ヴォルフラムは足腰が砕けたように玉座に沈み込んでいた。実際彼は満身創痍の有様だった。譲り受けた軍服と軍用コートは、繕うよりも新調した方が早いだろう。以後使うことがあれば、だが。 どれほどの間、そうしていただろうか。ヴォルフラムはすべきことも、向かうべき場所も思い付かないまま、漫然と立ち上がった。その表情は幽鬼の類にも似た起伏の乏しさだった。半ば無意識に献花台に近付こうとしたところで、物音に目を向けようとする。そこで、剣を手に取る気概もなかったことに気付き、今さらのように皮鞘を背負った。 物音の出所らしい場所に人影があった。恐らくは魔人ではなく、ただの人間だ。 「……誰かいるの?」 鳥のさえずりのように軽やかだが、同時に柔らかさもある声が上がる。その姿を見て、ヴォルフラムは少なからず驚いた。 「…もしかして、貴方なの?」 「………」 純白の衣装に身を包んだ貴婦人には、見た顔の面影があった。幼い頃から天賦のものを持ち合わせていたが、しかし、それから十年近くの歳月を経たことで、さらに磨きがかかったようであった。 絹の光沢もかくあろうと言うべき金の髪は、首をかしげるだけで涼しげに流れた。女性的な魅力に溢れる体つきは、デュッセンの中央の人間の特徴そのものでありながら、目鼻立ちは鋭すぎず、東部の人間に多く見られる線の細さや儚げな雰囲気も併せ持ち、いかにも保護欲をかき立てる。市井の中には紛れようがない、貴い人間だと全身で語っていた。 「魔神の従者が姿を消して、何があったのかと思いましたけれど…」 王女クラリッサ・レム・メナリスは感涙にむせぶように息を呑んだ。 「ああ、夢のよう。でも、きっと助けに来て下さると信じておりました。ヴォルフラム」 考えてみれば、王の願いを遂行しているだけだと言うアムステラの言葉が真実ならば、彼女を生かしてあるということは、ある意味当然だった。だが、その予想外の出会いは、ヴォルフラムにとって、喜ばしいものではない。彼女は、彼の守るべき人々の範疇になかった。 ヴォルフラムが苦々しく息を吐く様子を、戦いの激しさによるものだと、クラリッサは好意的に誤解した。 「魔神はいなくなりましたのでしょう? これで王国に希望の光が戻りますのね。感謝してもし切れませんわ」 クラリッサが口元を自然とほころばせて微笑んだ。輝くような笑顔は、誰からも好かれ尊ばれる。王国の至宝とまで呼ばれる由縁だった。 「早く父様にもこのことを報せて…」 「王は、いない」 ヴォルフラムは首を横に振る。察したクラリッサが目を見開いた後、肩を落として、見るからに痛ましい様子で落胆した。 「そう…。覚悟はしておりました。 考えていたより辛いのね。…けれど、いつまでも落ち込んでいるわけにはまいりません。王国の民のため、早く国を立て直すことを考えないと。そのためには新たな王を、……貴方だわ」 泣き出すのかと思えば、表情を転々とさせる。ヴォルフラムは、言い様のない底気味の悪さを感じていた。 「そう、貴方。ヴォルフラムが王になるの。名案だわ! 救国の英雄であれば、誰も不平を挟めませんものね。 いいえ、皆も喜んで称えるはずよ。ねえ。王国の未来は素晴らしいものになるわ、間違いなく!」 間違いない。クラリッサは何も知らないのだ。王が王都崩壊の元凶であったことも。それと同様に、すぐ目を向ければ窓の外に広がる王都ですら、魔人に蹂躙され尽くされたことも。それを復興できる人間が、質的にも量的にも欠乏していることさえ。何も把握していない。 帝国に逃げおおせた王国民などというのは、一握りに過ぎない。王国軍拠点に魔人が居座るようになり、かつて拠点に守られるようにあった環状都市群からは、人の姿が消えた。廃墟であるも同然だった。水利施設、役場、農耕地、商店、工場設備など、あらゆる人工物が打ち砕かれ、焼き払われた。施設も人員もなく、それらを繋ぐ道路さえも荒れ果ててしまったために、流通や通信は成り立たず、被害規模の確認だけでどれほどの手間が要せられるものか。そしてその間にも、弱小都市の内でも、食糧を他の都市に多く依存していた都市は、流通を絶たれたことによって、着実に死んでいく。 国家の髄と言える社会基盤に壊滅的な打撃を被ったのである。これを復興せしめんとすれば、どれほどの人手と金と時間が必要となるのか。識者でないヴォルフラムには想像も付かない。そして、その間、帝国が待ち続けているとは考えられなかった。自国の危機以外に、王国の隙を見逃す理由というものが、今も昔も帝国には存在しない。 王国は既に死に体だ。今はもう、立て直すなどという段階ではない。 であるのに、ただ一人残された王国の指導者となるべき人物は、王国の惨状を認識していなかった。国家にとって、これ以上の悲劇があるだろうか。 「素敵だわ。王国の危機を何度となく救った英雄が、また王国を救うの。誰もが諦観するような窮境の中でさえ立ち上がる、不屈の勇者が国を統べる。王国の繁栄は永遠よ!」 ヴォルフラムを覗く色硝子のように輝く瞳は、それ以上の機能を全く果たしていなかった。その目をくり抜いて、代わりに硝子玉をはめ込んだとしても、何も変わらないのではないかとさえ思わせる。 ヴォルフラムは突然に吐き気がするような悪寒に襲われた。彼女は目の前のボロ切れのような男を見ていない。囚われの姫君を救い出した誉れ高き英雄に歌うように語り掛けていた。 ヴォルフラムは今こそ、自らの脆弱さを誤解なく自覚した。彼ら彼女らのように、自らの内の幻像を他人に投影する人間というものは、ある種の――ヴォルフラムのように本心と行動の一致しない――人間を理解しようとしない。それは、その類の人間を真っ向から否定する行為である。 そして、その否定に対抗する自己肯定能力というものは、外部から肯定された経験に基づいて形成される。当然ヴォルフラムには、それがない。何の根拠もなく信じられるだけの何かが、ヴォルフラムの内には欠落していた。そしてそれを補える人間は既にいない。 彼が本当に恐れたのは魔物などではない。彼の根底を否定する、人間だ。英雄ヴォルフラムを称える人間が恐ろしくて、冴えない男はラスタ・ロンドから逃げ出したのだった。今は異世界へ旅立つ手段さえも残されていない。 どうにかしてクラリッサを黙らせようとしたヴォルフラムだったが、意図して何かを起こす前にクラリッサは沈黙した。いっそのこと、と染み一つない白い首に手を掛けそうになったヴォルフラムが、持て余した両の手を彼女の肩に掛けたからだった。全く別の軸に思い違いを起こしたクラリッサは頬を赤らめて口をつぐんだ後、眉根に力を込めて瞳を閉じた。 ヴォルフラムは目の前の女をくびり殺しそうになる己の腕を理性のみで抑えつけた。それは酷く男性的な忍耐に似た苦痛だった。そうすれば楽になることを知って、なおかつ理性がそれを許さないのだとしても、醜悪な欲求が理性を押し流そうとする。やがては理性ですら、そうしなければ自らが瓦解してしまうと己を欺瞞する。 「…痛いわ。 ヴォルフラム?」 何もかもが嫌になった。ここにいたくないと思った。自分はここにいるべきではないのだと思った。一瞬でも早く消え去りたかった。だがヴォルフラムの居場所はどこにもない。事実として、彼を知る者は一人残らず死んでいる。この世界の、どこにある何が、彼を救えるというのだろうか。一体、誰が…。 その時だ。ヴォルフラムの胸元から爆発的な光が放たれた。相転輪アムステラを収めた場所だった。内壁を一色に染める光に、怯んだクラリッサが離れる。 「な、何? ひッ…!?」 窓枠のはまる壁面が、外側から打ち砕かれた。ヴォルフラムは駆けることさえ出来ないまま、瓦礫を避けるように献花台へと寄った。 砕けた壁面から覗いたのは、白凰石のように仄白い肌の巨人だった。巨人は背に巨大な光輪を灯し、夜空に浮いていた。何をするつもりかは知らないが、ろくでもないことだろうと予想が付いた。 巨人がいくつもの光球を放つ。ヴォルフラムは踵で皮鞘の黒刀を蹴り上げ、回転しながら頭上から降ってくるそれを蹴り放った。放たれた黒刀は普遍的な放物線を完全に無視して稲妻状の不規則な進路を取り、瞬く間に光球を掻き消した。 そこから漏れたいくつかの光球がヴォルフラムの周囲で弾けて輝く陣を描く。ヴォルフラムは覇王の剣を床に差し、魔法陣を無効化する。しかし、その勢いよりも早く、立て続けに光球が放たれ、三次元的に空間に刻まれる光の陣は確実に輝きを増してヴォルフラムを捉えようとした。 ヴォルフラムの足下が崩れた。 「!? ぉぉおおおお…ッ!!」 最後の力をもって、振り返ったヴォルフラムが手を伸ばしたものは…
|
|