。トレーニングの手を休めた真由は、一抹の不安を覚えながら誠の様子を伺っていた。
「ごめんなさい、今日のトレーニングはこれまでにしましょう。」
 誠は蒼ざめた表情でトレーニングの終了を告げた。
「どうかしたんですか。」
「いえ、ちょっと。次の日取りはまた連絡しますから。」
 心配そうに尋ねる真由に、誠は作り笑顔で応えると、レポートを片手に急ぎ足でジムから出ていった。

 眼科部長室。
「先生、一体これはどういうことですか。」
 誠は先ほどのレポートを教授の机の上に放り出すと、声を荒げて食って掛かった。高柳圭吾。洛東大学医学部の眼科部長を長らく勤めるこの教授は、眼科学会の最高権威の地位を欲しいままにしていた。今時珍しくなった黒ぶちの厚い眼鏡をかけた高柳教授は、黒光りのする大きなデスクの後ろで悠然と構えていた。
 誠が投げ出したレポートの表紙には、「厳秘」という判とともに衝撃的なタイトルが記されていた。「医療審議会答申」、首相の諮問機関である医療審議会が作成したレポートである。新たな法案作成に先立っては、必ず専門家による調査研究が行われ、その結果は「答申」という形で報告される。立法者は、そうした答申に基づき法案を作成する。言わば法律の「卵」である。
「いやー、すまん、すまん。審議会の方からどうしても当方の意見をくれって言われてね。申し訳なかったんだが、君の論文を少し拝借したんだよ。」
 教授は一向に悪びれる様子もなく、笑って答えた。審議会の答申に引用されていた論文の内容は、誠が書いたものに酷似していた、いや正確には一言一句丸写しであった。
「盗用なんて人聞きの悪いことは言わんでくれよな。現に君の名前は、審議会の答申の中にもはっきりと引用してもらった。これで君は押しも押されぬ眼科学会の権威の一人に名を連ねることになる。喜びたまえ。」
 教授は誠の論文を勝手に引用したという罪の意識は持ち合わせていないようであった。
「あの論文はまだ公に出来るような内容じゃありません。もちろん内容には自信があります。でも社会に対するインパクトの大きさを考えると、とても……。」
「何だ、不服なのかね。」
 先ほどまでにこやかであった教授の顔は急に不機嫌な表情に変わった。
「君、人生には潮目というものがあるんだよ。我々が住んでいる世界の競争はし烈だ。ほとんどの人間は認められることもなく野に下っていく。そのような中で君はこんな千載一遇のチャンスを得たんだ。これを掴まなくてどうするんだ。」
 教授はクルリと椅子を回転させると誠の方に背を向けた。
「とにかく、もう矢は放たれてしまった。後戻りは出来ん。これからは君も忙しくなるぞ。決して悪いようにはしないから、頑張ってくれたまえ。」
 誠の口に言葉はなかった。教授の言う通り、誠が好もうと好まざろうと、矢は既に放たれてしまったのである。
「失礼します。」
 誠は憮然とした表情のまま眼科部長室をあとにした。しかし、この日の誠は、まだ自らが記した論文が、とんでもない帰結をもたらすことになるとは気付いてもいなかった。

 一ヶ月後のお昼時、日本列島を衝撃的なニュースが駆け抜けた。この瞬間、真由はいつものように午前のトレーニングを終えて、誠と共に病院の食堂で軽い昼食をとっていた。
 あの再会の日以来、真由と誠は毎週欠かさず二回ずつのトレーニングを共にしていた。辛いトレーニング室に通うのも二人にとっては楽しみな日課になりつつあった。食堂は丁度お昼時ということもあって、大勢の医師や看護師たちが談笑しながら昼食を取っていた。その全員の目が一斉に壁際のテレビに釘付けとなったのである。
「政府は、今日午前の閣議の後、遺伝性緑内障患者の子供作りに一定の制限を設けるべく検討を進めていくことを明らかにしました。これは先の医療審議会の答申に応えたもので、この背景には日本人に多く見られる遺伝性緑内障のこれ以上の拡大を防ぐ狙いがあるものと見られています。それでは、社会部の小島解説委員に解説をお願いします。」
 テレビカメラがぐいと引かれてキャスターの傍らに解説委員の姿が現れた。
「小島さん、政府は何故この時期にこのような決定を下したのでしょうか。」
 キャスターの問いかけに、襟を正すように背筋を伸ばした解説委員が話を始めた。
「今回の決定の背景には、予想以上に緑内障患者の数が増えていることがあります。潜在的な数も合わせますと、日本全体で数百万から一千万人の緑内障患者もしくはその予備軍がいると言われています。しかも、最近は二十代にして緑内障に罹る、いわゆる若年性緑内障の症例が増えてきています。
 この緑内障というのは従来から遺伝性の病気と考えられて来ましたが、最近それがヒトゲノムの解析ではっきりと遺伝子欠陥によるものということが判明しました。しかもこの遺伝子欠陥は、旧石器時代に日本人がまだ洞窟で暮していた頃にセットされた退化プログラムによるものということが、最近大学関係者の研究で明らかにされています。」
 それを聞いた瞬間、誠の手からポロリと箸が床に滑り落ちた。「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」、一ヶ月前に眼科部長室で見せられたあのレポートが誠の脳裏に過ぎった。あれからわずか一ヶ月、しかもこんな形でテレビ報道されるとは全く予想だにしていなかった。
 「これからは忙しくなるぞ。」という教授の言葉の意味がようやく飲み込めた。放たれた矢はどこまでも一人で飛んでいく。人から人、マスコミからマスコミへと誠の論文はどんどん拡散していったのである。
 傍らでは、真由も、いや真由だけではない、その場に居合わせた全ての人が呆然としてニュースに聞き入っていた。
「それで、産児制限というのは具体的にはどういう形で行われるのでしょうか。」
「具体的プランはまだ決まっていません。ただ関係者の話によりますと、現に緑内障を発症している患者に限らず、これから子供を作ろうとする全ての夫婦にDNA検査を義務付けるような内容になるとのことです。つまり子供を作ろうとする夫婦は、まずDNA検査を受けて、緑内障を発症させるような遺伝子欠陥がないという証明を医師から受けなければならなくなります。」
 解説委員の口からは驚愕するような内容の言葉が次々と発せられた。放心状態の真由はまだ事の次第がはっきり呑み込めていなかった。ただ、自分のような病気持ちにはもう子供が産めなくなるんだろうということだけは、漠然と理解できた。
 しかし、なぜ政府はこのような恐ろしいことを考えるのであろうか。真由にはその真の狙いがまだ理解できないでいた。その疑問に答えるかのようにテレビの解説は続けられる。
「小島さん、政府が敢えてこのような決定を下した狙いはどこにあるのでしょうか。」
「医療審議会の答申では、盛んに欠陥遺伝子の排除という言葉が使われています。つまり遺伝病というのは欠陥のある遺伝子が修復されない限り、親から子へ、子から孫へと受け継がれてゆきます。欠陥遺伝子の持ち主が正常な人と結婚した場合、その子供には欠陥のある形質が優性的に遺伝します。どこかでこのサイクルを断ち切らない限り欠陥遺伝子は限りなく日本人の間に拡散していきます。そして何世代か先には欠陥遺伝子は取り返しのつかないほど日本全体を覆い尽くす可能性があります。
 世代を超えた伝染病と言えば分かりやすいでしょうか。伝染病の根本治療が出来ない以上、予防的にその保菌者を排除していかなければならない。今回の政府の決定の背景には、こうした考え方があったようです。」
「小島解説委員に聞きました。このニュースにつきましては今夜十時からの「論点」でも改めて詳しくお伝えする予定です。では次のニュースです。」
 画面が切り替わり、別のニュースがアナウンスされ始めた。長いため息とともに、それまで水を打ったように静まり返っていた食堂から、一斉にざわめき声が聞こえ始めた。
「えらいことになった。政府はとうとうパンドラの箱を開けてしまった。」
「倫理の点から、こんなことが許されるはずがない。非常識極まりない。」
「我が国の緑内障の実態がここまでひどいとは……。」
 ある者は声高に、そしてある者はひそひそ声で、同じテーブルに居合わせた人々の間で議論が始った。真由と誠は押し黙ったまま、そうした議論の声を聞いていた。長い長い沈黙を破ったのは、誠の方であった。
「申し訳ない。僕があんな論文を書いたために、こんなことに。実は一ケ月前のあの日、眼科部長からこの答申が出ることを聞かされていたんだ。それも知らない間に僕の論文が医療審議会の答申に引用されて、それで……。」
 誠は、自らの犯した事の重大さをまだ咀嚼しきれず、その先の言葉を失った。真由はそれを聞いて大変驚いた。つい三ヶ月ほど前に誠から聞かされたあの恐ろしい話、日本人の緑内障遺伝子が一万年も前から脈々と受け継がれてきた、そして日本人の間に数え切れない程の緑内障予備軍がいる、というあの話がこうした形で世の中に出てくるとは、思ってもみなかったのである。
「いいえ、誠さんが悪いわけではないわ。誠さんは立派な研究をされたのよ。それを、それを、こんなことに利用するなんて……、ひどすぎる。」
 真由の目からはみるみる涙が溢れ出し、最後のところは言葉にならなかった。
「とにかく、まだ法律で決まったわけでもないし、こんな馬鹿げた話が絶対通るはずはない。僕は断固として反対していく。」
 真由はそうした誠の力強い言葉に頼もしさを感じると同時に、心の片隅に湧き起こる一抹の不安を禁じ得なかった。

 同日、夜十時。NHKの討論番組「論点」が始った。真由は自宅のアパートでその模様に見入っていた。
「皆さんこんばんは。今夜は今日の午前中に発表されました「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」について、関係者のご意見を伺ってゆきます。最初に今日のパネリストをご紹介致します。まずは、厚生労働大臣海野繁治さん。」
 司会者の声に促されるように、厚生労働大臣は深々と頭を下げた。
「次いで、医療審議会委員長(兼東京大学名誉教授)の小山田重人さん、遺伝学者角田和彦さん、全国身体障害者協会会長今井進さん、そして作家の林義彦さん。」  
 自らの名前を読み上げられたパネリストは、順々にカメラに向ってゆっくりと一礼していく。一通りパネリストの紹介を終えた司会者は、まず厚生労働大臣に矛先を向けた。
「大臣、まず最初にこの思い切った決定をされた背景についてご説明頂けますでしょうか。」
 緊張した面持ちで腕組みをしていた厚生労働大臣は、徐に腕組みを解くと口を開いた。
「まず誤解がないように最初に申し上げておきますと、今回の決定は決して障害者を差別しようというものでもなければ、人権をないがしろにしようというものでもありません。純粋に遺伝学的に判断して我が国の将来を考えた場合、こうするように他に道がなかったということを改めて申し上げておきます。」
 大臣は批判を恐れてか、最初から極めて慎重に言葉を選びながら説明を続ける。
「私も最初は医療審議会の報告を読んで愕然としました。緑内障遺伝子が知らず知らずの内に数多くの日本人の身体を虫食んでいたのです。それも百人や千人なんていう数字ではありません。数百万いや一千万という患者数です。これだけの人がしかもかなり若いうちに失明するとしたら日本は一体どうなると皆さん思われますか。
 政府もいろいろな試算を試みてみました。まず、すべての社会的インフラ、道路も鉄道も住宅も何もかもです、これらを全て障害者仕様に切り替えてゆかなければなりません。その費用は少なく見積もっても百兆円、こんな費用は今の日本の財政では到底負担しきれません。
 そればかりか、医療費も高度障害治療やメンタルケアのために今の数倍の支出が予想されます。国民医療保険はたちまち破綻します。さらに障害者の数が大幅に増えることで、我が国の労働生産性は大きく低下し、我が国の経済は壊滅的打撃を受けるでしょう。」
 真由は、いや真由だけではない日本国民は、今ようやくこの恐ろしい判断の背景に潜む事の重大性を知らされた。日本人の十人に一人が失明したとしたら一体何が起きるのか。一般人には想像すら出来ない深刻な事態が待ち受けているのである。しかし、この後厚生労働大臣はさらに身の毛のよだつ話を続けた。
「しかし、私達がもっとも恐れているのは、この緑内障遺伝子がどこまで拡散するかということです。緑内障遺伝子の保持者が健常者と結婚し子供をもうけた場合、その人が緑内障を発病していようがいまいが、その遺伝子は確実に子供に受け継がれます。このまま何もしないでいると私達の孫の時代には日本国民の実に半分が緑内障遺伝子の保持者になっている可能性すらあります。
 そしてその時までに緑内障の根本治療法が確立していなければ、その遺伝子はさらに日本国民を虫食み続けることになりかねません。こうなるともう日本国の存立すら危うくなります。」
 真由は全身の毛穴が固く閉じていくのを感じた。今何百万人という人々が真由と同じような思いでこの番組を見ているはずであった。厚生労働大臣の話が終わった後、しばらくスタジオは重苦しい沈黙が漂った。
「だ、大臣、どうもありがとうございました。今回の政府の決定の背景にはこのような恐ろしい事実があったということですが……。今井さん、如何でしょう。」
 全国身体障害者協会の今井会長はムッとした表情で話し始めた。
「障害者を愚弄するのもいい加減にしろと言いたくなるような話ですね、これは。障害者の皆さんだって立派に生きています。いえ中には健常者に負けない位、社会に貢献しておられる方々もたくさんおられます。そうしたことを無視して障害者とその子供の生きる権利を最初から剥奪しようとする発想自体がもう異常としか思えません。私達は断固としてこの法案成立には反対していくつもりです。」
 会長のテンションはかなり高まっており、デスクから身を乗り出して今にも食って掛かりそうな剣幕であった。
「あっ、有り難うございました。では、続いて遺伝学者の角田さん。如何でしょう。」
 立派なあごひげを置いたその人物は、日焼けした額に汗を光らせながら、話し始めた。
「私は、最初にこの話を伺いました時、とうとう人間も来るべきところまで来たと思いました。ダーウィンが初めて進化論を発表した時、環境変化に適応できない種は淘汰されていくと論じました。現にこの地球上で、毎年何百、何千という動物、植物の種が消えてなくなっています。今回の件は、人間だけは例外だと思い込んでいた人類に大きな警鐘を鳴らす出来事として、深く進化論の歴史に刻まれる事件になるでしょう。人間だけが進化論から自由であり続けることは出来ないと私は考えます。」
 これに対し、先ほどの障害者協会の会長が噛み付いた。
「先生、それは弱者が淘汰されるのは仕方がない、とこういうことですな。」
「いいえ、何もそこまで言うつもりはありません。私は遺伝学者の立場から持論を申し上げているわけです。実際アフリカのサバンナで群れを作って暮す象は、怪我や病気で群れについて行けなくなった仲間を見捨てます。いえ正確には問題のある象が自ら群れを去るのです。生存競争の厳しいサバンナではちょっとした遅れが群れ全体の死活に係わります。種を守るため動物達は本能的に弱者を排除しているのです。私は人間だけは違うという考え方は、人間の奢りだと思うのです。」
 これを聞いて、今井会長はムッとしてそっぽを向いてしまった。険悪になった場のムードを変えようと、司会者は小説家の林氏の意見を求めた。
「小説家の林先生。先生は人間が「生きる」ということをテーマに数多くの著書を出されておられますが、今回の政府の決定を如何受け止めておられますでしょうか。」
「私は、人間にはやはり金や道理では測れない何かがあると信じています。そうした可能性を自らの手で摘み取っていくことにはやはり賛成できません。今の世の中は全てが五体満足という前提に成り立っています。ほら、現実に今皆さんがご覧になっているテレビ。これは目が見えて、耳が聞こえるということが前提となって成り立っています。それは五体満足な人間がこの世のマジョリティーを握っているからそうなるのです。
 もし目の不自由な人間が世の中のマジョリティーであれば、ラジオがもっと一般的なメディアとして発達していたでしょう。同じように、交通機関も、教育制度も、職場も家庭も全てまったく違った基準をベースとして発達して来たに違いありません。そういう社会では、むしろ五体満足な人間こそが障害者となるのです。」
 五体満足な人間が障害者?。この逆転の発想に場に居合わせた人々は唖然とした。確かにこの世の中は何もかもが多数決で成り立っている。少数者は常に弱者として迫害され、取り残されてきた。しかし、その少数者が多数者になれば世の中も変わるかもしれない。全てのパネリストは次の意見が出せずに押し黙ったままとなった。そんな中で一人、今井会長だけが満足気に頷いていた。
 討論はさらに続いていく風であったが、真由にはもう十分であった。障害者を差別してはならない。当たり前のことのように言われてきたことが、日本国の存立に関るという理屈の前でいとも簡単に覆されたことで、真由は人間不信に陥っていた。テレビのスイッチをオフにした真由は、床の中で眠れぬ一夜を過ごした。いつまでも溢れ出る涙で、枕だけが一晩中乾くことはなかった。

「確かこの辺りのはずだか。」
 誠は地図を片手に産寧坂を行ったり来たりした。このところ半月ばかりトレーニングを休んでいる真由のことが気掛かりになって、真由の工房を訪ねようとしていた。それまで週二回欠かさずトレーニングに通っていた真由にしては異例のことであった。
 真夏の太陽がジリジリと照り付ける昼下がり、さすがの観光客の姿もまばらとなり、産寧坂には陽炎がゆらゆらとしていた。
 一頻り探し回った果てに、誠はようやく目的の「山村工房」を見つけた。山村工房は産寧坂から少し入った袋小路の奥にあった。
 昔風の引き戸を開けて敷居をまたぐと、そこはもう仕事場であった。六畳ほどの板間には所狭しとばかり下絵の描かれた清水焼の飾り皿が並べられ、ランニングシャツ姿の職人風の男が真剣な眼差しで絵筆を走らせていた。古ぼけた扇風機が蒸し風呂のような室内の空気をかき混ぜていた。
「あのー。関口真由さんはこちらでしょうか。」
 誠の声に筆を止めたその男は、眼鏡越しにじろりと誠を見ると、無愛想に応えた。
「どちらさんかいな。」
「真由さんの友人の林田誠と言いますが。」
「林田?、ひょっとして、あんさんが真由の目のお医者さんどすか。話しはいつもあの子からよう聞いとります。えらいお世話になっておりますそうで。」
 気難しそうな職人の顔に笑みが漏れたのを見て、誠はとりあえずほっとした。
「それで真由さんは、いますでしょうか。」
 男は誠の質問に答える代わりに、まずは座れとばかりに座布団を差出した。
「先生、あの子の目はもうあきませんのやろか。この頃、目の見え具合が悪いのかめっきり絵の質が落ちてましてなー。あの子自身も分かってますねんやろ。このところ塞ぎ込んでましてな。」
 誠はようやく真由がトレーニングを休んでいる理由が分かった。病気の進行が既に真由の絵付けの仕事にまで影響を及ぼし始めていたのである。
「焼き物の絵付けはこう見えましても結構目先の細かい仕事でしてなー。私らみたいな歳になると手先が狂うて奇麗に仕上がりませんのや。あの子が初めて弟子入りしたい言うて来てくれた時は、正直うれしかったですわ。後を継いでくれる者が出来たと思いましたわ。最近の若いもんは、こういう根気のいる仕事はせーしまへん。それが、突然緑内障や言うて……。」
 そこまで話すと、男は言葉を失って声を詰まらせた。しばらく重苦しい沈黙が続いた後、男は再び徐に口を開いた。
「あの子は近江の信楽焼きの里の出でしてなー。小さい時からよう親の手伝いをしとったんでっしゃろ。うちに来た時は、もう私らが教えることあらへんほど筆達者でおました。何でも両親を早うに亡くしたらしいて、目の不自由なおばあちゃんに育てられたて言うてましたわ。ほんま惜しいなー。なんであんなええ子がけったいな病気にならなあかんねんやろ。本人ももう書かれへん言うてえらい悩んどりますわ。この頃はかわいそうで見てられませんわ。」
 男がそこまで話した時、奥の方でガシャーン、ガシャーンと焼き物の割れる音がし始めた。誠は、男に促されるように暖簾を分けて奥の部屋と進んだ。
 京都に特有のうなぎの寝床のような造りとなった工房は、表からは想像も付かないほど奥行きがあった。素焼きの皿がうず高く積まれた小部屋を二つ三つ通り過ぎて行くと、やがて誠の足はハタと止まった。
 薄汚れた蛍光燈の下で一枚一枚皿を割り続ける真由の背中が見えた。後姿を見ただけで、誠には真由が泣いていると分かった。誠は後ろからそっと近付くと、振り上げた真由の手首をしっかりと掴んだ。
「真由さん、もういい。やめるんだ。」
「放して、手を放して。ダメなの。もう描けないわ。何かもおしまいよ。おしまい……。」
 真由は抑えられた手を振りほどこうとしてもがいたが、やがてそれが無理と知るやその場に突っ伏してワッと泣き崩れた。
 誠は、真由の手で粉々に打ち砕かれた素焼きの皿の破片をかき集めて、ジグソーパズルのように並べ始めた。一つまた一つ手にとっては組み合わせていく。やがて淡い緑と燃えるような朱に塗られた一輪のカキツバタの絵が現れた。本来ならさらに上薬を塗られ、釜で焼かれるはずであった皿は、今誠の前で無残な姿を晒していた。
 素人目にはどこが問題なの全く分からない出来栄えであった。しかし、そんな絵も真由の目からすれば失敗作なのであろう。真由はこの二週間こんなことを繰り返していたのであろう。それでトレーニングにも来なかったのだと、誠は思った。
「真由さん、君は間違っている。」
 誠は、泣き腫らした真由の目を正視して、呟いた。
「どんな失敗作でも、この皿は皆生きているんだ。君がその命を吹き込んだんだ。それを自らの手で壊すなんて、僕には賛成できないな。」
「素人には分からないのよ。こんなもの、恥ずかしくて人前には出せないわ。」
 真由は激しく抵抗した。一流の芸術家を目指すものは妥協を許さない。何百枚、何千枚と描いて、その内の一枚だけを取り上げる。今の真由にとっては、そうした芸術作品どころか普通の飾り皿ですら描くのが難しくなり始めていた。しかし、誠はひるまなかった。
「そうだろうか。どんな欠陥があろうとも、これも立派な作品だ。百パーセント完璧なものなんてこの世には何もないはずだよ。神様だって作り間違いをするんだから。」
「神様も?」
 真由は泣き腫らした目をそっと上げた。
「そう、神様も。ほら、僕や君の目、これは神様が作り間違いをしたんだよ。」
 神様も作り間違いをする?。その一言に真由は、思わず誠の顔を見詰め直した。
「そうだろう。小さな欠陥を理由にしてお皿を壊す、それって遺伝子に欠陥のある人を排除しようとすることと同じじゃないか。」
 真由は、誠の顔を凝視したまま、しばらく呆然としていた。
「ご、ごめん、ごめんなさい。私ったら、本当に、ごめんなさ…」
 その後は言葉にならなかった。真由の頬にはあらためて幾筋もの涙が溢れ出た。真由は目の前に山と積まれた皿のかけらを一つ一ついとおしむように拾い上げると、手の平の中に固く握り締めた。その手の甲に、頬を伝った滴が一つまた一つと落ちていった。

 三ヶ月後、衆院本会議場。
「賛成二百四十、反対二百三十二、棄権八、遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案は賛成多数で可決されました。」
 採決結果を読み上げる議長の声が本会議場に響き渡る中、パラパラという拍手に混じって怒声が飛び交うのが聞こえた。
「ご覧の通り、世界の悪法と言われた遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案が今僅差で可決されました。医療審議会の答申の発表以来わずか三ヶ月、この異例の早い法案成立に今の日本の置かれた深刻な状況が伺えます。
 遺伝子診断による産児制限という世界でも前例を見ない法律が成立したこの瞬間を何百万、いや何千万の日本国民が目撃したでしょうか。国家の存立のためにはやむを得ないとはいえ、この苦渋の決断を迫られた国会議員達も冴えない表情で議場を後にし始めました。
 この法律が私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのか、そして私たちは本当に正しい決断をしたのか、その答えはずっと後の私たちの子孫にしか知ることが出来ないのかもしれません。以上、衆院本会議場からのレポートでした。」
 法案成立の模様を伝えるレポーターの昂奮した声がテレビを通じて流れてくる。
「ああ、やっぱりダメだったか。」
 病院のレストランには重く長い嘆息の声かあちこちから上がった。この瞬間、トレーニングを終えた真由はいつものように病院のレストランで昼食を摂っていた。
 誠は、今日は緊急会議のために同席はしていなかった。恐らく法案成立後のことを話し合う会議がもたれているのであろう。今回の法案作成に少なからず影響を与えることになってしまった誠は、今どのような思いでこの瞬間を迎えたのであろうか。
 一方の真由はというと、自分でも不思議なほど落着いてこの瞬間に立ち会っていた。誠から事前にいろいろ聞かされて半ば諦めていたこともあるが、まだこの法律が日本国民の将来にどのような影響を及ぼすのか測りかねていた。レストランの中はお昼時というのにシーンと静まり返ったまま重苦しい空気に包まれ、時折すすり泣く声が聞こえてきた。
 とその時。
「理香、どうしたの。」
 真由の耳に、どこかで聞き覚えのある声が伝わってきた。見ればトレーニングルームで知り合った緑内障患者の女性が、五つ位の女の子と一緒に壁際のテーブルに座っていた。この女性も十年ほど前、若年性緑内障を患い、今ではすっかり白杖の必要なところまで進行していた。
「どうかされましたか。」
 真由は、そっと隣の椅子に座りながら、声を掛けた。
「その声は真由さん?。」
 目が不自由になると聴覚が鋭敏になる。この女性も真由の声を聞いただけで本人と聞き分けたようであった。
「ええ、真由です。こちらの女の子は?。」
「長女です。理香っていいます。」
「お子さんがいらっしゃるなんて存じませんでした。へえー、理香ちゃんって言うんだ。理香ちゃんはいくつかなー。」
 真由は、顔一杯の笑顔を作って、その女の子の顔を覗き込んだ。女の子は少しはにかむように母親の後ろに姿を隠した。
「ほら、理香。ごあいさつは。」
 母親に背中を押されたその幼子は、黙ったままコクリと頷いた。
「仕様がない子ね。いつもは幼稚園に送って行ってからトレーニングに来ていましたので。でもこのところ、どういう訳か幼稚園に行くのを嫌がって。それで今日は仕方なく一緒に連れて来たんです。」
 母親は心配そうに子供の頭を撫でながら話した。
「理香ちゃん、どうして幼稚園に行かないのかなー。楽しいお遊戯もあるんでしょう。」
 真由は、何とか子供の心を開こうと試みるが、理香はますます小さく固く身を縮めるばかりであった。
「子供には子供なりの理由があるんでしょうけど。何分この身体じゃ、見に行ってやるわけにもゆかないし。幼稚園の先生に聞いても思い当たるふしはないって……。」
 母親は不安の色を隠せずに呟いた。
「もしよろしければ、私が一度お連れしましょうか。何か分かるかもしれないし。」
 真由は、咄嗟に理香の送迎を申し出た。
「そっ、そんな。とんでもない。」
「いいえ、いいんです。遠慮されないで。家もそう遠くじゃありませんし。ほーら、理香ちゃん、今度はお姉ちゃんと一緒に幼稚園行こうか。」
 真由は椅子から立ってしゃがみ込むと、理香の手をとった。
「やだ。」
 そんな真由の手を振り払うように、理香はテーブルの下に隠れてしまった。
「すみません。我が侭な子で。ほら、理香ったら。」
「いいんです。じゃあ明日九時にお迎えに上がりますから。」
 真由は、理香の同意もないまま強引に約束した。母親は杖を頼りに立ち上がると何度もお礼をしていた。

 翌朝。
「確かこの辺りのはずだけど。」
 真由は、住所録を片手に住宅街の中をウロウロした。新興住宅街は似たような家が数多く建ち並んでおり、その中の一軒を探し出すのは意外と難しかった。ようやく表札を見つけた真由は、その中に「理香」の名があるのを確認すると、呼び鈴を押した。しばらくしてガチャリとドアの開く音がして、中から背中を押されるように理香が出て来た。
「すみません、わざわざ来て頂きまして。」
 理香はピンク色の幼稚園の制服を身につけ、黄色い帽子をかぶっていた。今にも泣き出しそうな神経質な表情をした理香は、母親の後ろにそっと身を隠した。
「さあ理香ちゃん行きましょうか。お姉ちゃんが手つないだげる。」
 理香は真由の手を払い除けるようにさらに身を縮めた。
「理香、我が侭言わないの。折角真由お姉さん来て下さってるんだから。」
 母親の声に促されるようにしぶしぶ小さな手を差出した理香は、覚悟を決めるように真由に付き従った。
「カワイイ制服ね。理香ちゃんは何組かしら。」
 真由は、理香の手を引きながらゆっくりと歩いた。しかし、理香は真由の質問にも心を開くことなく、黙って歩いていた。何かに脅えるように真由の手を握り締めた理香の指が子供とは思えないくらいの強い力で真由の手の平に食い込んだ。かわいそうに、一体何がこの子をこんなに脅えさせているのだろう、幼稚園が近付くにつれ真由自身の身体も強ばり始めた。
 あと百メートル程で幼稚園という所まで来た時、反対側の道からグリーンの制服を着た三人の男の子がこちらに向って来るのが見えた。その時、理香はすっと真由の後ろに身を隠した。真由がおやっと思う間もなく、男の子達が近付いてきた。
「あれー。誰や、このおばちゃんは?。」
「今日は、盲の母ちゃんはどないしたんや。」
 真由の後ろに隠れた理香を探すかのように、その子達は二人を取り囲んだ。真由がどうしていいのか解らないまま立ちすくんでいると、やがて三人の合唱が始った。
「お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。」
 まるで囃子歌のように抑揚を付けて、三人は何度も何度も執拗に理香の耳元で歌い続けた。すっかり脅えついた理香は、真由の足に必死にしがみついていた。呆然として立ちすくんでいた真由は、やがて割れんばかりの声で叫んだ。
「何てこと言うの、この子達は。一体あなたたち……。」
 真由が拳を上げようとしたその瞬間、ワーという声とともに三人組みは幼稚園の方に走り去った。真由はこの瞬間、理香の登園拒否の理由が分かった。かわいそうに、この幼子は毎日このようないじめにじっと耐えていたのである。幼心にも目の不自由な母親を気遣って、自分一人の胸のうちに仕舞い込んでいたのである。
 あの三人の男の子は、毎日白杖を片手に理香を送り迎えする母親の姿を見ていたのであろう。そしてテレビであるいは親が話すのを聞いて、緑内障という怖い病気が親から子へと遺伝することを知らず知らずのうちに脳裏に焼き付けていったのであろう。世の中の鬱屈したムードが子供の心までも虫食み始めていた。しかし、子供はまだ正直である。思ったことをすぐに口に出してしまう。一方の大人達はどうか。表向きは同情するような気の毒顔をして見せても、心の内にはあの子供達と同じように鬼を棲まわせているのかもしれない。障害者に対する迫害は既に始っていたのである。
 放心状態になってそんなことをつらつら考えていた真由の隙を付いて、理香は家の方に向って一目散に駆け出した。
「理香ちゃん、あっ、ちょっと待って。」
 真由は理香の後を追って駆け出した。家の手前でようやく理香の肩を捉えた真由に、理香はしがみつくようにして泣き始めた。かわいそうに、小さな身体は小刻みに震え、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。真由の口にもう言葉はなかった。真由はそっと理香の手を握って家の方へと向った。しかし、真由にはまだ大変つらい役回りが残っていた。
「そうですか、そんなことが。あの子ったら私に心配をかけまいとして、それで、それで……。」
 理香の母親は肩を打ち震わせて、ポロポロと大粒の涙を落とした。障害者に対してその障害のことを告げなくてはならないことほど非情なものはない。真由は何といって慰めていいのか言葉を忘れて、ただひたすら悲しみを共にした。


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