何も変わりない、病院の中。薬のようなシップ臭いような匂い。順番を待つ患者の静かな声に名前を呼ぶ医療事務や看護師。談笑に花を咲かせる医師と入院患者の家族。学校を小さな社会と例えることもあるが、病院も例えることが出来るだろう。その中を悠と歩く。小児病棟へ進むと、静かな雰囲気が一掃される。どこからともなく聞こえてくる子供の泣き声。町の喧騒にも似た日常が今日もここにはある。 「何も変わらないようで、変わっているのよね」 悠が優しい目を浮かべて親子を見つめながら俺の隣を歩く。そう、変わらないようで同じ光景はそこにはない。変わらないようで変わり続ける日常。そこには他人の目にはつかない悲しみや苦しみを乗り越えた上で成り立つ光景もまばらではない。初めて足を踏み入れた時は、圧倒的な光景に言葉を失うばかりだったが、慣れればそれほどでもなくなった。通院のついでに見舞うことになったことが当たり前のようになっていたから。 「そうだな。変わって行くんだな、どこも」 変わらないことはない。そう見せる事は出来ても同じであり続けることは難しい。それを維持することは、どれほどの苦労や労力の上に成り立っているのか、俺にはあまり分からない。気がつけば、変わっているし、変わっていないように見えることもある。 エレベーターに乗り、離陸時に感じる浮揚感を微かに感じながら病室のある階で降りる。何度も通うようになって顔見知りになった人たちにいつものように挨拶を交わし、歩く。 「隼人、おっす」 「おはよう、隼人君」 横になり、何をするでもなく静かにしている隼人。入院したことのない俺には呼吸器を付けている隼人を見るのが痛々しくてなかなか直視することが出来ない。 声のしたほうに隼人が顔を彷徨わせる。まだはっきりと特定出来ない隼人に俺たちから場所を知らせるように頭を撫でてやる。そうすると隼人は俺たちに気づいて安堵したように、ほわんとした笑みを浮かべる。その隣で隼人の母親が静かに俺たちに挨拶をしてくれる。ここ最近のいつものことだ。 「どうだ、調子は?」 見ていて分かってしまうのだが、つい言葉が見つからず毎回そう訊ねてしまう。ボキャブラリーが少ないのが、こう言う所でも痛手になるのは不甲斐無いと思いながら、いつの間にか忘れてまた同じ事を考えて、を繰り返す。 俺の言葉に隼人は小さく、 「あたまいたい」 と、掠れた声で応える。その度に、そうかとしか言えないのに、聞いてしまう自分が情けない。隼人には見せるわけにはいかない表情。これは俺が自分で決めたわけじゃない。隼人の両親や医師たちの申し出でもある。隼人には残された時を楽しい思い出でを過ごしてもらおうと言う話で、俺たちも極力気を遣っている。 特に何かをしてやるでもなく、こうして見舞うようになってからもう随分と時間が流れた。このまま隼人の神経芽細胞腫が良くなればいい、そんなことを思いたくとも、もうそれも思えない。ただ、このままの時間が少しでも長く続けば良い。いつもここに来る度に強く思うばかりだ。 腫瘍の位置により、徴候は様々な小児ガンに侵された隼人。今までCTスキャンやMRI、胸部レントゲンや骨スキャン、骨髄生検、ホルモン検査に血算、血中・尿中カテコールアミンなど様々な俺の知らない検査を隼人は繰り替えし、どこに転移したのかを調べ、手術や放射線治療の治療を行い、果ては化学療法にまで及び、治験での骨髄移植なども検討されたが、その術が叶い、隼人が快方へ向かうという望みは儚い夢物語として夢から覚めてしまった。残された現実世界には、初めは絶望や悲哀に満ちた空気もあった。それを知っているのか知らないのか、隼人は何も変わりなく笑顔を絶やさなかった。俺たちの前では決して。 「強いな、隼人は」 俺の言葉に不思議そうな顔で返してくる。隼人は紛れもなく強い子だ。家族の前でしか弱いところを見せたことがないと母親が言ったのだから、他では俺たちに振舞うように頑張っているのだろう。俺たちが隼人に不安を感じさせないように話し合いで決めたように、隼人は一人で無意識のうちに俺たちに悲しい思いをさせないようにと。それをたった六歳の子供が大人に向けてしている。どれほど強いことか。 「今日も、読んであげるね」 悠がいつものように隼人の傍に座り、絵本を読み聞かせる。悠の手にはもう何度読んだことだが分からないくらい読んだ絵本が二冊。それを隼人が今日もリクエストし、悠が読み聞かせる。絵本と言うものは、子供には現実世界から飛び出すことの出来る夢世界の一つだ。大人に成れば小説だろうと物語だろうと文字の羅列だけで想像できるが、子供にはそこまでの想像力がない。だから、絵が重要な役割を果たす。今それを見ることの出来ない隼人には、悠の読む声でどこまでその世界が広がるのだろうかと思う。悠が読み聞かせをする度に少し気になった。 悠の読み聞かせを聞いている時の隼人は、本当に子供らしい安堵した表情を見せる。それはきっと母親のように優しい声と纏う空気に安心出来るからなのだろう。俺にはないものだ。隼人の母親も悠に隼人を任せると、花瓶の水代えに部屋を後にした。常に付きっきりと言うのはやはり息子であろうと、それなりの疲労は溜まるだろう。自宅とは異なる生活空間にはリラックスするには限界があるだろうし。悠のおかげで少しはマシになってくれれば良い。何も出来ない俺が言うのもなんだが。 読み聞かせをしている悠とそれを心地良さそうに聞いている隼人を俺は椅子に座ってただ見ているだけ。今では色々と制限があるのだと思うと、可哀想に思えてならない。まだ遊びたい食べたい盛りだというのに、体の自由は細胞腫による合併症などで、機能の低下や抵抗力の低下でろくに起き上がれないし、白血球の減少によって抗がん剤治療を行うことで、加熱処理を加えていない物を口に出来ない生もの禁止となり、食事も管理されているものばかり。俺たちが初めに持ってきていた果物なども、本当は隼人は口にしていなかった。出来なかったのだ。だから、同室の子にあげたりしていたのだろう。こんな幼い年齢で色々と我慢しなければならないものがあるのは、どれだけ精神的ストレスが溜まることだろう。 駄々を捏ねない隼人に対しては、その心の成長の早さには驚きを軽く通り過ぎている。溜め込むにも爆発しない、爆発してもあまり表に見せることをしない強さをその年で身に付けているということは、脱帽するが、同時に悲しい。無邪気な子供がどうしてこれほどまでに大人びてしまうのか。子供は焦って大人に成る必要はない。焦れば焦るだけ、大人に成った時の周囲に対する戸惑いは大きく強いものになる。大人ぶるということと、大人に成るということは天地の差がある。だから、ゆっくりと色々な世界を見て、知って、感性を磨けば良い。我が侭を言う事が子供の仕事の一つでもあろうに。 結局、隼人は悠の読み聞かせを聞いて、疲れたのか眠ってしまった。今日を逃したら、しばらくは来れなくなるから、色々と話をしようと思っていた。いつものようにバードフライのことや、隼人の夢のこと、あの日の思い出に、ここでの生活等など浮かんでくる話題は尽きないこともないが、隼人を見るとその話題が言葉として出て来なくなってしまう。 「可愛い寝顔ですね」 「本当にね・・・・・・」 戻ってきた母親がそっと隼人の額に手を当てる。頭を撫でるにも帽子に隠された額を撫でるよりも、そっと額を撫でるほうが良いのだろう。見ることが出来なくとも、温もりのある優しい香りのする母の手だけはすぐに分かるはず。隼人の寝顔がさらに柔らかくなったように見えた。悠も隼人には癒されているようだ。あれだけ俺に対してでもなくとも、悲しい目をしていたのに、今は全くその目ではなかった。 「容態は、どうなんですか?」 隼人の手前、聞くわけにもいかなかったが、隼人が眠ったのであれば聞こえはしないだろう。 「良いとは言えないわ。薬で何とか進行は緩やかに出来ても、どうにもね・・・・・・」 見ればわかるでしょ? そう言われている気分だ。今の隼人を見て健康優良児だなんてとてもじゃないが言えない。いつの間にこれほどの時間が流れてしまったのだろう。隼人の夢を叶えてやるために奔走していた日々が最も輝いていて、それが終わってしまってから今日まで、祭りの後の静けさが続いている。俺としては最期の時まで隼人にはキラキラとしたものを感じていてもらい、その時を迎えるものだと思っていたが、実際には、穏やかに過ごすためだけの治療を行い、好きなことを許されても、体が起き上がることすらもさせてはくれない。声を出すのも疲れるようで、見えなくなった瞳には、瞼が下ろされたままだった。発熱や嘔吐、倦怠感が常に隼人を蝕み、もう一人で遊ぶ気力も残されてはいないようで、正直、直視できない光景が来るたびに変わってはいなかった。 俺たちの前でとても穏やかに眠っている隼人。海が凪ぐように、本当に静かで、呼吸器越しに小さな呼吸音が聞こえ、腹部が一定の少し速いリズムで上下を繰り返している。誰もが今の隼人を見れば、きっと和むだろうか。小さな命が懸命にそこに在るのに、それがそこに在ることが当たり前に思えて仕方がない。 「でも、これで良いのかもしれないわね。隼人にはきっと楽しい思い出ばかりが宿っているから」 不幸中の幸い。それを今は誰もが願っているから、その手助けを取っている。もう二度と隼人が元気に駆け回ることが夢でしかなくなった今、せめてもの隼人へのこの世界に生まれ出たことを、少しでも良かったと思ってもらえるように、隼人を多くの人が包み込んでいる。静かに揺れるゆりかごの中で隼人は今、何を感じているのだろうか。あの日叶った夢はまだ、本当に叶ったわけじゃない。願っただけだ。だが、隼人はそれに満足してしまったのだろうか。あの日の思い出を語ることはあっても、これからのことを聞いた記憶がない。 「隼人、お前は本当にこのままで良いと思ってるのか?」 寝顔に問いたところで、返事はない。ただ反応したのは悠と隼人の母親だけだった。 「どういうことよ、健介?」 「いや、単に本当にこれで良かったのかって思ってな」 何かすっきりしない。あの隼人を飛行場に招待した後日からずっと、心のどこかで燻っているものを感じる。隼人は満足げだから良いのかもしれないが、俺が何故か満足出来ていない。 「奥田さん、本当はあなた自身が隼人に見せてあげたかったのではないかしら?」 母親の言葉に顔が上がった。 「俺が、隼人に・・・・・・?」 ――見せてやりたかった? 「そうかもしれないわね。もともとの言いだしっぺはあんたなんだから、ただ見ているだけの事があんたには、辛かったんじゃない? 今出来ることをすれば良いのに、自分に素直になれなくて、先の理想や過去の悔いばかりに気が回って、空回りしている自分に気づいてないのよ」 悠が隼人の母親の言葉に同意して頷く。前に誰かに似たようなことを言われた気がする。 「奥田さんは、仕事場の方々との協力の下に隼人にあの日を迎えさせるということよりも、自分自身で飛行機を操縦して、隼人に見せてあげたかったから、今そう思っているのでは?」 隼人の母親と悠は顔を見合わせて、ふふっと同時に少しおかしそうに笑った。途端に何故か気恥ずかしさが湧いてきた。それと同時に燻っていたものがフッと消えた感覚も起きた。 「図星ね。あんたは自分の本音を自分で分かってないのよ。人に頼り過ぎなせいよ」 いつもの悠の俺を見下すような呆れた口調。それをおかしそうに微笑を浮かべながら隼人の傍を決して離れず、隼人の小さな手を離さないように繋いでいる隼人の母親。二人からは母親や同僚などではなく、女として俺を笑っているようにしか思えなかったが、俺自身が二人の話に納得してしまい反論する気も起きなかった。 「もう、迷わないでいられるようにならないといけないかもしれませんよ?」 隼人の母親が、俺を隼人を見る目と同じ目で見てきた。 「そう、なんでしょうか・・・・・・?」 まだ、はっきりと分からない。 「もっと素直になりなさいよ。あんたは目の前のゴールに行くのが怖いだけでしょ?」 ドンっと俺の背中に悠の言葉の衝撃が来た。それこそ図星だという証。俺が認めようとしなかった事実の波が押し寄せて俺を打ち付けていく。 「見栄を張っても、格好悪いだけよ?」 隼人の母親の言葉もダメ押しだ。俺の中にあった事実から目を逸らし続けた高慢(プライド)が崩壊していく。 「男ってどうして、こうも変なプライドを持つんでしょうね?」 「素直が自分を認めることになることに、気づかないんでしょ。男は皆格好つけたがり屋だからねぇ」 二人は息が合ったように俺を見る。いつまでもゴールしないのは格好悪いわよ。だとか、事実を偽りで隠してもそこにあるのは事実だけだと真正面から突きつけられる。一皮剥けなさい。そう親に諭されている気分がして、分かっているから受け入れにくい。そんな意味不明な感情に、俺はどうしたら良いのか答えが出せそうで出せない。それこそが高慢なのだろう。 「隼人、お前は見たいって言ってたよな?」 いつだったか、隼人は俺の飛行が見たいと言った。聞こえているのかいないのか、隼人の寝言のような小さな、う・・・・・・ん、と言ったように声を漏らした。 (これで十分じゃないのか? 俺(おまえ)) 誰かが俺の中で問いかけてくる。俺の知っている奴で、知らない奴だ。 (いつまでも格好つけてんじゃねぇぞ。今の俺(おまえ)はかなりダサいぞ?) 俺の前にぼやけた顔の男がいる。顔以外は俺とまるで同じだ。「お前は誰だ?」なんて訊ねたりしない。答えは俺が考えている答えが返ってくることが分かっているから。 (・・・・・・そうかもな。しょうもない子供みたいだよな) (みたいじゃなくて、そうだってんだよ) 目の前の男が「俺(おまえ)、馬鹿じゃねぇのか?」と笑っている。だから俺も笑う。「うるせぇよ。お前(おれ)のくせに」と言いながら。 (それじゃあ、見せてよ) 俺と男の間に子供が入ってきた。とても元気な子供だ。眩しいくらいの笑顔を浮かべてキャッキャッと弾けている。いつか見た、誰かに似ている。 (僕、見たいな。フルートと空に描く、兄ちゃんの、夢を) ニコッと何の穢れも知らず、これからも穢れを知ることの無い純真無垢な少年の瞳。色々なものが溢れているその瞳に、俺を取り囲んでいた壁が風で吹き飛ばされるように崩れ去っていく。 (やくそくでしょ?) (良いとこ見せてやれよ、俺(おまえ)) どこかに吸い込まれていくように、俺が少年とお前(おれ)から離れていく。俺に向かってめいっぱいに腕をブンブンと振っている少年と、格好つけるように片手を俺にかざす俺。不思議ともう、その少年たちには会えないだろうな、と思った。だが、悲しくはなかった。むしろ嬉しかった。何でなのかは分からない。そう思っただけだ。 「健介? どうかしたの?」 不思議そうに悠が俺を呼んだ。隼人の母親は何故かうふふっ、と笑みを浮かべている。独り善がりか、隼人の母親の手を握る隼人の手が先ほどよりも強く握り返しているように曲がっているように見えた。 「いや、別に。任せろよ、隼人。約束する。俺とフルートで必ず見せてやるからな」 本当にもう、迷う気がしない。高慢(プライド)が誇り(プライド)に変わったからなのかもしれない。気分が晴れやかに感じる。そんな俺を見て悠と隼人の母親がまた微笑むように笑った。 「男って、どうしてこうも面倒臭いのかしらね?」 「本当ですね。この馬鹿は特にですから」 「でも、嫌いじゃないんでしょ?」 隼人の母親がどこか含んだような笑みで悠を見る。 「そうですね。でももう少し男らしいところも見せてもらいたいですけど」 難なく受け返す悠に、あら・・・? と意外な答えを受けたように母親がもう一度微笑んだ。 「それじゃあな、隼人。待ってろよ、絶対に連れて行ってやるからな」 「それじゃ、今日はお邪魔しました」 「いいえ、私も良い気分転換になったわ。ありがとう。でも、ごめんなさいね、隼人起きなくて」 一時間ほど病室にいたのだが、隼人はそのまま目を覚ますことなく、今も静かに眠っている。目が見えない分、周囲の同室の子達の声などにも敏感になっているはずだから、その疲れもあってか、カーテンで仕切られたベッドの中で母親の手をしっかりと握り締めたまま寝息を立てていた。起こさないように俺たちは一度隼人の頭を撫でて、部屋を後にした。 「あの数分の間に、随分と変わったんじゃない?」 車中で悠があの時、俺が変わったことが不思議だったようで、珍しく明るい表情で聞いてきた。 「そうか? そうかもな」 上手く言葉に出来ないから言わないが、変われたのかもしれない。俺と恐らくあれは少年(はやと)だろう。あの夢を見たいと言っていたのは俺が知る限り、たった一人の少年だ。あの笑顔は間違いない。そして、あの男も俺を解放した。だから俺は変われた気分を感じている。本当に変われたのかは、結果を出さなければ分からない。だから、やってやろうと思っている。 「よしっ。まずは航空祭とこの腕だな」 「・・・・・・無理はしないようにしなさいよ」 俺の言葉に悠が苦笑を漏らしていた。 再び火のついた俺は、リハビリの甲斐もあり左腕の力はまだ昔ほどじゃないが、握力も回復してきた。車を運転するくらいなら分けないのだが、悠が万が一を唱えてくるので未だに居候させてもらっている。俺以上に忙しいくせに、俺以上に忙しく見せない悠には、家の中だけでも自宅なのだから寛いでもらおうと俺なりに色々と頑張っているつもりが、その度に手際が悪いだとかと言われ、今は大人しくすることに努めている。
「奥田さん、これ、頼まれていた資料です」 「ありがとう。助かるよ」 「いえ。他にも何かあったら呼んでくださいね」 美友紀ちゃんは相変わらず、いつもと変わりない態度で接してくる。その半面で、その度に俺は先輩から鋭い視線を感じる機会が増えた。自分が狙っていることを俺が知っていて、尚且つ俺が美友紀ちゃんを一度フッたにも関わらず、特に何かが変わったように見せないことに嫉妬でもしているのだろうか。そんなことを口にすると何をされたか分かったものじゃない。 「健介、最近隼人はどうなんだ?」 航空祭が間近に迫る中で、智史はよく隼人の事を尋ねてくる機会が一番増えた奴だ。俺だってリハビリに時間を取られて面会時間を過ぎて合える日も疎らなのだから、詳しい事情までは耳に挟んでいない。 「良くはないな。寝ている時間が増えて、あんまし話す時間もない」 分かっている。それだけ症状が悪化していることくらい。病室に行けば、隼人の母親が隼人の手を握っていたり、頭を撫でながら、愛していると言うと、僕も、と小さな声で必死に応えようとしている姿を見れば、今がどれだけ一秒でも名残惜しいのかが分かってしまう。 「航空祭、見せてやれたら最高なんだけどな」 智史が遠い目をしていた。こいつも色々な過去と現実に思いを馳せているのだろう。だが、時間という絶対に逆らえない波の中では、ほとんど俺たちでは手が出せないことも分かっているのだろう。 「ああ、俺も約束したからな。いつまでも雑用なんてやってる暇はない」 かと言って、ただ待つだけの時間は過ごせない。隼人はもう、治らないのだ。だから、俺は縋っている。約束に。隼人もきっとまだ夢を見ているだけで感じていない。俺に出来ることは、隼人に見せるだけ。両親のように隼人を守り通すことは出来ない。医師のように隼人の病と闘う術もない。悠のように隼人を包み込んでやれることも難しい。だから一刻の猶予も惜しいくらいの毎日だ。 「焦燥は失敗の手始めだ。お前の悪い癖だ。治るもんも治らんぞ」 藤沢上官に呆れられるくらいに俺は出来るだけ早く、早く、と一日一日を急いでいた。隼人には出来るだけ遅く、遅く進んで欲しい残された一日一日を。
穏やかな風が吹き渡る快晴の日曜になるはずだったバードフライ飛行場。誰もがそれを望み、きっとそうなるだろうと思っていた日。だが、空の彼方に居るであろう神とやらは、そう易々と願いを聞いてくれるものじゃないようだ。多くの人間が願いを言えば、神だって一度に聞き取れるはずがないだろう。だから俺たちの願いは、聞き取れなかったようだ。 「今にも降り出しそうだな」 「このまま行ってくれると良いんだけどよ」 強い日差しの中でと言うのは、俺も好きじゃないが、バードフライの曲芸飛行もあるため、やはり青空の一つは拝みたい気分だ。やけに生暖かいというか、蒸し暑い曇天の日曜。雨天ではないため、予定通りバードフライ航空祭は開催されることとなり、いつも以上に朝から多くの人手に賑わう会場内で、スタッフたちはてんやわんや状態で各自仕事に励んでいた。昨日から泊り込みの悠とはまだ顔を合わせていないが、恐らくは午後からのフライの最終チェックに追われているはず。上官たちはブリーフィングルームで招待飛行の人と打ち合わせだし、俺も俺で会場案内やフリマの総合管理と、普段の雑用に磨きの掛かった仕事にあくせくしつつ、今こうして智史と肩を並べて観客を眼下に、しばしの休憩を満喫している。 「昨日、行ってきたんだろ?」 智史の問いが何を尋ねているのかすぐに分かる。 「前と同じだ。むしろ前よりも小さく感じたな」 子供なのだから当然だが、そういうもの以上に隼人が小さく感じた。少し早い呼吸で、ぷっくりとした腹部が上下し、筋力もほとんどない枝のような手を温かそうな母親の手がしっかりと包んでいた。とても静かな寝息で、心地良さそうに眠っているが、そのまま起きることがあるのか? という思いだけは拭うことが出来ず、むしろ強く俺の胸に残った。 「隼人って、こんなに小さい子供だったのかって思ったよ」 俺としては、様々なことを導いてくれた隼人はとても子供らしくない大人な子どもに見えていたが、ここ数日は年相応の子供に見えた。本来の姿が俺にはどちらなのかは分からないが、その隼人の姿には悔しさや悲しさしか湧いてはこなかった。ただ、悲しかった。無性に。 「子供が子供であって悪いことはない。約束したんなら果すのが、大人ってもんだろ?」 話が急に変わった気もするが、智史なりの何か意味のある言葉であることは間違いない。 「お前なんてすぐにフルートの椅子から引きずり出してやる」 ギプスはようやく外れた。二ヶ月ほどの束縛生活は長かった。利き腕が使えないと言う事がどれほどきつかったか、身に染みた。後は筋力の回復と飛行技術の遅れを取り戻さなければならない。それを成し遂げてようやくフルートと共に再び風を切ることが出来る。そうすればきっと・・・・・・・。 「さぁて、フルートとの有終の美を飾りに行くか」 「頼んだぞ」 「お前もな」 智史と拳をすれ違い様に合わせた。俺が何を言ったのか分かっている。俺が言いたかった頼み。それが何なのかは、もう良いだろう。智史が応えたのだから、あいつを信頼しよう。 フリマの担当はなってみて分かったが、会場で行われている飛行やら航空祭ならではのものなんて何一つ見れない。ただ耳にエンジン音だけがどんな演技を見せているのか想像するばかりで失念しまくりだ。しかも、隣同士でいざこざが起きただとか、迷子だとか、お目当ての店はどこにあるのかだとか、全くの無関係な出来事のオンパレードだ。就職したての頃の初めての航空祭ですら、機体案内で演目を見ていたというのに。 「とうとう最後か」 聞き慣れた五機のプロペラのエンジン音が響いた。フライ機が離陸したということは、航空祭も直に終焉を迎える。結局何一つ見ることもないまま終わった航空祭。腑に落ちないというか、心残りが幾つもある。 「げっ、こんな時にか」 半袖むき出しの日焼けした腕に、いくつか空の涙が落ちてきた。フライの演目は順調に行っている中での降雨は、観客にしてみれば惜しいし、演じ手にも少々迷惑なものだ。だが、それ以上に俺は顔に落ちてくる空の涙が、とても悲しい瞳から零れ落ちたものに思えた。背筋を走る悪寒が今だけは背けたくて仕方がなかった。幸いなことに、演目中はパラパラと本降りになることはなく、止むこともなく、それほどの支障とはならず、結果としてはまぁまぁの航空祭で幕を閉じた。 「どうだったよ?」 全てが終わり、息を抜いていると、智史が俺の背中に声を掛けてきた。 「きっと、お前の姉さんと姪っ子たちも、あの空で笑ってくれてたぞ」 「・・・・・・そうか。そりゃ良かった」 俺の言葉に、少し間を置いた智史が、照れたように下を向いてはにかみながら、頭を掻いていた。こいつはこいつで、想いがあったはずだ。だからきっと、こいつの思いは届いたはずだ。俺みたいに迷わず、ひたむきに事を成してしまう奴だから。 「とうとう降ってきたな」 事務所の窓越しに映る薄暗い空。無数に打ち付けてくる雨音が普段以上に俺たちの声を小さくさせる。 「問題なく、今年も済んだだけでも良いほうだろう」 ドッグのほうからは明かりが漏れている。今年の一番の役目を終えたフライ機の整備をしているのだろう。演じ手はこうして所内で休んでいる。俺もまだ後片付けの仕事が多々残っているが、今日は上官の許しも出てもう終わりだ。この後は打ち上げが予定されているが、あまり行く気にならず断った。心身共の疲れもある。週明けからはいつも通りの業務があるのだから、たまにはのんびりと休みたかった。 「健介、お前顔色悪くないか?」 ため息と共に吐き出た煙草の煙で窓が曇る。本日の主役を終えた智史と先輩が俺の顔色を窺ってくる。 「腕でも痛むのか?」 「そんなんじゃないっすよ」 この雨が降り出してから、悪寒が止まらない。何が起こったわけじゃない。むしろ何もなく静かだった。飛行場(こ こ)は。だから余計に背筋に感じる寒気が気味悪かった。体調は問題ない。問題なのは、きっと、この悪寒を齎してくる俺の心かどこかだ。 「今日は早めに帰って、休めよ」 「そうします」 「送っていくか?」 悠はまだ仕事があるだろう。メールにも返事がない。それを知って智史が申し出てくれたが、断った。どうしてかは分からない。ただ、もう少しだけここにいたかった。この騒がしい所内の静かなここに。打ち上げがあるということで、仕事が先に終わった者から会場へと仕事を後にしていくのを見送り、ほとんど誰もいなくなった中で、いつ降り止むかも分からない夜空の涙をただ眺めていた。 「健介、まだいたの?」 いつの間にか、俺の見つめていた窓に悠の姿が映っていた。作業服から私服に身を纏い、上げていた髪を下ろした姿で隣に立った悠。 「もう終わったのか?」 いつの間にか随分と時間が過ぎていたようだ。すっかり暗くなった外。窓に映る室内の明かりがはっきりと鏡のように俺たちを映し出している。 「一通りはね。残りは他の子たちがやってくれるわ」 帰りましょ、と諭され、ようやく俺は飛行場を後にした。車内で悠は今日のことに対する感想などを言うことはなかった。きっと俺の顔がそうさせているからだ。いつもなら少々興奮しているはずが、今日に限って物凄く気持ちが沈んでいる。俺は分かりやすいから、悠にはお見通しなんだろう。何も聞いてはこない。静かに運転をするだけ。時折音楽に合わせて口ずさむことはあっても、俺に尋ねることはしない。きっと俺から言っても、悠にとっての俺の問いは、俺が聞きたい言葉を言って欲しいとしか思われていないのだろう。俺もそれを望んでいるから、何も言えなかった。音楽と、エンジン音と、雨音が、妙な音色を奏でるのを聞いているだけだった。 「・・・・・・・・・!」 それを突然破るピリリリッという携帯の音。不意なことで驚いてしまった。悠がかけていた音楽の音量を下げた。さんきゅ、と言い電話に出ようとして微かに躊躇ってしまった。サブディスプレイに表示されているのは、隼人の母親の名前だった。全身にドクンと強い何かが脈打った。 「はい、奥田ですが・・・・・・?」 恐る恐る通話ボタンを押して出ると、やはり隼人の母親だった。聞こえてくる声はいつも以上に静かで、車のエンジン音さえもうるさいくらいだった。 「・・・・・・えっ?」 悪寒が俺の耳にようやくその正体を突きつけてきた。 『隼人が――――――』 携帯越しに悠にも聞こえたのだろう。体が急に前に押し出され、体にシートベルトが食い込んだ。 「ご、ごめんっ」 急ブレーキで油断していた俺を、悠の左腕がとっさに抑えてくれたおかげで大丈夫だったが、さすがにびびった。後続車も何もなくて良かったが、今はそれよりももっと衝撃を受けた。 「本当、ですか・・・・・・?」 信じたくない言葉だったが、母親の小さく時折震えている声が明らかだった。 「・・・・・・分かりました。はい、失礼します」 携帯を閉じると、悠が俺を見る。 「隼人が危篤に・・・・・・」 小さく息を呑む音が聞こえた。運転をしながらも表情が青ざめている。悠の右隣の窓に映る俺の顔が、同じだった。言葉を交わすことなく俺たちは、「ん」と一言だけ頷くと行き先を変えた。夜の暗闇に浮かぶ町明かりに混じって、ひときわ明るい赤ネオン十字と緑ネオンの病院名の建物の下に着いた。 気持ちだけが焦って、体がついていけず、上手く前へ進むことが出来ず、小さい段差で二度ほどこけそうになった。まだ、そうなったわけじゃない。それでも徐々にそれがすぐ傍まで来ていることに変わりはない。だから、エレベーターが動くことすらも惜しい。面会時間は過ぎているが、顔見知りの小児担当の看護師の女の子のおかげで、朝とは違う泣き声があちこちで聞こえる静かな病棟内を駆け足になりそうな早足で病室へと向かう。 「隼人っ!」 病室内は誰も取り乱していない。なんてこともなく、一つのカーテンの中だけが慌しかった。聞こえてくるのは医師たちの手際の良い対応する声と、機器の電子音、隼人の両親の呼びかける声。騒がしいはずなのに、俺の耳に入ってくる音はどうしてこうも静かなのだろう。耳が遠くなった気分だ。 「隼人君っ!」 悠も隼人の近くで呼びかける。返事は何一つ返ってこない。そこにいるのは穏やかに静かに、気持ち良さそうに高峰隼人という少年が眠っている。目の前で必死に母や父が、悠や俺が呼びかけていることも知らずに本当にただ眠っているだけ。隼人の母親がぎゅっと小さな手を握り締め、何度も何度も隼人を呼んでいる。「愛しているから」「隼人っ隼人っ・・・・・・」「起きて隼人っ」「隼人、お母さんは愛してるからね」「皆、みんなっ、隼人のこと大好きなんだからねっ」などなど、数え切れないほど、我が子を呼んでいる。次第に声に震えと嗚咽が混じっている。隼人の父親も威厳などどこかに捨ててしまったように、必死で隼人を呼び戻そうとしている。悠も同じだった。だが、俺はこの現状を受け入れられていないのか、受け止められていないのか、いつしか隼人と呼ぶ声も止み、全身から力が抜けるばかりだった。何も変わっていない。いつもと同じように隼人は眠っているだけ。なのに、どうしてここまで呼ばれているのに、隼人は・・・・・・・・・。 「隼人っ! 約束しただろっ! いつまでも寝るなっ! みんな待ってるんだぞっ! 隼人っ!」 「止めなさいっ」 医師が俺の腕を掴む。いつの間にか俺は隼人の肩を大きく揺すっていた。とても、とても小さく柔らかな体が揺れていた。機器が一定の音を発していたが乱れていた。 「健介」 パンっと乾いた音が俺の頬から響いた。その音に一瞬全ての視線が俺に注がれ、静寂が支配した。 「落ち着きなさい。健介」 ただ一言の叱責。だが、悠は相当怒っている。俺を捉えて離さない強い眼差しは過去に何度か目にしている。本当に怒りを見せる時は言葉が少ない。鈍い痛みが全身を蝕むように広がる。力は強いほうじゃない悠の張り手の痛みはきっと、俺以上に悠の方が痛いはずだ。その目に宿るものが溢れるのを必死で隠そうとしていたから。体に感じる痛みが俺にならば、心に感じる痛みは悠に、だ。 「す、すみません・・・・・・」 またやってしまったことを後悔する。後先考えない癖は、直すのに時間が掛かる。本当に申し訳ないことをしてしまった。下手をすれば取り返しのつかないところだった。 「無理もないのは分かりますが、落ち着いてください」 隼人の父親に言われて気を落ち着かせた。その横で医師たちが手馴れたように隼人に出来ることをしていた。 「もう、いつ何があってもおかしくはないと思って下さい」 医師が最後にそう言うと、病室を後にした。家族の時間を過ごさせるように思えた。残されたベッドの周りは静かになった。母親は相変わらず隼人に声をかけ続け、悠と父親も同様に隼人を見守っていた。 「どうして、隼人がっ・・・・・・・・・」 母親の一言が、全ての言葉の始まりと終わりを示していた。誰もがそう思いながら、口にすることのなかった禁句のような一言。 「そういうことは言うんじゃない」 父親が肩を抱くと、静かに母親の鳴き声が聞こえてきた。何も言えない、踏み込めない壁が俺の数歩先に広がっていた。 「帰りましょ、健介」 悠も空気を読んだようで、俺たちは父親に一言声をかけ、隼人にも聞こえずとも届けばいいと声をかけ、病院を後にした。最後まで夫の胸で泣く妻であり、我が子を強く想う母の声がいつまでも耳から離れなかった。家族を愛でる強い思いに俺たちが入る余地などどこにもあってはならなかったようだ。
時間と言うものを止められる機械はないのだろうか。時間の流れがゆっくりとしているなどと言われたりする地域があるが、それは所詮生活リズムがそう感じさせているだけで、何もどこも変わらない。ただの詭弁や綾だ。漫画や映画の世界のように本当に止められれば、と俺は生まれて初めて本気で思った。厳密に言えば一生のお願いのように、一回きりで効力を失うだけでも良い願いを、本気でそうあって欲しいと感じただけだ。 「雨、か」 他に言葉は浮かんでこなかった。他の言葉を口にしてしまえば、溢れんばかりに溜め込んだものが堰を切りそうだった。 「もっと時間があればな・・・・・・」 まだ、実感が無い。その一言で全てが片付けられてしまう、今のこの時。 見るからに重たそうな重量感と重圧感を醸し出し、いつ空から地にドバっと塊が落ちてくるのか分からない暗い空。日はまだ高いというのに、暗い。
隼人が危篤に陥ってから、十一時間後だった。今思えば、小さな体でもそれだけの時間を頑張ったのだろう。凄すぎる。俺には無理だよ、隼人。どこが痛いのかももう分からない。 まだ大丈夫だ、と心に言い聞かせていた俺たちに連絡が入った。ちょうど朝食を終え、仕事へ向かう支度をしている時だった。いつものように俺が愚痴を漏らし、悠に呆れた叱責を受けている時に鳴った携帯。何気なく出てしまったことを瞬時に後悔した。 たった一言だけ聞こえた言葉。
『隼人が――息を引き取りました』
父親の声だった。通話の横から聞こえてきた声が母親だとすぐに分かった。何度も何度も、隼人っ、と泣き叫ぶような声が遠くに聞こえていた。聞いた瞬間、携帯を落としてしまい、何事かと着替えをしていた悠が部屋から出てきて、呆然としている視界に悠を映したが、声が出なかった。携帯から、父親のもしもし? と、母親の声が聞こえていて、携帯を拾った悠がその声にハッとして取り次ぐように幾らか言葉を交わして切った。 二人して顔を見合わせるが、言葉はなかった。その時、すぐに病院に駆けつけられる覚悟は無かった。それは悠も同じだった。むしろ、俺は全ての思考を奪われたように何も考えられず、呆然としていて、悠はしばらく俺と同じようだったが、会社に連絡を入れて、遅れることを言っていた気もするが、俺の記憶は衝撃の大きい方しか覚えてはいなかった。
「着いたわよ」 式場の駐車場に車が止まった。今日はバードフライ飛行場は通常営業日。いつものように開場してからは人員不足に悩みながらも業務をこなしていく。だが今日は二人を欠いての始業だろうし、話を聞いているスタッフたちはいつもの覇気はないのかもしれない。雨天がさらにそれを助長しているのかもしれない。 「変なところ無い?」 「いや、大丈夫だろ。俺は?」 車に積んでいた傘に二人で入り、斎場へと重たい足を動かした。 「大丈夫よ。行きましょう」 笑顔が消えた日。今日はその日。いつかくると分かって、来ないでくれと願った日。笑うことを忘れた日。そんな日に俺たちが見たのは、安らかに眠る隼人と、誰よりも明るい笑みを浮かべていた少年の写真だった。 俺は正直今、ちょっとしたひびが入ればすぐにでも決壊しそうなのだが、悠はいつもとなんら変わりない無表情で、大して何かを強く感じているようには見えなかった。だが、きっとそれも俺と同じように堪えているのだろう。俺に比べて隠し通すのが上手いから、ほとんど誰にも気づかれることなく、気づかせることなく、今日を終えようと水面下では必死になっているのかもしれない。俺はそこまで器用に出来ないから、俺と同じような服装が集まるこの場の空気を吸っていると、体が重くなり気分が滅入り、逃げ出したくなってくる。 「この度は、心よりお悔やみ申し上げます」 「突然のことでお慰めの言葉もございません。心より回復を祈っておりましたのに、本当に残念でなりません」 悠がより丁寧に、悲しみを堪えるように俺に続く。 「わざわざ、本当にありがとうございます。隼人の顔を見てお別れをしてあげて下さい」 「はい。私たちにとっても、とても大切な日ですので」 悠が、隼人の母親と挨拶を交わしている。だが、二人の瞳からは、分かっていたこととは言え、あまりにも早すぎるこの日を迎えた隼人への思いが、言葉に震えと、瞳に雫を溢れさせてくる。 「どうぞ、お供え下さいませ」 「お気持ち、確かにお預かりします」 その隣で俺は、父親に持参した俺と悠と、バードフライ飛行場のスタッフ全員からの香典を渡した。こういう場だから、母親が耐えられない心痛に心身をボロボロにしているから、父親は強くあっていた。感服する。その強さを、俺もいつか家族を持った時に、持ち合わせているのだろうか。持ち合わせられるのだろうか。 「悠っ・・・・・・さんっ・・・・・・」 「はいっ・・・・・・」 悠と、母親は俺以上に隼人と過ごした時間が長く、共通した何かを感じていたはず。あの日から、隼人の母親と会うのは初めてだが、人が変わってしまったように憔悴しきっている。心痛から眠れぬ日を送っているのだろう。化粧で隠しているようだが、その下に隈が見える。それは、隼人の母親に限ったことじゃない。腕が回復した俺はすぐには家に帰らなかった。いや、帰れなかったとも言える。悠は、何度も言っていることだが、自分のことは後回しにする性格だ。だから、あの日病院で目の当たりにした、安らかに、心地良さそうに眠っている隼人が二度と、あの俺たちの励みにもなっていた笑顔を見せないという、時間が経たなければ実感出来ない現実に、大きな心の傷を受けている、いつも誰よりも近い場所で温かく包み込んでいた二人が、取り乱しているその光景に、俺は愕然とし、呆然とするしか出来なかったが、悠はそっと隼人の頬に触れ、触れれば当たり前に感じられる温もりが徐々に冷めていくなかで、まだ微かに温かい隼人に、小さな嗚咽と共に、ポタポタと隼人に雫を落として、両親と同じように涙していた。 それから、今日まで悠は昔の俺がしていたように、仕事に私情を忘れようとして、肉体的・精神的疲労を煩い、軽い不眠症になっていた。それを隠して仕事をしていたが、長い付き合いと、二ヶ月も居候していた俺には、すぐに必死になっていることが分かった。だから、家に帰ることも出来ず、居候を続けている。むしろ、介護に近いかもしれなかった。俺だって同じように眠れない日があった。だが、全てを受け止められなかった俺の器は、理想を重ねすぎていたのか現実を直視しきれず、悠よりは随分マシで、家事と送迎の今までしてもらった分の恩返しとして、付き添っていた。誰も何も言わなかった。 「お前が一番知っているだろう。お前がしてやらんでどうする」 藤沢上官がただ一人、そう助言してくれた。だから、俺はまだ泣けていない。涙することが出来ない。それを悠の世話をすることで紛らわしているのかもしれない。 楽しくもなければ、嬉しくもない。悲しい。恐怖にも似た悲しさがある。憤りのない不甲斐無さと、焦りと苛立ちと罪悪感と、何も出来ない自分への怒りも湧いてくる。ぶつけられる場所がない。分からない。 僧侶の読経が終わり、焼香をして、喪主である隼人の父親を始め、隼人に対して涙混じりに言葉を紡いでいく中、俺はため息にも似た強い深呼吸を繰り返し、堪えるほうが今は辛かった。その隣で悠は、いつになく静かだった。表情も無表情で、悲しみの向こうにある何かを見ているような、堪えるものを全て吐き出して、何も残っていないようにも見えた。 「隼人、もう起きないのか?」 「・・・・・・っ」 焼香の際、俺と悠は壇上に置かれた小さな棺の中で、沢山の花や俺たちが贈った絵本にアルバム、模型などと共に新たな世界へ旅立った隼人の亡骸に静かに声をかけた。返事があるはずもなく、悠は、とうとう耐え切れなくなった。悠が涙を流す姿を見るのは、これが二度目だ。その声を聞いていると、俺の心臓だか心に気持ちの悪いざわめきのようなものが走る。吐き出す呼吸が震える。 「隼人、もう、起きないのかよ・・・・・・?」 「っ・・・うぅ・・・・・・っ」 泣くことが今日は、当たり前の日。誰も悠の涙を珍しいだなんて思わなかった。隼人とこれが最期だと思うと、いつまでも隼人の寝顔を焼き付けていた。もうそれしか出来なかった。歪む視界に隼人の顔がぼやけて、最後なのに隼人を見てやれなかった。
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