それ以来、私は男というものを信じなくなった。
引き裂かれた制服を見て、親が問い詰める。
≪何をされたのか、誰がやったのか。≫
そんなこと言いたいわけがない。思い出したいわけがない。それなのに、ものすごい口調で問い詰められた。
≪警察沙汰だ!学校は何をしているんだ!≫
そんな父の声が向こうの部屋から聞こえる。母と姉は私を包み込むように抱いてくれた。
≪大丈夫だからね、友子。≫
何度も何度もそう言って、慰めてくれた。
私はその事件から数週間学校を休み、病院で精神治療を受けた。学校側と両親のやり取りがどうなっているのかは、知らない。
ただ、大丈夫だから、心配しなくていいから、それだけ何度も繰り返し言われた。
だが、ある日をきっかけにそれは変わった。 それは私が事件以降、初めて登校した日のことだった。
久しぶりに来た学校。いつものように上靴に履き替え、教室へ向かう。新しい年度に変わり、三年生になっていた私。初めて会う担任、知らないクラスメイトも何人かいる。
私は何事も無かったかのように、席に着いた。周囲の反応は様々だった。全く気にしてない人、以前のように優しく接してくれる友人たち、遠くから私を見ている集団。
「何で休んでたの?」
色んな人から聞かれるこの質問。
「ちょっと体調が悪くて。」
そう言って、何とか気丈に振る舞った。
≪別に私は何も悪いことなんかしていない。≫
その気持ちだけしっかり持っていた。
当たり前のようにホームルームが始まり、当たり前のように授業が行われる。そして当たり前のように下校のチャイムが鳴る。
何も変わっていない、いつものリズム。
私は、新しいクラスで馴染んでいけば大丈夫だ、そう考えていた。そして靴を履き替え、家に帰ろうとしていると、担任の先生が私を呼び止めた。
言われるがままに職員室へ連れて行かれる。
ドアを開けると、そこには普段の職員室の雰囲気とは別の、異常に緊迫したものだった。
「君が、井上友子さん・・・。」
うつむいたまま首を縦に振った。 私は入口付近に硬直したまま、じっと立っていた。
何となくわかった・・・。
先生たちの議論は例の事件について。
《どうして私の前で・・・。》 《思い出したくない・・・。》
私はじっと泣くのを我慢していた。 うつむいたまま、顔を強張らせて。
ずっと、ずっと。
スキャンダルになる前に、モミ消す方向にまとまりつつあったその議論。時折、私に非情な質問をしてくる。
「証拠はあるのかね?」
「彼がそういうことするわけがない。」
「君にも問題があったんじゃないのか?」
「いつまでも被害者でいられたらこっちが困るんだよ。」
「君も忘れた方がいい。」
そんな大人たちの心なき声。
私は何も言うことができず、ただうつむいて、泣くのを精一杯我慢して、立っていた。
聞きたくなかった。 そんな大人たちの心の声なんか。
見たくなかった。 誰一人として学校経営を優先しているとしか思えない態度を。
怖かった。 人を信じることが。
そんな思いを隠しながら、ずっと生きてきた。
この仕事を始めたきっかけも、気持の抜けた女を抱いてお金を落としていく馬鹿な男を見て、冷笑するため。男不信を貫く私の意志でもあった。割り切れば何も怖くない。 所詮、男は裸の女が横に寝ていれば満足する生き物。
そのはずだった。
「・・・。」
「どしたん?固くなっとるで。」
「・・・。」
どう接していいのかわからなかった。
「ん?」
「・・・。」
その時私はどんな表情をしていたのだろう。その人の瞳にはどんな風に映っていたのだろう。
涙が出た。
「嫌やったら、嫌って言うていいんよ。」
「・・・。」
「さっきまでいい顔しとったのに・・・。どしたん?」
「・・・。」
「俺、好きやったで。あの刻の顔。」
その人は私の頭を優しく撫で、会話が楽しかったあの刻と変わらない優しい瞳をしていた。
「・・・。」
「何か悲しいこと思い出したん?」
「・・・。」
「生きとったらいろいろあるわな。」
「・・・。」
全てを見透かしているような口調だった。
初めて会ったその人がくれた、その言葉。 あの日の私を、あの時の私をそっと理解してくれたような言葉。
私は溢れてくる涙を抑えきれず、手で顔を隠してしまった。
「そっか。」
「・・・。」
言葉にできなかった。声にならなかった。どうしていいかわからなかった。
するとその人は私の体を起こし、肩から毛布を掛けてくれた。二度頭をポンポンと優しく撫で、ベッドを離れる。
「・・・。」
私は顔を押えて泣いている。
「ほれ。」
「・・・。」
その人は私の下着と服を差し出した。
「風邪ひくで。」
二度頭を縦に振った。
声にならない言葉を発した。何て言ったのかわかったのだろうか。
「いいよ。」
「・・・だっ・・・て。」
「だってほら。十分前のお知らせクンがうるさいやん。それに、俺結構人のことわかるけんさ。」
「・・・。」
私は差し出された下着と服を着た後、何度も謝った。するとその人はこう言った。
「ごめんじゃなくてありがとう、だな。」
「・・・。」
また涙が出た。二度大きく頭を縦に振った。
その人は浴衣を羽織り、部屋を出、エレベーターの前まで私を送ってくれた。
「・・・。」
「・・・。」
沈黙の中、エレベーターが二階、三階と上がってくる。そして四階で扉を開けた。
「気ぃつけて帰りよ。」
「うん。」
エレベーターの箱の中に立っている私に、その人は半身乗り出して私の髪をくしゃくしゃっとする。
「・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
「うん・・・。」
何か言ったわけでもないが、その人の瞳が何か私に語りかけてきたので返事をした。 その人は安心したように口をにこっとし、乗り出していた身を引いた。
私は初めて客に手を振ってバイバイをした。しかも笑顔で。その人もそれに応えてくれた。エレベーターのドアがその人の像を徐々に削っていく。
「じゃあね。」
まだ手を振り続けた。
「・・・。」
そして完全に視界からその人が消え、私を地上へ運んでいく。
「・・・。」
エレベーターが開き、フロントをカツカツと抜け、店の車に向かう。アシの男が私の顔を見、忘れ物がないか尋ねてきた。
「・・・。」
ケータイ、財布、店の備品・・・。ちゃんとある。
「・・・あっ!!」
忘れていた。私は車を飛び出しあの部屋に向かった。
「407号室・・・。」
≪ドンドンドン!!≫
「開けて!ねぇっ・・・開けて!」
フロア中に聞こえるほどの声だったと思う。
≪ガチャっ・・・。≫
「お?どしたん?」
「ハァハァ・・・。」
「何かわす・・・!」
私はその人に抱きつき、胸のあたりに顔をうずめる。
鼓動が聴こえる。
一回・・・ 二回・・・ 三回・・・
そしてあと少しの距離を埋めるため、背伸びをする。
もう少し・・・。 もう少し・・・。
届いた。唇のところまで。
一秒・・・ 二秒・・・
それぐらいだったと思う。 そしてゆっくり顔を引き、瞳のきれいなその人にありがとうと言った。びっくりするかと思ったが、これまで通りの顔をしていた。
「・・・。」
「ありがとう。」
「・・・。」
「・・・。」
「今度呼んだら二倍サービス頼むわ!」
冗談混じりのその人の言葉に私はこう言った。
「今度は違う形で会いたいです。」
私の返事にその人はにっこりほほ笑んだ。
名前も知らないその人とはもう会うことはないだろう。私はその後すぐに店に足を運び、この仕事を辞めることを店長に告げた。
でも、もし会えるのなら、本当に会いたい。
それから三年後‐ 私は一つの曲を作った。
『優しい気持ち』という曲名で。
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