私は407号室の部屋の前でひとつ深呼吸をし、二回トントンとノックをした。
《ドタン・・・ガタっ!!》
ドアの向こう側から何やら慌ただしい物音が聞こえる。
《何だろう。》
私は周囲を気にしながら、その部屋が開くのを待った。
《まだかな・・・。》
このドアが開くまでの時間は、なかなか慣れない。この時も緊張しているのが自分でもわかった。客はドアのサイトから私の顔や姿を確認できるだろう。でも、こちら側からはそれはできない。客によってはドアを開くことなく、『チェンジ』を要求することもある。
《まだ・・・?》
しばらくしても開かないそのドア。 今、私は見られているのだろうか?
《チェンジ・・・?》
そんな劣等的な気持ちで待っていると、鍵を開ける音が。その直後、勢いよくドアが開いた。
「・・・。」
私は一瞬びっくりした。 何というか、想像押していたよりもだいぶ若く、大きな瞳がきれいだった。そして、その瞳からは不思議な印象を受けた。 その人は浴衣を羽織っており、またそれがいいカンジに着こなせていた。
「あのっ・・・こんばんは。」
何かよくわからないけど、うまく言葉が出てこなかった。407号室の前で固まっている私を見て、その人が手を引いてくれた。
「ほら、早く入って!」
「はいっ・・・。」
その人は私のすきなあの人に似ていた。 ぼーっとして一瞬仕事を忘れかけた。
部屋に入って周りを見渡すと、普通のビジネスホテルの一室で、奥にはベッド、その脇にはテレビと机があった。一つ異なる点があるとすれば、何故かバスケットボールが床に転がっていたことだ。
「指名してもらったトモです。」
「うん・・・。」
今度はその人が一瞬ぼーっとしていたように見えた。
一秒・・・ 二秒・・・ 三秒・・・
それぐらいだったと思う。沈黙がはしった。
「かわいいやん!」
「えっ・・・!」
「こんなかわいい娘がくるなんて、めっちゃラッキーやわ!」
その人はベッドの上に腰かけ、大きな瞳をさらに大きく開いて、私にそう言った。 これまでに接した客からも何度か言われたことはあった。
でも、何故だろう。
その人の言葉はこれまでに接した人の言葉よりも強い印象を与えた。そして私自身が客の言葉で本気で照れたことが初めてだった。
「関西の人ですか?」
「いや、俺福岡の人やで。」
「でもなんか関西弁っぽいカンジがする。」
「あ、それは俺が大学ん頃にあっちの方やったけんやろな。盛岡の人?」
「一応・・・そうです。でも、私小さい頃から父の都合で色々住んでた場所変わってて。あっ、でも生まれてから小学校までは盛岡ですよ。」
「へぇ、そっか。色んなところて福岡はあると?」
「福岡はないよ。最初が盛岡で、中学校の頃が山形と大阪。」
「ふーん。で、また盛岡に戻ってきたんや?」
「うん。高校からまたこっちで過ごしてる。」
「大変やったやろう?」
「うん。まぁ、でも慣れてたから。あ、あと一週間だけど香川にいた。丸亀市。」
「そっか。」
自然なほどスムーズに会話が流れた。
「うーんと、・・・。」
「貸してみ。」
話をしながら上着を脱いでどこに置こうか周囲を見渡していると、掛けていた上着をハンガーから外し、私のを掛けてくれた。
「あっ、でもそのコート・・・。」
「いいよ、俺のはここら辺においとけば。」
「・・・。」
そう言ってその人は自分のコートを四つにたたんで、床の上に口をあけているバックの上に置いた。
「あのっ、・・・ありがとう。」
「いいって!」
そう言ってその人はにっこりほほ笑んだ。 407号室の扉が開いた瞬間からそうだったが、後で思い返してみると私は無意識のうちにその人の言葉一つ一つや、仕草を鮮明に記憶していた。
私とその人の距離は1.5メートル。 私はシャワールームの前に棒立ちし、その人はベットの上に座っている。
「ここおいでよ。」
そう言ってその人は自分の横を右手で二回トントンとたたいた。私はその人が言うままに隣に座った。
心臓が高鳴っているのがわかった。
いくら仕事とはいえ、なかなか慣れるものではない。少なくとも私にはそうだった。最初はいい人そうに見えても、プレイが始まると性格が変わる人や禁止プレイを強要する人はくさるほど見てきた。
それに、男という生き物はそういうものだという世間の見方以上に私には憎しみがあった。
私はセミロングの亜麻色の髪を上から下に二、三回撫で下ろし、これからその人とこういうことやああいうことをしたり、されたりするんだろうなぁ、と若干これまでの会話や雰囲気を残念に思いながらシステムの説明に入った。
「では、システムの説明をします。」
「うん?」
その人の疑問符の付いた(付いていたと感じた)返答を無視し、説明に入った。
「料金は四十分が九千円、五十分が一万円、六十分が一万二千円、七十分が一万四千円になってます。で、その時間にはシャワーの時間も入っているので大体十分ぐらい引いた時間が実際のプレイ時間になります。」
「うーん、そっか。」
「どうされますか?」
しばらく私の顔を覗き込んだ後、その人は言った。
「うーん・・・じゃあ、五十分で。」
「五十分ですね。えーっと、指名料込で一万千五百円になります。」
その人も結局は男だから性欲というものはあるのは仕方がない。が、やはり五十分もの間、全くの他人に自分の体を弄られ、弄ばれるのは不愉快だ。その人もプレイになればどうせ豹変するだろう。初めて会った時の印象が良かっただけに、一層残念に感じるかもしれない。
でも、そんな一時的な心情はすぐ消え去っていくだろう。そう確信していた。
その人は机の上に置いてある黒い革の財布からお金を取り出した。一万円、二万円・・・。
「えっ!?オプション・・・ですか?」
「ん?いや、お釣りある?」
「・・・。」 なんだ。お釣りか。
てっきり口内発射とかオナニーとかのオプションかと一瞬ドキッとした。私にとってオプションは苦痛以外の何物でもなかった。
「お釣り持ち合わせてないんです。すいません。」
「え?無いの?そら困ったな。」
「・・・。」
「どうしよっか・・・。」
「このホテルって両替とかできないの?」
「できると思うよ。ちっとフロント行ってくるわ!」
「あ、私も行った方がいい?」
「ん?」
「行かない方がいいかな?」
「来てもいいけど・・・。でも両替するだけやで。よかよ、ここでいい子にしとき!」
「・・・。」
何で私が一緒に行くんだよ!と自分で自分にツッコミ入れたくなるほど何を言っているのかわからなかった。私がフロントへ行ったところでその人に迷惑がかかるだけじゃないか。その人がデリヘル嬢呼んだ、ってバレちゃうだけじゃないか。
それなのに何であんなこと言ったのだろう。自分でもその時からその人の不思議な空気というか雰囲気にのみ込まれているのを感じた。
「あっ、テレビ好きなとこに変えていいよ!ニュース見たって、政治家の言うことなんて信用できんし。」
「・・・うん。ありがとう。」
「じゃあ、行ってくるね!」
「・・・。」
部屋に流れる深夜のニュース番組。 ボーっとそれを眺める。テレビを見ることなんて、全くと言っていい程ない。政治家の発言なんて、私には何の影響もない。そこら辺にいる普通の年配のおじさん。 そんな人たちが起こす、『不倫』問題。全くもって、そこら辺のおじさんと変わらない。
嫌な気分になる前に、私はパチパチとチャンネルを変えた。
《ピロリロリン♪ピロリロリン♪・・・》
電話が鳴っている。 誰からだろう、私はカバンから取り出し、確認した。
「あっ!・・・。」
店長からだ。忘れてた。
《もしもし、俺だけど。》
「はい、トモです。」
《お前、今どこだ?もう客のところ着いたのか?》
「あっ、はい。今部屋にいます。」
《部屋に入ったら、電話一本入れるって決まりだろ!》
「・・・。すいませ、忘れてました。」
《忘れてましたじゃ、困るんだよ!》
「はい・・・。」
《風俗業なんだからな!何か問題起こってからじゃ、こっちが困るんだよ!》
「・・・。」
《それで何分だ?》
「五十分です。」
《あー、そうか。今日それでラストな。》
「・・・。」
《明日は十六時からね。》
「はい・・・。」
《客満足させてやるんだぞ。それで今日帰っていいから。じゃあ、お疲れ。切るぞー。》
「お疲れ様です・・・。」
電話を切り、バックの中に入れる。何でもないただの仕事の電話なのに、やけに疲れる。
「はぁ・・・。」
耳の奥にとどく、お笑い番組のにぎやかな声。 私もあんな風に笑えたらどんなに楽しいだろう。たった一つの心の傷のせいで、何も感じない、何もうれしくない、何も楽しくない。 あの日以来、ずっとこんな感じだ。
≪過去を消すことができるなら・・・≫
時々そんなことを本気で考えてしまう。でも、もしできるなら・・・。
床に転がったナイキのマークが擦り切れたバスケットボール。泥が少し付いている。
まるで私のようだ。
心がすり減って、体は穢れて。昔は違ったのに。何事にもひたむきに取り組めたのに。
≪あの頃からやり直せるのなら・・・≫
昔に戻りたい。ほんとはこんな仕事したくない。でも、誰も信用できない。誰も私を理解してくれない。被害者は私なのに。
「・・・。」
自分の部屋でもなんでもない、ただのビジネスホテルの一室。不思議と色んな心情が表に出てきた。
六分ぐらいだろうか、その人が帰ってきた。私が407号室にいるのが当たり前のように 、何の疑いもなく。
普通ならケータイやら財布やら何もかも残したまま、初対面のしかもデリヘル嬢を残して部屋をでるのは、いささか無神経だ。
部屋の鍵も置いていってるし・・・。
《ドンドン!ガチャガチャ・・・》
「あっ・・・!」
「早く開けて!」
ドアの向こうから声が聞こえる。 ほらね。鍵を部屋に置いていくからだ。
「・・・。」
「やっと部屋にはいれた・・・。」
「なんでか・・・!」
少しだけ背の高いその人を見上げるようにして、部屋の入口のところで尋ねようとしたが、その人は私の髪をくしゃくしゃっと撫で、にっこりほほ笑んだ。
「ほら、残りの千五百円。」
「・・・。」
今まで男を信じるということをしなかった私にとって、その人は異質の男性だった。ただその違和感はどこか心地よいものだった。
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