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作品名:退化 作者:ツジセイゴウ

第1回   告知
1 告知

「かなり進んでますね、これは。」
 検査結果をチェックしながら、医師は気の毒そうに呟いた。
「そんなに悪いんでしょうか。」
 真由は恐る恐る聞き返す。
 関口真由、二十四歳。京都東山で焼き物の絵付け師として今売り出し中の身であった。最近どうも目の疲れがひどいと感じて眼鏡店を訪ねたところ、一度専門の眼科医の検診を受けた方がいいと言われ、健康診断を受けるような軽い気持ちで受診したのであった。
「中度の緑内障ですね。」
 医師は「視野検査」と書かれた検査表を真由に見せながら説明を始めた。視野を型取ったと思われる円形のグラフは、ところどころ黒々と色塗られていた。黒い部分が視野欠損を示しているのだということは素人目にもハッキリとわかった。
「緑内障ですか……、この年で。」
 真由は思わず聞き返した。緑内障、眼圧が上昇することで視神経が徐々に侵されやがては完全失明にいたる恐ろしい病気である。原因がよく分かっていないため、今の医学では眼圧を下げて進行を遅らせるくらいしか治療法のない難病である。
「緑内障は遺伝性の病気で、年齢とはあまり関係ありません。確かに年を取るにつれ発症の確率は高くなりますが、若いからといって安心は出来ません。ご両親か親戚の方で緑内障を患った人はいませんか。」
「そう言えば祖母が目の悪い人でした。いつも虫眼鏡で新聞を読んでいましたが、晩年はほとんど見えていなかったようです。」
「やはりそうですか。」
 医師はそう言いながらカルテに何事かを走り書きした。
「でも何故今まで気付かなかったのでしょう。こんなに視野が欠けているのに。」
 真由は今まで異常に気が付かなかったとが不思議であった。
「人間の身体は良く出来ていましてね、一方が悪くなると必ずもう片方がそれを補うんです。あなたの場合、右目が四十パーセント、左目が二十パーセント程欠けています。でも互いの目が夫々の欠落部分をカバーし合いますので、確かに両眼で見るとほとんど異常は感じられないかもしれません。」
 真由はなるほどと頷いて見せた。
「でも、片目を閉じて、一眼で見てご覧なさい。右目の半分が見え難くありませんか。」
 真由は言われるがままに左目を手の平で覆うと、右目だけで医師を直視した。正面にいる医師はハッキリと見えるが、左手方向にいるはずの看護師の姿はほとんど見えない。無理やり見ようとすれば、顔をその方向に向けるか、視線をその方向に移すしかない。看護師がいるはずの場所には、曇りガラスのようなもやもやとした陰だけが見えていた。
「それで、良くなるんでしょうか。」
 真由は核心の質問を医師に向けた。医師は真由の顔を正視したまましばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように告知を始めた。
「残念ながら、一度失われた視力は二度と元には戻りません。今はとにかく眼圧を下げて進行を食い止めるしかないと思います。進行のスピードにはかなりの個人差がありますが、それでも十年、二十年という年月の間には、症状は確実に進行していきます。あなたも早ければ十年後には完全に視力を失っている可能性が……。」
 医師の最後の言葉を耳にする前に、真由は目の前が真っ白になっていくのを感じた。
「気持ちを強く持って下さい。決して諦めず、辛抱強く治療を続けて下さい。今は一日でも長く視力を維持することが大事ですから。」
 医師の助言もほとんど耳に入らない。真由は茫然自失のままフラフラと診察室を後にした。
 処方された点眼薬を待つ間もいろいろな思いが頭の中を過ぎっては消え、また過ぎっていく。これからどうなるのだろう。一体あと何年見えるのだろうか。そして見えなくなった後は……。薬局で点眼薬を受取った真由は、放心状態のまま病院のエントランスを後にした。車寄せを回り込みゲートへと向おうとした、その瞬間。
「あっ、危ない。」
 という声と同時に、けたたましいブレーキ音が耳に走った。次の瞬間、真由はアスファルトの上に横たわる自分の姿を発見した。
「いやー、ごめんなさい。大丈夫ですか。」
 やっとのことで上体を起こした真由が最初に目にしたものは、慌てて駆け寄ってくる人影であった。その人物はスラリとした長身の若者で、白衣を纏っているところかすると病院の関係者のようであった。
 傍らでは、倒れた自転車の後輪がまだカラカラと音を立てて回り続けていた。この時、真由はようやく走ってきた自転車にぶつかったのだと分かった。
「スミマセン、前を良く見ていなかったもので。」
「いえ、こちらこそスミマセン。ぼーっと考えごとをしてたもので。」
 そう言いながら、立ち上がろうとした真由は、次の瞬間向うずねに走った激痛に思わずその場にしゃがみこんでしまった。倒れたときに擦りむいたのであろうか、右足の膝から向うずねにかけて血が滲み出ていた。
「やー、これはひどい。すぐ手当てしなきゃ。」
 白衣の人はそう言いながら、真由に手を差し伸べた。
「いえ、本当に大丈夫です。気になさらないで下さい。」
 真由はまだ痛む足を引き摺りながらも気丈に立ち上がると、そっと一礼した。
「いえ、化膿するといけませんから消毒だけでもしましょう。」
 白衣の人は無理やり真由の手を引いて歩き始めた。真由にとっては見も知らぬ人であったが、一見して誠実そうな若者である。真由は言われるがままに付き従った。二人は外来棟を横目に見ながら通り過ぎると、病院の裏手に回った。暫く行くと「研究棟」と書かれたプレートの上がった入り口が見えてきた。
 鉄製の扉を開くと、表の外来棟とは打って変わって、これが同じ病院かと思えるくらい雑然とした廊下が目の前に伸びていた。長い年月を経た木の廊下はところどころ色褪せ、その両脇にはダンボール箱が通路を塞ぐように積まれていた。二人はその廊下を縫うように進むと、やがて黒字に白抜きの字で「眼科臨床研究室」と書かれたプレートの上がった部屋の前に立った。
 白衣の人は先に立って、さっさと部屋の中に入ると、続いて真由を中に招き入れた。部屋の中はさらに混乱していた。机の上には、専門書らしき本がうず高く積まれ、窓から入る陽光を遮蔽していた。ところどころ薬品の瓶と思われるガラス瓶が転がっており、微かに病院特有の消毒薬の匂いが漂っていた。
「すみません。こんなむさ苦しいところで。でも、とりあえずどうぞ。」
 白衣の人は、薄汚れたソファの埃をパンパンと手で払うと、どうぞと言わんばかりに真由に席を奨めた。
「確か、ここに救急箱があったはずだ。」
 真由が座るのを確認もせずに、白衣の人はガサゴソと机の間を探し始めたが、しばらくして木製の古い救急箱を下げて戻ってきた。そして、救急箱の中から消毒液のビンとガーゼを取り出すと、真由の膝先にかがみ込んだ。
「少し、しみるかもしれませんよ。」
 白衣の人は、そう言いながらガーゼを膝に当てると消毒液をコクリと流し込んだ。
「うっ。」
 消毒液の冷やりとした感触が膝に伝わった次の瞬間、真由は焼け付くような痛みに思わず顔をのけぞらせた。
「多分、これでもう大丈夫でと思いますが…。外科が専門じゃないんで…」
 真由がそっと目を開けると、傷の上には大きなガーゼがテープで貼り付けてあった。どうもいい加減な手当てではあったが、真剣な眼差しで一生懸命テープと格闘している若者を目の前にして、真由は先程の緊張も和らいで何となくほのぼのとした気分になった。
「申し遅れました、私、眼科で臨床研究医をしています林田誠と言います。」
 この時、真由はようやくこの白衣の人が眼科の医師であったと知った。
「どうも有り難うございました。こちらこそ本当にすみませんでした。ちょっと心配事があったもので、ついボンヤリとしてしまって……」
「いえ、いいんですよ。そう言えば、お顔の色があまりよくありませんね。どこかお体の具合が悪くて来院されたのですか。」
 そこは流石に医者である。真由の表情から何かを読み取ったようであった。真由は一瞬戸惑ったが、先ほど診察を受けた経緯、そしてその結果の一部始終をこの青年医師に話した。人に話すと不思議と楽になるものである。
 林田医師は、真由の一言一言を逐一頷きながら聞いていたが、真由が話し終わるのを待って徐に口を開いた。
「そうですか、存じ上げませんでした。失礼しました。最近、若年性の緑内障が増えているのは事実です。眼科学会でも主要なテーマの一つとなっています。今じゃ、日本人の十人に一人は潜在的な緑内障患者です。これは主要な先進国の中では飛び抜けて高い発症率なんです。」
 真由は自分の病気が特別なものではないと聞いて大変驚いた。先ほどの医者の口からはこのような説明は一切なかった。毎日数多くの患者を診ていると、あのような形式的な説明に留まってしまうものなのであろうか。真由は好奇心の塊となって疑問をぶつけた。
「どうして、日本人だけそんなに発症率が高いんですか。」
「日本の閉鎖性が原因だと言われています。ご存知のように緑内障は遺伝性の病気です。日本人のように、日本人だけと結婚するようなことを何世代も続けていると、こうした遺伝性の病気に罹る確率はどんどん高くなります。西欧諸国では人種を超えた結婚は当たり前になっています。こんなちょっとしたことでも何百年も経つと大きく違った結果が出てきてしまうのです。」
 日本人同士の結婚が原因?。真由は自分の病気の原因がとんでもないところにあったと聞いて、驚嘆した。
「それで、直る見込みはあるのでしょうか。」
 林田医師は、少し考えるような仕種をしたあと、やや声を落として説明を続けた。
「残念ながら、まだ確たる治療法はありません。眼圧を下げて進行を遅らせることが唯一の治療法ですが、これとて単なる対症療法にすぎません。病気の原因を根本的に直すことは今の医学では無理なんです。」
 先ほどの眼科医の説明と同じであった。真由は、内心この青年医師の口から明るい希望の声が聞けるのではないかと期待したが、結局は難しいと知って落胆のため息をもらした。
「とにかく、言われたとおり辛抱強く治療を続けて下さい。それと、もしお困りのことがあればいつでもお声掛け下さい。私に出来ることがあれば、力になりますから。」
 真由は頭を下げながら心の中で感謝の言葉を繰り返した。たった今会ったばかりの赤の他人にどうしてこのような親切な言葉がかけられるであろうか。真由は林田医師の誠実な人柄に思わずこぼれそうになった涙をじっとこらえて、研究室を後にした。

 一年後。
「思ったよりも早く進行していますね。そろそろトレーニングを始めましょうか。」
 医師は無造作に言い放った。一年前の告知以来、真由は懸命に治療を続けていた。点眼薬を毎日欠かさず朝夕の二回両眼に差す。月一回受ける眼圧検査の結果もずっと正常値であった。
 しかし、病状は真由の予想をはるかに超えるスピードで進んでいた。視野検査の結果も確かに前よりも視野欠損の領域が大きくなっていた。そして最近では、日常生活の中でも見え難さを感じるようになってきた。自分では見えているつもりが、時折階段を踏み外したり、肩をドアにぶつけたりとかすることが多くなった。
「トレーニング、ですか。」
 真由は何のことか分からず聞き返した。
「そうです。失明した場合に備えて今から訓練を始めるのです。」
 失明。とうとうあの恐ろしい一言を口にしなければならない時が来た。それもこんなに早くに。真由は動揺して小刻みに肩を震わせた。一年前の診断では、あと十年や二十年は大丈夫と聞かされていた。どうしてこんなに早くに。
「前にも言いましたが、病状の進行には個人差があります。残念ながらあなたの場合、平均よりは早く進んでいるようです。」
 真由が事の重大さを咀嚼しきる前に、医師は伝票のような紙に何事かを走り書きすると無造作に真由に手渡した。
「この予約票を持って、トレーニング室に行って下さい。あとは向こうの担当者から詳しく説明かあると思いますから。」
 真由は渡された紙を手にすると、フラフラと診察室を後にした。トレーニングとは一体何をするのであろうか。そして目の方は一体いつまで見え続けるのであろうか。真由はそんなことを考えながら、トレーニング室の方へ歩き始めた。
 トレーニング室は受付を挟んで診察室とは反対側の廊下を延々と下っていたその先にあった。ここは一般の診療棟とは違って、淡いグリーンを基調とした明るい色でコーディネートされており、受付脇の掲示板には、ジム、プール、カウンセリングルームといった表示がなされていた。
「あのー、トレーニングの予約をしたいのですが。」
 一見するとどこかのフィットネスクラブを思わせる雰囲気に真由は一瞬戸惑いを感じながらも、受付のカウンターに医師から手渡された予約表を差出した。
「関口さんはこちらは初めてですね。それではこちらの登録カードに記入して下さい。」
 受付の女性が笑顔で応対した。指示された通りに登録カードの記入を済ませると、真由はカウンターの前のソファに腰を下ろした。
 待っている間にも、何人かの患者と思しき人々が真由の目の前を通り過ぎていった。車椅子に乗った人、松葉杖を突いた人、皆多かれ少なかれ身体の障害を抱え、リハビリに通っている風であった。その姿を目の当たりにして、真由はやはりここは病院なのだと実感した。
 暫くして名前を呼ばれた真由は、カウンターで真新しい予約カードを受取った。
「では初回は来週の火曜日、午前十時になります。最初は担当のコーチからのオリエンテーションがありますので指定の時間にお越しください。二回目からは、ご自分のご都合に合わせて予約を入れることができますから。」
 名刺大の予約カードの一行目には指定の日時が記されており、残りの行はブランクになっていた。これからこのカードの一行一行にトレーニングの日付が記入されていく。最後の行に着く頃まで目は見えているのだろうか。真由はまたしても重く圧し掛かってくる不安に打ちひしがれながら、トレーニング室を後にした。

 翌火曜日。真由は指定された時間にトレーニング室にやって来た。
「関口さん、こちらへどうぞ。今日は初回ですので担当のコーチからいろいろ説明があると思います。」
 受付の女性は、真由をカウンセリングルームへと案内した。ここでは、トレーニングの指導者をコーチと呼ぶらしかった。辛く重苦しいリハビリのムードを少しでも和やかなものにするための工夫であろうか。
 カウンセリングルームは全部で四つあった。どの部屋も似たような殺風景な作りで、小さなテーブルを挟んでスチール製の椅子が四つ置かれていた。
 真由が椅子に座って待っている間、突然遠くで咽び泣く声が漏れ伝わって来た。もちろんどの部屋か真由には見当もつかなかった。訓練の辛さに耐え兼ねた患者の悲痛な叫びか、それとも不治を宣告されて泣き崩れる声なのか、真由は言いようもない不安を覚えて、身を縮めた。
 その時、ガチャリとドアの開く音がして白衣の男性が部屋に入ってきた。恐らくコーチであろう。真由は慌てて椅子から立ち上がって一礼しようとしたその瞬間、二人はお互いの顔を見合わせて、思わず微笑んだ。
「あっ、あなたでしたか。」
「あれっ、先生。」
 真由の脳裏に一年前の記憶が鮮明に蘇えって来た。と同時に、林田医師が自分のコーチであったと知って、先ほどまでの不安もすっかり消え失せた。この人がコーチならどんなに辛いトレーニングにも耐えてゆけるかもしれない、そんな淡い希望が湧いて来た。
「まあ、どうぞ。」
 林田医師は、立ち上がろうとする真由を制すると自らも向かい側の椅子に腰を下ろした。
「カルテを拝見しましたが、思ったよりも早く進んでいますね。何と申し上げていいか。とにかく今日からは私をパートナーと思って、トレーニングを始めましょう。宜しくお願いします。」
「いえ、こちらこそ宜しくお願いします。」
 一礼する真由の前に、林田医師は早速一冊の冊子を差出した。トレーニング要項と表紙に書かれた冊子の一枚目を繰ると、これからトレーニングを受ける者の心構えが記されていた。
「これから訓練しなければならないことは山のようにあります。視力を失った場合に備えての歩行訓練、点字の修得、それに日常生活の中で必要なありとあらゆることを覚えてゆかなくてはなりません。それも学校の勉強のように暗記すればいいというものではなく、一つ一つをあなた自身の身体で体得してゆかなければならないのです。」
 林田医師の真剣な説明に真由は逐一頷きながら聞いていたが、目が見えなくなるということがどういうことなのか、漠然とした不安意外にまだハッキリとしたイメージがわかなかった。
「それと、最も大切なことはメンタルケアです。目が見えなくなるという圧倒的な重圧の中で、辛い訓練に耐えてゆくのは並大抵のことではありません。想像を絶する苦難があると覚悟して下さい。大変申し上げ難いことですが、中には絶望に負けて自殺という道を選んでしまった患者さんもいないわけではありません。でもほとんどの人は自分の力でそれを乗り越え、そして全く違う新しい人生を勝ち取ってゆかれるのです。とにかく生まれ変わるつもりで頑張りましょう。」
 真由は次第にことの重大さを咀嚼し始めた。自分のような弱い人間がこのような辛い訓練をやり遂げる事が出来るのであろうか、そしてその先には何があるというのか。真由の頭の中に「自殺」という一言が何度となくこだました。
「では今日は初回ですから、まずは目が見えないということがどういうことなのか体験するところから始めましょう。さあこちらへどうぞ。」
 林田医師は先に立ってトレーニングジムの方へと真由を案内した。ジムはカウンセリングルームのさらに奥にあった。
 体育館ほどあろうかと思われる部屋には、恐らく歩行訓練に使うのであろう、二本の手すりが付いたステップが何個所かしつらえてあり、そのほかにもウエイトトレーニング用のマシンが数台並んでいた。壁際のステップでは既に何人かの患者が訓練を始めていた。
「あの人は一年くらい前、脳卒中で倒れられて、ほとんど寝たきりだったのですが、今ではあそこまで回復されました。」
 林田医師が視線を向けた先には六十過ぎと思われる白髪の男性が、手すりにつかまり黙々と歩行練習に励んでいた。一歩また一歩とゆっくりと前に足を踏み出す。時折ガクリと膝が折れるが、懸命に立ち上がるとまた一歩前へ進む。わずか十メートル程を進むのに多大の時間と労力を費やしている。真由は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。
「じゃあ、こちらへどうぞ。今からトレーニングを始めます。まずはこのステップを歩いてみて下さい。」
 真由は指示されたとおり、手すりの間のステップをスタスタと歩いた。健常者にとってはわずか二秒ほどの距離である。
「はい、もう一度。」
 真由は元の位置に戻ってまた同じことを繰り返した。そんなことを四回、五回と繰り返すうち、真由は一体何のためにこんなことをするだろうと考え始めた。その時、林田医師は新たな指示を出した。
「少し感覚が掴めましたか。では、今度は少し難しくなりますよ。左目を閉じて、右目だけでもう一度。」
 真由は言われるがままに左目を閉じると同じようなつもりでスタスタと歩き始めた。真由は真っ直ぐ歩いたつもりであったが、最後のところで腰のあたりを手すりがかすった。いつの間にか閉じた左目の方に身体が傾いていたのである。
「人間は二つの目があるからこそ真っ直ぐ歩けるのです。二つの目を使うことで、人は無意識のうちに距離や方向を測っているのです。それが片方だけになると途端に外から入ってくる情報量が減ります。そうすると先ほどのように思わぬ障害物に接触したりするのです。」
 真由は人の身体がとても精巧に出来ていると聞いて大変驚いた。二つある目のうち一つが欠けても真っ直ぐ歩くことすら覚束なくなる。両眼を閉じたら一体どうなるのだろう。真由の不安知ってか知らずか、林田医師はついに過酷な指示を出した。
「では、いよいよ両目を塞いでみましょう。」
 林田医師はそう言うとゴムひものついたアイマスクを真由に手渡した。真由は恐る恐るそのアイマスクを頭に着けた。明るいジムの中は一瞬にして暗闇へと変わった。両目を塞ぐと途端に人の声が大きく聞こえる。先ほどまでは全く聞こえていなかった、「一、二、三、四」という隣のコーチの声がことさら大きく真由の耳に届いた。
 真由は不思議な感覚にとらわれながら、慎重に慎重に第一歩を踏み出した。先ほどから何度となく歩いたステップなのに、なかなか足が前に出ない。障害物は何もないと分かっていても、足を出すのが怖い。わずか十メートルを進む間に三度も腰骨を手すりに擦り付けた。
「どうです?。難しいでしょう。これを付けると、目が見えるということがどんなに大切なことかよく分かるでしょう。」
 真由は黙って頷いた。
「人の目は単に障害物を認知してそれを避けるためにあるだけではないのです。目は身体の周囲にあるありとあらゆる情報を取り入れることで、自分の位置や微妙な身体の傾き具合まで瞬時に計算しているのです。だから人は凹凸の多い道を歩くという複雑な動作も無意識のうちに器用にやってのけることが出来るのです。」
 真由は林田医師の説明を驚きをもって聞いていた。目が見えなくても足さえあれば歩ける、そう思っていた自分が何と浅薄だったことか。真由は山登りの第一歩を踏み出した途端に、とてつもなく高い垂直の絶壁にぶち当たった思いであった。しかし、林田医師はそんな真由の思いを知ってか知らずか、さらに過酷な指示を出した。
「さあ、今度は手すりのない広い場所を歩いてみましょう。街中に出れば頼れるものは何もなくなります。さあ、あなたの右手には車が引っ切り無しに行き交う道路が、そして左手には下水が流れています。歩道から足を踏み外さずに真っ直ぐ歩いてみて下さい。」
 真由は林田医師を恨みに思った。さっきまでの優しかった表情はすっかり消え失せ、次々と難問を吹っ掛けてくる意地悪なコーチの姿に変わっていた。何も初日からここまでしなくてもいいのに。この人は本当は性悪な人間だったのかもしれない。真由はすっかりふて腐れた表情をして見せたが、それでも言われた通りにアイマスクを着けた。
 何の障害物もないとはわかっていても、やはり目が見えないと前へ出るのが怖い。思わず両手を前へ差出して一歩また一歩と揺れる身体のバランスをとりながら前へと進む。
 真由は、子供の頃夏の海水浴場で遊んだスイカ割のことを思い出していた。最初は真っ直ぐ歩くつもりで一歩を踏み出すが、二〜三歩歩いただけでもうどっちを向いて歩いているのかすら分からない。周りから囃す声に惑わされてウロウロと浜辺を歩き回る惨めな自分の姿を思い浮かべていた。十歩ほど歩いたであろうか、真由は立ち止まってアイマスクを外した。
「はい、アウト。あなたは今車に跳ねられました。」
 後ろから林田医師の嘲笑うような声が聞こえてきた。あの悪魔コーチは方向を失ってウロウロし回る自分をさっきからじっと見ていたのだ。あのスイカ割の囃子達のように。真由は言いようもない憤りを感じたが、それをじっとこらえて再びアイマスクを着けた。今度こそという思いで慎重に足を運ぶ。しかし結果はまた同じであった。何度も元の位置に戻っては繰り返すが、その度ごとにとんでもない方向にいる自分を発見するだけであった。やがて、足がガクガク震え出し、一歩も前へ踏み出すことが出来なくなってしまった。
「嫌よ、嫌。どうして私がこんなことしなきゃいけないの。」
 真由は激昂して、アイマスクを床に叩き付けた。林田医師は黙ってそれを拾うと、再び真由に手渡そうとした。真由はそれを受取る代りに、罵の言葉を浴びせていた。
「あなたはさっきから私がウロウロするのを見て楽しんでいたのね。どうせ健常者にはこんな私の苦しみは分からない。もう止めた。二度とここへは来ないわ。」
 そう言うなり、真由はその場にしゃがみこんで泣き崩れた。
「今日はこれまでにしましょうか。」
 林田医師は静かに初日のトレーニングの終了を告げた。一頻り咽び泣き続けた真由は、やがて泣き腫らした目で林田医師をじっと睨み付けた。

「お昼でも一緒にいかがですか。近くにおいしいレストランがあるんです。」
 ジムの外に出た林田医師は、ふてくされたまま口も聞かない真由に話しかけた。あんなに人をバカにしておいてお昼も何もあったものじゃない。真由はわざとそんな林田医師を無視していた。しかし、林田医師も負けてはいなかった。
「今日はこのままでは帰しませんよ。まだお話しておきたいことは山ほどありますからね。」
 真由は全く気乗りがしなかったが、林田医師の強気な誘いに押されるままにレストランへと付き従った。病院のエントランスを出て通りを渡ったすぐ向いに、「ボンジュール」という看板の上がったレストランがあった。
「ここのランチコースは安くておいしいんですよ。時々時間のある時に来るんですよ。」
 そう言うと、林田医師は使い慣れた様子で窓際のテーブルに席をとった。お昼までまだ少し時間があったせいか、真由たち以外に客はいなかった。二人が席に着くと、ウエイターがすぐにメニューを持って現れた。
「今日のランチは、新鮮な平目がお奨めでございますが。」
 メニューを差出しながら、ウエイターがそっと説明する。
「じゃあ、それにして下さい。」
 林田医師は迷わず魚料理を選んだ。ウエイターはゆっくりと真由の方へと向き直るが、真由はそんなウエイターを無視するかのように、プイッと窓の方を向いていた。
「彼女にも同じもので。」
 林田医師は慌てて注文を付け加えた。ウエイターが一礼して下がっていくのを確認した林田医師は徐に口を開いた。
「さっきは失礼しました。目が見えないということの怖さを知ってもらいたくて、いきなりあのような体験をしてもらいました。別に悪気があった訳じゃありません。」
 しかし、真由はまだソッポを向いていた。今更言い訳なんか聞きたくない。こんな思いをするくらいならもうどうなったっていい、真由は心の中で繰り返しそう叫んでいた。
「まだ怒ってるんですか。そうやってふてくされていても何も解決しませんよ。自分の力で努力しなければ、何も生れてきません。」
 今度はお説教?、真由がそう叫ぼうとした瞬間、それを遮るかのようにウエイターが前菜の皿を手にして現れた。ウエイターは慣れた手つきで二人の前に次々と料理を給仕すると、グラスにミネラルウォーターを注いだ。
 林田医師はゆっくりとナイフとフォークを手にする。一方の真由はというと、相変わらずむっつりと黙りこくっていた。意地でも食べるものか、への字に歪んだ真由の口は無言でそう語りかけていた。
 しかし、次の瞬間、真由の目の前で予想外のことが起きた。
「あっ。」
 という小さな声とともに、林田医師の右手側よりグラスが床の上に倒れ落ちた。ガッシャーンという音が静かな店内に響き渡り、中に入っていた水が当たりに飛び散った。
「す、すみません。」
 慌てて席を立つ二人。そこへウエイターがモップを片手に駆けつけてきた。頭を下げる林田医師の目の前で、ウエイターは器用にモップを操ると割れたガラスと床の上に流れた水を跡形もなく拭き取った。こういうことは時折あるのであろう、手慣れた様子で片付けを終えたウエイターはにこやかに一礼した。
「いやー、失礼しました。やっぱり片目では無理ですね。気をつけなくちゃと分かっていても、ついやってしまう。」
 林田医師はさりげなく呟いた。
「えっ? どういうことですか。」
 真由は何のことか分からず聞き返した。
「実は、私の右目はもうほとんど見えていないんです。」
 林田医師は、まだ何のことか理解できないでいる真由に対してさらに説明を続ける。
「あなたと同じですよ。若年性の緑内障。医者の不養生とはよくいったもので、気が付いた時にはもう半分以上視野を失っていました。」
 林田医師はまるで他人事のように、ニコニコしながらさらりと言ってのけた。
「し、知らなかった。ごめんなさい。私ったら、あんなひどいことを言ってしまって。」
 真由の口が、意思に反して独りでに動いた。真由の心は動揺していた。知らなかったとはいえ、林田先生にあんな罵声を浴びせてしまった。真由は心の底で手を合わせて謝罪の言葉を繰り返していた。
「やっと口を開いてくれましたね。私が自分の緑内障に気付いたのは三年前のことでした。これから眼科医になるのだから視野検査機の使い方ぐらい覚えておかなきゃと思って、試しに使ってみたんです。最初はセットをし間違えたかと思いました。でも何度やっても結果は同じ。それで研究所の先輩に診てもらったら中度の緑内障と分かって…。
 後はあなたと同じです。眼圧を下げる治療を続けましたが、だんだん進行して右目はもう八十パーセント以上です。一年前、あなたに自転車をぶつけてしまったのも、きっと前がよく見えていなかったんでしょうね。」
 林田医師はまるで他人事のように淡々と話を続けた。真由は返す言葉もなかった。自らの苦悩を表に出さず、ひたすら他人のためにある時は優しく、そしてある時は厳しく尽くそうとする。人はここまで強くなれるものなのであろうか。それに比べて自分は何と未熟であったか。あのように取り乱してしまって。真由は反省の気持ちで一杯になった。
「でも、本当は私も怖いんです。とても。だって眼科医は目が命です。それが見えなくなれば本当におしまいです。これまで努力してきたことが全て無に帰するんです。それで、今日は是非ともあなたに聞いておいてもらいたいことがあって、無理やりお引き止めしました。」
 真由はまだ気が動転していた。このような立派な先生が、自分のような者に一体どんな話があるというのか。しかし、その後の約一時間、真由は林田医師の口から世にも不思議な話を耳にすることになった。

「緑内障が遺伝性の病気であるということは、随分と以前から経験的に知られていました。例えば親や親戚に目の悪い人がいると、かなり高い確率で子供や孫にその症状が受け継がれます。それで医者たちは緑内障が遺伝病だと考えていたわけです。
 ところが最近そのことがヒトゲノムの解析によりはっきりと確認されたのです。ヒトゲノムは、一言で言うと人の身体の設計図です。あなたの手も足もそして目も全てはゲノムに書き込まれた遺伝情報を元にして作られています。そこに欠陥があると人の身体にはいろいろな障害が出てきます。家を建てるのと同じです。設計図にミスがあると雨漏りがしたり、家が傾いたりするでしょう。人の身体も全く同じです。
 緑内障は、全部で二十三本あるヒトの染色体の中で十五番染色体にあるごく一部の塩基配列の欠陥により生じることが最近の研究で明らかになったんです。」
 真由もヒトゲノムやDNAという言葉くらいは新聞やテレビのニュースで聞き知ってはいたが、こうした専門的な話を聞くのは初めてであった。好奇心の塊となって聞き入る真由の前で、林田医師はさらに驚くべき自説を話し始めた。
「私は緑内障の原因となる欠陥がいつ頃どのようにして人の遺伝子の中に組み込まれたのかを研究してきました。そして最近、それが旧石器時代に溯るという確証を得たのです。 
 あなたもダーウィンの進化論の話くらいは聞かれたことがあるでしょう。全ての生き物は突然生れてきたのではなくて、とてつもなく長い時間を掛けて環境の変化に適応するために自らの身体を変化させてきたのです。これが「進化」です。アダムとイブが作ったなんて言うのは神話の世界の話で、ヒトも本当はサルから進化してきたのです。
 ヒトの遺伝子を調べると、こうした進化の歴史が全て刻まれています。しかし、進化は実は「退化」とも表裏一体の関係にあるのです。いえ、それは、実際は同じものなのです。」
「た、退化ですか。」
 真由は思わず聞き返した。
「あっはは。少し難しすぎましたか。退化というのはその機能がもはや必要でなくなった時に起こります。例えば、真っ暗な洞窟の中に長年棲みついている洞穴ヤモリは目が退化してしまってありません。目に相当する部分にはわずかに眼窩のくぼみが残っているだけです。暗闇の中で長年光りを見ることのない生活を続けて来たために、ヤモリの遺伝子はもはや目が要らなくなったと判断してしまったのです。そして一旦遺伝子に組み込まれた変異は代々子孫まで受け継がれ、退化はさらに進んでいきます。こうして目のない洞穴ヤモリが生れたのです。」
 かつてあった目が退化してなくなる、そんなことが本当にあるのだろうか。そしてこのことが緑内障と何の関係かあるというのか。真由は林田医師の不可解でかつ難解な話に少し頭の中が混乱し始めていた。丁度その時、真由に咀嚼の時間を与えるかのように、タイミングよくウエイターがメーンコースを持って現れた。
 林田医師は、今度は慎重にグラスを右手に取ると少し水を口に含んで、話を続けた。
「今から一万年くらい前、人はまだ洞窟に住み狩猟生活を送っていました。昼間は、男は狩猟に出かけ、女は洞窟の中でひたすら男たちの帰りを待っていました。当時、まだ洞窟の外は危険が一杯でした。野生のオオカミや他部族の襲撃など、生存を脅かすものに満ち溢れていました。こうした危険を避けるには洞窟の中はかっこうの場所だったのです。
 女たちは暗い洞窟の中で一日の大半を過ごしていたと思われます。一日中陽の光を見ない生活を続けていたため、やがてあの洞穴ヤモリと同じことが起こってしまったのです。
 そして一旦退化のプラグラムが遺伝子に組み込まれてしまうと二度と元には戻りません。退化遺伝子は親から子へと何代も何代も引継がれていきます。そしてそれが緑内障という病気となって現代人の目に残ったのです。」
 緑内障が遺伝子の退化で起きた?。真由は自分の病気が有史以前の遠い遠いご先祖様からのとんでもない引継ぎ物であったと聞いて驚嘆した。こんなことが本当にあるのだろうか。驚きのあまり言葉が出てこない真由に代わって、林田医師はさらに解説を続ける。
「信じられないのは無理もありません。最初は眼科学会でも私の仮説は一笑に付されました。ところが最近、私の仮説を支持する重要な二つの証拠が見つかったのです。
 一つは洞穴ヤモリの退化遺伝子の塩基配列です。これが人の緑内障遺伝子の塩基配列と極めて酷似していることが洞穴生物学者の協力を得て明らかになったのです。もはや緑内障遺伝子が、ある種の目の退化現象であることは疑う余地がありません。
 そして今一つは、考古学的アプローチです。最近静岡県の三ヶ日の洞窟遺跡で見付かった古代人の骨のDNA鑑定をしたところ、緑内障遺伝子が発見されました。この時代に生きていた人達も既に緑内障を患っていたのです。」
 林田医師は自信満々に自説を披露してみせると、再びナイフとフォークを動かし始めた。
「それで、やはり直る見込みはないのでしょうか。」
 真由はこの天才眼科医ならば、何か根本的な治療法を見つけ出せるのではないかという淡い期待を抱いた。しかし、そう甘くはなかった。
「前にも言いましたが、一旦組み込まれてしまった退化のプログラムを元に戻すのは容易ではありません。それは人の進化の過程をコントロールしようとするのと同じくらい難しいことなのです。残念ながら今の医療技術では失われたものは元には戻せないのです。」  
 林田医師の言葉に真由は落胆の色を隠せなかった。しかし、林田医師の恐ろしい仮説はここでは終わらなかった。その先には真由が予想だにしなかったとてつもなく恐ろしい結論が待ち受けていた。
「仮に一万年前、洞窟暮しの古代人の一人に突然変異が起きて緑内障遺伝子が発生したとしますと、それから今日に至るまでもう数百世代も経ています。緑内障遺伝子の保持者が全て緑内障に罹患する訳ではありませんが、日本のような狭い島国で近親結婚を繰り返していると、その確率はどんどん高くなります。
 あくまで推測ですが、一万年という時間の経過と遺伝子内に組み込まれた退化プログラムが子孫に引継がれる確率を勘案して計算しますと、理論上日本人の十人に一人が緑内障遺伝子を保持していることになります。」
 茫然自失。日本人の間にこんなに緑内障が蔓延しているとは。それも何千年という時の流れを経て累々と受け継がれてきたとなると只事ではない。真由は無言のままナイフとフォークを置いた。
「今日はどうも有り難うございました。本当にびっくりしました。何と言っていいのか。」
 真由は自分の気持ちを何とか表現しようとするが、言葉が思いつかなかった。
「いえ、いいんですよ。それよりトレーニングを続けていく気になりましたか。」
「ええ、先生。是非宜しくお願いします。」
「その先生というのは止めて下さい。誠と呼んで下さい。もうコーチでもトレーニーでもありません。同じ病気を患ってしまった者同士、支え合ってゆきましょう。」
「誠さん、ですか。」
 真由は思わず聞き返した。
「ええ、その代り私もあなたのことを真由さんと呼ばせてもらっていいですか。」
 真由は一瞬戸惑いながらも、すぐに笑顔で頷いた。先ほどまでの沈鬱な気分も消え失せ、真由は、心の中にほのぼのとした気持ちが芽生えてくるのを覚えていた。
 二人は、運ばれてきたコーヒーにどちらからともなくミルクを注ぐと、時が経つのも忘れて食後の談笑を楽しんだ。


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