遠くから俺をまどろみの世界から強く引き寄せる音がする。それは心地良いものじゃない。ユメウツツな何事にも変えがたい優しく穏やかな波の間に間に漂い、暖かい日差しを体全体に浴びる南国の海で波の音と風の音、透き通る蒼とどこまでも高く大きく広がる白の世界に一人静かに浮かぶ俺を、都会の喧騒に連れ込みビルのエアコンや車の排気で汚れた世界へ放り出すかのような不快音感。 「うぅーん・・・・・・」 背泳ぎでもするように右手を天上に掲げると、力が入らずにそのまま頭上へと引力に引き寄せられる。九〇度から〇度までの間に勢いのついた俺の手が、途中三〇度の所で硬い物を捉える。それが俺を現実へと引き戻すものだと理解するのにしばし時間を要する。けたたましいアラームだとようやく認識すると、それを止めるサイドキーの場所を腕だけ別の生き物になったように勝手に動く。 「ふぁぁ〜・・・・・・、あー・・・・・・」 心地良かった世界から一変した現実へ引き戻されると、どこかの映画に出てきそうなゾンビのように意識が朦朧とする。携帯を寝惚け眼の状態で見ると、 「げっ! 九時!」 携帯のサブディスプレイに表示された時間は九時五分。昨日の記憶が正しければ四時にアラームをセットしていたはず。五時間も寝過ごしたとはあっては、先ほどのまどろみなどどこへやらといった感じで眠気は一気に吹き飛び、嫌な寒気が背筋を走った。 「あれ・・・・・・?」 思わず叫びそうになったが、ふと疑問が浮かんだ。まだ頭が回転していないのかもしれないが、こんなに寝過ごしたら一人暮らしではないのだから悠が俺を叩き起こすはず。それが無い。しかもまだ部屋が暗い。少しずつ覚醒を始めた頭でもう一度携帯を見ると、力が一気に抜けた。 「何だよ、逆じゃんか」 寝惚けていたせいで時計を逆に見ていた。良く見れば四時四十五分だ。ほっとすると頭の回転も平静も取り戻してくる。 「はぁ、焦ったぁ」 誰にも見られなくて良かった。この歳になって情けないくらい焦った気がする。今の失態を悠に見られたら、何とも言えない羞恥を味わうな。 「寝惚けとはいえ、馬鹿丸出しだったわよ」 「っ・・・・・・!」 部屋の入り口で、寝巻きにしているラフな格好で俺のことを見て今にも噴出しそうな顔で見ている悠がいた。 「今日は早いのね。いつもより一時間は起きるには余裕があるわよ?」 含み顔で、唖然とする健介を眠れなかったの? と見る悠。健介は自分の醜態を丸々見られていたことを忘れるかのようにしばし呆然としていた。 「まだ朝ごはん出来てないから、もう少し寝てて良いわよ」 それだけ言い残すと、悠はキッチンの方へと部屋を後にした。 「・・・・・・なんで起きてんだよ」 本来ならこのまま静かに身支度を整えて、バスがない分タクシーでも呼んでサウナで時間を潰してから出勤しようと密かに考えていた計画が、既にどこかからか漏洩していたのか、悠は既に朝食の支度に取り掛かっていた。何だかすること考えることが全て 悠の手の上で踊らされている気分だ。今更取り繕うつもりはない。諦めて従うほか無いだろう。 ベッドから重い腰を上げて、背伸びしながら欠伸を漏らすと首を左右に曲げつつ洗面所へと向かった。 「あんたが私を出し抜くのはまだまだ無理よ」 そんな声が聞こえた気がしたが、魚を焼いている音でよく聞こえなかった。 「じゃあ、はやとによろしくな」 いつもより一時間も早く目が覚めたせいで、家にいてもすることが無いということで少々早く出勤した。たまの休みにも関わらず、わざわざ飛行場まで送ってくれた悠にこの後はやとの見舞いに行くということで、よろしく頼んで別れた。 「おはよう」 いつもより小一時間ばかり早い出勤だが、それでも既に早朝の飛行の入っているパイロットや整備士たちの半数は仕事を始めていた。どこかの業者の車も来ているから、早速業務手続も始まっているのだろう。 「あっ、奥田さんおはようございます」 事務所に入ると、先ほどの車の業者の方だろうか、受付で手続きの申請を行っていた。軽く挨拶を済ませると、邪魔にならないように奥へと急いだ。 「健介、お前今日は早いんだな」 デスクで今日の雑用もとい、仕事用の書類を分けていると、智史が俺の後から来た。 「早く目が覚めたんだ」 コーヒーを入れ、自分の予定表の確認をしながら俺の正面の自分のデスクに腰を下ろす。既にエンジンの入った航空機の音が響いてくるが、聞き慣れた古い音楽のようだ。 「智史、これかけてくれ」 俺はカバンからMDと一枚取り出すと、智史に投げた。自分で掛けても良いが、智史の後ろにコンポが置いてある。普段はたまにラジオがかかる程度で、他は夜間組みが暇つぶしに音楽を掛ける程度で、その出番は少ない。 「何入れてんだ?」 「ショパン」 俺の答えに智史がショパン〜? と微妙な顔を見せたが、とりあえず多少の興味からかコンポにセットした。昨日悠に頼んでいたエオリアン・ハープに、ついでだからと他の曲も色々入れていてくれたらしい。 「ほう、クラシックか。珍しいな、お前たちが聞くなんて」 コンポからは俺も曲名は知らないがピアノ演奏が流れている。最初にかかっている曲は聞いたことがある。軽快な弾みで華やかさを演出させる曲。 「華麗なる大円舞曲か。朝には良い曲だな」 思わず俺と智史は入り口の方を驚愕の表情で見つめた。 「何だ? 何アホ面かいてる?」 俺と智史の視線が向く先には藤沢上官がいる。飛行場の近くに家族で暮らしている上官は、出勤してくる時間は早い。近いから多少の重役出勤も許されると思うのだが、頑固一徹な雰囲気を自分でも理解しているのか、朝は早い。 「藤沢上官、曲、知ってるんですか?」 智史が物凄く意外そうに訊ねた。他にも十人ほどパイロットや事務員たちが仕事にかかっているが、どことなく曲のリズムに体が乗っているように見えた。 「当然だ。クラシックはよく聞くのでな」 自分のデスクにカバンを置くと新人が入れたお茶に口をつけていた。 「てっきり演歌などかと・・・・・・」 智史の言葉に俺も頷いた。どこからどう見てもクラシックを聞くような雰囲気は微塵も感じられない。むしろ、スナックでママと演歌やブルースでも熱唱している方がしっくりくるお人だ。 華麗なる大円舞曲の後に掛かったのは、上官曰く華麗なる円舞曲らしい。俺は曲名なんてエオリアン・ハープしか知らないし、昔吹奏楽部に入部していたという飛行管理員の女の子に智史が合っているか聞いたら、頷いたので上官の言葉は正しいようだ。しかもそれが変イ長調だとか言うが、俺には何がイ長調で変イ長調なのかすら理解しがたいことなので、そうなのだろうと思うことにした。あの人の口から嘘が出たことを聞いたことが無かったから。 「これは誰のだ?」 「俺です」 上官がなかなか良い選曲してるなと、珍しく朝から俺に対して機嫌が良かった。黒鍵のエチュードとかいう、華麗なる大円舞曲よりも弾み良く、軽快なリズムで華麗なる明るさとでも言おうか、その曲がかかると藤沢上官が鼻歌を披露していた。いつもじゃありえない光景に俺と智史に限らず、仕事をしながらも戸惑う職員で、一種異様な仕事場になった。 「おはようございます」 藤沢上官が朝の飛行準備に入り、事務所を後にするとあちこちから、あんな藤沢さん見たことないね、などと小声が漏れていた。そこにちょうど手続きを終えて、暇が出来たのか美友紀ちゃんが戻ってきた。男たちの一斉に美友紀ちゃんの挨拶に返事をする声が重なった。 「おはよう、小野原」 「あ、はい。おはようございます。いってらっしゃいませ、香田さん」 「おう」 香田先輩が美友紀ちゃんと入れ替わりで運送業務へと出て行く。美友紀ちゃんは飛行へと出て行くパイロットには、店員のようにそう言う。戻ってくればお帰りなさいませと迎える。それが聞きたいがために、わざわざ美友紀ちゃんが事務所に戻るのを見計らう馬鹿な奴もいるが、今じゃ誰も気にしていない。それが当たり前のようになっている。香田先輩もナイスタイミングというか、ちょうど出くわしたからいつものように美友紀ちゃんも送り出し、先輩もおう、と軽く美友紀ちゃんの肩をポンと叩くとそのままドッグへと下りていった。 「あれ? 今日は音楽がかかっているんですね」 さっきまではかかってなかったのに、と美友紀ちゃんも意外そうにその音色に気がついた。テレビのニュースも奥のほうで聞こえているが、所内には悠の選曲した朝にはちょうど良い明るい曲が絶えることなくかかっていた。 「エオリアン・ハープですね、これ」 連絡掲示板に今日の遊覧観光で来訪予定のお客の割り当てやらをチェックやらをしながら、黒鍵のエチュードの次に入っていたエオリアン・ハープに美友紀ちゃんが反応した。 先ほどまでは軽快なリズムにアップテンポ調の華美で派手な曲調から、優雅で華麗な落ち着いた曲に変わったことで、少々高ぶった気持ちを落ち着かせているような人影が見られた。 「美友紀ちゃんもクラシック聴くんだ?」 智史が美友紀ちゃんならクラシックが似合う似合うと、一人で何かに納得していた。藤沢上官に比べて美友紀ちゃんの方がそういう知識はあるように思える。十人中九人以上はそう思うのではないだろうかとさえも思えてしまう。 「あ、いえ。妹が今度ピアノコンクールで弾くらしくて、よく家でも練習してたんです」 だから知識とかは全然、と恥ずかしそうに手を振っていた。 「またまたぁ、そんなに謙遜しなさんな。俺たちなんか曲名はともかく、作曲家すら知らねぇんだから」 なぁ、と智史が俺に同意を求めてくる。拒否したいところだが、俺も悠に教わるまではどこかで聞いたことがある曲しか浮かんでこない。渋々ながら智史の同意に乗った。 「でも、これって誰が持ってきたんですか?」 「こいつだよ、こいつ。柄にも無いことしやがって。この暇人が。仕事しろ、仕事」 智史が飴玉を投げつけてきた。何もしてないお前と違ってちゃんと書類の整理をしてる。くそみそに言われる筋合いはない。むしろテレビの音声だけをバックに仕事をするよりは、体が自然と音楽と同調しているようで、中には体が揺れている奴も多い。おかげで職場の雰囲気が良い感じだから、何となく俺の仕事も捗っているように感じる。実際にどうかは愚問としておくが。 「そんなこと無いですよ。奥田さんの選曲が良いから、皆さんいつもより快調そうですよ」 美友紀ちゃんがフォローを入れてくれるとは。少し鼻が高くなった気分だ。 「だよね。たまにはこいつも、いっちょやってくれるから、俺も親友を止められないんだよ」 「お前は喋るな。仕事行け、仕事」 調子良い奴だな、本当に。呆れてしまうが、たまにはこういう朝も悪くはないだろう。どうせ後数時間もすれば、パイロットはほとんど出払って、閑散とするのがいつもの光景だ。ちょっとくらい賑やかになるなら、それを今は楽しみつつ仕事をすれば良い。ギスギスした中で仕事をしても肩が凝るだけだ。飛行中は神経を使うパイロットには、こういう安らぎは悪くはない。 「奥田さんってクラシック好きなんですか?」 「いや、元々は興味なかったんだけど、悠・・・いや、雨宮にエオリアン・ハープを聞かせてもらったら気に入ってね。このMDも作ってもらったんだ」 「・・・・・・そうなんですか」 途端に美友紀ちゃんが落ち込んだように見えたのは気のせいだろうか。 「小野原先輩、お客様がお見えになっています」 もう一人の受付担当の新人が美友紀ちゃんを呼びに来た。今年入社の新人にはまだまだ一人で対応が出来ないようで、わざわざ呼びに来たようだ。内線を使えば良いのに、気が回らなかったようだな。 「美友紀ちゃん、呼んでるよ?」 しばらくコンポの方を静かに見つめていた美友紀ちゃんは、後輩の声が聞こえなかったようで、智史が美友紀ちゃんの目の前で手を軽く振って意識を確認していた。 「へっ? あ、はいっ、すぐ行きますっ」 どことなく悲しげな表情だったが、すぐに我を取り戻すと美友紀ちゃんは後輩と一緒に受付へと戻っていった。 「健介、お前も罪作りな奴だな」 「俺、何かしたか?」 「・・・・・・お前は、そういう奴だったな」 智史が美友紀ちゃんの消えていった方に、小声で救われないってのは辛いな、とぼやいていた。 やはり朝から病院という施設は終診時間まで賑わうというか、慌しさを感じる。老若男女が外来診療で初診や再診の順番を待ち、その時間は早い人もいれば、数時間掛かる人と様々だ。再診の人も決められた検査時間まで待機と来れば、ため息が出るだろう。 「あっ、お姉ちゃんだ」 健介を送り、家に戻り掃除洗濯を済ませ、軽く身支度を整えると、近くの店でお菓子や果物を購入し、病院についた頃には、あと一時間ほどで昼食の時間という頃合だった。 「おはよう、はやと君」 小児病棟と一般病棟の入り口は分かれていた。大人とは違って子供は僅かな細菌でも重症に繋がることがある。それを避けるためにも一般に比べると対策があちこちに見られる。家族と言えど、十二歳以下の子供は水疱瘡(みずぼうそう)やはしかなどの伝染病にかかっている可能性があるため、小児病棟には入れない。健介の診察で訪れるたびに、はやとのような姿の子供が、兄弟とロビーで楽しげに会話をする光景は、悠には見慣れたものだった。だが、その子にとっては、時々しか会うことの出来ない兄弟姉妹との僅かなかけがえのない時間なのだろう。明るい笑顔が微笑ましくもあり、悲しくもある。 「これ、お見舞いだよ」 悠が籠に沢山入ったお菓子や果物をはやとに見せると、はやとの顔が破顔し、笑顔で満ちた。いつまでもここで見舞いの品を持っていても仕方ないと悠は思い、部屋へ行かないかとはやとに訊ねたが、はやとは待って、と悠を止めた。 「おかあさんが来るから、ここでまつの」 そういうと、待合のベンチに腰を下ろし、自分の隣をポンポンと叩いた。どうやら悠にここに座るように促しているようだ。 「分かった。お母さんが来るまで待とうね」 「うんっ」 悠とはやとはしばらく朝の連ドラを眺めながら、はやとの母親が来るのを待っていた。以前にも何度か健介の診察で顔を合わせていたため、悠はそれほど気にした様子もなくはやとと時折会話を交えながら時間を潰していた。 「あっ」 十五分程してから、はやとが入り口を見て小さく声を上げた。その視線の先には、悠も何度か目にしたはやとの母親の姿があった。 「おはようございます」 はやとは母親を見ると駆けはしないが、早歩きで母の胸に飛び込んだ。その後で悠が静かに一礼していた。それに気づいたはやとの母親も同じように返していた。 「あなたは確か・・・・・・」 「雨宮悠と申します。最近は同僚の付き添いでよくはやと君と顔を合わせる機会がありまして」 悠の言葉に、いえいえこちらこそ、と母親もこの子がご迷惑をと苦笑していた。 母親も来たとあって受け付け前にいつまでもいても仕方ないので、はやとの部屋へと三人は向かった。五〇四号室の大部屋の入り口に高峰隼人と書かれていた。他にも五人の子供の名前があったから六人部屋なのだろうと思いながら、悠は招かれた。 「ここがぼくの部屋だよ」 元気そうに隼人が自分のベッドを指した。そこには絵本やら何かのカードやキャラクターグッズなどが数多くあり、まるで少し大きなおもちゃ箱といった感じで賑わいというか華やかというか、つまりはごちゃごちゃだ。それを見た隼人の母親がいつものことのように、優しく叱っていた。ベッドのカーテンは全て開けられていて、他の子も楽しそうに話していたり、他の病室から来た子が一緒に遊んでいたりと、どこにでも見られる友達と遊ぶ少年少女のように悠には見えた。目がクリクリとした可愛らしい女の子や、隼人のようにニット帽を被りながら生え揃っていない歯を大きく見せて笑う男の子。看護師の女性に構って欲しいのか、なにやら駄々を捏ねたり、悪戯をしたり、付き添いのお母さんに甘えていたりと、どこにでもいる子供たちばかりだ。見た目で骨折などの症状が分かる子もいれば、どうして入院しているのか不思議に思わせるほど、元気な子もいる。その子たち一人一人が、いつか家に帰り、青い空の下で友達と沢山遊ぶんだと、思い描きながら毎日を過ごしているのだろう。悠はその微笑ましい光景に、上手く笑って返すことが出来なかった。 「わざわざありがとう。こんなことまでしてもらっちゃって」 隼人の母親が、改めて悠に申し訳無さそうに感謝していた。 「良いんですよ。私が勝手にしたことですから、お気になさらないで下さい」 毎日この光景を見ている母親にしてみれば、慣れたものなのかもしれないが、悠の見舞いのお菓子を友達と分け合う隼人の姿や、それに楽しそうに便乗してくる子供やベッドに横になったまま声だけが隼人たちの周りにくる子供。入院して日が浅いのか緊張染みた表情の子もいる。多種多様なその光景は、軽く考えていた悠には少々重たく映っていた。悠も長期に渡り入院生活を送っていたが、その周囲には大人ばかりで、みな落ち着いていた覚えがある。だからこの小児病棟の騒がしさが悠には、ここにいる子たちは本当に病気なのだろうかと疑いたくなるものだった。 「おねえちゃん」 そんな悠の周りに子供が数人寄ってきた。 「これ、ありがと」 そう言ってお菓子を悠に自慢げに掲げる少年。その目の輝きは心から言葉の通りに思っているんだと、訴えてきた。 「どういたしまして。みんなで仲良く食べてね」 よしよしと悠が頭を撫でると、嬉しそうに自分のベッドに戻り、付き添いのお母さんに自慢していたり、廊下を通った看護師に、いーだろ? などと、自慢げにはしゃいでいたりと、嬉々様々だ。 「驚いた?」 花を換えに行っていた隼人の母親が、悠の半ば呆然としているのを少し可笑しそうに見ていた。 「一般病棟みたいに落ち着いた雰囲気はないし、むしろ学校みたいに賑やかだからねぇ」 「正直、どう反応したら良いのかまだ良く分からないです」 いつもの事のようで、それが当然のように頬を緩めている。 しばらく隼人と悠は他の子も交え談笑していた。 「隼人君、飛行機好きなの?」 ベッドの脇には数冊の絵本と航空機のミニチュア模型やプラモデルがいくつか並んでいた。悠には見慣れた機種もいつくかあった。 「うん。大きくなったら空に絵を描くの」 そう言って隼人はF‐15D/DJイーグルのプラモデルを手にとって目の前で動かしていた。もう十年ほど昔に出たプラモデルだが、玩具としては十分すぎるほど良く出来ていた。父親が作ったのだろう。 「空に絵?」 パイロットになりたいとかではなく、隼人は空に絵を描きたいと言った。 「うん、僕絵をかくの」 「この子、ずっと病院暮らしだから、絵を描くことが楽しみになっているの」 隼人の言葉の補足を母親がどこか諦めの入った苦笑を浮かべていた。 「でも、どうしてお空に絵を描きたいの?」 絵を描くなら紙やキャンバスにでも出来るはずなのに、どうして空なのか悠には不思議だった。 「おねえちゃん、これ見たことある?」 隼人が悠に一冊の本を渡してきた。絵本かと思っていたら、一冊の写真集だった。 「ブルーインパルス?」 それはブルーインパルスの軌跡を追った写真集で、よく航空祭などで販売されているものだ。 「うん。凄いんだよ。飛行機で空に絵を描くんだから」 興奮気味に隼人が悠の目を見る。隣のベッドから、またその話? と何度も聞かされたのか、少々うんざりした顔の子がいる。片方の足をベッドにつけられた固定器具に載せている。事故か何かで骨折したようだ。 「隼人君は見たことあるの?」 悠にしてみれば、隣県の自衛隊の航空祭で何度か目にしているし、普段はバードフライの飛行を目にしている。二つの違いは大きいが、それぞれの特徴があり、見ていて飽きることがない。もう何度その演目を見てきたか覚えていない。 「ううん、ない」 悠が本を返すと、隼人はしょんぼりとした表情でページを捲った。その表情は本当に残念そうだ。ベッドの周囲のプラモデルや、空や鳥などの大空を描いたような絵本、自分で描いたのだろうか、青い空と白い雲の合間に、カラフルな色のラインが走った絵。それを見て瞭然だが、それだけ隼人は焦がれているように悠には見えた。 「そうだ、隼人君」 何も出来ない自分に心苦しさを感じていた悠が、何か出来ることはないかと考えて、思いついた。隼人が何? と首を傾げた。大きなニット帽がズルッとずれた。 「明日、隼人君が好きなの、持ってきてあげようか?」 悠が手にしたのは先ほどのプラモデル。自分で描いた絵の中にも本を参考にした絵が見られた。しかし、飾られているのはどれも、いわば戦闘機だ。子供には飛行機と認識しかされていないだろうし、ぶっちゃければ単なる玩具だ。しかし隼人の好きな機体が一機もなかった。特に何が出来るというわけではないが、好きな物があるほうが良いだろうと悠は思った。 「おねえちゃん、持ってるの?」 「うん。プラモデルとは少し違うけどね」 実際には悠は持っていない。部屋には仕事関係は勉強していた本や資料程度しかない。しかし悠には当てがあった。 「明日、朝に来るからその時に持ってきてあげるね」 誰にも見せないような悠の優しい笑み。隼人の表情に嬉々な瞳が浮かんでいた。 「今日はわざわざごめんなさいね」 あまり長時間いても負担になると、十五分程度で悠は帰ることにした。隼人の母が受付の前まで見送りについてきた。 「いえ、こちらこそ楽しい時間を過ごさせてもらえましたから」 どこまでも礼儀正しく振舞う悠。決して謙遜しないくせに、その振る舞いが嫌らしく感じられない。 「ところで、一つお聞きしても宜しいですか?」 悠は隼人の前だからと尋ねることは配慮して避けたが、やはり始めから気になっていた。 「病気のことかしら?」 隼人の母親もそのことは始めから分かっていたのだろう。周囲には見た目に分かる症状の子もいるが、そうでない子も多くいる。院内だから元気に過ごすことができても、外へは出られない子などは見た目ではどのような病を患っているのか、その子の親族や関係者しか知らないことも多い。 「無理にとは言いませんが・・・・・・」 「良いのよ。隠しているつもりはないから」 医療技術が発達し現在では小児がんも約七〜八が完治するようになり、昔のように致命的な難病ではなくなってきてはいるが、それでも我が子の病名を本人や周囲に隠したりすることは未だに少なくはない。偏見はそうすぐには消えることは、いつの時代もないのだ。 「あの病室には、白血病、骨折が二人、肺炎の子がいるのよ。そして隼人は神経芽細胞腫(しんけいがさいぼうしゅ)って小児がんなの」 隼人の母親は悲しそうでもなく、勿論嬉しそうでもなく、無表情に近い静かな表情で悠に言った。 「一つ奥のベッドが空いていたでしょう? そこには隼人と同じ症状の子がいたの」 その言葉に悠はハッと時が止まったように小さく口が開いたままだった。入院すれば必ずしも完治して退院出来るわけじゃない。末期の患者向けのいたずらな延命治療をするではなく、肉体的苦痛を和らげ、孤独感や死への不安などの精神的な悩みの相談に乗り、平安な死を迎えされる施設もあるくらいだ。入院して、退院出来ないまま生涯の道を閉ざされてしまうこともある。隼人の母親の言葉にその全てが込められていた。 「みんな一人だと、不安なのよ。でも、症状や病気が違えど、一緒にいると私たち親じゃ理解出来ないくらい明るくなったり、外で自由に遊んでいる子たちみたいに元気になれることもあるのよ」 そこで亡くなった子も隼人と同病だった。そこから来る、その子の両親にしか計り知れない不安もあるはずだ。悠には隼人の病状がどのようなもので、治療法がどういうものなのかは知識がないため、病名を聞いただけではパッとするものはないが、同病の子が亡くなったと言われれば、それが軽視してはならないということだけは理解できた。 「そうなんですか。私も子供の頃に長期入院していて、その時は一般病棟だったので、まさかあれほど病院だと感じさせない雰囲気だとは思いませんでした」 悠の言葉に隼人の母親が小さく笑った。その声はとても辛そうでもあった。 「では、隼人君によろしくお伝えください」 「ええ、でもあまり無理して見舞いは良いからね。私たちでも耐え難いことも多いわ。あなたもその目で見たでしょ? だから無理しなくて良いわよ」 その言葉に一礼すると、悠は病院を後にした。外に出ると暖かい風が微かに吹いていた。 車に戻ると、すぐにエンジンを掛けることなく、背もたれに力なくもたれかかった。騒がしかった外の騒音も車内にいるとほとんど聞こえなくなる。 「はぁ・・・・・・」 ただお見舞いの品を持って行って、少し話をしただけ。それだけだったというのに、悠は仕事で疲れたような重たいため息を漏らしていた。みんなニコニコ笑って、あどけない笑顔が可愛かったものの、やはり初めて目の当たりにしたその光景に少なからずショックを受けた。ニット帽を被り、隼人の母親がその下は抗がん剤の治療の副作用で抜けてしまったの、という言葉が、胸を打った。隼人のように帽子で隠している子もいるが、僅かに残る髪の毛や、既に全て抜け落ちてしまった頭で遊んでいる姿は、ファッションとしてやっているわけではないため、部屋へ、小児病棟に足を踏み込んだ瞬間、言葉を失っていた。 「子供の輝きって、凄いのね」 思わず呟いていた。 あれだけ自分の病と闘っているのに、それを全く感じさせない素振りは、大人であれば見栄や周囲への配慮だと分かるが、子供はそこまで自分を偽ることを知らない。幼い頃から入院生活を送っていると、尚更だろう。だからあの振る舞いは偽りのない、素直で我が侭な、どこにでもいる子供と同じだ。絶望に打ちひしがれるのではなく、退院して学校に行って遊ぶ。そんな些細な夢を見続けながら過ごす姿はとてもじゃないが、今の自分には出来ないと思った。 「・・・・・・っ」 鼻を啜ると、嗚咽が漏れそうになった。ルームミラーに映る自分の目に必要以上の潤いがあった。 「いけないいけない」 何かを振り払うように悠はその涙を拭うと、メールを一通打った。
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