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作品名:sola 作者:ともみつ

第9回   四.この夢だけは、空へ
「ほら、胃薬」
「・・・・・・さんきゅ」
 手にした錠剤を水と共に胃へと流し込む。すぅっと水が食道を伝い胃へと入っていくほどよい冷たさが全身で感じられる。
「あんたは真性の救いようの無い馬鹿ね」
 昨夜散々人を馬鹿にした上に、今日もしょっぱなから馬鹿呼ばわりだ。言い返したいが今はその気力も湧かない。腹を擦るのが精々だ。
「いつまでもそうしてないで、着替えなさいよ。時間ないわよ」
 朝食は悠が用意した粥だった。何も言っていないのに、分かりきったように出されたが、その半分も口に入らなかった。
「子供ね、あんたは全く・・・・・・」
 出来の悪い子供を持った母親のような素振りでコップを片付ける悠。
「面目ない」
 詰めすぎは良くないな。心は満たされても、体には限界というものがある。それを超えた時に襲い掛かってくる自業自得の痛みに夜中から苦しめられていた。何度トイレに駆け込んだことか。別に空気が溜まっているわけでもないのに、長く息を吐くとちょっとだけ気持ち楽になる。考えれば誰にでも分かることだが、あの時の俺は一つのことしか頭に無く、こうなると予想出来たことですら脳裏を過ぎることがなかった。苦痛の波が一定の周期(サイクル)でやってくる感覚も何とか掴めて来たが、対処するにもトイレに駆け込むか、腹を擦るくらいしかなく、薬の効果が現れるのを待つばかりで仕事へと向かった。もたれる胃には、車の振動は最悪だった。何度ウヴッと来て、その度に悠に嫌な顔をされたか数えていない。
「じゃあな・・・・・・」
「少し休んでから仕事しなさいよ。じゃないと皆に迷惑かけるわよ」
車酔いなんてとうの昔に置いてきたものだと思っていたが、甦ってくるものだな。覚悟一つで一石三損くらいした気分だった。飛行場について事務所へと入っていってもあまり良くはなかった。むしろ航空機の音と振動がさらに悪化させる要因にばかりなっている。
 タイムカードを入れて自分のデスクに着く。藤沢上官や先輩は既に出ているようで何となく助かった気分だ。朝からあの人たちの声は腹に沁みる。
「何だ、お前? えらく元気ないな?」
 目の前で何かの書類をチェックしている智史が不思議そうにこちらを見てくる。昨夜の覚悟をこいつにも手伝ってもらいたいが、今はその話を持ち出すだけの余裕が無い。チクチクどころか、グニュと押し付けられるような痛みで声が掠れる。
「気にするな。直に良くなる」
 胃もたれだなんて言えば笑われる。こいつにだけはそれは嫌だ。何とか堪えているうちに慣れてきて、痛みのサイクルも弱くなってきた。
「そういや、今日は美友紀ちゃん休みだとよ」
 しばらく二人して仕事に向かっていたが、智史が思い出したように話題を振ってきた。思わず美友紀という言葉に体が一瞬ビクっとなりそうになった。昨日は俺の休みで顔を合わせることはなかったが、やはりあの日のことが頭を過ぎり、なるべく美友紀ちゃんと顔を合わせないようにと入り口付近に時折目を配っていた。
「べ、別に俺は何もしてねぇからな」
面白いことを見つけた悪魔のように智史が俺を見てくる。その目のムカつくことこの上ない。
「お前、何かしたのか?」
 ん? と、智史の問いただすような目。その何かを含んだ目が俺を見透かしているようで気に入らない。
「う、うるせぇな。悪(わり)ぃか」
「俺はただ美友紀ちゃん、今日はいつも通りに休みだと言っただけなんだけどなぁ?」
 チラッと智史の視線が出勤表へと行く。それを俺も辿ると、今日は美友紀ちゃんのいつもの休日だった。昨日の俺のように。
「・・・・・・鎌掛けやがったな、お前」
「何のことだ? 墓穴を掘ったのはお前だろ? 俺は報告をしてやっただけだぞ?」
 わざとらしく白を切る智史に、してやられた感を感じて止まない俺が視線を強く送るが、それももはや意味を成してはいなかった。
「そうかそうか。お前も答えを出せる年頃になったかぁ。俺は嬉しいぞ」
 何様のつもりだか、智史はウンウンと一人で頷いている。悔しさがあるが、正直な所今日美由紀ちゃんと顔を合わせないで済むのは救いかもしれない。昨日の今日のようなことだから、顔を合わせてもどう会話をすれば良いのか分からない。俺自身が別のことに気を取られて、整理仕切れていなかったのも悪い。
「それは置いておけ、永遠にな。話を変えるようで悪いが、お前に話がある」
「おいおい、俺はそっちの趣味はないぞ。どうしてもって言うんなら考えてやらないこともないが?」
 あくまで俺をからかいたいか。こいつにとっては今の俺はかっこうのいじり甲斐のある餌なのだろう。いつもなら乗ってやっても良かったが、今はそんな時間も惜しい。俺は智史の話を無視して進めた。
「協力して欲しいことがある。隼人の事で、だ」
 俺の申し出に智史の顔が変わった。冗談の通じない話題だからこそ、こいつも瞬時に空気を読んでくれる。
「何をすれば良いんだ?」
 智史は、何のことだ? などとは聞いてはこなかった。既にやる気満々と言った様子で用件を聞いてきた。
 昨日俺の中で決心したこと。それは隼人の夢をその瞳に映し出させてやるためにしなければいけないことだ。それには乗り越えなければならないことが多い。まず一つは隼人の外出許可を取ること。容易じゃない事は分かっている。医師や看護師、その他大勢の隼人の治療に携わる人間に話して、受け入れてもらい、認めてもらわなければならない。そして、俺の考えと相反する家族の愛を持つ隼人の両親の許諾が何よりも必要だ。それが取れなければ何の意味も成さないし、それまで築き上げてきたものが全て水の泡と言うものだ。そうなることを俺は望まない。だから、仲間を増やして行く必要がある。いや、仲間じゃなくても良い。懐柔さえ出来ればそれだけで良い。
 だが、これだけでは叶わない。あくまでそれは一つの課題。もう一つの課題は飛行場にある。
「見学の許可を取りたいんだ。だから、協力してくれ」
 仮に隼人の両親や病院関係者に承諾を得られたとしても.次の課題は隼人の見学の件だ。これから飛行場は通常業務の他にバードフライの訓練が多くなってくる。それを隼人には見せてやりたいが、時期が時期だけにそんな余裕がないのは分かっている。だが、時間がない今、そんなことを気にしている場合じゃない。だから何としてでも,バードフライの責任者である大浪総括長や藤沢上官、管制官それに社長にも許可が必要になるかもしれない。隼人のこともそうだが、こっちもなかなか険しい道な気がする。何だかんだで、悠の方が圧倒的に信頼があって、どこか頼りがちな自分もいるが、悠はそこまでしてくれないだろう。あんなことを言っていたことだし、結局は俺がやらないといけないことだ。
「見学か? また何でそんなことを?」
「前に話したろ? 隼人の好きなこと」
 智史にはここで働く奴では悠の他に唯一隼人の事を知っている奴だ。顔を合わせたことはないが、隼人の病状や思い描いている夢のことはほとんど知っている。
「あれか。それとここの関係は何だ?」
 智史には雲に絵を描くことと、空が好きだということは言っているが、バードフライのような曲芸飛行が好きだとは言っていない。そのため智史には、飛行場のトップを説得することの関わりが分からないのだろう。
「隼人の夢のために、バードフライを見せたいんだ。と言うか見せる。だから、上官たちの許可が要る」
 聞かれたから答えたのだが、智史は意外と冷静と言うか無関心と言ったような返事だった。今それはどうでも良いが、とにかく一人よりは二人だ。まずは手近なところからジワジワと引き込んで行くほうが、お堅い人間がトップを占めているここでは効果が期待できる。
「分かった。夢を届けるサンタになるのも悪くはないな」
「お前はトナカイだ。サンタは俺がなる」
 こいつはバードフライの俺の代役だ。言わばソリと言う名の隼人の願いを引く機体の操縦手のトナカイだ。それを引く俺がサンタになってやる。
「お前がサンタなんて無理に決まってんだろ。むしろサンタは雨宮のほうが相応しい」
「うるせぇ。俺が思案したんだ。俺がサンタで何が悪い」
 ひとまずは安心できた気分だ。無駄な言い合いもその結果と言えるだろう。
「引き受けたは良いが、どうするんだ?」
 智史が具体案を俺に示せと言ってくる。考えが無いわけじゃないが、俺程度の考えでは浅はかなものだろう。藤沢上官にしろ大浪総括長にしろ、顔を数回しか合わせていない社長やほとんど合うことのない管制官なんて、俺の考えの数歩先を読んでいるに違いない。だからこそ、手は一つだ。
「ぶち当たりにいく。唯その一つだ」
「お前は馬鹿か?」
 俺の考えに智史が呆れた目を向けてくる。
「上官たちに下手な策をとっても、流されるのがオチだ。真正面から当たっていく方が俺たちらしいだろ?」
 昔から、何かあれば後先考えずに上官に楯突いてきた。その度に一蹴されているが、ここはやはり俺たちらしさを出して行くほうが気持ちは伝わるはずだ。常識人であり、職人なのだから、余計なことをする方が無駄と言うものだろう。
「何の話をしている? 私語よりも仕事せんか」
 俺たちの会話にやたら低い年増の声が混じってきた。その声に俺たちは背筋に冷や汗が流れた。
「お、お疲れ様です」
 どうやら早朝の飛行が終わって戻ってきたのだろう。いつの間に戻ってきたのか気づかなかった。
「雑談とは随分と余裕があるな、お前たち」
 小言を言いながら自分のデスクに腰を下ろす上官。新人の子がタイミング良くお茶を運んできて一息ついている。俺と智史は顔を見合わせて、思った。
《今しかない》
 上官は俺たちに叱責したが、そこまで憤怒しているわけじゃない。こんなことはいつものことだ。滅多に他人を褒めるようなことを言わない分、そういう小さな叱責はここでは当たり前と捉えている。
「よし、行くか?」
「ああ」
 俺と智史はおもむろに席を立つと、上官の前に立った。
「却下だ」
「えっ?」
「即決ですか・・・・・・」
 俺たちが上官の前に来ると同時に、こちらが口を開く前に棄却されてしまった。
「まだ、何も言ってませんが・・・・・・?」
「全部聞こえていた。仕事のことならともかく、下らん話ばかりしおって。少しは仕事に誠意を見せんか。馬鹿もんが」
 いつものような上官の一蹴叱責。いつもならそこで謝罪するが、今日は引かない。むしろ上官の言葉にムッと来た。
「お言葉ですが、下らない話ではありません。一人の子供の命が掛かっているんです」
 まだそこまでの段階には至っていないが、実現に向けてはその言葉も間違いじゃない。
「話だけでも聞いていただけませんか?」
 俺をフォローするように智史も頭を下げた。二人で頭を下げる姿に同僚や事務員たちが何事かと見てくる視線が感じられる。その視線が後押しするような効果を生み、上官もその場では強く言えなくなった雰囲気に咳払いすると、俺と智史を空き会議室へ連れ立った。
「話は聞いていた。だが、詳しくは知らん。事情を説明しろ」
 三人だけの会議室。昼からは航空祭の打ち合わせに使われるが、今は広い部屋に三人だけ。事務所にいるよりも緊張感が並々じゃないほど漂っている。こういう場は昔から好きじゃない。気分が滅入ると言えばその通りだし、無駄な緊張感でたまに足がつりそうになる。
「はい、実は――・・・・・・」
 俺が腕を骨折してから通院した中で出会った少年、高峰隼人。面会を重ねるうちに親しくなり、隼人の病気を知り、症状の重さも色々と個人的に情報収集して悠や隼人の母親からの話で大方の今の隼人の状態の察しはついた。だから今しかその時間がないということ。だがまだ何も相手方には承諾は得ていないし、許可が下りるかも分からないと言うことを包み隠すことなく話した。
智史も詳細を知っていたわけではないため、予想を大きく凌駕した事実に言葉を失っていた。何事もなくその場にあるのは、ここへ来る途中に持ってきたコーヒーが、香ばしい香りと共にすぐに消えていく細く短い湯気を漂わせているだけだった。会議室の窓には切り取られた絵画のように、滑走路と風を浴びて一斉に青々とした短草が波打つようにサヤサヤと靡く田舎の景色が見える。そこで昼寝をすればどれほど心地の良いものだろうかと思いながら、静かな緊張感の漂う室内に視線を戻す。
「・・・・・・――というわけです」
 全てを話した後、何かを言ってくれると思っていた智史もショックからなのか、それとも仏頂面で腰を下ろしたまま何かを熟考しているのか、一向に口を開く気配のない藤沢上官に恐れをなしているか何も言わなかった。こういう話をすれば、智史は自分の姪っ子のことを思い返したのはほぼ間違いないだろう。隼人が俺を慕ってくれているように、自分を慕ってくれた姪っ子。俺が入院している隼人に受けるその目の輝きよりも、智史のほうがより強いもの感じていたはず。他人から受けるよりも家族から受ける自分を思う思いは何よりも嬉しいものだ。智史なら分かってくれているはず。だが、それが上官に伝わるかは俺には想像がつかない。険しい顔のままコーヒーを啜り、まるで啜る音だけが俺の話に対する答えのように聞こえてしまう。非常に居心地が悪い。
「それで全部か?」
「そうですが・・・・・・」
 不意に上官が口を開き、動揺したのか声が震えてしまった。
「畑山」
 俺ではなく、智史を呼んだ。俺と同様に緊張からか、背筋が瞬間伸びた。
「お前はどう思うか?」
 どうして俺には聞かないのか。そんな疑問が浮かぶが、お前は口を開くなと言われているような雰囲気に呑まれてしまい、噤まざるを得なかった。
「奥田の話を聞いてどう思うか?」
「俺は、健介の話には賛成です。今は航空祭のことなどで手が回らないことは承知です。ですが、一人の子供の夢のためにあるというのなら、自分は協力を惜しみません」
 智史の言葉に俺は安堵していた。
「そんな戯言はどうでも良い。模範解答に過ぎん」
 だが、上官はそれを一蹴した。模範解答だと蔑んだ。正直、ここまで言われるとは思っていなかった。確かに智史も言う通り、今は航空祭まで一月とちょっとの時期にまで来ている。その中での俺の申し出は、ただでさえ人員不足で超過労働も強いらなければならない中でのことだ。上官には、そんな余興に付き合えるほどの時間を割くなら、職員の休養に当てるべきだと言いたいのだろう。少ない人員にも関わらず休みを取らせるのは、それだけこの仕事の責任と言うものは重たいということ。パイロットであるなら、飛行が入り次第呼び出しを受けることもあるが、飛行が無ければ暇と言うわけではない。その間に休むこともまた仕事の内。車を運転するのとは訳が違う。誰にでも出来ないからこそ背負うものは様々で、その責任は一人だけが背負うものではない。一人の行動で全てが最悪へのシナリオを進んでしまう。そのため、全員が万端に調整して仕事に望まなければ甚大な事件や事故を引き起こしかねない。整備士などの作業員もまた、常に緊張の中での作業を強いられる。人員が少ない分仕事も増え、それに伴う個人個人の請け負うものは増える一方だ。だからこそ、しっかりと休養させ仕事への意欲を回復させる。それが出来ない者は必要とされることはない。ぶっちゃければ、今の俺はその後者的な存在だ。飛行が出来ない分、雑用だと嘆くが、そんなものは戯言だとしか思われない。
「それがお前の答えなら、さっさと仕事に戻れ」
 腕を組み、俺たちをジッと険しい表情で見てくる上官に息を呑む。少し視線をずらせば、日常の飛行場の光景が広がっている。その横でこうして張り詰めた空気を放つ部屋に閉じ込められるのは何故だろうと今更ながら思ってしまいそうになる。
「どういう、ことですか?」
 自分の答えを否定されて智史が疑問の眼差しを上官に向ける。俺は何故だか上官が智史の答えを否定した理由を分かったかもしれない。上官はパイロットとしての答えなら、智史の言うことには仏頂面でも頷いたかもしれない。だがそれを戯言だと言うのであれば、自分の気持ちを聞いたのかもしれない。俺が今経験していることは、智史も全くとは言わずとも既視感に近いものを実際に目の当たりにしたことがある。きっと上官もそれを踏まえた上での答えを聞こうとしているのかもしれない。
「あの日のお前は、今の奥田と同じ顔だ。もう一度聞く。お前はどう思うか?」
 智史が俺を見てくるが、別にアイコンタクトをしてくるわけじゃない。あの日というのは、一昨年の航空祭。その日に起きた家族の悲劇。その時の顔が今の俺と同じだと言われ、自分の過去と現在の俺を見ているだけのようだ。その目は俺を見ているようで、俺の後を見ていた。
「俺は・・・・・・俺は、それでも健介を手伝います。あのこととは無関係とは言い切れません。俺もあの日は見てもらいたくて楽しみにしてました。そして今、見たいと言う子供がいる。その子は重病でそれすら容易には見ることが出来ません。健介の言う通り、俺もいつ見られるかも分からない状態なら、出来るうちに見せてやりたいです」
 智史は、畑山智史として答えを言った。その答えに藤沢上官は唸るような小さな声を上げると、またコーヒーを啜った。何も言わないから、言葉に出来ない緊張感とムカムカと言うべきか、ウズウズと言うべきか、自分でも良く分からない何かに堪えるのが必死だ。
「そうか」
 どれくらい沈黙の時間があったかはわからない。ここにいると時間の感覚が掴めない。ようやく上官が口を開いたと思ったら、それっきり何も言わず上官は席を立った。俺たちの横を通り過ぎ、俺たちがそれに視線を追わせると、そのまま会議室の扉へと歩いて行く。
「あ、あの・・・・・・?」
 思わず声をかけた。ただ頷くだけで去られても釈然としないものが残るだけだ。否定するなら否定して、認めてくれるなら認めるとはっきり言われるものだとばかり思っていた俺たちは上官の不可解な行動に困惑するばかりだ。
「奥田、今のお前の味方は畑山と雨宮だけだ。以上」
 それだけを言い残すと、上官は会議室を後にした。残された俺と智史は呆然とそれを見送っていた。上官が去ってからしばらく俺たちは人形のように不動のままだった。上官の言葉の意味がさっぱり分からない。ただの状況報告と言ってしまえば、それだけにしか聞こえなかった。
「・・・・・・どういうことだ?」
 智史が聞いてくるが、俺は数回瞬きをするだけで首を捻った。そんなものは俺が聞きたい。話を聞くだけ聞いて、問いて、去っていった。それだけで何を理解しろと言うのだ。賛否の判断を下されたとは思えない。悪く言えば曖昧にされただけにしか思えなかった。
「とりあえず、仕事、戻るか?」
「そうだな・・・・・・」
 二人して困惑したまま会議室を後にした。事務所に戻ると、先に戻った上官は何てこと無いように仕事に戻っていて、俺たちが戻ってくるなり仕事をしろと、いつものように言うだけだった。ただ違うのは、その言葉は俺たちに向いていなかったと言うだけだった。
 結局俺たちは釈然としないものを抱えたまま、午後まで仕事を続けた。昼食時に香田先輩も飛行から戻ってきて、三人揃って食堂で昼を取ることにした。
「お前ら、一体どうしたってんだ? チャリンコ乗って飛んできた蝉でも食ったような顔しやがって」
 先輩の例えは良く分からないが、とりあえずあの時のままの表情だと言うことなのだろう。
「実は、ですね」
 智史が良いよな? と俺を見る。上官の言葉も気に掛かるが、とりあえずバードフライのリーダーも兼ねているこの人には、話はしておくべきかも知れない。そう思い智史に頷いた。智史が今は言わなくても良いような隼人の詳細まで先輩に話した。
「そんなことがあったのか。それで健介、日ごとにテンションが違ってたのか」
「ええ、まぁ」
 洗いざらい話したからには、先輩の言葉に頷くだけだろう。
「しっかし、お前らなんも分かっちゃいないぞ」
 先輩は俺たちをあざ笑うように言った。
「何がですか?」
 そんな俺たちに先輩は深いため息をついた。
「藤沢さんの言ったこと、覚えてるか?」
 俺の味方は智史と悠だけだと言ったことだろうか。他にまともなことは何も言われていない。だが、それは曖昧にされただけじゃないか。賛成もされなければ反対もされなかった。その前には却下されたのだ。否定の方が大きいかもしれない。
「健介の味方は智史と雨宮だけだって言ったんだろ? それがどういうことか分からないのか?」
 智史と顔を見合わせるが、傾げるだけだった。
「良いか? ここのスタッフは人数が少ない分仕事はハードだ。そんな時にお前らが妙なことを言い出した。そして藤沢さんは、味方は三人だけだと言った。ちょっと頭を捻れば出てくるだろ、答えなんて」
 先輩は、ちなみに俺はどっちでも良いんだけどな、と付け加えると昼食の箸を進めた。
「智史でも分からないとなると、健介には分かんねぇかもな」
 その言葉は少々きつく感じたが、言い返すだけの答えが出ていないのも確かなこと。先輩の指摘は間違ってはいない。
「俺は焦らすのは好きじゃないから教えてやる。お前の申し出は否定してない。スタッフが忙しい中、それに付き合う時間を割くのは大変なことだ。健常者ならともかく、病人でしかも重病の子供と来れば、仮にその子がここへ来られたとしても、色々と医療器具も運んでくる必要が出てくるだろう。そうなった時にこちらの対応も慎重にならざるを得ない。そうなれば一人二人の少人数だけじゃなく、ここで働くスタッフのほとんどにも何らかの影響が出る。誰も知らないまま事を進めるのはまず無理だ。全員が忙しくなる中で、それを受け入れる必要がある。そして、今はお前の味方は智史と悠だけ。ここまで言えば分かるだろ?」
「つまりは、スタッフに認めてもらってから出直して来い、と?」
 智史が先輩の言葉を受けて整理した。それを聞いた先輩は大きく頷きながら丼飯をかきこんだ。
「じゃあ、まずはここのスタッフ全員の許可を取って来ないといけないのか」
 上官らしい物言いだなと思いながらも、言葉の真意を理解したから、問題の大きさにも触れてしまう。時間の無い今、ここのスタッフの承認を得るために割かねばならない時間の多さは、仕事に完全に支障をきたしてしまうだろう。
「心配すんな。俺もやるんだ。空いた時間にすれば一週間もあれば大丈夫だろ?」
 先輩の申し出は素直に嬉しい。だが、その一週間という時間。短いようで隼人の事を思えば長すぎるかも知れない。残された一つの光りを見るための、今の俺の望みを繋ぐ隼人の瞳。日に日に悪化する中、その影響は増していくばかりだ。ここ数日でその瞳もぼやけていると聞いたからには、長くない。その間に何とかして全ての障害を越えなければ、俺が隼人に約束したことは叶わない。手に掬った水は多くはない。徐々に零れていく。それが俺のタイムリミット。
「だな。やるしかないからにはやるか」
「そうだな」
 俺は物分りが良くはない。だから、これはただの我が儘。仕事に私情を挟むのは社会人としては失格だろう。腕が治ってからそれを取り戻せれば今はそれで良いかもしれない。
「先輩と智史は空いた時間に頼みます。俺は仕事そっちのけでいかせてもらいますんで」
 気持ちの変わらないうちに行動あるのみだ。悠長に食事を取っている暇はない。俺は行儀なんてものをそっちのけで一気に昼食をかき込んで席を立った。昼からは二人ともバードフライの訓練が入っている。その間に出来るだけのことはしておこう。明日は診察日だ。その時にも動かないといけない。
「目の前のことしか見えていないのは、治らんな、あいつ」
「そうですね。ま、それがあいつらしいんじゃないですか?」
「馬鹿に付き合うのは気苦労が絶えんが、後輩の決心に先輩が付き合わん訳にはいかんだろう」
 それを見送る二人は苦笑しつつもどこか楽しげにしていた。

「どうか、お願いしますっ」
 事務所の一角は仕事の手が止まっている人間で時間が止まったような静けさが漂っていた。
「皆さんが多忙のことは承知の上です。ですが、一人の子供の夢を叶えてやりたいんですっ」
 十数人ほどが常駐している事務所。そこにいる人間の視線は、突然頭を下げた一人の男に釘付けにされていた。仕事の依頼だろうか電話が鳴り、数回の呼び出し音の後我に戻った一人が小声で応対する以外は、突然のことに困惑を隠しきれていないスタッフたちの固まった顔と、仕事そっちのけで頭を下げたまま何度も何度も懇願する健介の姿があった。
「俺一人じゃダメなんです。皆さんの力を俺に貸してもらえませんか」
「皆、俺からも頼みたい。この馬鹿がここまで頭を下げるなんて滅多なことじゃないんだ。どうか、俺からもよろしく頼む」
 入り口から、健介のほかに声が響いた。一斉にスタッフの視線がそちらへ行き、また固まっていた。
「先輩・・・・・・」
 不意に聞こえた声に健介も反応を示して、意外な人物がいたことにスタッフ同様に健介も口が開いたままだった。健介よりも遥かに多くの人望を持つ香田。それが頭を下げていることに一同は動揺の表情を隠しきれていないようで、お互いに顔を見合ってなにやら相談する声も混じっていた。バードフライのリーダーがそう言うのであれば、尚のことだった。
「お願いしますっ」
 揺れ動くスタッフの心に追い討ちをかけるように健介の声が響き渡った。
「あ、あの、私は構いません。奥田パイの言う子供さんの夢なら、協力できることがあれば言っていただけたら・・・・・・」
 健介の熱意なのか、香田の人望なのか、すぐに効果が現れた。普段からパイロットも仕事をしている場所なだけに、その影響力というものは他の部署よりも圧倒的なものがある。一人の女性社員の言葉がきっかけになって、次々と声が上がり、事務所のスタッフ全員から健介は許諾を得た。
「ありがとうございますっ」
 困難なことだと思っていた健介にしてみれば、こうも簡単にいくものかと呆気にとられる部分もあったが、とりあえず最初の一歩を無事に踏み出せたことの喜びが大きかった。
「先輩、ありがとうございます」
 先ほどの収拾がついて、再び仕事に戻った事務所で、健介は香田に改めて頭を下げた。
「気にするな。これも先輩の見栄だ。後はお前で何とかしろ」
 ポンと肩を叩くと香田は事務所に残っていたバードフライの面々を引き連れて事務所を後にした。
「・・・・・・よし」
 一人休憩室に向かった健介は、誰もいないことを確認すると、一人でガッツポーズをしていた。幸先の良いスタートに健介は少々浮かれ気分だった。
「まだまだ時間はあるな。このままでいけば明日にはいけるかもしれないな」
 まだ九分の一ほどに過ぎないが、少なくともスタッフの連携が取れている分、一人に納得してもらえれば、口コミで徐々に広がりを見せてくれるかもしれない。あくまで可能性のことのため、最後には自分でいかなければならないことは分かっている。それでもないわけじゃないものに賭けるのも今は一つの方法。そんなことを思いつつ健介は再び歩き出した。

「藤沢」
「何だ? 調整は終わったのか?」
「無論だ。それは良いとしてだな。少々小耳に挟んだんだが」
 午後からヘリのメンテナンスのため、ドッグに入れられた藤沢のヘリの周りには数人のスタッフと、それを指揮する大浪の姿があった。
「言わんで良い。分かっとる」
 大浪がどこか面白そうな話をしたそうにしているが、藤沢はそれを無視すると、コクピットへ移動し、計器の調節に取り掛かっていた。
「そう言うな。お前の部下の話じゃないか。さっきウチの小童が言っとったぞ。小僧が何やら始めたらしいじゃないか」
 ニヤニヤと皺に深みを増したほくそ笑みで大浪も機体に乗り込んでくる。
「馬鹿のやることは知らん」
 そんな大浪を他所に、藤沢は鬱陶しげに黙々と仕事をこなしていた。
「何やら、子供のためにフライを見せてやるとかだってな。仕事そっちのけで走り回っているぞ」
「減給だな。あの馬鹿」
 ふんっと鼻を鳴らしつつも、その表情は自分の言ったことを理解してくれたのだろうと安堵する顔だった。
「一体何を言ったんだ?」
「何も言っとらん。あいつが勝手にやっとるだけだ」
 藤沢はそう言うが、大浪はその言葉にさらに皺を深くして近付いた。
「奥田は馬鹿だから気づいてないのかもしれんが、フライの訓練の見学は自由だ。いちいち走り回って全員の承諾なんぞ要らんはずだが、あいつはそんなことにも気が回らんほどに仕事を放置だ。お前が何か吹き込んだ以外に何がある?」
「全く、やかましい奴だな。奥田の覚悟を見てやるだけだ」
 いつまでもからかうように聞いてくる大波に、痺れを切らしたのか藤沢は観念したように一部を話した。勝ち誇ったガキ大将のような大浪にはさすがの藤沢もため息をつくばかりだった。
「お前も人が悪いな」
「あいつは最近腑抜けている。今のあいつにはフライへの復帰はさせられんからな」
 長い付き合いだからこそ、他人には話さないことも一度崩れてしまえば話してしまう。そんな間柄の二人には、口ではそんなことを言っていても、それだけ後継者としての期待を背負わせている表れだということは、二人だけが分かっていることなのかもしれない。
「だが、仕事そっちのけにさせてまでさせてやることか?」
「所詮あいつはまだ小僧だ。仕事は復帰してしてから扱けば良い」
「それを言ってやれば良いだろうに」
「言えるか、俺の口から」
 上司としての威厳とも言えるもの。それを部下に示すことがスタッフ一人一人の士気を高めることに繋がり、事故を未然に防ぐためにも必要以上の馴れ合いはしないように藤沢は努めていた。健介の申し出にも返事を出さなかったのはそのためだった。健介は他のパイロットに比べてまだまだ至らない部分があり、バードフライでの訓練を積むことで精神的にも鍛えさせることを目的にメンバーに組み込んでいたが、その中での腕の骨折。ただでさえ己の心に左右されやすい健介には、そのショックで入社当時のような腑抜けになったと藤沢は思っていた。ここ最近の起伏の激しさの原因を知ったからには、自ら強く希望してきたことを己の責任でやり遂げるだけの覚悟があるかを見極めるための一つに試練として、助言をすることを避けた。
「相変わらずだな、お前は」
 何年もそうして相棒的な存在として組んできた大浪には、もう少しアドバイスなどをしても良いんじゃないかと苦笑するが、それは共に異なるやり方のため、諦めていた。
「人のやり方にケチをつけるな。これくらいがちょうど良いんだ」
 それだけを言うと、藤沢はパイロットとして仕事人に戻り、大波のからかいもそれまでとなり、二人はいつの間にか仕事に真剣さを取り戻していた。
「最後に一つ。お前は小僧のことはどうする?」
 健介の処遇ではなく、健介が仕事を放り出してまで駆け回っている目的についてだろう。健介はここのスタッフ全員の承諾を得られれば叶うと思っている。それをけしかけた本人としての心情を大浪は聞きたいのだろう。
「奥田が動かした結果が伴うなら、他に何を言えと?」
 藤沢の答えに大浪は満足げに笑うと、近くで作業していた部下たちに招集をかけて、何かを話していた。機内で調整していた藤沢はその声を聞きながら微かに口の端が上がっていた。

「とりあえず、もう終わりだな」
 健介が近くにあった時計に目を向けると、終業時間を過ぎていて、今日は半分ほどだったが、それでも予想を大きく上回る結果に満足して切り上げた。
「仕事、出来なかったな。やべぇよな」
 仕事との両立は出来ずとも、多少は仕事もこなせると思っていたが、スタッフがこの広い飛行場のあちこちに散らばって作業をしているため、一人一人に理由(わけ)を話しているうちにあっという間に時間が来てしまったため、昼からは仕事が全くこなすことが出来なかった。分かっていても、事務所に戻る足取りが重い。事務所に戻って藤沢上官と顔を合わせたくないと思ってしまう。いずれにせよ上官のお叱りを受けるのは避けられないのも分かっているが、仕事終わりに言われると結構引きずってしまう。
「この時間はいるよなぁ・・・・・・」
 半ばやけになって事務所に戻ると、案の定上官がデスクで帰宅準備を始めていた。俺が所内に入ると、鷹の目のような眼光がこちらを向く。思わずおののきそうになるが、出来るだけ頭を低くして自分のデスクへ行くと、声が掛かった。
「奥田。お前、今日の分の仕事はどうした?」
 聞かれただけなのに、色々と痛い。理由がはっきりしているだけに言い返す言葉が喉を通って来ない。
「私情を仕事に持ち込むなと言っているだろう」
「す、すみません・・・・・・」
 厳しい口調に縮こまるばかりだ。藤沢上官からすれば俺のしていることは甚だ許し難い事なのだろう。だが、俺だって上官が何も言ってくれないから、自分の思いを貫こうとしている。しかし、それを言ったところでその後のことは容易に想像がつく。言わぬが仏ということだな。
「さっさと仕事できるようにしろ」
「は、はいっ」
 俺の横を静かに通り過ぎると、残っているスタッフから挨拶が一斉に上官に向けられ、それを受けながら上官は先に帰宅していった。こっぴどく叱られるのを覚悟していたが、いつもよりも六割減程のお叱りだったため、呆気に取られた。
「何呆けてるのよ。早く帰る支度しなさいよ」
 俺がポカンとしていると、悠が事務所に来た。急かされ、流されるごとく帰宅準備をして俺と悠は仕事場を後にした。車内では久々にエオリアン・ハープがかかり、そのテンポが今日の俺の走り回ったことを思い起こさせた。
「聞いたわよ。一人一人に隼人君のことを認めてもらっているんだって?」
「おかげで半分近くには何とか了承してもらったが、仕事にはなんなかった。藤沢さんにも叱られたし」
 仕事中は上司であることを意味して上官をつけるが、仕事から解放されればさん付けで呼んでいる。本当は呼び捨てにしたい時もあるが、掴み所の無い人だから強く言えないし、俺がしていることは仕事としては無意味なことだから悪く言う資格も無い。
「香田さんや智史もフライの訓練前とかにウチのスタッフにも事情を話してたわよ」
 俺があちこちを奔走している間も、初めに賛同してくれた二人もそれぞれ俺の見ていないところで、俺の目の届いていないところで協力していてくれたのか。感謝しきれない。
「私もそれなりに口コミに協力してたけど、大浪さんも色々と話を通してくれているのよ」
「えっ?」
 運転している悠の横顔は、田舎の少ない街灯や通り過ぎる車のヘッドライトに時折明るくなったり、暗くなったりを繰り返していた。
「藤沢さんはどうか知らないけど、大波さんは結構協力してくれているのよ。多分整備のほとんどの承諾は得たと思って良いんじゃない」
 整備を統括する大波さんの許諾を得られたというのであれば、悠の言う通り整備部の人間は否応なしに従っているのだろう。そうなれば八割は今日一日で認めてくれたことになる。残りは医務と食堂と管制、気象班くらいなものだ。それと美友紀ちゃん。管制以外はきっと俺の顔も聞くだろうから、きっと協力してくれる。だが、管制となると、話は別だ。飛行場の指揮者的な立場で、俺も直接顔を合わせたことは少ない。離着陸等で声では知っていても、なかなか時間が合わないため、それ以外で話をすることがほとんど無い。私情を挟むことはご法度な部署だけに、俺の話を聞いてくれるかも分からない。明日には行こうと思っているが、バッグを固めて、一通りのやるべきことを先に済ませてからと考えている。
「そりゃ、助かるな。でも何で大浪さんがそんなことを?」
「さぁ。でも、今日藤沢さんと何かを話していたのを後輩が聞いてたらしいの。その後に大浪さんが招集かけて、先に知っていた子の話を交えて全員を説得してくれたらしいわ」
 藤沢さんと一体何を話していたのか気にはなるが、今は結果重視だ。先輩以上の強力な助っ人が味方についてくれるのは願ってもいないことだ。その好意は素直に受け入れさせてもらおう。重たく感じていた俺の決意が心持ち軽くなった気分だ。
「ありがとな、悠」
「何が?」
 俺が急に感謝の意を言うと、不思議そうな悠の横顔がそれを受け止めた。
「色々と」
 そう、色々と。本当に色々と悠には助けられている。それこそいくら感謝してもし足りないくらいだ。大浪さんがそんなことをしてくれたのも、自分のことをほとんど棚に上げない悠の無意識の言動や行動があるから、大浪さんは藤沢さんとの話の中で、そのきっかけを活かしてくれたに違いない。まぁ俺の推測に過ぎないが。
「へんなの」
 そんな俺の言葉を変なの、の一言で片付けられるのは少々心寂しい気もするが、今の俺はそれでも気分は晴れやかだ。三日後は隼人の入院する病院の関係者。飛行場での仲間は集ってきたが、向かうは敵陣。仲間は悠のサポートがあるかないかの微妙なところ。俺の真価が試されるといってもおかしくはないかもしれない。今日はこの少々興奮している熱を冷まさないように次への糧としよう。

「痛みはどうですか?」
「もう慣れました。無理に動かさなければ大した痛みもありません」
 診察日を向かえ、いつものように診察室でレントゲンを前に色々と説明を受ける。徐々に回復してきているようで、最近は指を動かしてもなんてことはない。リハビリも始まり、ギプスも骨折箇所だけの固定バンドに変えられることになった。俺としては一月ほどの長い生活がようやく終わりを告げるだけあって、安堵するものがある。
「ギプス、取れたの?」
 意外そうに俺が診察を終えると悠が左腕に視線を向けた。一皮剥けた気分だが、もうしばらくは時間が掛かりそうだ。右腕との太さは明らかなほど差がついている。骨折当初は上手く使えなかったペンや箸も、いつしかだいぶ慣れてきて、まだ下手だが、昔よりは上手くなったと思っている。
「ああ、とりあえず楽になった」
 包帯で腕全体を固定せずに済むのは生活への支障も随分と軽くなる。車の運転が出来るのはまだかかりそうだから、結果としては悠の世話に甘えるかもしれないが、手伝えることは増えていくだろう。
 俺たちは診察を終え、まだ少しばかり時間があるためとりあえず、隼人のことを知らせておく必要があると思い小児病棟へと足を向けた。
「話すの?」
 悠が隣に並びながら視線は病棟の子供たちを向いている。朝から元気な子達の話し声や医師たちと何か話している母親など横丁的な雰囲気もどこかする中を俺たちは探していた。
「おや、あなたたちは隼人君の・・・・・・・・・」
 ちょうどいいタイミングで隼人の主治医がいた。俺たちは挨拶を済ませ、時間もないことなので詳しい話は次の事とし、一通りの事情だけを話すことにした。
「少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
 悠が医師に言うと、一つ返事でついてきてくれた。廊下で話すよりはマシと思い、待合所のベンチに腰を下ろした。
「それで、僕に話というのは?」
「はい、隼人君のことでなんですが」
 隼人のことを口にすると穏やかな顔だった医師からその表情が消えた。
「私たち、バードフライ飛行場で働いているんです。私は整備士で、こっちはパイロットをしているんです」
 悠が俺たちのことを話すと、興味深そうな目を向けてきた。
「それで、一つお願いがあって話を聞いてもらいたいのですが」
 俺が何を言いたいのか大方の予想はついているようで、腕を組んで小さく頷いていた。
「そのことなら、隼人君から直接聞きました。あなたたちがそうだったんですね」
 隼人から話を聞いているのであれば、話は早い。簡単に言うだけのつもりだったが核心をつけるだけの時間は割けそうだ。
「はい。ぜひ隼人に俺たちの飛行を見せたいんです。難しいのは分かっています。でも今しかないんです」
 お願いします、と頭を下げた。俺の隣で悠も同じように頭を下げたようで、悠の長い髪が俺の横目にしなやかに垂れた。
「お二人とも、頭を上げてください」
 俺たちに苦笑しつつ自分も頭を低くして俺たちの頭を上げさせた。
「お二人の申し出は、僕としても考えている段階です。僕個人としては隼人君の夢を叶えさせたいと思う気はあります。ですが、今現在の隼人君の様子は起き上がることもままならない状態。治験からの連絡もまた来ていない今、そんな状態で外出なんて医師としてはもってのほかなんです」
 やはり、医師の答えはNOだった。分かっていたこととは言え、次の言葉が、なかなか口から出てこない。
「どうしても、無理なのでしょうか?」
 悠が珍しく引き下がらなかった。いつもならあっさりと諦め次へ気持ちを切り替えるというのに。まるで昔の俺のように。
「今の隼人君の状態では、とてもじゃないがここから出すわけにはいかないです。腫瘍が広く転移しているから化学療法を主にしているんですが、化学療法というものには大きな副作用があるんです」
 隼人は今、ほぼ全身への転移が確認され、抗がん剤治療に伴う様々な反作用の影響と転移に伴う苦痛に絶えず苦しめられている。俺たちが顔を合わせる度にそんなことを嘆いたり、助けを請うような仕草や声を漏らすのを聞いたことが無い。いつも顔を合わせるたびに聞くことは、ここ最近では俺や悠の仕事のことや、俺たちが贈った絵本がもし本当にあったとしたら、どんな願いを叶えてもらうかなど、常に隼人の口から出てくる言葉は明るい未来を見ている希望に満ちたものだった。その一方で、家族や自分の中に堪えている神経芽細胞腫という病と闘うことに伴う苦しみや辛さを言葉にせずとも感じ取れるくらいに弱くなっているのだろう。だから、尽くす手がある限り、母親は家族として我が子を再び陽の光に満ちた世界で笑わせるために、出来ることは何でもしようと考えている。それに対抗するように今、俺たちは隼人に大きな負担を強いるようなことを懇願している。それを中立的な立場として判断しなければならない医師としては、俺たちに肩入れするというものは、お門違いというものだろう。
「お二人の心中は察します。隼人君の目が見えている間でないと、意味がないと仰ることも」
「だったらっ・・・・・・」
「治療法がある限り、僕たちは出来る限りのことをします」
 頑なな意思を貫く前に、俺は言葉を繋げなかった。
「治療法がある限りは、隼人君の唯一の空に絵を描くという夢を諦めさせて、治験の結果が来るまでは今のままの治療を続け、腫瘍の影響で失明をしても次の夢を抱き直せと言うんですか?」
 そんな俺を差し置いて行くように、悠が医師の口調に引けを取らない言葉でぶつかりに行った。あまり感情を出すような奴じゃないから、そこまで食い下がろうとする悠の様子に開いた口が塞がらないと言うか、神々しさのようなものを感じていた。
「治る可能性がある中で、それを無碍にするようなことを家族や隼人君が思うと思いますか?」
 冷静な言葉に、悠が悔しそうに微かに表情を濁らせた。
「少なくとも隼人君はそうは思わないのではないでしょうか? 確かに先生やご家族の言うことは私には分かります。納得も出来ます。ですが、隼人君にとってはたった一つの夢なんです。子供は大人と違って、まだ多くのことを知りません。大人にとって小さな挫折でも、子供には受け止めきれないものもあります。隼人君がたった一つだけの夢を温めているのは、自分は治ると強く思っているからです。片方の目が見えない今、口に出さなくても隼人君は大きな不安を感じているのではないでしょうか? ずっと入院を続けてきて、隼人君にはここで過ごすことが当たり前になっているはずです。その中で見つけた一つの夢を見るための目を失うことの辛さを表に出さないのではなく、出せないのではないでしょうか?」
 悠の言葉に特に何かを言い返すでもなく、ただ聞き入れているだけの医師。悠もかつて隼人ほどではなくとも、似たような経験をしたからその立場から言っている。そして医師も小児科に勤務しているから、子供のことに関してはプロだ。ほぼ毎日様々な子供の心身を把握している。だから、悠の言葉を否定するでもなく、賛同するでもなく、客観的な立場として受け止めているのだろう。その両者の間に入ることの出来ない俺はあまりにも無力なのだと、悠の言葉と医師の態度から否応なしに感じさせられている。
「隼人君は恐らく、目が見えなくなったと考えていないはずです。目が悪くなったと今は思うように努めているのではないでしょうか?」
「というと?」
 医師が続きを促すように短く言葉を挟んでくる。
「隼人君は同室の子をいつも気遣っています。隣の子の足のことや、他の子のことにいつも声をかけています。それは単に隼人君が気を紛らわすためではなく、本心からそう言っているようにしか見えません。それだけ隼人君は自分のことよりも他の子のことを気にしている証拠だと私は思いました。自分の目はただ悪くなっただけで、良くなると思っているから、ということではないでしょうか?」
 ここ数日、俺は母親とのこともあり、隼人の前に顔を見せていなかったが、悠は毎日顔を出していた。だから、俺の知らないことも色々と分かっているのだろう。
「自分の方が辛い状況にあるのに、症状の軽い他の子を気遣い、励ましていました。他の子はそれを理解しているからか、懸命に頑張っている隼人君の姿を見て、自分を受け止め、強く、優しくなれています」
 医師も悠の言葉に自分の見てきた日常を思い浮かべているのか、静かに何度も頷く仕草をしていた。
「そんな隼人君が、たった一つだけ思い描いている夢を叶えてあげることは、どうしても無理なのでしょうか?」
 泣き落とし作戦のような悠の言葉に、医師も揺らいでいるように見えた。俺よりも明らかに説得力のある言葉だから、俺も何も言えなかった。
「確かに、あなたの言うことは分かりますよ。僕も無駄に子供を見ているわけじゃないですからね。でも、助かる命を危機に晒すことは医師として見過ごすことは出来ないんです」
 医師の口調が変わった気がする。一人の人間として俺たちを認めてくれたような、納得できる共感できるものを感じたから、それに真正面から向き合おうとしてくれているようだ。
「それじゃあ、治療法がなくなったらどうするんですか?」
 今までただ聞くだけだったが、二人の話を聞いていると、一つ疑問が浮かんだ。隼人の目は日に日に悪化の一途を辿る。だがそれは目だけではない。俺は詳しくは知らないから分からないが、少なくとも転移箇所は悪化し、さらに広範囲へと転移が進んでいるということくらい分からないわけではない。二人の話を聞いていると、隼人の治療はどうやら治験にかけているようにしか聞こえない。それがもしダメだというのであれば、隼人はどうなるのだろうか。考えたくない答えが俺の中で問いとして浮かんでくる。
 俺の言葉に医師と悠の表情が変わった。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「隼人の病気はあちこちに転移しているんですよね? だから抗がん剤での治療をして、副作用に隼人は苦しんでいる。治る可能性があるからって先ほど言いましたが、治らない可能性もあるということですよね? そうなれば・・・・・・・・・」
 それ以上俺の口から言いたくなく、切った。自分で聞いておきながら、その問いはあまりにも簡単だった。施す術がないということは、その先にあるのは―――――死。
 聞きたくもなければ、言いたくもない現実。自分がいつ死ぬかも分からない中での、友人のあまりにも近い死への事態に、時間の流れの速さというものをひしひしと感じざるを得ない。
「そうですね。その通りです。治験からの結果次第ではここでの治療はもうなくなるでしょう。そうなれば、隼人君は半年も生きられないでしょう」
 さらりと言った医師の言葉は、俺たちにはあまりにも衝撃的な言葉を含んでいた。俺も悠も息を呑んでしまった。治験次第で隼人の命はそこまで危うくなるのか。まだ十年という時間も過ごしたことのない隼人が、来年を向かえることすらも難しい段階だということは、予想以上に俺たちの心を揺らがせる風を吹かせた。だというのなら、今隼人に施されている治療というのは、ただ答えを待つためにしているだけなのではないのだろうか。延命治療とさして変わりないのでは? と俺の中に嫌な考えが浮かんでくる。
「そんなっ・・・・・・」
 悠の表情が今日一番の変化を見せている。血の気が引いたような俺が今まで見たことのない顔だ。こんな顔もするのかと言うことよりも、そんな顔しか出来ない現実に俺も同じ顔をしているかもしれないと思うほうが先に来た。
「でも、無駄じゃないんです。無い可能性に賭けるような綱渡りは僕はしません」
 その言葉は聞こえているのかいないのか、よく分からない。聞こえていても受けたショックで耳から入ってそのまま出て行っているようだ。
「もしものことは、考えていないわけじゃないです。それは隼人君のご両親も既に知っています。その上で今隼人君には出来る限りのことをしています。だから、今はお二人の申し出に頷くことは出来ない。私だけでは判断することは出来ませんから」
 結局、俺たちの言葉は医師には通じることは無かった。聞き入れてもらえても、やはり隼人の両親という俺たちでは超えることの出来ない壁がある。俺はあまりにもその壁を軽視していたようだ。自分が正しいと思い込み、隼人の母親に対して憤りを感じていたが、それは間違いだったのだと改めて認識した。
「今はまだ隼人君には治療で日によっての体調は異なりますが、元気な方なんです。だから僕たちもその笑顔を消さないためにも尽力しなければならない」
 医師の言葉が重たく、俺が意気揚々と考えていたことを、ふりだしよりも前に引き戻すかのように打ち消した。
 医師との話を切り上げ、仕事へ向かうため病院を後にする車内は静かにエオリアン・ハープがかかっていた。以前悠に聞いたことが今になってまた頭に戻ってきた。エオリアン・ハープと言う曲は、嵐の中で笛を吹き、嵐が遠ざかるのを待っているということを表現していると言った。それが隼人と重なっているような気がする。嵐という隼人を蝕む神経芽細胞腫。その中で隼人は笛を吹いて嵐が過ぎるのを待つように夢を抱き、自分よりも他人の気持ちに励みを与えている。隼人は今まさにその嵐の中にいる。この曲を聞いていると、曲の終わりには嵐が晴れるのだろうが、今の俺にはその終わりが隼人の回復と言うよりは、最期に思えて仕方がない。この曲が続いている限り嵐は吹き続ける。俺はそれが隼人だとすると、本来の意味合い通りに回復を望むが、内心では終わり無く笛を吹き続けて欲しいと思ってしまうのは何故だろうか。
「やっぱり簡単じゃなかったな」
「そうね。分かっていたとは言え、ショックはショックね」
 悠の説得はその場では通じることは無かったが、少なくとも医師に届いたものはあった。俺たちが帰る際、意味深に一言だけ呟くように言った。
『メイク・ア・ウィッシュと言うボランティア団体を知っているかい?』
 俺と悠は知らない団体名だった。それが一体なんだと言うのだろうか。そんな話を車内でしていた。
「MAKE A WISH。願い事をするってことよね?」
「だな。でもそんなの聞いたことが無いな。お前はあるか?」
 悠は小さく首を振っていた。その団体が一体何なのか。何故俺たちにそんなことを言ったのか。分からない。
飛行場に近付くにつれて、隼人の新たな情報に動揺してしまったが、ここで揺れ動いているだけでは俺の決意は意味がない。壁にぶち当たることを覚悟の上で動いたんだ。これで終わりじゃない。まだまだ物語には続きを作っていける。それが俺の物語にもなる。もう挫折で揺らいでいる暇が無いんだ。ごときで諦めるわけにはいかない。俺には仲間がいる。それを裏切って終わらせるなんて、男としての名が廃るってもんだ。
「・・・・・・よしっ」
 車内にパチンと甲高い皮膚に衝撃が走る音がした。何事かと横目を向ける悠の視界に、次第に赤みを増していく健介の頬が見えた。
「何してるのよ?」
「気合を入れなおしただけだ」
 左手では力が入らないから、右手で頬を打った。ジンと鈍い痛みが次第に襲ってくる。余計な思いを吹き飛ばしてくれると信じて、意識を仕事に向け直した。


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