「奥田さん」 食堂に行こうとしたら、ばったり美友紀ちゃんに出くわした。思わず先ほどの心の中での決意が揺らいでしまうような笑みを美友紀ちゃんは浮かべている。 「み、美友紀ちゃんも、昼?」 「はい、ご一緒しませんか?」 昨日はいきなり俺の前から姿をくらませたというのに、今の美友紀ちゃんは少々顔が赤いが、楽しそうにしている。何というか、こっちが恥ずかしいというか調子が狂ってしまう。折角の決意が水に落ちた雫のように波打って消えていくかのようだ。 「何にする?」 折角だから、ここは俺が持つことにして、空いているテーブルに腰掛けた。 「何か、昨日とは違うね?」 「そうですか? そんなことないと思いますけど」 そう言いながら楽しそうに昼食を取る美友紀ちゃんに、俺の良心に小さな棘が言葉を交わす度に刺さるような痛みが走る。 「昨日はいきなりでごめんなさい」 「いや、別にそれは良いんだけど」 苦笑する美友紀ちゃんに、俺はきっと別の意味を含んだ苦笑で返した。 「いきなりだったから、ちょっと驚いたけど」 俺の言葉に再び恥ずかしそうに微笑む彼女が眩しい。憧れだとかじゃなく、今の俺の決意が後数時間後にはその顔から笑みを奪うかもしれないと思っているからだろうか。 俺自身、昔から色恋沙汰よりは夢を追ってきたから、それほど経験が多いわけじゃない。慣れた奴に言わせれば青いだの、小便臭いだの言われるかもしれないが、俺にとってはそういう括りでいられるものじゃない。そんな俺でも分かるくらい、美友紀ちゃんも同じ空気がする。だから、その笑顔が眩しい。 「いきなりじゃ、ない、ですよ・・・・・・」 美友紀ちゃんが不意に真顔に戻った。正直、漫画などじゃベタな展開だなと、よく目にするパターンだとどこか客観視する自分がいるのも確かだ。この後の事も恐らくは俺の予想に反しない結果になることも見える。だが、今それを俺が成そうとしているとあっては、少々気が重い。少々じゃないな、かなりだ。 美友紀ちゃんの気持ちは薄々ながら、微かに感じていた。だから、周囲には鈍感だとか言われていたが、俺自身がそういう気持ちになるよりも仕事に打ち込んでいたため、気を紛らわせるように直視しないようにしていたところもある。今思えば、それがいけなかったのかもしれない。初めから分かりやすい態度で接していれば、今頃は次のことで苦悩していたのかもしれないし、仕事に張り切っていたかもしれない。そんな平行世界のことを考えたところで、抜け出すことなど不可能なのだから、受け入れるしかないのも分かっている。 「あのさ、美友紀ちゃん」 一瞬美友紀ちゃんの目が反応した。怯える子犬のような表情を垣間見せた気もしたが、すぐにいつもの美友紀ちゃんらしい顔に戻った。 「仕事終わったら、ちょっと良いかな?」 その言葉の真意が何を指すのか美友紀ちゃんも分かっているからか、頷いた。 「えっ?」 と思ったのは、俺だけだった。美友紀ちゃんは静かに首を振って頷いた。横に。 「もしかして、先約あり?」 「そうじゃないです。答えは分かってますから、今は聞きたくないです」 真剣な眼差しで、初めから俺がどう答えるのか分かっていたようで、俺の答えへの受け取りを拒否した。 「今は、私もまだまだだって分かってます。奥田さんの理想には到底及ばないことも。だから、待って下さい」 「えっと・・・・・・美友紀ちゃん?」 予想して考えていた道筋から逸れていく。他の道を考えていなかっただけに、戸惑いが隠せない。 「きっと奥田さんに気に入ってもらえるようになるので、それまで返事は待って下さい」 お願いします、と頭まで下げられてしまった。先ほどから男の目が、いくつか食事を摂る振りをしながらこちらをチラ見している。中には隠すことすらなくガン見とでもいうべきか、視線だけこちらに向けて、他は昼食に夢中になっている奴もいる。 「あ、えっと、うん」 勢いに負けたというか、流れに流されたというか、気がついた時にはそう答えていた。 「ありがとうございます。きっと奥田さんにも満足していただける女になりますから」 こう言う所で言う言葉じゃない気がする。背筋に感じる冷たいものが物語っている。 「うん・・・・・・」 美友紀ちゃんはいつもの笑顔を浮かべて昼食を済ませて仕事へと戻っていった。俺は一服しにいつものように先ほど先輩といた屋上に繰り出した。 『健介、お前な・・・・・・』 『いや、俺はちゃんと言おうとしたんですけど、何でかこうなっちゃったわけでして・・・・・・』 その途中で偶々先輩も近くで昼食を取っていたようで、始終目の当たりにして食べ終わった俺を引き止め止めがっちりと肩を組んで、ネチネチとしばらく苦情を受けたため、その一服はいつもの数倍美味く感じた。 「これで良かったのか・・・・・・?」 結果から言えば、曖昧な俺の対応が招いた自業自得の結果だ。それは否定しない。だが、俺はそう強くないから、美友紀ちゃんの悲しげな表情を見たくないと言う衝動に駆られて、結局は先延ばしにして、余計に美友紀ちゃんにひどいことをした。だが、言い訳かもしれないが、時間を置けば今の俺にとってのIf≠ナ、そしてこれからの美友紀ちゃんにとってのSurely≠ェ現実になるかもしれない可能性を残したという点では、俺はそこまで悪いことをした気分にはならない。それが叶うかは俺には分からない。先輩にはっきり言えないのも、女性は変われば変わってしまうものだからだ。 「しばらく、休んで来い」 手すりに寄りかかって一服していると、下のほうから少々ドスの混じったような声が聞こえた。大浪整備総括長の声だとすぐに分かった。そして、俺が下を見た時に大浪さんの言葉が向けられた相手が意外で少々驚いた。俺は半ば駆け足で外へと続く別階段で下りていった。 「何だ? いつもなら今頃は後輩に激を飛ばしているくせに」 俺が階段を下りてその人物を見つけるのに時間はかからなかった。何となくいつもそれほど人気のないベンチにいる気がしたから、そこへ向かえば案の定一人でお茶を手に座っていた。 「何よ。あんたこそ仕事は良いわけ?」 「俺はある程度片付けたからな」 昨日の分は。今日の分は溜まってろくに消化していないんだけどな。俺の軽い言葉に、そう・・・と頷くとだんまりを決め込んだように、喋らなくなった。口数が少ないからいつものことだと思うが、気が滅入っていることくらい大浪整備総括長との会話を聞いた瞬間に分かっていた。 「お前も、隼人のこと気にしてたんだな」 車を降りた時にはいつもの悠の顔をしていたから、仕事へのスイッチが入ったのだろうと思ったが、どうやら思い過ごしだったらしい。結局は俺と同じことを考えて、身が入らず、俺は雑用だから多少の気の緩みは良いが、整備士である悠には許されることじゃない。バードフライの機付長ともあれば、ましてやのことだ。 「割り切ってたつもりなんだけど、ふとした時に浮かんでくるのよ」 素直に弱音を吐く辺り、今回は相当のようだ。さすがは大浪総括長。きっと他のスタッフは気づいてはいないだろう。ポーカーフェイスをさせれば余程の人間じゃなければ気づかれることのない奴なのだから。 「さすがのお前でも、揺らぐことがあるんだな」 少々冗談を交えて言ったつもりだが、悠をさらに落ち込ませたみたいだ。 「・・・・・・思い違いをしすぎよ」 こいつには冗談が通じない。いつもなら軽く受け流すことすらも、今は毒にしかなっていないようだ。あまり人前で弱い自分を見せない悠だから、俺も戸惑う。昔は何度かそんな顔を見たことがあるが、ここ数年は久しぶりのことで懐かしくもあり、昔は俺がどんなことをしていたのかも思い出せず、目の前の女一人にかける言葉が見つからないことへの困惑と焦りが次第に募ってくる。 「悠、ちょっと待ってろ」 特にこいつを励ませるような妙案は思いつかない。ただ、こういう時に俺に出来るのはこんなことくらいだ。俺は悠に待つように言うと、駆けた。腕に伝わる振動が鈍痛を引き起こすが、それくらいは耐えるべきだろう。悠が不思議そうに見ていたが、俺はそれを背に受けながら急いだ。 「お姐さん、いつもの二つ。一つは餡子たっぷり目で」 俺は食堂に行くと、食券を買うのが普通だが、おばちゃんに何か頼む時に使う常套句で声をかける。 「おや、どうしたんだい? こんな時間に」 お姐さんと呼べば、おばちゃんたちは気を良くしてくれる。向こうも常套句だと分かっていて俺を息子のように可愛がる。だから、俺はそれに甘える。 「なるべく急いで。ちょっと訳ありでさ。特別甘いの頂戴」 俺が急かすように言うと、見透かしたようにおばちゃんがにんまりと含み笑みを浮かべて、奥の同僚に俺の注文を言った。 「何したんだい? 女の子かい?」 近所のおしゃべりおばちゃんみたいな感じで耳打ちをするような小声で話しかけてくる。 「いや、えっと、まぁ・・・・・・」 期待するようなことはないんだが、おばちゃんの言う通り相手は悠だ。 「悠ちゃんね。あんた何したの?」 俺が曖昧に受け流すと、核心を突いてきた。鋭すぎ。恐ぇよ。 「いや、俺は何もしてないですって。ただ気落ちしてるから・・・・・・」 俺が一通り事情を話すと、ははーん、と楽しい話じゃないのに、かなり楽しそうに俺を見てくる。食堂のおばちゃんたちはここの飛行場で働く人間の過半数を食べさせているだけあって、その力は意外と大きい。故に俺のこと、もといパイロットたちのことは我が子のように、要らぬ話にまで精通していたりするところがある。俺が悠の家に居候させてもらっている事も。一部の人間にしか話していないのに、誰かの告げ口でとっくの昔に知られている。だからおばちゃんたちにとって、今の俺のことなど大方想像がついているのだろう。 「そりゃ、珍しいね。あの子は強い子なのにねぇ」 「ですよね」 相槌を打ったつもりだったが、おばちゃんに額を叩かれた。 「そこで頷いちゃ、ダメよぉ。悠ちゃんは女の子なんだから、そんなわけないでしょ」 俺を試したのだろうか。おばちゃんはこりゃ、あの子も苦労するわ、と俺を呆れたように今度は見てきた。 「はい、お待ち。さっさと持っていってあげなさい」 出来上がった団子をおばちゃんが持ってきた。いつもは直接串だけもらうのだが、今日は箱に入っていた。 「多すぎないっすか?」 「これが良いんだよ。ついでにお茶も持っていき」 支払いを済ませて、食堂を後にしたらその背後から、男を見せるんだよ、とお節介な一言を向けてきた。悪い人たちじゃないから憎めない。でも、人前でそういう事を言うのは止めてもらいたい。何事かと俺を見る同僚に羞恥心が高まる。女性というものはどうしてあれくらいの年代になると、急に強くなるのだろうか。中にはそうじゃない人もいるが、ここで働いている人は、皆、気が強くてがさつそうに見えて繊細なところもあって、憎めない。きっと俺たちくらいの年代は皆が子供なのだろうな。入社当時は照れやらで逃げるようになるべく目を合わせないようにしてきたが、今は親が実家から出てきて、友人に会っている時の気分もするが、頼りになるから昔ほどは嫌ではなかった。 「悪いな、待たせた」 俺が戻ると、悠は先ほどから身動き一つしていないんじゃないかと思わせるくらい、悠がベンチにそのままで座っていた。俺が食堂に行ってからまた考えていたんだろう。それくらいは俺でも分かるくらいの表情をしていた。 「ほら、食えよ」 隣に腰を下ろし、まだ熱いくらいの熱を持っている団子を差し出す。 「・・・・・・何、これ?」 突然姿を消したかと思えば、今度は団子とお茶を持ってきた健介に悠は、何を考えているのか分からないといった表情を浮かべていた。 「好きだろ。蓬団子」 「あんたじゃないんだから・・・・・・」 健介が一本を手に取り、先に口に運んだ。出来たてのため健介は熱そうに口をハクハクさせていた。 「美味いぞ。出来たてなんだからな」 差し出した入れ物をおずおずと受け取った。 「何か、多くない?」 普段は団子から溢れない程度に餡子が乗っているのだが、悠に差し出された物は、箱にまで餡子がどっぷりと詰め込まれていて団子が見えないほどだった。 「餡子好きだろ?」 「嫌いじゃないけど。でも、これは・・・・・・」 健介は手を休めることなくたっぷり餡子がついていたため、ポトポトと子供のように餡子が落ちていたが気にすることなくあっという間に食べ終えた。 「まぁ、あれだ。何つーか、うん、悩んでる時は甘い物だ」 悠の機嫌がこんなもので良くなるとは思っていないが、今の俺に出来るのはこれくらいだ。下手な言葉を投げかけても一蹴されるのが目に見えている。だから、こいつにはこれくらいしか俺が思い浮かぶことがない。 「んじゃ、俺はお先に」 特に話すことも思い浮かばない上に、既に昼からの仕事始めも既に過ぎているため、俺は悠の隣にお茶を置くと立ち上がった。 「別に俺が言えるようじゃないけどよ、隼人は俺たちがこう思って欲しいから言わなかったわけじゃないだろ? もっと気、抜けよな」 いつも世話になっている悠に大したことが出来ない自分に不甲斐無さを感じながら俺は事務所に戻っていった。 「・・・・・・全く」 一人残された悠は所へと戻っていく健介の背に苦笑を浮かべて見送っていた。心なしか先ほどまで仕事に身が入らず、叱責を受け、今まで自分の仕事に誇りを持っていたため、上司である大浪にそこまで言われて落ち込んでいた顔に、微かに笑みが戻りかけていた。 「相変わらず・・・・・・なんだから」 残された蓬団子に手を伸ばすと、ドロっと餡子が溢れんばかりに串から落ちた。外側の餡子は冷めたようだが、串を持ち上げるとホカホカの湯気が立ち昇った。 「重いわよ、これ」 思わず苦笑が漏れた。手にした串がしなっている。健介の不器用ながらも、その気遣いが悠には嬉しかったようで、先ほどまで沈んでいた表情が、頬が緩んで優しくなっていた。 「――あつっ」 たっぷりの餡子が団子にも入れ物にも熱々の湯気を漂わせ、いくら好きだからと言ってもその割合には限度というものがあるだろうと思いながらも悠はそれを口にしていた。 午後からは午前の遅れを取り戻すように健介は働いた。昨日ほどの勢いではなかったが、飛行に立つ前の香田は満足げに健介の肩を叩き、健介はそれに背筋に冷たいものを感じていた。その恐れから逃れるために働いていた。 「奥田さん、これどうぞ」 「ん、ありがと」 健介が香田に遠慮しているのは、午後から仕事に戻ると受付の仕事に余裕があるのか美友紀が何かと世話を焼いてくるからであった。ちょうど子供はおやつの時間である正午から数時間後にはお菓子やコーヒーを淹れてきたり、健介が頼まれた書類の整理の半分を手伝ったりと、美友紀は好意で行っているのであろうが、健介としては視線が痛いことだった。 「ようやく終わりかぁ」 健介は美友紀のサポートで仕事の遅れは取り戻すことが出来たが、その好意への心労でいつもより二割増しに終業時間には疲れを感じていた。 「健介、少し良いか?」 先ほど悠からメールで少し遅くなるとあったため、食堂で腹ごしらえでもしようかと思っていた健介に智史が声をかけてきた。夜間組みが仕事の引継ぎをしている中、智史は窓際のフリースペースに健介を呼んだ。 「何だ? お前も今日は終わりだろ?」 「ああ。まぁな。ただお前に訊きたい事があってよ」 二人して煙草に火をつけ、ライトアップされた外の景色に目を向けていた。 「お前昼前にネット見てたろ?」 智史の言葉に記憶を辿る。ちょうど香田先輩に呼び出された頃だったか。隼人の病気について見ていた頃だろうか。本来業務中はプライベートなことに会社のものを利用するのは禁止なのだが、今の俺は仕事というほどの仕事が常に入っているわけじゃないから、特に誰にも何も言われない。 「見たのか?」 智史が歯切れ悪そうに頷いた。先輩に呼ばれた時に切ったつもりだったが、つもりだったようでばっちり見られてしまったようだ。 「あれ、何だ?」 さすがは自称親友。単なる暇つぶしで見ていたわけじゃないということくらい分かりきっているようで、その真意を目で訴えてくる。ただ事じゃないことも知っているようだ。開くページを誤ったか。 「何でもねぇよって言っても、お前は信じないだろうな」 付き合いが長い分、智史のことも分かる。そしてこいつにも俺のことが分かられている。 「お前、子供いないだろ」 「俺の子のことじゃねぇよ。これで知り合った子だ」 腕を見れば智史も把握するだろう。いちいち経緯を話していては面倒だし、俺だってまだそこまで知っているわけじゃない。智史もそれは分かってくれたようで小さく頭が縦に揺れていた。 「それは分かったけどよ、何でそこまで気にするんだ? 今朝のこともその子のことで何かあったからだろ?」 「お前の言う通りだ。ちょっとその子の症状が悪化して、動揺してた」 後者についての答えはそれで間違いない。実際に目の当たりにしたわけではないが、もし隼人に会っていたら今でも俺は凹んでいるはずだ。 「お前のことだからな。あれを見て想像は出来た」 要は俺が何故隼人に気をかけるなことをしているのか、と智史は聞きたいようだ。返答には特に考えなかった。相手が智史じゃないのなら、自問自答するかもしれないが、こいつには今の俺の気持ちを理解出来ると思ったから。 「隼人って言うんだけど、その子まだ小学一年くらいなんだがずっと入院しててさ」 俺の言葉に静かに耳を傾ける智史。やはりこいつには俺の話がどこに繋がっているのかを聞かずとも、ある程度の予測は立てているのだろう。続きを待つような目で俺を見てくる。 「確かに初めは俺もそれほど大したこととは思ってなかったんだけど、隼人は俺らと同じ夢を持ってて放っておけないって言うか、病室にしかいられないから、空を、見せてやりたくて、な」 ようやく智史も事情を飲み込んだようで、納得した表情をしていた。ついこの間聞かされた智史の過去。きっと今俺が話した事と、智史の姉と姪の事が智史の頭の中で重なる部分があったはず。俺だってあの時の智史の言葉が過ぎったから自白したわけだ。 「仕事に支障をきたす辺り、お前らしいな」 「褒め言葉で受け取っとく」 二人して苦笑しつつ特に言葉を交わさない。それは単にお互いに掛ける言葉が見つからないわけじゃない。俺には詳しくは分からないが、智史が過去に思いを馳せるような表情で星の散りばめられた輝きで満ちた南の空を見上げていた。 「なぁ、健介」 同じように空を見上げていた俺に智史が頼んできた。 「その隼人って子、合わせてくれないか?」 意外な言葉に少々呆気に取られた。隼人の事を聞きたいだとかなら分かるが、詳しい話をするでもなく会いたいと言ってきた。何を考えているのか分からない。突拍子もないことを言われても、俺だってろくに知っているわけじゃないんだ。 「俺だってまだ数回しか顔を合わせてない。すぐに知らない人間を連れて行くってのは負担だろ?」 大人相手ならともかく、子供にしてみれば急に知らない人間が来ると少なからず引いてしまうだろう。入院ともあれば限られた人間しか顔を合わすことはないのだから。俺だってその中に入りきれていないのに、智史を連れて行くのは無理だろう。隼人は軽い病じゃないのだから、俺たちが原因で症状を悪化なんてことは絶対にしたくないし、してはいけない。 「別に今すぐじゃなくても良い。お前が判断した時で構わない」 そう言われたら、頑なにはなれない。しばらくは俺が隼人に出来ることをしてやり、少しでも力になれるように慣れれば良いと思っている。その中で必要があれば智史にも手を貸してもらおう。空に焦がれる子の夢を失わせたくはないという、俺と智史の願いは同じだから時間が経てば隼人ももっと心を開いてくれるだろう。 「じゃ、そういうことで。迎えが来てるぞ」 智史が顎で所の入り口を見ろと促してくる。振り返ると特に声を掛ける仕草をするでもなく、誰かに誰かを呼んでもらうつもりでもなく、入り口の近くで静かに外の窓を眺め時折出入りするスタッフと軽く挨拶をしている悠がいた。 「呼べば良いだろ」 思わずその様子に頬が緩んだ。いつもなら何食わぬ顔で呼んでくるくせに、今日は昼のこともあってか、ただ俺が出てくるのを待っているようだった。智史は先に荷物を取りにデスクに戻ると、お先にー、といつもの調子で出て行き、悠に俺の居場所を指差してこちらを見ていた。 「俺も帰るか」 一瞬悠がこちらに目を向けた気がして、俺もデスクの上をある程度片付けて何食わぬ顔で悠と落ち合った。 帰路を急ぐ車内はいつものように悠の選曲した曲がかかっていた。これまたいつものように特に会話はないが、雰囲気や空気は疲れた体には心地良いものだった。路面の凹凸で微かに揺れる車揺れが眠気を誘うゆりかごのように感じていた。窓の外を流れる景色も明かりが少なく、何も代わり映えしないように見えて俺の眠気を促進させるばかりだ。時折瞼が重く感じ、まどろみに身を任せるように俺は全身の力を抜いた。 「健介・・・・・・って、寝ちゃったのね」 信号待ちでやけに隣が静かだと思い視線を向けるとシートベルトにもたれかかりながら、頭を窓に預けながら健介が静かに寝息を立てていた。 「全く、人の気も知らないで気持ち良さそうに寝てるわね」 小さな苦笑とため息を漏らすが、健介には届くことはなく、僅かに悠の口元が優しく上がっていた。 「言い忘れてたけど、健介、あんたベルトの後がくっきりついてるから」 帰宅し、風呂に入る前に悠がボソッと呟いた一言に、健介はずっと悠が自分を見て微笑んでいた理由を昼間のことだと思っていたが、それが違っていたことのしてやられた感に恥ずかしさでいっぱいになっていた。 「先に言えよっ!」 「ばーか」 そんな健介に悠がおかしそうに小笑いしていた。 それからしばらくの後、二人は診察日に意を決したように隼人の病室を訪れた。ここ数回の健介の診察日は仕事の遅れを取り戻すために足早に仕事へ向かっていたという名目で、その心は健介も悠もやはり隼人の母に聞かされた隼人の症状のことが気がかりで、気軽い気持ちで訪れることが出来なかった。 「おはようございます」 「あら、来てくれたの?」 部屋に入ると、いつもの騒がしさの中に、落ち着いた様子の隼人の姿があった。その隣で医師と看護師の姿もあった。 「ごめんね、今採血の時間なの」 隼人は静かに、慣れてしまったようにその細い腕に針が刺されていた。邪魔にならないように一旦病室を出ると、隼人の母も俺たちについてきた。 「あの、これどうぞ」 「わざわざありがとう」 昨日のうちに買っておいた果物やお菓子のお見舞いの品を渡す。久しぶりに見た隼人は、この間見た時よりも少しばかり皮膚が蒼白く全身にあまり力が入っていないように見えた。前に仕事の途中で見ていたホームページのことを思い出した。神経芽細胞腫の症状に骨髄に神経芽腫が転移することによって赤血球の減少が起こり、貧血を引き起こすため、蒼白になったり、元気が出ない、食欲不振、しんどがるなどの症状が出ると見た記憶があった。 「あの、隼人君、今何の検査をしていたんですか?」 朝から採血をしていることが悠には不思議だった。検温等なら分かるが子供が朝から血液検査をすることが気がかりになったのだろう。 「白血球の増減を調べてるの。抗がん剤の治療を始めてから毎日朝はああなの」 悠は頷いていた。正直俺にはそれがどういうことなのかよく分からなかったが、そんな俺に気づいた母親が補足説明をしてくれた。 「白血球が減ると感染症にかかりやすくなるの。抗がん剤の副作用みたいなものよ」 何となく分かったような、分からないような。とりあえず、減ることはあまり良いものじゃないようだ。それにさっき見えた隼人のか細い腕。採血の際に蒸しタオルのようなものを当てていた。採血くらいは俺だってしたことがあるから想像がついた。抗がん剤治療で、ただでさえ子供の血管は細いというのに、それがさらに細く脆くなって針を刺すのが難しくなって、血管を温めて膨張させるためにタオルで温めていた。きっと何度か失敗してからその手に出たはず。何てことないように見えたが、きっと隼人は鋭痛に耐えていたはず。俺だって未だに注射は痛いと思うことがある。それが毎日ともなればいい加減嫌になるだろう。そう思うと、かける言葉が浮かんでは消えていく。 「隼人君、白血球を沢山作っておくんだよ」 廊下で話していると、医師の声が聞こえた。どうやら採血が終わったらしい。看護師が俺たちに挨拶をして、隼人の母に一声掛けると歩いていった。 「こわれたらどうするの?」 部屋に戻ると、医師と隼人が妙な話を耳にした。首を傾げる俺に悠が小さく首を振っていた。その表情で医師が隼人に励ましをしているんだから、と言っているように思え、俺は静かに端でその様子を眺めることにしていた。 「壊れないように、あんまりはしゃがないようにしていれば大丈夫」 「バイキンが来たらこわさされるんじゃない?」 隼人が絵本を医師に見せた。それは今では懐かしさも感じる絵本だ。俺もガキの頃はよく見ていたなぁと思いながら、随分と久しぶりに見るキャラクターに懐かしさを覚えた。 「じゃあ、隠しておこう。バイキンに見つからないようにね」 隼人の問いに難なく答える医師は、さすがだと思った。毎日日毎日子供の相手をしていればおのずと身に付くものなのだろうが、子供に不安を与えないようにする答えを瞬時に出すということはそうそう出来るものじゃないだろう。俺ならきっとしばらく沈黙の後にやっと搾り出せるくらいだろう。 「でも、ぼくのだけをかくしてもダメだよ。みんなのをかくさないと」 「・・・・・・・そうだね」 微かに医師の表情が濁った。手馴れているとは言え、隼人が何気なく言った言葉の真意を深読みした医師が隼人に気づかれないように垣間見せたその表情が、俺の中に一番強く残った。しばらく言葉を交わした後、おはようございます、と挨拶を交わし医師の背を見送ると、隼人が俺たちに気づいた。 「おじちゃん、お姉ちゃん」 「うん、おはよう、隼人君」 「よっ、隼人」 先日の隼人の母の言葉を意識してか、無意識に隼人の瞳に俺の視線は向いた。今日は体調が少しは良いのか、少々蒼白だが笑顔を浮かべていた。 「ねぇねぇ、お姉ちゃん。これ、よんで」 隼人がベッドの上に置かれていた絵本を悠に差し出した。それはこの間俺たちが送った絵本だった。受け取った悠が俺を見てきた。 「良いじゃないか。読んでやれよ」 遅刻するけど・・・? と目で語りかけてくる悠に俺はそう返した。ただでさえ遅刻してるんだ。後で藤沢上官たちにネチネチ言われるだろうが、良いだろう。今までろくに会話を交わすことがなかったんだから、その時間のためなら遅刻なんて痛くないさ。 「それじゃ、読んであげるね」 隼人のベッドに腰を下ろすと、やはり体調は良くはなかったのか、少々しんどそうに悠に身を寄せようとしてきた。それに悠が自分から隼人の近くに身を寄せ、隼人に負担がないようにと、自分にもたれかからせ、絵本を開いた。隼人の母は悠に隼人を任せると、花瓶とコップを持って洗いに行くようで、俺も二人の邪魔をしないようにその後をついていった。 「腕は大丈夫?」 水場で大したことは何も出来ないが、ゴミ捨てくらいならと、手伝わせてもらうと俺の腕のことを聞いてきた。 「今はもうそれほどでもないです。そこまでの重症ではなかったので」 廊下からは子供のはしゃぐ声や泣き声が絶えず静寂をどこかへ運び去っていた。 「それでも大変でしょうね。ところでお仕事は何を・・・・・・?」 遅刻していることは気づいているのだろう。悠にごめんね、と謝り、俺にも同様に言ってくれた。 「バードフライ飛行場でパイロットをしてました。今はこれですから、事務ばかりで」 苦笑する俺に、少しばかり驚いた顔をしていた。この辺りの人間なら飛行場のことは知っている。だから、あそこと指せば大抵は理解してくれる。 「そうなの?」 「はい、もう随分と地に足をつけてますけど」 春の陽気の中を飛んでいく小型機が窓から見えた。既に仕事はフル稼働しているのだろう。あれに乗っているのは誰だろうな、と思いながら萎れた花を捨てる。 「そうだったの。もう気づいているかもしれないけど、あの子もね、憧れているのよ」 「みたいですね」 隼人のベッドを見れば瞭然だ。あれだけプラモデルや絵本があれば誰だってそう思うだろう。 「だから、あなたたちが持ってきてくれたプラモデルは宝物にしてるわよ」 模型は大事そうに飾られていた。少しでも夢を見られるのであれば俺としても嬉しい。 「そういえば、今度お祭りがあったわよね?」 「あ、はい一ヵ月と半月後に開催予定ですよ」 俺の腕も治る頃に航空祭が開催される。楽しみにしていた俺としては、今年は入社当時のようにサポートに回ることが決定している今、嫌ではないがため息ものだ。 「本当なら、連れて行きたかったんだけどね・・・・・・」 花瓶に水を入れる音に掻き消されるような呟きが聞こえた。 「あの、答えにくいことかもしれないんですが、隼人はそんなに悪いんですか?」 俺たちが出会ってまだ一月も経っていない。俺たちが来ればその度に隼人はいつもの笑顔で迎えてくれる。ただ、最近は当初のように受付のところまで来ていた姿ではなく、病室のベッドの上で横になっていたり、もたれかかっていたりしながら会うことがほとんどになっている。ここは学校でも公園でもないのだから、それがどういうことなのかと言う事が分からないわけじゃないが、それを信じていない、受け入れたくないと思う俺がいる。 「抗がん剤もあまり効かなくて。採血の度に言われることが隼人も分かっているのよ」 その言葉が指すこと。毎朝行われる血液検査で白血球の数を聞かされ、増えていれば安堵できるが、その逆だと、効果が芳しくないということ。 隼人の母はきっとその時間が、息子が回復に向かう喜びと、刻々と隼人の時間が減っていく恐怖に内心は必死なのだろう。それを知ってか知らずか、ひょうひょうと聞いている隼人。白血球が増えていればまた外にも出られるし、初めて会った時のように元気に受付前までいけるのだろう。だが現状はそう甘くはないことを認識させてくる。毎日毎日隼人は、明日こそはベッドから出られるかもしれないという本当に小さな期待で、その腕に針を刺しているのだろう。 「放射線もやってたんだけど、いまいちで。隼人にはまだ言っていないけど、また新たに転移が見つかってちょっと、ね・・・・・・」 そこで隼人の母の声が震えた。鼻を啜る音が共に俺の耳に届いた。その瞬間、仕事の最中神経芽細胞腫の情報を見ていたことを思い出した。 小児がんで一番多いのは、血液の癌と呼ばれる白血病。それ次いで多いと言われるものが、隼人を蝕んでいる病である神経芽細胞腫。主に胎児の神経組織から発生する悪性固形腫瘍で、その腫瘍は乳児期や小児期に現れ、体の多くの部分に発生することがあり、心拍、血圧を増幅させ、血管を収縮させることによって、特定のホルモンを刺激し、体の機能を司る神経系を形成する交換神経組織から発生し、発生しやすいのは腎臓の上にある副腎髄質からで、その他は脊椎の左右横にある交感神経節のどこから出てきてもおかしくはなく、胸の心臓のある辺りから発生することもあり、レントゲンやエコー検査。必要に応じて、血液検査やCTやMRIなどの詳しい画像検査を行い診断を下す。腫瘍が発生すれば急速にリンパ節、肝臓、肺、骨、骨髄など全身に転移が広がっていく。その原因は不明で、多くは五歳未満で診断され、約一万人に一人の割合で男の子が僅かに多く発生する病とされ、主な症状としては腹部腫瘤に伴う腹部の張り、肝脾腫である肝臓の肥大、骨髄に神経芽腫の転移に伴う赤血球の減少による貧血、白血球の減少による感染症への懸念と発熱。血小板の減少による出血斑やあざ。腫瘍が出来る場所によっては眼球突出や後退、頸部に腫瘍ができ、交感神経を圧迫するなどによるホルネル症候群、中にはオプソクローヌスと呼ばれる小脳失調や多方向性眼振などが見られることもあり、歩行障害などその症状は神経芽腫の発生場所によって様々。最近では自然治癒することもあるらしく、無治療経過観察をする病院もあるらしい。 「治療法は、他にはないんですか?」 次第に嫌なものを背筋に感じる。まだ時間はあるようだが、思っていたほど結果が出ない現実に、隼人の母の心は押しつぶされそうになっているのだろう。服の袖を時折瞳に当てながら俺の問いに答えようとしてくれる。無理に聞き出すことはしていないのだが、俺たちに隠すつもりはないらしく、むしろそういう病と闘っている子供がいることを俺たちに知って欲しい、それを支える家族や病院関係者の思いを理解して欲しい、と言っているように俺には思えた。 「遺伝子治療の申し込みをしているの。その結果が届くまでは今のままのあの子を見守るしかないの」 だから、今は出来るだけあの子の好きにさせているの、と小さく続けた言葉は、俺の奈落の底を見せるかのようだった。抗がん剤を使っている時点で腫瘍が広範囲に転移しているということを指しているのだから、 「手術や移植などは、しないんですか?」 「一度したんだけど、再発したの。それにもう隼人には耐えられるほどの体力もなければ、ね・・・・・・」 長時間に渡る手術は子供の体力では限界があるということか。ただでさえ入院していると体力が落ちる上に、一度手術で成功したとはいえ再発を経験したとあれば、もう一度ということに躊躇してしまうのは当然のことだろう。それに手術を望んでも、医師が首を横に振ればそこまで、ということなのだろう。 「そうですか・・・・・・」 また俺は自分から聞いておきながら、返す言葉を紡ぐことが出来なかった。 「戻りましょうか」 いつしか新たな花で飾られた花瓶と、綺麗になったコップを持った隼人の母が俺よりも数歩先を歩いて、振り返っていた。 「これからも、あの子に夢を見させてあげてくれないかしら? あなたは隼人の憧れだから」 「・・・・・・出来る限りのことでしたら、いくらでも」 微かに間を空けてしまった。俺が隼人の憧れであって良いのだろうか。こんな俺に隼人が憧れの眼差しを向けてきても良いのだろうか。そんな思いが、ただ頷くだけの行為に疑問を抱かせた。 「ありがとう」 先ほどの涙の乾いた隼人の母の微笑みは、俺に覚悟を持たせるためのもののように俺の目に映った。 「―――そして、夢を叶えたピアノは、大空へと飛んでいきました」 ちょうど病室に戻ると、悠も絵本を読み終えたようで絵本を閉じた。 「ほら、隼人。お姉ちゃんにお礼は?」 「ありがとう、お姉ちゃん」 「どういたしまして」 悠は満足げな笑みで隼人の頭を撫でていた。 「それじゃ、俺たちはそろそろ・・・・・・」 時間もだいぶ遅れているため、そろそろ向かわなければ、いい加減上官たちのお灸が待っている頃だろう。 「わざわざごめんなさいね」 「いえ。それじゃあ隼人君。またね」 「うん。ばいばい」 今日は母親がついているためか、隼人は大人しく俺たちに手を振って見送っていた。同室の子達も悠の読み聞かせを聞いていたようで、悠に手を振っていた。 「すっかり人気者だな」 飛行場へと向かう車内で、悠はホッと一安心したような顔でハンドルを握っていた。 「大したことはしてないわ。でも、やっぱり皆可愛いわね」 「そうだな」 悠の話を聞きつつ、俺は隼人の母から聞かされたことを話すべきかどうか迷っていた。これだけ楽しげにしている悠に話すのは気が引けた。 (帰ってから、話したほうが良いか・・・・・・) 仕事に支障をきたさせるのはダメだろう。俺が何度もそんなことをしているのだから、これ以上のことはさすがに仕事の降格に繋がる。悠に世話になっておきながら巻き込ませるわけにはいかない。 「ん? どうかした?」 「いや、何でも」 表情に出ていたのか悠が横目を向けてきたため、俺は窓の外に視線をずらし青々とした田園風景と春の少し薄い空へ思いを馳せた。 飛行場に着き、いつものように別れる。悠の足取りは心持軽く、俺の足取りは気のせいか重たかった。 「奥田さん、おはようございます」 デスクに着くと、先輩も智史も既に業務に発っているようで比較的静かな始業となった。 「おはよう」 今日の雑用が一通り書かれたメモに目を通し一憂していると、仕事中のはずの美友紀ちゃんがいつの間にか隣に立っていた。 「あの、これどうぞ」 そう言って差し出されたのは、いつくかの書類だった。 「これは?」 「ちょっと時間が空いていたので、代わりにまとめておきました」 目を通すと、航空祭の出店計画書や予算報告書など俺のメモに書いてあるものが出来上がっていた。 「あと、これ。すみませんでした」 「あぁ、これ美友紀ちゃんが持ってたんだ?」 美友紀ちゃんの手にあったのはMDだった。結構日にちが経っていたから諦めていたのだが、意外な場所から帰ってきた。 「ちょっとだけ借りるつもりだったんですけど、聞いているうちに私も好きになって同じのを探すのに手間取っちゃって」 恥ずかしそうな眼差しでMDを渡してくる美友紀ちゃんに、俺はなんと言うかありがた迷惑な気分だった。怒っているわけじゃない。 「美友紀ちゃん、その、代わりにやってくれたのは嬉しいんだけど・・・・・・」 その言葉に美友紀ちゃんの顔に笑みが浮かんだ。その表情に次に繋げる言葉を出すのに躊躇いが生まれるが、言わないわけにはいかなかった。俺のことを気遣ってのことなのは分かっているが、俺にも曲がりなりにもプライドというものがある。いくらパイロットから降格を余儀なくされたとはいえ、今の仕事にも誇り(プライド)というものがないわけじゃない。好意で受け取っていてばかりでいては高慢(プライド)でしかなくなってしまう。そこまで俺はまだ今は落ちぶれてはいない。 「その、言い難いんだけど、これは俺の仕事なんだ。美友紀ちゃんには美友紀ちゃんの仕事があるだろ?」 美友紀ちゃんが、予想していたのは俺が笑っているような光景だったのかもしれない。だが、俺も美友紀ちゃんも子供じゃないんだ。 「美友紀ちゃんは自分の仕事をしてくれないか?」 少し厳しい口調だったかもしれない。だが、美友紀ちゃんは優しい。だから遠慮するようなことを言っては、同じことの繰り返しが起きるだろう。 「・・・・・・ご迷惑、でしたか?」 美友紀ちゃんの顔からふっと笑みが消えた。やはり予想にもしていなかったのだろう。 「気持ちは嬉しいけど、俺に気遣いは別にいいよ。これくらいの仕事はわけないから」 少しだけ美友紀ちゃんの表情が和らいだ。良かった。あまり気にした様子はないようだ。俺の良心に刺さっていた棘がいくらか取れた気分だ。 「分かりました。これからは気をつけますね」 「ごめんね、折角やってくれたのに」 「いいえ、また一つ勉強になりました。奥田さんに気に入ってもらえるためにこれからも頑張ります」 美友紀ちゃんは、小さく意気込むと今度は自分の仕事へと戻っていった。その顔には気持ち新たな澄み切った笑みが浮かんでいるように見えた。 「前向きなんだな、美友紀ちゃんって・・・・・・」 自分の悪いところを目の当たりにしても、それに落ち込むでなく次へのステップとしている。これで愛想を切らされただろうと思っていた俺は、呆気に取られたが、美友紀ちゃんの今の態度が上辺だけでなければそれでも良かった。俺の前でそう振舞って、外で泣かれるようなことも考えられるが、予想に反して美友紀ちゃんは俺の別の一面を目の当たりにしてどこか嬉しそうにしていた。だから、後者ではないように思えた。 「ご苦労様です」 「おう」 昼過ぎも午前の遅れを取り戻すためにデスクやコピー機をいったり来たりしていると、事務の子が帰ってきたパイロットに声を掛けていた。 「お、健介。相変わらず地味な仕事してんなぁ」 肩にズンと重たい腕がのしかかってきた。左腕に衝撃が微かに響いた。 「もう帰ってきたのか? 他はまだ帰ってこないぞ」 お互いに他愛ない嫌味で今日初顔合わせだ。 「近場だからな。それより、今日は行ってきたのか?」 智史が自分の分だけコーヒーを入れる。香ばしい香りが俺の鼻まで漂ってくる。気を利かせて俺の分まで淹れると言うことは、こいつの頭の中にはないんだろうな。 「ああ、まぁな」 ―――行ってきた。それがどこを指すのかなんて聞きはしない。顔は笑っているくせに目が笑っていない。 「で、様子はどうだったよ?」 周囲に諭されないように智史の口調はいつも通りだ。 「良くはなってなかったな」 症状は悪化の一途を辿っている。隼人の母の言葉が嘘だとは思えない。あんな時に冗談が出せる人間はいないだろう。治療も芳しくないから遺伝子治療とやらに申請をしているところらしい。詳しくは知らないが、隼人の両親は身を切る思いをしているのだろう。隼人の前では笑顔だったが、俺に見せた表情には明らかな疲労の色が出ていた。 「神経芽腫だったよな?」 「神経芽細胞腫だ」 「同じだろ?」 「知らん」 「何だそれ?」 「俺は医者じゃない。病気のことを詳しく知るわけがないだろ」 「そりゃそうだな」 智史が自分のパソコンを見つめながらテンポ良く質問をしてきた。何だかんだで仕事には抜かりない奴だな。自分の飛行記録や業務成績表などをつけているのだろう。 「隼人ってのは幾つだ?」 「六歳ってベッドに書いてあったから、年長か小一だろうな」 「幼稚園とか小学校は行ったことあるのか?」 「ほとんど入院生活だと母親が言ってた」 きっと隼人は幼稚園など行ったことがないのだろう。言葉を交わしてても一度も外の友達の話題を聞いたことがなかった。聞いたのは、同室の子や他の病室で入院生活を送っている子のことばかりだった。まるで長期入院している噂話に精通しているおじさんのように、病院用語から医師や看護師のこと、病気や治療のことを隼人はまだ十年も生きていないのに、俺の知らない世界を何歩も足を踏み込んだくらいに知っていた。 「治療については聞いたりしたか?」 「今は放射線と化学療法をしているみたいだ。遺伝子治療がどうのこうのってのも聞いた」 「なるほど。子供に抗がん剤か。言葉が出ないな・・・・・・」 智史の言葉に俺も返す言葉がなかった。 「ところで、何でお前はそんなこと聞いて来るんだ?」 いい加減、智史が仕事中に妙なことを聞いてくるからこちらから訊ね返した。 「いや、ただどんなのかって思って見てたんだよ」 智史が俺のほうにパソコンを向ける。てっきり仕事をしていたのかと思っていれば、その画面に映し出されているのは俺が先日開いていたページだった。 「仕事しろよな、お前」 「お前に言われたくねーよ」 智史が俺を呆れたような眼差しで見返してくる。智史も智史だが、俺も俺で仕事しながら智史が話を振ってきたため、気を紛らわせるようにフルートの絵を描いていた。 「俺は今日の分はほとんど終わったんだよ」 「俺だって今日の飛行はもうねぇよ」 「どっちもどっちだ、馬鹿もん」 いつの間に帰ってきたのか藤沢上官が咳払いをしながら俺たちの前を通り過ぎた。一瞬で俺と智史の下らない言い合いは終わりを告げた。 「仕事せんか、仕事」 藤沢上官が自分のデスクに着くと、俺がもとい、美友紀ちゃんがやっておいてくれた資料に目を通していた。上官が居ると所内が一気に引き締まったような空気に満ちる。俺たちの会話も小声になっていた。 「健介のせいだぞ」 「お前のせいだろ」 二人してまたくだらないことの繰り返しになりそうだったので、二人してため息をついてその話は止めた。 「で、何でお前がそんなの見てんだよ?」 「良いだろ、別に。ちょっと気になっただけだ」 ちょっとの割には、随分と熱心に見ていたような気もするが、ここでまた言い争っては上官の渇が飛んでくる。智史が再び自分のほうにパソコンを向けなおし、コーヒーを啜りつつ目を走らせていた。上官からは見えないため智史は時折俺にいくつか質問をしてきては俺が聞いた範囲で答える形で仕事のフリをしていた。 「俺たちが出来ることって何があるんだか」 病院での隼人の母の言葉が俺の頭には残っていた。 『あの子に夢を見させてあげてくれないかしら? あなたはあの子の憧れだから』 「俺が憧れだなんて、な」 きっとこの腕の怪我もなく、今でもパイロットとしてフルートと共に空を飛んでいたのなら、そんな一言も誇らしく受け止めることが出来たのかもしれないが、今ではその言葉の大きさ、その言葉に込められた想いに俺の器は耐えられるだけの大きさはないだろう。見栄を張るのも一つかもしれないが、それで子供が夢を見る分には救いと言う名の嘘になるだろう。穢れを知らないその夢に満ちた真白な瞳に、小さく真っ黒な偽りが混ざることに対しての痛みが俺には赦せない気がしてならない。 「お前は大事なことを忘れてるぞ」 俺のボヤキを聞いていたのか、智史が目だけを俺に向けてきた。 「何をだよ?」 「お前が何でここにいるのか、だ」 「・・・・・・は?」 またこいつは突拍子もないことを言う。いつもいつもすぐには答えを出せない問い。いきなりの応用問題に取り組ませられる気分だ。 「子供の目にお前はどういう人間に映るか、だ」 ヒントだろうか。いまいち掴み所がなく理解に苦しむ。子供の目で俺がどう映っているのか? どういう意味だ? 「それが分かれば、お前は自分で隼人に何が出来るか分かるはずだ。これが分からないようじゃ、お前は流れ作業の工場で働いたほうが似合ってるぞ」 智史がパソコンを閉じると、休憩行ってきまーす、と席を立った。 「ったく、何なんだよ、あいつは」 試練を与える師匠のような物言いに、呆れながらも、その問いにはきちんとした意味があるのだと言うことくらいは理解できた。俺の忘れていることと、隼人の夢と憧れ。それがどういう接点を持っているのかを考えるのは俺一人で答えを出さないといけないということなのだろう。智史が残していった言葉を考えているうちに、いつの間にか外は次第に星明りと月明かりに照らされていた。 「結局思いつかなかったな」 明日は休みだ。診察も入っているからゆっくり隼人の見舞いが出来るな、などと考えながら事務所を後にすると、ちょうどドッグのほうから悠が作業着姿のまま現れた。 「ちょうど良かったわ、健介」 俺を探していたのだろうか。まだ仕事は終わらないように見える。 「今日は遅いのか?」 「夜間の子が欠勤で代わりをやらないといけないのよ。だから、先に帰っててもらえる?」 残業ではなく、代替か。それなら仕方ない。食堂で時間を潰していてもそうそうは終わらない。先にタクシーでも呼んで帰るほうが良いだろう。 「分かった。今のうちに休んでおけよ」 「分かってる。それじゃあ、お風呂とかよろしくね」 「はいよ」 悠はそれだけを言うと、仕事へと戻っていった。 「さて、飯はどうすっかね?」 食堂で食って帰るべきか、先にタクシーを拾ってコンビニ弁当でも買って家でのんびりとするか。俺の頭が導き出したのは後者だった。 「タクシー呼ばないとな」 「奥田さん・・・・・・?」 携帯でタクシー会社に連絡を入れようとアドレス帳から呼び出そうとしていたら、背後から美友紀ちゃんの声がした。 「美友紀ちゃんも今日はあがり?」 「はい。受付は六時が定時ですから」 夜間組みが翌朝配送の荷物等の運送に走り、残った仕事は翌日に回される。受付は午後六時までだから、残業はないんだったな。羨ましいが俺の性には合わない。 「お疲れ様」 挨拶を済ませて再び携帯でタクシーを呼ぼうとしたら、美友紀ちゃんが俺の周りを不思議そうに見ていた。 「奥田さん、今日は雨宮さんとは一緒じゃないんですか?」 控えめに美友紀ちゃんが周囲に目を向けながら聞いてきた。そのあちこちを見ている目は悠を探しているのだろうか。 「今日は代替になったらしくて、俺だけ先にあがったんだ」 今日に限って乗せていってくれるような奴が全員夜間の仕事が入っている。悠が終わるのは、数時間は後だから待っていても仕方がない。ここは少々痛い出費だが、タクシーを呼ばないといつまでも待ちぼうけは御免だ。 「それじゃ、美友紀ちゃん。また明日」 これから帰るのだろうと思い、そう言ったのだが、美友紀ちゃんは俺の前に佇んだまま動こうとせず、モジモジと俺を見てくる。外灯の僅かな明かりがうっすらと美友紀ちゃんの表情を映し出し、俺もどうしたら良いのか言葉が詰まってしまう。 「あ、あの・・・・・・」 美友紀ちゃんが口を開いた。 「タクシーを呼ぶんでしたら、私の車でお送りしましょうか?」 これまた控えめに言うもんだから、意識せざる終えない。懐を温め続けられるのであればそれに越したことはないが、乗せて言ってくれると申し出てくれたのが美友紀ちゃんとなると、それに対して躊躇いがちになる俺がいる。つい数日前にあんなことを言われてから、何かと世話を焼きに来てくれる美友紀ちゃん。その好意は素直に嬉しいが、後ろめたい気もあるのは確かだ。 「私の家、市街の方ですから気にしなくても良いですよ?」 そんな問われたら、断るのに気が引ける。誘導尋問されているような気分もしてくる。 「じゃあ、お願いしても良いかな?」 そこで断ることをせず、流されるように申し出を受け入れる辺り俺の優柔不断さが滲み出る悪いところなのかもしれない。だが、ただでさえ安月給への降格に、怪我の治療費、悠自身は遠慮しているが、俺の中に今だって腐ろうが果てようがきちんとある誇り(プライド)がそれを許さないため、悠への謝礼も込めた生活費、俺の昼食費やその他諸々にあまり貯蓄が出来ないため、タクシーにかかる費用を無料(ただ)で良いと言ってくれるのであれば、今の俺にはありがたいことだった。 「はいっ、では行きましょう」 俺が申し出お受け入れると美友紀ちゃんの顔に笑顔が華やいだように見えた。 美友紀ちゃんの車は可愛らしい人気のある軽だ。車内には仄かに香る甘い香り。女性らしさの感じられる車内インテリアに少しばかりテンションがあがった。悠の車はすっきりとしていて凛としているが、美友紀ちゃんの車は柔らかい雰囲気で満ちている。 「美友紀ちゃん、途中でコンビニよってもらって良いかな?」 どこかで夕飯を買わなければ悠は夕食を済ませて帰ってくるだろう。片腕が使えない今、料理も出来ないことはないが面倒くさい。 「分かりました」 美友紀ちゃんはまだ免許を取って二年ほどしか経っていないため、悠の運転に比べると慣れていない感というか、慎重で綺麗な運転だと思った。 「奥田さん、いつも雨宮さんと帰っているんですよね?」 「ん? ああ、そうだけど?」 特に音楽もラジオもつけているわけじゃないため、妙に俺と美友紀ちゃんの間にぎこちない空気が漂い、話題を持ち出そうにも俺の頭に浮かんでくるのは、バードフライのことと、業務復帰のことと、家に帰ってからすることと、隼人のことばかりだ。美友紀ちゃんと分かり合えることが少なすぎる。仕事のことは受付の美友紀ちゃんにはなかなか分からないだろうし、隼人のことなんて論外だろうし。 「・・・・・・羨ましいです」 「えっ?」 ボソッと美友紀ちゃんが呟いた。ハンドルを握る腕に力がこもったようにも見えた。 「まぁ、居候させてもらっているから、当然なのかな」 長い付き合いの腐れ縁のような間柄でもあるし、悠も当たり前のように俺をサポートしてくれる。学生時代から俺は悠に課題やらテスト間近には教えを請っていた。いつも面倒そうに俺を見下すような目で見てきたが、何だかんだで手伝う人の良さには定評があった。だから俺はそれに甘えていたのかもしれない。冗談を本気なんだかで受け取るあいつは、本当に嫌なら嫌だとはっきり言う。だから、俺は今こうして世話になっているのもあいつとなら当たり前に思えるのだろう。 「当たり前のこと、ですか・・・・・・」 小さく美友紀ちゃんがため息をついた。 「美友紀ちゃん?」 「色々と頑張っても、雨宮さんがいる奥田さんとの距離まではなかなか埋まらないですね」 独り言なのだろうか。美友紀ちゃんが良く分からないことを話始めた。 「一度や二度じゃ、ただの好意としか思われなくて、三度や四度でも、まだ当たり前には思われないんですよね」 市街に近付いてきたのか、ちらほらと民家や商店が多く通り過ぎるようになってきた。ちょっと前までの田園風景の暗闇の中で今の美友紀ちゃんの語りを聞いていたら、きっと今以上に俺は美友紀ちゃんの言葉に耳を傾けることが重たく感じていただろう。
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