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作品名:sola 作者:ともみつ

第11回   五.空散華夢
 まだ朝陽も上っていない、朝五時。四時に叩き起こされ、寝惚け眼で悠の用意した久々の朝食を喉に通し、支度を整える。
「部屋は掃除した?」
「一通りは」
 昨日ようやく悠は自宅に戻り、俺も送りのついでだからとそのまま悠の家に帰った。
数日ぶりに上がった悠の家は、俺のいた空気がまだ微かに残っていた。
「それより、出来たのか?」
 周囲はまだ暗い中、飛行場へと走る悠の車は、心なしか軽やかな走りに感じた。
 まだフライ機の塗装は見ていない。俺のフルートの仕上がりも気がかりだった。デザイン画も一切目を通していないから、どんな新生バードフライが誕生するのか楽しみだった。
「何とか。細かい仕上がりは間に合わなかったけど、シール塗装でも見てくれは問題ないわ」
 空飛ぶピアノは先輩の一番機が背負うことになったらしく、フルートは普通に新生デザインを施されたようだ。まだ完成と言うわけではないらしいが。
「ちゃんとピアノだって分かるのか?」
「もちろんよ。それよりも曲の方はどうなのよ?」
 悠の問いかけに俺は、含み笑みでオーディオのスイッチを入れた。車内に流れ始めたのはもう何度聞いたか分からない、エチュード第十三番変イ長調作品二十五、『牧童』。
「これ?」
 悠が少し意外そうに声を漏らした。そんなものを露知らずと言うようにピアノの鍵盤を走る音色が車内を駆け巡る。
「他に良いのが無かったからな」
 色々と曲は探してはいたが、エオリアン・ハープを超える曲は無かった。と言うか、俺の中で初めからこの曲しか頭に無かった。隼人にはこの曲が一番相応しいと思っていたから。
「そう。そうしたのね」
 悠は特に何を言うでもなかったが、満足げな表情をしていた。元々俺も悠から聞かされて気に入った曲だから、悠も嬉しいのかもしれない。薄暗い車内は明るい曲で飛行場へと向かっていった。
 飛行場に着くと、既に明かりで満ちていた。消えることのない滑走路や誘導灯等以外はこの時間はいつも静まり返っているのだが、今日に限って既に稼動を始めていた。
「じゃあ、後は頼んだわよ」
「任せておけ」
 いつものようにそれぞれの仕事場へと向かう。まだ来ていないスタッフもいるが、バードフライのメンバー以下今日の主役を担うメンバーは既に揃っていた。
 事務所に入ると、既にバードフライのメンバーは飛行演目や時間調整の最終チェックの打ち合わせに入ってるようで、所内にはその姿は無かった。飛行場は休場日で、本来なら職員の休日だが、隼人のためにそれを返上してほとんどのスタッフが出勤してくれた。俺は音響のチェックを行うために管制塔へ向かった。
「おはようございます」
 元々出社時間の早い管制塔は比較的いつもの静かな雰囲気だった。俺としては入りづらくて、十日ほど前に知った驚愕の事実も重なり、未だに俺には慣れない場所だ。
「奥田、遅かったな」
 いつもよりも二時間は早い出社でも小野原管制官にしてみれば遅いのだろうか。ヘコヘコと頭を下げながら苦笑するしかない。最後の砦として立ちはだかったあの日以来、小野原管制官は美友紀ちゃんの説得の甲斐と、俺が隼人の両親と医師たちから承諾を得て、ようやく縦に振らなかった首を振ってくれた。小さくウムと頷いて。きっと俺の覚悟よりも娘の願いの方が大きいものだったと思うが、この人には上げる頭はないため口には出来なかった。
「今日はよろしくお願いします」
「ああ」
 後にフライのメンバーと管制塔のスタッフで演目と曲、飛行ルートに時間の調整等のブリーフィングも終わるだろう。ここは小野原管制官に任せて、俺は次の事に向かった。
これも小さな夢を大きなものにさせるため。手を抜くことは許されない。次に医務室へ向かい、病院との連携を取れる状態にし、隼人の万が一に備え医師たちと話を交えながら下準備も万端に整えていた。俺の考えとしては、隼人には実際に航空機にも触れてもらい、搭乗体験をさせたいと思っているが、そうなると二時間ほど外での見学となり、今の隼人には辛いかと思う。そのため医務室を管制塔の一階に移動させ、救急にも対応できるようにしておいた。
時間も時間でいつの間にか九時を過ぎ、そろそろ隼人を乗せた救急車が到着する時刻を迎えようとしていた。早朝から飛行場を駆け回っていると、あちこちで隼人のために、と様々な準備をしていた。
「いよいよ出発か」
 隼人が来てからバードフライは離陸を始めるのではなく、隼人に出来るだけ負担をかけないようにと、来場してからすぐに曲芸を見られるように、予め出発しておく手取りになっている。俺も時間が少し空いていたので、タキシングロードの近くで再塗装された機体を見に行った。
「おー、なるほどな。ピアノってそういうことか」
 香田先輩の一番機を筆頭にちょうど俺の前をタキシングしていって、俺の愛機のフルートも新塗装を施されていた。俺が一番驚いたのは、フルートではなく隊長機だった。フルートたちは元よりも少々派手になった感じだったが、隊長機はゼブラ模様のような白と黒が機体腹部に描かれ、その周囲は黒で染められ悠の言っていたピアノがどう言う事なのかようやく理解できた。これを四日で全機塗装させたのは、さすがは整備班と言ったところだろうか。俺に気づいた智史が呑気に親指を立てて見せてくる。人の機体に呑気に乗っているのを見ると悔しさが感じられるが、今は仕方のないことだ。もうじきあそこには俺が座るのだから。
「奥田さん、さっき病院から連絡があって、そろそろ到着するとのことです」
「わかった。ありがとう」
 美友紀ちゃんと受付で到着を待っていると、フライ機が編隊を組んで受付の窓から飛んでいくのが見えた。
「今日は晴れて良かったですね」
 外は快晴と呼ぶに相応しく、南国の海を逆さまにしたような空がどこまでも広がっていた。気温も春の心地良い暖かさで、隼人にも負担は少なくてすみそうだ。
「でも折角の休日だったのに、皆には少し申し訳ないかな」
 善意で協力してくれているとはいえ、ここ数日は業務以外にも色々と時間を押してまでの作業が続いているのだから疲労は溜まる一方だろう。
「気にしなくても良いと思いますよ。今日は誰も仕事って意識じゃなくて、楽しむためって気分で働いてますから」 
 美友紀ちゃんは世辞などではなく、本当にそう思っているようで、自分も楽しそうだ。慌しく駆け回っているスタッフですら、仕事だと気負っているのではなく、実験を楽しむ子供のように好きでやっているような雰囲気がある。
「そっか。なら、いっか」
「はい」
 のんびりとしていると、駐車場の入り口から救急車両が入ってきた。その後に一般車も次いで停止した。俺と美友紀ちゃんは車が止まると同時に外へ出た。
「おはようございます」
 一般車のほうに乗っていたのは隼人の両親で、救急車から降りてきたのは車椅子に座りなおした隼人と医師と看護師だった。しかし、救急車を借りてくるなんてすごいな。隼人の鼻にはやはり呼吸器のチューブがつけられ、看護師がボンベを押していた。
一通りの挨拶お済ませていると、隼人の到着に気づいたスタッフたちが他のスタッフに連絡でもしているのか、こちらを見たり、慌しく駆けていた。
「隼人、今日の調子はどうだ」
 目線を合わせて腰を下ろし、隼人を真っ直ぐに見ると顔色は比較的落ち着いている。そしてその目はいつにも増して輝きを増しているようだ。
「うん。だいじょうぶ」
 グッと親指を立てる仕草をする隼人。その小さな手からは本当に今日を楽しみにしているのだと感じ取る。まだ小さな子供のため人見知りもあるだろうと、藤沢上官たちの指示で俺たち以外のスタッフは遠くからこちらを見るだけだったが、隼人にはあまり意識しなくても良いように思える。ここにいるスタッフ全員が隼人の夢の先にいる憧れの人間ばかりなのだから。
「もう少し時間が掛かるから、中で待ってようか」
 美友紀ちゃんも俺と同じように隼人の目線に腰を下ろし、微笑むと隼人は頷いて俺たちは用意された医務室へ向かった。
「隼人の体調はどうですか?」
 両親と美友紀ちゃんと先を歩く隼人を前に、俺は医師に尋ねた。ここまでの約三十分の移動も気がかりだった。あまり外出をしたことのない隼人には車酔いもあるだろうし。
「心配はいらないでしょう。今の隼人君はこの日のための気力で乗り越えているみたいだし」
「そうですか」
 俺には良く分からないが、薬の影響なども含めて病魔から受ける隼人の体力の減少は日に日に大きくなっているはずだ。ずっと心待ちにしていたからと言っても、隼人の容態が何より優先するべき事項。腫瘍の勢いを少しでも遅らせるために投与され続けている抗がん剤の影響で、隼人は寝起きのようにボォーとしていたり、嘔吐を繰り返しているのを何度か目にしている。それを思うと、隼人に約束を果たせてやれるという高揚感と、隼人の容態を案じると立ち止まりそうになる不安が付きまとう。
「今の隼人君にとっては一日一日が意味のあることでしょう。だから、きっと隼人君は後悔なんて考えていないはずです」
 生きることに純粋に真っ直ぐに向き合うということ。幼い命が懸命にここに在るという事実が、俺の今まで何気なく生きてきた人生の全て上を行くものなのだと思うのに時間はいらなかった。長い間を無駄にばかりしてきた俺とは違う。その日一日がとても大切で、些細なことでも意味を持つ隼人。そんな少年に、俺たちが出来る恩返しとでも言えるこの日を迎えられたのは本当に良かった。まだ光を感じられるうちに、光指す夢の先を俺たちは届けられるのがたまらなく嬉しかった。
《奥田、そろそろ時間だ》
「はい、分かりました」
 小野原管制官からの内線で俺は隼人を外へ連れ出した。普段はあまり目にする機会のないスタッフもぞろぞろとドッグの近くでその時を待っていた。隼人に話しかけてくるスタッフにも、隼人は楽しそうに応対している。今日の隼人は俺が見た中で一番の花を咲かせているように見えた。だが、満開の笑みを浮かべるにはまだ早い。今日と言う日はこれまでの集大成とも言えるものだ。
「隼人、願い事は決まったな?」
「うんっ」
 もうじきピアノがこの空へやってくる。管制塔に目を向ければ、窓越しに小野原管制官たちが見える。時間や空域情報等を計っているようで、こちらに目を向けてはいなかった。
 しばらく空を眺めていると、キラッと遠くで太陽光を反射する空を舞う物体が見えた。それとほぼ同時にスピーカーにスイッチが入ったようで、ジジジと音が聞こえる。
「隼人、きっとお前の願いは叶うからな」
 遠くからエンジン音が次第に大きくなってくる。その音に負けない演奏を空飛ぶピアノが隼人の夢を叶えてくれるはず。
「あっ」
 隼人が気づいて目を向けたほうから一機のフライ機が進入してきた。それに合わせるようにエオリアン・ハープがスピーカーから流れ始めた。速度を落とし、隼人の空へとピアノが演奏を始める。白と黒の鍵盤を模倣し、決して絵本のようにはいかないが、それでもそこにあるのは一台の空を舞うピアノ。翼を左右に揺らし、演奏しているように舞うバードフライ隊長機。コクピットにいる先輩がこちらに手を上げている。こんなので良いか? そんなことを聞いているようでもあったが、隼人の目にはピアノを自在に操るピアニストにでも見えているかもしれない。
「隼人、今だ」
 願い事は他人に話してしまえばその効力を失う。だから、言葉には出させない。隼人が静かに空を駆けるピアノに願い事をするように見つめている。誰も何も言わない。ただ隼人の願いがこの空に届くことを、全員がそれぞれ空飛ぶピアノに思いを馳せているようだ。
 突然エンジンの回転数を上げてピアノが上空へと上昇を始めた。プロペラ機独特の深みのある音を背に、高みを目指して飛んでいく。それを後押しするようにエオリアン・ハープの音色が願いを受け取っていく。その曲音が、若草を撫で、一人の夢を願う少年の全てを優しく包み込み、その願いを雲の上へと消えていったピアノと共に、この世界に小さな夢を果たしに行く音色に聞こえた。演奏が終わると同時に、隊長機は雲に隠れるようにその姿を消した。願いを聞き入れてくれたピアノが、叶えるのと同時に次の夢を待つ子供の元へと飛んで行ったようだ。
「願ったか?」
「うん」
 隼人は満足げな表情で俺を見返してきた。それから十数秒後、カラースモークを出しながら四機のフライ機が編隊を組んで気持ち良さげに俺たちの上空を一糸乱れることなく飛んでいく。
「隼人、お前の夢か?」
 俺の言葉はもう隼人には届いていないようだ。隼人は目の前を飛んでいくバードフライ機に釘付けだ。今まで写真でしか見たことのなかったような曲芸飛行の飛行。それを自分の目で、風と匂いを感じながら、全身で感じる喜びに逆らうことなく陶酔しているようだ。その目が俺の問いの答えになっている。それを見ている隼人の両親の安らいだ表情。子供の夢を叶えたいと思うのは親の夢。今俺はその場に居合わせている。悪い気分じゃない。むしろここまでやってきたことが、ようやく実を結んだことに対する喜びが大きい。悠はドッグ付近で待機しているようだが、きっと今の隼人のことは見えているだろう。
 スモークを出しながら俺たちの前を飛び去っていったフライ機はこれから航空祭と同様の演目をこなしていく。競技専用の機体のため、その機動性には一押しのものがある。
 その中で俺は少々演目の変更を申し出ていた。いつもなら最後に持ってくるのは五機の編隊を組んで高速飛行するのがバードフライの演目だが、今回は順序を変更してもらった。隼人の夢は空に絵を描くこと。細かく言えば雲をキャンバスに見立て、それに絵を描くことだ。それはほぼ不可能な夢。叶えられないのは残念だが、妥協してでも出来る限りのことをしてやりたい。そんな思いでここのスタッフは今日を迎えた。だから、俺は一つだけリクエストをした。
技名は、Upward Air Bloom。―――上向き空中開花。 
 日本語訳の通りの演目で、五機が編隊を組んで上昇し、花が開くように上空で一斉に四方に飛散していく演技だ。他にも様々な技があるが、俺はこれを最後に隼人に見せたいと思った。雲に絵を描くことは出来ないが、空に花を咲かせることは出来る。隼人の小さな夢と言う蕾を俺たちで花開かせる。そんな考えで隼人にも感じてもらえれば良い。
「わぁぁ、ハートだ」
 隼人の目はとても生き生きとしている。ちょうどCupidの飛行で、智史の乗る俺のフルートの三番機と四番機がハートを描き、そこに隊長機が矢を射るようにハートの中を貫いていく。様々なアクロバットチームが行っている技の一つだ。空に絵を描いているように隼人には見え、これでまた一つずつ小さな夢が叶っているっているのかもしれない。
 約四十分ほどの飛行演目も終わりを迎え、最後に俺の希望していた飛行に入るため、五機が進入してくる。初めて見る演目の全てに俺も少々テンションが高くなっている。ジェット機よりも迫力こそ欠けるが、それでもこれがバードフライ飛行場での最高の演技だ。隼人にもその熱意は伝わっているようで、車椅子には隼人の意識は座っていないのかもしれない。五機と一緒に大空を羽ばたき、その小さな手に筆でも持って、自由に空に絵を描き続ける。短い時間も隼人には無限に続く空と同じように見えているのかもしれない。
 五機が隼人の正面で空へ昇る龍のように一斉に上昇していく。青、黄色、赤、白、緑の五色を絵の具のように空に残して、一斉に開花した。スタッフからもおぉ、などと歓声が上がっているが、隼人は静かだった。声を出すのも忘れているくらいに見とれている。その目の輝きが宝石をも凌駕するほどの光に満ちている。まるで最期の光を何一つとして見逃すことのないように、全てを取り込んでいるように。
 空に散開していった五機が、全演目の終了を告げるように、一機ずつ隼人の目の前を翼を揺らしながら飛んでいく。
「隼人、あれが俺のフルートだぞ」
 隼人の隣に腰を下ろし、隼人の肩を抱いて智史の操縦するフルートを指差す。それを知っているのかいないのか、智史がフルートの機首を斜め上に傾け、斜めに飛んでいるように見せてきた。それを見た隼人が驚いた表情を浮かべているが、とても楽しそうだから、俺も智史には呆れたが、笑った。
「兄ちゃんも、あんなのできるの?」
 五機が挨拶を済ませて着陸してくると、ドッグのほうで整備班が動き出す。まだ、これで終わりじゃないのだ。隼人にはもっと沢山の思い出になる日。これだけで終わらせたくはないと誰もが思っていた。
「ああ。あんなのなんてちょろいぞ」
「兄ちゃんの、見たいなぁ」
 フライ機が五機並んで隼人の前をタキシングしていく。俺たちもドッグのほうへと移動するため、隼人の車椅子を押した。
「腕が治ったら好きなだけ見せてやるからな。隼人もしっかり病気を治すんだぞ」
「約束?」
 隼人が首を上に上げて俺を見てくる。今まで病院内では見たことのない隼人の明るい表情が俺を見つめてくる。その体のどこに隼人を蝕む病魔がいるのだろうかと思ってしまうほどだ。
「約束な」
 小指を絡ませると、うんっ、隼人も頷いた。隼人の表情とは裏腹に、母親の表情は優れたものじゃなかった。分かっていたことだが、やはりまだ無理をしている。最後の隼人の笑顔を焼き付けているように見えてしまった。きっとこれからも無理をしてでも息子に微笑み続けるのだろう。例え偽りのものだとしても、我が子が笑っているのだから、親が笑っていないと言うのは耐え難いものがあるのだろう。隼人には家族の楽しそうにしている光景に映っているのだろうが、俺の目にはそれは半分だけで、後はとても悲しみに満ちている光景に見えた。フライ機のエンジン音が止まらないでくれ、と内心では思いながら車椅子を押し続けた。
 ドッグの近くに並んで停止したフライ機がエンジンを切ると、人の声と風の音だけで静かになった。体に響いていたエンジン音が突然消えると、心に穴が開いたような空虚感が湧いた。そこに在るのが当たり前だと思っていたものの消失は、人間には失ってからでないと真価は分からないということなのだろうか。
「隼人、乗ってみるか?」
 メンバーが機体から降りてくると、一人一人が隼人に握手を求めて来る。隼人の小さな腕がメンバーの筋肉質な腕と繋がる。あまりにも差のある握手に微笑ましくもあるが、いつかきっと、俺が憧れてこの仕事に就いたように、隼人もメンバーこの手を目標として、これからを歩んでいってもらえれば・・・・・・。そんなことを思ったのはきっと俺だけじゃないだろう。ここにいる全ての人間が、ここに在る小さな命の灯を包み込んでいたいと思っているから、今日を迎えているのだ。
「いいの?」
「どれに乗りたいか?」
 智史が隼人を抱きかかえた。智史の腕にすっぽりと抱きかかえられた隼人は、俺が思っていたよりも小さく見えた。この時ばかりは隼人につけられていた呼吸器も外され、隼人は心地良さそうに大地の香りを吸い込んでいた。少々オイル臭さもあるが、隼人にはそれもまた一つの香りとしているようで、臭いと言いながらも嫌そうではなかった。
「兄ちゃんのにのりたい」
 隼人がフルートを指差した。智史は俺に目を向けてくる。俺は頷きその後を追った。俺も実際、フルートに触れるのは久しい。もう一ヶ月ちょいは智史と組んでいるから、遠くから見ているだけだったが、近付くとやはり旧友との再会のように胸が高鳴っている。再びフルートと組めるのはまだだが、久々に俺もその操縦桿を握りたくなった。一度味わうと、空を自分の腕で飛ぶということは一種の麻薬のようで、抜け出せなくなる。雲と風を切り、大地を見下ろし、空を泳ぐ快感は高所恐怖症でなければ、誰もが虜になるはずだ。隼人はまだそれを感じたことがないだろうが、コクピットにはそんな想いが詰まっているから、座るだけでも感じることが出来る。
「よし、俺が乗せてやる」
 隼人が智史に抱かれ、翼に足をかけ、座席に乗せられた。傍にいた隼人の両親も嬉しそうに隼人を見つめていて、父親が持参したカメラで隼人の写真を数枚撮っていた。スタッフの数人も女の子中心に隼人に可愛いと黄色い声を上げて写真を撮っていたりと、隼人は芸能人のように盛り上げられて、楽しそうにしていた。
「楽しそうね、隼人君」
「ん? ああ、そうだな。あんな風に笑うんだな」
 いつの間にか悠が隣に立っていた。隼人に満足してもらえた事を誇らしく思っているような優しい笑みを浮かべている。
「子供だもの。本当はもっと笑っていられるはずよ」
 遊ぶ時間が少ない隼人だから、こういう時に感じる感情を余すことなく表に出しているのだろう。春を迎えた花が目いっぱいに太陽を浴びようとしている隼人の光に溢れた瞳。その片方はもう開くことがないというのに、全くそんなことを感じさせないあどけない笑顔。それにつられて浮かび上がる両親や医師、フライのメンバーからスタッフたち。そして俺の隣にいる悠。一人の少年がもたらした小さな夢の淡い一時。この時間が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。いつまでも自分を騙し続けられるほど俺は強くないから。 
口から出て行く言葉と心に浮かぶ言葉が、同じ事を言えなくなっていることくらい分かっている。隼人の両親が一番辛いことも。隼人が苦しんでいることも。スタッフたちが一丸になって隼人の夢のためにここまで尽くしてくれている本当の気持ちも。だから、俺は堪えなければいけない。医師や隼人の両親に言われた。残された時間は苦しむことの無いよう、楽しいことを沢山思い出として作っていきましょうと。だから、耐えなければいけない。一番辛く苦しい思いをしている人が、偽りのない笑みを浮かべているのだから、俺が先に折れるわけにはいかないのに。なのに、なのにっ・・・・・・。
「健介? どうしたのよ、急に」
 ―――溢れてくるこの冷たいものは何なんだよ・・・・・・。
「・・・・・・悔しいなら背を向けて泣きなさい。そんな顔、隼斗君には見せられないでしょうが」
 健介は隼人とその周りを囲むスタッフたちに背を向けて、石でも砕けそうなほど強く拳を握り締め、声を堪えて涙を流していた。春の穏やかな快晴の中、ポツリポツリと地面を濡らしては、すぅと星に雫は帰っていった。
「まだ今日は終わってないんだから、早く拭きなさい。あんたが笑わないで、誰が隼人君の憧れを担えるのよ。憧れの人は強く在りなさいって」
握り拳を解かれ、悠の手から柔らかい布が握らされた。それがハンカチだと認識できた頃には、悠は既に隼人を取り囲む中に溶け込んでいた。風邪を引いたわけでもないのに、涙が止まらず、視界が水中のように鈍る。悔しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、様々な感情が入り混じり、堪えられなくなった。こんな時に一人だけ。恥ずかしい。
「・・・・・・っ・・・・・・くそっ・・・・・・」
 涙を拭うハンカチからは、仄かに優しく慣れ親しんだ香りがした。
 ようやく顔を上げた頃、案の定隼人は機体から降りていて、先輩や美由紀ちゃんたちからバードフライ飛行場の様々なグッズを貰っていた。本当に喜びに満ちた隼人の顔が潤いに満ちた俺の視界に映り込む。何て子供らしい笑顔なのだろうか。何が子供らしくて大人らしいのかは分からない。ただ、純粋な隼人が子供に戻ったように見えた。
「落ち着いたか?」
「・・・・・・なんだよ、からかいに来たのかよ?」
「そんなんじゃねぇよ」
 周囲から少し離れたところに智史が来た。さっきの俺を見ていたらしく、今声をかけられたくない一人だった。
「お前、今ぐちゃぐちゃしてんだろ? 俺もだった。だから分かるんだよ。それをからかうつもりはない。ただな・・・・・・」
 智史が視線を俺から隼人に向け直す。
「隼人はお前を待ってる。これで残してやろうぜ。子供の心に。それと俺たち中にも、な?」
 手にした一眼レフのデジカメ。普段からよく飛行場で写真を撮っているここの備品。もう、それしか出来ないのか。隼人に感じさせることしか出来ない夢。本当は叶えてやりたかった。友達なら馬鹿をすることくらい厭わないはずなのに。だが、俺は子供としての友達にはなれなかった。
「分かった」
 楽しい時間はあっという間だ。それだけ無意識のうちに楽しむことに集中している。まだまだ続くと思っていた時間も終わりを迎えようとしていることが寂しかった。
 俺と智史は隼人の下へ歩み寄り、誰かに着せてもらったパイロットスーツに身を包んだ隼人をもう一度フルートに乗せた。
「隼人、記念写真を撮るぞ」
 智史や先輩たちが隼人の両親に医師と看護師、スタッフをフルートの回りに集合させる。管制塔にいる小野原管制官たちは離れることが出来ないため、こちらに向かって敬礼をしている。隼人に双眼鏡を使って見せてやると、隼人も同じように管制塔に向かって力を込めれば折れてしまいそうな細い腕で敬礼をしていた。それに応えるように、再びスピーカーからエオリアン・ハープが流れ始めた。全員で何人いるのか分からない少なくとも五十人近くがバードフライ機の周囲に集い、フルートの翼や胴体部にまで人で溢れた。これまでフルートは一度にこんなに多くの人間に触れられたことはないだろう。高峰隼人と言う小さなパイロットが搭乗すると、こんなに多くの人間がその傍で彼を称えるように集う。俺には真似出来ないほど高みにいる証だ。
「健介、もっと笑え。顔固くなってんぞ」
 カメラをセットしている智史が、あちこちに細かくチェックを入れる。最高の一枚にしようとしているのだろう。自分も果たせなかった過去を、ここで果たすために。
「ほら、もっと傍に寄りなさい。あんたの機体でしょ?」
「パイロットなら愛機と共に在れ、健介」
 翼に寄りかかっている悠が、俺を見上げてくる。その傍で先輩も同じように急かしてくる。
「兄ちゃん、こっち」
 隼人には少々大きすぎるコクピット。顔がやっと覗きだせるくらいに隼人は埋まっていた。
「よしっ、乗るか」
 周りから囃し立てられれば、乗らないわけにはいかないだろう。隼人を抱え上げ、先に俺が乗り込み、俺の足の上に隼人を座らせる。二人で座れば狭いコクピットだが、それも気にならない。準備が整ったようで、タイマーをセットした智史が合図をしてこちらに駆けてくる。人の合間を掻い潜ってフルートの翼を蹴り、コクピットのすぐ後に飛び乗った。身のこなしの軽さに驚きもしたが、カメラを見ろ、と人の頭を足で挟んでカメラに捻られ、そのままシャッターがパシャっと小さな音が聞こえた。
「智史、お前な・・・・・・」
 写真を撮り終えると、画像チェックへとまた足早にフルートを降りていく。人への謝罪もなしに身勝手に行くのはいつも変わらない。怒りなどよりも呆れに近いものがあった。
「どうだ隼人。楽しめたか?」
「うんっ。兄ちゃんすごいね。ほんとうに絵かいたよ」
 隼人は興奮冷めやらぬ様子で、俺の膝の上で感想を細かく言った。詳しいことは分からなくとも、楽しんでもらいたいと言う当初の目的はどうやら達成されたらしいから、良かったのだと喜ぶのが筋と言うものなのだろう。俺も楽しんだことには変わりない。だが、燻るように俺の心に残っているものはどう捉えるのが良いのか。後の祭りのような心残りがあるのではないか、まだ出来ることが何かないのか、もっと隼人に楽しんでもらえることはないのだろうか。俺を見上げる隼人の顔を見ると、そんなことばかりが巡ってきてしまう。
「隼人君、そろそろ戻ろうか」
 そんな俺の考えを吹き消すように、医師がフルートの傍にやってきた。隼人も満足げに首を縦に振った。
「にいちゃん。ありがとう」
 フルートを降りると、隼人は車椅子に座り、その場にいたスタッフたちにありがとうございました、と礼儀正しく体を乗り出す勢いで頭を下げた。
「隼人、次は一緒に飛ぼうな」
「うんっ」
 智史が隼人の頭をクシャクシャと撫でる。ニット帽がズレていて、また可愛いと黄色い声が上がっていた。
「ありがとな、フルート」
 久々に乗り込んだフルートに今日の礼を言い、俺も降りた。フルートが役目を終え、無言で鼻を高くしているように見えた。地面に足を下ろすと、これで今日は終わりなのだと言う思いに駆られ、降りることに躊躇いが生まれそうになったが、そこに一歩を降ろした。
「本当に、今日はありがとうございました」
 隼人の両親が深々と頭を下げると、俺たちも全員が同じように頭を下げた。感謝しているのは俺たちも同じ。いつかの自分を思い起こさせてくれた隼人と言う少年と夢。そんな子供心に誰もがまた新たに結束が固くなっただろう。願いが叶う時は、誰もが同じ経験を育んできたからこそ、ここに必ずやって来る。かつて俺たちが通った道を志す隼人にも、いつか自分が幼かった頃のことを振り返る時が来るのを信じて。
 隼人が両親に引かれて車に戻る際、花道が作られた。また来てね、とか今度遊びに行っても良いかな? とか色々な声を受けながら隼人は一時の夢に別れを告げた。
「隼人君、またね」
「お姉ちゃんもありがとう」
「じゃあな、隼人」
「ばいばい」
 小さな手がこちらに向けられ振られる。それに応えるようにスタッフたち全員が隼人を送り出した。両親は自家用車で戻るようで、先に救急車が飛行場を後にした。
「奥田さん、雨宮さん。本当にありがとうございました。これであの子も満足出来たことだと思います」
 改めて深々と頭を下げる二人に、悠が、自分たちも楽しむことが出来たと言うが、俺は頭を下げるのが精一杯だった。あれだけ仕事を蔑ろにしてまで取り組んできたことが終わりを迎えようとしているのに、本当にこれが隼人にとって最後の大きな思い出になるのかもしれないと思うと、反省すべき点が次々と浮かんでくる。
「あの、隼人は本当に満足していたと思いますか?」
 俺の問いに隼人の両親が不思議そうな顔をしていた。過ぎたことを悔やむより、これからのことを考えるのが当然だということは分かっている。でも俺はそれほど前向きな人間じゃない。だから、どうしても聞きたい言葉があるのかもしれない。俺以上に感情の起伏に呑まれることのないように、隼人に不安な感情を抱かせないように努めている両親がどう思っているのか。それが気になっていた。あれだけ悩んでいたのに、施しようがなくなればケロッと態度を一変させられるほど、家族の絆と言う繋がりは薄くはないはず。
「少なくとも、私はあの子があんな風に思いっきり笑った顔は久しぶりに見ました。だから、きっと隼人は夢が叶って満足していたはずです」
 穏やかな自愛に満ちたような笑み。そこに偽りも何も感じられない。思ったことを素直に言っただけ。そんな表情に見えた。
「そうですか。それなら、良かったです」
 もう一度頭を下げ、二人の車を見送った。祭りの後の静けさは好きじゃない。余韻に浸るのも乙なものなのかもしれないが、寂しさが沸く。感傷に浸るには、俺には不似合いだ。
「終わったわね」
「終わった、な」
他のスタッフが後片付けに戻る中、俺と悠はしばらく車の出ていった後を静かに見つめていた。本当に隼斗が、楽しんで、夢を輝かせてくれたのか。それだけが気がかりだった。

―――それから四十七時間後。隼人のもう片方の瞳も、静かに光を失った。

 隼人は本当に真が強い子供だ。失明と言うことも、どう言う事なのか理解出来なかったのかもしれないが、取り乱すことをしなかったそうだ。夜眠りに就き、翌朝目が覚めたら、もう光を感じ取れず、
『お母さん、まだ夜かなぁ? なんにも見えないよ?』
そう言ったそうだ。検査の結果を聞いた両親は自宅で泣き崩れたらしい。まだ六歳の子供が、自分たちよりも何分の一しか生きていない我が子から、光が奪われた。だが、俺はご両親は気が気ではないだろうから、申し訳ないが、俺は隼斗が今の時期に盲目になったことは、先を考えると、良かったと思った。たった六年にしか光を見えなかったが、それでもこれからの暮らしを考えると、不安や恐怖などの重圧が少しでも薄れるように思えた。
隼人の母親はそれ以来毎晩病院に泊まりこみ、隼人の傍を片時も離れることをせず、腕の中で、
『隼人、愛してるからね』
 そう言い続け、それが口癖のようになっていた。隼人の父親もいつもは残業などであまり見舞いに来れなかったそうだが、その日以来欠かすことなく毎日隼人の元へ来ている。夫婦の間に軋轢が生じることが良くあるそうだが、隼人の両親は以前にもまして強固な絆を築き、隼人の残された時間を家族で過ごすことを守り続けている。治療の間は外出などもってのほかだったが、今は時々隼人は自宅に戻り、家族の時間を過ごしている。日に日に悪化を辿る神経芽細胞腫の転移はその間も着実に進んでいる。
俺は溜まった仕事と航空祭と、腕のリハビリで、これからもっと隼人と語らう時間が欲しいと思っていたのに、その間逆を日々追っている。病院に行ってもリハビリで時間が作れず、挨拶をするだけで十分もいられないことがほとんどになった。その間に隼人は首にも転移したらしく、声が掠れるようになっていた。僅か一月ほどで隼人の顔から、夢を叶えた日のような笑顔は見ることが出来なくなっていた。
「隼人にこれ、持っていってやれ」
 智史に渡された日記帳のような大きさのアルバム。智史は隼人のことを知っていた。それでも俺に持って行けと俺の胸でその手を離した。
「見えなくてもそこにあるのは紛れもない、隼人の夢と思い出だ。絶対に渡せよ」
 ページを捲ると、いつの間に撮ったのか、数多くの写真が貼られ、スタッフたちからのメッセージも添えられていた。
 翌日俺と悠はリハビリも兼ねて隼人の元を訪れた。俺から声をかけなければもう俺だと気づいてもらえないということに気づかされた時は、正直大きな壁を感じてしまった。今までは部屋に入った瞬間、
「兄ちゃんっ、お姉ちゃんっ」
 と、元気な声が返ってきた。体調が優れない時でも、必ず隼人から俺に声をかけてきていた。それが急になくなり、俺から近くで声をかけなければどこに誰がいるのかまだ慣れていないせいもあり、聞き慣れない声や足音には神経を使うようになっていた。それが、いつかくるとは分かっていたとはいえ、当たり前のことだったことが崩れてしまい、俺が受けたショックも大きい。
「隼人、これ、あの時の写真だ」
 努めて普通に振舞う。平常心を心がけて。それでも、目の前の光景に、俺一人だったら、言葉も出せなかったはずだ。隣にいる悠の大きさが、ここまでとは思いもしなかった。
「アルバム?」
「そう。この間の写真と皆から隼人君にメッセージを書いてもらったの」
 隼人の腕を取り、小さな腕の中にそっとアルバムを抱かせた。隼人にこれを言うのに、正直時間が掛かった。その目はもう光を映し出すことが出来ないと言うのに、それを踏まえた上で隼人にあの日の思い出を切り取ったアルバムを渡す。それがあまりにも酷なことに思えてしまったが、悠が俺の手を取って、行くわよ。と病室へ入り、俺も決心した。恐れが悠の手から吸収された気がして、隼人に渡すことが出来た。
 そんな俺の思いとは裏腹に、アルバムを受け取った隼人の表情は晴れやかだった。
「兄ちゃん、どんなしゃしんがある?」
 そんなことを聞いてきた。ペタペタとページを捲りながら写真を触る隼人は、見えない代わりに何かを感じ取ろうと懸命になっているようだった。
「そうだな、これは隼人が俺のフルートに乗った写真だぞ」
 隼人の手を取り、あの日隼人をフルートに乗せてスタッフ全員と撮った写真の上に隼人の手を添えさせた。小さくて細い手。簡単に握り潰せそうなくらいに小さかった。初めて女を抱いた時の弱々しい体の柔らかさよりも、隼人の手は神経と力の作用に体力を思った以上に消費した。壊れそうで力を抑えながらも、壊れることなんかなかった女の温もりとは違って、壊してしまいそうで力を抑えないと、本当に壊れてしまう弱々しすぎるその手には、恐怖にも似た胸の高鳴りを感じないではいられなかった。
隼人の目には一体どんな思いが浮かんでいるのだろうか。写真を隅々まで触る隼人の仕草にはそんなことを感じた。悠と共に隼人の手をとり、一枚一枚これはどんな写真なのかと、出来る限り詳細に伝えていく。隼人も自分の中にある思い出を引き出して、どんな写真があるのかを感じているようで、「ここね、僕見てたよ」や「これすごかったよね」など、俺の予想を良い意味で裏切って表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。それを見るのが、たまらなく悔しかった。
「あの、これ。どうぞ」
 隼人の元を離れる際、俺は隼人の母親にもう一冊のアルバムを贈った。隼人に贈ったアルバムと指して変わりないもの。ただ違うのは、隼人にはスタッフたちからの激励などのメッセージがあったが、母親に贈ったものには、俺と悠に智史や美友紀ちゃんなど、今回の隼人の夢のために一番身近で奔走してくれた人間からの一言と、後は一枚一枚の写真の下に一言書けるようにスペースを設けていた。俺たちで、この写真はどういうものなのかと説明を加えてしまうよりも、隼人の家族として、親として感じたものを残してもらおうと悠の提案で、そう作った。
「ありがとうございます」
 何度も何度も母親は俺たちにそう言った。本音を言えば、今述べたのはあくまで半分だ。残りの半分の本音は、隼人と両親のことを思ってだ。考えたくなくても嫌でも事実だけが徐々に未来を少なくさせる。俺が隼人と出会って二ヶ月を迎えようとしている。バードフライ飛行場での航空祭も残すところ日にちが目に見えてきた頃合だ。リハビリも次第に進んできて、仕事終わりに立ち寄る日も増えて、隼人とも会う機会がほんの少しだけ増えた。
出会って始めの頃は、どこにでもいる元気な少年と変わりなくて、どうして入院しているのかと思うくらいだったというのに、今では、声もハキハキとしたものではなく、か細く途切れ途切れになることもあり、体にも目に見えて大きな変化が見られるようになっていた。腹部腫瘤や肝臓への転移に伴う腹部の肥大などがはっきりと見られ、母親の話では、興奮や癇癪を上手くコントロール出来なくなることも増え、夜に何度も起きてしまうことがあるらしかった。下肢も今ではほとんど自力で動かすことが出来ず、寝たきりのまま常に誰かが傍に付き添う必要があった。嘔吐や下痢などの抗がん剤治療の副作用も相変わらずで、俺たちが来た時には必ず笑顔を浮かべていたが、それも無理をしていることは明らかだった。点滴や呼吸器をつけている姿を見る度に、俺の心に棘が刺さった。無理な治療をしなくなって、治療中に比べたら穏やかな日も多いが、それだけに明日を迎えることがきっと隼人の両親には、俺や悠以上に怖いと思う日が多くなってくるはずだ。
「いえ、私たちのほうこそ、こんなことしか出来なくて・・・・・・」
 悠も隼人の前ではいつも通りでいるが、内心は俺とそれほど変わりないはずだ。他人から見れば普段から静かだから気づかれないが、気に病んでいる時に見せる僅かな表情の変化を見逃すことが出来なかった。既に左腕もそれほど生活に支障をきたさなくなったのだが、ずるずると悠の家に未だに世話になっている。だから、特によく分かる。俺へのいつものネチネチと不満を言う口調にも陰が見えている。
「そんなことはありません。あの子にはきっと一番の思い出になりましたから」
 私たちには出来ませんでしたから・・・・・・。と、嘆くように一言だけ言うと、俺たちは仕事へと向かった。一人の子供の命が、家族の温もりを強固にした代わりに、その代償として支払い続ける時間の早さには誰もが心の内では悔いている。それが日に日に俺を打ちひしがせるように隼人の体から力が薄れていくのをこの目に焼き付けた。

「また、自殺だってよ。全く、なんちゅう世の中なんだか」
 バードフライの訓練が終わり、休憩をしている智史が夕方のニュースをデスクに肘をつきながら眺めていた。それを正面に見つつ俺は、航空祭の最終準備の調整に追われていた。地域住民との飛行展示等の騒音問題から、他の航空基地からの招待飛行の時間調整と演目等の打ち合わせ、フリーマーケットの出店者の出店場所や費用に精算など、相変わらずの雑用に磨きが掛かっていた。その間に飛行手順から技術の総復習から基礎体力の向上と筋トレなどと俺も本格復帰に向けて本腰に取り組むようになっていた。一刻でも早くフルートに乗り、隼人へ俺の復帰を見てもらうと言う事が俺を突き動かしていた。
「ほんと、弱い世の中になったもんだよな」
 誰にでもなく智史は愚痴るように呟く。俺は書類に目を通しながらも相槌を打った。生活に便利なものが溢れ、活動自体の低下が大きくなるこの現代。昭和のように近所付き合いも希薄になり、隣人の名前すら知らない生活環境の中でも不自由なく生活できるようになった。便利になった分、必要以上に強くなる必要もなくなり、誰もが打たれ弱くなっている。理不尽なことに対しては、感情を抑えられずすぐにキレるし、ストレスを発散させられる趣味も何もなく、溜め込んで、簡単に死にたいと口にする者が溢れている。どうして自分だけ幸せになれないのかだとか、なりたいものになれないだとか、一度の失敗や裏切りですぐに自虐に走る。そういう事を言える時間があるのは、幸せなことじゃないのだろうか。そう愚痴りたくなる。
「世の中ホイホイと渡れねぇから、面白いってのによ」
 智史の言葉にすぐには頷けなかった。俺も正直打たれ弱いし、精神的にも弱い部分が隼人の一件もあり、より浮き彫りにされた。長い人生で辛いことも何もなく、不自由もなく、願えば叶い、気ままに生きる。そんなことを思うのは普通だし、別に悪いことじゃない。だが、そんな人生は人生じゃない。俺は堕ちるところまで落ちた事はない。だから、俺の言葉をそんな経験をしたことがないから言えるのだ、と非難されれば素直に受け入れる。
それ故に言えることもある。思うこともある。ほんの二十年も生きていない子供が、人に死ねだとか、死にたいだとか口にするのを聞く度に、本当はぶっ飛ばしたくなる時がある。今、堪える、耐えるという力を身に付けられない人間が多い。だから、腹が立つ。子供は耐える方法を知らない。だから、死と言うものの本質を考えないで自殺へ歩む者がいる。死ねば楽になる。そんなものは戯言だ。死んで何になる。自分が自殺すればどれだけの負担が身の回りに降りかかるのかをこと細かく考えた上で自殺をした人間はいるのだろうか。いや、いないだろう。いたらそいつはただの馬鹿だ。
「ガキも弱くなったよな。殴り合いの喧嘩も出来ねぇ男もいるしよ」
 智史は元々不良だったと自分で言っている。本当かどうかは不明だが、よく喧嘩をしたと言う。今では決闘罪などと言う法律もあり、そんな喧嘩も出来ない世の中だ。言葉や間接的に他人を貶めては楽しむ。そして自分がされれば、すぐに死を思い浮かべる。便利な世の中になった弊害の一つだろう。
「軽い命だとか思っているなら、隼人と代われって言いたくなるな」
 簡単に死を考えている人間には、俺は真っ先に今はそう言う。すぐに死と言うもの口にする奴には大人だろうが子供だろうが、気を失わせてでも隼人の前に突き出せる気分だ。ろくな夢も抱かず、努力もせず、苦しい辛いことからは逃げ、自分とは無関係だと嫌なものは拒否し卑下する弱い人間。そんな奴がのうのうと生きている間に、隼人はたった一つの小さな子供の夢を抱き、見ることが精一杯で、明日を生きることすら日に日に難しい中を、家族や思い出をとても、とても大事にして、自分を苦しめる病魔と闘い続けている。隼人に俺は強くさせられた。まだ子供なのにだとかはもう言わない。俺の方がいかに子供だったのか思い知らされた。命を軽いものとしか考えていない奴がいるなら、俺はその命を隼人に差し出せと最悪脅すことも厭わないかもしれない。
「お前、人のことそんなに言えねぇだろうが」
 智史が苦笑しながら俺を見る。分かっているさ、そんなこと。俺だって辛い中でも明るく生きている隼人を知ったのは最近だ。だから、俺にそんなことを言える資格はないだろう。だが、思ってしまったのだ。軽んじる者と重んじながらも感じさせない者の格差と言えるようなものを。
「別に公言はするつもりはない。愚痴だ。聞き流してくれ」
 思うだけだ。思うだけ。だから、悔しい。それしか出来ない俺がこうしていることが悔しいのか、隼人に今は何もしてやることが出来ないことが悔しいのか、それが分からないから悔しいのか、正直いっぱいいっぱいなのが一番悔しいのかもしれない。
「お前のやれるだけのことすれば良いだろ。無理してやっても空回りするのがオチだ」
 見透かしたような智史の言葉が、悔しくて、救いになる。俺はこいつをライバル意識しているが、本当は始めから俺なんて相手になっていないのかもしれない。隼人の件も自分の姉たちのこともあり、すでに過去の清算を終えたように智史は落ち着いている。
「ま、お前が俺に勝つなんて百年早ぇってことだ」
「・・・・・・そうだな」
 からかうつもりで言ったのだろうが、俺にはそれすらも誠のことにしか思えず、智史が拍子抜けした顔をしていた。

「準備順調?」
「今の所は特に問題はないな。天候くらいなもんだろ」
 帰路を急ぐ車内には、淡々とした会話が時折挟まるだけで、音楽が静かに静寂を包み込んでいるだけであった。横目に流れる夜の暗闇が、隼人の見ている世界とどちらが暗いものなのだろうかと、漠然と考えていた。数日前までちらほらと通り過ぎている光も、今の隼人にはとても眩しいものなのだろうか。懐かしくて温かみのあるものなのだろうか。自分を守ってくれる家族と言う両親を六年しか見ることが出来なかった隼人。隼人がまだ子供だったから良かったのかもしれないと思うこともある。そんなことを理解できる年じゃないだろうからその悲しみも小さなもので済むのかもしれない。
「明日が最後の休みか」
 明日は航空祭までの最後の休日。以降は航空祭と復帰へ向けてのより本格的な業務復帰への足取りを急がなければならない。恐らく隼人への見舞いもしばらくは出来なくなるだろう。悠もちょうど明日は休みだ。俺と同じように悠も忙しくなる。
「言いたくはないけど、これで最期かもって思ったほうがいいわよ」
 悠の言葉に、極力触れないようにしていた事実が突きつけられた。窓の外を見ていた俺の視線は悠に瞬時に向いた。言いたくないなら、言わないで欲しい。
「そんな顔して私を見ても、どうしようもないでしょ」
 悠は全く俺のほうを向くことなく運転に集中して、前を向いたままだった。対向車のヘッドライトが悠の瞳を照らし出し、憂いに満ちた悲しい瞳が、ただ前を向いていた。
「あんたも、本当に覚悟しておいたほうが良いことくらい分かってるんでしょ?」
 自分を押し殺しているような悠。いや、実際に押し殺しているのだろう。俺がまたくじけないようにするために。いつだって、仕方がないわね、と呆れたようなため息を漏らしながらも、世話を焼いてくれる。だが、今回は今までのこととはわけが違う。仕方ないわね、の一言がない。人を支えるだけの余裕を準備出来ないのだろう。
「私だって、そんなに強くはないんだから、今はあんたと同じなの。悪いけど、今は他に言えない」
「・・・・・・悪い」
 悠の言葉に、それしか言えなかった。自分のことをあまり口にしない悠が、ポロッと漏らした本音。久しぶりに聞いたかもしれない。それに俺は返す言葉が見つけられなかった。


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