JR常磐新線が開通して後、筑波は東京からは一時間足らずの距離となった。二人は新しく出来た瀟洒な筑波市中央駅からタクシーを拾って一路国立遺伝病研究所を目指す。研究所は広大な筑波大学のキャンパスの一角にあった。 キャンパスの中は教室から教室へと移動する学生たちの自転車で溢れていた。誰が始めたのか、この広大なキャンパスを動き回るには自転車が一番安くて便利である。タクシーはそうした学生たちの自転車を次々に追い越して走ると、やがて国立遺伝病研究所に着いた。この研究所は五年ほど前、遺伝性難病の臨床研究をするため国が設立したもので、今では世界的に有名な研究所の一つに数えられていた。 近代的な建物の正面玄関を入ると、すぐに受付があった。二人が行き先を告げると、研究棟は隣だと指示された。どうやらタクシーは外来棟に着けてしまったらしい。この研究所は単に研究だけでなく、幅広く一般の外来患者も受け付けていた。数多くの症例研究をすることが目的であったが、一般の病院で医師から匙を投げられたような重篤な患者が、最先端の治療を受けるためにこの研究所を訪れていた。 車椅子に乗った人、目の不自由な人、痴呆症と思われる人、ありとあらゆる患者が、ある者は杖を突き、またある者は家族に付き添われて静かに廊下を行き交う様を見て、理佐と勇一は胸が痛んだ。医学の進歩は人々を病気から救うものなのか、あるいは人々を更なる苦しみに誘うためのものなのか。 研究棟へは渡り廊下で繋がっていた。暖かい陽光が差し込むガラス張りの廊下からは静かな田園風景が広がるのが見えた。あの患者たちはこの渡り廊下をどのような思いで通っていくのであろうか。遺伝性の病気をもって生まれたことを怨んで絶望の淵に向うのか、あるいは病気が平癒したことを喜んで戻って来る人もいるのであろうか。理佐と勇一は、これから医療に携わって行く者として複雑な思いでこの廊下を踏みしめて歩いた。 研究棟の受付は外来棟に比べて人通りも少なく、廊下を通る足音だけがこだました。二人が受付で面談相手の名を告げると、すぐにカウンセリングルームへと案内された。殺風景なその小部屋は中央に置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに椅子が四脚置かれていた。ここで何人の人が不治の宣告を受けて涙したのだろうか。重苦しい空気が漂う中、二人は押し黙ったまま待ち続けた。 十分程待ったであろうか。三十代半ばくらいの医師らしい人が入ってきた。 「いやー、お待たせしました。まあそのままどうぞ。」 その人は、立ち上がろうとする二人を制するように、自らもそそくさと席に着いた。 「吉本といいます。今朝、佐伯教授から電話をもらいまして、大方のご事情はお伺いしました。本来なら患者個人の病気に関するデータはお話することが出来ないんですが、教授の紹介でもありますし…」 吉本医師は、話を続けながら、カルテをテーブルの上に差し出した。 「調べて見ましたが、やはり椎名初江さんという患者さんが一年ほど前当研究所に来院されていました。」 「ほ。本当ですか…」 青白かった理佐の顔に朱が点した。やはり教授の勘は当たっていた。椎名初江は恐らく「自らの治療のために」ここを訪れたに違いない。ついに、ついに探し求めていた人物に巡り会える時が来た。あと一息。 「DNA検査の結果、ご推察の通りアルツハイマーの素因が見られましたが、診察の結果まだ症状も出ていませんでしたので、とりあえず経過観察するということになったようですね。」 吉本医師はさらに説明を続ける。よかった、まだ発病はしていない。理佐はホッとした。 「それで連絡先は分かりますでしょうか。」 理佐は、差出された来院カードに記載された住所と電話番号を素早く書き取ろうとするが、興奮の余り手が震えてなかなか書き写せない。左手を脇から添えてようやくメモ帳に転記した。 住所は大阪府門真市となっていた。京都とは目と鼻の先である。こんなに近くにいる人を見つけ出すのに何と遠回りして来たことか。理佐ははやる心を抑えつつ、お礼の言葉もそこそこに廊下に出ると、すぐさま持っていた携帯電話のボタンを押した。 しかし、理佐を待っていたものは冷たい応答音であった。 「お架けになりました電話番号は只今使われておりません。今一度電話番号をお確かめの上…」 理佐は必死になってボタンを押すが、何度やっても同じ音声が繰り返されるばかりであった。何ということであろう。一縷の望みがまたしても無残にも打ち砕かれた。 理佐は呆然として立ちすくみ、そのまま崩れ落ちるように床に倒れてしまった。
「かなり抵抗力が落ちていますね。更年期障害に加えて、このところの無理と心労がたたったのでしょう。とにかく今は安静にして休息を取られることですよ。」 診察を終えた吉本医師は、勇一に一言二言声を掛けると静かに病室を出ていった。その後姿に深々と頭を下げた勇一は、振り返ると心配そうに理佐の顔を覗き込んだ。 理佐の細い腕には点滴の管が繋がれ、理佐は静かに眠っていた。無理もない。いきなり余命あと十年と言われ、その重圧を背負ったまま、イギリスへ、東京へ、そしてまた今筑波へと転々として来た。理佐は、もう心身ともに疲弊しきっていた。 勇一はそのまま一晩理佐に付き添って、病室の中にいた。師走の長い長い夜が明け、部屋に寒々とした朝日が差し込み始めた。目覚めた理佐の目に一番に映ったのは、傍らの椅子に腰掛けたままうつらうつらしている勇一の姿であった。一晩中看病してくれていたのだと理佐はすぐに気付いた。起き上がろうとした理佐に、勇一はハッと気が付いた。 「もう、ええんか、起きても。」 「ええ。大丈夫そう。夕べは夢を見ていたようだわ。夢の中の私はまだ子供だった。見たことも行ったこともない場所をただひたすら一人で歩き続けているの。そのうち遠くで理佐、理佐と呼ぶ声がするの。でもその声の主が誰だか分からない。その内真っ暗な闇が迫って来て、もう怖くて怖くて…」 理佐の目尻には乾いた涙のあと型があった。
大阪府門真市。 「大阪のことやったらまかしといてー」 勇一は理佐の手を引きながら胸を張って先を歩き始めた。二人は椎名初江が住んでいた住所を訪ねて門真駅に降り立った。 門真は大阪のすぐ隣で、住宅や町工場が密集する街であった。バブルの崩壊後多くの町工場が倒産し一時はかなり寂れた空気が漂っていたが、最近近くに新しい工業団地「バイオゾーン」が完成した。その後多くのバイオテクノロジー関係の会社が進出し、街は次第に活況を取り戻し始めていた。二人は地図を片手に駅から歩いて目的地を目指した。 「おかしいなー。この辺のはずやけどな。」 勇一は突然立ち止まると、途方に暮れたように地図を見直した。先ほどの威勢のよさはすっかり消え、小さな路地をウロウロと行ったり来たりした。周囲は木賃アパートが点在する住宅地で、およそ世界に名を馳せた医学者とは縁の遠そうな所である。二人はもう一度住所を確認したが、確かにこの辺りに間違いがなさそうである。 さらにウロウロすること二十分、二人はようやく目的地と思しきアパートの前に辿り着いた。消え入りそうな字で「松葉荘」と書かれているのを確認した二人は、信じられないという面持ちでその古アパートを見上げていた。初江はここで一体何をしていたのだろう。 目指すは二階の二○二号室である。錆の浮いた鉄製の階段を恐る恐る二階へ上がろうとした二人は、突然ゴーという振動に跳び上がった。続いてゴトンゴトンという列車が通過する音が周囲に響き渡る。アパートのすぐ向こう側は線路であった。電車は二〜三分置きに引っ切りなしに通過する。その度毎にカンカンと鳴る警報機の音が、この付近一帯の侘しさを代弁しているかのようであった。 しかし、問題の二○二号室の扉には、「空き室あり」との貼り紙がしてあった。予想通りであった。電話が通じないことである程度覚悟はしていたが、またしても二人の期待は裏切られた。二人は隣の二○一号室の呼び鈴を押したが応答がない。隣もどうやら空家のようである。 二人は、仕方なく貼り紙に書かれた不動産屋を訪ねることとした。不動産屋は駅近くの商店街の一角にあった。昔風の引き戸を開けて中に入ると、物件案内の広告が乱雑に散らかったデスクの向こう側に店主らしき老人が一人座っていた。 「まいどー。アパート探しかいな。」 眼鏡越しにじろりと二人を見た店主が無愛想に答えた。 「いえ、人探しです。あの松葉荘に住んでいた椎名初江という人をご存知ないですか。」 店主は、返事をする代りに、じろじろと理佐の顔を観察し始めた。 「どうかしましたか。」 「いやー失礼。あんまりよう似てはったもんでなー。椎名さんが戻って来られたんかいなと思いましたわ。まあ、あんさんの方が大分若うてべっぴんやけどなー。」 似ていると言われたのはこれで二度目であった。佐伯教授も瓜二つと言っていた。そんなに似ているのであろうか。理佐はその言葉に初江との只ならぬ血縁関係を感じ始めていた。 「椎名はんは半年ほど前に引越しはった。何でもスポンサーがどうとか、新しい会社がどうとか言うてはったかな。それまでは暮らし向きもきつそうでした。時折家賃も滞納しはるしな。それが、あの日突然黒塗りのハイヤーが迎えに来よったんで、ほんまビックリしましたわ。」 「それで、行く先はご存知でしょうか。」 「いーや。あの人変わった人でなー、普段はほとんど口も聞かはれへんし。第一月の内、半分くらいはいつも留守でしたし。部屋の中には何やら難しそうな本を一杯積み上げてるし、床が抜けるいうて一回苦情言うたこともおました。出ていかはる時も挨拶もなかったし、ほんま変わった人でしたわ。」 またしてもすれ違い。二人は愕然とした。あと半年早ければ…。理佐は、運命の糸がもう初江とは繋がっていないと思わずにはいられなかった。二十年前のあの日、初江が自分を捨てたあの日に、二人は二度と会えない運命になったのかもしれない。万策尽きた面持ちで二人は門真を後にした。
京都、理佐のマンション。 「もう駄目だわ。やっぱりもう会えないんだわ。」 理佐は、疲れ切った表情で嘆息を洩らした。確かにあと一息というところで何度となく肩透かしを食った。まるで誰かが二人の間をわざと遠ざけているような、会ってはならない何かが二人の間に横たわっているような、そんな感じがあった。 「まだ諦めたらあかん。やっとここまで来たんや。絶対に見つかるて。」 勇一は、そんな重苦しい感じを吹き飛ばすかのように語気を強めたが、内心は途方に暮れていた。「スポンサー」、「新しい会社」、「黒塗りのハイヤー」…、これらが椎名初江とどういう関係があるというのか。初江はあのアパートで一体何をしようとしていたのか。考えれば考えるほど不可解なことばかりであった。 二人はマンションの一室で顔を突き合わせたまま、これらのキーワードを結び付けるものに想像を巡らせていた。どのくらい時間が経ったであろうか、ある考えがほぼ同時に二人の頭をよぎった。二人の視線は壁際に置かれていたパソコンに同時に注がれていた。 理佐は素早くパソコンを起動すると、すぐさまインターネットにアクセスした。キーワード「遺伝子 アンド ベンチャー企業」と入力し、検索ボタンを押下げる。しばらくして、二○七○○○件という件数が表示された。膨大な件数である。 二人は、ゆっくりとスクロールを移動させながら、表示されたラインを一件一件、慎重に調べ始めた。どれほど時間がかかるかわからない。ひょっとすると、それは広大な砂漠の中に落ちたダイヤモンドの粒を探すようなものかもしれない。しかし、今の二人に出来ることと言えば、これくらいしかなかった。 最初は勢い込んで調べ始めた二人であったが、時間が経つにつれペースがダウンしてきた。パソコンの画面に集中するのは疲れる。二時間が限度である。いつしか時計の針は真夜中の十二時を過ぎていたが、未だ総件数の半分にも至っていなかった。 本当に椎名初江はこの中にいるのであろうか。この作業はひょっとすると全くの無駄骨かもしれない。二人は半ば自分自身を疑いつつも、とにかく交替で作業を続けた。 ようやく夜も白み始める頃、理佐はマウスを握ったまま眠り込んでしまった自分に気がつき、ハッと頭を上げた。傍らでは勇一がグーグーと寝息をたてている。暗闇の中で、パソコンの画面だけが異様に明るく輝いていた。理佐はボンヤリとその画面に見入っていた。淡いグリーンを基調とする画面に、赤い字が踊っている。 「あなたの輝かしい未来と人生を再生します。バイオベンチャー、ヒューマンクリエイツ。」 何かの企業のホームページであろうか。夢、希望、未来……、どこの企業も似たようなうたい文句を掲げて自らをアピールしている。一体そのいくつが厳しい競争を勝ち抜いて生き残るのだろうか。理佐はそう思いながらも、スクロールを進めた。 「あなたの一個の細胞から臓器を再生します。医師から不治の病を宣告されたあなた、臓器移植しか助かる道のないあなた、そんな人の期待に答える未来の技術。世界初の臓器再生工場が今始動しました。」 理佐はそんな夢のような話があるものかと思いながら、しかし一方で半ば好奇心からそのホームページを読み進めた。 「手続きは極めて簡単です。当社の付属病院にご来院頂き、あなたの骨髄からES細胞を摘出する手術を受けて頂きます。手術時間は約二十分、入院の必要もありません。あとは、あなたがご指定された日時に指定の病院に再生された臓器が届けられます。あなた自身の体細胞から再生されたものですので、拒絶反応の心配もありません。」 画面には素人にも分かりやすいようなイラスト入りで臓器再生の仕組みが説明されていた。何にでも分化しうる万能細胞「ES細胞」、そして特殊な酵素を使った遺伝子操作……、こうした過程を経て一個の体細胞から新たな臓器が再生されて行く工程が示されていた。最後に、心臓、肝臓、骨、神経等、ありとあらゆる人体の部位に応用可能とあった。 理佐は、ケンブリッジで見たクローン羊メリーを思い出していた。あれは、一個体を丸々再生するものであったが、これは人体の各部位を再生するものである。まるで機械の部品を取り替えるように、人も自分の部品を取り替えることが出来る。昨日までは夢物語と思われていたこうした技術が今や現実のものになろうとしていた。 理佐は先ほどまでの眠気も忘れて、すっかり医療の進歩に魅せられていた。この究極の技術が果たして万人の憂いを救済するものなのか、それとも悪魔の選択なのか。理佐は背筋が寒くなるのを覚えながらも、ヒューマンクリエイツ社のホームページを読み進めた。 後は、患者に必要な法的な手続き、治療費用、医療保険など事務的な説明が続く。画面をスクロールさせて最終ページまで進んだ理佐は、ポインターを「閉じる」に合わせて、クリックしようとしたが、その瞬間、理佐の目は一点に釘付けになった。 ページの一番下右隅に、「株式会社ヒューマンクリエイツ代表取締役社長 椎名初江」という字が、自らを喧伝するかのように光り輝いていた。理佐はしばらく押し黙ったまま、その文字を凝視していた。傍らには、目覚めたばかりの眠そうな勇一の顔があった。
株式会社ヒューマンクリエイツの本社は阪奈学園都市郊外の田園風景の中にあった。きれいに芝の刈られた前庭を過ぎると、ガラス張りのエントランスがあった。そのたたずまいはどこかの研究所を思わせる。入り口を入るとそこは三階まで吹き抜けになっており、真冬にも関わらず、暖かい日差しが奥深くまで差し込んでいた。 ホールの中央に緩やかなカーブを描くモダンなデスクが置かれ、受付嬢が笑顔で迎えた。 「あのー。社長の椎名初江さんにお会いしたいのですが。」 「アポイントメントはおありでしょうか?」 「アポイントメント」の一言に、理佐はまたしても返事に窮した。椎名初江、自分の産みの母親が、すぐこの上にいる。駆け上がればすぐにでも会えるはず。しかし、目の前にはまだ越えなければならないハードルがあった。 「社長は、一見のお客様にはお会いになられませんが。」 受付嬢の冷たい返事が返ってくる。 「ケ、ケンブリッジのブラウン博士の紹介と言って下さい。」 理佐の口が独りでに動いた。 「ケンブリッジのブラウン博士ですね。少々お待ち下さい。」 受付嬢は、内線電話で何やら二言三言電話で話していたが、やがて笑顔て返答した。 「社長がお会いになられるそうです。あちらにお掛けになってしばらくお待ち下さい。」 受付け脇のソファに腰を下ろした二人の胸の内は、既にドクンドクンという音を立てていた。理佐は組んだ両手の上に額をのせて祈るような仕草で顔を伏せている。一方、勇一はと言えば、垂直に背筋を伸ばしたまま、大股に開いた右足を頻りと揺らしていた。 掛けて待つこと十分、ようやく秘書らしき女性が現れた。その女性は、先に立って二人をエレベーターへと誘導する。社長室は三階にあった。エレベーターホールを出るとすぐ右手、全体をグリーン調に統一した軽いタッチで、いかにもベンチャー企業という雰囲気が漂っていた。 理佐の緊張は既に極限に達しており、今にもプツリと切れそうな様子である。勇一もハッキリと聞こえるような音を立てて生唾をゴクリと喫飲した。 女性が軽く社長室をノックすると、中からどうぞという声が聞こえた。二人は、恐る恐る部屋に入る。三十畳ほどのその部屋は、全面が大きなガラス窓となっており、そのすぐ前に社長デスクとソファが置かれていた。やはり淡いグリーンを基調とするインテリアは訪れる人に安らぎを与える。しかし、今の二人には、そんなグリーンの色がグレーに見えた。 社長デスクの向こう側に一人の初老の女性が窓の外を見ながら立っていた。理佐と勇一は、入口近くに無言のまま佇んだ。 「とうとう来たのね。いつかこんな日が来ると思っていた。」 その女性は二人に背を向けたまま、静かに口を開いた。恐らく、この人が椎名初江、自分の産みの母親。一体、どんな顔をして自分と対面するのか。二十年前、身勝手にも自分を捨て、そして今このような華やかな企業の社長に収まっている。椎名初江というのは一体どういう人物なのか。 しかし、次の瞬間、理佐は見てはならないものを見ることになった。窓の外を見ていた女性が、ゆっくりと二人の方に向き直ったのである。 「あっ。」 勇一が思わず声を上げた。明るい陽の光を背にしているせいか顔が少し暗く見える。しかし、髪の色が白いことを除けば、その切れ長の目、少し出っ張った頬骨、キリリと締った口元は、理佐そのものであった。理佐が二人。もし歳が離れていなかったら、どっちが理佐だか分からない。双子のように瓜二つであった。 驚きの余り、声を失っている二人を尻目に、初江は悠然と話を続ける。 「本当、本当に私の若い頃にそっくり。まるで鏡を見ているようだわ。」 自信に満ちたその顔には微かに笑みが浮んでいた。理佐は一瞬たじろぐ素振りをして見せたが、すぐさま歩を進めた。 「やはり、あなたが私のお母さんだったのね。ひどい、ひどいわ。どんな理由があったにしても、実の子を棄てるなんて。私には、絶対許せない。」 興奮の余り、理佐は小刻みに肩を震わせて詰め寄った。 「ご、ごめんなさい。でもああするより仕方がなかったの。お願いだから訳は聞かないで。その方がお互いのため。」 理佐の強い口調に押されたのか、初江は少し怯むような仕草をして見せたが、口から出てくる言葉は冷静そのものであった。初江の冷徹な態度に今度は理佐のテンションが高まって行く。 「それが二十年ぶりに会った我が子に向って言う言葉?。どんな訳があったのか知らないけど、あなたは人じゃない、人の仮面をかぶった鬼だわ。」 そこまで言うと、理佐は突然張り詰めた糸がプツリと切れたように泣き崩れた。初江は、そんな理佐を庇おうともせず悠然と立っている。傍らから勇一がにじり寄った。 「理佐、あと十年の命なんや。何でもテロメアとかいうのが人より短いらしいんや。」 「えっ。ま、まさか。」 その瞬間、自信に満ちていた初江の顔色がみるみる蒼ざめていった。遺伝学の権威であった初江にとってそれが何を意味するのか一瞬にして悟ったようだった。 それから長い沈黙の時間が流れた。傾きかけた陽光が部屋の奥まで届き、セピア色の影が部屋の奥まで長く忍び込んできた。その光に照らされて、初江は不動のまま佇んでいた。やがて、初江の頬に一条の筋か輝き、微かに嗚咽の声が響き始めた。 「ごめんなさい。本当にごめんなさい。全ては私が悪いの。全ては私の我が侭のせい。」 少し間を置いて、初江は何かを振り搾るように話を始めた。 「あれは二十二年前、私が三十三歳の時だった。あの日、いつものように鏡を見ていた私は頭の中に一本の白いものを見つけたの。ショックだった。本当にショックだった。いつまでも若いと思っていたのに。大学を出てから研究一筋、体力でも知力でも誰にも負けないという自信があった。でもどんな優秀な人にも必ず老化は忍び寄ってくる。この当たり前のことが私には受入れられなかった。」 初江は、理佐に向かい合ってゆっくりとソファに腰を下ろした。 「当時、私はケンブリッジ大学の遺伝子工学研究所に客員研究員として招聘されていた。世界中から超一流の遺伝学者が集い、日夜切磋琢磨し議論を闘わせていたわ。あの頃はヒトクローンの是非を巡って学会が真っ二つに割れて論争が盛り上っていた。毎日が輝いていたわ。」 当時を思い出すかのように宙空を仰いだ初江は、さらに話を続ける。 「当時の学会の主流はヒトクローンには反対だった。所内の倫理委員会も否定派が多数で、そんな中、私とブラウン博士が肯定派の急先鋒だった。私は人の寿命が科学の力によって延ばせるなら限りなく可能性を追求すべきだと主張したの。数多くの人達が遺伝病で苦しんでいるのに、健常者は単に宗教だの生命倫理だのという理屈でこの人達の人生を奪っていいいものかと思った。かつては、ワクチン技術の開発によって人類は天然痘の恐怖から生き延びた。クローン技術によってさらに人の寿命が延ばせるなら、それは人類の幸福になりこそすれ不幸には絶対にならないと確信していたわ。」 理佐も勇一も、黙って初江の話を聞いていた。今日においても、医学を志す者にとって、いやそんなものとは無縁の者にとっても、これは大変興味深い論争であった。 「でも、やはりそこは悪魔の住処だった。たった一本の白髪が、私を悪魔の選択に駆り立て始めた。あの日以来、私は迫り来る老化の恐怖に苛まれ始めた。この輝かしい人生もあと三十年もすれば消え去る。その時どれほどの人が私のことを覚えているだろうか。人間なんて冷たい者。どんな有名な人でも、どんな立派な人でも、死んで一年も経たない内にすっかり過去の人となるのよ。」 初江は次第に高揚して続ける。 「私は出来る限り長く生きて、科学の進歩に貢献したかった。自分が学んだこと、研究したことをもっともっと深めたかった。そして百年、二百年後の科学の進歩をこの目で確かめたかった。そのためには三十年という時間はあまりに短かった。それからというものの、私はテロメアの研究に没頭していった。当時、既にヒトの寿命にテロメアが関係しているらしいことは分かっていた。私はこのテロメアを操作することで自らの寿命を延ばすことを考えた。」 初江はそこまで話すと、ゆっくり立ち上がって壁際のワゴンからミネラルウォーターをとりグラスに注いだ。まるでこれから話すことを、口の中に含んだ水で咀嚼するように、ゆっくりとグラスを傾けた。 「でも神の摂理は人事をはるかに凌いでいた。ベールをはいでもはいでも、またその奥に厚いベールがあるような感じだった。私は限界を感じ始めていた。そしてとうとう悪魔の囁きに導かれてしまったの。」 やがて初江の呼吸は、気持の高揚を表わすかのように、速く浅くなっていった。 「二十一年前のあの日、イギリスの暗い冬も終わり、ようやく春めき始めた頃だった。私の右手には一本のプローブ(探針)が握られていた。私は震えるその手を止めることができなかった。プローブの切っ先はゆっくりと私の右の乳房に触れ、やがて肌を突き破って乳房の奥底へと吸い込まれていった。」 二人は、初江が説明しようとしている情景を瞼の中に思い描いた。一本のプローブ、それが乳房を食い破って奥深く突き刺さっていく。一体、初江は何をしようとしたのか。二人は、胸騒ぎがして、次第に全身の毛穴が閉じて行くのを覚えた。理佐と勇一は次に初江の口から出てくる言葉を全身全霊を集中して待った。理佐の心臓は早鐘のように鳴り響き、動悸が耳の奥までこだました。勇一は、しきりとゴクリと喉を鳴らしている。 「オペはすぐ終わったわ。焼けた火箸を突き刺されたような激しい痛みも、あの時は不思議と快感に思えた。乳房から抜き取ったプローブの先で、私の新しい生命が脈打つ喜びに全てを忘れていた。この乳腺細胞こそ、私の新しい命、私の人生を変える宝の種…」 「乳腺細胞」。この言葉を聞いた瞬間、理佐と勇一は初江が何をしようとしていたのか明確に理解した。そしてその恐ろしい発想に、気が遠くなりそうになるのを感じた。どのような言葉を使っても表現できない恐ろしい結論が、二人を待ち受けていた。しかし、二人が事の重大さを咀嚼しきる前にも、初江の遺伝学の講義は淡々と前へ進んで行く。 「私は、顕微鏡を操作しながら取り出した乳腺細胞の細胞核を抜くと、研究用に保存されていた卵細胞の核と入れ替えた。そして、メリーの時と同じように活性化処理を行った。一日後、予想通り卵細胞が分裂を始めたのを確認した私は、箝子を使ってそれを自らの子宮に戻す処理をした。そして一ヶ月後妊娠が確認された。」 茫然自失。理佐の頭の中はすでに真っ白になり、その後の初江の声は全く脳に届いていなかった。しかし、初江の企図したことだけは鮮明に脳裏に焼き付いていった。この狂気の学者は自らを実験台にして神の領域に挑戦したのであった。そして、自分こそがその実験の産物…。 理佐は頭を振り搾って、この悪夢のような帰結を振り払おうとした。そう、いくら自分を複製したとしてもそれは体だけのこと。確かにDNAが同じであれば、同じ体が生まれるかもしれない。しかし、それは単に体質が同じというだけであって、理佐は依然として理佐であり、初江とは別人である。 「狂気の沙汰だわ。いくらクローンといっても、私は私。現に、私はあなたとは別人。こんな単純なこと、あなたほどの学者であればすぐに分かったでしょうに。」 理佐は、ぐるぐる回転している頭の中から言葉を選びながら、詰問調で投げ返した。 「そう、百パーセントは無理ね。でも、九十パーセントならそうともいえないの。当時既に、ヒトの気質や精神までもがかなりの程度DNAに左右されることが研究で明らかにされていたわ。人の気質は、一言で言うと脳内物質のバランスで決まるの。例えばドーパミンの分泌が多い人は活発で明るい性格となり、セロトニンが少ないと短気で怒りっぽくなるとか、いろいろな研究をしている人達がいたわ。そしてそうした脳内物質の分泌を促す神経細胞の働きもDNAに支配されている。」 理佐は大変驚いた。心理学を志す者にとって、精神や気質までがDNAで決められているという考え方は受け容れ難いものであった。理佐は毅然として反論する。 「たとえそうだとしても、後天的な部分は絶対あるわ。現実にカウンセリングによって人はすっかり変わるのよ。」 「それは一時的に脳内物質のバランスが変わっているだけ。体質が変えられないのと同じで、ヒトの気質を根本から変えることも遺伝学的には出来ないわ。まさに生まれながらにして持った運命にヒトは支配されるのよ。あなたは体質だけではなく、気質まで私と全く同じものを持っているはず。そして知能もまた同じ。素材が同じであれば、後は教育と環境ね。生まれてすぐから私と同じような環境で同じような教育を受けていれば、あなたはまさに身も心も限りなく私に近い人に育っていくはずだった。たとえ私という個体が滅びようとも、私という人間は永遠にあなたの中で生き続ける。そしてあなたの体が滅びる前に、今度はあなた自身が私がしたのと同じことを繰り返せば、さらにその子孫に私というものが受け継がれ……。」 そこまで聞いた瞬間、理佐は頭を抱えて絶叫した。 「や、やめて。もうたくさん。」 一瞬にして、部屋の中は押し殺したような静寂に包まれた。窓の外はすっかり日が暮れ、遠くの地平線に微かに輝く残光がわずかに部屋に届き、三人の姿をシルエットのように浮かび上がらせた。迫り来る闇の中で、互いの表情はもう全く見えない。いやむしろその方がよかったのかもしれない。このような恐ろしい話は他人の顔を見て出来るものではなかった。壊れそうなほどに張り詰めた空気を最初に動かしたのは、やはり初江であった。 「でも、ことはそう単純ではなかった。研究所が私の妊娠に疑いを持ち始めたの。私がヒトクローン肯定派の急先鋒であったことから、所内の倫理委員会から目を付けられていた。そしてついに研究所は私の胎児のDNA調査をすべきと主張し始めた。ヒトクローン規制法を厳密に解釈すれば、自らを実験台とする実験も処罰の対象となる。下手をすれば、胎児どころか私自身の地位も危うくなるところだった。」 クローン羊メリーの誕生後、世界各国でヒトクローンの研究を禁止しようとする動きが活発化し、相次いでヒトクローン規制法が成立していた。初江の行為は当然に罪となる。 「その時、私をかばってくれたのが同じラボにいたパートナーのブラウン博士だった。彼は、私のお腹の子は自分の子だと言ってくれたの。全てを承知の上でね。そして、倫理委員会の触手が伸びる前に日本に帰ることを薦めてくれた。私は断腸の思いで研究所を後にしたの。その後彼も研究所を退社したと人づてに聞いたわ。彼は私が生涯で一度だけ心から愛せた人だった。そのかけがえのない人を私は私自身の狂気ににより失ったの。私の心の痛手は計り知れないものだったわ。失意のまま日本に帰った私は、そのまま生まれ故郷の白浜に戻った。全てを失った私はもうどうでもよかった。死という言葉が私の頭の中を満たしていた。」 そこから先のことは聞かずとも、理佐は育ての親から聞かされて知っていた。三段壁の上から飛び降りようとしていた女性、今その人が目の前にいる。理佐は自分の運命を呪った。いっそのこと、そのまま自分を抱いて飛び込んでくれていたら、このような恐ろしい運命を知らずに済んだ。全てが闇の中で終わっていた。しかし、現実は過酷な運命を選んだ。 「崖から飛び降りようとしていた私を一人の男の人が制して下さった。その方が多分あなたの育てのお父さん、お父さんは私の頬を力任せに二度引っぱたくと、私を崖っプチから引き離した。その後、お父さんが言われた言葉、今でもはっきりと覚えているわ。「人のために生きろ。」と言われたの。その時お父さんは既に末期ガンに侵されておられた。わずか半年しかない命を懸命に生きようとしている人間もいる、その人間の前で前途ある人が死のうなんて失礼じゃないかってね。」 初江は、溢れる涙を拭おうともせず、天井を仰ぎ見て話を続ける。 「私はようやく目が覚めた。私は、残された半生をそんな人達のために尽くそうと思った。私の遺伝学の知識が少しでも人の役に立つなら、そうしたいとね。それからの私は今の会社を設立するために奔走した。一度学会から除籍された者にとって、それは辛く長い旅路でもあった。臓器再生の知識を学ぶために世界中を飛び歩き続けた。そしてついに半年前、臓器再生工場の設立に漕ぎ着けたの。」 今、理佐は全てを聞き終わった。この狂気の科学者の我が侭のために、自分という存在が創り出され、そしていとも簡単に棄てられた。理佐の怒りと悲しみは極限に達していた。錯乱する意識の中で辛うじて自我をコントロールしようとするが、もう尋常な精神状態ではなかった。 「でも、何故私を棄てたの。そこまでして産んだ私を何故棄てたの。」 「それはお互いのため。あなたは私のクローン、ほらこんなに瓜二つなのよ。あなたが大きくなった時、早晩あなたは気が付くことになる。その時私はなんて説明すればいいの。私には、自分が母親のクローンと知ってショックを受けるあなたの顔を見るのが怖かった。 そして、あなたを罪人の子供にもしたくなかった。二度とお互いの顔を見ないのがお互いのため、私はそう思って、あなたのお父さんにお願したの。」 いつしか外はどっぷりと日が暮れ、寒々とした青白い外灯の光がわずかに部屋に差し込んでくる。暗闇の中に漂う長い長い沈黙を破ったのは、理佐の鳴咽の声であった。理佐の口にもう言葉はなかった。ただひたすら咽び泣く理佐を、勇一は抱きかかえるように外に連れ出した。後を追いかけようとする初江を勇一の鋭い眼光が制止した。今はそっとしておいてやってくれ、その目はそう語りかけていた。
三日後。理佐はうつ状態のどん底にあった。朝から何をする気力もなく、授業にも出ずにただひたすらマンションの一室に引きこもったまま一日を過ごしていた。 三日前に聞いたことが全て夢のように繰り返し頭の中を巡った。自分と全く同じDNAを持つ人がこの世にいる、しかもそれが自分の母親であったということ自体がショッキングな話であった。加えて更年期障害から来る頭痛やめまいが重苦しく自らの上にのしかかっていた。 時折、勇一が心配して訪ねて来てはくれるが、今度ばかりは勇一の言葉も耳に届かなかった。この日も朝遅く起きた理佐は、朝とも昼ともつかない食事を済ませると、何とはなしに流れるテレビの音声にボンヤリと耳を傾けていた。その理佐の目がテレビ画面に釘付けになった。 「今朝早く、和歌山県白浜町にある三段壁の崖下で頭から血を流して倒れている女性の遺体を近くに住む男性が発見し、警察に届け出ました。白浜署の調べでは、この女性は所持品から株式会社ヒューマンクリエイツ社長椎名初江さん五十六歳と判明しました。他に外傷などないことから白浜署では自殺とみて調べを進めています。関係者によりますと、亡くなった椎名さんは臓器再生で有名なベンチャー企業の創設者で、最近では……。」 「そ、そんな。」 理佐は茫然自失のままその場にしゃがみ込んでしまった。たった三日前に会ったばかりの母親がもうこの世の人でないなんて。自分は産みの親のことについてほとんど何も知らない。まだまだ聞きたいことは山のようにあったのに。理佐はまだ閉じきらない心の傷痕に煮えたぎる鉛を流し込まれたような思いであった。気が遠くなりそうになるのを必死にこらえて立ち上がろうとする理佐の耳に突然ドアベルが鳴り響いた。理佐はギョッとしてすぐに声が出なかった。しばらくの沈黙の後、表で声がした。 「小野寺さーん。書留めですよー。」 理佐が受取った白封筒の表には、几帳面な字で確かに「小野寺理佐様」と宛名書きがあった。間違いなく自分宛ての手紙である。恐る恐る裏を返すと、差出人名は「椎名初江」とあった。理佐は大慌てで封を切ろうとする。手紙の消印は二日前となっていた。初江はこの手紙を投函した後、自らの最後の決断を実行に移すために、二十年前と同じあの場所に立ったのであろう。 封を切ろうとする理佐の手は、プルプルと震えてなかなか封が開かない。やっとの思いで封を開くと、中から白い便箋が三枚出てきた。そこにはやはり青インクで書かれた几帳面な小さな字が並んでいた。
「理佐へ。 この前はごめんなさい。あんな形で親子の名乗りを上げたくはなかった。本当に許して。私は今自分のしたことを今でも大変後悔しています。嘘と思われても構わない。でも正直言って私はこの二十年間ずっと重い罪を背負って生きてきました。あの日以来、私は一日もあなたのことを忘れたことはなかった。その気持ちを無理矢理隠そうとして私は臓器再生の研究に没頭していたのかもしれない。でも私の犯した罪は消えることはない。そうこの世に全く同じDNAを持つ人間が二人いること自体が許されないことなの。 私は、あなたが私を訪ねてきたとき、この狂気に満ちた私の人生に終止符を打つときが来たと思った。幸い、会社の方も軌道に乗り始め、もうこの世で私に残された役目はないと思った。 それにDNAチップの秘密を調べたあなたのことだからもう知っているでしょう。私のDNAにはアルツハイマーの素因が強く出ているの。まだ発病はしていないけど、九十九パーセント間違いないわ。アルツハイマーは未だ確たる治療法が確立されていない恐ろしい病気なの。私も医学を志した人間、その末期がどんなものか全てを見知っている。私は年老いた惨めな自分の姿を人に見せるのが怖かった。 本当に身勝手な親だと思うでしょう。自らの我が侭のためにあなたを産み、そしてまた今自らの我が侭のためにあなたを置いて先に逝く私を怨んでいるでしょう。でもそんな身勝手な私の最後のお願いを一つだけ聞いて欲しいの。私の会社ヒューマンクリエイツを引継いで欲しい。この会社は臓器再生を目的として半年前に設立しました。私の二十年間の研究の結晶です。この世には、不治の病に侵され臓器移植しか助かる道のない人が未だ数多くいます。その人達に生きる望みを与え、命の灯火を再び点して上げるのがこの会社の使命。これをあなたに是非引継いで欲しいの。 この会社は来月株式公開することになっているわ。証券会社の人によると公開価格は百億円を下らないそうです。この全株式をあなたに譲ります。 最後に一言。あなたのテロメアのことだけど。勇一さんが言っていた「テロメアが人より短い」というのは遺伝学的にはありうる話。そうあなたは見た目は赤ん坊として生まれても、そのDNAは私自身のものだから、既に私が生きた分あなたのテロメアも短くなっているというのは道理かもしれない。永遠の命を得ようなんて考えた私が馬鹿だった。そのためにあなたに大きな代償を払わせることになってしまった。本当に、本当にごめんなさい。 でも、決してあきらめないで。必ず私もあなたもまだ知らない「神のベール」がまだ残っているような気がする。無責任な言い方かもしれないけれど、絶対にあきらめないで、そして私のような弱い女にならないで。グットラック。そしてさようなら。 親愛なる理佐へ。 初江」
封筒の中からポロリと見覚えのある丸いガラス片が出てきた。理佐が持っているDNAチップと同じ物であった。小さい字で「HATSUE」と刻まれたそのチップの縁をよく見ると「R14790」という例の数字があった。理佐の持つチップと一番違いの続き番号であった。二十年前、初江は恐らくチップを二つ用意し、片方に自らの遺伝情報を、そしてもう一方に理佐の遺伝情報を刻み込んだのであろう。 理佐は自らが片身として持っていた「RISA」の文字が刻まれたチップを取り出すと、 二つのチップを見比べてみた。一方が「HATSUE」、もう一方が「RISA」、本来なら別人のものであるはずだが、その中に刻み込まれたDNAの痕跡は全く同一である。 理佐は、二つのチップを重ね合わすと、しっかりと手の平の中で握り締めてみた。この一片の小さなガラス片が親子の絆を結び付けた。二十年の時を経て、理佐はようやく自らが初江と一体化したような不思議な感覚に囚われた。 あの狂気の学者も結局は弱い人の子であった。そのことだけでも分かって、理佐は少しばかり自らが救われる思いがした。と同時にこの世で唯一血のつながった人を失った悲しみに、理佐はいつまでも噎び泣き続けた。
三年後。ホスピス「永遠の荘」の一室。 「はい、おばあちゃん。日記を付けましょうね。おばあちゃんが今日思ったこと、したことなんでもいいのよ。それはやがて本となり、おばあちゃんはそれを読む人の心の中に永遠に生き続けるのよ。」 明るい春の日差しが差し込む病室は、病院とは思えないほど明るい造りなっており、安らかな空気が溢れていた。 理佐は結局初江の志を引継がなかった。初江の遺産は全て末期ガン患者のためのホスピス「永遠の荘」に寄付され、理佐はそこでカウンセラーとして働き始めた。 初江の会社ヒューマンクリエイツは今では規模も設立当初の十倍程となり、連日マスコミの話題をさらっていた。しかし、理佐には自らの臓器を再生して命を長らえるという初江の思想に賛同できなかった。人間の尊厳は、命の長短ではなく、与えられた時間をどう使うかによるものと、理佐は思っていた。そのため自らが大学で学んだカウンセリングの知識を一人でも多くの人のために役立たせようとしていた。 今日は、勇一がインターンの研修を終えて、このホスピスの勤務医として着任してくる日である。理佐は朝から勇一の到着を今か今かと待ち受けていた。勇一は理佐の境遇を全て承知の上で、今春籍を入れることにしていた。 もうすぐ昼になろうとする頃、病室の窓から見えるエントランスにタクシーが入ってくるのが見えた。理佐は急ぎ足で部屋を出て、エントランスに向う。開いた自動ドアの向こうに勇一の姿が見えた。トレーナーにジーパン姿の新米医者は薄汚いスポーツバッグを片手に入ってきた。勇一は理佐の姿を見るなり笑顔で声を掛けた。 「やあ、元気そうやんか。どないやー。」 「うん大丈夫。最近は体の調子もいいみたい。先週久しぶりにDNA検査を受けたけど、テロメアが少し伸びたようだって。先生も不思議がってたわ。」 理佐は、今初江の最後の言葉を噛み締めていた。「神のベール」がまだ残っているかもしれない、決して諦めてはいけない、という初江の言葉を。 「そうか、そりゃあよかった。」 勇一は本当に自分のことのように喜んだ。その素直さが理佐にはたまらなく嬉しかった。 「そ、それとー、月の方も戻ってきたようなの。」 理佐は少しうつむき加減に恥ずかしそうに小声で付け足した。 「ツ、ツキ? へぇー、理佐でも占いなんか信じるんか。」 勇一は、とぼけた表情で尋ね返した。しかし、一方の理佐は、相変わらず恥ずかしそうに両手を弄繰り回している。しばらく小首を傾げていた勇一は、ようやく… 「そうか、そういうことか。そやったんか。よーし、今夜は頑張るでー。」 勇一は鼻の下を長くして、舌を出して見せた。理佐は顔を真っ赤にして、勇一に背を向けた。 (了)
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