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作品名:さらば愛しき世界よ 作者:山吹恭次

第12回   魔剣相克す
 底深い深海に漂泊する海棲生物の様相で、魔人どもが闇色の空を漂うその間を縫うように、光が刺す。
ヒレが刃の鋭角となっている、鮫型の魔人の背にゼアスハルトを突き立て、ヴォルフラムが着地した。呼気と同時に、半円を描いてゼアスハルトを振り抜き、白地に赤の斑模様となった魔人が力無く墜落する前に、ヴォルフラムは次の獲物を目掛けて短い助走で跳び立った。焼け焦げて千切れた軍用コートの裾の残骸が情けなく風に叩かれた。
 過って落下すれば、二度と立ち上がることなど叶わないだろうその高さを物ともせず、浮遊する魔人を片端から叩き落としていく。ヴォルフラムにとってそれは、薪割りにも似た単調な作業だった。斧を自らの頭に落とす心配をする者がいないように、ヴォルフラムは手違いで足下を過つ類の心配をしない。
 弓なりの跳躍の頂点に割り込んだ軟体の魔人をすれ違いざまに斬って払ったヴォルフラムは、その靴底でたてがみの生えた海蛇魔人の眼窩を踏み砕く。不快感を露わに暴れる海蛇魔人を刺し貫いたヴォルフラムの眼前へ、浮いているものにしては珍しい人型の魔人が姿を見せた。黒光りする外骨殻の、背に鞘翅を振るわせている。いつかの甲虫魔人だった。
「なかなかどうして見上げた英傑ぶりじゃないか。 お前だろう? オレゴノフ、リヒャルダ、ドロテーを下した人間というのは」
 滞空する甲虫魔人は、ヴォルフラムの返答も待たずに続けた。
「分かるさ、分かるとも。久しぶりの顔見知りとの再会だ。誤解なく把握しているつもりだよ。ああ、いや、勘違いしてもらいたくないのはね、私がここにいるのは意趣討ちだとか、そういった無粋なもののためじゃないってことさ。連中とは同郷というわけでもなし。じゃあ何かって言うと…」
 兜そのものといった頭部から表情は見られないが、やや機嫌良さそうな声音のまま、甲虫魔人はひらひらと手を振った。
「笑いに来たのさ」
 久々に人語を操る魔人がいたかと思えば、繋がりの見えない言葉ばかり。ヴォルフラムは鼻で笑って、魔人を乗り換えるついでにゼアスハルトで薙いだ。ゼアスハルトから放射された輝く刃で甲虫魔人は両断される。はずだった。
 甲虫魔人の刺々しい指先が、形を持たない熱量の刃を摘み上げると、砂糖の塊であったならそうなるように砕いた。握った拳から暗い火花が散る。
「ヴォルフラムだったかい。お前も知っているだろう。生来の気狂いだよ、その女は。ベヘムントの火を呑んだだけでは飽き足らず、源命の硯水を貪る有様だ。卑しいにも程がある。それが一体どうしたのか、随分と丸くおさまっているじゃあないか。どうしたって云うんだい。心底唾棄していた人間なんかにつかわれて。結構なお笑い種じゃないか。なぁ? リア・ゼアスハルト」
 驚きは一瞬で済んだ。要はゼアスハルトの知り合いだったのだ。
「狙いは此奴か?」
「そう。まあ、行きずりの用さ。全然に偶然。まるっきりたまたま、でも、憎たらしい旧知がなまくらになっているのを見つければ失笑を通り過ぎて折りたくもなるだろう? 其奴にも聞いてみるといい」
 ヴォルフラムが沈黙するゼアスハルトを蹴り上げて肩に乗せると、人間で云えば鼻を鳴らす程度の不満げを見せただけだった。
「再会の手土産一つない礼儀知らずに話すことはないそうだ」
「気にしないさ。これからももう話すことはなくなる。お別れだよ、御両人」
 甲虫魔人の鞘翅が開いたままビタリと止まり、そして包み込むような紫電が走った。
「最後になってしまってまことに済まない。私はドナ・ゲルトルード。万雷の剣ゲルトルードだ。短い付き合いになるが、覚えておいて貰いたい」
 こちらの方がヴォルフラムには驚きだ。相手は魔剣だった。魔人とは違う。剣を交えた経験も人伝の見聞も無い、そもそも面と向かったことすら無い、全く未知の相手だ。手に取るゼアスハルトの頼もしさが、そのまま不安となってヴォルフラムに跳ね返った。
 ゲルトルードの姿が霞む。動揺など端からなかったかのように、ヴォルフラムはゼアスハルトを袈裟懸けに振り抜いた。激突した両者は惜しむ寸間もなく大きく離れた。全くの予想通りにゼアスハルトでは断ち切れない手応えに、無意識の舌打ちが漏れた。ゲルトルードの疾駆した後に残った、空気の焦げる匂いを振り払うようにヴォルフラムが跳ぶ。雷を曳いた黒装の魔剣が大きく弧を描いて迫り来る。ヴォルフラムは視界の端でそれを捉えていた。
 ヴォルフラムが跳び退いた場所を、ゲルトルードが貫いて、ついでに進路上のいくらかの魔人が消し炭となった。ヴォルフラムが次の魔人へと着地する頃には、既に再度翻ったゲルトルードが迫っていた。
 足場の悪さを抱えながら、ヴォルフラムはゲルトルードを打ち払う。二、三度の剣戟音も消えやらぬ間に、ヴォルフラムは次々と足場を変えていった。何度進路を曲げてもゲルトルードの速度は緩まることなく、飛燕の勢いで空を滑るように進んだ。ヴォルフラムは、魔人に降り立ってはゲルトルードと対峙し、隙を見て跳び去った。
 ようやく足の着いた建造物は、笠の広い物見塔だった。続いて、ゲルトルードが宙に降り立つ。
「分かった、分かったよ。まったく莫迦な力の使い方だった。人間同士だって、お互い体当たりを繰り返すだけじゃあ、なかなか死ねないだろうしね」
 連戦の疲労に息を荒げるヴォルフラムをまるで気に掛けることもなく、気安く両手を打ち鳴らしたゲルトルードは、腕を組む。
「だとしても、此処じゃあどうも調子が悪くてね。出来るはずのことも、いくらか出来なくなっている。結局のところ、泥臭いこのやり方しかない」
 腕を組んだゲルトルードの両肘から刃が飛び出した。闇色に輝く細身の刃だった。
 暴力の象徴を見せても、ゲルトルードは未だ煮え切らないという口調で先を続けた。
「でもねぇ、お前が『どうしても』と言うのなら見逃してやらんでもないんだ。だから一つ提案がある。その屑鉄を捨てていってはくれないか」
「…いいだろう。受け取れ」
 ゲルトルードの言葉に気安く同意したヴォルフラムは手首を返し、弓を引き絞るようにゼアスハルトを掲げる。剣先のさらに先を指すように伸ばした左腕は射線だ。肩越しにゲルトルードを覗き見たヴォルフラムは瓦葺きの屋根を踏み砕いて、息を合わせるように猛るゼアスハルトを力の限り投擲した。ゼアスハルトは溜め込んだ障気を吐き出して、自ら推進するように加速した。狙い違わずゲルトルードへと突き刺さったゼアスハルトはそのままの勢いで王都上空を二つに割った。やがて王都で最も高い建造物である大時計塔に潜り込むとその上部を粉々に砕いて、そうして天蓋の支えを失った塔は連鎖的に崩壊した。
 粉を吹いて緩やかに崩れ落ちる時計塔を傍目のように眺めながら、ヴォルフラムは何気なく伸ばした腕でそれを掴んだ。刀身に控えめに描かれた鳥獣画によって――その本来の意図から外れて――存在座標を定義する手続きをオーバーライドされたゼアスハルトは、距離的な隔たりを完全に無視して直ちにヴォルフラムの手の中に存在していた。
「下種ほどしぶといと言うがな。まさか不死身かよ」
「そういうわけでもないさ。今のは少しばかり堪えた。ただそれも、ほんの少し、だ。 人間がつかう魔剣はね、弱すぎるんだよ」
 戻ったのはゼアスハルトだけではない。無傷の、少なくともヴォルフラムにはそう見える、ゲルトルードもだった。
「なあ、もういいだろう。どうしてそこまで死に急ぐんだい」
「やかましい。俺は王国を荒らした貴様ら愚図どもを残らず斬り刻むまで死ぬことはない」
「ああ、ああ成る程。納得した。それは全く難儀で、まことに意味が無いことだ、と思うのだが。いやこれは自尊ではなくてね。そう、魔種なんて天災みたいなものさ。適当に折り合いを付けて諦めて生きていけばいい」
 ゲルトルードは腕を広げ、戯けるように語った。
「と言って頷くことが出来るわけでもないだろうし、かといって其奴を見逃すのも癪だからね。最期に、魔剣の力のその片鱗を見せてやろう。人につかわれる魔剣なんてものは、論外だということを知ってくれ。ああ、私は気が長いんだ。いつでもそれを捨てるといい。ただし、なるべくなら死ぬ前にしてくれよ。死人を蘇らせるような小器用なことは出来ないんだ」
 言いながら、順にたわめられた鞘翅が後方へと伸ばすように張られ、ゲルトルードの背に紫電が走る。
 その一挙手一投足に至るまで見逃すまいと身構えるヴォルフラムの視界から、ゲルトルードが消えた。そう、消えたのだ。
 壁に衝突したように全身を叩く衝撃に息を吐き、次いで軸足を深々と抉られたことに気付いてからようやく、ヴォルフラムは轟々と空気が割れる音を耳にした。
 倒れかけた身体で踏みとどまるように振り向いた視界に雷光が瞬く。ゲルトルードの疾駆の跡には、弧ではなく鋭角が幾つもの頂点を刻んだ。ヴォルフラムにはゲルトルードの動きを視認することすら出来なかった。
 続いて肩、腕、背、脚と間断なく全身を削られ、血飛沫が舞う。全方向からの衝撃に、呼吸も忘れて空気の塊を吐いたヴォルフラムは、ゼアスハルトをついてようやく立っていた。構えも何もない。悪態を吐く余裕すらない。ただ膝を折らないでいることがやっとだった。そしてそれすら意味がなかった。ただ意地でそこにいるだけだ。
 ヴォルフラムはゼアスハルトに寄り掛かり、血痰に咳き込みながら、自問した。これが、これこそが、今こそ己が最も恐れていた時の到来ではないか。剣が届かない敵に、勝てるわけがない。今の今までが上手くいき過ぎていただけなのだ。ただ一人の人間が魔人殺しなどと大それたことを為せたのも、魔剣の力故だ。その魔剣が相手となれば、そもそも敵う道理が無かった。だとすれば、不思議に思えることがある。
 何故、怖くないのだろうか?
 進むことも出来ずに惨めに死んでしまうというのに。誰に報いることも出来ずに終わってしまうというのに。何故、常から感じていた臓腑を締め上げるような恐怖が湧き上がらないのか。 だが、その問いと同時に、言葉が浮かぶ。
 戦え、戦え、お前は魔剣使いだ!
 霞んで波打つ視界に、白熱する無機質な哮りを見たヴォルフラムは、ゼアスハルトの刀身を蹴り上げて肩に乗せた。肩越しに不機嫌に鼻を鳴らす無言の不平が聞こえた気がした。
 ヴォルフラムの眼前に戻ったゲルトルードは、見えない椅子に座ったように腕と足を組んでいた。何かを待っている様子だった。
「何を、している。もう手詰まりか?」
 荒れた声。ヴォルフラムは熱く濡れる左腕の、その母指で己の胸を突いた。
「なら特別だ。能無しの愚図に俺の弱点を教えてやろう。まずはここだ。心の臓を突かれれば人間は死ぬ。多少ずれていても死ぬ。頭をもがれても死ぬ。体のどこを傷つけても程度によって大体死ぬ。炙られても死ぬ。凍てても死ぬ。息が詰まっても死ぬ。お前はどれが好みだ? さあ殺してみろ」
「挑発には乗らないよ。勘違いをしているようだから言っておこう。夜は私らの時間だ。人間のお前が私に叶うことなど有り得ない。諦めろ、剣を捨てて、膝を折れ。手鈍くても私は一向に構わない。選ぶといい、お前が生きる道は一つだ」
「……ハッ、驕慢だな」
 ヴォルフラムは返事代わりに鼻で笑った。ゲルトルードは呆れたように肩をすくめた。ゲルトルードの姿が消えるのと同時に、ヴォルフラムの足下が崩れる。物見塔を砕いたゲルトルード自身はヴォルフラムの頭上から、肘先の刃を構えての逆落としだ。動きを縛ってからの必殺を期した一撃だった。
 浮遊感すら未だ無いその瞬間に、ヴォルフラムはゲルトルードが心の臓を狙っていることを理解した。それは論理や推論などの言語的な思考ではなく、もっと原始的で短絡的な、鍛錬の果てに極限まで最適化された直感によるものだった。そして、ゲルトルードは知らなかった。英雄ヴォルフラムの装う伝説の装具の内でも、最も語られることの少ない、それのことを。
 半ば無意識に、ヴォルフラムの口からはオブイェクト信教における主の言葉が唱えられた。「無限軌道あれ」と。
 闇の中、ようやく思い出したかのように寂々と輝く星照銀の装飾品を襟元に、ヴォルフラムは何もない空間を、この世の理そのものを踏み付けるように駆け上がった。意を同じくしたゼアスハルトがその手中から跳ね上がり、金属同士の甲高い衝突音が夜気に響いた。
 無稽の加護。
それについては、伝承の中でさえ語られていることは少ない。真武の盾や、沙羅赤光の胸当てのように、他に理解しようがない装具ではなかったからだ。数少ない書物の記述では、無稽の加護は即時的な盾として使われている。使用者の霊的適応力、熟練度に応じて、任意方向、任意位置、任意箇所、に強度すら曖昧な術式障壁を張ることが出来るという、気難しい道具だった。
 しかし、ヴォルフラムの知覚力では別のものが見えてくる。無稽の加護の本来の役目は、速度や加速度、何らかの力といった向きと大きさを持った量を、任意に転換させることにある。その単純な利用として盾があった。もっとも、どのような仕組みでもって転換を可能とするのか、それに要する力はどこから発生するのか、何を目的として製造されたのか、といった事情は全く明らかになっていない。いつからか呼ばれるようになった名称の通りに、ただただ出鱈目な装具だった。
 それでも、理解度の差を勘案しても、無稽の加護を防御以外の目的に利用した人間が、後にも先にもヴォルフラム以外に存在しないという事実に変わりはない。
 万物が大地へ引かれる方向へと空を切る脚に、無稽の加護によって全く同じ力を逆向きに作用させることで、そこが足場となる。今この瞬間、地面という概念を無視し、天地四方を問わないありとあらゆる空間が足場となった。
 完全に不意を打たれる形で、ゲルトルードの左肘が砕かれる。ゼアスハルトは、奇襲によって得た優位を全く逃すまいと喉、心臓、左肺、腰部、右肩に相当する部位へと瞬くよりも早く翻り切っ先を向けた。それは魔人の急所として最も多い部位だった。必然魔剣であるゲルトルードには通用せず、極まり手ともならない。その点ヴォルフラムの思考は極めて単純で外連味に欠けるものだった。
 一撃で粉砕できないのならば、砕けるまで叩き付ければいいのだ。
 風よりもなお淅淅と連なる斬撃の度、打突の度に両者を分かとうとする作用を無稽の加護で殺し、天の星よりもさらに白く輝くゼアスハルトが、無稽の加護に捉えられて不自然に跳ねるゲルトルードの黒装を刻んだ。
 七十二の套路からなるそれは、魔人であれば幾重にも殺めてなお余りある、強攻無比であるが故に未完の魔人殺し。
 墨闇劈開星雨閃耀剣。
 夜天に甲高い残響を残して、二つの影が落下した。
 木材や石材などの建材が砕けて巻き上がった粉塵が、ようやく晴れて二人の姿が現れる。
 無惨な外殻を晒し、いくらか千切れた鞘翅に紫電を這わせ、辛うじて浮いているといった様子のゲルトルードに対して、ヴォルフラムは建材の残骸の上に足を組んで悠然ともたれていた。
「…これ、は…何、を…」
「知らないのか。切り札ってヤツは、いざという時に切るものだ」
 その瞬間、ゲルトルードの内心のどこかにあった、たがが外れかけた。猛禽が威嚇するように鞘翅を一打ちさせたゲルトルードは、一筋の雷光となって風を裂く。その直撃をゼアスハルトで受けたヴォルフラムが同じ勢いで弾かれた。追撃を加えようとしたゲルトルードだったが、受け身すら無さそうなその様子を見て取り、未だ空中にあるヴォルフラムの胸ぐらを掴み上げた。満身創痍そのものであるヴォルフラムに、ゲルトルードは声を荒げた。
「…虚勢を張るのも大概にしてもらえないか。私はね、人間というヤツがそう嫌いではないんだ。気分で殺生はしたくない」
 つい先程の様子だけ見ていれば、ここにきて立場の逆転があったように見えていた。しかし損傷で言えば、平然としているように見えたヴォルフラムの方が格段に酷い。それも、落下によるものではない。無稽の加護の作用によるものだった。
 無稽の加護の起こす作用は、決して面的なものではない。使用者の未熟によっては脆弱な血肉と神経の詰まる体内にまで及ぶのだ。ヴォルフラムの肉体は、外部からはゼアスハルトとゲルトルードに、内部からは無稽の加護に、それこそ完膚無きまでに痛め付けられていた。
 ゲルトルードはと言えば、外殻が砕けたことで、軽度の麻痺が見られる程度だ。少なくともヴォルフラムの目には、遜色ない形が見えていた。魔人よりも強い、手を伸ばせば届きそうな輝きだ。
「改めて言う。お前が魔剣を携えていようと、この国は救えない。諦めてお前が生きる道を探すんだ。守るべきものの一つや二つ、無いわけではないのだろう」
 落ち着き払った声は、聞き分けのない莫迦をたしなめる口調だ。
 その真意がヴォルフラムに伝わることは有り得なかった。彼には最早、守るべきものなど残されていない。故郷は焼かれ、友は殺され、たった一人の兄妹でさえ亡骸となった。英雄でなかった頃の彼を知る者は、一人残らず死に絶えた。であれば、この世の誰の記憶にもない、冴えない片田舎出の冴えない男は、息絶えたも同然であった。そう、彼は生きながらにして既に死んでいるのだ。だのに生きることを考えろというのは無理な相談だった。
「こんな世界の何処に、あるというんだ…一体、何処に……」
「何を言っている?」
 ヴォルフラムの手からゼアスハルトが滑り落ち、ガランと音を立てた。それに目を取られたゲルトルードは、不意に伸ばされたヴォルフラムの手に気付けなかった。
 指先が、漆黒の胸殻を滑るように撫で、ある一点で何かに触れた。衝撃に打たれたように震えたゲルトルードが墜落し、離されたヴォルフラムも同じく無様に落ちた。
 受け身も満足に取れなかった呻きを抑え込んで、ゲルトルードを見る。倒れ伏して苦悶しているのは、苦し紛れの予想通りだった。
「どうした。もうくたびれたか。魔剣でも魔人でも何でもいい、貴様らが人間風情より遥かに優れていることを証明しろ。立ち上がれ、雷を纏え、一撃で山を砕いて見せろ」
 ヴォルフラムは、足下に落ちていた黒金の短剣を掴むと、倒れたゲルトルードの胸殻の隙間にねじ込んだ。言うまでもなく、それによって魔剣がどうこうなるということはない。
「でなければ早く死に失せろ。俺がこの世でただ一つ我慢できんのはな、死に損ないの魔剣野郎だ。始末するだけ手間がかかる。まだか。早くしろ。さあ!」
「…お前は…何……」
「正義の味方さ。貴様らのような【みんなの敵】を叩き潰して回るのが仕事だ」
 その言葉には、己自身が正義であることは表現されていない。
 ヴォルフラムはゲルトルードの胸元から、それを引き剥がすように掬い上げた。意識の外で跳ね上がったゲルトルードの腕がヴォルフラムを捉えることはなかった。その視界には既に闇が帳を下ろしている。何より、四肢の跳ねる様は、何か意図があるようには見えなかった。
 ゲルトルードからは、割り開かれる生娘のように、耳にするだけで悲痛な呻きが上げられた。ゲルトルードは本能的に拒絶を示した。それをされれば、自分は自分でなくなってしまう、と。藻掻いても、その手はどこに届くこともなかった。
 ヴォルフラムは、境界連結をもってゲルトルードの器を換えようとしていた。魂とでも言うべき魔剣の根元を、その器との繋がり全てを引き裂きながら引きずり出し、手に取る黒金の短刀へと塗り込んでいった。
 やがて残された、ゲルトルードだった殻が、その役目を忘れて崩れ落ちた。その胸殻から引き抜かれた黒金の刀身は不自然に長く伸び、ヴォルフラムの背丈にも届く黒刀へと変貌していた。
 ヴォルフラムはその瞬間手の内に現れたゼアスハルトを背の皮鞘に差す。そして、濡れたように艶めかしい細身の黒刀を、手首を返して二度風切りした後、剣先を翻して背の皮鞘の、短剣を差すべき場所に差し入れた。太陽鋼の剣と交差するように差された沈香鉄の黒刀は、不満げに身震いした後、小さく火花を散らせた。ヴォルフラムはやや反抗的なそれに気付いていたが、気にはしなかった。
 じゃじゃ馬を扱うのは初めてではないのだ。


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