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作品名:No.9 作者:丘味真悠

第1回   インテーク1
「特に困っていることなんか別にないんですよ」
須藤孝志は他人事のように軽い口調で言う。
僕はクライエントが初めて来所した際に記入してもらう来所申込書に目を通しながら須藤の言葉を「はぁ・・・」とまじめに聞いているような,聞いていないようなどちらともつかない返事で答える。
来所申込書には,自分の家族の氏名,住所,職業,年齢などを記入する欄があり,もう一つ「相談なさりたいことや困っていることについてお書きください」という,比較的大きなスペースを割いた記入個所がある。
ここは一応,不登校とか,理由もなく気分が落ち込むとか,人間関係がうまく行かないなどで社会生活を送っていくことが困難になった人が専門的なカウンセリングを受けに来る場所なので,一般的に,この来所申込書の「困ったこと」欄には現実問題で今悩んでいることなどが曖昧な形であれ,何か書かれている事が多い。
しかし,須藤が僕に渡してきた来所申込書には,「困った」ことに,「困ったこと」欄が空白のままだった。
電話での予約申込みを担当している受付のOさんから予約時の様子を聞いても,「とにかく話を聞いて欲しい。あとは行ってから話すから」としか言わなかったそうだ。
つまり,今僕の目の前に立っている彼は,このカウンセリングセンターに何を相談しに来ているのか,担当カウンセラーの僕にさえ皆目検討がつかないままで,僕は少々途方に暮れた気分になっていた。

須藤は最初の言葉を言ったきり,僕の反応を試すような目でじっと押し黙ったままでいる。
僕も,須藤に自分の困惑を見透かされているように感じて,手元にある来所申込書の「困ったこと」欄の空白をじっと眺めたまま,頭の中も空っぽになっていくのを感じていた。
しかし,これでは仕事にならないと思い直し,まずは須藤の家族構成から詳しく聞いていくことにする。
「えっと・・・ご家族の事なんですけど・・・ちょっと伺ってもいいですか?」
僕の経験則では,家族のことを尋ねられたときは,多少なりとも戸惑いの表情を見せるもので,大抵のクライエントは家族についてあまり好んで語りたがらないものだと考えていた。だから,須藤に対してもやはり遠慮がちに振舞ってみたのだが,須藤の反応は,僕の経験則などまるで無駄なものだと言わんばかりにあっさりしたものだった。


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