この世界には支配する人間と支配される人間がいる。それは人間が元々備えている性質でありかえられない。現に歴史書を開くと、支配という言葉を元に繰り広げられた出来事がたくさん記されている。支配する人間、支配される人間。どちらがかけてもこの世は成り立たない。当然の法則だ。中学生は精神的にも身体的にも不安定な年頃。私の頭の中の辞書を開くと、「中学生の兄を持つ妹は支配され、痛みつけられるもの」と書いてある。辞書に載っているのだから仕方がないことだ。受け入れるしかないだろう。私は毎日を生きている。兄という存在は妹を支配する。これは当然の事実だ。わたしを含め中学に来ている女の子たちはみんな過酷な日常を生き抜いているのだ。わたしが弱音を吐いてはいけない。今までそうして生きてきた。赤の他人に涙は見せない。甘えなんて物心がついたころから知らない。 「わたしは強い。」 話をしようと思わない。みんな同じように苦痛な日々を過ごしている。私だけ特別だとは微塵にも思わない。辞書に書いてある。辞書に載っているこの項目の定義に当てはまらないのは、兄がいない人、妹ではない人。「うらやましい」兄がいて妹がいる。この関係図でない人をどれだけうらやましく思っただろう。兄は支配者である。
夕方、一刻一刻と時計が針を進めてくる。重たい音だ。いっそのこと針の動きが止まってしまえばいいのに。「カッ、カッ、カッ、カチ」17時を過ぎて幾分かたったころ、キッ音がして自転車が一台庭に現れた。「兄だ」2階に割り当てられた東向きの7畳はあるだろう自室にこもろうかと思うが、鍵をあけなくてはならない。もうすぐチャイムが鳴らされるだろう。
記憶は記憶でしかない。独断と偏見なくして記憶は存在し得ない。自分のこの記憶は他者にもこの記憶である。人は同じ出来事を記憶しているのだが、同じであって同じでない。ある出来事がある。わたしの中では支配される立場であった同じ出来事、兄の中には支配した記憶が記されている。そもそも、私の中に存在しているようなこの記憶は事実からそれているのかもしれない。いや、事実という定義自体とらえどころのない抽象的な存在なのだ。記憶は時間、立場、性格、環境によって大きく変わる。
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