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作品名:永遠の代償 作者:ツジセイゴウ

第1回   前編
永遠の代償

 大学病院診察室。
「本当に年齢は間違いないですよねー。」
 医師は疑うような眼差しを理佐に向けた。
「どういうことでしょうか。」
 身繕いしながら、理佐はゆっくりと医師の方に向き直った。
「率直に申し上げて分からないことだらけなんですよ。血液検査の結果を見る限りあなたの体はとても二十歳の学生さんとは思えない。」
 医師はいろいろな検査数値の並んだ診断表を見ながら説明を続けていくが、理佐には何のことかさっぱり解らなかった。医師の口からは相変わらず歯切れの悪い言葉が続く。
「何と申し上げてよいか、要するにあなたの体は、もう六十歳のおばあちゃんなんです。最近の体調の不良は、そう、一言で言うと更年期障害っていうところですか……」
「えっ?」
 理佐は一瞬わが耳を疑った。一ヶ月くらいから前から体の不調が続いていた。動悸、息切れ、めまい、そして月経不順、ありとあらゆる症状が襲ってきた。それまで体に自信のあった理佐にとって全く初めての経験であった。
「とにかく普通の検査では分からないんで、検体をDNA検査検に回しておきますね。保険効かないんで少々高くつきますが宜しいですか。」
 理佐は無言のままコクリと頷いた。小野寺理佐、京都大学文学部心理学科で臨床心理士となるべく日夜勉学に励んでいた。頭脳明晰という点を除けば、ごくごく普通の女子大生であった。
 理佐は重い足取りで大学病院の受付けを出ると学生食堂の方に向って歩き始めた。初冬の京都は既に木枯らしが吹き始め、すっかり黄色づいた銀杏の葉がキャンパスに散り敷いていた。
六十歳のおばあちゃんの体、更年期障害……、先程の医師の説明が何度となく頭の中を過ぎっていく。一体どうなってしまったのか。襲い来る不安だけが重く理佐の心に圧し掛かっていた。

「やあー理佐やんか。どないしたんや、そんな鬱陶しい顔して。」
 もう少しで学食の入口というところで、よれよれの白衣を着た学生が理佐に声を掛けてきた。理佐はその声に全く気付かない様子でトボトボと歩みを進める。
「リーサ、どないしたんや。」
 声の主は、今度は理佐の真正面に立ち塞がって、理佐の顔を覗き込んだ。
「せ、先輩。」
 理佐はようやく我に返って、声の主を正視した。勇一であった。医学部の研修生で、この春たまたま精神分析学の講義で知り合った。理佐にとっては単なるアホとしか思えない相手ではあったが、その大雑把な性格が、神経質な理佐にはある時は居心地のいい癒しとなっていた。何とはなしに付き合い始めて半年、いつも人を笑わせ明るくする性格がカウンセリングにはピッタリではないかと、常々羨ましく思っていた。
「再検査だって。結果は三日後なのー。」
 理佐は力なく答えた。
「この前言うてた血液検査か?。そうか、そやったんか。」
 勇一は自ら納得するように頷いた。理佐は、そんな勇一を無視するかのように歩みを進める。
「お、おい。ちょっと待てよ。茶でも飲もうや。」
 勇一は、無理やり理佐を学食へ引っ張り込んだ。窓際の席に理佐を座らせた勇一は、そそくさとカウンターに行き、紙コップにコーヒーをなみなみと注いで戻ってきた。理佐は、そんな勇一を無視するかのように、ずっと窓の外を眺めていた。何を言っても無駄、そっとしておいて…、理佐の顔にはそう書いてあった。
 しかし勇一の性格がそれを許さなかった。落込んでいる人を見れば見るほど、無性に明るくしてやりたくなる性格が、今日はこのまま理佐を帰してなるものかという意気込みに変わり始めていた。
「全く、今日の遺伝学の講義は最低やった。DNAチップとかいうのを使うと、ありとあらゆる病気が一辺に診断できるんやてー。それもたった一日足らずやで。ほな医者は何のためにいるんやー。こりゃ医学部崩壊やー。」
 勇一は席に着くやいないや、たった今聴いてきたばかりの遺伝学の講義の話を始めた。相変わらず自分主導である。人の話を聞く前に、一方的に自分の話だけを進めようとする。何を聞いても無駄と思っていた理佐の耳は、しかし、そんな勇一の一瞬の言葉を聞き逃さなかった。
「DNAチップ?」
 理佐は急に真顔になって聞き返した。確か医者は検体をDNA検に回しておくと言っていた。ひょっとして。理佐が突然真剣な表情になって身を乗り出したので、勇一の饒舌は加速した。
「そうや。検査は簡単や。患者からとった血液をDNAチップとか言われるガラス板の上に載せる。この板にはいろいろなたん白質が埋め込まれていて、遺伝子に異常があればその部分が発光して知らせてくれるんや。医者はその結果を見て、病気を診断する。遺伝性の病気、例えばガン、緑内障、アルツハイマー、高血圧……、ありとあらゆる病気がこれ一つでわかる。今は健康な人でも遺伝子を調べて異常があれば、発病する前に予防的治療をする時代なんや。」
 医療の世界は大きく変わった。治療医学から予防医学へと変わったのである。理佐はDNA検査で体の不調の原因が分かるのではないかと期待する一方で、言い知れぬ不安を抱え始めていた。もし遺伝子に異常があったら、そしてそれが致命的な欠陥であったとしたら…。
 勇一の話はまだまだ続きそうであったが、理佐はそんな勇一を無視するかのようにフラフラと席を立った。
「お、おい。どないしたんや。ちょ、ちょっと待てよ。まだ、話が終わって…」
 勇一も慌てて席を立とうとしたが、テーブルの角にこっぴどく膝をぶつけてしまった。
「あっ、い、痛たー。」
 勇一がしかめっ面で膝小僧を押さえている間にも、理佐は学食の外へと消えて行った。

 三日後。大学病院診察室。
「ウーン。ますます分からなくなった。」
 医師は再び頭を抱え込んだ。心配そうに覗き込む理佐に、医師は軽く手招きをするようにしてコンピューターの画面を理佐の方へと向けた。画面には理佐には分からない複雑な画像が映っていた。
「ほら、これがあなたのDNAの解析図です。この端っこの部分。ここはテロメアと言って細胞の分裂を制御しているところです。細胞が一回分裂するごとにこのテロメアは少しずつ短くなっていきます。そしてやがてテロメアがなくなると細胞の分裂が停止する。つまり細胞死です。細胞死が増えるとヒトの老化が始るんです。そして個体を維持できないほどに細胞死が起きると、ついには全体死に至るのです。」
 一頻り説明すると、医師はクルリとマウスを回して、画面を元に戻した。それで……。細胞学の講義はいいから早く結論が聞きたい、それがどのような過酷な結論であろうと、このまま焦らされるよりはまだその方がまし。理佐の心臓の鼓動はこれまでにないほど高鳴った。
 医師は少し躊躇するような仕種をした後、やがて意を決したように告知を始めた。
「あなたのテロメアは細胞がもうかなりの回数分裂したことを表わしています。そう、年齢に換算すると七十歳くらい。このままだとあと十回か二十回分裂できるかどうか……。恐らく最近の更年期障害を思わせる症状は、それが原因ではないかと……。」
 医師の口からは、歯切れの悪い説明が続く。
「そ、それって、どういうことですか。」
 消え入りそうな声で尋ねる理佐の体は、最後の結論を前にしてと小刻みに震え始めていた。
「大変申し上げにくいんですが、落着いてよく聞いて下さい。あなたの寿命はあと十年、長くても十五年位ではないかと……。原因がよく分からないんで治療法も……」
 その瞬間、理佐は、目の前が真っ白になり、全身の力がふっと抜けていくのを感じた。
 どの位時間が経ったのだろう。気がついた時、理佐は診察室のすぐ隣に置かれていた触診台の上に横たわっている自分を発見した。
「先生、もう大丈夫のようです。」
 看護師の声を聞いて、先ほどの医師がカーテンを開けて入ってきた。
「お気持ちはよーく分かります。ただ、日常生活に気を付けて努力すれば寿命はいくらでも延ばせます。決して諦めないで下さい。」
 医師は静かに説明を続けるが、もう理佐の耳には何も入らなかった。茫然自失のまま診察室を後にすると、その後どこをどう歩いたのか、気がつくと母親が目の前に座っていた。

 芦屋、理佐の自宅。
「どうしたの急に。今年の冬は研究が忙しいから帰らないって言っていたのに。」
 ティーポットを傾けながら、理佐の母親は心配そうに尋ねた。昭子、理佐の育ての親である。理佐の家は芦屋の高級住宅街の一角にあった。早くに夫に先立たれた昭子は、理佐と二人っきりでこの広大な屋敷に住んでいた。最近理佐が大学に近いマンションに下宿するようになり、三十畳ほどもあろうかと思われる広いリビングルームはますます閑散としていた。洋風に造られたその部屋は南向きで、初冬の長い日差しが部屋の奥まで届いていた。昭子は静かにティーカップを理佐の前に差出した。
 理佐は、出された紅茶には一切口をつけず、堰を切ったように医者から言われた一部始終を昭子に話し始めた。テロメアとかいうのが人より短くて、それで寿命があと十年……。理佐の口から驚愕の言葉が次々と発せられる。昭子の目はみるみる釣り上がっていった。
 理佐はDNA検査を受けたことを後悔していた。予防医学か何か知らないが、こんなことになる位なら、DNA検査なんか受けなければよかった。遺伝子診断が人の運命までをも決めてしまう。そんなことがあっていいものか。理佐は自分が置かれた過酷な運命を呪った。やがて話を終えた理佐は、張り詰めた糸がプッチリと切れたように昭子の膝の上に突っ伏した。
 突然襲って来た不幸に心が動転し、昭子はしばらく理佐を抱きかかえたまま声を失してしまった。どのくらい時間が経ったのだろう、ようやく我に返った昭子は思い出したように意味不明の言葉を発した。
「やっぱり、止せばよかった。止せば……。」
 「止せば…」、一体何を?、昭子は何を言おうとしているのか。理佐は昭子の言葉に、ふと泣き腫らした顔を上げた。一瞬の沈黙が流れた後、理佐は昭子の口から思わぬ言葉を耳にした。
「すべては私たちの所為なのよ、私たちの……。二十年前の丁度今ごろだったかしら。あの日、私たちはしてはならないことをしてしまったの。」
 まだ何のことか分からないでいる理佐に、昭子はそっと付いてくるように目配せした。昭子は黙って立ち上がると、リビングルームを出て渡り廊下の方へと歩き始めた。屋敷内には、洋風の本館の他に和室の離れがあり、そこへは渡り廊下で繋がっていた。普段は鍵が掛けられていたこともあり、理佐も小さい頃から滅多に和室に足を踏み入れることはなかった。いや、ある意味、昭子はわざと理佐を和室から遠ざけていたのかもしれない。
 その和室に、昭子は今理佐を誘おうとしている。その和室にどんな秘密があるというのか。理佐はまだ乾かぬ頬を拭いながら、昭子に続いた。
 和室は十畳ほどの大きさで、庭に面した側にはわずかばかりの濡れ縁があった。外気がそのまま伝わってくるせいであろうか、部屋の中は身が縮むほどひんやりとしている。床の間の隣には大きな仏壇がしつらえてあり、昭子の亡き夫の遺影が飾られていた。みずみずしい菊の花が行き届いた手入れを表わしている。理佐の知らぬ間も、昭子はずっと夫のことを忘れたことがなかったようであった。
 仏壇の前に正座すると、昭子は静かに手を合わせた。
「あなた、もういいでしょう。理佐に全てを話します。あの子は今私たちの助けを必要としています。」
 一頻り黙とうを捧げた昭子はゆっくりと理佐の方に向き直ると、徐に話を始めた。
「理佐、あなたが私たちの実の子ではないということは、前にも話したわね。」
 理佐は黙って頷いた。確か小学校四年生の時だった。自分が昭子の子供ではなく、亡くなった親戚の人から預かったと聞かされていた。
「でもあなたの出生について、まだ大事なことを話していなかったの。」
 昭子は、理佐の反応を確かめるように話を続けた。理佐の心は揺れ動いた。自分の出生についての大事なこと、それは一体何なのか。
「あれは二十年前の今ごろだった。死んだお父さんが突然あなたを抱いて帰って来たの。あの時は本当にビックリした。お父さんはね、時々一人で旅をするのが好きな人で。あの日も前の日から白浜温泉に行くって家を出て、それがいきなり赤ん坊を抱いて帰って来たものだから。」
 理佐は目を丸くした。自分は亡くなった親戚の家の子供なんかではなかったのである。言われてみれば自分は母親にも、死んだ父親にも全然といっていいほど似ていなかった。親戚と言ってもきっと遠い遠い親戚に違いない。だから微塵の面影すらないんだろうと自分を納得させていた。それが全くの赤の他人だったとは……。何故昭子はそんな嘘をつく必要があったのか。理佐は驚きの余り、相槌すら返せないで身を固くした。
 昭子は少し躊躇するような素振りを見せたが、すぐに話を続けた。
「あなたの本当のお母さん、私たち名前も知らないんだけど、あの日白浜の三段壁から、あなたを抱いたまま飛び降りようとしていたらしいの。その時その場に居合わせたのがお父さん。本当のことを言うと、お父さんも死ぬ気だったらしいの。あの人ったら、医者から末期のガンだと宣告されて……、それで私にも言わずに死ぬ気だったらしいの。おかしいわね。これから死のうという人が自殺しようとする人を助けたんだから。」
 昭子は半ば自嘲気味にそっと目頭を押さえた。理佐は大きなショックを受けた。初めて聞く産みの母親のこと、しかもその人は自殺しようとしていた。これはただ事ではない。もしその場に死んだ父親が居合わせなかったら……、そう思うと背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。
「お父さんは自殺しようとするあなたのお母さんを何とか引き止めたんだって。お母さんは思い直したらしいんだけど、今度はあなたを引き取って欲しいと言い出して。よほど何か深い訳があったんでしょうね。そしたらあの人ったら、二つ返事で引き受けたらしいの。自分でも信じられないと言っていた。見も知らぬ人からいきなり子供を預かって来たんですもの。あの人、よっぽど子供が欲しかったのね。私たち結婚して二十五年子宝に恵まれなくてね。あの人、いつもすまない俺のせいだって自分を責めて……」
 そこまで話すと、昭子は突然感情を抑えられなくなって、どっと泣き崩れた。こんなことがあるものなのだろうか。生まれたばかりの子供を邪魔物扱いして、他人に預けていく母親……。どんな理由があったとしても、それは許されることではない。理佐の心の中では驚きが次第に怒りへと変わり始めていた。
「それから半年後あの人は逝ってしまった。あなたと私を置いて。ごめんなさい、今まで隠していて。でも、あの人は死に際に理佐にはこのことは話すな、あなたが悲しむ姿を天国から見るのは嫌だって、言い残して……、それで。」
 昭子は溢れる涙を抑えながら、辛うじて話を結語まで進めた。
 理佐の口に言葉はなかった。昭子を、そして死んだ父親を恨んでも詮のないことであった。いや恨むべきは自分の本当の母親。自分を捨て、一体どこで何をしているのか。無責任、身勝手、鬼……、どのような言葉を並べてみても言い足りない。理佐の怒りはやがて言い知れぬ虚無感へと崩壊していった。
 どれくらい時間が経ったであろうか。いつしか日は西に回り、障子に赤々とした夕日が映え始めた。理佐は自分の運命を呪った。二十年も前、顔も知らない母親に捨てられ、そして今また訳の分からぬ病魔に見舞われている。これが呪いでなくて何なのだ。大声で泣き叫びたい、そんな衝動に駆られ始めたその時、昭子の唇が微かに動いた。
「その時、あなたの首にこれが……」
 昭子は、そう言いながら仏壇の引出から何かの包みを取り出すと、そっと理佐の前に差出した。赤いビロードの包みはさほど大きなものではなかった。握り締めればスッポリと手の平の中に入ってしまいそうな小さな包みであった。
 これが唯一の片身?、理佐は高ぶる感情を抑えながら、恐る恐る包みを開いた。中からペンダント様のガラス片が一つ出てきた。理佐はゆっくりとガラス片を手にとって観察する。ペンダントにしてはどこか妙である。それは三センチ程の円形のガラス板のようで、片面にはわずかにザラザラとした手触りがあり、光が当ると七色にキラキラと輝いた。
「装飾品にしては少し変だけど。でもきれいなものねー。」
 理佐がガラス片をゆっくりと裏返すと、そこにローマ字で微かに「RISA」と書かれていることに気付いた。マジックインクか何かで書かれたと思われるその文字は、二十年という歳月のせいか、ところどころ消えかかっていた。
「そうそう、あなたの名前、理佐っていうのはそこから取ったのよ。お父さんが、RISAというのが多分お前の名前だろうって。」
 恐らく昭子の言うことは正しいのであろう。その自殺しようとしていたという産みの母親とやらは、既に私の名前まで決めていたのだ。それなのに私を捨てた。何故?、理佐の頭に再び怒りが込み上げてきた。理佐と昭子は、代わる代わるそのガラス片を手にとってあれこれと観察するが、結局それ以上の何も発見できなかった。

 三日後、理佐は今後のことを考えるため京都に戻った。たとえ寿命があと十年としても、今日明日どうなるというわけではない。自分に残された時間をどう過ごすべきか、大きな宿題が理佐の肩にのしかかった。
「そうか、大変やったんやな。それでこれがそのペンダントか。でもこれだけじゃなあ。」 
 十一月の京都にしては珍しく小春日和の暖かい日であった。理佐と勇一はキャンパスの陽当たりのいいベンチに並んで腰を下ろした。一部始終を聞き終わった勇一は、ペンダントを理佐に返した。
 理佐はこのペンダントに自分の出生の秘密が込められているような気がしてならなかった。装飾品にしては、どこか歪で不格好、一見して値打ちもなさそうなガラクタのように見えた。勇一の言うように、これが唯一の手掛かりとしたら、二十年の歳月を埋めるには到底事足りない。何しろ、自分の名前が「RISA」であるらしいこと以外には、全く何の手掛かりらしいものもないのである。しかし、運命の糸はまだ切れてはいなかった。
「ちょっ、ちょっと待った。」
 勇一は大慌てで理佐の手からたった今返したばかりのペンダントを取り上げた。
「あれーっ。これひょっとしてDNAチップやないか。ほら、この前話したやろ。遺伝学の講義。あの時教授が見せてくれたDNAチップに感じがよう似てるわ。でもどっか変やなー。講義で見たんはもっと小さかったでー。」
 理佐は勇一の言葉に跳び上がらんばかりに驚いた。DNAチップ?、まさか。もしそれが事実としたら、これはとんでもない片身である。自分の産みの母親はなぜそんな不可解なものを残していったのか。ひょとすると、このチップが自分の病気と何か関係があるのかも知れない、そしてそれを警告するために産みの母親は敢えてこれを片身として残したのかもしれない。理佐は、消えかかっていた灯火が微かに膨らむように感じた。
「ねえー。その遺伝学の教授に一度このチップを見てもらいましょうよ。何かわかるかもしれないわ。」
「そやなー。たまたま今日の午後、遺伝学の講義や。理佐も出たらええー。」
 二人は、はやる心を抑えながら、医学部のキャンパスへと向った。

 医学部、大講堂。
「ハイ、今日の講義はこれでおしまい。」
 教授の合図で、大教室は急に学生の声でざわつき始めた。三百人は入ろうかという大教室に学生が溢れ、今日は立ち聴講生もいた。京大の医学部だけでこんなに学生がいるはずはなく、他学部や他大学からのもぐりの学生がいるのは明らかだった。数年前までは考えられない光景であったが、今や医学を志す者は言うに及ばず、全く縁のない者にとっても遺伝やDNAに関する知識は必須となり始めていた。
 講義が終わっても質問攻めは続く。教授は嫌な顔一つせず丁寧に応接していた。しばらくして学生の列が途切れた頃を見計らって、理佐と勇一は教授の前に立った。
「あのー、ちょっと見て欲しいものがあるんですが。」
 理佐はペンダントを差し出した。教授は一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、すぐさま一心にガラス片を観察し始めた。頻りとチップを観察し終えた教授は驚いたように呟いた。
「随分と珍しいものを持ってるね。これ確かにDNAチップだよ。でも今じゃこんな年代物は使わないね。これは私がまだ助手をしていた頃に使っていたものだよ。」
 自分の勘が当ったこともあってか、勇一は嬉しそうに顔を崩すと胸を張って見せた。
「そうです。これは少なくとも二十年は前のものです。理佐が生まれたときからずっと持っていたんですから。」
 それを聞いた教授のこめかみがピクリと動いた。
「二十年?、それはまたまた驚きだ。二十年前じゃ本学でもこんなものは無かったはずだ。当時、これを使っていたとすれば、ケンブリッジ大学の遺伝子工学研究所かハーバード大学のDNAセンターくらいだろう。当時、DNAチップはまだ臨床実験段階でね。こんなに幅広く使われ始めたのはほんのここ数年のことだよ。私も喉から手が出るほど欲しかったがね、値段もさることながら、日本じゃ手に入れることすら難しかった。でも本当に不思議なものを持っているね。」
 教授は頻りと首を傾げながらチップを理佐に返した。ペンダントが勇一の推察通りDNAチップであったことが判明した。しかし、謎はまたしても大きくなった。二十年前には日本に存在していなかったはずのものが、なぜ芦屋の家の仏壇の中に。このチップを残した理佐の実の母親は一体どういう人物だったのか。二人は、チップに秘められた秘密の大きさに底知れぬものを感じつつ、大教室をあとにした。

「ロンドン行きJAL四○二便にご塔乗のお客様はゲートナンバー五一番へお進み下さい。」
 関西空港の出発ロビーにアナウンスの声が響く。理佐と勇一は塔乗券を握り締める手が固くなるのを覚えながらゲートへと急いだ。DNAチップの謎を解明するにはとにかくケンブリッジかハーバードに行くしかない。二人は迷わずケンブリッジを選んだ。ケンブリッジの遺伝子工学研究所は世界初のクローン羊メリーを生んだことであまりに有名である。遺伝子工学の先駆的役割を果たしたこの研究所は今日でもこの分野では世界の最先端を歩んでいた。
 初めての海外旅行、そして行く先はイギリスのケンブリッジ。楽しい卒業旅行になるはずのところが、今の理佐にとってはまさに死活を制する重大な旅になってしまった。原因不明の更年期障害を抱えた理佐にとって、十二時間のフライトはとてつもなく長いものであった。理佐は黙って毛布に包まり、頭を座席シートにもたれかけさせた。理佐を気遣う勇一は、さすがに言葉数も少なく、そっと理佐の肩を抱いて浅い眠りを繰り返していた。
 ロンドンで一泊した二人は、翌日ケンブリッジに向った。冬のイギリスは暗い。朝八時過ぎに夜が明け、午後三時ともなるともう薄暗くなる。丁度その日も、今の理佐の心底をそのまま映し出したかのように、朝からどんよりとした雲が垂れ込め、時折風花の舞う寒い日であった。
 ケンブリッジはロンドンから約一時間内陸に入ったところに位置している。海に近いロンドンに比べるとさらに寒さが増す。二人はコートの襟を立てながらケンブリッジの駅に降り立った。優に百年以上は経っていると思われるレンガ作りの建物、薄らと雪化粧した石畳の通りが、いかにも古い学究の街という雰囲気を醸し出している。二人は地図を頼りに遺伝子工学研究所へと急ぐ。レンガ作りの建物が途切れる当たりに水路があった。夏はパント(ボート)遊びで賑わうこの水路も、今は寒々とし、係留されたパントにも薄っすら雪が降り積もっていた。
 その水路にかかった石造りの橋を渡ってさらに先へと進むと、ようやく目的の建物らしきものが見えてきた。
「あっ、ここや。理佐、ここやで。」
 ロンドンを出て初めて勇一が口を開いた。勇一が指差す先には、近づかないと見えないような小さい字で「Institute of Genom Engineering(遺伝子工学研究所)」と書かれた表示板があった。これが世界的に有名な遺伝子工学の研究所かと思わせる程みすぼらしい外観に、二人は思わず顔を見合わせた。大体ここイギリスではどこへ行っても看板という類のものは滅多に見ない。余程注意して行かないと見過ごしてしまう。
 入り口の古ぼけた回転ドアを入ると、しかし、中は外の寒さとは打って変わって暖かであった。正面にしつらえられた年代物のレセプションデスクは黒光りがするほどに磨かれ、今では珍しくなったチェーン付き眼鏡をかけた初老の女性が座っていた。
「イズ ジス チップ ユアーズ」
 勇一は、例のチップを見せながらいきなり片言の英語で尋ねた。
「エニィ アポイントメント?」
 眼鏡越しに上目遣いにジロリと勇一を一瞥した受付の女性からは、その顔に似つかわしい無愛想な返事が返ってきた。
「ウィ アー フロム ジャパン。ウィ アー サーチング、えーっと。」
 勇一は何とか知っている単語を並べて話そうとするが…。
「イクスキューズ ミー。ドゥー ユー ハブ エニィ アポイントメント?」
 今度は、さらにムッとしたような答えが返ってきた。
「アポ?、アポイント…って、何や?」
 勇一はそこから先に進めなくなり途方に暮れてしまった。
「ウィ ドント ハブ アポイントメント。ウィ ジャスト ルッキング フォー…」
 今度は理佐が受け答えしようとするが、すぐに言葉に窮してしまった。やはり二人だけでいきなりケンブリッジに来るのは無謀な試みだったのかもしれない。そもそも英語すらままならない上に、話の中身が何とも複雑すぎる。二人が身振り手振りで何とか意思疎通を試みようとするものの、受付女性のテンションは高まるばかりであった。

「ワッツ ザ マター?、サムスィング ロング?」
 受付での騒ぎを聞きつけて、一人の初老の紳士が奥の扉を開けて出てきた。その紳士は、一言、二言、受付の女性と言葉を交わしていたが、突然二人の方に向き直った。
「どうかしましたか。お手伝いしましょうか。」
 天の助け?、全く予想だにしていなかった日本語に一瞬二人は言葉を失った。しかし、すぐさま二人は、堰を切ったように自分たちがこの研究所に着た目的を話し始めた。
「まあまあ落着いて。私、スチュアートと言います。昔日本に留学してたことありました。日本語はその時に少々…。今は、ここの研究所の教授と副所長してます。」
 理佐が差し出したチップを注意深く観察していた教授は、驚いたという仕草で眼鏡の縁に手を当て、さらに食い入るようにチップを覗き込んだ。
「これ、間違いなくこの研究所のものです。ほら、ここ見なさい。」
 そう言いながら、教授はチップの背の部分を指し示した。そこには極最小の字で「R14690」と刻印されていた。虫眼鏡か何かで見ないと分からないほどの小さな文字である。二人は代わる代わるチップを手にとって光にかざしながらその字を確認した。
「昔、といっても二十年程前のことです。まだDNAチップがとても貴重品だった頃、この研究所ではそれが不正に使われないよういつも番号とってました。90というのは1990年、そしてRが使ったセクション、146がこのチップの番号です。でも不思議ですね。これが何故日本に、そしてまたどうしてあなたの手に…」
 尋ねられて、今度は理佐と勇一が顔を見合わせた。チップの出所は今明らかになった。しかし、教授の言うように何故そのような物が、遠く日本に、そしてまた理佐の手に。あまりにもかけ離れた話に、二人は返す言葉を失った。重苦しい沈黙が続いた後、
教授は、付いて来いとばかりに黙って目配せした。
 教授は、すぐさま受付の隣のドアにカードを挿入すると、キーパッドにいくつか暗証数字を打ち込んだ。ピッという電解錠の外れる音がしたかと思うと、ドアは両側にスッと開いた。建物自体は大変古く見えるが、中は最新式のセキュリティーシステムで管理されているようであった。二人は恐る恐る教授の後に付いて、研究所の奥へと進んだ。研究所の中は比較的新しかった。長い廊下の両端にはいくつもドアが並んでいる。それぞれが独立した研究室のようであった。この各部屋で世界中の優秀な科学者が日夜研究に励んでいるのかと思うと、二人は思わず胸の高鳴りを覚えた。やがて廊下の端に来ると、教授は再びセキュリティーカードを使って、ドアを開けた。
 そのドアを抜けると、三人は広いホールのような場所に出た。ホールの中央には、一段い台の上に一体の羊の剥製と、そしてそれを取り巻くようにいくつかのパネルが展示されていた。教授は、ここでしばら待つようにと二人に指示すると、さらに奥の部屋へと消えて行った。
 五分ほどが経過した。待つ身は長いとはまさにこういうことを言うのであろう。理佐は教授が消えて行った扉をじっと見つめて、ため息を吐いた。
「理佐、これ、メリーや、メリーやで。すごい、すごいなあ。」
 その時、イライラを紛らわせるかのようにパネルを覗き込んでいた勇一が声を上げた。
「メリーって?」
「何や、知らんのか。世界初のクローン羊メリーや。この前遺伝学の講義で先生が話しとった。」
「ク、クローン?」
「そや、クローンや。クローン言うたら…」
 と説明しかけて、しかし、勇一はすぐさま言葉に詰まってしまった。遺伝学の講義で聞いた時は解ったつもりでいたものの、いざ人に説明するとなると存外難しい。勇一が次の言葉を探しあぐねていた丁度その時、奥の扉が開いた。
「今、あのチップを使った人を調べるよう言いました。すぐ分かると思います。」
 教授がニコニコしながら戻ってきた。たった一片のあの小さなチップ、しかも二十年も前のものを誰が使ったかすぐに分かるというのである。二人はその厳重な管理に、只ならぬものを感じた。
「当時、DNAチップはとても大切なものでした。それで使うときはいつも誰が、いつ、何のために使ったのかレコードしてました。今はもうそんなことはしませんけど。」
 教授は付け足すように説明した。理佐は、ほっと嘆息を洩らした。はるばるケンブリッジまで来てよかった、少なくとも誰が使ったのかはここで分かるはずである。そして、ひょっとすればそれが自分の出生の秘密にどうかかわっていたのかも。
 そんな二人に、教授は軽く手招きした。
「ほら、これ見なさい。あなたたちも世界初のクローン羊メリーのことは知っているでしょう。当時は大変な騒ぎでした。子供は卵子と精子が受精して初めて産まれるという世の中の常識を覆したのですから。世界中から毎日のようにマスコミの人達がこの研究所に来たそうです。」
 教授はゆっくりと中空を見据えながら、自慢気に話し始めた。
「このクローン羊メリーは、母親の乳腺の細胞を培養して作られた完全なコピーなのです。ですからそのDNAは当然、親と全く同じ。いや正しくは親でも子でもないのかもしれません。自分自身のコピーなのですから。」
 そう言いながら、教授はパネルに手を触れた。オレンジ色の光が点灯し、メリー生成の過程を説明するイラストが現れた。来訪者に説明するためのものであろう、図や写真を数多く取り入れて説明されているが、難しい英単語が並んでいて二人には全然何が書いてあるのか分からなかった。教授はそれを察してか、出来る限り平易な言葉を使って、ゆっくりと説明を続ける。
「普通、卵子と精子が受精すると細胞は分裂を始めます。一個が二個に、二個が四個に、そして八個にというように。やがて何万、何億という数に成長をすると、細胞はいろいろな器官に分化を始めます。ほらあなたの体、目や耳、手、心臓も、もとはと言えば同じ一個の受精卵から出発しているのです。」
 教授は、次のパネルへと進む。
「同じ細胞が違うものに分化する過程でDNAが関係します。DNAは体の設計図の役割を果たします。たとえば、皮膚になる運命を背負った細胞は、皮膚の設計図に当る部分だけスイッチをオンにし、他の設計図のスイッチをオフにして分化を始めます。こうすることによって皮膚が間違って心臓になったりすることはありません。同じように、体のどの部分の細胞も自らに与えられた役割にしたがって、スイッチをオンにしたりオフにしたりしてそれぞれの機能を果たすべく成長してゆくのです。ですから、一旦皮膚になった細胞は二度と心臓を作る細胞にはなれないと考えられていました。」
 二人は、なるほどとばかりに頷きながら教授に付き従う。
「ところが、私たちの研究所はある状況下で一定の電気刺激を与えると、このオフになっているスイッチが全てオンの状態に戻ることを発見しました。つまり私たちの体のどの部分の細胞を使っても私たちの体全体が再生出来ることが分かったのです。その変化は特に乳腺細胞という特殊な細胞で顕著に現れました。私たちは、羊の乳腺細胞を取り出し、別に採取した卵子の核とを入れ替え、電気刺激を与えました。すると驚いたことに、この乳腺細胞はそのまま分裂を始めたのです。まるで全く新しい一個の受精卵のようにね。私たちはその卵子を羊の子宮に戻しました。そしてメリーが誕生したのです。」
 二人は、クローン羊誕生の秘話を目の当たりにして目を丸くした。自分と全く同じDNAを持つ子孫がいること自体が大変不思議なことであった。それは果たして、自分の子供なのか、自分自身なのか、はたまた自分の分身なのか。二人があれこれ思いを巡らせていると、教授は意外な話を続けた。
「でも、クローン技術は私たちの予想を超える反響をもたらしました。もしこの技術がヒトに使われたら何が起こるか。ヒトラーの複製が一杯出来るという人もいました。宗教界からも神の領域に手を付けるものという批判が起きました。この研究所でも倫理委員会が設立され、クローン技術の利用は厳しく監視されることになったのです。」
 先ほどまでにこやかなだった教授の表情が急に険しくなったのを感じ取って、理佐と勇一は体を強張らせた。二人は科学の進歩がもたらす新たな問題に、複雑な面持ちで教授を見つめた。
 丁度その時、一瞬の重苦しい緊張を破るかのように奥の扉が開き、一人の女性が古ぼけた黒カバーのノートブックを手にして現れた。ポストイットでマークされたページを開くと、確かに「R14690」という数字があった。そのラインを右に辿っていくと、「Date(日付)、1990.2.20」、「User(使用者)、Brown/Shiina Lab(ブラウン/シイナ研究室)」、「Purpose(目的)、DNA Activation Test(DNA活性化テスト)」、というインク書きの記録があった。理佐の目は、一瞬その「User」というところに注がれた。
「このシ・イ・ナというのは、日本人の名前のようだけど……」
 教授は帳簿を手にすると、眼鏡を外してノートの記述を確認した。
「このブラウン/シイナ/ラボと書いてあるのは、ブラウンとシイナという名前の研究員が所属していた研究室のことですね。今もそうですが、この研究所では各研究室に所属する研究者の名前をレジスターしています。多分、パーソネルで調べればどういう人だったかわかると思います。」
 そう言うと、教授は二人を研究所のさらに奥へと案内した。人事課は先ほどのホールを挟んで研究棟とは反対側の棟にあった。
「大丈夫です。パーソネルは当研究所に勤務した研究員のファイルを全てストックしています。どんなに古いものでもです。」
 教授は先ほどの険しい表情を崩して微笑んだ。理佐と勇一の胸の鼓動は一気に高鳴った。ついにこのDNAチップの持ち主だった人物、そして恐らく理佐の産みの親であろうはずの人物が明らかになる。一体、どういう人だったのか、そして今どこで何をしているのか。わずかの時間が無限の時間のように感じられた。
 程なく一冊の古ぼけたファイルを手にした女性が戻ってきた。分厚いファイルに閉じ込まれた人事カードはところどころ色褪せ、インクの匂いがかすかに漂っている。示されたページには、以下の情報が記されていた。
「Name(氏名):Hatsue Shiina(椎名初江)、Nationality(国籍):Japan(日本)、Birth Date(生年月日):1954/5/27、Career(前歴):Tokyo University, Faculty of Medicine(東京大学医学部)、Qualification(資格):Vice Senior Researcher(副主任研究員)、Period(在籍期間):1989.4.5〜1990.11.30」
 ファイルを見つめながら、理佐は胸を打つ鼓動の音が耳の奥まで届くのを感じていた。DNAチップの所有者であったとみられる女性の名は「椎名初江」といい、かつて東京大学医学部から副主任研究員としてこの研究所に派遣されていたという事実が今明らかになった。一方の、ブラウンという人物はこの研究所のプロパー研究員で一九八○年から約十年間この研究所に在籍していた。
 理佐が気になったのは、このブラウンという人もほぼ同時期にこの研究所を去っていたという点である。恐らく、二十年前この二人に何か重大なことが起こり、それがゆえに研究所を去ることを余儀なくされたのではないかと理佐は推測した。
「残念ながら、二人が今どこにいるのか分からないと言っています。」
 教授は申し訳なさそうに二人に言った。理佐は再び大きな壁にぶち当たったと思った。チップの所有者らしき人の名は分かったものの、今その人がどこにいるのか、はたまたまだ生きているのかすらも分からない。理佐は、二十年という歳月の重みをずっしりと感じ取った。
 二人は沈痛な面持ちで、教授にお礼を言うと研究所を後にした。外は相変わらず陰鬱な雲が垂れ込め、冷たい風に乗って再び風花が舞い始めていた。

 日本に戻った理佐と勇一はすぐさま「椎名初江」という人物を尋ねて東京大学へと出向いた。
「ですから、何度も言うようですが、そういう方は本学にはもう在籍されていません。二十年前に退職された扱いとなっています。」
 官房人事課と書かれた窓口の向こう側からいかにも官僚らしい杓子定規な言葉が返ってくる。向こうもやや高揚してか、人気のない廊下にまでその甲高い声が響いている。
「それでしたら、せめて今の住所だけでも知りたいのですが。」
「それも、分かりません。その後の記録は何もありません。」
 という声と同時に、今度はパシッと小窓を閉める音が廊下に響いた。二人はついに断念して入り口の方へと踵を返した。確かに椎名初江という人物が二十年前まで在籍したという事実だけは確認できた。しかし、これだけでは何の手掛かりにもならない。やはりこのチップの持ち主を探し出そうということ自体が無理な話なのかもしれない。
 二人は絶望の淵に沈みながら出口の扉に手を掛けた。とその時。
「椎名君、椎名君じゃないか。」
 最初二人は自分たちが呼ばれているとは気付かなかった。その声は、廊下の向こうの方から聞こえてきた。
「やっぱり椎名君だ。本当に久しぶりじゃないか、一体どこで何をしていたんだ。」
 声の主は近づいて来るなり、さらに同じことを繰り返した。見ればその人物はもう六十歳に手が届こうかという初老の人で、薄汚れた白衣の胸ポケットには佐伯という胸章がピン止めされていた。
「私は小野寺理佐といいますが。ひょっとして椎名初江という人をご存知なのですか。」
 理佐の声を聴いてようやく、その佐伯という人物は落胆した様子で答えた。
「そうだな、そう、そう。もし椎名君だとしても、もう五十過ぎのはずだ。こんな若い娘さんじゃないな。それにしても、まあよく似とるなあ。」
 理佐は、すがるように尋ねた。
「実は、今私たちその人を探しているんです。その人のこと、ご存知でしたら何でもいいんです。教えて下さい。」
「知ってるなんてもんじゃない。椎名君は僕の一番弟子だった。それが二十年前突然失踪しちゃって。あの時は本当にショックだったよ。」
 運命の糸はまだ繋がっていた。この白衣の人物が何かを知っているに違いない。理佐の胸の中で消えかかった灯火が再び灯り始めた。
 やがて佐伯という人は自分に付いて来いとばかり目配せした。二人はしばらく顔を見合わせていたが、やがて小走りに後を追いかけた。三人は入り口を出ると、すぐ隣の古びた赤レンガの建物へと向った。師走のキャンパスを吹き抜ける風はもうすっかり冬の訪れを告げるものであった。三人は身をすくめるように入り口を通り抜けた。
 「医学部研究棟」という看板が掲げられたその建物の中は、板張りの廊下が長く伸びていた。延々と廊下を下っていくとやがて大理石の階段に出た。三人は階段を二階へと上る。上階はやはり同じように長い廊下となっていたが、閑散としていた一階とは全く違ってあちこちに雑然と物が置かれている。分厚い医学書と思われる書籍、薬品の瓶と思われるガラス瓶、古い医療器具のような機械、等々が通路をふさいでいた。
 黒地に白抜きの字で「○○教授」と書かれたプレートの掲げられた部屋が続く。やがて三人は「佐伯教授」と書かれた部屋の前に辿り着いた。ここで理佐と勇一は初めて、この白衣の人が医学部の教授であったと知った。道理で横柄な物言いである。二人は妙に納得した。
 佐伯教授は、二人を自らの研究室に導き入れた。研究室の中は外の廊下よりもさらに混乱していた。天井まで届くか思われるほどうず高く積み上げられた専門書、そしてガラス戸棚の中には、内臓のような薄気味悪い肉片の入ったホルマリン漬けの瓶がいくつも並んでいた。
「いやー。すまんすまん座る場所もないなー。」
 教授は高らかに笑いながら、近くにあった椅子の上の埃をパンパンと平手で払うと、座れとばかり二人に椅子を差し出した。二人が座るのも見届けず教授は先ほどの話の続きに入った。
「いやー、似てますかなんてものじゃない。瓜二つだ。その涼やかな切れ長の目、締った口元なんかそっくりだ。それで、小野寺さんとか言ったかなー、君は椎名君とはどういう関係…」
 理佐は唐突に尋ねられて答えに窮した。どういう関係というのは、自分の方から聞きたいくらいである。理佐は一瞬ためらったが、これまでのいきさつ、DNAチップのこと、最近の体の不調、そしてケンブリッジで見聞きしてきたこと等を順序立てて話した。理佐が話している間も、時々頷きながら聞いていた教授は一頻り聞きおわると、すっかり真顔になり話し始めた。
「そうか。そうだったのか。さっきも話したが、この椎名初江君というのは僕の一番弟子でね。当時私がまだ助教授だった頃、彼女は助手として一緒に働いてたんだよ。本当に優秀でね。彼女の能力は本学でも一目置かれていた。そんなこともあって、あれは二十年以上も前のことだ、ケンブリッジ大学との交換研究員に彼女が選ばれたのさ。僕は鼻が高かったよ。本当に自分のことのように喜んだ。何しろ教え子が、世界的な遺伝学の権威であるあの研究所に行くことになったんだからね。彼女も喜んでいたよ。世界の一流の研究者と肩を並べて勉強できるってね。」
 教授はそこまで話すと、ゆっくり立ち上がってポットからコーヒーを注ぐと、理佐と勇一の前にカップを無造作に置いた。そして自分はというと、縁の欠けた巨大なマグカップに並々とコーヒーを注いだ。
「最初は一年という約束だったが、先方に請われてもう一年滞在が伸びた。そしてその任期も終わろうとするその年の暮れ頃だったよ。研究所から突然彼女が失踪したという連絡が入ってね。驚いたよ。私も何度となく研究所に問い合わせたが、歯切れが悪くてね。何でも彼女の研究を巡って、研究所内でトラブルがあったらしいんだ。向こうにも事情があったんだろう、最後は一方的に除籍通知を送ってきたよ。彼女は本学にも戻らず、それから随分と探したんだが、結局分からず仕舞いでね。あの時は本当にショックだったよ。」 
 教授はそこまで言うと深いため息をついた。理佐と勇一もガックリと肩を落とした。またしても手掛かりがプツリと途切れた。期待が大きければ大きいほど、その後の落胆も大きい。三人は顔を突き合わせたまま押し黙った。
 理佐の勘は当っていた。やはりケンブリッジで何かあったんだ。それで椎名初江は行方をくらました。いや正確には、もうこの世にはいないのかも知れない。何しろ二十年前にも自殺を試みた人物である。生きていると考える方が不自然なのかもしれない。
 相変わらず、重苦しい沈黙が続く。教授は胸の前で腕組みをしたまま、しきりと何かを考える仕草をしている。理佐はというと、両手を組んでその上に額を当てて蹲っていた。一人勇一だけが、件のチップを手の中でいじくり回していた。
「ホンマ、けったいな話やなあ。その椎名さんとかいう人、何でこないなもん残して行きよったんかなあ。」
 その時である。教授がはっしと膝を叩いた。
「そうだ、それだ。そうだよ、チップだよ。」
 教授は勝ち誇ったように高らかに声を発した。二人が訳が分からず、顔を見合わせている間にも、教授は勇み込んで勇一の手からチップを取り上げた。
「DNAチップだよ、君たち。椎名君がわざわざチップを君に残したということは、何かを伝えたかったんじゃないかな。普通はあんなもの片身として残さないよね。敢えてあれを残したのはきっと何かあるんだ。」
 教授はすぐさま、取り上げたDNAチップをデスクの脇にあった顕微鏡のような機械に装着した。そして双眼鏡を覗きながら、器用に右へ左へとレバーを操作し始めた。
「えーと。呼吸器系に少しアノマリーが見られる。消化器系、循環器系は大丈夫そうだな。この組み合わせは、気管支喘息、肺ガンが危ない。」
 教授は独り言を呟くように診断を続ける。理佐は勇一が話していた遺伝学の講義を思い出しながら聴いていた。本当にこの小さなガラス片でいろいろなことがわかるものなのだ。一体初江はこのチップで何を理佐に伝えようとしたのか。
 一頻りレバーを操作していた教授の手がハタと止まった。
「うーん、これはかなり重症かもしれん。アルツハイマーの兆候がはっきり出ている。」
 そう言うと、教授は二人にも覗いてみろというように手招きをした。理佐が恐る恐る双眼鏡を覗くと、規則正しく碁盤の目のように緑色のドットが並んでいるのが見えた。ところどころ黄色や橙色に色が変わっている。この色の違いが病的に欠陥のある遺伝子の部位を指し示しているのだということは直感的に推測できた。その中でひときわ赤く輝く点が見えた。
「ほら、その赤いドット。ここはβ―5領域といって神経系の遺伝情報を診断するエリアだが、赤い色は明らかにアルツハイマーの素因を示している。つまりこのDNAの持ち主はかなりの確度でアルツハイマー病にかかる可能性があるということだ。」
 理佐はハッとした。アルツハイマーは脳細胞が次第に死滅し、脳が萎縮して起こる恐ろしい病気である。この病気にかかると、最初は軽い痴呆から始り、やかて全身の運動機能も侵されて、ついには死に至る。早期発見により進行を遅らせることは出来るが、未だ完全な治療法が確立されていない難病である。
「仮に、仮にだ、このDNAの持ち主が椎名君自身だとしたら、その子供にも当然にアルツハイマーの素因が受け継がれる。彼女はそのことを知っていて、敢えてこれを君に残したんじゃないかな。警告の意味も込めてね。」
 理佐は、なるほどと思った。昔は髪の毛を片身として残す時代もあった。科学が進歩した今の世の中であれば、DNAを片身として残してもおかしくはない。それは、ある意味、親から子への重要なメッセージであるのかもしれない。教授の声に促されるように、今度は勇一が双眼鏡を覗く。
 しかし、教授は一体こうした病気診断をすることで何をしようとしているのであろうか。席に戻った理佐は教授の説明に頷いて見せたが、まだこの情報が初江探しにどう役に立つのか測りかねていた。DNAチップを調べることで罹りやすい病気があることが判明した。ただ、それ以上の何もない。このチップをいくら覗いていても、初江に近付く手掛かりにはならない。理佐の心の中はまたしても沈鬱な気持ちに覆われ始めた。ところが、一方の教授はというと、無精ひげが少し伸び始めた顎をさすりながら、ニヤリと微笑んでいた。
「さてと、もし君が椎名君だったら、どうするかね。座してアルツハイマーが発病するのを待つかね。それとも…。筑波大学付属の国立遺伝病研究所は世界的なアルツハイマー病の権威でね。」
 理佐はようやく教授が何を考えているのかが分かりかけた。
「もし椎名君が未だ存命なら、間違いなくあそこの門をたたくと思う。研究のためではなく、自らの治療のためにね。」
 理佐は、慌てて時計の針を見た。今から筑波に行けば、今日中には初江の居場所が分かるかもしれない。たとえ無駄足でもいい。可能性があるのなら、一刻も早く結論を知りたい。たとえそれがどのように過酷な運命であっても。
「おっと、どうするつもりかね。直に行っても門前払いだよ。患者個人の情報はプライバシー保護のため、簡単には外部の者には教えないことくらい、君たちも知ってるだろう。」
 席を立ちかけた二人はヘナヘナと元の椅子に腰を下ろしてしまった。
「乗りかかった船だ。僕が紹介状を書こう。あそこの研究所の吉本君は僕の教え子でね。きっと力になってくれる。その代りだよ、もし椎名君の居場所が分かったら僕にも知らせてくれ。彼女には今一度会って話がしたい。昔のこともね。」
 そう言うと、教授はうず高く本の積まれたデスクに顔を埋めた。しばらく筆を走らせていた教授は五分も経たない内に紹介状を書き終えると、四つ折にして白封筒に突っ込んだ。
「明日、僕からも吉本君に電話を入れておくから…。」
 二人は丁重に教授にお礼を言うと、研究室を後にした。


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