「当たり前に思うのは、長い時間を掛けて重ねてきた結果に、やっと相手にそう思ってもらえることなんですよね・・・・・・」 俺が責められるでもなければ、彼女が自嘲に走るわけでもない。ただ言っているだけ。説明をしていると言えばそれで終わりのことだが、その言葉が指すものが俺の今までを思い起こさせる薬のように作用した。 「奥田さんにとって、雨宮さんがそばにいるって、どういうことですか?」 美友紀ちゃんが言葉だけを俺に向けてくる。顔は運転に集中しているのか、俺の顔を見たくないのか、見れないのか、前を向いていた。 「悠が、傍に・・・・・・?」 改めて聞かれると、返答に困るというか、それが今更な気がしてかえって答えにくかった。 「気がついたら、そこにいたから、それが普通みたいな感じかな?」 気がつけば、それほど遠くない場所に悠はいた。高校からとはいえ、その三年間に、大学、そして飛行場への就職。活動する分野はそれぞれ違えど、その距離が変わることは一定のままからなくて、遠ざかることもなければ、近付くこともない。だが、助けを乞えば仕方がないといった表情で手を差し伸べ、見返りを求めるでもなく、俺を立ち上がらせる。 「本当に奥田さんは、雨宮さんを何とも思っていないんですか?」 伏し目がちにそんな言葉を投げかけられた。 「えっ・・・・・・?」 その言葉に、スッと切れるような痛みが俺のどこかに走った。出口の分からない迷路で右往左往していると、声が聞こえ、その発声場所を目指して何も考えずにむやみやたらに走り回るような気分だった。そんな俺は相当鈍いのかもしれないと責められる実感だけが残っていた。 「私も、奥田さんにそう思ってもらえるように色々奥田さんが好きなものを調べたりしようとしても、私と奥田さんの間には距離があって、その間に雨宮さんがいます。でも、それは当たり前なんかじゃないと思います」 美友紀の声色が微かに諦めの音色を含んだ。大山を前に、登山家なら登ることに挑戦するが、一般人はそれを見上げることしかしないような。 「奥田さんにとっては、当たり前のことかもしれません。でも、雨宮さんにだってちゃんと私と同じスタートがあったんです」 同じスタートか。そんなことを考えたことなんてなかった。 「きっと奥田さんがずっと前にスタートの合図を出したから、雨宮さんは私がスタートに立つ前にもうゴールの近くまで来ているんです」 俺は美友紀ちゃんの言葉を聞き入れることしか出来なかった。美友紀ちゃんが自分の気持ちを打ち明けているのに、それが美友紀ちゃんの言葉じゃなくて、悠のこれまでを俺に認識させ、受け止めさせようとしているような焦燥のように聞こえてしまう。 「俺は何もしていないよ」 ―――そう。俺は何もしていない。ただ甘えて、乞えば差し伸べてもらえる手に縋っていただけ。 「奥田さんは何もしていなくても、雨宮さんがそこ(・・)に(・)いる(・・)ことが、雨宮さんがそこに居ようとして頑張った結果なんですよ。きっと」 悠が近くにいて、俺を助けて世話を焼いてくれることが当たり前だと思ったのは、それは悠が頑張ってそこに居ようとした結果。それに俺は手を引いてもらうことで、俺に何かあれば俺が一番近くにいてくれると思えるのが、すぐに助けを求めればそこに居てくれるのが、悠、ということになるのか。 「あーぁ、悔しいです」 低めのトーンだった美友紀ちゃんが、信号で車を止めると、ため息を漏らしながら力を抜いて背もたれに身を預けた。途中で走ることを止め、リタイヤを表明したように。 「もっと私が早く生まれて、雨宮さんと同じ時にスタートに立っていれば、きっと私のことも当たり前に想ってもらえたのかなぁ」 誰にでもなく、自分に言い聞かせるような美友紀ちゃんの言葉。 「雨宮さんが羨ましいな。私も雨宮さんみたいになりたかったな・・・・・・」 羨望と諦めの吐息が小さな美友紀ちゃんの唇を微かに振るわせた。 「美友紀ちゃんは、美友紀ちゃんだよ。誰かと比べて、誰かになろうとする必要はないんじゃないかな?」 「・・・・・・はい」 励ましのつもりで掛けた言葉に美友紀ちゃんが目を伏せ、鼻を啜った。ゆっくりと車が走り、俺は間の悪い空気に呑まれ、逃げるように窓の外へ目を向けた。 「奥田さん」 不意に呼ばれて隣を見ると、外の明かりに照らされた美友紀ちゃんの瞳が、雫でその輝きに揺らめきを浮かばせていた。 「コンビニ、着きましたよ・・・・・・っ」 今はお世辞とか励ましとか、下手な言葉はかけないで。そう言われたような気がして俺はコンビニへと夕飯を買いに車を降りた。 「美友紀ちゃん・・・・・・」 弁当と飲み物を買って雑誌コーナーを歩いていると、ちょうど美友紀ちゃんの車が見え、美友紀ちゃんがハンカチを瞳に当て、顔を伏せている姿が近くの外灯の明かりに浮かび上がっていた。 「俺、ほんとダメだな」 気軽にかけた一言が余計だった。俺の言葉は美友紀ちゃんには鋭い針のような棘として刺さってしまった。俺がもっと考えていないから、こうなった。それは否定出来なかったし、今ではそのつもりもないが、今の彼女にかける言葉が俺にはあるのだろうか、とコンビニから車に戻るその数メートルほどの距離が果てしなく遠く、しばらくの間、雑誌を読むフリをして雑誌の先を見つめ、美友紀ちゃんが満足するまでその涙を流させてあげることしか出来なかった。 「俺は卑怯者だな・・・・・・」 いざと言う時に、自分では何も出来ず、もしこの場にあいつ(・・・)が居てくれれば、何てことを不躾ながら思って、彼女の座る運転席へ目を向けていたのだから。でも、今の俺に出来ることは、それだけで、それだけが精一杯だった。他に出来ることなんて、何もなかった。 美友紀ちゃんが落ち着いた頃を見計らって車に戻ると、先ほどよりも明るい笑みを浮かべて美友紀ちゃんは俺を悠の家まで送ってくれた。さすがに悠の家を認識させるのは今の美友紀ちゃんには辛いことだと思い、近くの公園の前で俺は車を降りた。 「ありがとう、美友紀ちゃん」 「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」 俺たちの言葉は、きっと車送ってもらっただけの意味合いじゃなかった。少なくとも俺は送迎のお礼にもう一つを付け加えた。もしかすると、送迎への礼が付け加えたものだったかも知れない。美友紀ちゃんが車を再び走らせ、俺の視界からその車の後姿は消えた。 「もう、今迄みたいなことはなくなるよな・・・・・・」 そう思うと、少し後悔の念が俺の胸の中に宿るが、それは絶対に言葉に、実行にしてはいけないこととして、心の深底に仕舞いこんで鍵を掛けた。明日は休みだから、次に会う時までに俺も自分の中できっちりと整理をつけておかないといけないと思いながら、家に戻った。 家に戻り、一人で夕食をつまらないバラエティー番組を見つめながら済ませ、シャワーを浴びながら湯を張り、悠の帰宅を待って、俺は眠りに就いた。 翌朝俺が起床すると、悠が自宅の電話でどこかに連絡を取っていた。聞くつもりはなかったが、どうやら俺を送っていくために遅刻することを伝えているようだ。もう何度も目の当たりにしている日常風景なのだが、やはり良心にちくりと鈍い痛みが走る。 「いい加減、俺も甘えすぎてるな」 ダイニングのテーブルには既に二人分の健康をきちんと考えている和食の朝食が並んでいる。 ―――いつものことだから。 いつもそう言って、俺が呑気に目覚めて支度をある程度整えると、似たようで飽きの来ないように毎日違うメニューが並んでいる。感謝し足りないのは確かだが、それが多少なりとも負担になっていることを俺は知っている。だがそれは口にしない。それもまた悠には余計な負担になっているからだ。 「さ、食べましょうか」 「おう」 悠が連絡を追え、俺を呼んで朝食の時間が始まる。初めのうちは俺に対する悪戯やらが多かったが、今では箸とスプーンも当たり前のように用意されて、変な茶々もほとんどなくなった。変わりないのは大した会話のないくらいだ。 「今日は、別に俺はバスで行くから良かったんだぞ?」 「良いわよ別に。もう連絡したし」 基本的には俺から言葉を投げなければ静かだ。 「毎回俺のせいで遅れてるんだ。今日は送ったらそのまま仕事行けよ。結構仕事、溜まってるだろ?」 俺が居候していない頃は、今日の分の仕事は自分の労働時間内にきちんと片付けていたが、今は夜間組みに引き継ぐことも幾らか耳に入っている。 「そうね、そうさせてもらおうかしら。帰りは大丈夫?」 「俺は初めておつかいする息子か?」 「似たようなものよ」 俺が何も言わなければ、悠は俺が診察を終えた後に家までまた戻ってくるつもりだったのだろうか。思わず苦笑が漏れてしまう。それを見てか、悠の表情も若干緩んで見えた。 朝食を済ませ、俺たちは家を出て病院へと向かった。その途中で二十四時間営業のスーパーでちょっとした土産の品物を購入して、俺は病院で降り悠は仕事に別れた。 「少しずつ骨癒合が始まってますね。時々痛むことがあるかも知れませんが、回復へ向かっている兆しだと思って耐えて下さい」 いつものような診察で腕の動きやらを見てもらい、自分の骨が次第にゆっくりと快方へ向かっていることに安堵して診察を終え、代金を支払い俺は小児病棟のほうに足を向けた。 エレベーターで上がり病室へ向かっていると、ナースステーションの所に隼人の母親や医師、看護師や他にも栄養士や薬剤師、ケースワーカーのネームプレートをつけた一団が出来ていた。深刻な話かと思っていたが、彼らの表情は比較的穏やかでそれほど深刻な話はしてはいないようだった。 「隼人君、騒いだり、わめいたりはしていないんですか?」 ケースワーカーのプレートをつけた男が隼人と言って、思わず近くの椅子に腰を下ろしテレビを見る振りをして聞き耳を立ててしまった。 「今の所は静かにしてます。先日、絵本を頂いて、ずっとそれに目を向けていますね」 問いに母親が答えた。それは俺たちが持っていたものだろうかと思った。 「絵本か。それもいずれは見れなくなるかもしれないですね」 医師が嘆くように言った言葉に、俺は嫌な汗が背筋に走りそうになったが、一団は至って静かな顔をしている。きっと全員が隼人の容態を理解しているから、絶対にそうならないという希望を抱くことの難しさを感じているのだろう。 「絵本だけじゃなく、隼人君はみんなと会話をすることで想像力を働かせて、きっと私たちが考えているよりも生き生きとしていると思いますよ」 看護師の女性が普段から母親に次いで隼人に接しているから分かる状況を説明していた。 「そうかもしれません。あの子は人が話をしてくれることがすごく楽しみなんだと思います。先日絵本をくださった方が、飛行場のパイロットをなさっていることをあの子に言ったら、いつも以上に口数も多くなって、ずっと話していましたから」 「あはは、そう言えば最近はよくその話題を振ってくるね、隼人君は」 母親と医師の言葉に俺は驚いていた。俺のことを話すとは思っていなかったこともあるが、隼人が俺のことを聞いて少しは元気でいられるということが俺の開いた口を塞がなかった。 「やっぱり、外に出たいんでしょう。隼人君は色々なものを見て感じたい年頃ですからね」 ケースワーカーの男の言葉に、全員が各々に頷いている。それくらいなら俺にも覚えはある。初めて診察に来た時に、帰り際に俺たちを羨ましげで悲しげな眼差しで見つめていた隼人の姿は今でも俺の脳裏から消えることはない。その後も度々隼人は俺が病院の出入り口を出て行く姿をそんな目で見ていた。各階に設けられた待合所の窓からは、登下校する子供も見える。それをただ毎日見ている子供にしてみれば、籠の中の鳥も同然だろう。 「だが、治療が芳しくない今は、仕方ないね」 その言葉で一団に静寂が訪れた。俺も顔を見られないようにその場を立った。俺が立ち上がると臨床心理士のプレートをつけた女性が、隼人の母の心理状態は大丈夫か? やケースワーカーの男が、お父さんは見舞いに来てくれていますか? などの会話も聞こえてきたが、俺はそれを聞くことなくその場を後にしてトイレへ行った。別に用を足したいわけじゃなかった。隼人の母に向けられる質問に、恐らく隼人の見たことのない母の表情を俺も見たくなかった。 「入院、か」 したことのない俺には、隼人の辛さは赤の他人状態で汲んでやることが出来ない。長期入院が必要な隼人の病は、それが強く心のストレスに反映される。俺が知る限り隼人の見舞いには母親しか来ていない。仕事が忙しく、なかなかそうもいかないのだろう。俺も早朝の合間でしか訪れることが出来ない。もし隼人に兄弟姉妹がいるのであれば、そちらの世話で来られないのかもしれない。そうなると子供にとっては唯一頼れる家族との触れ合いがろくに取れず、寂しくなるだろうし、限られた空間での生活の圧迫感も否めないはず。だから、起き上がれる頃はよく窓から外を見ていたのだろうし、俺たちが持ってきた絵本や模型に、いつかきっと、という夢を馳せているのだろう。その辛さを分かってやれない不甲斐無さに悩んでいては、結局俺は何も変わらないままなのだろう。昨夜一つの区切りをつけて、決意もした。だから、考え方を変えて、今の俺に出来ることを悩むべきだろう。そうしなければ、俺は掬いようのない馬鹿じゃないか。 「とりあえず、ここにいても仕方ないな」 袋を片手に俺は病室に向かった。先ほどまでいた医師や母親らは既に解散したのか、仕事に戻っているようだった。 「よっ、隼人」 部屋に入ると隼人は静かに横になっていた。熱があるのか熱冷ましのシートを小さな額につけ、点滴を打っていた。それが抗がん剤なのか、栄養剤なのかは俺には分からない。 「あっ、兄ちゃん」 俺に気づいた隼人の目が俺を見る。いつものことだが、少々違和感があった。 「兄ちゃん・・・・・・?」 この間まではおじちゃんだったのに、兄ちゃんって今呼ばれた。 「うん、兄ちゃん。だって兄ちゃん、パイロットなんでしょ?」 起き上がるまでの力はないようだが、隼人の口調は普通にしようと頑張っているようだ。ただ、その片目は暗闇以外ものを一切捉えることが出来ないと言う事が、俺の気持ちを高めることを虐げるようだった。当たり前に見えていたものが見えなくなるという恐怖や不安。俺には分からないが、大人でも自殺する人間がいるくらいに受けるショックの強さは計り知れないはず。他人には分からない辛さと共に生きるということが隼人には理解できていないのだろう。だから、落ち着いているのか。そう考えたくなる。それ以外は考えたくない。 「何で知ってるんだ?」 母親に聞いたのは知っている。だから敢えてとぼけた。その方が良いような気がした。 「お母さんがいってた。兄ちゃんはこれのパイロットだって」 隼人が指差したところには、様々な空や航空機の写真が張られているコルクボードがあった。その中に以前俺が持ってきたバードフライ機の写真があり、隼人はそれを指していた。俺がそのパイロットだと知ると、呼称がおじちゃんから兄ちゃんに格上げか。子供らしいと頬が緩む。自分の憧れが目の前にいると、キラキラと目が輝く子供の純粋さは眩しいものなんだな。 「すごいね、兄ちゃん」 嘘偽りも何も無い隼人の言葉。ただ心から尊敬している目。それを向けられて嬉しくないはずがない。 「まぁな」 「でも、それじゃ乗れないんでしょ?」 悪気のない無垢な隼人の言葉。ただ何も知らないだけの瞳。健介にはその真っ直ぐな光りが痛く感じられた。 「そうだな、今は隼人と同じだ」 外で自由に遊んだりすることが出来ない隼人と、空を飛べない俺。比べるには値しないかもしれないが、似たようなものだろう。俺にはまだやれることが多いが、隼人はそれすらも制限される。何かしてやれないかと常に頭の中を駆け巡る。 「兄ちゃん」 「ん?」 隼人が絵本を手に取りながら俺を呼んだ。隼人の手にあるのは俺たちが渡した空飛ぶピアノと言う絵本だ。ピアノの音色が聞こえた時に願いを掛けると叶うとか言う内容だったと思う。 「兄ちゃんは、これが本当だったらどうする?」 隼人にしては大人びた言葉に感じられた。絵本というものが作り話だということを理解しているような。 「そうだなぁ、今はこの腕の怪我を治して欲しいって願うかもな」 「じゃないと、飛べないもんね」 俺の返答に隼人の言葉は至って静かなものだった。どこか俺の調子が狂ってしまう。子供ってこんなだったか? 隼人を見て思ったことだ。 「隼人は、何を頼むんだ?」 聞かずとも分かることだ。今の隼人は俺の予想では病気を治して学校に行って友達と遊ぶとかだろう。 「うーんとね、空に絵をかきたいって言うよ」 予想に反して隼人の願いは意外なものだった。 「兄ちゃんは、空に絵、かいたことある?」 空に絵を描いたことがあるか。それはどういうことだろうか。隼人のベッドの周りには色鉛筆やクーピーで様々な絵が描かれている。正直、俺にはそれが何を描いたものなのかはよく分からないが、紙一枚一枚に全体が水色や青で塗られ、そこに様々な絵が描かれている。恐らく空に見立てた青地に絵を描いているのかもしれない。 「こういうのなら、な」 隼人の写真コレクションの中から、一枚を俺は手に取った。それは航空祭で飛行を披露した時のバードフライの編隊飛行の写真だ。ちょうどスモークも出していて、機体を鉛筆に例えればこれも一種の絵描きみたいなものだ。相当な技術を要する難しい絵描き。それが隼人の言う空に絵を描くことと似ているのかは分からない。 「うーん、こんなのじゃないんだ」 隼人はどうやら、俺がそう思っていたこととは違うことを言いたかったらしかった。 「隼人はどんな風に絵を描きたいんだ?」 パイプ椅子に腰を下ろし、写真を元に戻す。 「ぼくね、くもに絵をかくんだ」 隼人が窓から浮かぶ初夏へ移行する雲を眺める。それで何となく隼人の言いたいことが把握できたかもしれない。きっと隼人は俺たちがバードフライで空に線で描くのではなく、雲に色をつけるように絵をかくことを夢見ているのかもしれない。 「雲に色をつけるってことか?」 俺の疑問に隼人は、うんっと絶対に叶えるんだというような眼差しで俺を見てくる。 隼人の言葉に俺は頷くが、それは叶えてやることは出来ない。 雲というものは、言ってしまえば水蒸気が冷えて出来た小さな水の固まりだ。赤や青の光を当てて色をつけたように見せることは可能だ。朝焼けや夕焼けの頃の空を思い出せば、雲は白くはない。彩雲とも呼ばれ、色が付いているように見える。だが、隼人の夢は、紙に鉛筆で絵を描くことと同等だろう。そうなると難しい。不可能というわけではないが、空に浮かんでいる、隼人が今見ているような雲は手を伸ばせば届くような高さにはない。バードフライでもあれほどの高度まで上昇することはないのだ。その雲に色を人工的につけるのは難しい。直接色素成分を散布する方法もあるかも知れないが、それでもきっと染まることはないだろう。色をつけるとなると、雲は空気中の水分が凝結しているもののため、それに色をつけるのではなく、雲になる水に予めにでも色水を含ませる必要があるだろう。それは易々と出来るものじゃない。スプレーをするように色をつけるとしても、水分よりも色素のほうが重いからそのまま地上に落ちるか拡散分解するはずだ。 それに別例として、飛行機雲は空(コン)の(ト)航跡(レール)と呼ばれ、これは高空の冷気に冷やされた航空機から排出される高温・高圧ガスに含まれる水が飛行機雲となる自然現象なのに対して、バードフライが使用するスモークは一種のコントレールだが、それとは区別し、潤滑油の一種を胴体内に設置したオイルタンクからパイプを通し、エンジンのパイプ付近で噴出させ、高温の噴出ガスの熱で煙を吐き出すことで機体がスモークを吐き出しながら空に絵を描くように見せている。だから、スモークでは雲に絵を描くことは出来ない。 何も知らない子供だからそう夢を描ける。だから、それが無理だとか否定する言葉を俺の口は紡ごうとはしない。子供のために嘘を教えるのは良くないという大人もいるかもしれないが、まだ小学校にも通っていないような幼い子供に、現実を突きつけさせること以上に酷なことはないかもしれない。知らせないのも思いやりだ。子供は夢を持って日々の生活で感性を磨いて、大人に成っていくのが一番だろう。何も知らず、何もないからその心は澄んで綺麗なのだ。それを穢すのは罪だろう。 「あんなに大きなくもに、絵をかくってたのしそうだもん」 隼人の目は夢を語る時は、病気なんてなんのそのと言った具合に生き生きとしている。 「そっか。ピアノが来てくれると良いな」 「うんっ」 表情は比較的豊かなのだが、やはり体は病魔に犯されて日々悪化を辿る一方らしい。つぶらな瞳の周りには隈が出来ているし、発熱からか少々顔色も悪い。慢性疲労のような脱力感も見える。 「ねぇ、兄ちゃんは、なんでパイロットになったの?」 隼人が唐突な質問を投げかけてきた。すぐに応えられるかと思ったが、少しばかり記憶を遡るのに時間が掛かった。 「いくつかあるんだけどな、一つは今隼人が空に絵を描きたいって言ったように、俺は空に憧れてたんだ」 隼人が一緒なんだ、とどこか嬉しそうに小さな笑みを浮かべた。それに俺も相槌を打った。だが、それだけでパイロットになるという夢が生まれたわけじゃない。空に憧れるだけなら、様々な職業でも空に関わることが出来る。 「他にも、隼人、お前ブルーインパルス好きだろ?」 「うん」 素直に頷く隼人。 「俺も中学の頃に見た時に好きになって、この仕事に就いたんだ」 いつか将来の自分を思い描いているのだろうか。隼人は色々と質問をしてくる。それに応える時の俺は、傍から見れば子供のように楽しそうに隼人に語っていたかもしれない。自分自身でも、隼人のような子供が将来の後を継いでくれると嬉しいと思い、自分で言うのも何だが、良い顔をしていると思った。好きな話をするというのは、快感に近いものを感じる。それが相手も好きで、知らないことばかりの時に話すというのは、格別のものだ。聞き流されることなく、受け止めてもらえる嬉しさは、大人だろうと子供だろうと関係ない。だから夢中になってしまうこともしばしばだ。 「もう一つは、学校の鉄棒をしてる時だったな」 「てつぼう?」 それがどうして俺がパイロットになった理由と当てはまるのか、隼人には不思議だったのかもしれない。横になりながらも首が少し傾いていた。 「そう。鉄棒だ。隼人は鉄棒はしたことあるか?」 「ううん、ない。でも病院にもあるよ」 外に出られない子供のために、簡単な遊具が置かれているスペースがあった。きっとそこに小さな物があるのだろう。隼人は今はもう自由に院内を歩くこともままならないようだが、俺たちが出会った頃は遊ぶ機会もあったのだろう。 「そっか。鉄棒をするとな、上下が逆さに見えるんだ。そうすると空が地面になって、地面が空に見えるんだ」 飛べない人間が、空に立っていた。そんな気分になれた。漠然とした日常で見えた、小さな光だった。 鉄棒でぶら下がると、上下が逆さまになって普段見慣れたものが全く別物に見える。京都府の天橋立を見る時に股を通してみると、空に掛かる天の橋に見えるように感じるのと同じだ。中学の頃なんて田舎の学校だから、特に夢なんて持つことなくただ毎日遊んで過ごすだけだった。暇つぶしに鉄棒にぶら下がっていると、ちょうど飛行機雲を描きながら行く飛行機が目に入った。紙の上を走る色鉛筆のようで、つい見入って、そのまま力が抜け、地面に顔面から落ちて鼻血が噴出したのを覚えている。 「その時に見た飛行機雲が格好良く見えてな」 それを吐き出す機体を操る人間への憧れに変わったのは、そう長い時間は掛からなかった。 隼人は話に聞入っているのか、静かにしていた。 「隼人はどうして、空に絵を描こうって思うんだ?」 さっき隼人は、空にある雲は大きなキャンバスのようで、思いっきり絵を描きたいと言葉は僅かに違うがそう口にした。隼人ほどの年なら漠然とした夢を持つことは不思議でもなんでもない。思わず微笑むんでしまうような夢を持つ子供もいる。だが、空に浮かぶ雲に絵を描くという夢を持つ子供は、初めて目にした。こういう閉鎖的空間での生活を強いられている子供にしてみれば、どこまでも広がる開放的なものに対する憧れが、そう夢を持たせているのかもしれない。 「たのしそうだし。それにかっこいいじゃん」 ちょっと照れたような笑みで俺に言った。その表情は自信に満ちているように俺には見えた。夢を持つ子供の偉大さ。自分が同じくらいの年齢だった頃のことなんてほとんど記憶にないが、たった一つの夢を、多少悪く言えば執着し、良く言えばいつか開花することを願い温め続ける心の清らかさには、驚かされるものがある。こんなまだ十年もこの世界に誕生して時間が経っていないというのに、他の多くを望むことなく、それを犠牲にしてでも、たった一つだけの思いを貫く強さを持つのは、普通に学校に通い、友達と遊んでいる子供にはないだろうと思う。 「そっか。なぁ隼人。見てみたいか?」 確か悠の話だったか、隼人はまだ曲芸飛行と言うものを知らないと言っていた。写真で見たブルーインパルスに感銘を受けて以来、様々なものを収集し、俺がバードフライのパイロットだと知ると、今まで以上に俺を見る隼人の目には輝きが増していた。宝石が人から人の手に渡るにつれて磨きを増して輝くように、色々な人の話を、夢を通して聞くことで、隼人は新しい研磨士に出会い、より一層新たな輝きを手に入れた原石のようだ。宝石になるにはもっともっと人の手を渡らないといけない。だから次の手に渡るまでは俺の手で隼人という原石に磨きをかけてやりたいと思った。 「なにを?」 「ブルーインパルスみたいな格好良い飛行を」 俺は近くにあった隼人のプラモデルを手に取り、曲芸飛行のように、隼人の頭上で動かす。子供ならよくやることだろう。自分の頭の中で玩具の車や飛行機などが飛んでいるのを想像して動かすと、そういうことでも想像力などがつく。想像する力は人間にはとても大切なものだ。物事の全ては人の空想や妄想、想像から生まれたのだから。 「見れるの?」 「隼人が見たいなら」 叶えてやろうじゃないか。精鋭集団の飛行ほどの技術はないが、それでも隼人には多少ならずとも刺激にもなるだろう。今の俺じゃ自分の腕を見せてやることは出来ないが、それくらいならしてやれるかもしれない。少しでも隼人が快方に向かう術の一つにでもなれば良い。しばらく隼人は何かを考えていると、母親が戻ってきた。 「どうかしたの?」 「あのね、兄ちゃんがみせてくれるって」 母親は隼人の言っている意味が分からないようで、俺を見てきた。 「今ですね、隼人にウチのバードフライの飛行を見させてあげたいと話をしてまして」 一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐにその顔からそんな感情は消え、隼人を静かに見つめた。母親の顔には重たいため息でも出てきそうな哀しさが見て取れた。俺だって隼人の容態のことは聞いている。だからこそ、じゃないだろうか。 「少し、宜しいですか?」 隼人に何かを言うのかと思っていたら、俺が呼ばれた。ここじゃちょっと、と言葉を濁し、俺を廊下に連れ出した。隼人はすっかりその気なのか、顔色が微かに本来の明るさを取り戻したように見えた。 「奥田さん」 隼人には、少し待っててねと柔らかく微笑んでいたが、廊下に出た途端に先ほどのような優しい温もりが消え、どこか俺を敵視するような少々険しい目で見てくる。女性と言うより母親の目と言ったほうがしっくり来た。 「以前、お話しましたよね?」 有無を言わさない雰囲気を纏う隼人の母親に、正直俺は睨まれた蛙のような気分を覚えた。だが、その言葉の指す過去の言葉は覚えている。だから、俺は隼人にその小さな夢がいつか必ず叶うということを教えて、見せてやりたいと思った。症状の悪化は着実に進行しているのも承知の上で。隼人の母親にも夢を見せ続けてあげてと頼まれたのだから、ただ見せるだけでなく隼人の全てで感じてもらう方が良いだろう。そこまでの障害が多いことは分かっている。 「今の隼人があんなに明るい顔をしたのは久しぶりでした。ここ最近は微熱と倦怠感もずっとあって、時々癇癪(かんしゃく)も起こして、自分自身をコントロール出来ない時が多かったので、あの笑顔は本当に嬉しかったです」 微かに表情が隼人に見せていた時のものに戻ってきたようだ。やはり自分の子供が苦しんでいるのを見るのは辛いだろう。俺の考えは間違ってはいないようだ。ただ実行に移すとなるとまた別問題で、隼人の母親もそれを危惧しているのだろう。 「大丈夫です。俺も出来る限りのことは何でもしますから」 もはやパイロットだった頃の鼻の高さは折れた。折れてしまえば開き直りが大事だ。初志貫徹とまではいかずとも、積み上げていけば良いだけのこと。どうせ腕が治らなければ仕事でも雑用の毎日だ。精神的な打たれ強さも前よりは身についているはず。医師の説得には耐えられるくらいはある自信がある。呆れさせて見せる馬鹿なプライドを持つ事だって厭わない気分だ。 「そのことについては、感謝してもしきれません。ですが、その話は隼人には二度としないで下さい」 「えっ・・・・・・?」 俯きがちな母親から聞こえてきた小さな呟きのような、全否定の言葉。廊下には多くの子供や医療従事者や家族で賑わっている。その中で聞こえてきた一言は、周囲の喧騒を掻き消した。ほんの数秒前まで良い感じに思っていたのだが、一瞬でそれが打ち消された。 「ど、どうして、ですか・・・・・・?」 動揺を隠し切れなかったか、言葉が流暢に出てこなかった。 「隼人は左目を失明しています」 「それは、お聞きました」 本当がどうか信じられなかったが、隼人の目が時折不自然に揺れて目の動きを制御出来ないのか、あちこちに左目が動いているのを見てしまった。先ほどの話し合いでも医師が絵本をいつまで見られることかなどと、右目も失明する恐れがあることを危惧していた。あまり考えたくはなかったが、ぶっちゃけてしまえば本当は夢を見せるという名目上で、見ることの出来る今のうちに隼人には、空に絵を描くという夢に似た現実があるのだと写真や映像としてではなく、光りを見ることの出来る片目だけでも見て、記憶に残していてもらいたいと思うからだ。きっと治る。自分にそう言い聞かせているが、心の深底では認めたくないが隼人を蝕む現実を拒みたくても拒もうとしない無意識の自分がいるのも分かっている。表面で繕っていても内面ではそんなことを考えていない最低な自分がいる。だからこそなのかもしれない。隼人への救いになるかも知れないことを俺がしてやることで、俺自身が救いを求めている。だから、隼人の母親にそれをしないで欲しいと言われて、思っていた以上にうろたえてしまった。 「視神経まで転移しているということは、どういうことか分かりますか?」 ただ聞いてくるだけじゃない物言い。俺に問うというよりも、本当の現実を突きつけようとしているように聞こえてしまう。俺は言葉が出せなかった。俺よりも頭一つ分以上小柄な女性だというのに、放つ空気が俺を易々と凌駕している。それに呑まれてしまう。包み込むようなものじゃない。掴まれた感じで言葉が絞り出せない。 「脳にも転移があるの。治験でワクチンが出来るまでは、私たちはあの子をここから出すわけにはいかないのよ」 「そんな、に・・・・・・」 親として子供の夢を叶えてやりたいと思っていても、その代償として差し出さねばならない命の重さを天秤には掛けられないのだということは分かる。夢のために、最悪命の全てを差し出すことになるかもしれない現実を考えると、踏み込むことが出来ないだろう。夢あっての命を好きに望む親はいないだろう。隼人の母も命あっての夢をとるから俺にそう言ったのだろう。 「治験は、新薬の有効性と安全性を確認する制度で、隼人の腫瘍の一部からワクチンを作ってもらうの。ここじゃそれが出来ないから、時間が掛かるの」 申し込んでいることは聞いていたが、そういうことだということは初めて理解した。そこで引き下がれば済む話なのだろうが、俺は本当に我が侭な子供なのだろう。 「ですが、隼人は今でも右目の視力が落ちているかもしれないんですよね? 見えなくなった時の隼人の想いはどうするんですか?」 あれだけ空や雲への思い。そこに絵を描くということへの強い夢。俺を慕ってくれて、見てみたいと強く輝いたつぶらな瞳。それを俺は失わせたくない。見られる内にその目に焼き付けて欲しいから。 「今の状態での外出は、隼人を悪化させるだけ。親としてそんなことさせられるわけないでしょ!」 溜め込んでいたものを吐き出すような突然の強い口調だった。その目は今にも何だが溢れ出しそうなほど悲しみや辛さを堪えている目だった。 「夢は回復すればいくらでも見られるのよ。その前に死んだら終わりなの。あなたにそれが分かる? 家族を失うかもしれない辛さをあなたは分かるの? あの子は私の息子なの、失わせたくなんてないの。それを守ることをあなたに理解できるの?」 途中から俺に対する強い問いというよりは、母の嘆きにも聞こえてしまうほど、隼人の母親は我が子を思い、それに伴う息子の夢を淡く見せるだけで良いのだと俺に理解させようと今まで堪えていたものを溢れ出させた自暴自棄のような感情の爆発。そう言われると、俺に反論することは出来ないし、許されもしないだろう。どれくらいの間、医師の話や自分たちで調べた症状から、自分の息子のことに絶望的になったり、自暴自棄になったりと、慟哭になることを必死で堪えてきたのだろう。もう収まりきらないほどの悲しみや嘆きを。 「ごめんなさい。今日はもうお引取り下さい」 余計なことまで言ってしまったと、俺に謝罪すると俺が謝罪する間を与えることなく病室へと戻っていった。俺はその場を動くことが出来ず、行き場のない憤りと自分のしてしまったことに対する憤慨と隼人の夢を叶えると豪語しておきながら、何も出来ない不甲斐無さを抱えていた。 「どうかしましたか?」 立ち尽くしている俺を不思議そうに看護師の女の子が顔を覗いてきた。我に戻り、愛想笑いを浮かべながら俺はその場を後にした。エレベーターに乗り込む際、一度隼人の病室を横目で見たが、先ほどの女の子が俺に首を傾げているだけだった。 エレベーターに乗り込むと、骨折している左の掌がガッと拳になっているのに気づいた。それがどうしてなのか分からない。自分の行おうとしていたことを否定されたからか。隼人に夢を見させるだけで触れされることが出来ないことか。隼人の家族の抱える問題を軽視しすぎていたことか。考えればキリがなく俺の中に自責と疑問が駆け巡る。ギプス越しに伝わる鈍痛も気にならないくらい、今の俺は動揺しているのかもしれない。 病院を後にして、タクシーを呼ぶ気にもバスに乗る気にもなれず、少々距離はあるが俺は歩いた。俺の鼻に排気が気持ちの空回りのように纏わりついて気持ち悪かった。 「俺が、悪いんだよな」 喧騒に満ちた中を歩いていると、自分が一人なのだと良く分かる。耳を澄ませば誰の声かも分からない人の声や工事の騒音、自動車のエンジン音、昼の町の中には静寂はない。その中を一人で歩くと、静かな中で一人というよりも孤独感を感じる不思議さがある。たまに俺に向けられる視線。怪我をしているのがそんなに珍しいか? そんなことを問いただしたくなるような俺を哀れむ視線に無性に腹が立つ。それが自分のせいだと分かっているから余計に堪えるのに必死になる。 「ほんと、子供だな」 俺は平々凡々と生きてきた。それを自慢することも蔑むこともするつもりはない。多くの人間が当たり前のことであり、一部には羨ましいと思われること。細かく人の空気を読み、当たり前のように自然と人の気持ちを汲む悠。真っ直ぐに信じた道を歩み、一生懸命に自分と向き合う美友紀ちゃん。いつも俺を茶化し、馬鹿にしながらもその心に大切な人を失った傷を誰にも見せようとしない智史。あらゆる角度から物事を見通し、叱責や励ましなど自分の意見を交えつつ他人を思いやる香田先輩。何も言わずにただ黙って見届けつつも、静かに背を押す藤沢上官。そして、まだ五年程しか生きていないにも関わらず、大きくしっかりとした夢を持ち、周りを気遣いつつ自分と闘う隼人。 俺の周りには自分をきちんと確立し、その意思を尊重し日々を過ごす人間が溢れている。自分というものを理解しているから他人へ気を向ける余裕があるのだろう。自分のことにも精一杯で、一度の大きな挫折に負け、甘えて、それでも格好をつけ続けている自分。そんな俺が他人に気を遣う前に、まずは自分自身を強くしなければならないだろう。 無意識に空へとため息が漏れる。太陽光を受けてギラッと胴体と翼を輝かせて飛び去っていく旅客機。数百人の命を一度に請け負う大手の旅客パイロットの精神・身体的ストレスは鍛えていなければとてもじゃないが耐えられない仕事だろう。それに比べれば少人数しか相手にしない今の俺なんて比べるだけ無駄なものだろう。自嘲自虐が止まらない。分かっているから分かっていない。そんなところだろうな。 歩いて三十分ほどして家に着いた。自分の家じゃないが、すっかり慣れてしまい合鍵で部屋に入る。女性の部屋ならではの甘く優しい香りの中に、男の匂いが微かにする。それだけ俺がここに住み着いてしまった何よりの証か。時計の音くらいしかまともな音はない。携帯をベッドに放り、上着も同様に投げる。日差しに照らされた中で埃が立ち昇る。それを吸うのは嫌に思うが、どうせいつも吸っているのだと思うと気にならない。 「俺に出来ることって何だよ・・・・・・」 前に智史が言ったことが頭を過ぎる。今の俺には、確かに何も考えずに流れて来る部品を淡々と組み上げる流れ作業の工場での仕事のほうが向いているかもしれない。何で俺はバードフライ飛行場に入社し、憧れだった曲芸(バー)飛行(ド)チーム(フライ)の一員にまで上り詰めたのか。一人になるとそんなことばかり考えてしまい、気がつけば玄関の開く音が聞こえる時間だった。 「何よ、健介いないの?」 いつの間に日が沈んだのだろう。奥から次々と明かりが差し込んでくる。買い物袋のザサザサというビニルの擦れる音と共に、俺の視界も明るくなった。 「あっ、寝てた?」 目を開けると、悠が俺を覗き込んでいた。下ろした髪が表情を分かりにくくさせているが、具合でも悪いの? と今にも訊ねてきそうな顔だと思った。 「いや、起きてた。ずっと」 一睡もしていないが、ベッドに体を横たえていた。特に何をするでもない。陽があるうちに風呂掃除をして以来、ずっとこうしていた。何をする気力も起きない。ずっと考えていた。 「ご飯作るから、それまでゆっくりしてなさい」 一人で何かを納得した悠は、それだけ言い残すとリビングのほうへと戻っていった。夕食の支度を始めたようで袋を開ける音や水の音、炎の音、まな板を走る包丁の音などがずっと横になったままの俺の耳に聞こえてくる。 「そういえば、昼飯食ってねぇな」 昼前に帰ってきて以来、昼食のことなんて頭になく、ただ呆然としていた。仄かに香る夕飯の香りに腹の虫が空腹を訴えてきた。ここ最近は三食摂っていたから一食抜いただけでどれだけ空腹になっていたかを思い知った。色々なことを考えていても空腹はどうしようもない。悠の呼ぶ声に体を起こし、ダイニングに行くと悠にも聞こえる程の腹の虫の鳴き声が響いた。 「お昼は?」 「食ってない。気がついたらお前が帰ってきてた」 正直に話すと、悠は呆れたような声を漏らした。 「何してたのよ?」 「考え事」 一食抜かすと悠の夕食の美味さに少々驚いた。これをいつも食っていたはずなのに、味覚がいつもの何倍も鋭くなっているように感じられる。当たり前だということが日頃の積み重ねの結果だという美友紀ちゃんの言葉が浮かんだ。言われた時には良く分からなかったが、今それを実感した気分だ。 「なぁ、悠」 「ん? 何?」 何となくだが、美友紀ちゃんの言葉で俺がどうしたいのか、智史の俺に言った言葉が分かりそうな気がした。だから悠に俺は全部話した。一人で何時間も考えて出せなかった答え。結局甘えなのだろう。それで良い。一人じゃ答えを出せそうにないから誰かに頼る。それが俺なのだから開き直ろう。 「俺って、隼人に何をしてやれると思う?」 俺の質問は素っ頓狂なものだっただろうか。悠がポカンと俺を見ている。こっちは至って真剣な悩みなのだが。 「どうしたのよ、急に?」 「いや、それがな―――・・・・・・」 今日隼人の母親に言われたことをもう一度自分で確認するように悠に話した。初めは呆気に取られた顔をしていたが、やがて悠の表情は固くなった。俺の話が進むにつれて真剣な眼差しというよりは、呆れてものも言えないと言った感じだろうか。自分で話していて次第に罪悪感にも似たものを、情けなさを感じてくる。 「あんた、馬鹿でしょ? というか馬鹿よね」 決められた。自覚は薄々していたが他人に言われるのは結構、こう、何と言うか、くるな。痛い。 「馬鹿馬鹿言うな。これでも今日はずっと考えてたんだぞ」 「それで答えが出ないで、私に聞いた。馬鹿以外の何ものでもないじゃない」 悠が明らかに俺にむけてため息をついた。自分のため息というものには時として哀愁も自覚するが、他人のため息というものは耳にするのも目にするもの良い気分ではない。時として腹立たしさも感じてしまうものだ。本人は悩んで漏らしたものだとしても、その悩みや不安を知らない他人からすれば正直面倒なものだ。今まさに悠の表情がそれを表している。 「うるせぇ。俺だって散々悩んだでんだよ。すぐに答えが出せるなら出してるっての」 その一言に悠は再び呆れたように盛大なため息を俺に向けてきた。少々癪に障るが俺が蒔いた種のせいだから堪える。 「あのねぇ、あんたは隼人君のことしか頭にないから、お母さんにそう言われたのよ」 「どういうことだよ?」 隼人の事を考えて何が悪いというのか。病気で苦しんでいる子供と出会ったのだから、その子が温め続けている夢を見せるだけでなく、その肌全てで感じさせたいと思うのは悪いことだと言うのか。隼人の母親は俺にそれをしないで欲しいと、まだ隼人にしてやれる治療の術がある今は、夢を聞いて共感してやるだけで良いと断言されて、俺は拒否されたのだから。治療する術がなくなれば夢を肌で感じさせることを認めるという風に捉えられるその言葉に、俺は憤りを感じる。隼人の病気は刻一刻としてその小さな体を蝕んでいる。その治療の術があるうちは我慢することも厭わないが、だが隼人の場合はそうはいかないだろう。隼人の夢では、恐らく最も重要なものの一つである目で、光りを見ることが出来なくなり、もう一つもその見渡せる範囲を狭めている。成す術がなくなるということは、その残された一つの光りも見ることが出来なくなることじゃないのか。そうなってからでは俺が見せてやりたい夢は意味を成さない。感じるだけでは空に絵を描くことは出来ない。その目で見ることが何よりの夢。紙の上でのことなら感触を感じることが出来る。だが、それが隼人の場合は空に浮かぶ雲が舞台。感触だけでは分からない。感覚も大事だが、その手で掴むことが不可能に近い分、目と言うものの重要性が必要不可欠なのだ。だから俺は俺なりに、前に隼人の母親に言われた通りに隼人に光りを見ることの出来るうちに、本物を見せてやりたいと思った。手遅れでは永遠にその夢が感じるだけで見ることが出来ない。幼い子供の夢だから、時間が経てば別の夢を持つことだって分かる。だが、強い思いを押さえ込ませてまで夢を変えさせられることには、俺には納得出来ない。 「あんたは今までずっと幸せに、何の問題もなく今日まで生きてるでしょ?」 その腕のことを除いて、と付け加えてくる。俺は正直に頷いた。 「でもね、入院ってものが入ると、家族が壊れることもあるのよ。分かる?」 悠は子供の頃に入院をしている。だから、想像のことではなく事実を交えて口にしている。説得力がないわけがない。 「あんたの場合は、隼人君が自分一人だけで病気と闘っていると思ってる。だから、馬鹿なのよ」 言い返したい悔しさがあるが、俺の中の認識は悠の言う通りだ。 「大人が入院するのと、子供が入院するのは意味が全く違うのよ。大人なら自立していれば特にあんたみたいな独り身なら大して問題は起こらないでしょ?」 仕事や入院治療費などの支障は否めないが、生活の保障はされたも同然だろう。入院中は衣もあれば、食もある。住だって問題はない。確かに俺が今入院しても悠の家に居候になっているのと大差はないだろう。 「でもね、子供はそうもいかないの。もちろん病気と闘う辛さはその子にしか分からないことよ。でも辛いのはその子だけじゃない。家族にだって当たり前だった日常を送れなくなるのよ」 「当たり前の日常・・・・・・・・・」 「お母さんは連日病院で我が子に付き添うから、家事が滞りなくこなせなくなる。病院に寝泊りをするなら尚のこと。毎日毎日家事をこなす主婦って、あんたが思っているよりもずっと大変なのよ。午前中に掃除洗濯、食事の支度を済ませて病院に行く。それから消灯時間まで付き添って帰宅して、残った家事をこなす。数日なら耐えられるけど、それが長期入院を余儀なくされる隼人君のような病気だったりすれば、子供もともかく、母親自身の疲労が蓄積する。そして、それが時には夫や兄弟姉妹にもしわ寄せが行くこともあるわ。中高生くらいの子供なら切り抜けられるけど、隼人君みたいな子供を持つと、その兄弟は同年代の子が多いの。そんな子供はまだ親、特にお母さんを必要としているの。そのしわ寄せが母親から来れば、子供の精神状態も乱れる。お父さんが常日頃から家事や育児にサポートしてくれているならまだしも、出張なんかで不在になることが多いと、それがさらに悪化を促すの。入院している子供のストレスだって大きいけど、その命を守るために背負う家族の負担は、夫婦間に軋轢を生んだり、親子の関係も崩れることがある。一人の子供が病気になることの影響の大きさは、実際に経験した人間にしか分からないのよ」 悠は俺が口を挟む間も設けることなく、一気に言った。 「それを隼人君に感じさせまいとする思いも大きいの。家族の心は必ず不安定になる。親にしてみれば代わってあげたいって誰もが思うわよ。だから、親も怖いのよ。自分たちが強くないと、子供にもすぐに影響する。子供は大人に比べて何も知らないし、純粋だから親が子供に弱みを少しでも見せると思うわけよ」 「自分のせいで、皆が辛い思いをしているって責める、か」 「でも私もそうだったけど、それで済むなら良いほうよ。中には病気になった自分が悪い。自分がこうならなければ家族は元気にいられるのに。自分は悪い子だ、要らない子なんだって思う子供だって多いんだから」 本当は、家族はただ治ってまた元気に走り回って欲しいって思っているだけなのにね、と悠は嘆くように、過去の自分を悔いるように言った。俺には分からない領域の話にも聞こえるが、理解出来ないわけじゃない。隼人を見て、隼人の母親が辛そうに俺を責めたことを悠の話に重ねれば、確信には至らないが想像くらいは出来る。 「だから、隼人君のお母さんがあんたにそう言ったのも分からないでもないわ。ウチも私のせいで似たようなことがあったし。親だって子だって一人の人間だもん。いつまで続くか分からない入院生活に伴うストレスは堪えるのに限界がいつかは来るもの。あんたが悪いとは言わないわ。でもね、隼人君のご家族の思いは、比較出来るものじゃないのよ」 一般入院と小児入院の大きな違い。強いストレスにさらされる子供の心を支えること、家族の辛さを理解し、それをサポートすることも小児医療の大きな役割だと言えるのだろう。その中で常時接している親のほかに医師や看護師が子供の心の状態を見つめ、隼人のような幼い子供であれば、遊びを通して成長を支える保育士や心理状態を観察し、カウンセリングする臨床心理士、中でも親にとって子供の状態の他にも経済的な悩みや医師に直接言えない不満や質問、子供の通う学校等との連絡などあらゆる悩みを聞いてくれるケースワーカーのサポートが必要となり、その全てを一つのまとまりにしたトータルケアの重要性もまた必要不可欠となっているのだろう。 「でも、それじゃ隼人の夢はどうなるんだよ?」 ただの駄々でしかないことは分かった。俺は隼人の家族じゃない。俺の話は隼人の家族にすれば無神経にも思えることだってことも、今の話で理解しないわけにはいかないだろう。 「それに関しては、私はあんたの考えは否定しないわ。むしろ私も賛成しても良いかなって思ってる」 きっと悠に一蹴されるだろうと思っていたが、意外な答えが悠の口から聞こえた。 「もちろん、馬鹿な考えだって事も分かってるわ。あんな状態で日に日に悪化している隼人君を病院外に連れ出そうなんてことは簡単に出来るものじゃないでしょうね」 それを踏まえて俺の考えは拒否された。 「この仕事をしていると、隼人君の気持ちも分かるのよね」 いつもは俺の考えを否定して、新たな妥協案を出してくる悠が珍しく俺の意見に同調している。 「でも、隼人の母親はそれを望まなかった。それじゃあどうしようもないだろ?」 意外な事態に内心は一瞬別の意味でうろたえたが、話題は一つとして何も変わっていないから表面は変わりない事実へと向き直す。隼人には喜んでもらえたことだとしても、両親の判断や医師たちがそれを否定すれば、俺たちに出る幕はなくなる。それだけ俺たちと隼人を繋ぐ繋がりは薄いものだと、改めずとも認めなければならないということだ。 「ダメだって言われて、はいそうですか、であんたは諦めるの?」 悠は見下すような眼差しと箸を持つ手を俺に向けてくる。箸で俺を真っ直ぐに指さない辺りはマナーを守っているのだろうか。 「プロや家族が相手じゃ、俺たちにどうすることが出来るってんだよ」 越えられない壁のごとく立ちはだかる問題は、俺には超えることも崩すことも出来る力を持つ資格なんてないってのに。あの時反論の一つでも出来ていれば、それを盾に遮二無二に突き進んでいたかもしれない。だが、我が子の命を守るために奮闘する親を前に、それはただの屁理屈の繰り返しで、隼人の命が助かるのであれば俺だって助かって欲しいと思う。だから、立ち止まってしまう。 「前に智史の話をしたでしょ?」 「事故のことだろ?」 突然斜め方向にずれる話題に戸惑う。 「その時、智史とどんな話をしたのかは分からないけど、何か言われたんじゃないの?」 思い返す俺に、悠は全てを初めから知っているような口調で俺の答えを待っている。確か智史の姉と子供はウチの航空祭へ向かう最中の事故だった言った。そして、悠の話なども合わせて、智史の姉の子供は智史の演技を楽しみにしていた。あの航空祭の時、智史は事情をまだ知らず、飛行演目終了後に慌てて飛行場を後にしてそれからしばらく休んだ。詳しい理由を問う暇もなく俺も仕事に追われ、そのことをすっかり忘れていた。 「子供が元気にいられる理由がどうだとかを言われたと思う」 最後に俺に聞いてきて、俺はそれに応えることが出来ないまま結局そのままで流れた。 「今のあんたにそれを改めて聞いても答えられる? それとも無理?」 悠が慈愛に満ちたような目で俺を見てきた。いつの間にか俺たちの夕食を摂る手は止まり、悠の温かい料理から熱がどんどん冷めていっていた。 「あー、えっと・・・・・・」 改めて問われても、答えが出せなかった。不甲斐無いが、俺の頭に浮かんできた答えは全て智史に問われた時に浮かんだものと同じだった。 「本当に、あんたは馬鹿ね」 呆笑を浮かべる悠に、俺はいじけるように目の前のおかずに箸を行ったり来たりさせた。行儀が悪いのは分かっているが自分自身の考えの浅さに呆れていたのもあるかもしれない。 「健介、その言葉に隼人君を重ねてみなさい」
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