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作品名:sola 作者:ともみつ

第10回   10
「今日もやるわけ?」
 数日前に門前払いをした奴らのいる管制塔が見える。パイロットだからと簡単には中へ入れてもらえず、門前払い所か、門前に踏み込むことすらさせてもらえなかった。その間にも先輩や智史たちの協力の甲斐あって、バードフライ飛行場で隼人のことを知らないどころか認めてもらえていないのは、あの管制塔で働く職員だけで、残りは協力的で舞台は整いつつあった。後はステージと主役の登場を待つばかりの段階まで来ることが出来た。ここで止めるわけにはいかない。俺を認めてくれる人がいるから。俺を叱り飛ばしてくれる人がいるから。俺を憧れだと思ってくれる人がいるのだから。
「当然だ。土下座だろうが何だろうがやってやるさ」
「頑張りなさいよ」
車を降り、いつものように悠と別れた。悠はまだ隼人のことで少々引きずっているが、無理はしないだろう。俺が頑張れるのだから、これまで支えてきた分の疲れをその間に癒してくれれば良い。常に頑張る必要はない。あの場で、あれだけ医師の心を揺れ動かせたのは俺からすれば勲章ものだ。次は俺が格好をつけさせてもらおう。支えられてばかりいるのも情けないしな。
事務所へ行くと、俺は真っ先にパソコンを開いた。今日に限って俺の周りに集まってくる人がいない。皆仕事を今のうちに片付けてくれているのかもしれない。
「これか」
 俺がネットを開き、キーボードを叩くとサイトがヒットした。メイク・ア・ウィッシュと英語表記の題の下に子供の写真がある。警察官の制服に身を包んだ少年だ。団体の意義は、名前の通り、願い事をすると言うことらしい。ボランティア団体としてアメリカで発足し、約千人もの子供の夢を叶えてきたと書かれている。子供たちに勇気を与え、社会貢献の場を提供し、難病と闘う三歳から十八歳未満の子供たちの夢を叶えることを目的に設立されたらしい。
「そういうことか」
 先ほど医師の言っていた言葉。それは俺たちが隼人に対して思っていることと同じじゃないか。しかも俺たちは言ってしまえば素人だが、この団体はそれに関してのプロと言ったところじゃないか。読み進める中で、「警察官になりたい」「遊園地に行きたい」「野生のイルカと泳ぎたい」などの夢を叶える手伝いをしてきたと実績も載せられている。だが、俺たちと同じようで違うのだとも思った。俺たちは隼人に空に描くという夢を実際に叶えてやることが出来ないが、それに近いものを感じさせてやりたいと思っているが、この団体は子供たちの夢を叶えてあげるのではなく、夢を叶えるのに必要な様々な手配や配慮をするというものだった。実際に叶えるのは、本人。それを行う方法も書かれていた。俺たちは団体でもなんでもない個人だ。だから、団体のような力はない。門前払いも仕方のないことで片付けられてしまうこともある。
「参考にはなるか」
 色々と見ていくと、その手段方法は違えど、共通するのは同じだろう。子供の夢。難病に苦しむ中で見せる夢を語る子供の目の輝きの眩しさ。それを失わせたくないという想いがあるから、団体は発足したのだろうし、俺たちも動いている。
「でも、どうしてこんなことを言ったんだ・・・・・・?」
 そこまでは分かったが、そこでまた一つの疑問が浮かんでくる。何故俺たちにあの医師はこのことを言ったのだろうか。参考になるならという理由でなら、特に言う必要は無かったはず。初めから否定してこのことを言えば良いだけのことじゃないか。
「分からないなぁ」
「何がだ?」
 俺の肩に手を置き、智史がパソコンを覗いてくる。
「何か用か?」
「お前、何険しい顔してんだ? んなんじゃ誰も寄って来ねぇぞ」
 智史に言われて周囲を見渡すと、何人か目が合う。向こうからどこか申し訳無さそうに頭を下げて挨拶してくる。つられるように俺も頭を下げる。智史が言う通りなのか、俺はそんなに気迫があったのだろうか。そんなつもりは無かったんだが。ただ気合を入れていただけだが、それが不味かったみたいだな。
「そんな顔をして、何見てたんだよ?」
 俺は智史に見られる前に接続を切った。待ち受けにしているバードフライの写真がデスクトップ画面に映し出され、智史はつまらなそうに俺の肩から手を離して自分のデスクに戻った。
「ま、良いけどよ。それよか、この前行ってきたんだろ? 結果は?」
「アウトだ。ただ悠が色々と言ってくれたから、頑なってわけじゃなかったな」
 結果としては敗北だな。食い下がった結果が惜敗と言ったところだろうか。所詮は言い訳に過ぎないのだが。
「躓かないですんなりって訳にはいかねぇだろ」
 分かっていたような口ぶり。それは俺だって分かっていたさ。それでもぶつかっていかないと壁は越えられないんだ。
「それもそうだが、今度はこっちだ」
 視線を向けるのは管制塔のある方向。壁の向こうに今のところ全く聞き入れてもらえない難攻不落の城がある。つぎはこっちだ。問題の後の問題は始める前から疲れを感じてしまう。
「手伝えないぞ」
「分かってる。俺一人で十分だ」
 智史は通常業務のほかに帰航の後にバードフライも入っている。多忙極まりないのは人員不足の深刻さを表している。それもあるが、こいつにも三割近くの活躍をしてもらったんだ。これ以上仕事に支障をきたさせるわけにもいくまい。
「美友紀ちゃんには話したのか?」
「とっくに」
 美友紀ちゃんは、一昨日話した時に同僚の子から話しが伝わっていたようで、あっさりと認めてくれた。応援するとも言ってくれたが、その時にはほとんどの職員からの承諾は受けていたことは黙っておいた。
「さてと、行ってきますか」
「頑張れよ〜」
 俺は重い腰を上げると、深呼吸をして事務所を後にした。智史の呑気な見送りを受けながら。悩んでいても答えが出るわけじゃない。答えは分かっている。この二日同じだったのだから、一日で覆るようなことなんて――――
「そこにでも座れ」
「は、はい」
 通されたのは、管制室の一階下の休憩室。と言ってもパイプ椅子と簡易長テーブルが置かれて、茶菓子などが置いてあるだけの簡単なインテリアがあるだけの部屋。元々は見学者用の空きスペースとして解放していたが、いつの間にか休憩室のようになっている。
「コーヒーで良いか?」
「はい、すみません」
 ちょこん。そんな音が似合いそうなくらい俺は椅子に腰を下ろしている。この上では管制塔員が神経を研ぎ澄ませて、この辺り一体の空の監視及び、飛行場の運営に当たっている。ここの飛行場の心臓部だ。いや、脳とでも言ったほうがしっくり来るか。その仕事場の下で俺は目の前でコーヒーを入れているのを見ている。
「ほれ」
「ありがとうございます」
「それで、話っていうのは何だ?」
 どっしりと威厳たっぷりに俺の前に腰を下ろすのは、管制塔を指揮するお方、小野原管制官。藤沢上官と大浪整備統括長と合わせて飛行場の三大御所だ。
「はい、実は―――」
 俺の話に口を挟むことなく耳を傾けている。俺は隼人のことを話した。医師とのことは口にはしなかったが。
「それで他の部署は話が通ったのか?」
「畑山や香田先輩のおかげで」
 そうか、と渋い声で小さく言うと、考えるようにだんまりになった。数日前にも似たような状況を味わった気がする。
「それで、その隼人という子供の外出は、病院側からの承諾は出ているのか?」
 いきなり確信を突かれた。答えないわけにはいかないだろう。
「いえ、まだ取れていません」
「その上で確証はあるのか?」
「正直なところ、可能性は低いです。ですが、やるだけです」
 呆れたようなため息が鼻から漏れた。口から出されるよりはマシだった。
「昨日、藤沢と大浪が俺に話を聞いてやれと言ってきた。その覚悟を見てやれとな」
「上官たちが、ですか・・・・・・?」
 意外な人たちの助力に、当惑してしまう。藤沢上官までもが手を貸してくれるとは思いもしなかった。あんなに俺を一蹴してきた人がまさか、と思うばかりだった。
「お前はそこまでして、その子供が喜ぶと思うか? お前がしてやることで、その子供の何かを変えてやれるだけの意味はあるのか?」
 唐突とも取れる俺の話とは無関係な問いに拍子抜けしてしまうが、俺を捉えるその目は真剣だった。その目に応えるには俺も同じ目をしなければ意味がないだろう。
「少なくとも、そう思っています。病室からしか見ることの出来ない夢を、肌で感じることで、きっと今以上にその目に宿るものに輝きが増すと思っています」
 我ながらクサイ言葉だと思うが、偽りはない。隼人にしてやれるだけのことをしてやることが出来れば、隼人が思い描いてきたことの夢が壊れる前に、花を咲かせることが出来るかもしれない。この世界に芽を出したその命が、花を咲かせること無く散っていくのは、見たくはない。悠長に生きてきた俺よりも、遙かに短い中で凝縮された生き方をしている子供の夢を叶えてやれることが出来ずに、俺が操縦桿を握ることなんて今は出来ない。隼人と知り合えたから、俺はこれまで俺が目指してきたものを思い出すことが出来たのだ。
「そこまで言うのであれば、その結果を持って来い。そうすれば考えてやる」
 それだけを言うと、小野原管制官は席を立ち、俺の前から去って行った。俺はその後姿に声をかけずにはいられなかった。
「あ、あのっ。それは認めていただけるということですか?」
「結果を持って来いと言ったまでだ。それ以上でもそれ以下でもない。パイロットなら限界を決めるな。やれることに対して、挫折しようが、何をしようがそこで自分の限界を作るな。やれることはまだあるという考えを持て」
 言い終わると同時に再びその歩みが俺から遠ざかる。
「は、はい。あ、ありがとうございますっ」
 俺は慌てて立ち上がり、思いっきり頭を下げた。ふん、と鼻で笑う声がした。
「お前は何故いつもその覚悟を初めから見せようとしない? 娘にもそれくらいの覚悟を見せんか。全く。美友紀も美友紀だ。どうしてこんな男を」
「・・・・・・へっ?」
 俺が顔を上げると既にその姿はどこにも無かった。階段を上がる音が響いてくるだけだった。それはそうとして、最後に何を言われた? 何か妙なことを言われた気がする。美友紀がどうのこうのと。嬉しさ半分に、背筋に感じる冷たい何かを半分に感じていた。
「・・・・・・えーっと、どういうことだ?」
 誰もいない室内に俺の問いだけが残された。
 事務所に頭に『?』を浮かべながら戻ると、先輩も業務から戻ってきたのかデスクで午後からの訓練に備えて談笑に華を咲かせていた。
「健介、どうだった?」
 智史は業務で飛行に行ったようで、その姿はないが、話題は先輩に引き継がれたようだ。
「とりあえず、仮ということで許可は出ました」
 後は俺次第と言うことなのだが、まずは一安心と言っても過言ではないだろう。
「・・・・・・先輩?」
 俺の言葉を受けて、先輩が信じられない表情で俺を見てくる。他にも話が聞こえたスタッフが同じような表情を浮かべている。俺、何か変なことでも言ったのだろうか。そんなつもりは全く無いのだが。
「お前、本当にあの人から許可下りたのか?」
「はい、そうですけど?」
 先輩の言っていることが分からない。何をそこまで驚くのだろうか。
「奥田さん、おはようございます」
 美友紀ちゃんが所内にやってきた。すると先輩の目が美友紀ちゃんに向いた。
「おはよう、美友紀ちゃん」
 あの日以来顔を合わせたら気まずいかと思っていたが、美友紀ちゃんはいつも通りで拍子抜けしてしまった。美友紀ちゃんは結局いつもと変わらず、俺に色々と今までのようにしてくれている。ただ違うのは、無理をして自分を前に押すようなことをしなくなった。一生懸命になって俺に声をかけるのではなく、余計な力が抜けたようで、俺としては以前よりも美友紀ちゃんを取り巻く雰囲気がすっきりと綺麗になったように思う。だから、俺も自然と接することが出来るようになった。ただ、それが時折辛さを隠す涙を堪えている時があるように見えることもあるが、俺から声をかけるわけにはいかなかった。
「どうかしたんですか?」
「いや、隼人のことを小野原管制官に話して、何とか許してもらえたんだけど、先輩がそれ聞いてこうなったんだ」
「お父さんに、ですか?」
「・・・・・・は?」
 美友紀ちゃんの口から妙なことが聞こえた。それを聞いて先輩が頷いた。
「奥田さん、お父さんを説得するなんて凄いですね」
 美友紀ちゃんも驚いた顔をしていた。その一方で俺は嫌な汗が湧き出してくるのを感じた。お父さんって今聞こえた。はっきりと。先輩を見れば、あの人にまともに取り入ることが出来たなんて、と俺を妙な目で見ている。
「み、美友紀ちゃん。もしかして、お父さんって、あのお方?」
 俺たち飛行場職員の中で、小野原管制官は藤沢上官以上にお堅い人で知られ、あの人に反抗することが出来るのは、上官たち以上の人間の限られた人間だけと恐れられている。しかもどうやら俺以外は既知の事実らしい。
「はい、そうですよ。普段からすごい頑固なんですよ。それを説得するなんてやっぱり奥田さんは凄いです」
 やっべぇ、俺。今更になって何も知らなかったとは言え、物凄い人にぶつかりに行ってたんじゃないか。しかも美友紀ちゃんとのこともあったから、去り際に少々ドスの聞いた声を言い残して行ったんじゃん。
「健介。お前度胸あるな。俺でもあの人は苦手だってのに」
 嫌な汗が心の中を流れていく。先輩すら恐れをなしている人なのに。美友紀ちゃんは自分の父親だから気にした様子はないが、お父上様はそうじゃないだろう。あの時殴られなかったのは奇蹟かもしれない。先輩の視線と美友紀ちゃんの嬉しそうな表情に、俺は乾いた笑いを浮かべるしか出来なかった。
「はぁ・・・・・・」
 今日一日は飛んだ災難日だった。皆の協力の甲斐もあって、私情の仕事は一段落つくことができ、藤沢上官にネチネチと小言を言われながら、ここ数日溜まっていた仕事を少々片付け、昼食時に今日に限って小野原管制官と美友紀ちゃんと出くわして、冷や汗な昼食をとり、精神的疲労の蓄積が通常の何割増だったことか。
「ご愁傷様ね」
 どこで話を耳にしたのか、悠にも今日一日のことが知られていて、俺の気苦労を笑って流してくれやがった。こっちとしては今日一日で様々なことを知り、様々なことに心を揺るがされたと言うのに。
「エオリアン・ハープ掛けてくれ」
 苦笑しつつも悠はラジオを切り替えてくれた。疲れた心には流水のごとくしなやかな音色が包み込んでくれる、ショパンの曲が心地良かった。明日からまた仕事に奔走するのかを思うと、このまま家に着かなければと思ってしまった。
「頑張ったわね、健介」
 いつの間にかまどろみに襲われ、悠が何かを言ったようだが、聞き取ることが出来なかった。

 数日後、飛行場が休場日を迎え、俺と悠は久々にいつもより二時間ほど遅起床したのち、隼人の元へ二人して向かった。ここ最近は俺が診察を受けている間に悠が見舞いに行くというのが日常になっていたため、悠と二人で行くのは久しぶりだった。悠はその短い間に医師に話したことを隼人の母親を担当しているケースワーカーに相談していたようで、病院に着くと、いくつか言葉を交わしていた。
「そのことでなんですが、もしかしたらお二人の申し出が通るかもしれないんですよ」
 ケースワーカーの女性の言葉に、俺たちは不意を打たれたように止まった。悠の甲斐もあって徐々にではあったが、俺たちの申し出の話は隼人を支える人たちの耳に届くようになっていた。まだ味方は俺たちの相談に乗ってくれるこの女性だけだが、悠はそれでも孤軍奮闘していた。俺はと言えば、情けないことに今日まで小児病棟に足を踏み入れることが出来ず、悠に任せっきりにしていた。心機一転したはずなのだが、俺の認識が甘かったことを知って以来、合わせる顔が無いと駄々を捏ねていた。時間がないというのに。今日は悠がサポートしてくれるからと、足を踏み入れた。久しぶりに目にする病棟内は、ほとんど変わりないような光景が繰り広げられている。俺の記憶と相違するのは、昔はこの喧騒の中に他の子たちや医師たちを励ます隼人の姿があったが、今はそこにその笑顔はなかった。
「詳しくは私の口から言うわけにはいかないでしょうから、お見舞いをしてあげて」
 そう言われ、俺たちは隼人の病室へ向かった。室内は俺が知っている光景が広がっていた。難病で苦しみながらも共に励ましあう、共に共感できるだけの絆が生まれた子供たちが笑ったり、治療に泣いたりする光景があった。俺が知っている日常がそこにあって微笑ましい反面、ここに通うようになってもうすぐ二ヶ月、変わることの無い現実に切なさを覚えた。
「久しぶり、隼人。どうだ調子は?」
「おはよう、隼人君」
「あ、兄ちゃん、お姉ちゃん」
 隼人は横になったまま視線だけを俺たちに向けてきた。その顔には呼吸器が装着されている。俺の内心はその隼人の様子に愕然としていたが、表情に出すわけにはいかなかった。子供は大人の顔色を敏感に感じ取る才能を誰もが持ち合わせている。隼人に限ってはそれが強いため、不安にさせるようなことは出来なかった。
隼人の表情は落ち着いていて顔には笑みが浮かんだ。まだ母親は来ていないのか、隼人は静かに絵本を手にしていた。相変わらずベッドの上は本や玩具で散らかっているが、余り遊んでいるような形跡は無かった。孤独や辛さを紛らわすためにそこに飾られているようだった。
「兄ちゃん、ずっとこなかったね?」
 呼吸器越しに聞こえる隼人の声は曇って聞こえる。呼吸をするたびに呼吸器が白く曇るのを見ていると、こっちが息苦しさを感じてしまう。
「悪い悪い。お前に約束したことの準備で忙しくてな」
「みられるの?」
 ちょっと前なら嬉しそうに華やいだ表情も、今は余り変化なく言葉にだけ感情を込めているようだ。無邪気な笑顔がないのは寂しいな。
「ああ、もう少しだ。もうちょっとで見せてやるからな」
 すっかり変わってしまったような隼人。見た目では少し痩せたようだが、腹部が満腹時のように張っている。これもやはり病のせいなのだろうか。確証はないがそうなのだろう。そう思わざるを得ない現実がここにあるのだからな。
「ほんと?」
「うん、お兄ちゃんが今頑張ってくれているからね」
 悠がそっと頬に手を当てた。心地良さそうに隼人の表情がかすかに和らいだ。周りには同じ子供がいるが、やはり心細いものがあるのかもしれない。悠を見る表情が縋るように俺には見えたから。
「あら、雨宮さんに奥田さん」
 背後から声が掛けられ振り返ると、隼人の母親と医師の姿があった。挨拶を済ませると、意を決して隼人の母親を外に連れ出した。しなければならないことがある。
「先日は誠に申し訳ありませんでした。軽はずみなことを言ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
 ここ最近はよく頭を下げているが、今日のは全く別のものだ。今までのことを取り消すわけじゃない。ただ自分のことばかりを優先した申し出をしてしまったことに対する謝罪。許してもらおうとまでは思っていない。ただ聞いてもらいたかった。決して冗談などではなく、軽はずみとは言え、俺は俺なりに本気で隼人に夢を感じさせたいと思っていたことを。
「良いんです。私も隼人のことだと言いながら、自分のことを押し付けてしまいました」
 頭を上げて下さいと言われるが、すぐには上げられなかった。誠意ある謝罪かの是非は問わないが、俺なりに俺が納得しなければあげることは出来なかった。そんな俺に小さく心無く苦笑をすると、そっと俺の頭を持ち上げた。
「夫に言われました。奥田さんたちは私たちと同じようにあのこの子とを考えている。だから、それを私たちも受け止めなければいけないんじゃないか、と」
 顔を上げて隼人の母親を見ると、違和感が浮かんだ。あの日以来刺々しい感じだと印象があったのだが、角が取れたように穏やかだ。それはそれで良いことなのかもしれないが、俺の違和感はそれとは違うところに感じた。言葉にしても良いのか分からないが、良い気分になれるようなものではなかった。むしろ間逆。強い悲しみの向こうにある果てしない虚空へ辿り着いたような達観にも見える無表情。もし自分の母親が目の前でそんな顔をしていては、きっと俺は悲しさなどよりも恐怖に近い何かを感じるかもしれない。今まで見たこともない様々なものを背負い過ぎた表情というものほど、人の疲れた顔はないだろう。人形の無表情よりも無表情という悲しいものが隼人の母親には見えた。
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、何かありましたか?」
 聞かずにはいられなかった。こう言う時の俺の勘は女性の勘を軽々と凌駕する負の力を持っていることを自覚しているから。
「・・・・・・アメリカの病院から連絡がありました」
 俺の中で全身を強く脈打つものがあった。これは俺の勘が予感から確証に変わる時に起こるもの。血の気が引いていく寒さが強くなってくる。
「ワクチンの精製は困難だと、聞かされました」
 それはつまり、遺伝子治療は望めないと言う事じゃないか。今まで外科手術や放射線、化学療法などの集学的治療を、隼人が外で元気に遊ぶ子供の一人に加わるために行ってきた結果、最後の頼みの綱として隼人の両親が望みを託してきた治験がダメだというのであれば、考えずとも答えは見えてくる。隼人を完治させるための治療方法が全て絶たれてしまった。心のどこかでずっと悪魔が囁くように予感していたことが、今俺の前に覆ることの無い現在(いま)として立ちはだかってしまった。
「先生と夫と話した結果、残りの時間は隼人の好きにさせることにしました」
 抑揚ない言葉に、俺は何も言い返す言葉が浮かんでくることは無かった。すっと、俺の横を通り過ぎて行く母親の横顔は、俺が嫌いな人間が見せる顔だった。その背中は、降り止むことの無い雨のような涙に耐える、とても悲しく、寂しげで、遠いものに見えた。逃避出来るのであれば迷うことなく、そちらへ行ってしまいそうなほどだった。
「隼人君。今、隼人君がしたいものを聞きたいんだけど、何かあるかな?」
 母親の後、室内に戻ると医師が隼人に何をしたいのか聞いていた。その隣で悠が俺と同じような顔をしていた。詳細を聞かずとも、その質問の真意がよく分かるのだろう。悠は人一倍物事を無意識のうちに真摯に考える奴だ。事態が飲み込めたのだろう。俺に答えを求めるような目に俺が頷くと、悠の口が小さく開いた。
「何でも良いのよ。隼人がしたいことをこれからはいっぱいしても良いの」
 隼人に向けられる母親の微笑みはとても優しく、温かいものだ。それが偽りだとは思えないが、その後姿を見る俺には、必死で我が子をその目に焼き付け感じようとする辛さが滲み出ているような気がする。
「なんでもいいの?」
「うん、何でも良いのよ」
 両手で隼人の小さな包み込む温かさは、きっと今の隼人には何よりも愛しいものなのだろう。そして、その小さな手から伝わる温もりもまた、母親には愛おしくてたまらないものなのだろう。
「これ」
 隼人がすぐ横に置いていた絵本を反対の手で母親に見せた。空飛ぶピアノと書かれている絵本。俺たちが持ってきた物。隼人はそれを見せた。
「これをどうしたいのかな?」
 少し首を傾けて絵本を見る医師。内容を知らない医師には隼人の言う事が分からないのだろう。俺と悠は何となくだが、思い浮かんだ。
「隼人君は、きっとこのピアノに願い事をしたいんじゃないでしょうか?」
 悠が言うと、うんっと隼人が頷いた。
「何をお願いしたいの?」
 どうして、とは誰も聞かなかった。それはもう意味を成さないと知ってしまったから。
「兄ちゃんが見せてくれるもの」
 隼人が俺を見る。やはり隼人の思うことは俺たちが考えていることと同じだったようだ。だから俺は隼人が不安に思わないようにはっきりと頷いた。
「約束したもんな」
 治療が意味を成さない今、恐らく隼人のご両親と医師たちは、そのことを嘆いていても隼人の時間は着実に減っていくのだから、隼人のこれからを考えることを第一にしたのだろう。いや、考えないといけない事態になってしまった。本当はもっと助かる道に縋りたい気持ちが、きっと隼人の母親にはあるはずだ。時折話の流れとは関係なしに、
《隼人、あなたを愛しているからね》
 と、惜しむように言うのが聞こえる。母親がここまで変わってしまった経緯は俺が知る由もないが、きっと色々あったのだろう。そんな言葉で済ますのはどうかとも思うが、俺にはそれしかなかった。
 そして、きっと悩みに悩み貫いて出した答えが、一秒すらも惜しい隼人の時間を、痛くないように苦しくないように、楽しくて楽しくて仕方がないと言ったような時間を過ごさせてあげたいというものに至ったのだろう。隼人は、母や医師の申し出に自分は回復に向かっていて良くなってきたのだと思っているのかもしれない。その思いを尊重することをこれからは大切に包み込んでいこうとする家族の在り方が俺の目の前にある。
「あの事ですか?」
「はい。隼人は俺の友達です。だから約束は守りたいんです」
 隼人の母親にしてみれば、今の隼人には思っているだけで幸せなことで、本人は治る気でいるのだから、大きなことよりも身近なちょっとした喜びを積み重ねていきながら、少しでも一緒に過ごす時間を自分の愛情を注ぎ、隼人の温もりを感じていたいのだろう。それは家族であるなら当然のことだと思う。だが、俺は小さなことよりも、到底手に出来ないような大きなものを感じる方が良いと思う。母親からすれば、隼人の症状は悪化を辿るだけで、隼人の心はちょっとした棘でも大きな傷を作る可能性があり、周囲に今まで見たり聞いたことの無いものを感じることで、ひどく怯えたり不安になり、疲れると言いたいのだろ。話を聞くうちにそれが正しいとも思える意見だ。何しろ、一日中我が子の状態を見守り、性格や心を誰よりも把握していて、それ以上に自分がお腹を痛めてまでこの世界で出会いたかった、自分の子供なのだから。その意見が間違いだと言える人間はいない。もし俺に子供がいれば、同じことを言う。安心出来る人たちと、安心出来る場所で過ごすことが一番なのは当たり前の事なのだから。
だが、俺は隼人や仕事仲間たちに子供の心を思い出さされた。子供と言うのは大人の考え方とはまるで違うことをしたがる。母親や家族の注ぐ愛を、まだ小さな子供は全てを理解出来ない。だから、自分の欲求を抑えることも出来ない。子供は笑って泣いて、叱られて褒められて、抱きしめられて、その器を大きくして、家族の自分に伝えたい思いを心身の成長と共に少しずつ理解していくのだ。だから、隼人はまだまだ発展途上。昔の俺を重ねると、隼人の友達として俺はその意見とは逆の立場に立つ。子供は自分の知らない世界を目の当たりにすると、興奮する。特に男の子はそうだ。その時に感じる喜びは、大人に成ってもいつまでも美化され続け、死ぬまで心に残る。忘れていても思い出させてくれるきっかけを知る友達や仲間がいるから、いつまでも色褪せることなく、壊れることなく残り、次の世代へと受け継ぐ一つの宝ともなる。
「以前、先生が俺に話してくれましたよね? メイク・ア・ウィシュのこと。確かに俺たちなんて足元に及ばないくらいの実績があって、敵いません。でも、俺は隼人と約束したんです。空に絵を描くことを見せてやる、と」
 隼人がうん、と力強く応えてくれる。それが素直に嬉しい。その道のプロだとかに任せて事をするのではなく、自分たちでやり遂げようと頑張るから、達成した時の喜びは願いを叶えられた本人だけでなく、その願いを共に自分の願いのように叶えてきた者たちにも同様に返ってくる。第三者ではなく、共に当事者として味わうことが子供には何よりも楽しいのだ。だが、隼人にはそれが難しい。だから、見てもらうだけでもしてやりたい。
「私たちのほうでは、既に準備は整っています。後は・・・・・・」
 悠が母親と医師を見る。俺も同じように決意に満ちた眼差しを送る。ここで届かなければ強硬手段しか残されてはないだろう。それをすることも今は厭わない。友達は少々無理をすることだってある。一人の小さな勇者の願いを、俺も、俺の仲間たちも同じ願いとして叶えたいから。
「少し、お話をしましょうか?」
 医師が隼人の母親に声をかけた。ええ、と母親も頷き、俺たちにしばらく待つように言うと、病室を後にした。
「簡単にはいかないでしょうね」
「分かってる。でも言いたいことは言った。後は答えを聞いて、判断するだけだ」
 結局その日は隼人の父親が仕事を外せないそうで、後日連絡してくれるとのことで、俺たちは隼人に必ず見せてやると改めて約束を交わして病院を後にした。正直なところ、俺は物足りなさに似た空虚感があった。あれだけ相反する意見で正面から向き合っていた隼人の母親。それが治験から遺伝子治療の望みがないと判断され、施す術がないことを知るなり、今までの態度とは豹変した、あのあまりにも悲しげな顔に、腑に落ちないものを感じていた。
「分かってあげなさい。あんたとは違うのよ」
「それは分かってる。俺がガキなだけだ」
 こんな時にまで俺の中で子供の心のようなものが大きく支配している。心で分かっていても体が受け入れてくれない。その逆かもしれないが、自分ではどちらなのかよく分からない。悠はそんな俺に呆れながらも、自分も受けたショックに心を痛めているようだった。こんな時に励ましの一言も掛けられず、逆に掛けられている俺自身は本当にヘタレだ。
 翌日からはいつも通りの日常の延長だった。朝起きて診察があれば病院に行き、隼人を見舞い、仕事へ行く。そして上官たちに叱られながら少しずつ仕事の重たさも増していき、筋トレ代わりだと割り切ってこなし、バードフライの訓練を横目に航空祭の準備をこなしてた。地上からしか眺めることが出来ないことには悔しさがあるが、それでも仕事はある。楽しんでもらうためにも俺は俺の仕事に誠心誠意を込めてやるつもりだ。
「は? ピアノを、ですか?」
 俺と悠は飛行場とは違う、会議室のような部屋に隼人の両親と医師と数人のスタッフと座っていた。
「はい。隼人君は空飛ぶピアノの絵本を肌身離さずに持っていて、先日もそれに願いをしたいと言っていたことなので」
 医師の言葉は分かった。それは俺もその場にいたから覚えている。隼人からは何度も聞いたことでもある。
「どうか、お願い出来ないでしょうか?」
 隼人の両親が俺たちに頭を下げる。そう言えば隼人の父親とは初顔合わせだな。会社員らしく普段は忙しいようだが、今日は俺たちに合わせて有給を取ったそうだ。そこまでして俺たちに頭を下げられると、こちらとしては罪の意識を感じてしまう。だが、そうしなければならないほど時間が惜しいと言うことは考えたくなくとも考えてしまうことだ。
結局隼人の両親から、俺が初めから頑なに伝えてきたことが、いとも簡単に通ってしまい、少々腑抜けてしまったが、結果オーライと言うことですぐに準備に取り掛かった。俺は俺で飛行場の社長にも話をするべきだと思っていたのだが、上官たち三御所が話を通してくれたらしく、俺は隼人の方に気を回すように言われ、飛行場のことは先輩たちを筆頭に任せることにした。
「どうする?」
 悠を見ると、悠も俺を見てくる。
「私は普段からドッグだから、健介の方がその辺は詳しいでしょ?」
 そうは言われても、飛行場には音響システムは管制塔に揃っていても流石にピアノは置いてない。航空祭では楽隊の演奏は確かに地元の学生や消防警察の楽隊なんかがしてくれるが、ピアノの搬入は無理だろう。外での演奏は音が航空機のエンジン音に負けてしまうだろうし。
「生演奏っていうのはおそらく難しいかと」
 その一言に場の空気が沈む。自分で言っていて良心が痛い。
「そうですか。ではピアノは置くだけで、実際はCDか何かを掛けるっているのはどうでしょうか?」
 隼人の父が妥協案を持ち出すが、悠がそれを受けて何かを思いついたように口を開いた。
「ピアノの搬入は難しいかもしれませんが、私に一つ案があるんですけど」
 全員の視線が悠に向けられる。席を立つと悠は元々置いてあったホワイトボードにペンを走らせる。何を書いているのかと思えば、バードフライ機であるSu‐26の機体の絵と管制塔を書いた。絵が上手いなぁと高校の美術以来に目にする悠のセンスに感心した。一通り書き終わると、振り返る。
「空飛ぶピアノの通りにしたいと思います」
「もしかして、その飛行機でピアノを吊るすんですか?」
 看護師の一人が口を開くが悠は首を振る。
「いいえ、そういうわけではなくて、機体にピアノの絵を塗装して、スピーカーを使って曲を流すんです」
 タイミングを合わせられればピアノが空を飛びながら演奏しているように見えます。と続けた。何も焦らすことなく答えを言う悠には、少々こちらに考えさせる時間があっても良いと思うのだが、悠にしてみればそんなものも時間の無駄なのだろう。悠の簡単な説明に医師や隼人の両親には頷いているが、俺は頷けなかった。確かに悠の考えは不可能じゃないし、今の段階では一番の正攻法だろう。曲に関してならフライ機とのタイミングを合わせれば上手くいくし、よくやっていることだ。だが、問題があるのも確かだ。俺はパイロットだから詳しくは知らないが、機体塗装に関してだ。航空機の塗装は雨や大気からの機体の保護だけでなく、見る人への配慮もしなければならない。そのため、定期的に塗料剥離剤を用いて古い塗装を剥がし、再塗装を行う。バードフライ機は自然硬化型の塗料とシールが使用されているが、作業自体は良く行われているのを俺も見たことがある。だが、塗装はすぐには完成しない。小型の機体ではあるが、再塗装を施す際、機体洗浄も行い、完全に塗料が硬化するまでも少々時間が掛かる。それをこの数日だけで済ませるのは無理じゃないだろうか。第一、塗装案がない状況なのだから、デザインシールの発注との早さは判断が難しいところだ。
「時間がないんだぞ? 塗装は可能でも、塗装だけじゃ難しいだろう?」
 整備班の悠の方が詳しいから、無理なことは言っていないのだろうが、俺としては無理な気がしてならない。
「四日あれば、やるわ」
 俺たちの話は俺たち以外にはさっぱりなのだろう。医師たちはポカンとした表情で話を聞いている。俺が医師から医療の話を聞いた時と同じだ。世界にはその世界のプロがいるのだから、下手に出しゃばることなく、得意分野はそれぞれのプロに任せれば良いというものだ。
「大丈夫か?」
「やるのよ。もう本当に良いのか? なんて考えてられる場合じゃないんだから。やると決めた以上は、終わりまで行くことが限界なの。そこまでやるのが、あたしたちなのよ」
 四日と言うことは、一日でほぼ全ての工程を終わらせる勢いでなければ無理じゃないだろうか。悠はやれる、ではなく、やる、と言い切ったのだからその言葉に嘘はないだろう。俺と違って冗談や嘘は親しい仲の人間にしか言わない奴なのだから。
 結局、悠の話が通り、俺と悠は早速飛行場に戻り、フライ機の特別塗装の打ち合わせを始め、隼人に付き添うために飛行場と病院との打ち合わせには、医師たちと意外なことに美友紀ちゃんが仲介を買って出てくれた。俺は美友紀ちゃんと共に調整を整えていた。日に日に隼人は体調の変化の起伏が激しくなり、その日にならなければ、状態が分からない状況だった。薬のおかげで大きな変化はないが、それが隼人に辛い思いをさせ続けていることが俺の心を締め付けていた。負担が少ないとは言え、軽い抗がん剤の使用には間違いが無い。多少の副作用も隼人は辛いはず。それをごまかすように医師たちは隼人に夢の話をし続けていた。一刻も早く見せてやりたくとも、そうは行かない現実に焦りが生まれるが、その度に何とか自分を落ち着けるのに必死だった。
「今日も泊まりか?」
「全機ともなると、スタッフ総出でも足りないくらいだから」
 病院で話をつけた日から悠はほとんど家に帰ることなく、飛行場の仮眠室や近所の同僚の家泊まりだった。俺は俺で左腕の自由が増えた分、その間は久々に自分の家に戻っていた。送り迎えは日によって違うが、智史の割合が大きかった。
「お前は無理をしがちだから、気をつけろよ」
「大丈夫。私一人って訳じゃないから」
 大浪さんも業務の合間についてくれているから悠の言う通り大丈夫だろう。俺も俺で他人のことばかりに気を配っているわけにもいかない。機体の再塗装は終盤を迎え、完成までは見るつもりが無いため、順調かは不明だが、やると言ったからには完成させてくるだろう。俺は隼人のためにも空飛ぶピアノの曲の選曲を任され、様々な曲を探すだけだ。まだ邪魔にしかならないこの腕で出来ることは、それくらいだ。

「あんただけにはさせたりしないんだから」
 健介の去った後、夜闇に灯る蛍火のようにドッグだけは煌々と明かりが溢れていた。
「雨宮、全塗装は間に合わないぞ」
 大浪がマスクを外して一息つきながら悠の方の作業を見回す。
「シールもまだ揃ってないのは理解してます。でも時間がある限りはやります」
 賛同した整備士たちが時間外勤務だと言うのに、残業を厭わず作業に徹している。漂うシンナーの劈く匂いも喚起で吹き飛ぶ。活気が吹き飛ばすように。
「そう言う努力は買うが、全員のことも考えろ。ただ働きを喜ぶ馬鹿ばっかりじゃないからな」
「そうなんですか? 私はみんな馬鹿だと思ってますよ?」
 誰一人として愚痴を吐いていない。疲労の顔色はあっても、出てくる話題は指示と夢と誇り。
「上司相手に良く言うもんだ」
「では、お帰りになられますか?」
 可笑しそうで悪戯な笑み。作業着はもう塗料でまだら模様でも、悠は落書きを楽しむ子供のようにそこにいた。
「馬鹿が。小娘ごときに任せられるか」
 大浪がそう言いながら、作業の甘い箇所を怒声を響かせて叱る。妥協は許さない。自分に喝を入れているようでもあった。
「ありがとうございます。業務とは無関係なことを許していただいて」
 その後姿に悠は深く頭を下げた。幾人かの整備士がそれを息を呑むように手を止めていた。
「私には何も返すことが出来ません。でも、これだけは譲りたくないんです」
 手が開いた整備士の手が毅然としている悠が深々と頭を下げている姿にあっけらかんとしている。
「どんな罰も甘んじて受け入れます。ですから、お力添えをどうかよろしくお願いします」
 機材の作動音が響く。人の手はその場で一旦停止してる。
「頭を下げる必要がどこにある? 支離滅裂だぞ」
 大浪は小さく笑って手が止まった作業を叱咤した。
「子供が夢を見て何が悪い? それを叶えてやって何が悪い? がむしゃらに頭を下げて回るのは、奥田だけで十分だ。お前たちっ、時間はないぞ。テキパキやれっ!」
 激励と叱咤にドッグ内に咆哮のような威勢が響いた。
「頭を下げるのは、成功してからにするんだな。お前もトコトン奥田に惚れ込んだか?」
「なっ、何を言ってるんですかっ!」
 勢い良く悠が顔を上げると束ねた長髪が大きく跳ね上がった。
「時間はないが、焦燥に駆られるな。面倒事は奥田一人で勘弁だぞ。飯を食ってから作業に戻れ」
 どうも力みがちな悠に、休憩を大浪が言い渡すともう一度場に緊張の空気を張った。
「格好良すぎです。でも、ちょっと余計なお節介ですよ」
「なら余裕を見せられるだけの経験を積んでおけ。お前もまだまだ奥田の小僧と似たもんだ」
 上司と部下であるのに、親子のような空気が夢への架け橋を生み出そうとしている。
「そうなんでしょうね。私もまだまだですから」
「当然だ。お前たちが一人前なら老いぼれは必要ないだろうが」
 そんな自嘲に悠はもう一度頭を下げた。上司がいると言うこと。まだまだ健介が小僧なら、悠は小娘。一端ぶる前に、子供のように足掻けとその背中は悠には大きく映っていた。
「健介のヘタレが伝染ったかな」
 早く休憩して戻って来いと叱咤されて、悠は笑顔だった。まだまだ終わらないドッグに眠る夢の形に夢を見て。
「待っててね、隼人君、健介」
 何が何でも自分に出来る最大限のことをする。それが悠の最大限の表現。健介が走り回るなら、悠は時が来るまでに舞台を整える。二人の進む道は違えど辿り着く道は同じ。今はその道は、もうそれぞれ一人じゃなかった。問題だけは変わらずに迫りつつあっても。

「奥田さん、お父さんに許可取ってきました」
「マジで? やっぱり美友紀ちゃん凄いな」
 美友紀ちゃんには隼人が来た時にどこで見せるか場所探しを頼んでいた。やっぱり隼人には飛行だけではなく、それに関わる全てを見てもらいたいと思い、管制塔の見学も視野に入れていた。いつの時代も父親と言うものは娘には弱いようで、ここは美友紀ちゃんに人肌脱いでもらったのが功を奏したようだ。
「奥田さんの方が立派ですよ。私はこれくらいしか出来ませんから」
 そこまで謙遜しなくても良いのだが、美友紀ちゃんらしくて微笑ましくもある。こんな子が彼女だったら間違いなく毎日が楽しいだろうに、俺はもったいないことをしたな、ともう何度後悔したことだろうか。
 そして、奮闘していたのは俺たちだけじゃなかった。隼人がいつ来ても良いようにと、バードフライのメンバーは日頃よりも飛行時間を増やして業務を出来るだけ片付け、フライ機が整備中のため、先輩も智史もほぼ毎日夜間の仕事も入れていた。あまり仕事を入れすぎるのも負担が多くなるからと忠告したのだが、その度に笑い流されて苦笑するしかなかったが、多くのスタッフが一人の夢を叶えるために、自分の時間を犠牲にしてくれることには俺は深く感謝していた。そして俺以上に深く頭を下げていたのが、俺と対立したこともあったが、今ではよく打ち合わせに参加している隼人の母親だった。諦めたわけじゃない意思が強く感じられるようになったと思う。とても心が不安定にはならないではいられないはずの毎日だと言うのに、時間があれば飛行場に足を運んで、許す限りの時間を使ってスタッフに俺が前にやっていたように頭を下げて回っていた。その度に言われる言葉が、きっと母親の心を強くさせてくれたのだと思う。
《好きだから、夢を叶えてあげたいんです》
 好きでここへやってきた連中の集まりだから、誰もが同じ思いで夢の叶う日を待ち望んでいる。正直その光景を見た時、目頭が熱くなった。初めは数人しかいなかった仲間がいつの間にかどこを見渡しても同じ思いで働く人間ばかりになっていた。俺の我が侭から始まったことが、全員の目標となり、一人の少年の希望を空に描こうとしている今が一番、俺を奮い立たせてくれている。
「なんか久々に楽しいな」
 厳しい現実と向き合っている隼人のこと思うと、そうもいかないが、それでもやはり、航空祭のような仕事意識ではなく、全員が紙飛行機を追いかける子供のような輝いた目をしているこの時が、意味もなく楽しかった。
「待ってろよ、隼人。お前を連れて行ってやるからな」
 沢山の人間の夢が溢れている泉の中から、俺たちは隼人という少年の夢を両手に掬い、どこまでも澄み渡り、全ての夢を見つめ続けるあの高い空へ掲げようとしている。絶対に後悔はしないし、誰にもさせない。もう俺たちの前に立ちはだかる敵は唯一つ。お宝の中に潜む病魔だけ。そいつを吹き飛ばせるだけの隼人へ感動と感激を俺たちは贈ろう。そんな思いで、俺たちはとうとう隼人を迎える全ての準備に幕を下ろし、その時を待った。


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