地中海近辺の無駄に陽気な日差しが部屋に差し込む。寝床として借り受けているその部屋で、書き物をしていたときに、手元に影が差したことに気付いた。 顔を上げれば、そこに立っていたのは、長い黒髪を柔らかく結った女だった。睨んでいる。 「お前には甲斐性が足りない」 何か用かと尋ねる前に、女が叱責した。 「何度言って聞かせても分からないヤツだ。 なあヴォルフラム、お前、自分の置かれている立場というものを理解していないんだろう」 黒の開襟シャツに包まれた、薄い胸の前で腕を組んで、女は言う。鋭く、形の良い眉は吊り上がっても不細工にはならなかった。 「お前は私の所有者なんだ。お前には私を保守する義務がある!」 書類を鞄に詰めながら、片手でおざなりに応えるヴォルフラムに、女は声を荒げた。寝台に座るヴォルフラムのタイを掴んで、女は強引に顔を向き合わせた。 「忘れてないだろうね。お前は私を奪ったんだ。お前は、私の……」 ヴォルフラムが女の手を払う。女の口元が一文字に引き結ばれ、頬が苛立ちで紅潮した。そんな様子を気にも留めず、ヴォルフラムは枕元の棚を漁りながら、膝の間を叩いて示した。 「…何?」 分かっているクセに尋ねる。その言葉は口に出さず、ようやく探し当てたそれを取り出した。 「いいから座れ。早く」 女は一転して困惑した表情を見せた。何度も視線を泳がせて、ようやくのことでヴォルフラムの膝の間に膝を突く。馬鹿馬鹿しいとばかりに閉口するヴォルフラムに腰を引かれて、女はようやく背中を向けて腰を下ろした。面倒な女だった。 女がうなじの髪留めの紐を自ら解こうとする手を止めさせ、ヴォルフラムがそれを解く。毛先の方を結った髪留めも解くと、豊かな黒髪がしっとりと広がった。 ヴォルフラムの目には、荒れているのかも分からないその髪に、櫛を入れて透いてやった。この女は自分で髪を透こうとしない。その理由を昔、別の者から聞いたことがあった。 「剣が自ら己の腹を磨かないように、私らも自ら己の髪を透くようなことはしない」 だそうだ。 肩に掛かるものを、その都度まとめながらも髪を透いている間、ヴォルフラムからは女の表情を窺うことは出来ない。それでも、半ば以上は筒抜けだった。 透く度に前後に揺れる頭を抑えるように手を置いてやると、女は自らの膝の間に手を置き、背を丸めて肩を震わせた。頭を撫でられることを好んでいた。ただし、それをわざわざ口に出したことはないし、用もなく撫でてやったこともない。両者の距離感はその程度だった。 ヴォルフラムは、突然に手を止めると手早く髪留めを結い、女の腰を押し上げて立たせた。物足りなげに鼻を鳴らして振り返った女だったが、足音に気付いて、そちらを見た。白金髪の女が扉に寄り掛かったところだった。 「おやおや、目を覚ましてみれば、いけ好かないあの女の匂いがする。どうしたことだろうか」 作り物じみた美麗なその顔立ちに、似つかわしくない下卑た笑みを浮かべている。 「な、何もないぞ」 黒髪の女の発言に、白金髪の女は吹き出した。 「間男じゃあるまいし」 失言を自覚した黒髪の女が口をつぐむ脇を、白金髪の女が通り過ぎる。淡く透ける山吹のチュニックが、カーテンに遅れて風になびいた。裾の近くで暗色にグラデーションしているチュニックと、黒のジーンズ。女の装いに余計なものは必要なかった。 「で?」 「何も」 腰を折って尋ねる白金髪の女の言葉に、ヴォルフラムは肩をすくめて答えた。白金髪の女は満足げに頷いた。 「其奴の言うことなら信じるのか」 白金髪の女は何をか言わんやという表情で肩越しに振り返った。黒髪の女は知っている。それは、心底から阿呆を笑う時の目だ。 「当たり前だろう。此奴が白だと言えば、私の髪の色は白になる。此奴が金だと言えば、私の瞳の色は金になる。此奴がないと言えば、私が疑う余地など存在しないのだ。私に必要な事柄は、此奴の言葉の中にしかない。それが此奴と私の絆しというものだ。他に信じるものがあるものか」 黒髪の女は言葉に詰まる。が、何とか気を取り直した。 「私は、知っている。お前はこの人間と契りを交わしてすらいない。であるなら私の方が…」 寝台に座るヴォルフラムに寄り掛かった白金髪の女が、くつくつと身を震わせた。 「契り? 誓盟? 密約? そんなものは必要ない」 ヴォルフラムの背後から肩にしなだれかかるように肘を突き、髪をかき上げた。否応にも目に入るのは、左目に掛かるように、精巧な陶磁のような肌に雑に刻まれた鳥の抽象画だった。 「私の身に幾度も重ねて刻まれたこれの所為で、私は自由意思でもって此奴から離れることが出来ない。呪いだよ。そう、二度と離れることはない…」 言って、白金髪の女はヴォルフラムの右耳、自分が刻んだ、二度と治らないだろう薄い熱傷の痕に愛おしげに頬を寄せた。 その発言は、ヴォルフラムが辟易するほどの出任せだった。だが、事情を知らない黒髪の女は、まるっきり鵜呑みにしてしまったようで、付き合ってられないとばかりに背を向けて部屋を後にした。 「行ったな。助かった。離れろ」 「ん、…フフ。 い、や、だ」 白金髪の女は、顎を乗せたままの肩に腕を回し、きつく力を込めた。まるで、込めた力で愛おしさを表すかのように。 「…離れない。私からは離れないんだ。なのに私が、どれだけ待ったと思っているんだ…」 言葉に反して口調は微笑ましく響いた。出任せかと判じたそれは、彼女にとっては紛れもない事実だったようだ。が、それとこれとは別だと言える事情がヴォルフラムにはあった。 「離せ」 「嫌だ」 じゃれるように喉を鳴らして頬を擦り寄せる女に、ヴォルフラムが嘆息する。 「…ゼアスハルト」 とがめるような口調に、肩に回された手から力が抜かれた。女の顎と鼻先が背中を滑る。そこで何か言おうとしたように、何度か顎が動いたかと思うと、蚊の鳴くような声が出された。 「名を呼ぶなら、もっと違う相応しい場面があるだろう…」 「考えておく」 ようやく解放されたヴォルフラムが立ち上がる。振り返れば敷布にくるまった何かがいた。 「暑くないか?」 「暑い」 だとすれば、顔を見られたくないのだろうと、容易に想像できた。ヴォルフラムは腰の当たりを引き寄せて抱え上げた。小脇に抱える頃には、すっかり硬質の幅広剣へと形状を変えていた。 寝室を出た居間では、濁った白髪の女がラベルも付いていないワインを空けている。 「お出かけで?」 「無駄飯喰らいの飯の種を稼ぎに、な」 白い肌に目立つ赤らんだ頬を緩ませて、女は微笑んだ。 「労働は悪です。つまりそれを行う君もまた悪であり、私は正義。何故なら私は特別な存在だからです」 「酔いどれが胸を張るな」 言ってから相手にするだけ無駄だということを思い出す。そこで、白髪の女の瞳に、少しだけ理性の光が戻った。 「でもこれは、君の願いの現れでしょう?」 「どこがだ。お前はいつも話半分にしか理解していない」 ヴォルフラムが女の頭を小突く。女は不平を漏らしたかと思うと、すぐに小さく笑い出した。やはり相手にするだけ無駄だった。
丸太小屋のような木張りの内装。丁寧に整列された酒瓶以外は雑な見栄えだった。 長い一枚板を使ったカウンターに、ヴォルフラムは背負ってきた長物を下ろし、シャツの男が背広に突っ伏している隣に腰を下ろした。型遅れの音響機器から、舐め回すようなサックスが響く。派手なジャズだった。 「…何を?」 壮年か中年かといった、白髪の混じる男性に問われる。初見で何を問うているのかと逆に問い詰めたくもなるが、それは今いる場所が酒場でなければ、だ。 「あんず酒を」 言ってからすぐに、ヴォルフラムはそこが慣れ親しんだ居酒屋ではないことを思い出す。 男性は軽く片眉をしかめて短く詫びの言葉を述べ、至らなさに苦笑した。 「なら、…ああ、ジンをライムで」 「かしこまりました」 グラスに氷が放られる音で、突っ伏していたシャツの男がのろのろと顔を上げた。 「…来てたのかい。済まないね、このところ忙しなくてね」 「いえ、来たところです」 「そーいうのは、男に言うもんじゃないよ東堂さん。いや、ヴォルフラムの方が?」 シャツの男、成瀬は疲れた顔で笑った。つられたヴォルフラムも、懐かしい雰囲気を思い出して笑った。 「どちらでも」 「じゃあ東堂さんだ。いや何、驚いたなんてもんじゃないよ。東堂さんが失踪したなんて話を聞いたと思ったら、まさか地球の裏側に現れていて、しかもその正体は実は異世界人だった、なんてさぁ。まるでマンガじゃないの」 「自分もまさか、こうも簡単に受け入れられるとは思いませんでしたが、ね」 「ああ、プロジェクトの関係でね。いろいろ妙な知り合いがいるのよ。地球防衛計画ってヤツかな? 格好良いだろ? 前居たところは偽装会社のひとつでさ・・・まぁこんな話はどうだっていいじゃないの」 カウンターに散る書類を雑に寄せると、成瀬はとうにぬるんだグラスを掲げた。そこへ、白髪の混じる男性が見計らったようにグラスを差し出す。 「何のためがいいね?」 「…友人のために」 二人はいつかのように控えめに杯を鳴らした。 ヴォルフラムは手を引く。そこで背後から伸びた手が、グラスを取り上げた。嫌な予感から立ち直って振り返るよりも早く、空になったグラスがカウンターを滑る。ようやくヴォルフラムが振り返った先には、吐き気がするような美形が立っていた。年の頃はヴォルフラムと近い三十前後。これと顔を合わせるたびに、この世界の主神は忘れることなく賽を振ってその度合いの範囲で美の分配を行うべきだと思わせられる。手抜きで一部に集中して与えるなど、許し難い職務怠慢だ。 男の脇に付いてきていた二人の、若者と少年がヴォルフラムに会釈し、離れた席に着いた。肝心の護衛を付けることを忘れている男は、輝く金髪の下で嫌味なほど爽やかな笑みを貼り付けて言う。 「俺が思うに、コイツを飲むのはまだ早い。 …だろう?」 「イタリア貴族様がどうしてヤンキーどもの小説をご存知ですかね」 「一個人によって生み出される作品の素晴らしさと、多数によって形成される国民性は全くの別物だからだ」 二人のやりとりを目にして、成瀬はまたかとばかりに、にやけ笑いをもらした。 この男なくしてこの国は回らないとまで言われるアルフォンソ・ステファノフは、ヴォルフラム・アーベントロートに気兼ねのない態度を望んだ。彼が異郷の友を賓客として招いたのだ。当然、政治的な思惑もある。この世界でも魔種――ここでは幻種と呼ばれている――の出現と被害が確認されており、対策のための知識を少しでも必要としていること。そしてそれを独占しようという考え。 ヴォルフラムはその要求を呑んだ。合理的だったからだ。 「しばらく会合の予定はなかったはずですが。何か急用でも?」 「ああ、急用だ。一つ目は、幻種掃討作戦の戦略概案がまとめられ、計画立案段階に入ったこと。 連中、冬までに使えるようにしておけ」 アルフォンソは鷹揚に飲み物を頼んで席に着きながら、顎で離れた席の若者と少年を示す。彼の言葉が指す対象はその二人だけではない。ヴォルフラムを師事している者達全て、だ。今の彼の仕事は正にそれにある。幻種との戦闘についてのみ言えば、彼以上に経験のある者は、少なくともこの世界には見当たらないからだった。 対幻種特技兵教導隊として、ヴォルフラムを隊長にし構成された機械化歩兵小隊は、その実用性が確認され次第、王立陸戦総軍のカンパニア州軍に制式に配置されることになっている。それも大隊規模に拡大された上で。 カンパニア州軍の総指揮官はアルフォンソ・ステファノフその人であるから、要はヴォルフラムの扱いについて横槍を入れさせないための回りくどい基礎固めだった。 使えるものは異世界の人材だろうが酷使する。既存の部隊に沿わなければ新設する。それを可能とする軍制と法体制。これが、この世界の強さなのだろう。 「それともう一つ。かねてから議会が奏上していた、異郷の人類の人権に関する法案に、陛下が承認なされた。が、異世界の存在そのものが常軌を逸している。市井の混乱を案じた陛下は、法案の公布時期を掃討作戦の完了と同時にせよと助言なされた。そうなる。当然に施行も遅れることは申し訳のしようもないが、ひとまず約束は果たしたぞ」 アルフォンソは吐き捨てるように言った。政の煩雑なやり取りは、彼の嫌うものの一つだった。 この世界においては異形の幻種の存在自体が未だに秘匿状態にあり、それらがどこからともなく現れているという事実は、さらに機密性の高い情報となっている。となれば、その幻種の掃討作戦も秘匿されていることになり、それらに深く関わる重要人物であるヴォルフラムのような人間の人権を確保するということは、同時に彼らの存在を広く知らしめることとなるため、法案一つの扱いでさえ多大な慎重さを要求されていた。 だが、当の本人の態度は面倒な状況とは反していた。 ああ、それは良かった。と、消え入りそうな声をヴォルフラムが漏らす。心底から安堵した横顔に意外なものを見たという表情を見せたアルフォンソだったが、すぐにその理由に思い至った。男が己の野垂れ死んだ後の心配事を無くしておこうというのは、理解できないでもない。 「フン、どうせ今日も見舞いなのだろう? こんなところで飲んだくれていて構わないのか」 「あまり足繁く通うと恐い顔をされるものですから、まぁ、程々に…」 「多少嫌な顔をしたところで、内心では喜んでいるものだ。そこは尻込みするところじゃない」 「ええ、それは全く」 ヴォルフラムは深く考えずに素直な感想を抱いた。アルフォンソは何をしたところで嫌われようのない性質を持ち合わせている、と。 そもそも、そういう間柄の相手ではないと言った話は、忘れてしまったのだろうか。 ヴォルフラムがテキーラとオレンジのカクテルを受け取る。 「そのような話をするために、わざわざ?」 今までのアルフォンソの話は、どれも定期的な連絡で済む内容だった。 「ああそうだ、忘れるところだった。コイツを見てくれ」 平然と、アルフォンソは懐から包みを取り出す。包みを解くと、中からは鈍い金色の道具が出てきた。ヴォルフラムは知らなかったが、それは、銃身のみを短剣のような刃に変えた短銃のような形状をしていた。アルフォンソの手が銃把を握っている。 「それは・・・」 「霊功転換式武装化装甲装置――W.A.N.Dだ。 少々気に喰わん綴りだが、通りはいいだろう。魔法の杖というわけだ。先日、実用試作型の一つが回されてきた」 「…Armato-アルマート、Nataria-ナタリーア? 装置に女の名前を?」 「開発名だ。正式にはne"我らが"となる」 愛人の名を仮称に含めることについて、アルフォンソは全く悪びれる素振りを見せなかった。その程度の気障さなら、むしろよく似合う男だった。 「せめてnecessario"要せられる"の方が…」 「それがいいな。それにしよう」 なおざりなアルフォンソの受け答えにヴォルフラムが困惑する。 「仕様の通りなら携行性も、費用対効果も、拡張性能も上等だ。名前はどうだっていい。これで幻種どもに対抗する、経済的な戦闘手段の目処が付いた。連中が湧くたびにクラスター構造の焼夷弾をばらまいていたのでは、都市部の前に我々の財政が破綻してしまうからな」 それこそが、この世界についてヴォルフラムがもっとも驚いた点である。戦争に投入する兵器による財政崩壊は、ヴォルフラムには理解が及ばない。財政が傾きかねないほどの大規模な戦争というものは、兵力の減少とその不均衡の拡大によって早期に終結してしまうことが常識だったからだ。 だから未だに、"経済的な戦争"という言葉に大きな違和感を抱いている。戦場しか経験したことのないヴォルフラムは知らなかったのだ。戦争というものは、結局の所、経済活動の一つの形に過ぎないのだということを。 アルフォンソは、「燐寸」と名付けられた、試作型W.A.N.Dを指先で回してからカウンターに置いた。 「良くも悪くもこいつの方向性はお前のおかげで決められたようなものだ。将来的には、お前の得物と同程度の威力を目指しているのだがな。…問題は、一つだけ確信できない点があることだ。つまり、そうなるまで幻種が生き残っているかどうか…」 自分の発言を鼻で笑うと、下手な冗談を言ったことを誤魔化すように、アルフォンソはウイスキーとベルモットのカクテルを流し込む。 「可能だと思うか?」 アルフォンソは問う。どちらについてか、ヴォルフラムはそれすら尋ね返さずに肩をすくめた。 優男はいつも、曖昧なことを言って相手側の解釈を試して遊ぶのだ。ヴォルフラムが前者を否とすれば自らの得物へ過度の自負心を持つ個人主義と評する。後者を否とすれば楽観主義だ。どちらを是としても悲観主義と取る。答えてやる義理はなかった。 店内に流れる曲が静かなピアノソロに移る。 隣で成瀬が「冷えたビールがないのは辛いもんだね」と言う。グラスを置いた音と合わせるように、扉を激しく打ち付ける音が響いた。 成瀬が不快を露わにし、アルフォンソの取り巻きをしていた若者と少年が立ち上がる。そして、ここ数ヶ月は定期的にそうなっているように、木製の扉が砕かれた。闖入したのは、鳥か蝙蝠かといった暗色の幻種だった。羽を打ち鳴らし、数十の影が雪崩れ込んできた。 優雅に立ち上がったアルフォンソはコートを跳ね上げ、腰のマテバ・ダブルカラムを両手に、銃撃音を重ねる。見たところは下等な幻種だった。わざわざヴォルフラムが立ち上がる必要もない程度の。 取り巻きの二人は、それぞれ警棒と手甲を取り出し、アルフォンソが弾倉を交換する際にだけ両脇を固める。当のアルフォンソの銃撃は、まるで相手の進路が分かっているかのように、幻種を撃ち落としていった。 「この程度の雑魚ばかりなら苦労はないんだがな!」 アルフォンソの金眼が、暗中の猫目のように輝く。<先駆者の諸手>と自ら名乗る魔眼だ。アルフォンソは魔剣の頼りもなく魔人を打ち滅ぼす、この世界での英雄だった。魔剣を手に取ることなく、計算予測能力のみで戦う。だからこそ、人間一人の限界を充分に知っていた。 ヴォルフラムが人外の力によって実現しようとした魔人殺しを、アルフォンソは人の技のみで実現しようとしていた。そのための対幻種特技教導隊であり、そのためのW.A.N.Dだった。 英雄を必要としない新しい軍隊。実現するのは五年先か十年先か、あるいは彼らの次の世代においてか。ともかくヴォルフラムは、アルフォンソの提示した未来に、己の全てを賭けるだけの価値を見出していた。 ヴォルフラムが、皿から拾い上げたナイフを投げて、成瀬の首元に降り掛かりそうになった幻種を払う。肘から先以外は、それこそ視線すら動かしていない様子に、成瀬がぐうの音を漏らす。大っぴらに態度にこそ出さないが、荒事に対する免疫がまるで足りていない成瀬は、気分が悪くてしようがない。 「ここのとこずっとこんな調子だけど、こればっかりは慣れないもんだね。しかも東堂さんといる時ばかりだ。東堂さんの職業って、実は名探偵だとか逆転弁護士だとかじゃないの?」 「名探偵は職業じゃありませんよ」 「そうだっけ?」 言うだけ言うと、成瀬は再び背広に倒れ込んだ。続いて深い深いため息が聞こえた。 苦笑したヴォルフラムはグラスをカウンターに置こうとする。それを、横から伸びた女の手が取り上げた。即座に空になったグラスを、白髪の混じる男性に振って見せて、白金髪の女は言う。 「ドライマティーニ」 そしてヴォルフラムのために、さっきと同じものをと頼んだ。白髪の混じる男性は、店内が荒れることに慣れたか諦めてしまったのか、落ち着いた様子で注文を受けた。 白金髪の女、ゼアスハルトは切れ目すら入っていない地鶏の香草焼きをフォークのみで持ち上げ、丸齧りをしていた。 「なってないな。人間の食事はナイフとフォークを使うものだ」 「仕方がないだろう。人間に食事用のナイフを投げる習慣があったことは知らなかった」 「…ああ?」 言われてようやく、自分が投げたナイフの出所を知った。そして、それが自分の料理だと気づいていても謝罪してしまう。ヴォルフラムは、グラスとついでに代わりのナイフを受け取ったが、渡す頃には料理は全て腹の中だった。 「このあたりはどこも味付けが濃い。舌が馬鹿になりそうだ。ラスタにはいつ戻る?」 「しばらく掛かる。寒くなる頃だと聞いた。ラスタの方が良いか?」 「構わない。お前といられるなら、どこだって快い」 銃撃音と慌しい靴音が混じる騒音もまるで気に掛からない様子で、ゼアスハルトは油の付いた指をねぶる。いつだろうと、どんな状況だろうと、その発言には気負いがない。 「特に、ここしばらくは久しく穏やかに過ごせている」 「そうだな」 気のない返事に、ゼアスハルトがヴォルフラムの横顔を覗き見る。どこを見ているかも分からない表情。普段から冴えないそれが消沈していれば、少なくとも魅力という点では好ましくなかった。 「何か気がかりでも?」 「…気がかりと言うほどでもない」 「なら何故浮かない顔をしている? 私が隣にいることが気に食わないのか」 「よくもずけずけと言ってくれるな。それは魔剣だからか? それとも女だからか」 「私だからだ。そして相手がお前だからだ。言えんなら言えんと言えばいい。嘘を吐かれるのは堪えられないが、知られたくない事なら気にしない。その程度の分別はある」 「ああ、そうか」 ヴォルフラムの態度に憤っているというよりは、当然のことを言わせるなという様子でゼアスハルトは声をほんの少し荒げる。 相変わらず煮え切らないヴォルフラムは、朝焼け色のグラスを揺らし、浅く息を漏らした。 「…こちらでの生活にも慣れた。やるべきこと、やろうとしていることは順調だ。平穏無事というのはこのことを言うのだろうな」 その通りだ、とゼアスハルトが小さく頷く。 「食うものには困らないし、雨露もしのげている。王都を駆けずり回ったのがまるで嘘のようだ。だがな、どうしようもなく思い出すことが、ある」 そこまで言うと、ヴォルフラムはグラスを持たない右手を掲げて拳を握り、真横に振り下ろした。カウンターからはみ出すようにあった長物の先が叩かれ、てこの作用点が背後へと跳ね上がる。包みを自ら振りほどくように回転しながら、沈香鉄の刀身がいくらかの幻種を両断してさらにアルフォンソの肩をかすめたかと思えば次の瞬間、破砕音とともに壁を粉砕して現れた巨大な幻種を串刺しにした。アルフォンソの勘がどれだけ優れていても、避けようのない攻撃はある。ヴォルフラムが手を出すのはそれに対してだけで問題はなかった。 ヴォルフラムは、カウンターに置かれたままの、金色の試作W.A.N.Dを背後に放った。 マテバを腰に戻したアルフォンソは「燐寸」を受け取り、金属製オイルライターを開いて着火するような仕草で、安全装置を外して撃鉄を起こす。管弦楽団の指揮者が指揮棒を振るうように緩やかに照準を定め、引き金を引いた。 轟音と爆炎が幻種の巨体を包み、アルフォンソは反動のそのままに「燐寸」を放り出した。脇にいた若者が落ちる前に拾い上げようとしたが、掴んだ瞬間に取り落とした。あまりにも熱くなっていた。 銃身が熱膨張し、ひび割れた無惨に姿にアルフォンソが嘆息する。 「改良の余地、大いに有り、だな」 ゼアスハルトが鼻を鳴らす。自分を参考にしたというのが不愉快なら、その結果がお粗末な出来だというのも同様だった。しかし、今はそれには構わず隣へと目線を戻す。 「それで?」 「…平穏な、「今」ってやつが、いつまでも続くものだとどこかで思っていた。記憶も朧な生まれ故郷の頃も、アンネリーゼらとの旅を終えた後も、魔王討伐の後もそうだ。それがいつからか、逆にそのままでい続けられることの方が信じられない思いが燻りだして、その思いの方が強くなってきた」 ヴォルフラムはグラスの中身を呷り、言う。テキーラ・サンライズをもう一杯、と。 「怖ろしくて眠れない夜がある。静かな夜には決まって、古い友人の顔が浮かぶ。狂ったように叫びたくなる」 ゼアスハルトが下らないとばかりに鼻で笑う。 「夜を怖れる臆病者は、得物を抱いて寝れば良い。お前に良し、私に良し、一挙両得だ」 背後の気配に、ヴォルフラムがようやく腰を上げた。頬杖を突いて笑むゼアスハルトの腰を引き寄せて抱え上げると、ゼアスハルトはヴォルフラムの首に腕を回す。次の瞬間には、ヴォルフラムの腕の中に幅広の剣があった。剣先を翻して肩へ乗せる。 「まだだ佐原! コイツ、動くぞ!? この野郎まだ倒れてやがらない!」 「違うだろう、剣崎」 ヴォルフラムに声を掛けられた少年は恐縮する。少年がヴォルフラムに向ける視線は、嫌悪ではなく、正に畏敬のそれだった。 万雷の剣に刺し貫かれて身動きの出来ないままの幻種が、焼け爛れた巨体を暴れさせる。 「泣き喚くだけの豚畜生にも劣るウジ虫どもは、許可無く生きることを許されない。そもそもこの愚図には生きるだけの価値がない。今生きていること自体が間違っている。我らが主の意とその正義に則り、汚らわしい不義を改めて正しく死ね、クソ幻種ども、だ」 掲げた覇王の剣が煌々と輝き、「燐寸」のそれとは比べものにならない熱量が空気を掻き乱し、背景を歪めて見せる。 ヴォルフラムの耳元で、ゼアスハルトが囁く。別れを恐れるな、私はいつだろうといる、と。 苦笑したヴォルフラムが己の信念によってそれを謝絶した。 出会いがあれば、いつか別れがある。それまで否定するつもりはない。別れるのは、またいつか出会うためだ。 それまでは、さらば愛しき人々よ。いや、さらば愛しき世界よ、といったところか。 今回は少しばかり長いお別れになりそうだ。ただ、それだけなのだ…
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