「あら・・・・・・?」 「あ、おはようございます」 先を歩いていた悠が立ち止った。その視線の先にいる一人の女性。どこかで見覚えがある気はしないでもないが、思い当たる節がない。 「今日も来てくれたのね」 「はい、診察のついででしたから、あまり大したことは出来ませんでしたけど」 悠はすっかり打ち解けているのか、目の前の女性と会話を弾ませていた。 「そちらの方は・・・・・・?」 目が合った。条件反射的に軽く頭を下げると同じように返してくれた。 「どうも、奥田と言います」 俺の名前を聞いて、俺の左目に視線を向けると思い出したようにもう一度挨拶をしてきた。 「健介、隼人君のお母さんよ」 誰なのか疑問に思っていると、悠が肘で突いてきた。なるほどな、どうりで何度か見かけた記憶があるわけだ。 「わざわざお忙しい中、ありがとうございます」 年齢は俺たちより少し上だろう。そこまで畏まられると、こちらとしてもそれ以上に頭を下げないといけなくなってしまう。 「いえ、俺のこれ(・・)のついでに立ち寄ったので、気にしないで下さい」 左腕を少し持ち上げると、大変でしょうと気遣ってくれる。お世辞じゃない本心から言っているのが良く分かる。我が子が入院を余儀なくされているのだから、その大変さは理解しているのだろう。全く頭が上がらない。 「俺なんて大したことはないです。ここにいる子たちに比べると、恥ずかしいくらいですから」 骨折なんて俺にとっては初めての経験で、負傷者を気取って意気揚々としていたが、それはただの甘えに過ぎないのだとここへ来て実感した。自分の病気や怪我に真正面から真摯に向き合っている子供が大勢いる中で、俺は浮いていたと思う。通り過ぎる子供からも、大丈夫? と心配そうな声をかけられてろくに返す言葉も見つけることが出来ず、ただ強がって笑うだけしか出来なかったのだから。きっと見た目だけならそこら辺で遊んでいる子供と同じなのに、その体が抱えている負担は俺の左腕では受け止め切れないほど重たいものを抱いている子が、決して強がることなく無垢な笑みを浮かべているのを見てしまうと、今までの俺が情けなくて恥ずかしくなってしまう。 「では、そろそろ私たちは・・・・・・」 悠がそう言うと、引き止めちゃってすみません、と俺の目をしっかりと見つめていた。俺は静かに頭を下げると、エレベーターへと歩いていった。エレベーターのドアが閉まると、無意識にため息が漏れてしまった。僅かな時間しかいなかったと言うのに、その時間はとても濃く感じられた。 「何か、凄いよな」 「そうね」 俺の言葉に悠がドアを見つめたまま相槌を打つ。悠は二度目だからそれなりに慣れたのかもしれないが、生まれて初めて見た俺としては、見たことで感じた良いこと悪いこと色々と感慨深くなることがあった。 「健介だけじゃないわよ」 「そうか・・・・・・」 やはり悠は俺の思っていることが分かっているようだ。だから俺も余計なことは言わない。きっと悠も昨日似たようなことを思ったのだろう。それに昔入院していたわけだから、尚のことだ。俺が何を言おうが間髪入れずに返すだけの答えを持っているだろう。そうだとすれば、俺が質問をしているわけじゃなく、俺が欲しい答えを求めて聞いているだけに過ぎないだろう。 「さ、行くわよ」 「ああ」 そのまま俺たちは特に病院の話題を持ち出すことなく、仕事へと向かった。 飛行場についた頃は既に全ての機能がフル稼働といった様子で、ここも忙しなかった。もう慣れた書類整理を今日もこなしていく。今日の所内は静かだ。情報番組が流れているだけで、先日のような明るい雰囲気はないというか、夢が覚めたようにそれぞれが仕事に向き合っていた。既にほとんどのパイロットも出払っているようで、取り残されたような疎外感に近いものを感じながら俺も仕事に励んでいた。 「そういえば、今日は音楽かかってないね」 「何か、誰かが持ち帰ったかしたみたいで、奥田パイのMDないんだって」 「誰も他に聞くようなの持ってないから、今日は静かよね」 「藤沢パイが普通のはお客様に迷惑だからって、今日はなしみたい」 事務の子たちの話し声が聞こえた。意外と浸透していたことに驚きながらも、MDが紛失していたこともわずかばかり気になった。 「奥田パイ」 「どうかした?」 事務の子達はパイロットたちをパイと縮めて呼んでいた。昔は気恥ずかしさもあったが、今じゃ当たり前で特に気にならない。 「MDは持って帰ったんですか?」 「いや、入れたままにしておいたけど?」 持って帰って寝る前にでも聞こうと思っていたが、夜間組みが聞くといったので、コンポにセットしたままだ。 「じゃあ、夜間組みの誰かかな?」 「ま、いいじゃん。そのうち戻ってくるよ」 「それもそうですね」 仕事中に聞けないのは少々残念だったが、それくらいで気落ちするようじゃ仕事にはならないため、特に気にすることなく俺も仕事に戻った。 昼食を軽く済ませると、いつものように午後からの便がしばらく空く間にバードフライの訓練が始まった。昨日の事もあり智史のことが気にならないわけじゃなかったが、飛行から戻ってきた時の智史はいつもとなんら変わりなく、事務の子を呑みに誘っていたりと俺が知る智史だったため、勤めて俺も普通に振舞った。悠の言う通り、二年も前のことだから、本人なりにけじめをつけているのだろうから、俺がどうこう言ってぶり返すのは気が引けた。 「フルートともすっかり馴染みやがったな」 コピーをとりながら窓の外を見上げると、バードフライの主メンバーとしてすっかり定着した様子の智史が乗る俺の愛機が視界を横切っていった。機体にはそれぞれ癖があり、特に俺のフルートは気難しい奴だと思っていたが、智史の操縦捌きを見る限り、フルートも智史を気に入っているように見える。俺がいなくとも平気に。 「何か、巣立っていく我が子を見ている気分だな」 正直、羨ましかった。三ヶ月なんてあっという間に過ぎるかもしれないが、それでも俺には長い。ここ最近はろくにフルートの傍にすら行っていない。顔を合わすと体が疼いてしょうがないから距離を置いているが、やはり空を飛ぶことが羨ましい。飛行するにあたり、負担が大きい分業務とは別に空を飛んでいる感覚を強く感じられるバードフライの面々に嫉妬しているかもしれない。海を愛する漁師がなかなか仕事を辞めたがらない頑固な精神を持つことと同じで、俺も地に足をつけるだけの毎日が嫌だ。だが、今の俺には治すことが仕事だ。割り切るしかないが、俺は諦めが悪いというか、悠のように何事にも柔軟に対応できるだけの器がない。 「ちょっと頭を冷やさないとな」 心で分かっていても、体が言うことを聞こうとしない。聞きたがっていない。 「さ、仕事仕事」 逃げるようにコピーを済ませると、窓から離れた。耳にはいつまでも聞きなれた振動する重低音が響いていた。 「奥田、今日はもう上がっていいぞ」 夕刻も過ぎ、飛行場が赤からその色を失っていく。気の早い星々が微かにその光を輝かせていた。空に焦がれる者は数いれど、たとえ今現在誰よりも高い場所へ辿り着けている宇宙飛行士でさえ、その星の瞬きには程遠き存在だ。ここにある航空機ではどうやっても届かない遠い遠い世界だ。死んだら星に成る。その意味が何となく分かった。 「あ、はい。それじゃあ、お疲れ様でした」 一声かけるとあちこちからお疲れ様だとか、また月曜に、だとか返ってくる。 「じゃあな、健介」 「お前は夜間か?」 事務所を出ると、智史と出くわした。今日は飛行続きでまともに話す機会がなかったから意識することは無かったが、ここに来て会うとは思いもしなかった。 「まぁな」 いつもと同じ顔だ。昨日のことが夢だったようにも思える。 「雨宮が車で待ってたぞ」 「さんきゅ」 だが、いつもとはやはり違う。茶化してこない。特に話すような話題も浮かばず、悠も待っているというのであれば急ぐに越したことはないだろう。俺は軽く右手を上げると智史の脇を通り過ぎる。 「気にすんなよな。俺はガキじゃねぇんだからよ。それと、当たって悪かったな」 「・・・・・・いや、こっちこそ」 俺にしか聞こえない呟きで智史が言い残すと事務所へ入っていく。その背に一言返事をして、俺も階段へと向かう。智史のその一言を俺は待っていたのかもしれない。聞きたい言葉を聞くことが出来たからか、わだかまりが解けたようで、肩に入っていた変な力が抜けた。余計なことを言わず、聞かずで良かった。明日は休みだ。きっちり自分にけりをつけて、週明けからはいつも通りにライバルとして、親友として元に戻れるだろう。 「遅くなった」 「いつもより早いわよ」 俺が車に乗ると、悠の頬が微かに緩んだように見えた。見透かされたか? 「何だよ? 何か面白いことでもあったか?」 「別に。お腹空いたから早く帰りましょ」 俺の問いを軽く流すと、車を走らせる。ふと飛行場を見ると、ちょうどさっきまで車が止まっていたところから、俺と智史がいた廊下が見えた。明かりがついていて丸見えだ。そういうことかよ。 「覗きの趣味があったのか」 「さぁ、何のことかしら?」 俺の表情を見て、確信を持ったのだろう。白を切る辺り悠らしいと言えばらしい。妙な敗北感もあるが、ま、いいさ。帰路につく車内でかかっていたショパンが気分を軽快にさせてくれた。
翌日、日曜とあって悠と約束しておいた通り、今日は遠出のためいつもと変わらない時間に起こされた。折角の日曜も他と変わらない時間の使い方のため、やっぱり断るべきだったかなどと後悔しながらも片道一時間をかけて既に移動中のため、諦めざるを得ない。 「お前の私服って思えば久しぶりに見るよな」 運転している悠を見ると、いつも仕事の送迎では目にしているが、今日の私服はそんなんじゃない。なかなか様になっている洒落た格好だ。仕事には特に着飾るようなことはしていないため、結構久しぶりに見る気がする。香水の仄かな香りも嫌じゃない。 「最近は仕事漬けだったし。たまにはこういうのも悪くはないでしょ?」 確かに。家で一日まったりとするのも良いが、仕事とはかけ離れたことをするのも良い気分転換になる、か。オープンしたから半年以上経っているが、当初の賑わいはニュースでも取り上げられたくらいだったから、俺も少しは興味があった。無駄使いは出来ないが、少しくらい夏物の服は買っておきたい頃合だからちょうど良い。 「そうだな。でも日曜は多いだろうな」 この辺りじゃ大型のショッピングモールなんてほかに無い。この辺りじゃ初出店の店も多く入っているとか言う話だ。半年経ったとは言え、休日ともなれば多くの人で賑わっているだろう。 「良いじゃない、別に。誰も気にしないわよ」 人を隠すなら人ごみの中と言うくらいに、多くの人間がいればいるほど一目を気にする人もいるが、実際はそれほど誰も誰かを見ていない。目的があって来ているのであって、大方それくらいしかまともに目に留まることはないため、多いほど一目が付きにくく、周囲を気にする必要が薄れる。その代わり行動はしにくくなるが。 街から街へ移り行く景色を眺めていると、家々が立ち並ぶ街と街の間はのどかな畑や水田が続く。腰の曲った爺さん婆さんたちが畑仕事に精を出している。そんな光景もほんの数秒足らずで視界から消えていく。流れる景色に次々と久しぶりに地上から見る隣町の風景が広がっていく。空から見る景色とはまた違って車から流れる世界を見るのも悪いことじゃない。それでもやはり早く地上の光景を上空から眺めたいと深心では思う気持ちが強くなる。 「やっぱ、多いな」 「空いてる所、あるかしら」 駐車場はまだ開店から一、二時間程度しか経っていないが、それでもゆうに三分の二は軽く埋まっている。やはり誰もが考えることは同じで、出入りゲートの近くに集中して埋まっている。 「距離あるな」 「空いてるだけマシよ」 どれほど駐車できるのかは知らないが、百台以上は見渡す限り止まっている。俺たちが止めた所はゲートまで距離があるが、まだ近いほうだろう。 「結構広そうね」 「だな」 なんだかんだ言いつつも、俺も悠も外観から既に気品や高級感の感じられるエスプリモールに機体が高鳴っているのは違いないだろう。予算はあまりないから、少しだけ懐に吹いてくる風の気配が冬に感じられた。 モール内に入ると、外観同様に内装も拘っている様で、そこいらのショッピングセンターとは漂う雰囲気が違う。だが、多くの人で賑わっている分、少々そのテーマが薄れているように感じるのは俺だけだったか。 「健介、他に見たい所ある?」 俺は特に下調べをしたわけでもなく、悠に付き合いながら興味を引きそうなフロアを見て回っていたが、予算を低く見積もりすぎたか、良い感じに思うものは悲笑するばかりだ。とりあえずTシャツ数枚ですぐに予算が尽きたため、もうこれ以上の出費は痛い。 「いや、用件は一通り済んだから特には」 「じゃ、ちょっとお昼にしない?」 そろそろ昼頃とあって、フードコートで何か食べてから帰るのも悪くないだろう。俺と悠は飲食店フロアへ移動した。あちこちから様々に空腹に訴えてかけてくる食欲をそそらせる香りが鼻につく。 「多いわね」 俺も悠もいくら名店だからと言われていても、行列が出来ているのであれば並んでまで食べたいとは思わない性格だ。一生に一度しか食えないってわけじゃないんだしな。 「喫茶店で軽く済ませるしか無さそうだな」 「そうね、どっちにする?」 一通り見て回ると奥の広場にある二つの喫茶店が俺たちの目に止まった。一つは明るい雰囲気が漂い、もう一つは重厚感があっていかにもエスプリモールを意識した中世の佇まいだ。 「そうだなぁ・・・・・・おっ?」 二つを見比べて、一つ思い出した。 「悠、こっちにしよう」 俺は明るい雰囲気の感じられる店を選んだ。看板にはリレモンドと書かれているのか、それとも違うのかよく分からない。英語であるならそう読めるが、意味が合わない。 「リール・モンド?」 俺が思ったとことは異なる名前を悠が口にした。 「リレモンドだろ?」 俺が聞くと、悠が壁を指差した。よく見ると案内板にご丁寧にアルファベット表記の店名などにはフリガナがふってあった。相変わらず周囲によく目を向けている奴だと心中で苦笑しつつも店に入った。 「いらっしゃいませ〜」 店に入るなり、女性店員がニッコニコな笑顔を浮かべつつ店内に流れる音楽に合わせてリズムを取っているのか、心なしか体が揺れている。随分と楽しそうに接客をしているな。悪気があってのことには見えないから、上手く彼女の時間に乗ることが出来ないが、他のお客も不満は無さそうなので、こういう店なのだろうと思った。「何名様ですか?」と聞かれたので二人だと伝えると奥のテーブルへと案内された。悠は驚いたようで、俺が声をかけるまで店内の内装に見入っていた。もう一つの喫茶店も気にはなったが、昨日隼人に約束した絵本のことを思い出して、こっちの喫茶店にした。窓からは一部しか見れなかったため、俺も店内に足を踏み入れて驚いた。 「すごいわね、このお店」 「ああ、何て言うか、なかなかないよな」 店内は喫茶店だ。スタッフも少々仕事というか趣味で働いているように見えないでもないが、普通の接客だ。だが他の喫茶店と違うのは、棚は色鮮やかな表紙の絵本で飾られている。漫画喫茶などとは全く雰囲気が異なり、絵本の鮮やかさで店内が余計なインテリアを置いていないが、爽やかで華やかに見える。 「絵本喫茶なんて、初めて来たかも」 悠も意外そうに近くにあった絵本を手に取っていた。俺も初めてというか、絵本を専用においている喫茶店なんて聞いたことが無かった。 「ご注文はお決まりですか?」 先ほどの子とは違う、今度はきちんとした接客態度の女の子が注文をとりに来た。 「何にする?」 「このおすすめ絵本セットってどういうのですか?」 俺のことは無視して悠が店員に問う。何か疎外感を感じた。 「こちらは、当店のスタッフがお勧めする絵本とランチのセットです。また、お客様のご要望がおありでしたら、その中でのお勧めをご用意致しております」 また少し変わったサービスだな、と思うが、先日隼人が言っていたことを思い出して数百もある中から自分で探すよりは、探してくれるというのだからちょうど良いかもしれない。 「俺はそれで」 「私も同じものを。あと、空をイメージした絵本があればお願いしたいのですけど」 「絵本セットお二つですね。畏まりました。少々お待ちください」 注文を繰り返し営業スマイルを残すと、店員が厨房のほうにメニューを伝えに消えた。 「ここって販売もしているみたいだな」 テーブルの上に置かれているボードタイプのメニュー表にブックセラーを兼ねていることが書かれていた。 「でも、後日配送ってことは注文販売みたいね」 贈呈用の包装やら細かく書かれていた。本屋はモール内にも大手の書店などが入っているが、絵本専用に取り扱っているのはこの店くらいだろう。隼人の希望に副える物が見つかるだろうか。 「翌日配送可なんだから、火曜にでも届けてもらって持っていけば良いんじゃないか?」 俺の次の診察は水曜だ。その時に持っていけば良いことだろう。悠も納得してくれたようで、他にも自分なりに気になった絵本を手にとってはインテリアにもなりそうなものを買うつもりらしく、見定めていた。 「お待たせ致しました。こちらが絵本セットでございます」 先ほどの店員がランチと絵本を持ってきた。受け取るとごゆっくり、と他のお客の元へ戻り、俺たちは昼食を取ることにした。 「空飛ぶピアノだって」 「俺は羽の生えたタンポポだ」 聞いた事のないタイトルだ。もとい、俺は絵本なんて子供の頃以来のことだから、飾られている絵本なんてどれも知らない。ランチを食べる手を片手に、二人して絵本に没頭する。会話はない。まるで蟹を食べている時みたいだ。店内にピアノ曲が流れている。悠の絵本にはぴったりかもしれない。俺の方は、タンポポの綿種が新しい世界を目指して風と共に色々な場所で花や虫と出会って、自分の居たい世界を旅して行くというストーリーだ。要は人間の生き方と同じなのだろう。親元を離れて独り立ちしていく不安と期待が上手く表現されている。やはり狙いは幼い子供だからか、それほど文字は多くない。温もりのある絵がなかなか良い味を醸し出していた。久しぶりに読むと絵本も悪くないかもしれない。 「うん、これは良いかも」 俺が読み終わった後に悠が満足げに絵本を閉じた。タイトルだけじゃ内容がいまいち掴めない。表紙には空を飛んでいるのか、ピアノと子供や動物が描かれている。気になって悠に借りて見ると、俺のとは内容が全く異なり、空を飛ぶピアノが、人や動物の願いを叶えるために演奏しながら空を飛んでいくというものだった。ピアノの演奏を聴いた者の願いが叶うという、いかにも絵本にあるというか、絵本でしか描けない世界観だと思う。 「隼人には良いと思う。俺にはちょっとばかしよく分からん」 何となく著者が言いたいことは分かるが、俺はどうやら心が穢れているらしい。内容がいまいちピンと来るほど飲み込めなかった。だが、隼人のことを考えると、きっとこのピアノに元気になって外で遊ぶんだ、などと願いを掛けそうな気がする。入院生活で外に焦がれているだろうから、こういう話があると少しは気分も変わってくれるかもしれない。俺の感想に満足したのか、悠は俺の本も気に入ったようで買うと言っていた。 俺が清算を済ませている間に悠が絵本購入用のレジで注文をしていた。レジで絵本に書かれている番号を言えば後は住所等を書くだけで言いようで、すぐに悠も支払いを済ませていた。 その後も一通りモール内を見て、食材やら化粧品やらを買って、俺たちは帰路に就いた。疲れたことは疲れたが、疲労というほどの疲れではなく、心地良い休日の疲れになった。
週が空けると、休日の間に溜まっていた仕事で飛行場は慌しい時間が流れ、俺の雑用も普段の数倍も溜まっていてろくに休憩を取る時間すらなかった。もうじき骨折から一ヶ月も経つこともあり、すっかり右腕での作業に慣れてきて休息に右腕の筋力がつき始めだそうと言う時期を迎えようとしてきた。 「おい、奥田。航空祭の会場設営の打ち合わせ資料はまだか?」 「はい、ただいま」 今はそれどころじゃないか。あと二ヵ月後に行われるウチの飛行場の航空祭の準備が半ばを迎えて、飛行計画の他にも出店やフリーマーケットの打ち合わせなど俺にはてんで関係ない雑用まで押し付けられて、先日の休日はやはり寝休日にしておくべきだったと後悔するばかりだ。 「あ、奥田さん」 「美友紀ちゃん、ごめん。ちょっと時間がないんだ」 何かの用でもあったのか、俺が会場の資料を会議室へ届けにいこうとしたら美友紀ちゃんと出くわした。藤沢上官が急かしていたからのんびりと会話を楽しんではいられない。 「あっ・・・・・・」 何か言いたげにも見えたが、会議室の前で直接の上司じゃないが、今は仮にも雑用係のため、俺を呼ぶおっさんも一応は上司だ。やれやれ、もっと怪我人を労わることくらいしてくれと、内心は思いながらも言葉に出すことはしなかった。腕一本でへこたれていては申し訳ないと思う気持ちのほうが今は強くなっているからだ。 「昨日からあいつ、何かまた変わったよな」 「香田さん・・・・・・」 これから飛行のようで制服姿だった。窓の外から小型のバスが見え、数人の観光客の姿も見受けられ、これから遊覧飛行というわけらしい。 「ここ最近のあいつは浮き沈みが激しいな。パイロットとしてはアウトだな」 香田が呆れたように健介が入っていった会議室に目を向ける。週明けの昨日から仕事が多忙なことも一つなのだろうが、週末はどこか何かに遠慮するようによそよそしく仕事をしていた健介が、今度は気分一転に張り切って仕事をしている。パイロットたるもの精神的に強くなければ勤まらないが、健介はちょっとしたことで変化が子供のように変わる。 「そうですね、何かあったんでしょうか・・・・・・?」 「だろうな。じゃなければ、余程のことがない限りは、ああはならんさ」 そう言い残すと、香田は搭乗前のお客様への挨拶へと受け付けの前の待合所へ向かっていった。 「余程のこと・・・・・・」 一人廊下に残された美友紀は、ちょうど整備の打ち合わせでバードフライの各機体の機付長たちと事務所の一角で打ち合わせをしている悠と目が合い、逃げるように受付へと戻っていった。 「何だったのかしら?」 「雨宮さん? どうかしましたか?」 「いいえ、なんでもないわ」 一瞬目を合わせたが、すぐに姿を消した美友紀に悠は首を傾げていたが、打ち合わせの途中だったため深く考えることはなかった。 「お疲れ様でした」 月曜火曜と、休憩すらまともに取ることなく仕事をこなしてた健介。ようやく溜まっていた仕事も片付き、悠はまだ上がっていないためしばらく待つことにして一服していると、こちらも仕事を終えたような美友紀が少し良いですか? と私服姿で事務所の休憩スペースで寛いでいた健介の前に来た。 「美友紀ちゃん、どうかした?」 「少しお話がしたくて」 どこかしおらしい美友紀ちゃん。さっきまでいつものように明るい笑みを浮かべていたから、少々戸惑ってしまう。まだ半分も吸っていない煙草をもみ消し、コーヒーで口直しをして身を正す。 「話って?」 仕事のことだろうか。ここ最近は色々と忙しくてきちんとこなしてきたつもりだが、帳簿の整理が間違って美友紀ちゃんに迷惑を掛けたか。自覚なしだったのは痛いな。美友紀ちゃんが何か思いつめたような顔をしている。覚悟して聞くほうが良さそうだ。 「あの、ですね」 「うん、覚悟は出来てるから、遠慮なく言ってくれて良いよ。責任は取るから」 俺の言葉に美友紀ちゃんが動揺していた。大きく目を見開いて俺を見てくる。少々顔が赤らんでいるのは、それだけ美友紀ちゃんは言うべきかどうかを考えているのかもしれない。 「あ、あの・・・・・・・」 そんなに言い難いくらいなヘマを俺はしてしまったのだろうか。なかなか言い出さない美友紀ちゃんに内心心臓が強く脈打っている。 「奥田さん、前に言いましたよね。雨宮さんとは何もないって」 「へっ?」 全くの予想外の言葉に思わず、変な声が出た。美友紀ちゃんが恥ずかしそうに、言っちゃったぁ的な顔をしている。そして俺は呆気にとられている。 「だったら、私と付き合ってもらえませんかっ」 美友紀ちゃんは既に勢いで言ったのだろう。俺が呆気に取られ思考が停止した状態に、さらに機能停止にでも追い込むような言葉が聞こえた。はっきりと。 「えっ、み、美友紀、ちゃん・・・・・・?」 「お返事はまた今度で良いですから」 それだけ言うと、恥ずかしさで一杯なのか身を翻して掛け足取りで事務所から出ていった。何事かと仕事をしているスタッフが不思議そうに美友紀ちゃんの後姿を見ていた。とうの俺は何も答えられなかったというよりも、状況が掴めずただただそこから動けなかった。 「やれやれ、どいつもこいつも中坊かっての。ま、俺も人のことは言えねぇか」 それを智史が苦笑して見ていたが、俺の目には留まらなかった。 「あ、雨宮さん・・・・・・」 「あなたも今帰り?」 逃げるように受付の前まで来た美友紀の前に、仕事を終えた悠が現れた。悠はいつものように普通に声を掛けたが、美友紀には今一番顔を合わせたくない人物の一人だったため、一礼すると会話を交わすことなく裏口から駆けていった。 「・・・・・・・・・?」 何も知らない悠は今日の美友紀の様子にただ首を傾げて見送るしかしなかった。 「健介、終わった?」 「あ、ああ。悪い、ちょっと色々あってな」 どうやら悠は先に仕事を終え、なかなか車に来ない健介を呼びに来たようで、それを見た健介が悪戯を隠す子供のように慌てている姿に何となく勘付いたようだが、何も言うことなく二人して帰路に就いた。車を走らせ、飛行場から十分ほどして掴まった周囲にほとんど明かりのない信号で信号待ちをしていると、悠がぼやくように口を開いた。 「健介、私は別に今更だから良いんだけど、いいの?」 今日はいつもとは違って車内にはラジオも悠の好きなエオリアン・ハープや他のエチュードを入れた音楽も何もかかっていない。対向車もなく信号の少々暗闇に浮かぶ不気味な赤い光と車の白い光に、メーターの蛍光緑の微かな光があるだけで、二人の顔は互いにはっきりとは見えなかった。 「・・・・・・見てたのか?」 悠が何を言おうとしているのか悟った健介は、問われてから数秒ほど置いて横目で悠を窺うように口を開いた。 「私がそういう性格じゃないことくらい分かってるんじゃないの?」 悠ならもしあの場にいれば、誰かがそのことを囁くだろう。だが、あの時は誰もそんな様子を見せることなく仕事をしていた。健介には容易に考え付くことだった。 「小野原さんに言われたんでしょ。それでまだ何も答えていない。受け入れたんなら、もう私の出る幕じゃないけど、まだなら今のうちに考えておきなさいよ」 あの時を見ていないにも関わらず美友紀とすれ違った程度だというのに、悠の勘は恐ろしいほどに鋭く、優柔不断になりがちな健介を叱責するかのような言葉。彼女とて女性だ。美友紀のことくらい考えるまでもないのだろう。美友紀の健介への態度で気づかないのは、健介くらいなものだ。他の誰もが口にしないだけで、恐らく飛行場のスタッフの半数は薄々と感じているだろう。 「急に言われてもな。すぐには答えられないって」 悠が自分に何を言おうとしているのかくらい分かる。俺があの時美友紀ちゃんの申し出を受け入れれば、俺は居候を辞めなければいけないだろう。しばらくは一人暮らしに戻ったところで乱れるのは食生活くらいな気もするから平気だが、そこは今一番考えるところじゃないのも分かっている。だが、今はどちらかと言うと一刻も早くフルート共に空へ戻ることが俺の中では最優先。だから、困惑してしまう。仕事場で五本の指に軽く入る子から告白されて嬉しくないわけじゃない。 「いつまでも引き伸ばされると、ストレス溜まるんだから、そこは覚えておきなさいよ」 信号が変わり、悠が車を発進させる。Gと呼ぶほどじゃないが、背もたれに押し付けられる微かな重みが一瞬どこか深くにドン、と重たくのしかかるように感じた。結局この日は足早に悠との時間を切り上げると、そそくさと自室へ戻った。二日間で仕事の疲労は早くも溜まっていて、すぐにでも眠りにつけそうな気がしていたが、結局意識を失ったのはベッドに入ってからかなり時間が経ってからだった。 「今日もいないな」 水曜の受診日。診察を受けレントゲンを取り、怪我の経過を珍しく医師が真面目に語り、具体的なこれからのことを聞かされ、診療を済ませるといつもなら隼人が待っている待合所にもその姿はなく、病室へと昨日届いていた可愛い包装紙で包まれた絵本を持って向かった。 「おはようございます」 病棟へ向かう途中、隼人の母親が同じエレベーターに乗り込んできた。着替えやらを入れているのだろう。大きなカバンを手に俺たちは挨拶を交わした。 「隼人君は、どうですか?」 エレベーターが動き出し、離陸時に感じるよりもはるかに弱い浮重感を感じながら悠が隼人の様子を尋ねた。 「思ったよりも良くないのよ」 てっきりいつものように同室の子たちを楽しませてくれる、うるさいくらいに元気だと言われると思っていたので、母親の言葉に俺も悠も驚かされた。 「悪いって、こと・・・ですか?」 俺が聞くと、しばらく戸惑うように口を閉ざしていたが、意を決して話してくれるようで、エレベーターが止まるのを待った。しばらくの沈黙が、俺と悠に嫌な予感を現実にさせるかのように、苦しく感じられた。エレベーターが止まり、部屋に行く前に隼人の母親が待合所の椅子に誘った。慌しく仕事に追われる看護師や医師が俺たちの前を行ったり来たりし、入院している子も朝食を済ませて早速出歩いていたりと、そこにある光景はいつもとなんら変わりないものだった。 「最近、抗がん剤の効果があまり出なくてね。昨日、左目を失明したの」 しばらく椅子に腰を下ろしたままだった隼人の母親の何気ないように開いた口から聞こえた言葉に、一瞬俺たちは固まってしまった。 「えっ・・・・・・」 「本当・・・・・・です、か?」 悠が信じられないと言った表情をしていた。薄い化粧からでもはっきり分かるくらいに、蒼白に近い顔になっていた。俺ももしかしたらそうだったかもしれない。ほんの数日前まで、俺が持ってきた模型を嬉しそうに抱きしめて自慢げに飾って笑っていたのに、この二日あまりでそこまで症状が悪化していたとは想定外も甚だしい。初めて悠が隼人の見舞いに行った後に俺も隼人の病名は聞いた。正直俺が分かったのは、小児がんの一種だということだけで、それ以上はどんな病気でどんな治療が必要だとかは知識が皆無だった。 「もともと、隼人は無理しがちでね、本当は病室で大人しくしていないといけないのよ」 周囲のざわつきが嘘のように、俺の耳に入ってくる現実だとは信じたくない事実が静かに聞こえる。 「抗がん剤の治療の影響で、頭はああだし、体力も元からほとんどないのに無理して遊ぶことに気を使うから、本当は起きていることも辛いはずなの。想像以上にあの子はボロボロなのよ」 何と言ったら良いのか、どう言葉を返せば良いのか浮かばない。しっかりと隼人の母親の言葉は俺の中に浸透している。だからこそ、世辞すら浮かんでこない。 「私ですら、あの子の事は分かっていなかったわ。この前になって目がぼやけているって言ったの。まだまだ子供なのに、変なプライド持っちゃって隠してたのよ」 「それじゃあ・・・・・・」 悠が最後まで問うことなく、隼人の母親が頷いた。何を聞きたいのか分かっているようだ。 「視神経にも転移していたの。それが原因で目が見えなくなるかもしれないとは聞いていたの」 俺たちでもかなりのショックなだから、家族ともなれば、ましてや自分が激痛に耐えてその手に抱き上げた子ともなれば、計り知れない不安や恐怖、自責などを感じずに入られないだろう。こうして平然と俺たちに語るには、相当な覚悟の上でのことでしか出来るようなことじゃないはずだ。肉体的な負担よりも、心理的負担はきっと今の俺では理解しかねるはずだ。 「今は熱もあって寝てるわ。昨日はずっと一人で静かに泣いていたから疲れたみたいね」 悲愴なことだろう。親にとっては自分の肉体を引きちぎられるよりも苦痛かもしれない。昨日は一日中傍について、さきほど着替えを取りに戻ったらしいが、きっとろくに休んではいないのだろう。 「息子が苦しんでいても笑っているのに、何も出来ないなんて、母親失格ね」 自分の不甲斐無さを自嘲するように笑みを浮かべるが、その目は虚ろで力がなかった。 心の中ではいくらでも言葉が浮かんでくるが、口から出すに相応しい言葉など俺は持ち合わせてなどはいなかった。だが、一つだけ分かることがある。子供に何も出来なくても、そこにいてくれるだけで、子供は安心出来るのだと。 「さてと、そろそろ戻らないと。あなたたちも仕事があるんでしょう? 早く行かないといけないんじゃない?」 語るのもしんどいことなのだろうに、俺たちを気遣ってくれる、その母の力は偉大だと感じた。それでも隼人の母親は、自分を責めている。そんな人に俺が余計な励ましなどをするのは、かえって追い込むようにしか思えず、俺は自分の口を固く閉ざした。悠もこの時ばかりは俺と同意見だったようで、悲哀に満ちたような眼差しを浮かべるだけだった。 何も出来ない俺たちに出来ること。今は一つだけしかないと思い、俺と悠は顔を合わせると、隼人の母親に絵本を渡した。 「あの、これ、隼人君にと思いまして」 視界がぼやけていて、左目が失明したともあれば、正直これを贈るのは非道かもしれない。人前であれだけ元気を装っていた隼人が、今どんな気持ちでいるのかを思うと、合わせる顔がないというものだ。もっと早く知っていれば、もっと早く分かってあげていれば、きっとここで絶句して何も出来ないことに対して打ちひしがれることもなかったはずだ。 「ありがとう」 悠が差し出した絵本を温かな瞳で受け取ると、もう一度ありがとう、と言葉を残して隼人のいる病室へと歩いていった。今日は合わせる顔がなかった。あれだけ楽しみにしていると言って笑い、俺たちが仕事へ行こうとした時にどこか哀しげに見つめていたあの瞳。あの時は何も思わず、ただ俺たちが来たばかりなのに遊ぶことも出来ずに帰ることを寂しく思っていただけだと思った。だが、もしかしたらあの時既に俺たちのことはぼんやりとしか見ることが出来ず、隼人自身が次に会う時はもう俺たちを声と匂いと触感でしか感じられないと悟っていたから、焼き付けるように、見納めにするようにあんな瞳をしていたのかもしれないと思うと、心を強く締め付ける心苦しさに襲われる。そんなものは俺たちが勝手に思うだけのことかもしれないが、どうしてもそう思ってしまう。 「健介、行こうか」 いつもなら、俺が従うことが決定しているような『行きましょ』なのだが、悠も相当なショックを受けたようで、酷くも優しくも聞き取れる声だった。 「ああ」 俺たちは結局そのまま再びエレベーターを降り、病院を後にした。受付前で名前を呼ばれるのを待っている多くの怪我や病を抱えた人々。きっとここにいる人間のほとんどが、階上の病室で懸命に己を蝕む続けるものと闘っている、小さな掌に夢を抱き続けている命があることを漠然と、もしくは何も知らずに何も考えることなく、自分の番を待っているのだろう。これほどまでに今まで自分の力のなさを痛感したことはなかった。この数日は奥田健介と言う人間を様々な観点から自分で自分を見せられた気分だ。 「悠の言う通りだな」 隼人の見舞いを初めて行った後に言った悠の言葉が今になって本当の意味を理解した。 「私たちには、守らなければならない義務よね、あれは」 「そうだな・・・・・・」 仕事に向かう車内は、昨日とは全く違う静かな空気が漂い続けていた。飛行場に着き、いつもと同じように俺は事務所へ悠は格納庫へと今までで一番の遅刻をしながら仕事へと向かった。 「あ、奥田さん」 いつもなら社員は裏口からと決められているのだが、気がつけば俺は正面から入っていたようで、お客の対応をしていた美友紀ちゃんと目が合った。 「おはよう・・・・・・」 昨日告白されたことすらも、既に今は昔のことのようで俺はそのままお客に軽く頭を下げると、そのままろくに会話をすることなく階上へと上がっていった。 「奥田さん・・・・・・?」 不思議そうに美友紀が健介の後姿を見つめていた。昨日の今日で顔を合わせた時はどう接したら良いのか、気まずくはないかなどと色々と悩みどころがあったが、健介の昨日とは打って変わった表情にどこ吹く風のように美友紀はただ呆気に取られるばかりだった。 「あいつ、今日はどうした?」 業務が午後からということで健介の先輩の香田が美友紀と同じような顔を浮かべて健介の前の机で飛行計画書を見つめている智史の肩に手を乗せていた。 「俺にもさっぱりなんすよ。来て早々明後日の方ばっか見て、仕事になってないんですよ」 智史も昨日までそろそろ切り上げろよ、と仕事に精を出していた健介に苦笑していたのに、今日は今までが嘘のように茫然自失している健介に呆気に取られていた。 「全く感情の起伏が激しい奴だな。あんなんを藤沢さんが見たら即刻下ろされるぞ」 不幸中の幸いなのか、藤沢上官は山頂にある気象観測装置の老朽化に伴う改装工事での資材搬送の業務に出ていて、夕刻まではほとんど飛行場と観測基地の往復で事務所に戻る時間はなかった。 「昨日まではなんだったんだか。先輩は何か知らないんすか?」 「分からん。昨日何かあったか?」 香田の言葉を受けて智史が昨日のことを思い返すが、今日の健介の様子に見合うような出来事は一つしかない。だが、健介のことだ。答えを出していないからと言って健介のことなら、不気味なほどに仕事に打ち込むか、無駄にハイテンションでいるはずだと思った。悠と何かあったとするなら今の状態は考えられなくもないが、それならきっと一人で何かをひたすら呟くか、延々と同じ書類のコピーを取っていたりと意味不明な行動をしているはずだと、仮にも親友だと自負している智史は考えた。 ペースこそ今までよりも驚異的に落ちているが、何とか仕事はしているようだ。ただ身が入っていないだけで、ここに上官がいれば一蹴して渇を入れれば問題はなくなるかもしれないが、その頼みの綱も今は香田だけ。 「あー、えっと・・・・・・」 智史はこのことを言うべきか悩んだ。美友紀ちゃんが誰を好きで、健介の気持ちが傾いているのが誰で、香田が狙っているのが誰で、健介の気持ちを間違いなく受け止められるのが誰であるのかを把握している智史としては、自分の一言で全てが公になる気がしてどうするべきか判断に悩んだ。 言い淀んでいる智史に、香田は話を聞かせろと耳を寄せてくる。健介は相変わらず上の空でため息を混じらせながら書類の整理をしていた。 「あー、実はですね・・・・・・・・・」 自分の目標としている先輩というだけあって、逆らうことが出来ず昨日のことを話した。 「・・・・・・そうか。分かった」 智史の話を聞いた香田は感情を高ぶらせることも、落ち込むこともなく大人の対応らしく冷静に頷いていた。 「あっ、でも、あいつ返事はしてないですよ。美友紀ちゃんがその前に帰っちゃったんで」 とりあえずフォローも入れておいたが、香田は聞いているのかいないのか、デスクに向かって読書でもするかのように静かにパソコンを見つめている健介の下へと歩み寄った。 「健介、ちょっと来い」 健介の肩を叩くが、健介は静かにパソコンの画面に釘付けにされたように見入っていた。集中すると小さく口が開くの癖でもあるのか、目だけは画面の羅列された文字を追っているが、それ以外は人形のように固まったままだった。 「おい、健介っ」 数回呼び掛けても無視しているのか振り向きもしない健介に香田が軽く左腕を叩いた。 「いっ・・・・・・つっ・・・・・・!」 突然の腕からの激痛に無表情だった顔が痛みに歪んだ。智史が健介に、うわぁ痛そう、と自分がされたわけでもないのに苦虫を噛み潰した顔をしていた。 「・・・・・・あっ、先輩。急に痛いじゃないですか」 本当に今の今まで気づいてなかったようで、微かに涙目で見上げていた。 「ちょっとこい。仕事になってないだろ」 香田は問答無用で健介を連れ出した。訳が分からず健介は連れられていくだけだった。事務員や他のスタッフたちも何を言うでもなくそれを見送っていた。その中で智史は健介に同情しながらも、健介が先ほどまで見ていたパソコンを覗き込んだ。 「あいつ、何見て固まってたんだか」 しばらくは戻ってこないだろうと踏んでいたため、智史は自分にも責任があると思い、少しくらいは肩代わりをしてやろうと健介のデスクに移って開かれたままのホームページに目を向けた。 「何だ、これ・・・・・・?」 てっきり飛行関係かと思って目を向けた智史の顔が困惑に満ちた。目に映っているのは航空機体のことでも、気象情報でも、曲芸飛行のことでもなんでもなかった。 「小児がん・・・・・・?」 画面の上部に書かれていた言葉。他にも詳細に病気のことが症状から治療法まで詳細に書かれたページが開かれていた。 「何であいつ、こんなの見てたんだ?」 智史は健介の不可解で意味深な行動がさっぱり理解出来なかった。 「ここで良いか」 ちょうど離島への野生動物生態調査をするために、予約のあった大学の教授らが乗るエアロスパシアルがローターを回転させ始めていた。航空局に申請許可を行っていたから、低空飛行等をするつもりなのだろう。次第に離陸に向けてローターの回転が早まり、ゆっくりと機体が地から離れて飛び立った。ヘリには航空機とは違い、少々離陸から着陸までの手続きに手間が掛かるが、それが当たり前の為、苦になることはなかった。 「先輩、どうしたんすか?」 全く状況が掴めず、ただ香田の後をついてきた健介が来たのは、屋上だった。仕事時間とあって二人以外に人影はない。管制塔からなら見えるかも知れないが、どんな会話をしているのかまでは誰にも分からないだろう。 「それはこっちの台詞だ。昨日までのやる気はどうした?」 先輩が煙草を取り出し、火をつけ大きく吸い込んで吐き出した。風に流されすぐに空気をどうかして白い煙はどこかへ消えていった。 「それは・・・・・・」 返答に困った。今日は今迄で一番仕事に力が入っていない。それは自負してた。もし、今のままで腕の怪我がなく、飛行が入って飛んででもいたら死んだだろう。そうならないために健康チェックはあるし、そもそも怪我をしていなければ隼人とも出会うことはなかったのだから、こんなことを考えるのは野暮だな。 俺から言わない限り先輩は追及しないと言うようで、ただ煙草をふかしていた。隼人のことを悠以外と言葉交わすのは、今の俺には出来るものじゃなかった。いくら先輩であれど、それが上官であれど、まだ数回の見舞いで言葉を交わした程度の子のことを口にするのは、特に昨日あんなことを聞かされた後とあっては尚更の事だった。俺が何も言えないからか、航空機のエンジン音がするにも関わらず、嫌な空気と静けさが気持ち悪くなる。 「健介、お前はパイロットだろ? ここ最近のお前はその自覚を全く持っていないな」 痺れを切らしたのか、先輩が煙草を携帯灰皿に押し込めて俺を見てきた。その目は普段は誰からも慕われる先輩の目ではなく、一人のパイロットとして、元自衛官としてのような厳しい目だった。 「そんなことは・・・・・・」 「本当に言い切れるか? ここはでかい空港でも自衛隊でもなんでもない、小さな飛行場だ。だがな、そんなものは関係ない。俺たちパイロットに関係あるのは人の命と責任を預かることだ」 先輩が視線を俺から着陸してきた軽飛行機に向ける。 「パイロットも整備士も管制員も、事務員も全員が同じものを背負って、この小さな飛行場を運営してるんだ。それを楽しみにしてくる大人も、それに夢を見る子供も来るんだ。私情を挟むなとは言わん。俺たちは人間だ。不完全だからこそ前に進めるからな」 ただ黙って先輩の話に耳を傾けるだけだった。先輩が俺を説教するのは多いが、ここまで語る説教というのは、ここに入社して初めてバードフライに入れたことに浮かれていた時にされた以来かもしれない。 「けどな、お前は弱すぎる。それくらい分かるだろ?」 この数日の自分を思い返してみろ、そう言われている。思い返せば反論出来るだけのことを俺はしていないだろう。怪我前は少しばかり気取るところがあったが、比較的泰然自若とまでは行かずとも、仕事中は心身ともに安定していた。それが今じゃ色々あって、強く気持ちを持つこともあれば、今日のように全く身が入らないこともある。 「・・・・・・はい」 「怪我人だからって確かに甘えてくることは少なくなったが、それでも今のままだとお前は二度と飛べないぞ。今のままが続くのなら、俺がお前を外す」 「・・・・・・はい」 そう答えるのが精々だった。自覚しているから、他に返す言葉が思いつかないのが正直なところだ。 「分かっているなら、言葉だけじゃなくて態度で示せよ」 どうやらこれで終わりらしい。先輩が背伸びをすると、いつもの表情に戻っていた。 「で、だ」 先輩の説教が終わったと思い、方の力が抜けたとたん先輩がまた説教する時とは違う顔で俺を見てきた。心なしかその距離が縮んだ気がする。 「お前、小野原に言われたのか?」 「へ?」 一瞬何のことを言っているのか分からなかった。呆ける俺にもう一度先輩が耳打ちするような小声で言ってきた。 「小野原に言われたんだろ?」 もう一度言われてようやく、事情が飲み込めた。でも、何で先輩があれを知っているのかは不思議だった。 「で、どうなんだ?」 どうやら先輩は俺がどう答えたかを聞きたいようだ。もしかしたら、こっちが今日の話のメインではないのだろうかと思った俺は不躾だろうか。何しろ、先輩の目が先ほどよりも本気だ。確か前に食堂で美友紀ちゃんがどうのこうのと言う話題になった気がする。先輩が美友紀ちゃんを狙っているのは前々から知っていたことだから、俺の予想はあながち間違いではないだろう。 「どうも何も、まだ返事すらしてないですよ」 「で?」 特に他の言葉を言うわけでもなく、先輩は俺を見てくる。正直今の目は説教する時より怖い気がするのは何故だ? 「で? とは?」 じっとりとした目つきで、思わずたじろいでしまう。どうやらその先、つまりはどう返事をするのかを聞きたいようだ。正直、今の俺にはそこまで考えられるほど余裕はないんだが。 「今はちょっと一杯一杯なんで、考えてはいないです」 正直に言った。美友紀ちゃんの好意は嬉しいが、どうしても今頭を過ぎるのは悠と耳にした隼人のことだ。仕事の説教を受けていながらも、やはり俺の考える所は隼人に対してのことばかりだった。天秤に掛けるわけではないが俺にはどうしてもそっちの方が大きく、重たく感じてしまった。 「断るのか?」 「そのつもりです」 今は仕事への本格復帰と、小さな友人に何を俺が出来るのかくらいしか、真摯に考え受け止めることが出来ない。俺は先輩の言う通り強くないから、何にでも精通できるような力は身についていない。美友紀ちゃんには悪いが、どうしてもその二つが俺の今を象徴するかのように心の中で大きな物になっている。 「雨宮か?」 「違いますよ。そんなんじゃないです」 ―――もっと重たいものです。そう口にすれば少しは気分が晴れるかもしれないが、きっとそれは俺が思うだけのことで、先輩に言ってしまえばぶたれるだろう。痛いのはこの腕の痛みと、棘が刺さっている今の心だけで十分だ。 「お前はそれで良いのか?」 「今の俺じゃ美友紀ちゃんには釣り合えませんから」 先輩、今日は意外と粘るな。いつもなら軽く受け流して終わりだというのに。それだけ先輩は、ということなのだろう。 「そうか。だが、綺麗でいられると思うなよ」 短く言うと、先輩は先に戻っていった。その横顔は真剣に見えたのは気のせいじゃないのだろう。 「とりあえず、今出来ることは今のうちにけじめをつけないといけない、か」 いつまでも引き伸ばせば、相手に期待と不安を強く抱かせてしまう。それを煽るようなことだけはしたくない。今出来ることは、きちんと答えを伝えることだろう。それからまた悩めば、少しは次に向けての薬にはなるかも知れない。 「・・・・・・よしっ」 右手で両方の頬を叩いて気持ちを引き締めると、昼も近いこともあって、戦に出掛ける前の腹ごしらえと行くことにした。
「はぁ・・・・・・」 テキパキといつもなら指示を飛ばしている悠が、周りで作業している整備士の中で、一人幾度となくため息を吐いている。 「雨宮、ローター軸んとこ、オイル差しとけ。それとスキッドに車輪ロックもだ」 大浪が悠に指示を飛ばすが、悠はヘリのボディに雑巾で同じところばかりを拭いているだけで聞いているのかはっきりしない表情だった。 「私の時とは何もかも違うのね」 悠が思い返しているのは、恐らく幼き頃の自身の入院生活なのだろう。 「あの頃は、辛いことしかなかったのに、隼斗君は笑ってるんだもん。健介も頑張ってるのに、私一人、何してるんだろう・・・・・・?」 悠は十分すぎるくらい頑張っていると言うのに、本人はそれが満足できるものではないと思っているようだ。 「雨宮、聞いてるのか?」 「私、空回りしてないかな・・・・・・」 いつもは自信に溢れ、気丈に振舞い、周囲からの評価は高いというのに、本人はそれ以上の期待を過度に背負っているのかもしれない。そのため、自分自身に自信を見出せていないようでもある。 「全く、らしくないわよ、私」 パンと頬を叩く。仕事に私用の思いを挟んだ自分を叱咤するように。 「雨宮」 「あ、はい?」 だが、そんな雨宮を見て、大波がいつもと様子の明らかに異なる悠に表情を険しくして歩み寄ってきた。
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