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作品名:鬼子の母 作者:ツジセイゴウ

第1回   前編
鬼子の母


 他家の墓に参る人などそう多くはないであろう。その数少ない一人が今ここにいる。この墓に参るのは今年で五度目になる。「M子 享年五歳」、墓石の脇に刻まれた戒名が痛々しく私の心に語り掛けてくる。この名前を見る度に、胸の奥の傷が激しく疼く。決して癒えることのない深い心の傷……。
 しかし私はこの墓参りを止めることは出来ない。実の親の墓よりも、実の夫の墓よりも、そして実の子の墓よりも、もっともっと大切な墓、私はこの墓参りを一生涯続けてゆかなければならない。なぜなら私は鬼子の母だからである。

 思い返せば五年前、短い秋の日の夕暮れ時であった。私はいつものように夕飯の支度を始めていた。勝手口の窓から差し込む夕日の色がいつになく弱々しく、背筋が薄ら寒くなるような木枯らしの吹く日であった。
 夫の帰りはいつも遅かった。夕飯はいつも私と一人息子A(敢えて名前は伏せさせてください)の二人で取っていた。プクプクプクとご飯の炊ける音がキッチンから聞こえる。いつもと同じ平穏な夕暮れ時の風景が眼前にあった。ガス台に鍋を仕掛けた私は、ほっと一息ついてテレビのスイッチを入れようとした丁度その時。
「ピンポーン」
 玄関のベルを鳴らす音が聞こえた。夫の帰りにはまだ大分時間があった。今ごろ誰であろう。どうせまた新聞屋のセールスか何かであろう。そう言えば最近強引な訪問販売が増えているから注意しろという呼び掛けが自治会の方からも回ってきていた。私は慎重にインターホンの受話器を上げた。
「あのー、A君のお宅ですね。警察の者ですが、ちょっとよろしいでしょうか。」
 警察と聞いて私は一瞬たじろいだ。一体警察がわが家に何用があるというのか。確か相手はA君のお宅かと聞いた。また息子が何かやらかしたのか。そう言えば、半年ほど前、息子は一度万引きで補導されたことがあった。学校の遊び友達と一緒に、ほんの出来心だった。一度きりの。あれから後は本人もよく反省し、夜遅く出歩くこともなくなった。真面目で平凡な中学校二年生であった。
「はい。どういったことでしょうか。」
 玄関の扉を開けると背広姿の男が二人、コートを手にして立っていた。警察と言うのでてっきりお巡りさんとばかり思っていた私は、一瞬不審な気持ちを抱いたが、二人が差出す警察手帳らしいものを確認すると、改めて尋ね返した。
「あのー、息子がまた何か……。」
「ええ、ちょっとお尋ねしたいことがありましてね。A君ともども署までご足労頂けませんでしょうか。」
 署までご足労と聞いて、私は少しばかり狼狽した。どうやらここで済むような話ではないらしい。
「少々お待ちください。すぐに用意いたしますから。」
 私はそう言うと、一旦玄関の扉を閉めようとしたが、片方の男が手でそれを遮った。
「いえ、このままここで待ちますから。」
 男は片方の足で扉を押し開けたまま玄関先に立ち塞がった。私は慌てて台所の煮物の火を消すと、二階の息子の部屋に向って叫んだ。
「ちょっと、下りてきなさい。話があるから。」
 二階はシーンと静まり返っていた。いつもはよく聞こえていたテレビゲームの音も最近はあまりしなくなり、二階の息子の部屋は静かなことが多かった。ようやく勉強する気になったかと思うと、内心嬉しいようなまた寂しいような複雑な心持ちであった。しばらくすると微かに扉の開く音がし、息子は静かに階段を下りてきた。
「警察の方が来られて……。一体あんたまた何をやらかしたの。」
 私が拳を上げようとするのを遮るように男が呟いた。
「A君だね。ちょっと一緒に来てくれるかな。聞きたい事があるんで。」
 息子は小さく頷くとあまり怖がる様子もなく静かに警察の二人に付き従った。私も慌ててサンダルを足に引っかけて表に出る。玄関の鍵を掛ける間もなく、先行した三人はもう表の通りに出ていた。 
 通りには目立たぬように少し離れて一台のパトカーが止まっていた。私は一瞬ホットした。短い秋の日はあっという間に暮れて、辺りは顔の見分けがつき難いほどの黄昏時に変わっていた。ご近所の手前、あまり息子ともどもパトカーに乗り込む様子を見られたくはないものである。私は顔を隠すようにして小走りに先行する三人の後を追った。
「お母さんは前の助手席に乗って下さい。A君と私らは後ろに乗りますから。」
 私は言われるがままに助手席に乗り込んだ。後ろでは一人目の男が先に乗り、続いて息子、そして二人目の男がまた息子の隣に乗り込んだ。丁度息子を挟んで両脇に男二人が乗った形となった。こうした場合、こういう席順になるものなのであろうか。何となく物々しい雰囲気に先程の不安な気持ちがさらに膨らんだ。
 全員が乗り込むとパトカーは静かに走り始めた。
「あのー、すみません。息子が一体何を……。」
 不安に駆られた私は改めて尋ねた。
「それは署に着いてから……。私どももまだハッキリとしたことは……。」
 男から歯切れの悪い返事が返ってくる。私は一心にバックミラーを覗き込んだ。ミラーは丁度息子の顔の当たりを写しているはずであったが、薄暗くて息子の顔色を窺い知ることはできない。息子はどんな気持ちで座っているのであろうか。特に泣いたりしている様子もない。不気味なほどの静寂がますます私の不安を掻き立てた。
 家から警察署までは車で十五分ほどである。程なくパトカーは到着した。家を出た時と同じように男二人と息子が先に立って署の中に入る。私は恐る恐るその後に続いた。昼間は免許証の書き換えやらでいつも混雑している署の中も、この時間になると灯も消えてひっそりとしていた。ところどころにある常夜灯の明かりだけがやけにこうこうと目に付いた。
 この前は半年前であった。息子が同級生ら三人と市内のスーパーで万引きをして補導されたということで呼び出された。あの時は昼間だったし、他の子供達の親ともども四人で注意を受けただけであった。ほんの三十分ほどで終わったような気がする。今日もそれくらいで終わるのであろうか。それとも今日は二犯目だからもう少し掛かるのかもしれない。主人が家に帰ってくるまでには終わるだろうか。この時、私はまだそんなことを考える余裕があった。しかし……。
「申し訳ありませんが、お母さんはこちらでお待ちください。」
 二階へ上がる階段を上がり切ったところで私は呼び止められ、廊下のソファで待つように指示された。意外であった。この前は息子と私と二人並んで注意を受けた。それが今日は一人で待つようにという。私はまた不安な気持ちになった。
「あのー、息子と一緒じゃ……。」
「ええ、すぐ終わりますから。お母さんとはその後で……。」
 そう言い残すと、男二人は息子を連れて奥の部屋へと消えて行った。一人取り残された私の心臓の鼓動は次第に高鳴っていった。全てがこの前と違う。一体息子の身に何が起きたというのか。私は襲い来る不安を消し去ろうと両手を組んでその上に額を乗せた。
 それからどれくらい時間が経ったであろうか。慌てて家を出てきたため時計を忘れてきた私は、すっかり時間のこと忘れていた。はっと気がついて、ぐるりと周囲を見回すとすぐに時計は見つかった。何の変哲もない丸い壁掛け時計が一つ、廊下の壁に掛けてあった。時刻は七時を指していた。家を出たのが五時頃だったとしたら、もう二時間も過ぎている。また愕然とした。一体二時間もあの人達は何を息子と話しているのであろう。
 私は手術室の前で手術が終わるのを今か今かと待ち続ける患者の家族のような気分であった。極度の不安と緊張のため口の中がカラカラに渇いていた。私はじっと座っていられなくなり、ソファから立ち上がろうとした丁度その時、ガチャリと扉の開く音がした。私の心臓は途端に早鐘のように打ち始め、一瞬にして背筋がピンと伸び上がった。
「お母さん、ちょっとよろしいですか。」
「息子は、息子はどこでしょうか。あの子は……。」
 私は、男の声が耳に入らず取り乱してオロオロと廊下を右に左に行ったり来たりした。
「まずはこちらへどうぞ。」
 男は先に立って私を部屋へと案内する。私は足がもつれるのをじっと堪えてやっとのことで男に付いて部屋の中に入った。しかし、そこには期待した息子の姿はなかった。その部屋は小さい窓のある小部屋で、中央にスチール製のテーブルが一つと、両脇にパイプ椅子が二脚ずつ置かれていた。よく刑事ドラマ等で見る取調室のような風景がそのまま目の前にあった。
「申し遅れました、私、刑事課の右田といいます。」
 ようやく男の一人が名乗りを上げた。私は最初は何のことが良く分からなかったが、少なくともこの男の人が刑事であったということは認識できた。と同時に、先程までの不安が再び襲ってきた。
「で、息子はどこでしょうか。あの子一体何をしでかして……。」 
 私は高鳴る動悸を抑えながら振り絞るような声で訴えた。もう緊張の度は限界に近付いていた。これ以上緊張が続くと本当に心臓が止まるのではないかと思われた。
「ま、まずはお座りください。」
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、その刑事とかいう男は落ち着き払って清ましている。まるで苦しむ私の心を弄ぶかのように、焦らして焦らして時が過ぎるのを待った。私は突然の脱力感に襲われてヘナヘナと椅子の一つに崩れ落ちた。
「お母さん、落着いてよーく聞いて下さい。」
 確か刑事は最初にそう言った。よくは覚えていない。なぜなら、次にその人の口から出てきたあまりに恐ろしい言葉に、私は瞬時に気を失ってしまったからである。
 何時間たったのかよくは覚えていない。気がついた時私は廊下のソファの上に横たわり、傍らには夫の姿があった。まだ夢見心地の中で、何故かその時の夫の顔だけはハッキリと覚えている。鬼面ような形相で辺りを睨み付ける目は赤く血走り、何か訳の解らないことをブツブツ呟いていたように記憶している。
 この日が私たちの悪夢の始まりの日であった。

「今夜はとりあえずお引き取りを。ご子息さんは我々が責任をもってお預かりします。」
 結局その日、私たちは息子とともに家に帰ることはなかった。なぜなら息子はこの日から少年Aとなったからである。容疑は殺人死体遺棄、しかも相手は五歳の女児。それ以上のことは余りにおぞましく、到底ここで筆にすることはできない。詳しくは後程おいおいと紹介していくことでお許し願いたい。
 その日の夜、私たち二人は一睡もせず夜を明かした。明るい団欒の場になるはずのわが家が悪夢の城と化した。見るもの全てが昨日とはまったく別世界のもののように思えた。夢なら覚めて欲しい。なぜ息子はあんなことを……。全く思い当たる節はなかった。
 私たちはその答えを求めて息子の部屋に分け入った。そう言えばここ長らく息子の部屋に入ったことはなかった。私たちはまるでお化け屋敷にでも踏み込むかのような心持ちで恐る恐る息子の部屋の扉を開いた。
 明かりをつけることが憚られるような気がして、私たちは窓から僅かに差し込む月明かりを頼りに部屋の中を見回した。何の変哲もない子供部屋が眼前に広がった。部屋の中は思ったよりも奇麗に片付けられていた。ベットの布団はきちんと敷かれ、本棚の本は几帳面に並べられていた。窓際の学習机の上には、読みかけのマンガ本が開いたままとなっていた。静かだった。信じられないほど静かだった。コチコチという目覚し時計の音だけが異様に高く部屋の中に響く。このまま時間が止まって欲しいという思いに駆られた。
 居間に戻った私たちは、真っ暗な中でソファに向かい合って座った。明かりの下で互いの顔を見るのも怖いような、そんな気がしたからである。夫は両手で頭を抱えたまま、時折訳の判らぬことを口走った。しきりとこめかみの辺りを拳で叩く。声を掛けると殴り掛かられそうな、そんな殺気を感じて私は小さくソファにうずくまっていた。
 何時間もそんな状態が続いた。やがて無情にも夜が白み始めた。私たちが事の重大さを咀嚼しきらないうちにも、どんどん辺りは明るくなっていく。輪郭しか見えていなかった夫の顔も次第に目鼻立ちが見え始めた。一晩でまるで別人のようになっていた。髪はボサボサに乱れ、頬は落ち、目の周囲には黒々とした隈ができていた。目は異様に充血してギラギラ輝き、口の周囲は伸び始めた髭で黒ずんで見えた。恐らく私も同じような顔になっていたのであろう。疲れているはずなのであるが、目は爛々と冴え渡り神経だけが研ぎ澄まされたように鋭敏になっていた。
「カタカタ。」
 玄関の外で何やら音がした。私たちは跳び上がらんばかりに驚いた。一体こんな時間に誰?……。私たちはさらに耳を清ます。何も聞こえない。さらに耳を清ます。微かに遠ざかっていく自転車の音が聞こえ、ようやくその音が新聞配達の音だと気付いた。
 しばらくするとスズメのさえずる声が聞こえ始めた。いつもであれば心地よいまどろみの中で聞くはずの声が、今日は地獄の幕開けを告げる声のように思えた。私は恐る恐る窓のカーテンを手繰ると、そっと窓の外を窺い見た。いつもと同じ庭が広がっている。いつもであれば大きく窓を開き放ち、朝の新鮮な空気を部屋一杯に流し込むところである。しかし今日は違っていた。誰かが外から家の中を覗き見しているような気がして、思わずカーテンをさっと引いた。
 夫は大きなため息をつきながら、ようやく手を動かした。次の瞬間テレビの画面がパッと明るくなった。
「それでは次のニュースです。今月初めさいたま市の五歳の女の子が拉致殺害された事件で、浦和警察署は近くに住む中学二年生の男の子に任意同行を求め、現在事情聴取を行っております。」
 私はいきなり金槌で頭を殴られたような気がした。つい昨夜のことが早くもテレビで報道されている。画面にはつい何時間か前に見た警察署の入口がデカデカと映し出され、その前で一人の記者がレポートをしていた。
「昨夜八時ごろ、浦和警察署は近くに住む中学生A君を任意同行、間もなく殺人死体遺棄の容疑で身柄を保護すると見られています。事件発生以来二週間、当初は捜査が難航すると見られていましたが、コンビニエンスストアの防犯カメラに写った映像が決め手となり異例の早期解決となる見込みです。」
 夫は食い入るように画面を見詰めていた。目は眼球が跳び出しそうな程に大きく見開き、鬼のような形相の額には青筋が立っているのがハッキリと見えた。画面に映った記者はまるで他人事のように淡々と原稿を読み上げていく。悲劇の劇場の幕はもう上がってしまった。後は筋書き通り進むだけである。もう何者もこの劇の進行を止めることは出来ない。唯一できることは目を閉じ、耳を塞ぐことだけである。
「あなた、テレビを切って下さいな。お願い、お願いだから……。」
 私は詰まりそうな喉から振り絞るように声を出して夫に訴えた。聞こえているのか聞こえていないのか、夫は相変わらず石のように画面を睨み続けている。画面は再びスタジオに切り替わり、キャスターらしい人物が現れた。
「このところ少年による凶悪犯罪が増加しておりますが、今回の事件は犯罪史上希に見る異常なものでした。殺されたM子ちゃんは、発見された時全裸で両手両足をビニールひものようなもので縛られ、下腹部を鋭利な刃物で×××××××………。」
「やめてーーー。」
 私は両耳を塞いで絶叫した。その瞬間夫はリモコンスイッチを力任せに壁に向って投げつけた。一瞬にしてテレビ画面は真っ暗になり、リモコンスイッチの乾電池が床に転がり出た。夫は興奮の余り、肩でゼーゼーと息をし、両足をガクガクと震わせた。M子ちゃんがどのようにして殺害されたかは既にマスコミでも報じられ、知らない者はなかった。その内容はあまりに恐ろしくかつ猟奇的であり、到底言葉に出来るものではなかった。
 それからどのくらい時間が経ったであろうか、私たちは朝ご飯を食べることも忘れてただひたすら黙って石のように座り続けた。辺りはすっかり明るくなり、表の通りを賑やかに登校していく子供たちの声が聞こえ始めた。
 その時、突然夫が立ち上がると、廊下へと出て行った。
「はい、はい。じゃあそういうことで、失礼します。」
 しばらくして、廊下から電話口で話す夫の声が居間にまで届いてきた。一体夫はどこに電話を架けているのであろう。私はこんな時に平然と電話を架ける夫の気が知れなかった。その直後、受話器を置く音がして夫が戻ってきた。
「取りあえず会社には、風邪で休むと連絡した。」
 夫は一言そう言うと、ヘナヘナとその場に座り込んだ。会社?、そう言えばとっくに家を出る時間を過ぎていた。いつもなら夫と息子を送り出し、テレビの前でホッと一息つく頃であった。今日はその一瞬の安息もない。夫はもう立っているのさえ辛そうな感じであった。

 しかし、無情にも悲劇のシナリオは前に進んでいく。
 時計の針が午前九時を少し回る頃、恐怖の玄関チャイムが静かな家の中に鳴り響いた。私は心臓が止まりそうなほど驚いた。一体こんな時間に誰が何の用で?。私は全身が震えて、インターフォンに近づけなかった。たまりかねた夫が出る。
「はい、はい。分かりました。」
 二言三言話をしていた夫は、そっと受話器を置いた。
「警察だ。家宅捜索だそうだ。」
 夫は私の方に振り返ると一言静かに呟いた。ああ、来るものが来てしまった。やはり昨晩のことは夢ではなかった。私はそっとカーテンを開いて表を見た。表にはいつ来たのか、パトカーのものと思しき赤いランプが三つクルクルと回っているのが見えた。その周囲を多くの警官がウロウロしている。もう隠すことは出来なくなった。昨晩は遠慮がちに少し離れて止めてくれた。しかし、今朝は堂々と家の前に、しかも三台も。
 私はご近所の人達が見に来ているだろうなと想像した。テレビの上では少年Aでも、近所の人には実名はすぐに知れるところとなる。もう隠すことも逃げることも出来ない。私たちの家は犯罪者の家として全ての人の前に明らかにされるのである。
「只今からM子ちゃん殺害の容疑で家宅捜索を行わさせて頂きます。家の中の一切のものに手を触れないで下さい。」
 玄関先に刑事と思しき人が二人と紺色のジャンパー姿の三人が立ちはだかった。その中に昨晩来た刑事の姿もあった。先頭の人の手の中には令状らしき紙片が握られ、ご丁寧にも再び警察手帳の提示があった。私は急に頭の中が空っぽになった。もうどうにでもしてくれという思いであった。
 大きく開け放たれた玄関のドアの外では、多くの警官たちが忙しそうに立ち働き、ロープを張ったり青いビニールシートを広げたりしていた。よくテレビ等で見かけた風景が今眼前で進行している。しかもこのわが家で。
「A君の部屋は二階ですね。」
 三人の捜査官がドヤドヤと狭い階段を駆け上がる。私は昨晩覗いた息子の部屋の様子を思い出した。何の変哲もない子供部屋、あんなちっぽけな部屋に何があるというのか。二階の方で三人の刑事が歩く足音がミシミシと聞こえる。時折何かを話す声が聞こえるが、内容は見当もつかない。
 私と夫は玄関に残った刑事の傍で不安そうに佇んだまま、階段の上の方を覗き込んだ。開いた玄関の外から晩秋の朝の冷たい空気が流れ込んで、私たちは思わず身を縮めた。
「おーい、あった、あったぞー。」
 しばらくして階上から叫ぶ声が上がった。階上の人は何を見つけたというのか。私と夫は思わず顔を見合わせた。少し経って一人の捜査官が階段を慎重に下りてきた。白い手袋をはめた捜査官の手の中にビニールの袋が一つ握られていた。捜査官は袋の中身を隠すようにして玄関にいた刑事に見せると、二人は私たちに背を向けて袋を何度も弄りながら中に入れられたものを点検した。
 一体袋の中に何が入っているのか。チラリと見たところそれほど大きなものではなかった。一頻り点検を終えた刑事はようやく私たち二人の方を振り返った。
「これ、A君のものですね。」
 刑事は振り向き様にビニール袋を見せるといきなり尋ねた。私は刑事の手の中にあるものに見覚えがあった。息子のカッターナイフであった。半年ほど前、工作に使うということで駅前のスーパーで買ったものであった。息子はこのナイフがとても気に入り、他人のものと間違えないようにとキャラクターのシールをペタペタと貼っていたので、間違いはない。
「ええ、確かに息子のものですが。」
 しかし、そのナイフをよく観察していた時、私は見てはならないものを見てしまった。その時の衝撃と恐怖は今でもはっきりと覚えている。
「この茶色くこびり付いているもの、ほらここです。これ血痕なんですよ。」
 刑事はナイフを指差しながら説明する。私は生まれて初めて人の血液の付着したナイフというものを見た。よくテレビの刑事ドラマ等で見る凶器のナイフ、あんな鮮やかな赤い色ではなかった。乾ききった血はわずかに黒みを帯びたこげ茶色、血を吸い込んだナイフには恐ろしいほどの毒々しさがあった。
 私は思わず目を反らせたが、時既に遅かった。私の耳の奥では先程のテレビのキャスターの声が何度も何度も執拗にこだまし始めた。そしてその声はやがて映像へと合成されていく。カッターナイタを片手にした私の息子、そして全裸で縛られた五歳の女の子、やがて息子の手が伸びて……。その瞬間、私は気が遠くなっていくのを感じた。
 次に気がついた時、私は居間のソファの上に横になっていた。傍らには夫がいた。
「今、終わったよ。どうやら容疑に間違いはなさそうだ。」
 夫は観念したように肩を落として呟いた。廊下の方ではダンボール箱を運び出す警官たちの姿が見えた。一箱、二箱、三箱……、箱は一体いくつあるのか。息子の部屋の中が空っぽになるのではと思われるほどの数の箱が運び出された。
「さっきのあのカッターナイフ、恐らくあれが凶器だろうって。」
 私はまた思い出したくないものを思い出し、思わず吐き上げそうになった。やっとの思いで悪心を堪えると、私はソファの上に起き上がった。
 しばらくして陣頭指揮を取っていた刑事が戻ってきた。私はようやく落着いてその刑事の顔を正面から見ることが出来た。刑事にしては柔和な顔付きで、物腰も低く人当たりもよさそうな人であった。
「ご協力ありがとうございました。いや何と申し上げてよいか。私にもA君と同じくらいの息子がいましてね。胸中お察し申し上げます。」
 刑事とは思えない優しい言葉がその人の口から出てきた。私は人前を憚らず、思わず声を上げて泣き崩れた。
「今日お預かりしました資料を細かく分析しまして、改めて結果をお知らせします。残念ですが、A君はしばらくお預かりすることになりますので、後程着替え等を持って行ってやってください。それと署の中は退屈ですから、好きな本でもあれば一緒に…。」
「あ、あ、あ、ありがとうございます。息子を、息子をどうか宜しくお願いします。」
 私は、額の前で両の手を合わせて頭を下げた。
「私も息子があんなことをしでかしたなんて今でも信じられません。どうかよーく調べていただいて……、何卒。」
 夫も併せて深々と頭を下げた。
「承知しました。それと申し上げ難いのですが、ご両親ともこれからが非常に大変になりますから。特にマスコミの連中はひどいですから用心して下さい。あまりひどいようでしたらまたご相談下さい。」
 私たちは、逐一頷きながら刑事の言うことを聞いていた。しかし、この時私たちはまだこの刑事の言う「大変」の意味をよく理解できていなかった。身内から犯罪者を出してしまった家庭がどういうことになるのか。これまでの出来事は、これから起きる地獄の責め苦のほんの序章に過ぎなかったのである。

 警察が全て引き上げたのは午後の遅い時間であった。傾き始めた西日がキッチンの窓に映えて、家の中をセピア色に変えた。見るもの全てに色はなく、まるでサングラスをかけているか、それともモノクロの映画を見ているかのような気分であった。
「何か食べるか。」
 夫が疲れきった表情で呟いた。そう言えば夕べから何一つ口にしていなかった。胃袋が小さく縮こまってとても物を食べる気分ではない。カサカサに渇き切った喉を食べ物が通るような気がしなかった。
「無理にでも食べないとまいってしまう。」
 夫がそう言ってキッチンに立ちかけた時、地獄のチャイムが鳴り響いた。警察がまだ残っていたのか。何か忘れ物でもしたのか。私は恐る恐るインターフォンの受話器を上げた。
「A君のご両親ですね。日々新聞のものですが、少しお話を……。」
 若い男の声が受話器の向こうで響いた。マスコミ?、それもこんなに早く。私の顔から一瞬にして血の気が引いていった。ライオンがいなくなるのを待ち構えていたハイエナどもが死にかけた獲物に食らいついてきた。まだ息のある餌食から血をすすり肉を引きちぎるために玄関の戸口のすぐそこまで忍び寄ってきた。
「あのー、済みません。今日のところはご勘弁を……。」
 私は枯れかかった喉から、消え入りそうな声を出した。
「ちょっと待って下さい。一言でいいんです。一言で。」
 受話器の向こうの声は少しボルテージが上がったように聞こえた。
「済みません。ごめんなさい。今日はとても……。」
 私は緊張の余り声が詰まり、受話器を持つ手がプルプル震えた。
「そりゃあないでしょう。人一人死んでるんですよ。それも五歳の女の子が。親としてノーコメントはないでしょう。」
 表にいる記者らしい人は恫喝するような大声を張上げた。その声は受話器を耳から離してもハッキリと聞こえるほどに響いた。傍らにいた夫がマスコミと気がついたらしく、受話器を取り上げた。
「何も言うことはない。帰って下さい。」
 ガチャリ。主人は相手の返事を待たずに受話器をインターフォンに戻した。
 しかし、玄関チャイムは鳴り止まなかった。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、執拗に繰り返しチャイムは鳴り続ける。まるで地獄の劇場の開幕を告げる予鈴のようにチャイムはいつまでも鳴り続けた。
「こん畜生ーー。」
 ブチッ。夫はインターフォンのコードを根元から力任せに引っこ抜いた。一瞬にして部屋の中は静寂に包まれた。家の中がこんなに静かだったのかと思わせるほどの静寂が流れた。私はワッとソファの上に泣き崩れた。夫は目を閉じて両肩をプルプルと震わせた。夫の荒い息遣いだけが異様に大きく聞こえた。
 しかし、執拗な攻撃はこれだけでは終わらなかった。
「あのー済みません、一言だけお話を……。」
 今度は居間に面した垣根越しに呼ぶ声がした。少し開いたカーテンから外の様子を窺うと、生け垣の隙間からマスコミの人間らしい人影が数名ウロウロと行き交うのが見えた。中には生け垣を掻き分けてカメラのレンズ口を差し込もうとする者もいた。私は思わずカーテンを締め切った。
 その時、私の脳裏に表の通りの様子が浮び上がった。お向かいのKさん、三軒向こうのOさん、それに町内会の役員をされているSさん、いつもなら四人で夕方前の井戸端会議が始っている時間であった。今日はそのうちの一人が欠けている。残りの三人が私には聞こえないように何やらヒソヒソ話をしている。時折こちらに向けられる視線は、明らかに蔑視と畏怖の念に満ちていた。

「人殺し、人殺し……。」
 マスコミの攻勢が止んだと思ったら、今度は表から子供たちの合唱する声が聞こえてきた。下校してくる子供たちがわが家の前を通る時間になっていた。
 少年A。どこか遠い見知らぬ土地の人にはただの「A」である。しかし、この界隈ではAがAでなくなる。息子のしでかした事件を知らない者はなかった。それでも大人たちはまだ理性がある。噂話はしても、まだこちらに気を遣ってわざと聞こえないように陰で声を潜める。残酷なのはむしろ子供の方である。昨日までは仲のよかった遊び友達が、突然牙を剥く野獣と化した。
「ガシャーン。」
 突然、表に面した玄関の小窓のガラスが割れる音がした。大慌てで玄関に走り出ると、小窓のガラスは無残にも打ち破られ、砕け散ったガラスに混じって小石が一つ床の上に転がっているのが見つかった。窓の外から流れ込む木枯らしの風に乗って、「人殺し、人殺し。」の合唱の声が一層大きくなって耳に届く。
「ちくしょー。」
 夫は思わず拳を上げて、玄関のドアノブに手を掛けた。しかしそれが無理とわかると、肩を震わせてうな垂れた。ドアのすぐ外には先程のハイエナたちが渦を巻いている。今玄関のドアを開くことは、地獄への扉を開くようなものであった。私たちは、両耳を塞いで一目散に家の裏手へと逃げ込んだ。家の中で唯一外界から隔絶された安息の場はもう浴室しか残されていなかった。私たちは浴室の中でじっと息を殺して耐えた。
 それから何時間が経過しただろうか。浴室の窓の外はいつしかどっぷりと日が暮れ、微かに残る残光が赤々と曇りガラスに映えた。日が暮れるとさすがに表通りも静かになった。どうやらマスコミも今日のところは諦めたようである。私たちは恐る恐る居間に戻った。カーテンを締め切ったままにしていたため、日が暮れた後の居間は真っ暗闇で、微かにテレビや食器ボートの影が闇の中に浮かび上がった。
 私たちは居間の電灯を点けず、キッチンの明かりだけを頼りに夕食の準備を始めた。わずかの明かりも外に洩らさぬようカーテンは隙間なくピッシリと締め切り、私たちは息を殺して食器を並べた。
 冷蔵庫の中には作りかけのシチューの鍋が入っていた。そう言えば昨日の夜の献立はシチューだった。じゃがいも、にんじん、玉ねぎをシチュー鍋で煮て、さあこれからシチューの粉を入れようという時に警察が来た。鍋はその時のままであった。冷たくなった鍋が唯一楽しくなるはずだった団欒の時間を留めているような気がした。
 私は黙って鍋を火にかけると、いつものように冷凍したご飯を冷凍庫から取り出した。わが家では夫の帰りがいつも遅いので、ご飯はまとめて炊いて冷凍庫に入れておく。後は必要な分だけ都度電子レンジで解凍して食べることにしていた。冷凍庫には昨夜食べるはずだったご飯がビニール袋に入ったまま転がっていた。そのうちの一つを取り出すと私はそっと電子レンジに入れた。
 間もなく、鍋がくつくつと音を立てはじめた。シチューの煮えるいい香りがキッチンに充満していく。本来なら食欲をそそるはずのその香りも、今日ばかりは胸くそを悪くする異臭のように思えた。
 私はわずかなキッチンの灯を頼りにダイニングテーブルの上に皿を並べた。副菜は何もない。やや大き目のシチュー皿と茶碗が一個ずつ、寂しげにテーブルの上に並んだ。丸一日何も食べていないのに、全然お腹が空く気配もない。今の私たちの胃袋にはこれだけでも十分であった。
 こうして一日遅れのわが家の夕食が始まった。
「一体、これからどうなるんだろう。どうすればいいんだ。」
 夫はスープをすすりながら独り言のように呟いた。私は何と答えてよいのか分からず、黙ったままご飯を口に運んだ。乾ききった舌の上で、柔らかいはずのご飯がしゃりしゃりと音を立てた。砂を噛むようなとはまさにこういうことを言うのだろう。私は思わずスープを口の中に流し込み、ご飯粒を呑み込んだ。スープが食道を伝って胃袋の中に落ちていくのが分かった。
「どうすれば、どうすればいいんだ。」
 夫は相変わらず独り言を止めない。一口すすってはまた一言、一口すすってはまた一言、何十回となく繰り言を言いながら長い時間をかけて少しずつ皿の中のものを口に運んだ。私は黙ったまま、とにかく胃袋を満たした。

 その日私たちはいつもよりかなり早く床に就いた。昨夜から一睡もしていないこともあったが、正直言うとテレビを点けるのが怖かった。テレビという機械をこれほど忌まわしく思ったことはない。恐らくいずこの放送局も今朝の出来事を報じているであろう。それを思うだけで心臓が萎縮していくような気がした。
 起きていても他にすることはない。会話もない。少なくとも眠っている間はこの悪夢から解放される。そう思うと一刻も早く眠りにつきたかった。夫も同じ気持ちだったらしく、早々にパジャマに着替えた。
 私たちの寝室は二階の息子の部屋の隣にあった。私たちは枕を並べて横になった。疲れているはずなのだが、神経は高ぶり、目はらんらんと冴え渡り、一向に眠気が襲ってくる気配はない。私は仕方なく耳を清まして隣の部屋の様子を窺った。いつものように息子は隣の部屋のベッドで安らかな寝息を立てているのではないか。ひょっとしたら今日一日の出来事が夢だったのではないか。私は自らに問い掛けながらじっと隣の部屋のことを思い続けた。夫も眠れないらしく、何度も苦しげな嘆息とともに寝返りを打っていた。
 どのくらい経ったであろうか。多分午前三時を回った頃だったであろうか。私はさすがに浅い眠りについた。熟睡とは程遠い、夢と現の境をさまようよな、そんな気持ちの悪い眠りであった。
 私は浅い夢の中で息子を見た。いや正確には息子に似た男の子を見た。実のところ暗くて顔がよく見えなかった。その男の子は野球帽を深くかぶり、白色のTシャツにGパン姿だった。服装は絵に描けるほどよく覚えているのに、なぜか顔だけはよく見えない。よく見るとその男の子の右手にナイフのようなキラリと光ものがあった。男の子はゆっくりと私の方に近付いて来る。
 私は必死になってその場から逃げようとするがなぜだか身体が動かない。肩に思いっきり力を込めて起き上がろうとするが、身動きすら出来ない。やがて私のすぐ右傍にまで迫って来た男の子はゆっくりと右手を上にあげた。
「わーっ。」
 私はベッドの上に跳び起きた。全身にびっしりと汗が噴き出し、頚動脈がヒクヒクと波打つのが分かった。
「おい、大丈夫か。どうしたんだ。」
 傍らには夫の姿があった。
「ごめんなさい、夢を見ていたわ。それも何かとても怖い気持ちの悪い夢……。」
 私はまだドクドクと動悸を打っている心臓を抑えながら、ネグリジェの乱れを取り繕った。今見た夢のことを夫に話そうとするが、怖くて思い出すことすら憚られた。
「仕方ないさ。昨日の今日だから。夢も見るさ。」
 夫は私の背中を擦りながら慰めの言葉を掛けてくれた。どうやら夫は二晩続けて眠れなかったようである。目の周囲にはひどい隈ができて、頬はげっそりと落込み、まるで別人のようになっていた。

 三日目の朝。
「今日も会社休む。」
 全く味のしない朝食を済ませた後、夫は昨日と同じように会社に電話を掛けた。
「そうですか、はい、はい。」
 今日の夫の電話は昨日より随分と長かった。やはり課長さんともなると二日続けて休むといろいろあるのだろうか。私はキッチンで洗い物をしながら、廊下の方から聞こえてくる夫の声に聞き耳を立てていた。
 しばらくして夫の電話が終わった。
「当分出てこなくていいって。騒動になるとまずいからということだ。もう会社の連中も知っていた。」
 夫はガクリと肩を落としてソファの上に崩れ落ちた。私は愕然とした。もう夫の会社にも……。息子は既に少年Aではなくなっていた。
「クビだろうな、恐らく。」
 夫は力なく嘆息を洩らした。クビ?、なぜ?。夫は何も悪いことはしていない。犯罪を犯したのはうちの息子。なのにどうして夫が会社をクビにならなければならないのか。
「クビでないにしても、もう会社には戻れない。どの面下げて部下に会えるのか。俺にはそんな勇気はない。」
 夫は両の手で髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き混ぜながら、何度も何度も拳で頭をゴツゴツと叩いた。事件の波紋は留まるところを知らず、どんどん拡散していた。「これからが大変になりますよ。」、昨日あの刑事の言った言葉が早くも現実になりつつあった。息子が殺人事件を犯す、それも世間を震撼させるような猟奇的な事件、もちろんただでは済まないことは分かっている。でも一体どれほどの衝撃があるのか、私にも夫にもその答えは分からなかった。

 午前九時を回る頃、夫が思い出したように呟いた。
「そうだ、あの子に着替えを届けなきゃ。」
 私ははっと昨日の刑事の言葉を思い出した。しばらく息子さんを保護しますので着替えとか本とか持ってきてあげて下さい、ということであった。
 私は早速整理ダンスの前に行くと、息子の下着を何枚か取り出した。ブリーフが恰好悪いので柄物のトランクスが欲しいと息子が言い出したので、この春駅前のスーパーでまとめ買いしたばかりであった。随分小生意気なことを言うなと思ったが、息子が一歩大人に近付いたような気がして内心嬉しかったことをよく覚えている。そう言えば、あの頃からであった。息子が一人部屋にこもるようになったのは。中学生ともなるとそろそろ親離れして自立し始める頃である。特段気には留めなかったが、今から思えばあの時息子の心に何か大きな変化があったのかもしれない。
 その時、私ははっと気がついてまた手を動かし始めた。今度は着替えのTシャツやズボン、それに何冊かの本。取調べが済むまで何日掛かるか分からないので少し多めに用意する。最初はリュックサックに詰め込んだが、すぐにとても入らないと分かって、夫の出張鞄に詰め替えた。
 九時半過ぎ、背広姿に着替えを済ませた夫は鞄を持って玄関に立った。
「私も行くわ。」
 私はエプロンをはずしながら夫に付いて外に出ようとした。
「いや、君は家にいろ。」
 夫から意外な言葉が返ってきた。どうして家にいなきゃいけないのか。私だって子供の顔を見たい。今一度会ってきちんと話をしたい。そうすれば何かが分かるかもしれない。
しかし、そんな私の思いがいかに浅薄であったかすぐに思い知らされることになる。
 夫が玄関のドアを半開きにした瞬間、ワーッという喚声が外から上がった。わずかに開いたドアの隙間から十数名のマスコミと思しき人影が見えた。と同時に夫のわめき声が聞こえた。
「どけ、どいてくれ。」
 私は思わずドアを締め、中からしっかりと鍵を掛けた。夫は正しかった。ハイエナどもは今日も朝早くから獲物が巣穴から出てくるのを待ち構えていたのである。もし夫と一緒に外へ出ていたら……。
 と同時に、私は急に夫のことが心配になった。あの人たちにもみくちゃにされ、罵倒され、悪くすると叩き殺されるのではないかという恐怖心に駆られた。ひょとして昨日の刑事に助けを求めた方が……、と思い始めた時、パッパァーというクラクションの音とともに車が発進していく音が聞こえた。続いて記者たちの怒声とドヤドヤという靴音が通りの方ら響き渡り、そして間もなくまた元の通り静かになった。
 私はようやく安堵の嘆息を洩らすとソファの上に崩れ落ちた。と同時に止めどもなく涙が溢れ始めた。私たちの家族はもはや軟禁された囚人同然であった。何をするにも、どこへ行くにも監視の目が付きまとう。もう私たちの家族には自由という言葉すらなくなった。
 しかし、そんな感傷に浸っている閑はなかった。私には新たな試練が待ち受けていた。居間に戻って間もなく、私は跳び上がらんばかりに驚いた。その音は廊下の方から響いてきた。確実に等間隔で規則正しくその音は私を呼び続けた。
 私はその音に吸い寄せられる夢遊病者のように廊下を歩むと、震える手でそっと受話器を上げた。
「もしもし。昭子さんどすか。」
 電話の向こうに聞き覚えのある声が聞こえた。大阪にいる姑からであった。私の心臓は張り裂けんばかりに高鳴った。主人もいない、最悪のタイミングであった。どうしよう、姑は事件のことをもう知っているのであろうか。何て話せばいいのだろうか。私が頭の中で返事の言葉を探しあぐねている間にも、電話の向こうの姑は勝手に先へと進む。
「いやー、今朝のニュース見てびっくりしましてなー。どこかで見たような家が映ってましたよってに。まさかとは思うたんどすが、心配で。」 
 私は、ああと思った。悪い事は隠しおおせないものである。姑はどうやらテレビのニュースでわが家が映っているのを見て電話をかけてきたらしい。二年前新しい家を買ったということもあり、舅と姑が泊りがけで上京して来たのであった。二人とも新しい家をたいそう気に入って、何度も家の前で主人や息子と記念写真を撮っていた。この家の玄関先を見紛うはずはない。私はまだ返す言葉が思いつかず、ただ黙り込むしかなかった。
「昭子さん、どないしたん。聞こえてはる?。」
 私が返事をしないので、姑は少し語調を強めて聞き返してきた。
「あ、はい。」
 私が曖昧な返事をしたため、勘のいい姑は即座に反応した。
「あ、はい、て、あんたまさか……。」
 私は観念した。私の脳裏には、電話の向こうで次第に顔色を変えていく姑の顔が、手に取るように浮んだ。私の心はもうボロボロに滅裂し、もう自制の効く状況ではなくなっていた。
「お、お母さま、わ、私ーー。」
 私は、胃袋をしぼるようにしてかろうじて声を上げると、そのまま電話口でワーッと泣き崩れた。
「昭子さん、どないしたん。昭子さん、なあ、どないしたん。返事してーな。」
 耳元で何度も何度も叫ぶ姑の声が聞こえた。私は受話器を抱えたまま電話口にしゃがみ込んでしまった。
「昭子さん、うちの子なんやな。うちの子なんやな。そやな。」
 電話の声が変わった。舅であった。舅は何とか心を平静に保とうととしているようであったが、声の調子はもう尋常ではなかった。
「は、はい。」
 私は消え入りそうな小声で、最後通告の一声を発した。しばらく沈黙が続いた後、
「え、えらいこっちゃー。」
 舅は確かそう言ったように記憶している。よくは覚えていない。その後もお互いに何かを言い合ったが、二人とも混乱していて何をどう話したのかよくは覚えていない。
「祐司は?、祐司はいるか。祐司に代わってくれ。」
 しばらくして、舅は私では埒が明かないと思ったのか、夫の名を呼んだ。
「祐司さんは、今警察に行ってます。あの子に着替えを届けに。」
「そ、そうか。」
 それから長い沈黙が続いた。その間にも受話器の向こうでワンワンと姑が泣き叫ぶ声が聞こえた。何か大声でわめいているが、何を言っているのかわからない。
「う、うるさい。お前は黙っとれ。」
 舅は一喝すると、最後に一言言い残した。
「とにかく今からそっちに行く。」
 私は受話器を握り締めたまま、廊下にへたり込んだ。
 夫の実家は大阪船場にある老舗の繊維問屋で、ことのほか世間体を重んじる家風であった。夫が私と結婚したいと言い出した時も随分と反対されたと言っていた。得意先からのいい縁談話を断っての決断であっただけに、私も随分と気まずい思いをさせられたことをよく覚えている。
 でも息子が生まれてからは、両親も時折顔を見に来てくれるようになり、来る度ごとに息子にとたいそうなお小遣いを置いて帰った。私はようやく夫の家の一員になれたと思い始めた矢先の出来事であった。

 電話が終わってから、どれほど廊下にうずくまっていただろうか。表に車のエンジン音がした。恐らく夫であろう。バタンというドアの閉まる音ともに玄関先がまたしても騒々しくなった。夫が出かけた時と同じであった。怒声が鳴り響き、ドヤドヤと複数の人の靴音が聞こえた。私はタイミングを見計らって玄関の鍵を開けると夫を家の中に招き入れようとした。
「お願いします。少しだけ……。」
 記者のものと思しき高い声が聞こえたかと思うと、フラッシュの光がパチパチと輝いた。まるでテレビに登場するヒーローのように大勢の人間に追い回された夫は、ゼーゼーと肩で息をしながら玄関先にうずくまった。
「だ、大丈夫?。」
 私は心配そうに覗き込みながら声をかけた。夫の顔色は蒼ざめてはいたものの、特に怪我をさせられた様子はなかった。しばらくして夫は立ち上がり、フラフラしながら廊下を居間の方に歩いていった。
「あの子はどうだった?。」
 私は急き込むように夫に尋ねた。
「いや、会わせてくれなかった。今取調べ中だということだった。で、荷物は担当の刑事に預けてきた。近く少年鑑別所に移送されることになるだろうって。」
「少年鑑別所?」
 私は耳慣れない言葉に思わず聞き返した。
「ああ。事件を起こした少年が、審理が済むまで入れられる拘置所のような所らしい。」
 後で聞いた話では、少年鑑別所は重大事件を起こした少年を暫定的に抑留する施設で、それを観護措置というのだそうである。私は、手錠をはめられて移送される受刑者の姿を息子の姿と重ね合せてみた。息子もとうとうあのような姿になってしまったのかと思うと、また胸が締め付けられる思いがした。
「つい今しがた大阪のお母さまから電話があったわ。」
 仕方なく、私は話題を先程の電話のことに戻した。しかし、その一言で夫の空ろな表情がピクリと変わった。
「そ、それでお袋や親父はこのことを……。」
「え、ええ。」
 私は返す言葉が見つからず生半可な返事をした。電話の向こう側の舅や姑の胸中を察するとそれ以上の言葉が出なかった。
「し、知ってたんだな。」
 夫は目をつり上げるようにして詰問した。私は口が裂けても私の口から告知したとは言えなかった。少なくとも私はこの件について何も言わなかった。ただ電話口で衝動を抑えられなかったのは確かである。私が黙って頷くのを見た夫は、またしても両手に顔を埋めて呻き声を上げた。隠していてもいずれ分かることではあったが、少なくとも大阪の親には自分の口からしかるべく告知をしたかったらしい。
「そ、それで何か言っていたか。」
「明日こっちにいらっしゃるって。」
 その一言で夫の形相はさらに険しくなった。そうでなくても家の表には報道陣が大勢詰め掛けており、そもそもこの界隈全体が異様な空気に包まれている。このような場所に両親が出てきたらそれこそ何が起こるか……。
 夫は震える手で電話の受話器を上げた。何度もボタンを押そうとするが指が震えてうまく押せない。夫は四度、五度とためらいながらボタンを押していたが、とうとう諦めて受話器を置いてしまった。
「明日の朝一番で架ける。」
 今の心境では到底落着いて話しは出来ない。夫は電話機に手を置いたまま、何度も首を横に振り続けていた。

 こうして長い一日がようやく終わりにさしかかり、また辛い夕飯の時が近付いてきた。少なくともお腹の中は空っぽのはずであったが、不快な痛みとつかえが食道の下の辺りに渦巻いていた。何でもいいから食べないと参ってしまう。私は思い腰を上げて冷蔵庫の扉を開いた。
「何も食べるものが無いわ。」
 息子が警察に連れて行かれてから丸二日、一度も買い物に行っていなかった。この非常時に買い物かごなど下げて表に出られるはずもない。昨日作ったシチューの残りもお昼にはなくなっていた。
「米はあるだろう。ご飯だけでいい。」
 夫が居間の方から一言声を掛けてくれた。私は米びつから米を取ると炊飯器を仕掛けた。
 ご飯が炊き上がるのを待っている間、私たちはビール一本を二人で分けた。つまみは何もない。わずかに残ったきゅうりの漬物をかじりながら、私たちはビールを口の中に流し込んだ。ビールの苦みがまるで漢方薬でも飲んでいるかのように舌を刺激した。こんなまずいビールを飲んだのは恐らく生まれて初めてであろう。
 その後、我が家の侘びしい夕飯が始まった。私たちは、炊き上がったご飯にふりかけをかけて口の中に押し込んだ。会話もない。二人は押し黙ったまま、もくもくとご飯を口に運んだ。今後のことを話そうにも何をどう話していいのかも分からない。それほど心のうちは空っぽの状態になっていた。
 そして眠れぬ三日目の夜が始まった。さすがに三日目ともなると、神経が高ぶっていても瞼がそれを許してくれない。私は夜中に何度も目を覚ましながら、うつらうつらと夢と現の間を行き来した。昨晩に引き続き何度も悪い夢を見た。よくは覚えていない。が、何とも言えぬ気味の悪さだけが残る、暗い夢であったような気がする。

 翌朝、早くに夫は意を決して大阪の実家に電話を入れた。早く電話をかけないと両親が大阪を出てしまってからでは手後れになる。私は夫が話すのを聞くのが怖くて、わざとキッチンの中に隠れていた。夫の電話は長かった。一時間経っても終わらなかった。何を話しているのか皆目見当もつかなかったが、時折夫の怒鳴り声や泣き声がキッチンにまで伝わってきた。
 どれくらい経ったであろうか。夫が受話器を上げてから二時間ほどが経ったであろうか。ようやく夫は居間に戻ってきた。夫の顔は蒼ざめ、額には青筋が立っていた。じっと立っていただけなのに、夫のシャツの背中はジョギングをしてきたのではないかと思わせるほど汗の形が付いていた。
「お袋が熱を出したんで、こっちには来れないって。」
 夫は入って来るなり一言そう言うと、そのまま黙り込んでしまった。両親とどういう会話があったのか、少なくともその一部でも聞きたかったが、今ここで尋ねるのも酷なような気がした。
「そ、そう。」
 私は相槌ともつかない生返事をしたが、実を言うと内心ホッとしていた。昨日の電話のこともある。舅も姑の混乱ぶりも尋常なものではなかろう。今東京に出てこられても、到底面と向って会えたものではない。姑が熱を出したのは気の毒ではあるが、私は若干の時間的猶予を得たような気がして少しばかり気が楽になった。しかし、今にして思えばこれはほんの束の間の安息であったかもしれない。その後大阪の両親の常軌を逸した言動が取り返しのつかない混乱を我が家にもたらすことになる。

 その日の昼少し前に警察から電話があった。息子が女の子の殺害をほのめかす供述を始めたというのである。今日の午後にも容疑が固まるので、署の方で詳しく説明をしたいとのことであった。私たちはとっくの昔に覚悟を決めていたので特段驚きはしなかった。が、なぜ息子があのような事件を起こしたのか、いわゆる動機については全く思い当たるふしがなかった。その点について息子は一体どういう話を警察の人たちにしたのか。とにかく警察に出向くしかなかった。
 夕暮れ少し前、私たちは浦和署に着いた。この前と同じ二階の刑事課の一室に二人は通された。鉄格子のついた小さい窓の外は茜色に染まり、殺風景な部屋の中は見るもの全てがセピア色に映えていた。
 その後どのくらい待たされたであろうか、いつしか外はどっぷりと日が暮れ、ジーッという蛍光燈の音だけが静かな部屋の中に響いた。時計をチラリと見やると既に午後六時を回っていた。もう一時間近くも待たされた。一体これから後どのくらい待つのであろうか。そう思い始めた頃、ようやく部屋の扉の開く音がした。私たちはさっと立ち上がると、深々と頭を下げた。
「いやー、お待たせしました。申し訳ありません。」
 聞き覚えのある声がした。先日家宅捜索の時に来ていた刑事と、もう一人は最初の夜に息子を連れに来た右田さんという刑事であった。
「まあ、どうぞ。」
 二人は私たちのはやる心を知ってか知らずか、落着いて席を奨める。私は仕方なくハンドバッグを両膝の上に載せ着席したが、上半身は思わずテーブルの上に乗り出していた。
「A君ですがね、ご両親には誠に申し訳ないんですが、M子ちゃん殺害の容疑をようやく認めてくれましてね。」
 年配の刑事の方から説明があった。決して高圧的な態度はなく、その目にはむしろ気の毒そうな同情の色が見て取れた。
「時間は十月六日の午後五時半頃、場所は大鳥神社の裏の雑木林の中です。林の中の草むらからM子ちゃんのものと思われる血液反応が出ましたので間違いありません。それと、この前お預かりしましたA君のカッターナイフからも同じ血液型の血液が検出されました。」
 私はまるで刑事ドラマの一シーンを見ているような気持ちで刑事の説明を聞いていた。午後五時半といえば丁度息子が塾に出かける時間であった。息子は塾に出かけたように見せかけてその間にあのような恐ろしいことをしていたのであろうか。そして何事もなかったような平然とした顔でいつもの時間に家に帰ってきたのであろうか。
 私は俄かには刑事の言っていることが信じられなかった。息子を容疑者に仕立てるため、全てをでっち上げているのではないかと思いたくもなった。その間、夫はというと両手を膝の上に突いたまま、瞬き一つせず刑事の顔を見ていた。

「問題は、動機ですがね。」
 話題が核心の部分に迫ったので、私の心臓の鼓動は一気に高まった。息子がなぜあのような恐ろしい事件を起こしたのか、私は未だに気持ちの整理がついていなかった。夫の緊張も頂点に達しているらしく、乾いた喉の中を何度となくゴクリと鳴らしている。刑事はじっと私たちの目を見据えるようにして、徐に一冊のノートをテーブルの上に差出した。
 私にはそのノートに見覚えがあった。間違いなく息子のものであった。表紙には「交換日記帳」という表題とともに、息子の名と担任教師の名が書かれていた。学校の方針で生徒全員が毎日日記を書き、それに両親と担任教師がコメントを添えることになっていた。
 私も何度か日記を読んだことがあった。どんな些末な内容でも担任の先生は欠かさず毎日キチンとコメントを付して下さっていた。四十人全員の日記を毎日読んでコメントを書くのはさぞ大変だろうなあと思ったこともある。それに引き換え、私の方はついついコメントを書くのをさぼっていた。というよりも、最近は息子が日記を見せないため、実際は読んでいなかったというのが正しかった。
「ほら、ここのページ。私たちはこの日の日記に注目してまして……。」
 刑事はパラリと日記帳を開いた。日記の日付は九月三十日となっていた。事件の約一ヶ月前である。私と夫は食い入るように、そのページを覗き込んだ。
「今日は理科の時間にカエルの解剖の実習があった。カエルの鼻にアルコールを染ませたガーゼを当てるとカエルはすぐに動かなくなった。カエルを仰向けにすると手と足をピンで押さえた。その後、カエルのお腹を解剖用のメスで切り開いた。プチッとはじけるようにして中から内臓が出てきた。カエルの生命力はすごい。内臓を全部取り出しても心臓はまだ動いていた。少し気持ちが悪かったけれど、面白かった。この次はほかの生き物の解剖もしてみたい。」
 そのすぐ下に先生のコメントが青ペンで書かれていた。
「命の大切さがよく分かりましたか。実習のために死んでいったカエルのためにもよくお祈りをしてあげましょう。」

 日記を読み進める私の眼球は凍り付き、心臓は微妙に痙攣を起こし始めた。息子がこんな日記を書いていたなんて全く知らなかった。子供の日記にしては、内容は恐ろしくリアリティーがあってグロテスクである。「この次はほかの生き物……。」、まさか息子は……。私は日記を読み返しながら思わずハンカチで口を覆った。
「A君にこの日記を見せましたらね、それから俯いて黙り込んでしまいましてね。」
 刑事はゆっくりとタバコに火をつけながら、ため息をもらした。
「亡くなったM子ちゃんの状態がね……、多分ご存知でしょうけど。」
 M子ちゃんがどういう状態で発見されたかは、新聞やテレビでも報道されており知らぬ者はなかった。私は、胃液が食道を逆流してくるのを感じた。
「む、息子に会わせて下さい。」
 夫がテーブルの上に身を乗り出して叫んだ。血の気の失せた夫のこめかみがヒクヒクと動くのが見えた。
「申し訳ありませんが、今日のところはまだ無理です。一両日中に弁護人から連絡があると思いますので、まずはよくお話し合いをなさって下さい。」
 刑事は半分も吸っていないタバコの火を灰皿に押し付けながら、気の毒そうに説明を続けた。高圧的な態度は微塵もなかったが、その物静かな様子がかえって事の深刻さを言い表しているように感じられた。
 私たちは放心状態で警察を後にした。夫も無言のまま車を走らせる。自分でもどこをどう走ったのかよく覚えていない、気がついた時には家に着いていた。
 
 また寝苦しい夜が始まった。その日の夜も私は夢を見ていた。夢の中の私は、どこかの病院の一室と思われる場所にいた。ベッドの上に仰向けに寝かされ、身体の上にはグリーンのシートがスッポリと掛けられていた。頭の上から強烈に差し込む照明灯の明かりが目を刺激する。傍らには白衣を着た医師と忙しそうに立ち働く二人の看護師の姿が見えた。 
 ここはどこだろう。そして私はここで何をしているのだろう。私がゆっくりとシートに隠された自らの下腹部に神経を集中しようとした時、強烈な痛みが襲ってきた。私はこの痛みに覚えがあった。ずっと遠い昔、私は確かにどこかでこの痛みを経験した。
 その時、私の耳元で人の声が聞こえた。
「大きく息を吸って、はい吐いて。はいもう一度力んで……。」
 私は言われるままにゆっくりと息を吸って、下腹部に力を入れる。私はようやく思い出した。初めての子供、そして初めて経験する陣痛、期待と不安が交錯する中で私は産みの苦しみと闘っていた。
「はい、もう少し。ほーら見えてきましたよ。」
 間もなくズルズルという感触が私の股間に走り、スポッと何かが抜けていくのを感じた。
しばらくして甲高い泣き声が分娩室の中に響いた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」
 看護師の声が聞こえる。初めての赤ちゃん。私の心は至福に満たされ、天にも昇るいい心地に包まれた。程なく看護師が産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて私の枕元に近付いてきた。白い産着に包れた赤ちゃんは、この世に産まれ出た喜びを全身で表わすかのように元気に手と足を動かした。これが私の赤ちゃん。私は、思わず手を差し伸べてほお擦りしようとしたその時、私の心臓は一瞬にして凍り付いた。
 笑った赤ちゃんの口の中に、私は無いはずのものを見てしまった。何本ものギラリと輝く白い歯、赤ちゃんはその歯を剥き出しにしてニッと笑ったのである。
「ギャーッ」
 私は大声を出して跳ね起きた。明るい分娩室は一瞬にして真っ暗な寝室へと変わった。全身がガタガタと震え、パジャマはびっしりと汗に濡れていた。鬼子だ、間違いなく鬼子だ。私は鬼の子供を産んでしまったのだ。
「A君、M子ちゃん殺害の容疑を認める。」
 翌日の朝刊の社会面に無情な文字が躍っていた。

 それから三日後の午後二時頃、とうとう来るべきものが来てしまった、あの事件の日以来、最も怖れていたものが来てしまった。大阪の両親である。二人は何の前触れもなくわが家の玄関口に立った。舅の右手に下げられた小さな旅行鞄が、取るものも取りあえず慌てて出てきたことを物語っていた。
 姑はこの前見たときよりも一回りも二回りも小さくなり、頬は落ち、髪は乱れ、目だけが異様にぎょろりと大きくなっていた。そうでなくても神経質そうな額に一層深い皺が刻まれていた。姑は、あの電話の日以来三日三晩床に臥せっていたという。昨日ようやく熱が下がったため上京してきたのである。
 夫も私も予想外に早かった両親の登場に狼狽した。少なくとも二人ともこの家に両親を迎える心の準備は出来ていなかった。どう話を切り出せばいいのか、その言葉すら見出せなかった。二人は無言のまま居間へと上がった。舅は疲れた表情でドサリと鞄を床の上に投げ出した。いつもであれば笑顔で息子を抱きしめるシーンが目の前にあるはずであったが、今日はそれもない。
 私は、その場にいたたまれずキッチンに入ってお茶の用意を始めた。
「それで、間違いないんやな。ほんまにあの子なんやな。」
 ボソボソと話す舅の声がキッチンまで聞こえた。それに対し夫が二言三言何か返事をしたようだったが、よく聞こえなかった。続いて姑の号泣する声が聞こえてきた。急須を握る私の手がピクリと痙攣し、お茶が茶托にこぼれた。私は大慌てで茶托を取り替えると、改めてお茶を注ぎ直した。やっとのことでお茶を入れ終わった私は、お盆に載せたお茶を持って慎重にキッチンを後にした。
 居間が近付くにつれ私の身体は硬直し始め、両親の前に進み出る頃には身体全体が石のように固くなった。手が震えてとても両親の前にお茶を出せそうにない。夫の介添えでようやくお茶を出し終えた私は、小猫のように小さく床にうずくまった。
 姑はまだヒーヒーと声を上げて泣き、舅は仁王像のように腕を組んだまま黙りこくっていた。私は何百本もの針に囲まれた小さい篭の中に閉じ込められていた。寸分でも動こうものならあちこちから針が刺さる。私は膝の上に両手を載せたままじっと目を閉じた。その時である。
「昭子はん、あんたのせいや。全部あんたのせいや。」
 姑は顔を伏せたまま涙混じりの声で呟いた。その声は邪悪な響きに満ち溢れていた。予想だにしなかった姑の一言に、私の心臓はさらに縮こまった。やがてゆっくりと姑は顔を上げた。私はあの時の姑の顔を一生忘れない。赤く充血した目からは血の涙が溢れ、眉間に深く刻まれた皺は般若の面そのものであった。
「あんたようそんな平気な顔してここにおれるなあ。あんた自分のしたことが分かってはるのか。」
「母さん、昭子を責めるのはよさないか。」
 隣から夫が姑を制しようとしたが、効き目はなかった。
「そやかて、子供をきちんと育てるのは嫁の勤めやろ。それをこともあろうに……。」
 姑は「人殺し」と言いかけて、ゴホゴホと激しく咳き込んだ。
「昭子だけが悪いわけじゃない。子育ては夫婦の問題や。」
 夫は今度は少し語気を荒めてたしなめた。その声に姑は再び声を上げて泣き崩れた。再び居間に重苦しい沈黙が流れた。
 その沈黙を破ったのは今度は舅の方であった。
「やっぱし、止めとけばよかった。」
 舅は確かにそう言った。
「わしがあれほど言うたのに、お前が言うこと聞かへんからこんなことに……。」
 私は最初舅が何のことを話しているのか分からなかった。しかし、次の瞬間舅の口が出てきた言葉に私は跳び上がらんばかりに驚いた。そしてこの一言が私を破滅の底へと引きずり込むことになる。
「あれはうちの筋やない。うちの筋にあんな気狂いはおらん。そやからわしがどこの馬の骨か分からんやつは止めとけと言うたんや。それがおまえ……。」
 どうやら舅は私の血筋のことを言っているらしかった。恐ろしい犯罪を犯した息子を「気狂い」と呼び、そしてそれを私の血筋の所為にしようとしていた。所詮この人たちは赤の他人であった。いや他人どころか今となっては私に牙を剥く野獣になりつつあった。ついこの前まではあれ程かわいがっていた息子を気狂いと呼び、そして手の平を返したように私に矛先を向けてきたのである。
 私は怒りに震える肩をじっと抑えながら黙って聞いていたが、次の舅の言葉に卒倒した。
「昭子さん、悪いが祐司と別れてくれへんか。」
 私の心は怒りを通り越して、ポッカリと大きな穴が開いたように空ろになった。絶句している私を横目に夫が口を開くが、もう尋常な会話が出来る状態ではなかった。
「父さん、何をばかなことを。」
「お前は黙っとれ。この三日間寝んと考えた結論や。うちの家に気狂いの筋はいらん。昭子さん、それにあの子もや、二人ともうちの家から籍抜いてもろて……。」
「やめてーー。」
 私は両耳を塞いで絶叫した。
「ひぇーん。」
 その声に反応するかのように姑の泣き声は一段と高くなった。
 その後のことはよくは覚えていない。私は一目散に玄関の方へと駆け出すとサンダルをつっかけた。それから後のことは全く覚えていない。とにかくあの家から逃げ出したかった。出来る限り遠くへ離れたかった。あの舅と姑が吐いた空気を吸うことすら汚らわしように思えた。
 途中私は数え切れないほどの視線を浴びた。お向かいの奥さん、いつも行くパン屋のご主人、そして見も知らぬ通りがかりの人、全ての人の視線が私の身体を貫き通した。その目は畏怖と好奇の念に満ちていた。少年Aの親、気狂いの親、鬼子の親が、今まさに町内を駆け抜けていく。恥ずかしい姿を人前に晒し、何かに憑かれたように駆けていく。鬼子の親が駆けて行ったあとを人々は次々と振り返った。
 どこをどう歩いたのか全く覚えていない。気がついた時、私は高架橋の上にいた。私は小さい時からこの場所が好きだった。橋の上はいつ歩いても気持ちがいい。橋の欄干に手を当てて遠くを見るとどこまでも遮るものがなく真っ直ぐに線路が延びている。その線路の上を時折走り抜けていく電車を見るのが好きだった。いろいろな形、いろいろな色をした電車が代わる代わる流れていく。私はそんな光景をいつまでも飽きることなく眺めていた。
 そんな私をよく母が迎えに来てくれた。夏の夕暮れ時、母に手を引かれて家路を辿る私の心は幸せに満ちていた。母は危ないからといつも私を叱った。でも私はというと叱られるのが楽しくてわざとここへ来ていた。
 私の頬を止め処もなく涙が流れた。今日は誰も迎えに来ない。もう帰る家もない。いっそのことあの電車に乗って、どこか遠いところへ行ってしまいたい。私は突然そんな衝動に駆られた。私が夢遊病者のように欄干にもたれかかろうとした、その時。
「こんなところにいたのか。随分探したよ。」
 夫の声であった。私がようやく我に返った時、高架の下をガタゴトと音を立てて電車が通り過ぎて行った。もし後少し夫が来るのが遅かったら……。
「さっきは済まなかったな。二人とも大阪に帰したよ。」
 夫は優しい口調で声を掛けてくれた。その一言に私は全身の力がヘナヘナと抜けていくのを感じた。やっとのことで夫に腕を支えられると、そのまま夫の胸の中に顔を埋めて号泣した。夫が何事かブツブツと呟いているが、私の耳には全く届かない。しばらくして夫の大きな手が私の小さな手を優しく包み込んだ。その手は母の手のように大きくて温かかった。


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